トップ 近現代史の復習

 ①(戦前・明治) ②(戦前・大・昭) ③(戦前・朝鮮) 

④(戦前・中国)⑤(戦前・台湾) ⑥(戦前・ロシア)⑦(戦前・米英蘭) 

⑧(戦後・占領下) ⑨(戦後・独立後) ⑩(現代)


近現代史の復習⑨(戦後独立後)


1 明治維新から敗戦までの国内情勢

 1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新) 

 1.2 天皇親政から立憲君主制へ

 1.3 大正デモクラシーの思潮 

 1.4 昭和維新から大東亜戦争へ

 

2 明治維新から敗戦までの対外情勢

 2.1 対朝鮮半島情勢

 2.2 対中国大陸情勢

 2.3 対台湾情勢

 2.4 対ロシア情勢 

 2.5 対米英蘭情勢

 

3 敗戦と対日占領統治

 3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印

 3.2 GHQの対日占領政策 

 3.3 WGIPによる精神構造の変革

 3.4 日本国憲法の制定

 3.5 占領下の教育改革 

 3.6 GHQ対日占領統治の影響

 

4 主権回復と戦後体制脱却の動き

 4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース

 4.2 対日講和と主権回復 

 4.3 憲法改正

 4.4 教育改革

 

5 現代

 5.1 いわゆる戦後レジューム

 5.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)

 5.3 日本人としての誇りを取り戻すために

 5.4 愚者の楽園からの脱却を!

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(戦後・独立後)です。


4 主権回復と戦後体制脱却の動き


4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース

(1)日中戦争後の国共内戦

(2)東西冷戦の発生

(3)占領政策の逆コース

 

4.2 対日講和と主権回復 

(1)講和条約に至る経緯

(2)平和条約締結までの対米交渉

(3)講和会議への招請

(4)講和会議と条約調印 

 

4.3 憲法改正

(1)憲法改正の論点

(2)憲法改正論議の経緯

(3)憲法改正論の概要

 

4.4 教育改革

(1)旧教育基本法の欠陥を補う試み(細川論文)

(2)旧教育基本法の改正を目指して 

(3)教育基本法の改正(平成18年12月)(細川論文)

(4)学習指導要領の改正

(5)教科書検定基準の改正

(6)日本・中国・韓国の歴史教科書問題

(7)どうして教科書は自虐的になったのか

(8)昭和57年の教科書誤報事件と近隣諸国条項で教科書が悪化

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(4.1~4.4)です。


4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース


(1)日中戦争後の国共内戦 (2)東西冷戦の発生 (3)占領政策の逆コース


(1)日中戦争後の国共内戦


 (引用:Wikipedia)

1)国共内戦再開 

 

   

(左)1945年,重慶交渉右から:毛沢東、王世杰、張治中、蒋介石、蒋経国、パトリック・ハーレー

(右)宋美齢とともに台湾島を訪問する蒋介石(1946年)(引用:Wikipedia)

 

 ・日本の敗戦によって中華民国は戦勝国となり、国際連合の常任理事国となったものの、共通の敵を失うとともに、国共統一戦線の意義も名目もなくなり、再び国民党共産党は戦後構想の違いより対立へと転じ、1946年6月より内戦を再開させた。

 

・共産党は、戦後シベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行していたほか、ソ連からの援助も継続して受けており、国民革命軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。

 

・共産党軍は、徐々に南下して国民政府軍を圧迫。また日本軍の前面に立って戦力を消耗していた国民政府軍に対して共産党軍は、後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていった。

 

2)重慶会談 

 

        

  蔣介石の公式肖像画(1948年制作) パトリック・ジェイ・ハーリー    毛沢東の公式肖像画

  (引用:Wikipedia)  

 

・1945年8月の終戦によって内戦の不安が中国国民につのり、その結果、蒋介石は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。 

 

・この呼びかけに応じた毛沢東周恩来王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表として中国国民党の代表である王世杰張治中邵力子と会談を行った。 

 

・同年8月30日重慶において「蒋介石・毛沢東巨頭会談(重慶会談)」が開かれる。会議は43日にも及んだが、10月10日に「双十協定」としてまとめられ、内戦は一時的に回避された。 

 

 

「双十協定」(引用:Wikipedia) 

 

3)上党戦役 

・しかし、同10月には会談空しく、双十協定調印の日に、山西省で上党戦役がはじまる。共産党軍は三日で、国民党軍が投入した三分の一にあたる35,000人を殲滅した。この戦争で鄧小平は活躍し、その名声が高まる。

 

4)アメリカの関与

 

            

     ジョージ・マーシャル    張群 (1931)公式の肖像写真 周恩来(追悼記念切手にも用いられた)

 (引用:Wikipedia)

 

・アメリカは調停に乗り出し、1946年1月、ジョージ・マーシャルを派遣、国民党の張群、共産党の周恩来と三者会談を行い、停戦協定を発表する。しかしその後も3月には国共両軍の衝突はやまなかった。

 

・同年3月5日にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、冷戦構造が固まって行く。 

・また6月にアメリカは国民党政府に向けて対中軍事援助法案を採択した。

 

・中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蒋介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蒋介石にその行動を非難するメッセージを送っている。 

 

・マーシャルの行動の背景には周恩来との次の様な約束があったといわれる。

・共和党のジョセフ・マッカーシーおよび1995年に公開された米国務省ベノナ文書によれば、マーシャルが周恩来に魅了され、「中国人が根っからの共産主義者ではない」と考え、また周恩来が「もし米国が中国に民主主義を導入する手助けをしてくれればロシアとの連携を断ち切る」と約束していたことが判明している。 

 

・1946年7月の周恩来とマーシャルの会談では周恩来の要請をうけて、アルバート・C. ウェデマイヤーの中国大使任命をマーシャルが妨害したとし、アメリカ政府の人事にも中国共産党の意向が反映されたといわれる。同年8月には、国民党への武器援助が禁止された。 

 

マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蒋介石にあるとして非難している。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している。 

 

・1946年12月18日、トルーマン大統領はマーシャル将軍の召喚中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。 

 

5)全面侵攻 

・1946年6月26日、蒋介石は国民党正規軍160万人を動員し、全面侵攻の命令を発した。毛沢東は「人民戦争」「持久戦争」の戦略でもって抵抗した。毛沢東は国民党内部の内戦消極分子の獲得や、また「土地革命」を行うことで大量の農民を味方につけた。1946年年末には各都市で「内戦反対、反米愛国」というデモが発生、規模は50万以上であった。 

 

6)共産党軍と残留日本軍 

国民革命軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め中国全土で支配地域を拡大したが、東北に侵入したソ連軍の支援を受ける共産党軍(八路軍)は、日本によって大規模な鉱山開発や工業化がなされた満洲をソ連から引き渡されるとともに、残留日本人を徴兵・徴用するなどして戦力を強化していた。

 

・日本女性は拉致などによって看護婦などとして従軍させられた。 

 

・八路軍の支配地域では通化事件(※)が起き、数千人の日本人居留民が処刑された。

 

・また、航空戦力を保持していなかった八路軍は捕虜となった日本軍軍人を教官とした東北民主連軍航空学校を設立した。日本人に養成された搭乗員は共産軍の勝利に大きく貢献することとなった。 

 

 ※通化事件

 通化事件とは昭和21年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で、中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び中国人に対する虐殺事件。日本人3,000人が虐殺されたとされている。中国では通化 ”二・三” 事件とも呼ばれる。 

 

7)形勢の逆転 

・中華民国を率いる国民党の指導者の蒋介石満洲の権益と引き換えに、イデオロギーを棚上げにしてソ連のスターリンと協定を結んだため、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。

 

・その間に国民革命軍は満洲で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は敗退・撤退を重ね、国民党は大陸部の大部分を手中に収めようとしていた。 

 

・だが、法幣の大量発行がインフレーションを招き、農民を中心とした民衆の支持を失う。そしてアメリカの国民党への支援も、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策への集中、政府内の共産党シンパの活動等の理由により、先細りになっていった。 

 

・昭和22年3月には蒋介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換する。対象地域は共産党軍の根拠地である延安などであったが、毛沢東は3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導した。5月から6月にかけて、共産軍は83,000人の国民党軍を殲滅する。1947年6月の時点で共産党員は46年の136万から276万に急増、兵力も120万から195万へと増大。対する国民党軍の兵力は430万から373万へと減少していた。 

 

農村部を中心に国民党の勢力は後退共産党が勢力を盛り返していく。1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役」(※で、共産党軍は決定的に勝利する。 

 

※三大戦役

・1948年9-11月の遼瀋戦役では国民党軍47万は殲滅され、国共軍事比は290万人対300万と逆転した。

 

・1948年11月ー1949年1月の淮海戦役で国民党運は共産党軍に敗北し、長江以北の広大な地域が解放され、長江渡河作戦が可能となった。

 

・1948年12月-1949年3月 の平津戦役は共産党軍の全土掌握過程における輝かしい業績の一つとなり、共産党軍は多くの日本軍兵器を手に入れ国民党軍に勝利した。 

 

8)中華人民共和国の成立 

・1948年11月ー1949年1月の徐州を中心に展開された淮海戦役では鄧小平が司令官となった。この戦争では国民党軍80万、共産党軍60万とが衝突するという大規模な戦闘になった。国民党軍55万5500人が殲滅される。さらに1948年12月-1949年3月までの平津戦役でも、52万の国民党軍が壊滅した。 

 

・最終的には毛沢東率いる共産党が総攻撃をしかけ、北京、南京、上海などの主要都市を占領、1949年10月1日に共産党による中華人民共和国が成立した。


(2)東西冷戦の発生


(引用:Wikipedia) 

○占領政策の見直し 

・当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義の防波堤にしたいアメリカ政府の思惑でこの対日占領政策は転換された。この意向を受けた第3次吉田内閣は中央集権的な政策を採った。 

 

・これ以後、1949年の中華人民共和国の誕生や、翌1950年の朝鮮戦争勃発以後に行われた公職追放指定者の処分解除その逆のレッドパージにより、保守勢力の勢いが増した。 

 

・総司令官マッカーサー、民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスは転換に反対したが、国務省が転換を迫ったという(当時の大統領はハリー・S・トルーマン、ドワイト・D・アイゼンハワー)


(3)占領政策の逆コース


(引用:Wikipedia) 

1)「逆コース」といわれるもの 

逆コース(reverse course)とは、戦後日本における、「日本の民主化・非軍事化」に逆行するとされた政治・経済・社会の動きの左派側からの呼称である。 

・この名前は読売新聞が1951年11月2日から連載した特集記事に由来する。 

 

2)反共施策 

①1950年:朝鮮戦争における社会主義勢力に対する米国の介入(米国の社会主義勢力との対決姿勢強化)。

②1952年:資本主義陣営中心の片面講和条約による独立回復(社会主義陣営との対立) 

 

3)労働争議の規制 

①1947年:GHQの二・一ゼネストへの中止命令(米国による労働争議規制)

 

②1948年:前年に2.1ゼネスト計画されたことを受け、国家公務員・地方公務員のストライキが政令201号により禁じられる(公務員に対する労働権制限)

 

③1948年:東宝争議に占領軍が介入(米国による労働争議規制)

 

④1958年:全農林警職法事件全逓名古屋中郵事件全逓東京中郵事件などの警職法改正反対し、ストライキに参加した公務員たちへの処罰(公務員に対する労働権制限) 

 

4)再軍備の準備 

①)1948年:GHQの日本の限定的再軍備容認するロイヤル答申(再軍備準備) 

※陸軍長官在任時の1948年1月6日、日本の過度の弱体化を指向するGHQの占領政策を批判し、日本の経済復興を優先すべきであると訴え、「日本を極東における全体主義(共産主義)に対する防壁にする」と演説を行なう。この演説は当時米国政府内で立案が進められていた占領政策の転換(逆コース)を公にしたものとしてよく知られている。 

 

②1949年:統合参謀本部、ロイヤル答申に基づき日本に限定的再軍備を容認する方針決定(再軍備準備)

 

③1950年:警察予備隊の創設(再軍備)

 

④1952年:日米安保条約(旧・日米安全保障条約)の締結・発効(反共軍事同盟の締結。在日米軍登場)

 

⑤1952年:海上警備隊の新設と警備隊への改編、警察予備隊の保安隊への改編(軍備増強)。

 

⑥1954年:日米相互防衛援助協定の締結・発効(反共軍事同盟の強化)

 

⑦1954年:保安隊と警備隊の自衛隊への改編(軍備増強)

 

⑧1955年:政権幹部による憲法改正に関する発言(戦力不保持条項改正の動き)

 

⑨1956年:憲法調査会法成立(戦力不保持条項改正の動き)

 

⑩1960年:旧・日米安全保障条約、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び

     安全保障条約に改定(反共軍事同盟の強化)。 

 

5)治安機関の整備 

①1952年:破壊活動防止法の制定(治安維持法の姿を変えた復活)

 

②1952年:公安調査庁内閣総理大臣官房調査室の設置(情報機関復活)

 

③1954年:新警察法制定(警察の中央集権化)。(旧警察法全部改正。国家地方警察と自治体警察を廃止し代わりに警察庁を設置して、都道府県毎に警察本部を、市・町に警察署を置き隷下とする。)

 

④1958年:令状抜きの予防検束容認などを規定した警察官職務執行法改正案が提出(警察権強化する動き)。 

 

6)戦犯の減刑 

①1948年:A級戦犯18人の減刑(戦前・戦中指導者層の社会復帰の動き)

 

② 1951年:A級戦犯の減刑・釈放(戦前・戦中指導者層の社会復帰の動き)

 

③1957年:A級戦犯容疑者であった岸信介の首相就任(戦前・戦中指導者層の最高指導者就任)

 

7)公職追放の解除とレッド・パージ 

①1950年:レッドパージの開始(公職追放の対象が右翼から左翼に変化)

 

②1952年:公職追放令廃止法(被追放者全員復帰)。 

 

8)中央政権・内務省復活の動き 

①1950年:北海道開発庁設置(地方自治体に対する中央政権の対抗)

 

②1953年:全国選挙管理委員会、地方財政委員会及び地方自治庁を統合による自治庁の設置(内務省復活の動き)

 

③1955年:自由民主党結党(保守合同)及びこれに対するCIAの支援(中央政権の保守化)

 

④1956年:自治庁、建設省等を統合する内政省設置法案を提出(内務省復活の動き)

 

⑤1960年:自治庁が省に昇格し自治省となり、国家消防本部は国家公安委員会から分離し、自治省の外局である消防庁に改組された(内務省復活の動き)。 

 

9)財閥解体の緩和 

①1953年:独占禁止法の緩和(財閥系企業の復活)

 

②1954年:高額納税者公示制度における脱税の第三者通報及び報奨金制度廃止(財界優遇)

 

③1955年:過度経済力集中排除法の廃止(財閥系企業の復活)。 

 

10)右翼団体の結成 

① 1951年:愛国者団体懇親会が第1回会合を開催(右翼団体結成の動き)

 

② 1951年:公職追放第一次解除が行われ復帰した赤尾敏が中心となって大日本愛国党を結成(右翼団体復活)

 

11)教育関係の改革 

①1953年:教科書検定権限の文部大臣への一元化(教育行政の中央集権化)

 

②1954年:教育2法制定(※)(教育公務員の政治的意思表明禁止)。 

※「教育公務員特例法の一部を改正する法律」(昭和29年法律第156号、1954年6月3日公布)

「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(昭29年法律第157号、同上公布) 

 

③1956年:教育委員会法廃止、代わって地方教育行政の組織及び運営に関する法律施行。教育委員公選制から任命制への転換(教育行政の集権化)

 

④1958年:学習指導要領における道徳教育の明記(「修身」の姿を変えた復活)

(追記:2020.10.19)


4.2 対日講和と主権回復


(1)講和条約に至る経緯 

(2)平和条約締結までの対米交渉 

(3)講和会議への招請

(4)講和会議と条約調印


(1)講和条約に至る経緯


(引用:Wikipedia)

1)占領下の日本政府の対応 

・昭和20年の終戦後から始まったGHQによる占領統治は、ポツダム宣言によれば「民主主義・平和主義・人権の尊重という秩序が建設され、日本の戦争遂行能力が完全に破壊されることが確認されるまで」と定義されていた(ポツダム宣言第7項) 

 

・従って、新たな憲法が施行され(昭和22年5月3日)、また新たな憲法に基いた議会政治が始動しはじめたことは、つまりGHQが日本における占領統治を終わらせなければならないことを意味していた。 

 

・当時の日本政府は、終戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。 

 

・吉田らは健全な戦後復興のために、高額賠償金の支払い領土分割を回避する寛大な講和をめざし、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。 

 

・また、イタリアなどの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されたことから、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。 

 

2)東西冷戦の激化と朝鮮戦争の勃発 

・戦時中に同じ連合国であったソ連は、第2次世界大戦終結後、アメリカ合衆国と対立するようになり、自由主義陣営共産主義陣営が対立する冷戦構造が戦後の国際社会で形成されていった。 

 

・また中国大陸では、蒋介石の中華民国 (国民党) と毛沢東らの中国共産党とが国共内戦を開始し、ソ連の支援を受けた中国共産党は国民党軍に勝利し、昭和24年には中華人民共和国が樹立、蒋介石らは台湾に移った。 

 

・また、占領開始から約5年が経過した昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、ソ連と中華人民共和国は北朝鮮を支援、アメリカら国際連合軍は南朝鮮(大韓民国)を支援した。 

 

・この朝鮮戦争の指揮をめぐり大統領トルーマンと対立したマッカーサーは、昭和26年4月11日更迭され、16日帰国の途に就いた。 

 

・この朝鮮戦争でソ連と中華人民共和国は、アメリカらとの間では互いに交戦国となったため、第2次世界大戦当時の「連合国」による日本の法的な戦後処理をめぐる講和条約締結にむけた交渉は混迷し、日本との講和もアメリカやイギリスなど自由主義陣営とソ連などの社会主義陣営の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、結局、サンフランシスコ講和会議には中国(中華人民共和国、中華民国)は招待されず、またソ連は参加したが、講和条約に署名をしなかった。 

 

・同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では、国防省は日本への軍の継続駐留を企図して、国務省主導の講和計画反対した。 

 

・日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の信託統治(後の分離独立を企図)下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。 

 

3)単独講和と全面講和論 

・こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカとの単独講和と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中国も締結すべきとする全面講和論とが対立した。単独講和とは自由主義国家陣営に属し、また日米安保条約を締結して在日米軍駐留を維持させる立場で、全面講和論は自由主義と共産主義国家の冷戦構造のなかで中立の立場をとろうとするもので、当時国論を2分した。 なお、「単独講和」といっても、実際に講和条約に参加した国は52国が参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる。いずれもソ連中国を含むか含まないかが争点となった。 

 

・全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている。 内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して昭和21年3月に貴族院議員となっていた南原繁 (東京帝国大学教授) がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。 また日本共産党、労農党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。

 

南原繁は昭和24年12月にはアメリカのワシントンでの米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に2分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した。 昭和25年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。 

 

・こうした全面講和論に対して昭和25年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田茂首相は「永世中立とか全面講和などということは、 いうべくして到底行われないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれいうことは曲学阿世の徒にほかならない」と世におもねらず学問に努めよという意味の故事を用いて批判した。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した。 

 

・当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原に対し「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「象牙の塔にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた。また、小泉信三「米ソ対立という厳しい国際情勢下において,真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」として、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した。


(2)平和条約締結までの対米交渉


 (引用:Wikipedia)

1)概要 

・昭和25年6月21日から27日にかけてダレスが来日した。昭和26年1月29日には吉田・ダレス会談が行われた。 

 

・なお、吉田茂は朝鮮戦争勃発講和の好機到来と直感し、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせていた。 更に表向きは経済交渉という触れ込みで池田勇人を訪米させ、この講和条約案を直接アメリカ国務省と国防省の高官内示することにより、講和促進を図ったことが明らかになっている。 

 

2)準備対策(昭和20年10月~25年9月) 

・外務省が、昭和20年10月から昭和25年9月まで、サンフランシスコ平和条約の準備対策として、平和条約締結に向けて行なった各種準備研究や、陳述書の作成、連合国との折衝などにかかわる事項は、次のとおり。 

 

2.1)準備研究 

・昭和20年11月、来るべき平和条約締結に向け、想定される条約内容の検討を目的として、外務省においては、条約局長を長とする「平和条約問題研究幹事会」が省内に設置され、「第1次研究報告」など各種調書が作成された。 

 

・その後、「早期対日講和」を提唱するマッカーサー声明(昭和22年3月)や、対日講和予備会議の開催が提唱される(昭和22年)など対日講和促進の機運の高まりを背景に、幹事会による作業に代え、新たに「各省連絡幹事会」を設置し、講和に向けての各種研究(講和準備、領土問題、安全保障、国際機関参加)を行った。 

 

・また、朝海浩一郎(終戦連絡中央事務局総務部長)ディーン・アチソン(対日理事会米国代表)マクマホン・ボール(対日理事会英連邦代表)などの連合国側代表と会談を重ねる一方、萩原徹(条約局長)を中心に、「平和条約に対する日本政府の一般的見解」が作成された。 

 

2.2)連合国との接触 

・昭和22年7月、米国による対日講和予備会議開催の提唱を受け、日本は、平和条約の基礎、その自主的履行、国連への早期加盟、領土問題、賠償問題など9項目にわたる希望条項を記した非公式文書を作成した。 

 

・その後、芦田をはじめ朝海、鈴木九萬(横浜終戦連絡事務局長)などが各国の代表と会談し、覚書を手交して日本側の希望事項を伝えるとの形式で連合国との接触を続けた。 

 

・その後、ソ連が対日講和予備会議招請に対し再度拒絶の意を明らかにし、さらにアイケルバーガー(在日第8軍司令官)と会談した鈴木が日本の安全保障の方針を質されたことを受けて、日本は、それまでの国連を中心とした安全保障構想の修正を迫られた。この時期から、日米同盟を主軸とする安全保障形態が本格的に議論されることになった。

 

2.3)講和方式の検討 

・昭和23年に入り、日本は、この時期の国際情勢の変化を見据えながら平和条約締結の実現に向けて進められた基本的な外交政策方針の模索を行い、ソ連や中国を当事国として含めた「全面講和」方式とするか、あるいはそれらを除外した「多数講和」方式を採択するかについて検討を加えるとともに、「戦争状態終了宣言」を行って平和条約は締結しない「事実上の講和」構想も討議されるなど、講和方式をめぐって模索を続けていた。 

 

・こうした状況下で、外務省は「政策審議委員会」を設置し、同委員会に主要な政策部分の審議を担当させるなどの体制を敷き、内外情勢の正確な判断の上に外交政策の基本方針を樹立すべく、具体的な審議研究に着手した。

 

2.4)多数講和の選択 

・昭和24年10月末から11月初旬にかけて、米国主導で対日平和条約草案が提示される見込みとの情報がもたらされ、これを受けて外務省は、11月4日、各連絡調整地方事務局長宛に電報を発電し、平和条約が米国主導のもとソ連除外の形式で締結される見込みであることを伝えた。 

 

・その後、外務省内では、「多数講和」方式による条約締結を想定し、その利害得失や日本の取るべき方針、安全保障問題・経済問題に関する特別陳述などを議論し、これらの作業は、昭和25年9月、「対日平和条約想定大綱」の最終稿として結実した。

 

3)対米交渉(昭和25年9月~26年8月)(1950~1951) 

・外務省が、昭和25年9月から昭和26年8月まで、サンフランシスコ平和条約の締結に向けて行なわれた対米交渉およびその準備作業に関する事項(※)は、次のとおり。 

 

※アメリカの対日平和条約に関する7原則(一九五〇年一一月二四日)

(引用:『世界と日本』日本政治・国際関係データベース 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室) 

 

 合衆国は,戦争状態を終結させ日本に主権を回復し,日本を自由な諸国民からなる〔国際〕社会にその対等な構成員として復帰させるための,日本との条約を提案する。個別的な事項に関しては,条約は以下で提示する諸原則に沿うものとすべきである。 

 

一,当事国 日本と戦争状態にあるいずれか,あるいはすべての国で,〔ここに示された〕提案を基礎にして合意を確保し講和を成立させる意志があるもの。 

 

二,国際連合 日本の加盟は検討されることになる。 

 

三,領土 日本は,

(a)朝鮮の独立を承認し,

(b)合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意し,

(c)台湾,澎湖諸島,南樺太および千島列島の地位に関する,イギリス,ソヴェト連邦,カナダ,合衆国の将来の決定を受諾しなければならない。

 条約発効後一年以内に何の決定もなされない場合には,国際連合総会が決定する。〔日本は,〕中国における特殊な権利および権益を放棄しなければならない。 

 

四,安全保障 国際連合による実効的な責任の負担というような別の形での満足できる安全保障上の取決めが達成されるまでの期間,日本地域の国際的な平和と安全保障を維持するために,この条約は,日本の諸施設と合衆国および恐らくは他の諸国の軍隊との間に,継続して協調的な責任〔関係〕が存続するように配慮しなければならない。 

 

五,政治上および通商上の取決め 日本は,麻薬および漁業に関する多国間の条約に加入することに同意しなければならない。戦前の二ヵ国間の条約は,相互の合意を通じて復活させることができる。新しい通商条約が締結されるまでの期間,日本は通常の例外措置には従うものとして最恵国待遇を与えることができる。 

 

六,請求権 すべての当事国は,一九四五年九月二日以前の戦争行為から生じた請求権を放棄する。ただし,

(a)連合国がそれぞれの領土内において日本人の財産を一般的に取り押えている場合,および

(b)日本が連合諸国〔の人々〕の財産を返還する場合,あるいは原状に戻すことができない場合に損害額に関する協定で合意された一定の比率を円で補償する場合は,除くものとする。 

 

七,係争 請求権に関する係争は,国際司法裁判所長が設置する特別中立裁判所で解決する。その他の係争は,外交的な解決あるいは国際司法裁判所に委ねる。

 

3.1)準備作業 

・1950年9月、米国は対日講和実現の意思を明確に示し、「対日講和七原則」に基づいて各国との協議を開始しました。 

 

・こうした動きを受けて外務省事務当局は、A~D作業と称する対応策の検討に着手しました。これらの作業では、講和後の米軍駐留を前提とする日米安全保障条約案と、非武装・軍備制限を根幹とする安全保障条約案の2つの条約案が作成され、対米交渉で提示する日本側見解がとりまとめられました。 

 

・また、目黒の外相官邸においては、有識者および旧軍関係者による会合がそれぞれ数回開かれ、安全保障や再軍備を中心に、講和に関する諸問題が検討されました。 

 

3.2)第1次交渉 

・昭和26年1月25日、羽田に到着したダレス特使一行は、2月11日に離日するまで3度にわたって吉田総理と会談し、また事務レベル折衝において具体的問題を協議しました。 

 

・交渉の冒頭において、日本側は講和問題への基本姿勢を示した「わが方見解」を交付し、その中で沖縄・小笠原諸島の信託統治に関して再考を要望しました。しかし米国側は、「領土問題は解決済」との立場を崩しませんでした。 

 

・その後交渉は、日本の安全保障と再軍備を中心に進められました。安全保障問題については、事務レベル折衝において日本側が準備作業に基づく日米安全保障協定案を提案したことにより協議が進展し、平和条約とは別個に取極を結ぶこととなりました。 

 

・また再軍備問題は、日本側が「再軍備の発足について」という文書を提出して譲歩を示しました。この間において、米国側は「仮覚書案」を交付して米国の平和条約構想を日本側に示しました。 そして2月9日、日米合意の印として、関係5文書に両国間でイニシアルが行われました。

 

3.3)米国草案の提示 

・3月27日、米国より平和条約草案(全22条)が提示され、日本側は4月4日付覚書をもって、案文への若干の修正意見を付しつつ、内容には異存のない旨を回答しました。

 

・また、それより前の3月17日には、日本は「イニシアルされた文書に対する日本政府の意見および要請」を提出し、米国が日本防衛の責任に対し明確にコミットするよう日米安全保障協定案の修正を求めました。 しかし米国側はこれに応じず、日本は自衛力がないので相互安全保障の取極をなしえないと回答しました。 

 

・本項目では、第1次交渉と第2次交渉の間に日米間でやりとりされた文書を中心に、全12文書を採録しています。

 

3.4)第2次交渉 

・1951年4月16日に再来日したダレス特使は、マッカーサー連合国最高司令官の解任後も平和条約に関する米国政府の政策には変更がない旨を明らかにしました。 

 

・また、米国側が英国作成の平和条約案を内示して日本側意見の提出を求めたのに対し、日本側は、英国案戦勝国が敗戦国に課する性格の条約であり、米国案の方がはるかに望ましいと回答しました。 

 

・さらに対比賠償問題では、米国側よりフィリピンの感情を考慮した対処が必要であるとの提言があり、日本側はフィリピン海域における沈船引揚を研究してみるとの趣旨の文書を提出しました。 

・なお、ダレス離日(4月23日)後の5月中旬、米国側より中国代表問題に関し日本側の意向を質すところがあり、日本側は国民政府が別個の儀式で別の謄本に署名する方法を最善とすると回答しました。 

 

3.5)第3次交渉と平和条約案の公表 

・6月末に米国側より示された平和条約案は、在中立国・在独伊財産国際赤十字委員会への引渡しをはじめ、いくつかの重要な修正が加えられていました。 

 

・特に、対日賠償を強硬に主張する諸国の要求に応じるため、旧案文の賠償打ち切りが撤回され、各種条件を付しつつ平和条約成立後に二国間交渉で解決するとした第14条に日本側は強い懸念を表明し、関係国との交渉に際しての強力な支援を米国側に要望しました。 

 

・その後、平和条約案は米国側より細かな修正が加えられ、議定書案、宣言案とともに7月12日に公表されました。またこの間には、英国の要望に応えるため、保険業務再開問題や海洋漁業に関する声明の発出などが協議されました。 

 

3.6)日米安全保障条約案の確定と平和条約最終案の公表 

・平和条約案の公表後、日本側は数度にわたって条文解釈に関する覚書を提出するなど、日米間において平和条約と日米安全保障条約の文言確定に向けた最終的な調整を行いました。 

 

・その結果、8月16日には平和条約の最終案が確定し、宣言案とともに公表されました。 

 

・また、7月30日、米国側より日米安全保障協定の新案文が交付され、いわゆる「極東条項」の規定が追加されました。 日本はこの条項をそのまま受け容れ、8月20日、日米安全保障条約の最終案文が確定しました。 

 

・その他、平和条約後も日本が国連軍の通過を認め、日本における物資買付によって国連軍の行動を支援する趣旨を明らかにする交換公文案も作成され、日米安全保障条約の署名と同時に行われることとなりました。 

 

<参考>「日本国との平和条約草案の解説」

 参考資料として、1951年8月4日付「日本国との平和条約草案の解説」を採録しています。本文書は、7月12日に公表された平和条約草案に基づいて外務省が作成したもので、国会議員に配布されるとともに、8月4日、報道機関に公表されました。


(3)講和会議への招請(昭和26年7月)(1951)


(引用:Wikipedia) 

1)招請状の発送 

・昭和26年7月20日、米英共同で日本を含む全50ヶ国に招請状を発送した。英仏蘭の要求によって各国の旧植民地にも招請状が発送された。(8月22日にフランス要求のインドシナ3国に追加招請) 

 

・一方、内戦で立場が微妙な「中国」中華人民共和国・中華民国と「朝鮮」(大韓民国或いは朝鮮民主主義人民共和国)いずれも招請されず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。 

 

・また、旧植民地の東南アジア数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ国際社会に謙虚さをアピールした。 

 

・これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立を承認台湾・澎湖諸島の放棄樺太・千島列島の放棄沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島のアメリカによる信託統治の承認東京裁判の結果の承認を行った。 

 

・同時に日米安全保障条約に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、台湾島に拠点を移した中華民国の中国国民党政府を承認する日華条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。

 

2)非参加国 

インド、ビルマ、ユーゴスラビアは招請に応じず、講話会議に参加しなかった。インドが参加しなかったのは、ネール首相日本に名誉と自由を他の国々と同様に与えるべきであると考え、講和会議への不参加を決めたからとされる。 

 

ネール首相が挙げた不参加の理由は、条約に外国軍の駐留事項を除外すること、日本が千島列島や樺太の一部をソ連に、澎湖諸島や台湾を中国に譲渡する必要があること、沖縄や小笠原諸島は日本へ返還すべきであることなどであった。 

 

3)中華人民共和国・中華民国 

・中国は第2次世界大戦中連合国であったが、条約締結当時、国共内戦を経て1949年に成立した中華人民共和国と、内戦に敗北した蒋介石らの中華民国の二国に分裂しており、いずれを代表政権にするかついて米英の意見が一致しなかった。 

 

イギリスは当時中華人民共和国を承認しており、中華人民共和国の参加を主張した。一方、中華人民共和国を承認していなかったアメリカ中華民国の参加を主張した。また昭和25年6月25日から発生した朝鮮戦争において中華人民共和国とソ連は北朝鮮を支援し、英米韓などの連合軍交戦状態にあった(朝鮮戦争は昭和28年7月27日に休戦) 

 

・結局、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして「中国」の招請は見送られた。 

 

・講和会議直前の昭和26年8月15日には中華人民共和国の周恩来外相が、対日平和条約英米案は、昭和17年1月1日の連合国共同宣言が単独講和してはならないとしていることや、ほかカイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言、1947年6月19日の極東委員会で採択された降伏後の対日基本政策などの国際協定にいちじるしく違反するものと批判する声明を発表した。

 

4)韓国の参加要求 

韓国署名国としての参加を度々表明し、一時は署名国リストにも掲載されていたが、日本と交戦していなかったため、招請されなかった 

 

・昭和24年1月7日、韓国の李承晩政権対馬領有を宣言し、日本に対馬返還を要求した。 

 

・さらに李承晩は韓国が講和条約署名国としての資格があるとアメリカ側へ訴え、これを受けて昭和24年12月3日、駐大韓民国ジョン・ジョセフ・ムチオアメリカ大使は中国国民党軍の朝鮮人部隊、大韓民国臨時政府の存在、韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。昭和24年12月29日の条約草案では、韓国が締結国のリストに新たに加えられた。 

 

・昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発し英米も参戦するなか、昭和26年5月の米英協議等において第2次世界大戦において韓国が日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが韓国の条約署名に反対した。イギリスの方針表明を受けてアメリカも韓国臨時政府を承認したことがないことから方針は変更された。 昭和26年7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官補は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理由に、韓国は講和条約署名国となれないことを通知した。 

 

・この会談で、韓国側は日本の在朝鮮半島資産韓国政府および米軍政庁への移管竹島・波浪島の韓国領編入マッカーサー・ラインの継続などを記した要望書を提出したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、日本を国際社会に復帰させようとする対日講話条約締結に反対した。 

 

・これに対しアメリカは昭和26年8月10日にラスク書簡で最終回答を行い、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国のほかの要求を拒否した。 

 

・しかしこの通知後も韓国は署名国としての地位を要求した。昭和26年8月22日にダレスは韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否非公式の参加は可能と回答した。


(4)講和会議と条約調印


(引用:Wikipedia)

1)概要 

 

           

        平和条約調印記念切手2円  (引用:Wikipedia)  平和条約調印記念切手8円 

 

・昭和26年9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウスにおいて全52カ国の代表が参加して講和会議が開催され、日本と連合国との間で講和条約が結ばれた。これが、「日本国との平和条約(Treaty of peace with Japan)」、通称サンフランシスコ講和条約(または平和条約)である。 

 

・日本の全権団は首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)の6人。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど、妥協の末、委員参加を取りつけた。 また、日本社会党に対しても全権委員参加を要請したが、左翼陣営は基本的に「全面講和」を主張していたため不参加となった。 

 

・9月7日、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。英語で行う予定で準備されていたが、直前になって日本語で行うことになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な巻物式の急造原稿は現地のメディアからトイレットペーパーとも言われた。

 

セイロン代表ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。 

 

・ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産圏3国講和会議に参加したものの、同じ共産主義国の中華人民共和国の不参加を理由会議の無効を訴え署名しなかった。 

・9月8日、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。調印は、国名の英語表記のアルファベット順にこれを行い、講和当事国の日本が最後に調印した。署名は各国とも全権として会議に参加した者全員でこれを行った。 

 

・条約の第1 条には、「(a)日本国と各連合国との間戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。(b)連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。」とあり、この規定に基き1952年4月28日、日本と連合国との戦争状態は終了し、日本は主権を回復しGHQの占領統治は終焉を迎えた。 

 

2)サンフランシスコ平和条約の内容 

日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan)(※)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。 

 

・本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約サンフランシスコ平和条約サンフランシスコ講和条約などともいう。 

 

・昭和26年9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の昭和27年4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。 この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認した。国際法上はこの条約の発効により、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」が終結した。 

 

・この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている。 これは当時国連公用語だった英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語5カ国語のうちソビエト連邦と中華民国がこの条約には加わらなかったことからロシア語版と中国語版が作成されなかったことによるもので、また日本語が加えられているのは当事国であるためである。 

 

・日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得たうえで条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。

 

※日本との平和条約の内容

◇全般

◆日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))

◆日本国民の主権の回復(第1条(b)) 

 

◇領土の放棄または信託統治への移管

◆朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a))

◆台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(b))

◆千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(c))

◆国際連盟からの委任統治領であった南洋諸島の権利、権原及び請求権の放棄。同諸島を国際連合の信託統治領とする1947年4月2日の国際連合安全保障理事会決議を承認(第2条(d))

◆南極(大和雪原など)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(e))

◆新南群島(スプラトリー諸島)・西沙群島(パラセル諸島)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(f))

◆南西諸島(北緯29度以南。琉球諸島・大東諸島など)・南方諸島(孀婦岩より南。小笠原諸島・西之島・火山列島)・沖ノ鳥島・南鳥島をアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案に同意(第3条) 

 

◇戦前の国際協定に基づく権利等の放棄

◆サンジェルマン条約、ローザンヌ条約及びモントルー条約に基づくボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡に関する権利及び利益の放棄(第8条(a))

◆ヤング案に基づく諸協定や国際決済銀行条約など、第一次世界大戦の連合国として有していた対ドイツ賠償に関わる権利、権原及び利益の放棄(第8条(a))

◆北京議定書(付属書、書簡、文書含む)の廃棄。同議定書に由来する利得及び特権を含む中国における全ての特殊の権利及び利益を放棄(第10条) 

 

◇国際協定の受諾

◆国際連合憲章第2条に掲げる義務(7大原則に従うこと)を受諾(第5条(a))

◆第二次世界大戦(1939年9月1日を開戦日とする)を終了させるために現に締結されもしくは将来締結される条約、連合国が平和の回復またはこれに関連して行う取極の完全な効力を承認(第8条(a))

◆国際連盟及び常設国際司法裁判所を廃止するための取極を受諾(第8条(a))

極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷(例として南京軍事法廷、ニュルンベルク裁判)の判決を受諾(第11条) 

 

◇賠償

◆日本が行うべき賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など)

◆日本の商標・文学的及び美術的著作権は連合国各国の一般的事情が許す限り日本に有利に取り扱う(第14条(a)2-III-v)

◆連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄(第14条(b)) 

 

◇安全保障

 連合国は、日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、日本が集団的安全保障取極を自発的に締結できることを承認(第5条(c)) 

 

◇その他

◆連合国日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退。ただし日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定により駐留・駐屯する場合はこの限りではない(第6条(a))

◆連合国は、本条約効力発生後1年以内に、戦前に日本と結んだ二国間条約・協約を引き続いて有効としまたは復活させることを希望するかを日本に通告。通告された条約・協約は、通告日の3ヶ月後に、本条約に適合させるための必要な修正を受け、国際連合事務局に登録された上で有効または復活する。通告がなされなかった対日条約・協約は廃棄される(第7条(a))

◆日本は、占領期間中に、占領当局の指令に基き、もしくはその結果として行われ、または当時の日本の法律によって許可された全ての作為または不作為の効力を承認。前述の作為又は不作為を理由として連合国民を民事責任または刑事責任に問わない(第19条(d))

◆日本は、連合国による在日ドイツ財産処分のために必要な措置を取り、財産の最終的処分が行われるまでその保存・管理に責任を負う(第20条) 

 

3)条約解釈と諸問題 

3.1)領土 

・ポツダム宣言の8項を受けて規定された条項である。日本には領土の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。 

 

・国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であるとオックスフォード大学イアン・ブラウンリー教授は解釈している。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している。 

 

〇竹島問題

・竹島の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている。 

1947年3月19日版以降日本は済州島、巨文島、鬱陵島、及び、竹島を放棄すること。

 

・1949年11月14日、アメリカ駐日政治顧問シーボルドによる竹島再考の勧告

 「これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。」 

 

1949年12月29日版以降日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。

・日本の保有領土の項竹島を明記 

 

1951年6月14日版以降日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。

・日本の保有領土の項は無くなる 

 

1951年7月19日、韓国政府、日本が済州島、巨文島、鬱陵島、独島(竹島)、及び、波浪島を放棄すること条約に盛り込むことを求める。 

 

1951年8月10日米政府より、竹島は韓国の領土として扱われたことは無く、1905年以降日本領であるとし拒絶される(ラスク書簡)。 

 

1951年9月8日版(最終版)日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。 

 

〇北方領土問題

・第二章第二条(c)において日本が放棄した千島列島に南千島(択捉島、国後島)を含むかどうかに解釈上の争いがある。 

 

〇「外地人」の日本国籍喪失

・条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした(昭和27年4月19日法務府民事局長通達)「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により、本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。 

 

・昭和36年の最高裁判所判決でも同旨の解釈を採用した。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である。 

 

・これに対し、千島列島・南樺太は法体系上は内地であったため、同地域内に本籍を置いた者については、権原放棄に伴う国籍の喪失はないとされている。 

 

〇東京裁判の受諾問題

・東京裁判の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている。 

 

〇著作権保護期間の戦時加算

・戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例が設けられている。 

 

4)署名国 

アルゼンチン共和国、オーストラリア連邦、ベルギー王国、ボリビア共和国、ブラジル合衆共和国、カンボジア王国(仏連合王国)、カナダ(英連邦王国)、セイロン(英連邦王国)、チリ共和国、コロンビア共和国※、コスタリカ共和国、キューバ共和国、ドミニカ共和国、エクアドル共和国、エジプト王国、エルサルバドル共和国、エチオピア帝国、フランス共和国、ギリシャ王国、グアテマラ共和国、ハイチ共和国、ホンジュラス共和国、インドネシア共和国※、イラン帝国、イラク王国、ラオス王国(仏連合王国)、レバノン共和国、リベリア共和国、ルクセンブルク大公国※、メキシコ合衆国、オランダ王国、ニュージーランド(英連邦王国)、ニカラグア共和国、ノルウェー王国、パキスタン(英連邦王国)、パナマ共和国、パラグアイ共和国、ペルー共和国、フィリピン共和国、サウジアラビア王国、シリア共和国、トルコ共和国、南アフリカ連邦(英連邦王国)、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、アメリカ合衆国、ウルグアイ東方共和国、ベネズエラ ボリバル共和国、ベトナム国、日本 

※は、調印はしたが批准はしていない国。なお上記の国名はいずれも調印時におけるものである。 

 

5)条約締結後 

・昭和26年10月26日、衆議院が締結を承認。11月18日には参議院が締結を承認、内閣が条約を批准した。11月19日、奈良において昭和天皇が批准書を認証。11月28日には アメリカ合衆国政府に批准書が寄託された。 

 

・昭和27年4月28日日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した。

 

6)講和条約署名国以外との国際関係 

・日本国との平和条約及び日米安全保障条約(旧)の2条約の締結を以って日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。 他方で、共産主義陣営のソ連と中華人民共和国との間では軋轢が続いた。 

 

・しかし、日本は条約締結後、インド、台湾、ソ連、韓国、中華人民共和国など条約を締結しなかった国々と個別に平和条またはそれに準じる共同宣言などを締結していき、各国との国交正常化を果たしていった。 

 

①条約発効直前の1952年1月18日、韓国政府は突如としてマッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインの宣言を行い、島根県の竹島に韓国軍が上陸した。背景には韓国国内での済州島四・三事件(※1)保導連盟事件(※2)及び国民防衛軍事件(※3)等が発生し、韓国政府に対する不満があったともされるが、一方的な宣言である李承晩ラインに対し日米両政府は非難した。その後、険悪になった日韓両国は昭和40年の日韓基本条約の締結において国交正常化したが、竹島問題は現在も日韓での外交問題となっている。 

 

(※1)済州島四・三事件は、昭和23年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが昭和29年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。

 

 韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。また、この事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。 

 

(※2)保導連盟事件とは、昭和25年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件。

 

 「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」の研究では60万人から120万人が虐殺されたとしている。李承晩大統領が失脚した昭和35年の四月革命(独裁体制の打倒)直後に、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成したが、その報告書は虐殺された人数を114万人としている。

 

 韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会」は朝鮮戦争の初期に韓国政府によって子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認している。公開されたアメリカ軍の機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などの詳細が記録されている。

 

 イギリス人やオーストラリア人の目撃もあり、アメリカ軍少佐はワシントンに虐殺の写真を報告しているが半世紀の間隠蔽され続けてきた。

 

 また、アメリカ軍司令官のダグラス・マッカーサーにも報告されていたが止めようとした形跡は見つかっていない。韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。 

 

(※3)国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の昭和26年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。

 

 国民防衛軍は、「国民防衛軍設置法(昭和25年12月16日公布)」に基づき、第2国民兵役該当者である満17歳以上40歳未満の将兵によって組職された韓国の軍事組織である。

 

 韓国政府は、中国義勇軍の朝鮮戦争介入で悪化する戦況を打開するために、約50万人の将兵達を51個の教育連隊に分散・収容して、国民防衛軍を編成した。 しかし、早急に編成された軍隊であるため、将兵の動員・輸送・訓練・武装などのための予算不足、及びに指揮統制の未熟など問題点が現われ始めた。

 

 そのような中での昭和26年初頭、北朝鮮・中国両軍の攻勢を受けた韓国軍は、前線の後退(1・4後退)作戦を敢行し、国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになった。しかし、防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のために編成された軍事物資や兵糧の米などを、不正に処分・着服した。

 

 その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者・凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となった。

 

 この事件は国会で暴露され、真相調査団が設置された。調査の結果、人員数の水増し報告により国庫金23億ウォン、糧穀5万2000石が着服・横領され、食料品費の計上額と実際の執行額・調達額の差が約20億ウォンに上ることが明らかとなった。

 

 また、着服金の一部が李承晩大統領の政治資金として使われたことも明かされ、李始栄副大統領と、事件の黒幕と見られた申性模国防部長官が辞任した。翌昭和26年4月30日、国会は防衛軍の解散を決議し、5月12日に解体された。同年7月19日に中央高等軍法会議が開かれ、国民防衛軍司令官金潤根、副司令官尹益憲など5人に死刑が言い渡され、8月12日に大邸郊外の端山で死刑が執行された。

 

 この事件によって、韓国陸軍本部では李承晩への反感が高まった。李承晩は国民の不満を抑えるために昭和27年1月18日にアメリカ等の国際的な反対を押し切り李承晩ラインを一方的に宣言、竹島の不法占拠を開始した。

 

中華民国との間では、日本国との平和条約の発効日と同じ昭和27年4月28日に日華平和条約を調印。 

 

③昭和27年6月9日にインドは全ての賠償請求権を放棄するとともに日本は対印投資を約する日印平和条約が東京で締結された。平成17年の演説でインドのマンモハン・シン首相は講和条約に関する日印関係を思い出されるべき重要なことと語った。 

 

④昭和31年10月19日、ソ連と日本は日ソ共同宣言を発表、国交が正常化し、法的にも戦争状態が終了した。日ソ共同宣言では「引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」と明記されたが、北方領土の全面返還を求める日本との間で交渉は停滞し、北方領土問題は現在も未解決のままである、またソビエト連邦(現・ロシア)とは未だに正式な平和条約を締結していない状態である。 

 

中華人民共和国との間では、昭和47年2月のニクソン大統領の中国訪問や国際連合での「国府追放、北京招請」を受けて、日本は昭和47年9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明を調印し日中国交正常化を実現させた。しかし、この声明で「ひとつの中国」である中華人民共和国を認めたため、をこれにともない、台湾の中華民国とは法的に断交した。 

 

7)全面講和論のその後 

・他方、冷戦構造に対して中立をとろうとする全面講和論はその後も展開し、山川均らの非武装中立論社会党の党是ともなり、その後の日本をめぐる安全保障および日米同盟に関する議論を形成していった。なお条約の発効をもってレッドパージの一環として占領軍により発行を禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。 

 

・非武装中立論を批判する永井陽之助は長期的目標として非同盟=中立が正しいとしても米ソ中3国の緊張緩和のテンポを考慮するべきだと論じた。このような議論は講和条約と同日に締結された旧日米安保条約を改定した日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が1960年に締結される前後、安保条約に反対する政治運動として安保闘争が繰り広げられた。 

 

・また在日米軍の問題は、沖縄での米軍基地問題に関して今日の日米関係の重要な外交上の争点となっている。沖縄県では、条約が発効した昭和27年4月28日を、沖縄が日本本土から切り離されアメリカの統治下に置かれることになった「屈辱の日」としている。 

 

・全面講和論はその後も再評価されることがあり、2001年に朝日新聞紙上で坂本義和は当時、全面講和は1951年でなく朝鮮戦争やベトナム戦争の休戦協定時点であれば可能であったはずだと主張し、また、日米安保条約を「有事駐留」方式にすれば,ソ連が北方領土を認めた可能性もあるし、また沖縄への米軍基地集中も起こなかったかもしれないと述べた。 

 

・これに対して伊藤祐子は、戦後の日本はアメリカによって単独占領されており、したがって占領下の日本が独自の外交権も持てずに実質的に制限されていたことを考慮すれば、日本がアメリカの対日政策と無関係にみずから行動を起こすことは不可能であったと考えるべきだと批判した。 

 

・また、全面講和が可能になる条件としては、アメリカの冷戦的思考と枠組みをソ連が受け入れるか、またアメリカが共産主義諸国を敵視しないことが必要であったが、それらはいずれも不可能であったため、全面講和は実現できなかっただろうと述べた。 

 

8)中国による日本領土縮小案 

・周辺国による条約否認・改定への動きもある。尖閣諸島問題日中関係が悪化する中、平成24年11月14日に中国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議が開かれた。 

 

・席上、中国外務省付属国際問題研究所のゴ・シャンガン(郭宪纲)副所長日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。 

 

・そのためには中国、ロシア、韓国による反日統一共同戦線を組んで米国の協力を得たうえで、サンフランシスコ講和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した。 

 

・モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中国外務省の正式機関の幹部で中国外交政策の策定者から出たことに対し、多かれ少なかれ中国指導部の意向を反映していると述べている。 

 

9)講和条約への各国の反応 

9.1)各国の対応 

〔米国政府の対日政策の基本〕

①侵略戦争を遂行した権力及び勢力の永久除去、

 

②戦争遂行能力の破砕、日本国軍隊の完全武装解除、

 

③平和的傾向を有し且つ責任ある政府の樹立 

 

・すべての当事国は、1945年9月2日前の戦争行為から生ずる請求権を放棄する。但し、一般に連合国がその地域内にある日本人財産を保有する場合、日本が連合国人財産を返還または現状で回復できないとき、喪失価格の協定された割合を補償するために円を提供する場合を除く。

 

〔アジア・太平洋諸国の反応〕

・米国の対日講和構想に対してアジア・太平洋諸国は、軍備制限条項が盛り込まれなかったこと、賠償請求権が否定されたことに強く反発した。 

 

〔オーストラリアとニュージーランドの反応〕

オーストラリアとニュージーランドは、特に軍備制限条項が無いことに不満を表明した。

 

・これに対しアメリカは「我々は中国-日本-ロシアの共産主義支配連合の可能性を阻止しなければならない。軍備制限をつけない対日講和条約は、これを阻止することになろう。」と、冷戦の論理で反論した。 

 

〔フィリピンの反応〕

フィリピンは、日本による占領と激しい陸戦によって多大な戦争被害を受けた。賠償請求権の放棄に対して政界はもとより民衆からも強い反対の声が上がった。 

 

・これに対しアメリカは「安定的で健全な日本が、この地域における利益につながるとの信念によっている。もし仮に日本の工業潜在能力や人的資源がソビエトと中共にわたたったら、フィリピンは深刻な危機にさらされるだろう。」と脅迫とも取れる説得をした。フィリピン上院は対日講和条約を承認せず、昭和31年に日比賠償協定が締結されるに及んで講和条約も承認した。 

 

〔上記以外の戦争当事国の反応〕

・これ以外の戦争当事国が、アメリカに直接不満を述べる機会は無かった。

 

〔中国・朝鮮の反応〕

中国は、昭和24年の革命により中華民国から中華人民共和国に変わった為に、条約の対象国とはならなかった。朝鮮は、日本の敗戦と共に独立し、昭和23年に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国という分裂国家を成立させた為に、戦争当事国とはされず対象国とはされなかった。 

 

インドネシア、インドシナ諸国は、独立運動のさなかで積極的な関与ができなかった。アジア太平洋の諸国は、アメリカの講和条約案に反対する意見が強かったが、アメリカの支援を必要とする国家事情から強く反対できず、国際的な発言力もほとんど無かった。インド、ビルマ、ユーゴスラビア参加を拒否 

 

ソ連、ポーランド、チェコは参加したが調印を拒否している。

 

9.2)各国首脳の発言 

〔ジャヤワルデネ/セイロン首相〕

・昭和26年9月、サンフランシスコで開かれた対日講和会議で、スリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤワルデス前大統領は、日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示した。 

 

・ジャヤワルデス前大統領は、この講和会議の演説にブッダの言葉を引用した。

「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる、人は憎しみによっては憎しみを越えられない、実にこの世においては怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの恩むことがない。怨みをすててこそ恩む、これは永遠の真理である。」 

 

・ジャヤワルデス前大統領は、講和会議出席各国代表に向って、日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時・セイロン)は賠償請求を放棄することを宣言した。 さらに「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々の主張した日本分割案に真向から反対して、これを退けた。 

 

J・R・ジャヤワルデネ 前スリランカ大統領顕彰碑(引用:Wikipedia) 

碑文「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる 人は憎しみによっては憎しみを越えられない」 

 

〔マッカーサー連合国軍最高司令官〕

・昭和26年、マッカーサーは米上院議院の軍事外交合同委員会で次の証言(※)をしている。 

 

※マッカーサー証言

「日本は絹産業以外に国有の産物は殆ど何も無い。彼等には、羊毛が無い。石油の産出が無い。錫が無い。その他実に多くの原料が欠如している。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から二千万の失業者が発生するであろうことを、彼等は恐れていた。したがって彼等が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」 

 

・つまりマッカーサーは、日本は侵略戦争をしたのではなく、生きるため自存自衛のための戦いをした、と言っているのである。 

 

〔ククリット/タイ首相〕

・「日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。今日われわれが米英と対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。それは日本という母親がいたからである。母親は難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育っている。昭和20年12月8日は身を殺して仁を成した母親が一大決心をした日である。われわれはこの日を決して忘れることは無い。」 

 

10)(旧)日米安全保障条約(昭和26年9月)  

・日本の降伏以降は連合国軍(事実上アメリカ軍)に占領され、日本軍は解体された。冷戦による陣営対立が深まり、1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発している。 

 

・日本駐留のアメリカ軍は朝鮮半島に移動し、警察予備隊が創設されるなど、日本の防衛・安全保障環境は不安定であった。 

 

・サンフランシスコ講和条約の調印に伴い、日本は主権を回復したため、条約発効後には占領軍は国内から去ることとなっていた。 しかし、1949 年の中華人民共和国成立、1950 年の朝鮮戦争勃発により、日本はアジアにおける西側諸国(特にアメリカ)にとって、戦略的に重要な地点となっていた。 

 

・また、西側陣営に組み込まれた日本にとっては、中国・ソ連といった東側諸国が近くにある状況で、憲法9 条に基き軍備を一切持たないことは国防上の問題であるとされた。 

 

・ここに日米の思惑が一致し、1951 年9 月8 日、サンフランシスコ講和条約調印の直後に結ばれた条約が(旧)日米安全保障条約(※)である(同条約は1960 年に改定されたので識別のため「旧」を付ける)この条約により、アメリカは軍隊を日本に駐留でき、日本は防衛のための過剰な実力を配備する必要がなくなった(軍備に殆ど投資せず経済を優先したことは日本の復興に貢献したと言えよう) 

 

※旧日米安全保障条約

前文

 平和条約は,日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し,さらに,国際連合憲章は,すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。これらの権利の行使として,日本国は,その防衛のため(中略)アメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。 

 

第一条(アメリカ軍駐留権)

 日本は国内へのアメリカ軍駐留の権利を与える。駐留アメリカ軍は、極東アジアの安全に寄与するほか、直接の武力侵攻や外国からの教唆などによる日本国内の内乱などに対しても援助を与えることができる。 

 

第二条(第三国軍隊への協力の禁止)

 アメリカ合衆国の同意を得ない、第三国軍隊の駐留・配備・基地提供・通過などの禁止。 

 

第三条(細目決定)

 細目決定は両国間の行政協定による。 

 

第四条(条約の失効)

 国際連合の措置または代替されうる別の安全保障措置の効力を生じたと両国政府が認識した場合に失効する。 

 

第五条(批准)

 

 批准後に効力が発効する。 

 

・アメリカ合衆国は,平和と安全のために,現在,若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。 但し,アメリカ合衆国は,日本国が,攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ(中略)自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。

 

10.1)内容 

・条約は前文と5条からなり、アメリカ軍が引き続き日本国内に駐留し続けることが骨子となっている。条約の期限は無く、駐留以外に援助可能性には触れているが、防衛義務は明言されていない。また、内乱対応への言及もあった。 

 

・このため、防衛義務の明言内乱条項の削除などを行なった日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約新日米安保条約が締結、1960年に発効した。旧日米安保条約第四条および新日米安保条約第九条の定めにより、旧日米安保条約は1960年6月23日に失効した。 

 

10.2)日米安保条約 (旧)締結 

 

 

外務省外交史料館で展示されている署名(引用:Wikipedia) 

 

・同9月8日、講和条約に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地に場所を移し、日米安全保障条約に調印した。 

 

・日米安全保障条約には吉田首席全権単独で署名した。吉田は無理に同行した池田勇人蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言い、署名の場に同席することは許さなかった。 

 

10.3)条約の適用 

・第一条「外国による武力侵攻に関して、この時期の該当例は、韓国による竹島占領連による色丹島および歯舞諸島占領がある。いずれも当時、米国が日本の主権だと認めていた領土への外国の武力支配であったが、安保条約による米軍の援助はなかった。 

 

・色丹島と竹島については、東京領事ウィリアム・ターナーは、1953年11月30日付けで「リアンクール(竹島)論争に関するメモランダム」を本省に提出し、安保条約と 領土問題について触れている。 

 

・ラスク書簡をもとに竹島に対する日本の主権を認めていながら、竹島問題にアメリカが介入して恨みを買うことを恐れていたターナーによると、竹島問題は、ソ連が占領した日本領の色丹島問題と似ている、という。 

 

・アメリカは「色丹島が日本の主権に属する」と声明したが、日本はアメリカに対して「安保条約に基づく武力行使」を要請してこなかった。 

・したがって竹島問題についても、「日本人が日米安保条約を呼び出すのではないかと過度に不安になる必要はない」と述べている。 

 

・1957年、ソ連国境警備隊は歯舞諸島の貝殻島に上陸実効支配したが、アメリカによる対抗措置はなく、ソ連の手に落ちた 

 

11)(新)安全保障条約日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 

 

Japan US Treaty of Mutual Security and Cooperation 19 January 1960.jpg

外務省外交史料館(東京都港区)で展示されている署名。(引用:Wikipedia)

 

11.1)概要 

・日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan、昭和35年条約第6号)は、日本国とアメリカ合衆国の安全保障のため、日本本土にアメリカ軍(在日米軍)が駐留することなどを定めた二国間条約のことである。 

 

・1960年(昭和35年)1月19日に、ワシントンD.C.で締結された。いわゆる日米同盟の根幹を成す条約であり、条約には「日米地位協定」が付属している。ただし、日本において日米関係を「同盟」と表現するのが一般化したのは、1980年代になってからのことである。 

 

・形式的には、1951年(昭和26年)に署名され翌1952年(昭和27年)に発効した旧安保条約を失効させ、新たな条約として締約・批准されたが、実質的には安保条約の改定とみなされている。この条約に基づき、在日米軍としてアメリカ軍の日本駐留を引き続き認めた。60年安保条約、新安保条約などともいわれる。 新・旧条約を特段区別しない場合の通称は日米安全保障条約、日米安保条約。 

 

・ 1951年(昭和26年)9月8日、アメリカ合衆国を始めとする第二次世界大戦の連合国側49ヶ国との間で日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結された。翌1952年(昭和27年)4月28日に、効力発生がされた。この際、同条約第6条(a)但書に基づき、同時に締約された条約が旧日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)であり、この条約に基づき、GHQ麾下部隊のうちアメリカ軍部隊は在日米軍となり、他の連合国軍(主にイギリス軍)部隊は撤収した。 

 

・旧条約は日本の自主防衛力が除去された戦後占領期の社会情勢を前提に、日本政府が米軍の駐留を希望するという形式をとるものであり、また米国の「駐留権」にもとづく片務的な性格を持つ条約であった。 

 

・ 1960年(昭和35年)1月16日に渡米した岸信介首相率いる全権委任団は、同1月19日に旧安保条約に代わる新安保条約に調印した。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領訪日が予定されていた同年6月19日までに条約を批准したい岸首相の意向の下、期日までに衆議院の優越を利用した自然承認が成立するぎりぎりの日程であった5月20日、衆議院本会議で条約が承認された。 

 

     

(左)国会を取り囲んだデモ隊、1960年6月18日(中)当時国会前庭はまだ整備されていなかった衆議院における強行採決(右)内堀通りを埋め尽くして日比谷公園から国会に向かうデモ隊(1960年6月15日)

(引用:Wikipedia) 

 

条約承認については野党が強く反発しており、前日の5月19日には社会党議員らが清瀬一郎議長を監禁して採決を阻止していたが、同日午後11時7分に警官隊がこれを排除。清瀬議長は金丸信ら屈強な自民党議員らに守られながら議場に入り、自民党が会期延長を単独採決した。

 

・更に日付が変わった直後の午前0時5分に清瀬議長が開会を宣言し、そこで条約承認が緊急上程され可決した。なお、多数の議員が壇上に押しかける中で清瀬議長がマイクを握りしめているという有名な「強行採決」の様子は、会期延長を議決したときのものであり、条約批准案の可決自体は野党議員らが抗議の退出をしたため粛々と行われた。 

 

・この強行策安保闘争の活発化を招く結果となり、条約反対運動は次第に激しいものとなっていった。アイゼンハワー大統領の訪日も結局中止されることとなるが、岸政権の目論見通り、条約は30日後の6月19日に参議院の承認のないまま自然承認された。批准書交換が行われて条約が発効した6月23日、岸は退陣を表明した。 

 

・新条約では集団的自衛権を前提とした(形式としては)双務的体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定した。

 また、その期限を10年とし、以後は締結国からの1年前の予告により一方的に破棄出来ると定めた。締結後10年が経過した1970年(昭和45年)前後に再び安保闘争が興隆したものの、以後も当条約は破棄されておらず、現在も効力を有している。 

 

・新安保条約は、同時に締結された日米地位協定によりその細目を規定している。日米地位協定では日本がアメリカ軍に施設や地域を提供する具体的な方法を定めるほか、その施設内での特権や税金の免除、兵士・軍属などへの裁判権などを定めている。 

 

11.2)条約本文  

〔日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 〕

前文 

 日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結することを決意し、よつて、次のとおり協定する。

 

第一条

 締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。締約国は、他の平和愛好国と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。 

 

第二条

 締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによつて、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する。 

 

第三条

 締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。 

 

第四条 締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。 

 

第五条

 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。 

 

第六条

 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。 前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。 

 

第七条

 この条約は、国際連合憲章に基づく締約国の権利及び義務又は国際の平和及び安全を維持する国際連合の責任に対しては、どのような影響も及ぼすものではなく、また、及ぼすものと解釈してはならない。

 

第八条

 この条約は、日本国及びアメリカ合衆国により各自の憲法上の手続に従つて批准されなければならない。この条約は、両国が東京で批准書を交換した日に効力を生ずる。 

 

第九条

 千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約は、この条約の効力発生の時に効力を失う。 

 

第十条

 この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。 もつとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。 

 

 以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。千九百六十年一月十九日にワシントンで、ひとしく正文である日本語及び英語により本書二通を作成した。

 日本国のために:岸信介/藤山愛一郎/石井光次郎/足立正/朝海浩一郎 

 アメリカ合衆国のために:クリスチャン・A・ハーター/ダグラス・マックアーサー二世

             /J・グレイアム・パースンズ 

 

11.3)安保条約の本質、諸解釈など 

〇日米安全保障条約の本質の変化 

・日米安全保障条約は時代と共に本質を変化させて来た。 旧安保条約が締結された当時、日本の独自防衛力は事実上の空白状態であり(警察予備隊の創設が1950年(昭和25年)秋)、一方ですでに前年の1950年(昭和25年)朝鮮戦争が勃発しており在日米軍は朝鮮半島に出撃しており、アメリカは出撃拠点ともなる後方基地の安全と補給の確保を喫緊の課題としていた。 

 

・日本側の思惑としては独自の防衛力を再建するための時間的猶予がいまだ必要であり、また戦争により破壊された日本の国力が正常な状態に復活するまで安全保障に必要な大半をアメリカに委ねることで経済負担を極力抑え、経済復興から経済成長へと注力するのが狙いであった。 

 

・1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が停戦した後もひきつづき冷戦構造のもとで、日本は韓国・中華民国(台湾)と共に、陸軍長官ケネス・クレイボーン・ロイヤルの唱えた「封じ込め政策」に基づく反共主義の砦、防波堤として、ソ連・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国に対峙していた。 

 

・1950年代中期になると、日本経済は朝鮮戦争特需から1955年(昭和30年)の神武景気に入り、1955年(昭和30年)の主要経済指標は戦前期の水準を回復して復興期を脱した。経済白書は「もはや戦後ではない」と述べ、高度経済成長への移行が始まった。政治体制においても自由党と民主党が合併し自由民主党に、右派と左派が合併した日本社会党が設立され、いわゆる「55年体制」が成立し安定期に入った。 

 

・そして1959年、日本が戦後初めて発行した外債は合衆国の金融市場が引受けた。一方で、1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて中華人民共和国と中華民国(台湾)の間で台湾海峡危機が起こり、軍事的緊張が高まった。また、アメリカ政府が支援して成立したゴ・ディン・ジエム大統領独裁体制下の南ベトナムでは後のベトナム戦争の兆しが現れていた。 

 

・こうした日米が置かれた状況の変化を受けて締結されたのが新安保条約である。当条約の締結前夜には反対運動が展開された(安保闘争)。 

 

・新安保条約は1970年(昭和45年)をもって当初10年の固定期間が満了となり、単年毎の自動更新期に突入したが、東西冷戦構造の下で条約は自動的に更新され続けた。一方、その意義づけは、1978年以降「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)と、その改定の形で示され、実質的に対ソ・対朝鮮有事・対中軍事条約へと性質を変えていった。 

 

・1979年(昭和54年)5月に訪米した大平正芳首相は、日本の首相として初めて米国を「同盟国」と表現した。しかし、後任の鈴木善幸首相は、1981年(昭和54年)の訪米時のレーガン大統領との日米共同声明に初めて「同盟」という表現が入ったことについて、帰国後「軍事的意味合いは持っていない」として、外務事務次官が異なる説明をすると激怒し、伊東正義外相が事実上これに抗議して辞任している。日米「同盟」という言葉が市民権を得たのは、1983年の中曽根康弘首相による訪米時の共同宣言からとされる。 

 

・1991年(平成3年)のソ連崩壊により冷戦は終結したが、ソ連崩壊後の極東アジアの不安定化や北朝鮮の脅威、中台関係の不安定さや中国の軍事力増強など、日本および周辺地域の平和への脅威に共同対処するため引き続き条約は継続している。日本政府は、基本的価値や戦略的利益を共有する国がアメリカであるとし、日米安保は日本外交の基軸であり極東アジアの安定と発展に寄与するものとしている。 

 

・一方で日米双方において、当条約の有効性や歴史的存在意義についての多くの議論がおこなわれるようになっている。 

 

・2004年(平成16年)度の日本防衛白書では初めて中華人民共和国の軍事力に対する警戒感を明記し、また米国の安全保障に関する議論でも、日本の対中警戒感に同調する動きが見られ、2005年(平成17年)、ジョージ・W・ブッシュ米大統領の外交に大きな影響を持つコンドリーザ・ライス国家安全保障問題担当大統領補佐官が中国に対する警戒感をにじませる発言をし、日米安全保障条約の本質対中軍事同盟・トルコ以東地域への軍事的存在感維持の為の物へと変化して来ている。 

 

・2010年(平成22年)1月19日、バラク・オバマ米大統領は、日米安保条約改定の署名50周年に際して声明を発表した。声明では、「共通の課題に対して両国が協力することは、われわれが世界に関与する上での重要な一部となるとして、日米安保を基盤として両国の世界規模での協力の必要性を強調した。また「日本の安全保障に対する米国の関与は揺るぎない」として、「同盟を21世紀向けに更新し、両国を結束させる友好関係と共通の目的を高めよう」と呼びかけていた。また、安保改定50年にあたり日米の外務・防衛担当閣僚が共同声明を出している。 

 

・2019年6月、以前から同様の発言をしていたドナルド・トランプ米大統領は日米安保条約について「もし日本が攻撃されれば我々は戦う」、「我々が攻撃されても日本は助ける必要が全くない」、「(日本は)ソニーのテレビで見るだけだ」などと発言。日米両政府は否定したものの、29日G20大阪で来日し閉幕後の会見で破棄することはまったく考えてない。不平等な合意だと言っている」、「6カ月間、条約は見直す必要があると安倍晋三首相に伝えてきた」などと発言したが、菅官房長官は否定した。 

 

11.4)日本抑止論 

・1971年(昭和46年)7月、中国を訪問したヘンリー・キッシンジャーとの会談で、周恩来首相が日本には「拡張主義的傾向がある」と指摘したのに対し、キッシンジャーは同意して「日米安保関係がそれを防いでいる」と述べた。これは現在の記録で確認できる、米中首脳が最初に日米安保「瓶の蓋」論を共有した瞬間とされる。 

 

・1990年(平成2年)3月、在沖縄米海兵隊司令官ヘンリー・スタックポール少将「米軍が日本から撤退すれば、すでに強力な軍事力を日本はさらに増強するだろう。我々は 『瓶のふた』 のようなものだ」と発言し、日本を抑止する必要があるとの見解を示した。 

 

・1999年(平成11年)アメリカの世論調査では、条約の目的は何かという質問への回答が、「日本の軍事大国化防止」49%、「日本防衛」12%となった。 

 

11.5)第5条共同対処宣言(義務)に関する解釈 

・この条約の第5条では日米両国の「共同対処」宣言(※)が明記されており、米国が集団的自衛権を行使して、日本を防衛する義務を負うという根拠とされている。 

 

・日本の施政下においては、日本はもちろん「在日米軍に対する武力攻撃」であっても「日米が共同して対処すること」となる。この際、日本はあくまで「日本への攻撃」に対処すると考えるられるため、日米安保に基づいた行動を行う場合も集団的自衛権ではなく自国を守るための個別的自衛権の行使に留まるとの解釈が過去になされた。 

 

・また第5条では「日本の施政下の領域における日米どちらかへの攻撃」についてのみ述べられており、在日米軍基地在日米国施設等は含まれていない。しかし、日本の領土や領空を侵害せずにこれらに対する攻撃を行うことは不可能であるため、米国施設に対する攻撃であっても日本への攻撃と同等とみなして同様に対処を行う。 

 

・その他に、日本を防衛するために活動を行っている米艦艇に関しても、第98回国会の衆議院予算委員会にて谷川防衛庁長官(当時)「(前略)米艦艇が相手国から攻撃を受けたときに、自衛隊がわが国を防衛するための共同対処行動の一環としてその攻撃を排除することは、わが国に対する武力攻撃からわが国を防衛するための必要な限度内と認められる以上、これはわが国の自衛の範囲内に入るであろう」と答弁しており、自衛隊による防護が可能となっている。 

 

2012年(平成24年)11月29日、米上院連邦議会は本会議で、尖閣諸島問題を念頭に日本の施政権についての米国の立場について「第三国の一方的な行動により影響を受けない」「日米安保条約第5条に基づく責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決した。 

 

・2013年(平成25年)1月2日、前月20日米下院、翌21日米上院連邦議会で可決された尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象であることを明記した条文を盛り込んだ「2013年会計年度国防権限法案」にバラク・オバマ大統領が署名し法案が成立した。尖閣諸島の条文には「武力による威嚇や武力行使」問題解決を図ることに反対するとしている。 

 

※第5条「共同対処」宣言(条文) 

 ARTICLE NO.5 Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and security and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes. 

 

第5条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動することを宣言する。

 

11.6)米国下院で「日本側にあり過ぎる」と批判された日米安保条約 

・一方で、米国側からの「日本に有利すぎる」といった批判がある。 

 

・日米地位協定第24条において、米軍の維持経費「日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」と規定されている。旧ソ連(現在のほぼ独立国家共同体構成国、主にロシアに相当)を主な脅威としていた日米安全保障の本質は冷戦終結と共に変化しているが、条約部分に決定的な変化は無い。 

 

・また日米安全保障条約は、日本側が正常な軍事力を持つまで……として締結された経緯もあり、アメリカ側には日本を防衛する事を必要とされるが、日本側は必ずしもアメリカを防衛することは必要では無い状態になっている。これは日本側の憲法解釈(政府見解)上の制約で、個別的自衛権の行使日米両国共に可能だが、集団的自衛権の場合は日本は憲法に抵触する恐れがあるという政策を採っている。 

 

・抵触するかどうかについては議論が続いており、結論は出ていない。この事実を日本の二重保険外交と解釈し、日本はアメリカに対する防衛責務を負っていないのに、アメリカから防衛されている状態ではアメリカの潜在的敵国と軍事的協調をとれる余地を残している、との批判が米議会にあったことも事実である。また、アメリカ側は日本に対して集団的自衛権を行使出来ると明言しており、費用面からも、軍事的負担がアメリカ側に多いと、日米安全保障条約はアメリカで時として非難される。 

 

・だが実際のところ、日米安全保障条約の信頼を失墜させるほどの行為は日米両国共にとっていないので、こう言った批判は、やはり米国でも少数派に留まっている。 

 

11.7)米軍が日本に駐留し続ける事の意義  

・2008年(平成20年)2月13日、ホワイトハウス報道官デイナ・ペリーノ「米国はどこに居ようとどこに基地を持とうと、それはそれらの国々から招かれてのことだ。世界のどの米軍基地でも撤去を求められているとは承知していない。もし求められれば恐らく我々は撤退するだろう」と述べた(ダナ・ペリノ発言、「恒久的基地は世界のどこにもない」AFP通信電)。 

 

・ただし、世界的には、米軍自身が戦略的に必要と考える地域で現地の国民が駐屯に反対した場合には、駐留と引き換えの経済協力を提案し、あるいはパナマ侵攻・グレナダ侵攻や死の部隊の活動などに見られるように、反対勢力には経済制裁や対外工作機関(中央情報局など)による非公然活動(スキャンダル暴露や暗殺など)、場合によっては軍事介入などのさまざまな妨害をちらつかせ、「アメとムチ」を使って駐留を維持するとされるという説もある。 

 

・またディック・チェイニーは国防長官当時の1992年(平成4年)、議会で「米軍が日本にいるのは、日本を防衛するためではない。米軍が必要とあらば、常に出動できる前方基地として使用できるようにするため。加えて日本は駐留経費の75%を負担してくれる」とまで発言している(思いやり予算) 

 

・日本が米軍の駐留費用を負担する意味があるかとの疑問が日本共産党などから出されている。他国では米軍が全て駐留費用を負担し、かつ米軍に制限がかけられている例も数多く存在する (アイスランドなどは逆に駐留費の全額負担を持ちかけた末に拒否され米軍は撤退している)。カタールにおいては米軍はカタール政府の同意がないとカタール国内の米軍基地から物資を持ち出せない。

 

11.8)米国の核の傘を否定する発言 

〇否定的見解 

・米国の核の傘に対する否定的見解が、個人的見解として米国の政治家、学者等から出ている。

 

ヘンリー・キッシンジャー「同盟国に対する核の傘を保証するため自殺行為をするわけはない」と語っている。中央情報局長官を務めた元海軍大将スタンスフィールド・ターナー「もしロシアが日本に核ミサイルを撃ち込んでも、アメリカがロシアに対して核攻撃をかけるはずがない」と断言している。元国務次官補カール・フォード「自主的な核抑止力を持たない日本は、もし有事の際、米軍と共に行動していてもニュークリア・ブラックメール(核による脅迫)をかけられた途端、降伏または大幅な譲歩の末停戦に応じなければならない」と述べた。 

 

・その他、以下の米国の要人が、米国の核の傘を否定する発言をしている。 

 サミュエル・P・ハンティントン(ハーバード大学比較政治学教授)/マーク・カーク(連邦下院軍事委メンバー)/ケネス・ウォルツ(国際政治学者、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)/エニ・ファレオマバエガ(下院外交委・アジア太平洋小委員会委員) 

 

・上記のように、米国中枢の人間が個人的立場で他国のために核報復は無いと明言しているが、その場合日本にとって核の傘の意味が低下する。

 

・ しかしこれらの発言は、全て現職の閣僚・高官時の発言ではなく、要職を退いてからの個人的発言であり、アメリカ政府としては、1965年(昭和40年)にある日米共同声明8項 

「8.大統領と総理大臣は,日本の安全の確保につきいささかの不安もなからしめることが、アジアの安定と平和の確保に不可欠であるとの確信を新たにした。このような見地から、総理大臣は,日米相互協力及び安全保障条約体制を今後とも堅持することが日本の基本的政策である旨述べ、これに対して、大統領は、米国が外部からのいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛するという同条約に基づく誓約を遵守する決意であることを再確認した。」

 とあるようにいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛する誓約を遵守する決意を表明しており、1966年(昭和41年)の外務省による「日米安保条約の問題点について(外務省)でも米国の核抑止力について、安保条約第五条は、日本が武力攻撃をうけた場合は、日米両国が共通の危険に対処するよう行動することを定めている。 

 

・ここにいう「武力攻撃」は,核攻撃を含むあらゆる種類の武力攻撃を意味する。このことは,佐藤・ジョンソン共同声明が,米国が外部からの「いかなる武力攻撃」に対しても「日本を防衛するという,安保条約に基づく誓約を遵守する決意であると,述べていることによっても確認されている。」とあるように米国政府としてはいかなる武力攻撃に対しても日本を防衛する方針である。

 

・このことは、2004年(平成16年)の日本プレス・クラブでの記者会見で、当時国務副長官であるリチャード・アーミテージ「条約は、日本あるいは日本の施政権下にある領土に対するいかなる攻撃も、米国に対する攻撃とみなされることを定めている」と発言したことからも明らかである。 

 

・また、核の傘の存在を肯定する意見として、ジョセフ・ナイ(ハーバード大学教授、元国務省国務次官補)ポール・ジアラ(国防総省日本部長)ジェームス・シュレジンジャー(元国防長官)キャスパー・ワインバーガー(元国防長官)らの意見が代表例である。

 

日本側の「核の傘」に対する疑問 

・西村眞悟衆議院議員は第155回国会内閣委員会第2号(平成14年10月30日)において、「アメリカは主要都市に核ミサイルが落ちる危険性を覚悟して日本に核の傘を開くのか」と疑念を述べた。

 

・また欧州へ向けられたロシアの核についてのアメリカの「シアター・ミサイル・ディフェンス」という発言を捉え、アメリカ自身が核ミサイルの射程外の場合関係ないというアメリカの意識がにじみ出ていると主張した。

 

 11.9)日本国内の認識 

〔沖縄県〕 

・沖縄県の在日米軍基地が日本の国土面積に占める割合は1割以下だが、在日米軍基地面積の7割以上(ただし自衛隊との共用地を除いた米軍専用地の割合)が沖縄県に集中している事で、本土(沖縄県を除く他の46都道府県全体)と比べて不公平だとする意見や、在日米軍基地の必要性についても疑問視する意見が、沖縄県には多数ある。また、在日米軍基地近隣の騒音問題がある。 

 

・2010年(平成22年)5月に、毎日新聞と琉球新報が沖縄県民を対象に行ったアンケートによると、同条約を「平和友好条約に改めるべき」が55%、「破棄すべき」が14%、「維持すべき」は7%だった。 

 

〔識者〕 

・時事通信社解説委員の田崎史郎は、2017年2月10日に行われた日米首脳会談のニュースに触れ、中国が領有権を主張する尖閣諸島を巡っては、安倍晋三首相が首脳会談後の記者会見で、日米安保条約5条の適用対象であると首脳間で確認したと説明。 

 

・トランプ氏が会談でどのように発言したかは不明だが、共同声明に「日米安保条約第5条が尖閣諸島に適用される」と明記したことに対して、日本の防衛において日米安保は無くてはならない条約。日米関係に隙間を空けてはならないと答えた。 

 

・評論家の大井篤は1960年(昭和35年)の条約改定にあたり、日米安全保障条約のもつ抑止効果を積極的に追求するべきであると結論付けた。 

 

・元外務省局長の孫崎享は、日米安保は日本の利益を守るためにあるのではなく、存在意義はまったくないと述べている。また孫崎は、集団的自衛権について米国が日本を戦闘に巻き込むのが狙いと述べている。

 

〔世論調査 〕

・内閣府が2010年(平成22年)1月におこなった世論調査では、同条約が日本の平和と安全に「役立っている」との回答が76.4%「役立っていない」との回答が16.2%となった。また「日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきだと思うか」との問いには「現状どおり日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」との回答が77.3%、「日米安全保障条約をやめて、自衛隊だけで日本の安全を守る」が9.9%、「日米安全保障条約をやめて、自衛隊も縮小または廃止する」が4.2%となった。 

 

11.10)集団的自衛権との関係 

・従来の日本国憲法第9条解釈と日米安全保障条約では、安保条約第5条で米国に日本防衛で米兵を出してもらう借りで、第6条で日本国内に米軍基地の土地で返す事を1960年の安保条約改定時には、「人(米軍)と物(日本)とのバーター」と言われ、安保条約は、5条と6条によって対等な関係とされた。 

 

・米軍が日本を守るのに、日本の自衛隊は米軍を守れないから集団的自衛権を行使する第2次安倍内閣の憲法新解釈を、民主党の江崎孝参議院議員は2014年6月の参議院決算委員会で「集団的自衛権を容認するなら (従来と比べて日本側にとっては) 在日米軍の分だけ負担が重くなる」と基地提供を認める安保条約6条の削除を迫ったが、安倍晋三首相は「条約を変える考えは毛頭ない。」と応えた。  

 

12)日米地位協定(正式名称:日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定) 

12.1)概要 

・1960年(昭和35年)1月19日に、新・日米安保条約第6条に基づき日本とアメリカ合衆国との間で締結された地位協定(日本での法令区分としては条約) 略称は日米地位協定( U.S. - Japan Status of Forces Agreement, SOFA)、主に在日米軍の日米間での取り扱いなどを定める。 

 

・1952年(昭和27年)2月28日に、旧・日米安全保障条約3条に基づいて締結された、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定( Administrative Agreement under Article III of the Security Treaty Between the United States and Japan)、略称日米行政協定( U.S.-Japan Administrative Agreement)を承継する。日米地位協定をどう運用するかを協議する実務者会議は、月2回日米合同委員会で行っている。 

 

12.2)経緯 

・1951年(昭和26年) - 日本国との平和条約、同条約第6条a項により占領軍のうちアメリカ軍部隊にのみ引き続き駐留を許す日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧安保)締結 

 

・1952年(昭和27年 - 2月28日、旧安保に基づく具体的取り決めとして日米行政協定に調印。 

 

・1952年(昭和27年 7月26日、日米行政協定による米軍駐留に提供する施設区域協定調印。 

 

・1953年(昭和28年) - 9月29日、日米行政協定改定調印、北大西洋条約行政協定に準じて米軍人・軍属の公務外の犯罪を日本側裁判権にきりかえ。 

 

・1960年(昭和35年) - 1月19日、日米相互協力および安全保障条約(新安保条約)、施設・区域・米軍の地位に関する協定(行政協定に代わる新協定)、事前協議に関する交換公文など、ワシントンで調印。日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新安保)締結に伴い、日米行政協定を日米地位協定として改正。正式に条約とする。 

 

12.3)在日米軍基地配置図(令和元年度末現在) 

 

 (引用:防衛白書令和2年度版)

 

 (引用:防衛白書令和2年度版) 

 

12.4)日米合同委員会 

〇概要 

・日米合同委員会(Japan-US Joint Committee)は、1960年に締結された日米地位協定をどう運用するかを協議する実務者会議である。 

 

・日米地位協定上、正式な協議機関として日米合同委員会が設立されている。主に在日米軍関係のことを協議する機関で、政治家は参加せず省庁から選ばれた日本の官僚と在日米軍のトップがメンバーとして月2回、協議を行う。 

 

〇任務 

・協議は月2回秘密の会合として(ニュー山王ホテルで1回、外務省が設定した場所で1回)行われる。なお、どちらか一方の要請があればいつでも会合できる。個々の施設・区域の提供を含め、実施項目は主として日米合同委員会合意で規定される。詳細は、『「日米合同委員会」の研究』謎の権力構造の正体に迫る(吉田敏浩著、創元社、2016年)に書かれている。 

 

〇組織 

日米合同委員会組織(※)は、日本側代表は外務省北米局長、アメリカ側代表は在日米軍司令部副司令官からなり、日本側代表代理として法務省大臣官房長農林水産省経営局長防衛省地方協力局長外務省北米参事官財務省大臣官房審議官からなり、その下に10省庁の代表から25委員会が作られている。アメリカ側は代表代理として駐日アメリカ合衆国大使館公使在日米軍司令部第五部長在日米陸軍司令部参謀長在日米空軍司令部副司令官在日米海兵隊基地司令部参謀長からなる。

 

日米合同委員会組織図 

〇日本側代表:外務省北米局長

●代表代理:法務省大臣官房長/農林水産省経営局長/防衛省地方協力局長/外務省北米局参事官/財務省大臣官房審議官 

 

〇米側代表:在日米軍司令部副司令官 

●代表代理:在日米大使館公使/在日米軍司令部第五部長/在日米陸軍司令部参謀長/在日米空軍司令部副司令官/在日米海軍司令部参謀長/在日米海兵隊基地司令部参謀長 

 

〇分科会(抜粋):気象分科委員会/刑事裁判管轄権分科委員会/施設分科委員会/周波数分科委員会/出入国分科委員会/民間航空分科委員会/刑事裁判手続に関する特別専門家委員会

 

 12.5)協定の内容 

〇条文 

 この法律の第17条により、「合衆国の軍法に服するすべての者に対して(第17条1-a)、また米軍基地内において(第17条1-b反対解釈)、合衆国の法令のすべての刑事及び懲戒の裁判権を日本国において行使する権利を有する。」とされ、合衆国軍隊が第一次的裁判権を持つ。 

 

・「統一軍事裁判法」に服する者には、日本で罪にならない犯罪でも同法で犯罪となるなら、米軍が専属的裁判権を行使する権利を有する(第17条2-b。日本国法令ではなく合衆国法令やアメリカ軍軍法その他が適用される) 

 

・また裁判権が競合する場合でも、公務執行中の作為又は不作為から生ずる場合は、合衆国軍隊の構成員又は軍属に対して米軍が第一次的裁判権を有する(第17条3-a)とされる。 

 

〇不平等性の主張 

・協定の改定を求める日本の人々は、日米地位協定が不平等であると主張している。同じ第二次世界大戦敗戦国のイタリア共和国、ドイツ連邦共和国が冷戦後に大使館の土地以外の管理権があるのに対して日米地位協定は1960年以来、運用改善のみで一言一句改定されていない。 

 

・全国知事会は、2018年夏、米軍が管制する広大な横田空域の返還が進まない問題が山積されており抜本見直しを提言した。地方議会でも同趣旨の意見書可決が相次ぐ。 

 

・外務省の日米地位協定合意議事録は2000年代初頭まで公表されず、2019年現在も一般国民の目に届いていない議事録の運用こそが米軍基地をめぐる問題の根底にある。 

 

〇裁判権 

・「在日米軍裁判権放棄密約事件」も参照 

 

・第17条5(C)により、日本で裁判を受けるべき被疑者であっても、アメリカが先にその身柄を拘束した場合は、身柄が引き渡されるのは、検察庁により起訴がなされた後である。このため、起訴までの間に充分な捜査ができない。更には重罪にも拘らず、身内の行為として不当に寛大な処分がされる恐れさえある。詳細は「軍法会議#軍法会議の問題点」を参照 

 

・1956年3月28日の日米合同委員会では、職場で飲酒した後の帰宅途中に事件事故を起こしても「公務中」とみなす取り決めが、同年10月28日の委員会裁判権分科委員会刑事部会会合では、第一次裁判権さえ放棄し『実質的に重要であると認める事件についてのみ権利行使』とする密約が結ばれていた事が後年に判明している。 

 

・これが如実に現れたのが、1974年の「伊江島住民狙撃事件」である。当初、在沖米軍は容疑者の“公務外”を認め、日本に一次裁判権を譲ったが、直後にアメリカ合衆国国務省・アメリカ国防総省の強い反発と突き上げを受け、事件の概要を改変してまで急遽公務証明を発給し、日本外務省の抗議の中、一次裁判権を強引に移管させた。 

 

・国務長官緊急電の『国務省・国防総省共同メッセージ』はその理由を「米国内の事情」と「もし裁判権を行使し損なったら、その影響は米国が他の国々と結んでいる一連の地位協定にまで及び、……米軍要員の士気にも及ぶ」ためであるとしている。 

 

・1975年在日米軍牧港補給基地で環境基準の8000倍の六価クロム検出、在日米軍は1年間使用されず、廃棄される予定と使用を認めず。労働基準局長、立入調査の段階で、すでに建物は閉鎖状態で納品サンプルを採取できず実態がつかめず、労働者の健診は行われたが、六価クロムとの因果関係は認められず。 

 

・1995年には、アメリカ海兵隊の兵士3名が12歳の女子小学生を拉致した上、集団強姦した。裁判自体は日本管轄で行われたものの、実行犯である3人が日本側に引き渡されなかったことが大きな問題になった(沖縄米兵少女暴行事件) 

 

・2002年4月には横須賀で在日オーストラリア人女性が、空母「キティホーク」乗組員に強姦され、しかも容疑者は事件発覚前に海軍当局によって名誉除隊させられアメリカ本土に逃亡する事件が、6月には沖縄で、窃盗容疑で逮捕された整備兵が「急使」(米軍のクーリエ)の身分証明書を保持していたため、釈放され任意調べに切り替えられた事件が起きている。 

 

・2004年8月、沖国大米軍ヘリ墜落事件が発生した際には、アメリカ軍が一時的に現場を封鎖していた。沖縄県警察は航空危険行為等処罰法違反で、公訴時効いっぱいの3年間にわたり捜査を行なったが、協定の壁に阻まれ全容解明は出来なかった。『米軍機事故の現場は協定により全てアメリカ軍管轄地』の拡大解釈がされている疑いがある。 

 

・2008年4月には、沖縄県北谷町で、海兵隊憲兵隊が、万引きで店員に現行犯逮捕された海兵隊員の家族少年を、110番通報で駆けつけた沖縄警察署員の引き渡し要求を無視して、身柄を拘束し基地内に連行(憲兵隊は「容疑者が暴れる恐れがあったため」と弁解している)、その後解放し任意調べにするという事態が起きた。沖縄署は「優先権侵害であり捜査妨害」と表明している。 

 

・2013年、AP通信が情報開示を求めた結果、2005年からの性犯罪処分者中、詳細が判明した244人の3分の2は、自由刑を受けず降格や不名誉除隊、罰金などの人事処分のみだったことが判明。国防総省は軍法会議にかけるよう努力していると説明しているが、ほとんど守られていない事実が明らかになった。 

 

〇将兵の地位 

・第9条第2項により、将兵・軍属は住民登録の義務がない(「合衆国軍隊の構成員は……外国人の登録及び管理に関する日本国の法令の適用から除外される」) 

 

・日本への出入国に際してはパトリオット・エクスプレス(軍用飛行場のみを経由するアメリカ空軍チャーター便)軍港を通じて入境すれば、出入国管理及び難民認定法・出入国管理の対象外(パスポート不要。軍人IDカードさえあればよい。犯罪歴があっても入国出来る)で、また営外居住の場合は誰がどこに住んでいるのか把握出来ない。その総人数は“日本の外国人”の統計から除外せざるを得ず、法的に日本国内に存在しない扱いとなる。 

 

・軍車両は「軍務」として証明を取れれば、有料道路通行料は日本政府負担となる。この「軍用車両有料道路通行証明書」が際限なく発行され、私用のレンタカー、果ては団体観光旅行「ヨコタツアー」にまで使用されている。 

 

・自動車の取得に当たっては、日本人・在日外国人を問わず車庫証明の提出が義務付けられているが、沖縄では基地外在住であるにも拘らず将兵・軍属が「保管場所は基地内」と強弁し、証明を提出せず自動車保管場所確保の義務を免れている疑いが2008年5月に浮上。 

 

・また“米軍関係者の拘禁に当たっては習慣等の相違に考慮を払う”と定めた「地位協定に基づく日米合意」により、一般人には当時は全面的に認められていない「取調べの可視化」、弁護人の同席が保障されている他、横須賀刑務所に収監されている米兵服役者は、食事などで日本人服役者に比べて厚遇されている事が2002年に判明した。拘留中の厚遇は、他の外国人では殆ど例がない。 

 

〇その他 

・AFN他、米軍無線局には電波法は適用されない。日米両政府の当局間の取極によることになっている。 

 

航空特例法(日米地位協定の実施に伴う航空法の特例に関する法律)により、米軍機は自衛隊機と異なり、通常時でも航空法の最低安全高度規制(第81条)、及び迷惑な飛行の規制(第85条)に縛られずに飛行する事が可能である。 

 

・また自衛隊機(自衛隊法第107条規定)と同様に耐空証明を受ける義務がない。 

 

・基地内日本人職員の地位には時間外労働に関する三六協定安全委員会就業規則などに関する6つの労働基準法関連規定が適用されていない。これらはいずれも地位協定に基づく協議と合意の対象としている。 

 

12.6)地位協定に関する国会質疑 

〇関連文書:機密文書「地位協定の考え方」 

・琉球新報(2004年7月~8月)(掲載日:2004.10.18)初出:独立系メディア「今日のコラム」

 

(引用:RakutenHP) 

 

・本紙(琉球新報)が入手した外務省機密文書「地位協定の考え方」を特集で全文公開する。 

・長く県民を苦しめる政府の基地行政の実態地位協定の本質を知る資料として広く活用され、改定に向けた論議の一助となることを期待したい。 

 

・同文書は表紙に「秘 無期限」の指定印がある。沖縄が本土復帰した翌年の一九七三年四月に作成され、以後、基地行政に携わる外務官僚ら「虎の巻」「バイブル」として、策定後三十年を経てなお活用されている。 外務省が存在すら否定する資料の中に、基地を抱える沖縄住民の苦悩の源流を随所に読み込むことができる。 

 

・政府や外務官僚らの苦悩ぶり、地位協定の条文規定を超える米国優位の基地運用、そのための条文の拡大解釈運用の“妙技”も読める。「沖縄」もふんだんに登場し、在沖米軍基地の運用実態も垣間見ることもできる。 

 

・残念ながら一部ページの欠落、判読不明個所もあり、完全な形ではない。また機密文書の存在も同文書は示しているが、本紙もすべては入手できていない。だが、沖縄県も外務省に開示を要請しており、基地問題の抜本解決に向け、いっそうの情報開示が進むことを期待したい。(地位協定取材班)

 

質問本文情報(平成16年1月20日提出 質問第1号 提出者 照屋寛徳)「秘 無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する政府文書の存在と公開に関する質問主意書  

 日米地位協定の全面改正を求める声は、今や沖縄県民の総意である。日米地位協定の全面改正要求は、沖縄県だけでなく米軍基地が所在する都道府県、各政党、労働界、経済団体、法曹界などに広がり、大きな国民世論に高まった感がある。 

 

 ところが、政府は、かかる日米地位協定全面改正要求に対し、「運用の改善」で足りるとの姿勢を一貫している。「運用の改善」では不十分で限界があり、全面改正すべしとの切実な要求を無視するかの如き政府の態度はとても承服できない。 

 

 日米地位協定は、余りにも多くの特権・免除を在日米軍とその軍人・軍属に与えている。私は、かねてより主権・人権・環境の視点で全面的に改正すべき、と主張してきた。 

 

 ところで、琉球新報社は日米地位協定に関する政府の基本解釈となる機密文書「日米地位協定の考え方」を入手したと報じている。(平成16年1月1日、琉球新報) 同文書(B5版、132ページ)は、1973年4月に外務省条約局アメリカ局が作成したもので、日米地位協定の逐条解説書とも言うべき文書である。ところが、政府はこれまで「日米地位協定の考え方」なる文書の存在を否定し、その公開を拒んできた。 

 

 琉球新報は、平成16年1月13日の紙面で入手した「日米地位協定の考え方」全文を掲載した。掲載された全文を読むと政府が条文の本旨を拡大解釈し、米軍に対する過剰な譲歩をなし、結果的に県民への犠牲と負担を大きくしていることが明らかである。 

 

 日米地位協定についての政府の逐条解説とも言うべき文書が作成後三十年余も秘密扱いにされるのは理由がない。今や、日米関係は主従関係ではなく対等平等であるべきだ。「日米地位協定の考え方」を公に開示することが日米間の改正交渉にも必要不可欠であり、公開は政府が国民に果たすべき説明責任と考える。政府は、一刻も早く同文書の存在を認め、全文を公表すべきである。 以下、政府の見解をただすために質問する。 

 

一 政府は、琉球新報が平成十六年一月十三日付朝刊紙面で、琉球新報社が入手した「秘 無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する文書を全文掲載公表したことを知っているか。 

 

二 よもや、政府は琉球新報が全文掲載した「日米地位協定の考え方」の中身について、「知らない」「初めて知った」「政府は作成に関与していない」等と言い逃れたり、「偽造文書だ」と弁解することはないと信ずるが、掲載公表された「日米地位協定の考え方」の中身(内容)について政府の弁明があらばお示し願いたい。 

 

三 政府は、一九七三年四月、外務省条約局とアメリカ局が作成した「日米地位協定の考え方」と題する文書の存在を認めるか。もし、文書の存在を認めないのであればその理由を明らかにされたい。 

 

四 「日米地位協定の考え方」と題する文書の存在を認めるのであれば、同文書を全文公表する考えはあるかどうか明らかにされたい。 

 

五 政府は、琉球新報が平成十六年一月十三日付朝刊紙面で全文掲載した「日米地位協定の考え方」に基づいて、日米地位協定の解釈運用をなしてきた事実を認めるか。認めないのであればその理由を付して明らかにされたい。 

 

六 琉球新報平成十六年一月十三日付朝刊紙面によると、外務省元幹部の証言として、「一九八〇年代に『日米地位協定の考え方』増補版が作成された」と述べているが、かかる増補版の存在を認めるかどうか明らかにされたい。 

 

七 「日米地位協定の考え方」と題する文書以外に日米地位協定に関する「擬問擬答集」「地位協定逐条説明」「条・条ペーパー」と題する文書が存在するかどうか明らかにされたい。尚、これらの文書の存在を認めるのであれば、これらの文書全文を公表する考えはあるかどうか明らかにされたい。 右質問する。 

 

答弁本文情報(平成成16年1月30日受領 答弁第1号 内閣衆質159第1号) 衆議院議員照屋寛徳君提出「秘 無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する政府文書の存在と公開に関する質問に対する答弁書 

 

一について:平成十六年一月十三日付けの琉球新報の朝刊紙面で、琉球新報社が「秘 無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する文書を掲載したことは、承知している。 

 

二について:琉球新報に掲載された「日米地位協定の考え方」と題する文書を保有しておらず、同紙に掲載された文書が政府の文書かどうかについて確認できない。 

 

三及び四について:お尋ねの昭和四十八年四月に外務省条約局とアメリカ局が作成したとされる「日米地位協定の考え方」と題する文書は、保有していない。政府以外の者がその文書を保有しているかどうか確認できないため、その文書が存在しているかどうかお答えすることは困難である。 

 

五について:琉球新報に掲載された「日米地位協定の考え方」と題する文書を保有しておらず、同紙に掲載された文書が政府の文書かどうかについて確認できない。いずれにせよ、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(昭和三十五年条約第七号)については、これまで個々の事案に応じて適切に解釈運用を行ってきている。 

 

六について:平成十六年一月十三日付けの琉球新報の朝刊紙面で、外務省元幹部が述べたとされている、千九百八十年代に作成された「日米地位協定の考え方」増補版に該当すると思われる文書は保有している。 

七について:お尋ねの内容からは、日米地位協定に関する「擬問擬答集」、「地位協定逐条説明」及び「条・条ペーパー」が何を指すのか必ずしも明らかでないので、お答えすることは困難である。 

 

13)国際連合への加盟 

・主権回復した日本は、国際連合に加盟する為、ソ連との国交回復を昭和31年11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国際連合に加盟国際社会へ復帰した。 

 

・その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、1970年代には主要先進国の一つとなった。 

 

・同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、また講和会議は行われていない。

(追記:2020.10.19/追記2020.11.26)


4.3 憲法改正


(1)憲法改正の論点 (2)憲法改正論議の経緯 (3)憲法改正論の概要


(1)憲法改正の論点


 (引用:Wikipedia)

1)憲法改正をめぐる主要な論点 

〔主要な論点〕 

・日本での憲法改正をめぐる論点はいくつかある。 

①戦後間もなくから、天皇の地位を憲法上明確に元首と定めることや、憲法上規定される人権必要に応じて法令で制限できるようにすべき(「公共の福祉」における外在的制約説採用論)といった声があった(復古的改憲論) 

 

憲法12条改正に関わる論議:上記自民党復古的改憲論者は国民の人権を保護する憲法12条を改正し政府が警察力によって国民の人権を制限したり、私有権を制限する道を開こうとしていた。 

 

③国民投票法自民党当初案では個別投票方式ではなく、一括投票方式で様々な条文を一度に改正が可能な制度になっていた。連立相手の公明党まで反対したので一括投票方式には固執しなくなったが、現在の国民投票法でも一括投票方式も可能な条文となっている。 

 

④日本国憲法第9条・自衛隊の議論(及びこれに伴う軍事裁判所・憲法裁判所の設置)も、数十年間、憲法改正の主な論点であった。 

 

⑤憲法制定当時からの時代が進むにつれて新しいタイプの人権が意識され、裁判所においても一定の新しい人権を解釈にて認めるようになってきた。

 

⑥自民党が衆議院を与党多数で押さえている結党50周年のタイミングで新憲法草案を発表すると、時代が変わってきたので以下のような点で新しい憲法が必要であるという改憲派と、改憲は不要あるいは危険とする護憲派の間で、熾烈な論争になってきている。 

*産業の発達などで生じた問題に対処するための「環境権」「プライバシー権」など新しい基本的人権の追加

 

〔具体的な論点〕

*民意をより国政に反映するための首相公選制あるいは大統領制の導入

 

*中央官庁主導の行政を改善するための道州制の導入

 

*衆議院・参議院を並立させている両院制の見直し(参議院の廃止、一院制への移行)

 

私学助成金が違憲となっている状態の解消(ただし、判例によると現状の私学助成は合憲だとされる)

 

法改正手続きの基準緩和

 

*その他、今の憲法前文には、日本の歴史・伝統・文化の記述が無いので、歴史・文化・伝統を憲法に明記すべきという意見もある。また、国会が行政を監視する機能を作るないしは強化すべきという意見もある。 

 

・以下に主な論点の内容を概説する。 

 

2)天皇の地位 

・象徴天皇制のあり方について議論がある。第2次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見が一定数存在していたこともあった。 

 

・しかし、平成16年の時点で日本共産党が綱領を改正。元首・統治者ということを認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきであるという趣旨に改めており、また憲法(特に第9条や生存権関連規定)改正に反対する立場を堅持していることから、かつてのような強硬な天皇制廃止論は影をひそめているのが現状である。 

 

・また、各種の世論調査では、象徴天皇制の現状維持を主張する意見が大多数となっている。現在のところ、象徴天皇制は日本国民の大多数に支持されている制度であると言って差し支えないと思われる。 

 

・ただし、護憲派の中には、天皇制廃止論者もいる(つまりその限りでは改憲派である。厳密には護憲派ではないともされる)。そのため、天皇条項を含めた(あるいは天皇条項に関心のない)護憲派と対立する場面も見られる。 

 

・また、日本を立憲君主制とみなす立場からは、天皇を名実ともに国家の元首と明記するべきだという意見もある。関連して、外国大公使の親授式や国会開会の「おことば」など天皇の国事行為と準国事行為とされている行為についても整理して明記すべきとする意見もある。

 

3)日本国憲法第9条、自衛隊 

3.1)第9条と自衛隊を巡る論議 

・憲法9条では、戦争放棄と戦力の不保持を規定しているが、一方でGHQの意向で再建された軍事力である自衛隊が存在している。昭和20年から昭和27年の間の日本占領の期間内で昭和22年頃から、米国の対日政策が初期の「武装解除・再武装阻止」・「民主化の促進」に重点を置いた方針から、「経済復興」・「限定的再軍備」の方針に変換した事は “ 逆コース ” と呼ばれ、指摘されている。 

 

・その変換は、「反共主義・封じ込め」を唱えたジョージ・ケナンらによる立案とされ、昭和22年頃からの国共内戦の激化なども、その原因とされる。 

 

・自民党、民主党および保守的論客は、現在の憲法9条と自衛隊の存在の間の矛盾を解決するために、戦争放棄を定めた第9条第1項の平和主義の理念は守りながら、第9条第2項を改正して戦力の保持(”自衛隊”から自衛“軍”すなわち国防軍へ)を認めるべきと主張してきた。 

 

・なお、政府見解によれば、国家は、急迫不正の侵害から自国を守る権利を有し、かかるいわゆる「個別的自衛権」は、その性質上憲法9条によっても放棄されない。そのために必要最小限の実力を持つことは可能であり、その実力組織に該当するのが、自衛隊である。場合によっては、防衛用核兵器もこの実力に該当する可能性はある、といった説明がされている。 

 

護憲派は、条文をそのままに自衛隊の行動を控えさせるという立場もあれば、自衛隊を廃止して非武装中立の立場をとるべきだとする意見もある。しかし自衛隊を廃止すると国の防衛が一切不可能になってしまうことや、災害時の復旧活動も自衛隊なしでは困難なため、護憲派を含め、この自衛隊を廃止する見解には反対する意見が多数を占める。 

 

・また、「自衛隊が憲法上明記されていないことは、自衛隊は合憲なのか違憲なのか曖昧な状況が続いているので問題である」とする意見も多く、自衛隊を軍隊と明記することが検討されている。 

 

・さらには防衛省が戦前の陸軍のように暴走するのを抑えるため、文民統制を改憲によって強化することも検討されている(現在、日本国憲法第66条第2項に文民条項がある) 

 

・自由民主党のうち昭和30年の合併前の旧民主党に近い勢力は自衛隊を法理論的にも合法なものにするために、第9条に対する改憲論議を行ってきた。 しかし、旧自由党に近い勢力は現状維持を求め、改憲には反対であった。

 

3.2)国際情勢と憲法改正論議 

・1990年、イラクがクウェートに侵攻・占領。これに対し国際社会は猛反発し、アメリカやフランスなどの多国籍軍が、イラク軍と戦ってクウェートから撤退させた(湾岸戦争)。日本は第9条を理由にして軍事行動には参加せず、巨額の財政援助をした。 しかし国際社会がこれを評価しなかった(もっとも援助の殆どはアメリカに流れていた。典型的対米従属)ことなどから、日本国内では、国際貢献のあり方についての議論がおきた。

 

・左派からは財政援助による貢献を評価されるよう理解を求めるべきとの主張もなされたが、結局具体的な活動による貢献・援助を拡大すべきとする主張が主流となった。その後、PKO協力法が制定されPKO活動が始まった。自衛隊の海外でのPKO活動は高い評価を受けたが、「憲法違反だ」との主張が根強くあり(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法/適用上の問題点)、そのためPKO活動を完全に合憲とするために憲法を改正すべきという意見が多くある。 

 

・平成14年、小泉純一郎首相の北朝鮮訪問によって、過去に北朝鮮が日本人の拉致を行ってきた事実を認めた事が明らかになると、日本が第9条を掲げていても他国がこれを無視して日本の国民の生命を脅かす行為を防ぐ事は出来ないとする意見が高まり、第9条改正論への追い風となった。 

 

・平成16年の始めには、イラクへ人道支援のために自衛隊を派遣した。イラクが戦闘地域であるため、自衛隊のイラク派遣は憲法上問題がある、それ以前に米国などによるイラク戦争は侵略戦争であるから、それに加わることはできないという意見が出た(国連による武力制裁決議はされていない)

 

・米国が自衛隊を「有志連合」の一員として(つまり通常の軍隊として)扱ったこと、自衛隊が米軍の燃料補給を行ったこと(武器・弾薬については行っていない)も問題視された。 

 

・それ以外にもテロ戦争で流動化した現在の国際情勢においては、テログループなどを対象とした国防・治安維持を想定に入れる必要があり、第二次世界大戦当時の大国の事情で作られた憲法9条はもはや現状にはそぐわない時代遅れの事項とする意見もある。 

 

・このほかには、有事法制との関係で、非常事態における国家緊急権の確立などについての議論がある。 

 

3.3)各党の第9条改正に関する意見 

・平成24年5月時点での各党の第9条改正に関する意見は次の通りである。

賛否

意  見

民主党

不明

「制約された自衛権」の明確化。賛成から反対まで幅広い。

自民党

賛成

改正の上で、集団的自衛権、国防軍の保持を明記。

公明党

反対

改憲の必要なし。

社民党

反対

改憲の必要なし。自衛隊も縮小する。

共産党

反対

憲法を堅持する。

国民新党

賛成

結党以来、自主憲法制定を掲げる。

みんなの党

賛成

自衛権の明確化のために何らかの立法措置が必要。

新党きづな

賛成

軍の保有を明記。

 

4)公益及び公の秩序 

・憲法12条/13条/29条は国民の生命・自由・財産権・幸福追求といった重要な基本的人権の尊重が保証されている条項であり、この条項において示す「公共の福祉」とは、現在の通説(一元的内在制約説)において、人権相互の矛盾衝突を調整するために認められ衡平の原理のこととされている。この条文が新憲法案において「公益及び公の秩序に反しない限り」に差し替えられている事に対する論議。 

 

・自民党憲法調査会の趣旨説明としては戦後導入された「個人主義」が(国民に)理解されず利己主義に変じて家族と共同体の破壊につながっているので、そのように変更したい」という説明である。 

 

・一方、法曹関係者からは自民党草案を(大日本帝国憲法・全体主義国憲法と同じ)『外在制約』型人権条項とみなし、「憲法12条・13条自民党案は(表面的には大して違わないよう見えるものの)、実は時の為政者により「公益」「公の秩序」と判断された基準により(国民の生命・身体や言論の自由等の基本的)人権の制約することを可能とするものである。」、「自民党12条、13条改訂案の(一見小さな)文面置き換えは『これが可決されると、政治家が公益・公秩序名目で勝手に国民の人権を制限する事が可能になり、近代民主政の基盤の立憲制が根底から覆りかねない』内容を含んでいる」という警告がなされている。 

 

・現在の日本国憲法では「公共の福祉に反さぬ限り国民の人権は最大限尊重されねばならない」と定めており、人権制限条件である「公共の福祉」の法解釈に論争があったが、現憲法「公共の福祉に反さぬ限り」とは「他人の人権と衝突しない限り」との意味でとの一元的『内在制約』説が支配的である。 

 

4.1)自民党憲法調査会 論点整理 

・この分野における本プロジェクトチーム内の議論の根底にある考え方は、近代憲法が立脚する「個人主義」が戦後の日本においては(国民に)正確に理解されず、「利己主義」に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまったのではないか、ということへの懸念である。 

 

・国民の生存権等基本的権利が国民の何らかの義務を伴い、国民の身体や言論の基本的自由が国民の何らかの責任を伴うことは自明の理であり、家族・共同体における責務を明確にする方向で、新憲法における規定ぶりを考えていくべきとする視点から立脚している。 

 

4.2)自民党憲法調査会に対する批判、見解 

・自民党の指摘するように、自由民主主義の源流は、政府の権力を制限し、個人の自由を重んじる個人主義である。しかし、国民の民度が低くて利己主義になったという、自民党憲法調査会の評価には、「憲法で人権制限立法を認める危険を軽視している」との指摘(法曹関係者の自民党12条・13条案批判)がある。 

 

・また、そういう意味で自民党の憲法12条、13条改訂案は現自民党案のまま国民投票に掛けられるなら「公益及び公の秩序」を守るという名目で、基本的人権の制限・剥奪が可能となる。日本は基本的人権のない国になるとする論者もいる。 

 

国家的利益全体的利益優先させ、人権を制限しようとするものがある。基本的人権の制約は容易となり、人権制約の合憲性についての司法審査もその機能を著しく低下させることとなる。という見解を日本弁護士連合会は出している。 

 

・2007年5月現在、憲法12条・13条改訂が憲法3原則のうち国民主権・基本的人権尊重の根幹に触れる憲法的に非常に重大な問題と指摘されているにも拘らず、与党の告知や野党の問題提起は必ずしも積極的には行われておらず、主として法曹界からの問題指摘が中心である。

 

・また、自民党が国民投票法を一括投票にして(9条と12・13条等)各条項の抱き合わせ採決を図ったことは日本弁護士連合会他いくつかの団体が批判している。 

 

・なお、自民党憲法草案において「政府が公益・公秩序の維持を名目に国民の人権を勝手に制限できるようにすべき」と明言していた自民党議員はおらず、外在制約型人権条項に解釈される恐れがあることについて議論がなされたのかは明らかになっていない。 

 

5)その他の論点 

5.1)新しい人権の明記と権利の制約 

・日本国憲法において、基本的人権の尊重は三大原則の1つであり、多くの条文が人権の規定に当てられている。自由民主党が新憲法草案で明記した新しい人権は次のとおり。 

 

◇環境権 - 良好な環境を享受する権利(これを要求しているNPOもある)(本草案では、全国民が良好な環境を享受する権利としてではなく、国の環境保全の責務として記載) 

◇プライバシー権 - 個人の私生活などを守ることができる権利(本草案では、個人情報の保護等として簡単に記載) 

◇知る権利 - 国や地方自治体に情報公開を要求できる権利(国政の説明責任として記載) 

◇知的財産権 - 発明者の権利(ただし本草案では濫用を戒める留意点も追記されている) 

◇犯罪被害者の権利 - 犯罪被害者のための権利(全国犯罪被害者の会も要求) 

◇障害者の権利 - 障害者が住みやすい国を創るために必要な権利(本草案では障害の有無に関わらない平等として追記) 

 

・この憲法草案では、人権が追加された一方で、歯止めとして、国民には「自由及び権利には責任及び義務が伴う」ことが追記された。同時に、「公共の福祉」「公益及び公の秩序」などに置き換えられた。 

 

5.2)国民の義務 

・国民の「責任(責務)」として明文改憲すべきであり、納税など従来の義務規定のほかに、新たな人権を明記する一方で権利と衡平する責務規定を設けるべきとの主張がある。また現状のままで良く、詳細は法律によればよいとする立場がある。 

 

・一方で現行憲法の納税の義務を含め、義務規定の憲法上での明記は最小限にすべきとの主張がある。

 

5.3)首相公選制の導入 

・現状は、衆議院において最大勢力を占める多数派が選出した者が内閣総理大臣となる仕組みであるが(連立与党を組んでいる場合には第二党の党首の場合もある)、総選挙の結果とは無関係に決まってしまう場合があることを問題視して首相公選制の導入が主張されることがある。 

 

5.4)両院制 

・両議院の構成と役割を大きく異なるものにするか、参議院の権限縮小・廃止により一院制を採用するか、など議院の扱いをめぐる議論がある。 

 

5.5)国会における少数派の権利 

・国会の臨時会の召集について、日本国憲法第53条後段では「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とされているが、その召集時期については言及がない。

 

・従って、現行憲法の規定によれば、内閣は、例えば、次の常会召集の直前まで臨時会召集時期を遅らせることにより、少数派による召集要請を有名無実化させることができる。 

 

・これは現行規定の瑕疵であり、是正される必要がある。 

 

5.6)軍事裁判所・憲法裁判所の新設 

軍事裁判所(軍法会議)は終戦まで、敵前逃亡脱走など軍法違反行為を行った兵士を裁く特別裁判所として存在した。最前線の戦場では、裁判官なしのまま、上官による即決裁判で判決、銃殺刑の執行までが行われた時期もあった。 

 

・日本国憲法第76条第2項では「特別裁判所は、これを設置することができない」として禁止された。よって、自衛隊の職種にも軍法会議・軍事裁判を担当し検事・弁護士・判事相当の将校が所属する「法務科」は存在しない。 

 

内閣法制局憲法解釈を握られている状況を変えるため、最高裁判所と別に「憲法の番人」としての独立機関である「憲法裁判所」の設置が提案されている。

 

5.7)公金による私学助成 

・現行の私学助成制度は、日本国憲法第89条に定める「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。—日本国憲法第89条」に違反するので改憲するのならこれも直すべきといわれている。


(2)憲法改正論議の経緯


 (引用:Wikipedia)

1)憲法改正論議の経緯 

・「日本国憲法は、太平洋戦争敗北後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって作られ、押しつけられた憲法である。 

 

・日本政府はGHQの憲法改正案を拒否すると天皇の地位が危うくなる(=国体護持の)ため、GHQの憲法改正案をやむをえず受け入れたものである」とする押し付け憲法論や「日本国民自らが定める憲法」にするために憲法を改正して自主憲法を制定すべき、とする自主憲法論が保守派の人々によって強く主張された。 

 

・GHQによる憲法改正草案要綱をマッカーサーが承認した際、この問題にいち早く着目したのは米国のマスコミであり、1946年3月8日付けクリスチャン・サイエンス・モニター「これは日本の憲法ではない。・・・日本に対するアメリカの憲法である」、3月7日付けデンバー・ポストは「表面に現れた形式に関するかぎり、マッカーサー元帥は日本の民主主義を作りつつある。」とし、3月8日付けポートランド・オレゴンのように憲法はアメリカ軍の占領期間中しか寿命を持たないだろうと予言したものもあった。 

 

・極東委員会のメンバーたちも総じて、提案され、検討されている草案は基本的に連合国最高司令官とその司令部の作品であって、日本人の作品ではないと信じていた。

 

・押しつけ憲法を改正して自主憲法を制定し、日本を「真の独立国」とするために、三木武吉は保守合同をしてどうにか改憲派の国会の勢力を憲法改正が発議できる3分の2以上の議席にして自主憲法の制定を実現させようとした。 

 

・そして三木武吉鳩山一郎らの努力によって1955年11月15日、日本自由党と日本民主党が合同し自由民主党(自民党)が結党した。これが保守合同である。自民党初代総裁には鳩山一郎首相(当時)が選ばれた。 

 

・自民党は、党是の第一条憲法改正して自主憲法制定を目指すことを明確に明記した。 

 

鳩山一郎は、「この1600億円の大金を使っている、警察予備隊は、あれは一体、巡査(警察)なんですか?兵隊(軍隊)なんですか? それは、軍隊でありますから、私は憲法改正が必要であると思います。」と発言し、憲法改正が必要であるという考えを明確に示し、憲法改正を実現させる決意を示した。 

 

・そして鳩山内閣と自民党は保守勢力を増やすために公職選挙法を改正して小選挙区制度を導入しようとしたが(ハトマンダー)、これには野党だけでなく自民党内からも懸念の声が噴出し、小選挙区を導入することはできなかった。 

 

・また、鳩山内閣は改憲を実現するために内閣憲法調査会設置法を国会で成立させた。

 

・なお、当時の自民党有力者は「自主」憲法の制定を主張する一方で、「押し付け」た後で対日政策を転換(逆コース)させたアメリカ合衆国政府から資金援助(「共産主義の影響を排除する為の、プロパガンダ的秘密支援計画」の一環として)を受けていたことが、米国の外交資料により明かになっている。 しかし、自民党は改憲が発議できる3分の2以上の国会における議席を確保するには至らなかった。

 

・その後も自民党は1965年までに憲法調査会(第一次)を設置するなど憲法改正について積極的な動きを見せていたが、国民の間には憲法9条を改正しようとする動きに対しての反発があり、社会党など改憲反対派強固な反対もあり、自民党は長期にわたって政権を維持するものの悲願である憲法改正を実現させることはできなかった。 戦後の世論の動向が憲法改正に積極的で無かった事から、自民党も当面の目標として改憲を掲げなくなった時期があった。

 

・世論動向から改憲を掲げる事が政党にとって必ずしも有利にはならないといった判断から、政治の場で改憲を語る事への自粛が求められ、大臣など政府の公職に就いている人物が改憲を積極的に主張し難い状況が続き、憲法議論そのものまでがタブー視される時期が続いた(80年代には自民党内にも党綱領からの削除を求める意見があった) 

 

・当初は第9条が大きな争点であった憲法改正論議は、その後の情報化社会の到来や国民のプライバシーに関する意識変革と相まって、多様な論点での議論が求められはじめ、また護憲を党是に掲げている社会党に替わって1996年に民主党が野党第一党となった事などから、政治の場で憲法を議題にする事をことさらに問題視すべきでないといった認識も広まり、2004年には自民党だけでなく、公明党、民主党などの各党憲法調査会が結成され、改憲論議が広く交わされる事となった。 

 

2)憲法改正に関連した動き 

 

第1期:昭和28419日: 総選挙で自由党鳩山一郎派が憲法改正、特に九条を中心とした憲法改正を公約とした。

 しかし鳩山自由党は選挙前から2議席減の35議席にとどまり、憲法改正反対を公約にし、左右に分裂していた社会党は左派が16増の72議席、右派6増の66議席と議席を伸ばした。左派の伸張は、総評の支援もあった。

 保守全体では三分の二の議席に達していたが、与党の自由党吉田茂派は、この時点では改憲を明言していなかった。

29

07.01

 防衛庁設置法と自衛隊法により、自衛隊が発足

12.10

 鳩山首相率いる日本民主党が党政策大綱に「憲法の再検討」を掲げる。

30

02.27

 総選挙で、鳩山首相、岸信介らの率いる日本民主党が再び憲法改正を公約にし、左右社会党は護憲を公約にした。

 日本民主党は65議席増の185議席を得たが、過半数には届かず、総保守でも299議席と、三分の二を割り込んだ。

07.11

 日本民主党、自由党、緑風会の議員有志により、改憲を目指す自主憲法期成議員同盟が結成される。初代会長は緑風会の広瀬久忠。

8

 重光葵外相が、ダレス国務長官と会談。重光外相は日米安全保障条約の不公平の指摘に対し、ダレス国務長官はアメリカ側こそ日米安保条約は不平等だと感じていると発言。

 日米安保条約の現状は双務的ではなく、公平にするなら日本は海外派兵と遠征能力を持った再軍備、軍事力強化をして貰いたいとダレス国務大臣が発言。

 重光外相は憲法上無理だとあやふやな答弁を行い、アメリカ政府とアメリカメディア側が「日本は海外派兵を受諾。」「米日合同で太平洋防衛を負担。」と誤解し、大きな国際問題となった。

 一方でこの事により、日米関係の対等化をはかるためには日本の憲法改正が必要だとする認識が強まる事となった。

10

左右社会党が合同し、同年11月には自由党と日本民主党の「保守合同」により自由民主党が成立。

31

03.19

 鳩山内閣は小選挙区制導入の公職選挙法改正案を提出。これは第一党に有利な小選挙区制を導入することで、改憲に必要な三分の二の議席を得ようとしたものだった。

 しかし、社会党など野党の反対の他、自民党内でも鳩山派に有利な選挙区割りになっている(ハトマンダー)と反発され、衆議院では修正の上通過した(519日)が、参議院で廃案となった(63日)。

32

8

 岸信介内閣の下、鳩山の提唱で、内閣に憲法調査会(高柳賢三会長)が設置された。

 これは後年2000年に設置された憲法調査会とは異なり、社会党が改憲への布石であるとして参加を拒否したために、国会に属するものとはならなかった。

 途中社会党から分離した民主社会党も参加を見送っている。

33

05.22

 総選挙で定数467に対し、自民287議席、社会166議席(追加公認除く)となった。

 自民党は過半数には十分な議席を得たが、三分の二には足りず、また社会党は独力で三分の一を確保。

 以降野党の多党化が進むものの、しばらくこの形勢が続いた。

35

01.19

 「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)を継承・強化する日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印し623日に発効(60年安保闘争)。

39

07.03

 憲法調査会が池田勇人首相に多数説の改憲論と少数説の改憲不要論を併記した最終報告書を提出。

40

06.03

 憲法調査会が廃止される。

45

01.19

 日米新安保条約自動延長入り(70年安保闘争)。

第1沈静期:

52

 

 中国の鄧小平副首相が日本の日米安保とアメリカの核の傘の下で行う日本の軍備強化に理解を示した。

 諸外国からも日米安保と軍備強化は受け入れられているとの印象を日本国民にもたらし、日本の安全保障観を大きく変えた。

第2期

03

01.17

 湾岸戦争が勃発。日本は憲法の制約があるという理由で海外派兵せず、約140億ドルの資金協力と海上自衛隊掃海艇のペルシャ湾出航(4月)に留まり、特にアメリカからの非難を浴びたことをきっかけに、日本国憲法の限界を認識させられる。

04

06.15

 国連平和維持活動協力法(PKO協力法)成立。

05

07.18

 第39回衆議院議員総選挙で自民党と社会党が惨敗(55年体制の崩壊)。

 新生党、新党さきがけなどの保守新党が勢力を伸ばし、護憲派が衆議院の三分の一を占めていた長年の形勢が崩れた(ただし、さきがけは護憲色が強く、改憲に消極的)。

06

07.20

 自社さ連立政権の村山富市首相が自衛隊合憲と答弁。9月には社会党が自衛隊合憲へ政策転換。

11.03

 読売新聞、時の社長・渡邉恒雄の手になる「憲法改正試案」を一面トップに発表。

3

12

01.20

 衆参両議院に憲法調査会が設置される。

10

 リチャード・アーミテージ前国防次官補が、対日外交の指針としてジョセフ・ナイらと共同で作成した論文「アーミテージ・レポート」、いわゆる「アーミテージ報告」を発表。

13

09.11

 アメリカ同時多発テロ事件(9.11)が発生。

 

10.29

 米軍が対テロ戦争の一環として行う攻撃・侵攻を援助(後方支援)することについて定めたテロ対策特別措置法が成立。

14

11

 衆議院憲法調査会(中山太郎会長)「中間報告」発表。

11.02

 公明党が党大会で、現行の憲法第9条を堅持したうえで、「環境権」や「プライバシー権」などの新しい人権を現行憲法に加える「加憲」という考え方を打ち出し、党の基本方針とする。

12.16

 自民党は森喜朗を委員長に新憲法起草委員会を設立。名称は「憲法改正案」ではなく「新憲法」となっている。

 実際は憲法第96条の改正手続による改正を目指しているが、これに対し国民の一部には、憲法92項の修正で不戦という基本理念を放棄しようとしているので新憲法に相当するという意見もある。

15

03.20

 イラク戦争が勃発。

06.06

 武力攻撃事態法をはじめとする武力攻撃事態対処関連三法が成立。

07.26

 イラク復興支援特別措置法が成立。

16

06.14

 国民保護法をはじめとする有事関連七法が成立。

11.17

 自民党憲法調査会が憲法改正草案大綱を発表。

12.16

 自民党が小泉純一郎首相を本部長とする新憲法制定推進本部と、森喜朗を委員長とする新憲法起草委員会を設立。

17

4

 衆参両院の各憲法調査会は、五年間の最終報告書として、衆議院憲法調査会は「衆議院憲法調査会報告書」、参議院憲法調査会は「日本国憲法に関する調査報告書」を各議長に提出した。各報告書とも憲法改正を焦点にしていた。

03.14

 自民党新憲法起草委員会が「論点整理」を提出。

04.01

 憲法学者も加わり市民自身による憲法草案作成に取り組んでいる市民立憲フォーラムが、中間報告「市民立憲案2005」を発表。

04.15

 5年間の最終報告書として、この日衆議院憲法調査会が「衆議院憲法調査会報告書」を、20日には参議院憲法調査会が「日本国憲法に関する調査報告書」を各議長に提出。

7

 自民党新憲法起草委員会が「要綱案」を提出。

08.01

自民党新憲法起草委員会は新憲法第一次案の条文を発表。主な内容は、自衛隊を「自衛軍」とすること、政教分離原則の緩和、軍事裁判所の設置、改憲に必要な議席数を両院の三分の二から過半数に引き下げることなどが盛り込まれた。また、憲法第12条に「自由及び権利には責任及び義務が伴う」と明記された。

09.11

 第44回衆議院議員総選挙で与党が圧勝。公明党も合わせると、55年体制以降では初めて改憲に必要な3分の2のラインを突破した。

 ただし、参議院では3分の2に達していないため、憲法96条の憲法改正発議の可決がすぐにできる情勢にあるとはいえない。

 自民党内では、自民党案での改憲に消極的な公明党よりも、これに積極的な民主党内の旧民社党系と保守系の派閥と連携して発議に必要な議員数を確保した方がよい、との議論も起こった。

09.21

 第163回特別国会召集。衆議院に日本国憲法に関する調査特別委員会(憲法調査特別委員会)を設置。

10.12

自民党新憲法起草委員会は、新憲法第二次案を審議し了承した。新憲法第二次案では、第一次案を引き継いだ上で、環境権が加えられたほか、知る権利やプライバシーの権利、障害者および犯罪被害者の権利などが盛り込まれている。

10.23

 民主党の旧民社系議員による「創憲会議」の新憲法草案が明らかに。1029日正式発表。軍隊明記、国旗国歌明記、首相権限強化、地方分権化などが特徴。加藤秀治郎、西修、百地章らの学者による原案を元にしたとされる。

11.22

 自民党自民党新憲法起草委員会が立党五十周年記念大会で「新憲法草案」を発表。民主党が条文化を見送り「憲法提言」を発表。

18

02.11

 社会民主党が党大会で、自衛隊について「違憲状態である」とした綱領的文書『社会民主党宣言』を採択。これによって1994年の旧社会党時代の自社さ連立政権での「自衛隊の合憲・容認路線」にかわり、事実上の政策転換となる。

02.16

 自民・公明両党の国民投票法案の概要を発表。

05.26

 自民党の衆議院議員が「日本国憲法の改正手続に関する法律案(憲法改正国民投票法案)」を、民主党が対案を提出。

 61日に審議入りするが、18日に閉会したため、9月の臨時国会への継続審議となったが、本国会閉会で再び継続審議に。

09.29

 安倍首相が衆参両院の本会議で就任後初の所信表明演説を行い、「新しい時代にふさわしい憲法の在り方について与野党において議論が深められ、方向性がしっかりと出てくることを願っている」と述べた。所信表明や施政方針演説で憲法改正に関わる発言をするのは自民党初代総裁の鳩山首相以来51年ぶり。

10.02

 自民党が党憲法調査会を憲法審議会に格上げ。

19

01.09

 防衛省設置法により、「防衛庁」が「防衛省」に昇格。

01.25

 参議院に日本国憲法に関する調査特別委員会(憲法調査特別委員会)を設置。

04.13

 憲法改正の手続きを定めた日本国憲法の改正手続に関する法律案が衆議院本会議で可決され、参議院へ送付される。

04.25

 政府が集団的自衛権に関する個別事例を研究する有識者会議である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(柳井俊二座長、安保懇)を設置。

05.14

 日本国憲法の改正手続に関する法律(国民投票法)が参議院本会議で可決され成立。

08.07

 67日以降:7月29日に行われた参院選で衆参の第一党が一致しないねじれ現象が発生した影響で、国民投票法で定められ、衆参両院に常設するはずの憲法審査会が、民主党など野党側が憲法審査会の委員数や手続きなどを定める憲法審査会規程の成立に反対しているため、第167回臨時国会召集以降、実質的に設置されず始動できない異常事態となる。

11.01

 テロ対策特別措置法が期限切れ(失効)し、海上自衛隊がインド洋で約6年間続けてきた給油活動を打ち切る。

 

 政府の「年齢条項の見直しに関する検討委員会」が会合を開き、国民投票法が投票権者を18歳以上と規定したのに伴い、成人年齢を引き下げる民法改正案などの関連法案を2009年秋の臨時国会か2010年の通常国会に提出する方針を決める。

第二沈静期

20

01.11

 テロ対策特別措置法が失効するのを受けて事前に提出されていた新テロ対策特別措置法が参議院本会議で野党の反対多数により否決。憲法第59条の規定により、衆議院本会議で、自民・公明両党の3分の2以上の賛成多数により再可決し、成立。

02.13

 国民投票法が投票できる年齢を18歳からと定めたことに伴い、民法で定める成人年齢を20歳から引き下げることの是非について、鳩山邦夫法相が法制審議会(法相の諮問機関)に諮問。

06.24

 憲法解釈見直しには消極的な福田康夫首相のもとで安保懇が最終報告書を提出。

12.16

 法制審の民法成年年齢部会が「民法の成年年齢の引下げについての中間報告書」をとりまとめる。

21

04.14

 ソマリア沖などの海賊対策で自衛隊派遣を随時可能にする海賊対処法案が衆議院本会議で審議入り。23日に可決し参議院へ送付。

04.22

 憲法審査会規程の与党案が審議入り。

06.11

 衆議院で憲法審査会規程が議決されるが、委員の指名は見送られる。

06.19

 海賊対処法が成立。

07.29

 民法成年年齢部会が「民法の成年年齢の引下げについての最終報告書」をとりまとめる。

 引き下げ時期は、若者に自立を促す施策などの効果や国民意識の動向を踏まえ、「国会の判断に委ねるのが相当」と結論付ける。

08.30

 第45回衆議院議員総選挙で民主党が議席を伸ばし、対する自民党が歴史的大敗。9月16日に民主党・社民党・国民新党による連立政権が成立。

10.27

 千葉景子法務大臣が、成人年齢の18歳への引き下げのための民法改正案の、翌年の通常国会へ提出に関して「容易ではない」と見送る意向を示す。

22

01.20

 鳩山由紀夫首相は、参院本会議での各党代表質問に対して、「首相という立場においては特に重い憲法尊重擁護義務が課せられている。私の在任中に、などと考えるべきものではない」と改憲は在任中考えないと答弁した。

03.04

 自民党・憲法改正推進本部、5月を目処に改憲案を改訂する旨発表。この中では“天皇の明文元首化”、“外国人地方参政権について”(公民権を日本国籍者に限定)、“徴兵制度と国防の義務について”の検討が予定されているという。

05.18

 国民投票法が施行。この日以降、憲法改正原案(議員提出案・憲法審査会提出案)の提出と、憲法改正国民投票の実施が可能となる。

4

24

 

02.25

 自民党・憲法改正推進本部、改憲案を発表。従来からの“天皇明文元首化”、“軍隊設置”他に加え、国歌・国旗に対する国民の尊重義務付け、国家緊急権規定、国民に対し憲法擁護を義務付ける規定の制定を盛り込む。

04.25

 たちあがれ日本が「自主憲法大綱案」を発表。内容は自民党案とほぼ同様。

12.16

 1216日:第46回衆議院議員総選挙執行。“戦後レジームからの脱却”を唱えるなど復古的改憲論の持ち主として知られる安倍晋三が総理大臣に就任、第2次安倍内閣が成立。

 


(3)憲法改正論の概要


 概要 

・憲法改正論には、いろいろ種類があるが、次のように類別することができる。ここでは、主要な憲法改正論の概要について記述する。 

 

※憲法改正論の類別

区分

改正論

備考

憲法改正

改憲

復古的改憲論

 

押し付け憲法論

 

天皇制廃止論

 

日本人民共和国憲法草案

 

 護憲

 

憲法無効論

創憲

自主憲法

 

真正護憲論

 

 

2)憲法改正 

・憲法改正とは、成文憲法の条文を、法的な形式を取って修正、追加、もしくは削除すること。改憲ともいう。

 

2.1)手続きとしての憲法改正の目的 

・最高法規である憲法にも改正手続きを設けることの意義は、政治体制の変更を、すべて憲法改正という形式で通常の立法の延長として民主的に行えるように定めることにより、革命やクーデターといった法的な形式を取らない憲法の変更の不当性を強調する立場を示すことにある。 

 

・一方で、改正ではなく新憲法の制定という手段を取ることが最終的に否定され得るかどうかは、革命やクーデターの成功の度合い、新政府に対する国民の支持旧政府に対する国民の不支持の度合いによって判断されるものである。諸外国では憲法の変更が改正手続でなく新憲法の制定として行われることも多い。 

 

2.2)憲法改正の限界 

・憲法改正については、限界説無限界説があり、限界説は、いかなる憲法にもその基本原理があり、当該憲法の改正手続にもとづく改正としては基本原理を超える改正はできないとするものであり、無限界説は、憲法の定める手続によれば、どのような改正でも可能であるとしている。 

 

・限界説が通説とされているが、双方の説にもさらにいくつかの学説がある。 

 

〇 限界説

・憲法の根本原理を改正の限界とする。 

① 法実証主義的限界説は、憲法の改正権は憲法によって与えられる以上、制定権による根本的決断たる憲法を変更する能力を持たず、改正に限界があると説明する。 

 

② 自然法論的限界説は、実定憲法には自然法が上位し、憲法をも含めての全実定法の効力の有無は自然法への適合・不適合によって決せられるとするならば、改正規定による憲法改正においても自然法上の制約があるとして、改正に限界があると説明する。

 かかる見解によれば、自然法に反するような憲法の変革は「あらわな事実力による破壊であって」憲法の制定としても認めることはできず、そこから生まれた憲法は正当性を主張できないとする。 

 

③ また、憲法改正の発議を委ねられている国会の構成員たる国会議員は、日本国憲法第99条によって「憲法尊重擁護義務」を負うところ、現憲法を否定するような改正を認めれば明らかな背理となり、よって憲法は現憲法を否定する変更を「改正」としては予定していない。 まして、一部(新憲法制定議員同盟、『「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会』など)で主張されているような「新憲法の制定」は出来ない。浦部法穂「そもそも平時に新憲法の制定をおこなう国などない」と指摘する。 

 

④ 限界説に対しては、「改正に限界があるとすれば、天皇主権から国民主権への改正によって成立した日本国憲法は改正の限界を明らかに越えたものである」という批判(福田恆存)や、大日本帝国憲法発布の際の勅語にも「現在及将来の臣民は此の憲法に対し永遠に従順の義務を負ふへし」という文言があるため上記の憲法尊重擁護義務を根拠とした限界は認められないとする批判がある。

 これに対し限界説は、八月革命説を用いて反論している。すなわち、ポツダム宣言の受諾により法的には一種の革命があったものと捉え、大日本帝国憲法と日本国憲法との連続性を否定することで、上記の批判を失当とする。 

 

〇 無限界説

・憲法改正に限界がないとする。 

1)法実証主義的無限界説は、憲法の規定に価値序列は存在せず、憲法自身が改正を認める以上、憲法の規定の改正に限界はないと説明する。 

 

2)主権全能論的無限界説は、制憲権は万能であるがゆえ、改正について憲法の枠によって拘束されることはなく、改正に限界はないと説明する。 

 

3)復古的改憲論 

復古的改憲論とは、改憲論を評論するための造語の一つ。憲法改正論議「進歩的」「復古的」の2種と捉えたさいに、憲法を昔の体系にもどす「復古的」な主張を指す。日本においては、日本国憲法を大日本帝国憲法に近い形へ改正しようという主張に対するカテゴリ分類として利用されることがある。 

 

・一般に国会における憲法改正論議においては、日本国との平和条約以降その議論の中核をなすのは個別的・集団的自衛権の問題であり、とくに日本国憲法第9条と日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約整合性に関する議論である。 

 

「復古的」という語はその相対的語義から現行憲法を改正すべしとする主張に対する護憲派側のレッテル(ラベル)であり、自衛隊の “自衛軍”“ 国防軍 ” への発展、野放図な経済的自由権の憲法による制限天皇の明文元首化、国民への愛国心涵養義務付け人権は国民の義務を果たしてこそ付与されまた公益及び公共の秩序の下に置かれるべきといった提言に対して用いられることが通常である。 

 

4)押し付け憲法論 

4.1)押し付け憲法論者の主張 

押し付け憲法論とは、日本国憲法が昭和20年に日本がポツダム宣言受諾後、アメリカ合衆国軍を中心とする連合国軍が日本を間接統治していた昭和21年に公布され翌昭和22年に施行されており、その立案・制定過程においてもGHQが大きく関与し、改正作業が行われている最中から占領軍による憲法改正作業への介入が行われたことから、日本国憲法の成立後、同憲法は国際法上無効ではないかという押し付け憲法論が唱えられてきた。 

 

・この立場には、日本国憲法はその制定手続と内容から無効であるとする説や日本国憲法は占領下では効力を有するとしても、占領終結によって失効すべきものであるとする説がある。この点については、ハーグ陸戦条約43条との整合性が問題とされている。 

 

・法理論としては大日本帝国憲法(明治憲法)天皇主権から、日本国憲法の国民主権に移行するさいに、明治憲法の73条に従った改正であったと見なした場合(憲法改正説)、君主主権の憲法が国民主権の憲法を生み出すことができるかとの視点から、できる憲法改正無限界説・できない憲法改正限界説・無効説との論が立つ。 

 

主権という究極を憲法法規が自立的に否定することはできない(限界説・無効説)との論は理論的にはばかにできないもので、8月革命説などがこれを回避するために提案された。 

・一方憲法改正無限界説にたてば、明治憲法73条の規定に即した改正であったかどうかが論点となり、ここで押し付け憲法論が争点となる。 

 

・憲法学における論題の一つであり京都帝国大学教授であった佐々木惣一や京都大学教授であった大石義雄らがこの説の主な論客である。憲法学者の美濃部達吉宮沢俊義も押し付け憲法論の立場にたったが、後に宮沢8月革命説を唱え押し付けではないという論法に変化した。 

 

・制定時に枢密院で審査委員として関わった野村吉三郎「マッカーサーから強要」「無条件降服というような状況であつて、彼らの言うがままになるほかないというような空気」と述べている。 

 

4.2)押し付け憲法論者以外の指摘と反論等 

・押し付け憲法論以外の立場を取る学者等からは、指摘、反論等がされている。 

〇ハーグ陸戦条約違反について 

◆指摘:ハーグ陸戦条約第43条は、「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽くすべし」と定めている。

・この定めによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも、占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする。 

 

◆反論:ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、したがって、原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用される。 

 

◆反論:サンフランシスコで締結された日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の第1条(戦争の終了、主権の承認)には、 

(a)日本国と各連合国との間の戦争状態は、第23条(批准・効力発生条件)の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。 

(b)連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。 

とあり、日本と連合国との戦争状態は、ポツダム宣言受諾ではなくこの条約の発効によって正式に終了したのであり、「日本国憲法の制定」時点においては国際法上は休戦状態であった。 

 

◆日本政府の答弁:「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中、他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される。」と答弁している(※)。 

 

(※)昭和60年9月27日、森清議員提出「日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。この答弁書は、森清議員の「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)第43条は、次の如く規定している。(条文省略)憲法改正について占領軍総司令官のとった行為は、この条項に違反しているのではないか。」という質問に対して決定された。 

 

◇外国人関与について 

◆違反論への反論・制定過程に外国人(強いていうならば占領軍)が関与した点については、議論が今もなお続いている。 もっとも、新憲法成立後多くの国民がそれを支持し、朝鮮戦争時に改正を打診された政府も「その必要なし」と回答、さらに新憲法下で数十年にわたって無数の法令の運用がなされた今、憲法は無効だという主張は少数となった。憲法は慣習として成立したと説明されることもある。 

 

・一方で憲法改正におおいに関与したアメリカは、昭和31年6月14日の上院外交委員会秘密会で国務次官補ロバートソンがハンド議員の質問に答え、アメリカが押しつけたものだと証言した。 また、駐日大使を務めた、エドウィン・O・ライシャワーは著書の中で「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ。」としている。現行憲法は定着しているとしながらも、憲法制定行為はマッカーサーの越権行為であり、違法とする説は根強い。 

 

〇ポツダム宣言の効力について 

◆指摘: ポツダム宣言受諾によって、同宣言は、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ハーグ陸戦条約)及びその条約附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」とともに一般的な国際法と同等の効力となった。 

 

・「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし。」(ポツダム宣言第10項)

により、日本国は民主主義の障壁除去自由・人権の尊重の確立をなすべき義務を負い、この義務の履行として日本国憲法が制定された。 

 

・また、特別法は一般法に優先するので、ポツダム宣言の方が優先されることは明らかである。 

 

◆反論:戦時国際法によれば、ポツダム宣言占領軍の撤退条件を提示したものである。明治憲法には国際条約憲法に優越するという法解釈(条約優位説)はない。

 

大西洋憲章について 

◆指摘:大西洋憲章には民族自決権が謳われているが、降伏条件として国体護持を出し、日本国の最終の政治の形態は、日本国民が自由に表明した意思で決めるとしたにもかかわらず、憲法改正を指示したり、極東委員会による文民条項についての干渉(ソビエトの意向から極東委員会、GHQというラインを通じた干渉)をおこなっており、極東委員会とGHQは、ポツダム宣言及び降伏文書に違反している。 

 

〇憲法制定手続きについて 

◆指摘:日本国憲法はGHQの強力な指導の下で制定したものであるが、当時の世論調査などを見ても日本国民は歓迎しており、また約6ヶ月に及ぶ衆議院と貴族院における審議や旧大日本帝国憲法の改正手続きも踏んでいることから、実質的意味において日本国の手で作ったとほぼ同意義であり無効論は通じない。 

 

・また、新憲法制定過程において言論統制がなされたとは考え難く、各種の憲法草案が存在し、世論に是非を問うていたのは明らかだ。 

 

◆反論:改正手続を踏んだものではあるが、その内実はGHQにより言論は統制されており、日本国憲法に表立った反対はできない状況下であったので手続きに問題がある。 

 

・保革双方から各種の憲法草案が出されたのは確かだが、GHQが憲法草案を出して以降は、これに反対する書籍等は発禁処分になっている。 

 

・現に貴族院議員であり審議にも参加した美濃部達吉教授佐々木惣一教授「新憲法は圧倒的多数(反対票は8票のみ)で可決されたが、議員は内心とは違う行動を取らざるを得なかった」と述べており、制定過程に瑕疵がある事は確かだ。 

 

〇押しつけは事実誤認である 

◆指摘:現在の憲法は憲法研究会が発表した憲法草案要綱を、GHQが参考にして制定されたものである為、米国が一方的に押し付けてきたものであるとは言えない。 

 

◆反論:当時、作成された多くの憲法草案の中で、憲法研究会の憲法草案要綱が特に国民の間で支持されていたことを示す資料はない。 

 

・押し付け憲法論では条約上の瑕疵日本の主体性の有無が問題とされているが、これらの問題は一民間団体の作成した憲法草案を参考にしたとしても解決されるものではない。 

 

・むしろ、憲法研究会の憲法草案要綱を参考にしたということは、他の政党や民間団体において作成された多くの憲法草案を否定したということに他ならず、GHQの恣意性が強調されるだけである。 

 

・日本国憲法66条の文民規定は、極東委員会の要請でGHQが引きさがらず、金森憲法担当国務大臣がその旨を第1回小委員会で述べざるをえなかった。 結局シビリアンを「文民」という日本語にして、修正案はできあがった。 

 

◆指摘:原案作成時の「密室の7日間」に焦点を絞れば押し付けになるかもしれないが、時間の軸・場の軸を外して立法者論を採用すれば押し付けとはならない。 

 

・憲法の骨格について外国人の賢者がやってきて議論する、骨格をつくるというのは一つのあるべき姿である。 

 

・そもそも女性が選挙権を持たず、土地改革がなされず、農民が小作で、労働者の人権も認められない、教育の自由も宗教の自由もない社会を我々は望まない。 

 

・これは当時の権力機構・政治経済体制に基盤を置いた政治家たちからは絶対に出てこない発想であって、芦田均や幣原、安倍能成など保守リベラル派が国際的視野にたって原案作成に取り組んだ事実を確認すべきである。 

 

◆反論:幣原内閣の憲法問題調査委員会(松本委員会)が作成した案(松本試案)は帝国憲法を基礎として大正デモクラシーの復活を目標に作成され幣原内閣の公式案としてGHQに提示されたものであるが、日本国憲法とは似ても似つかない。 

・日本国憲法を押し付けられたものでなく幣原らが自主的に作成した原案としてとらえるなら、松本試案と日本国憲法の差について合理的に説明する必要がある。 

 

〇瑕疵は治癒された

◆指摘:現在の憲法が押し付けであることを認めつつ、すでに数十年間運用されてきた事実をもって、憲法は主権者である国民に追認されたとする意見がある。 

・民主的手続きが徹底されていれば、不都合があれば主権者たる国民の手によって変更しうるものであり、法定追認の形で一種定着をした、とする。 

 

◆反論:昭和29年4月13日内閣委員会公聴会における公述人としての野村の発言。 

「この憲法がマッカーサーから強要されたときには枢密院におりまして、審査委員の一員でありました。この憲法は至るところに無理があるとは思いましたが、なかんずく第9条は後来非常にやつかいな問題になるんじやないかということを痛感したのであります。審査会でもしばく意見を述べ、政府の御意見も聞きました。しかし当時は無条件降服というような状況であつて、彼らの言うがままになるほかないというような空気でありまして、形の上においては枢密院もこれで通つたのであります。」 

 

5)天皇制廃止論 

・天皇制廃止論は、皇室(天皇制)を廃止すべきだとする主張。君主制廃止論の一つ。 

 

5.1)連合国占領期 

・戦後の1945年10月4日、GHQは日本政府へ「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書(いわゆる「自由の指令」)を発した。 

 

・この覚書は主要命題のひとつとして「皇室問題特にその存廃問題に関する自由なる討議」を含み、治安維持法など弾圧法令の撤廃特別高等警察の廃止、また天皇制批判者を共産主義者と断じ処罰を明言した山崎巌内務大臣の罷免などを指令している。 

 

・10月20日、トルーマン米国大統領が「天皇制の存廃は日本人民の民意によって決定されるべき」と発言すると、日本国内の大手新聞はこれを紹介するとともに、以後天皇制の存廃についての記事や投書を多く掲載するようになった。 なお、この問題について当時の『朝日新聞』の報道姿勢は中立『読売新聞』左派『毎日新聞』右派であった。 

 

日本国内の大手新聞による天皇制論議は1946年1、2月を境に「天皇制の是非」から「天皇について」へと変化し、それすらも同年6月をもって後退していった。 

 

・一方、終戦直後、日本に対する諸外国の視線は厳しく、オーストラリアアメリカの国民世論が天皇制廃止を支持していたほか、中国の蒋介石や孫科(孫文の息子)イギリスのチャーチル、ソ連なども天皇制廃止を求めていた。 

 

・第二次世界大戦中からアメリカ国内では「天皇戦犯論」が高揚した。

 

・1945年6月初旬に実施されたギャラップ社の世論調査では、「戦後、日本国天皇をどうすべきであると考えるか?」との問いに対し、殺害・苦痛を強い餓死36%、処罰・国外追放24%、裁判に付し有罪ならば処罰10%、戦争犯罪人として処遇7%、不問・上級軍事指導者に責任有り4%、傀儡として利用3%、その他4%、意見無し12%との結果が出た(山極晃・中村政則編集『資料日本占領1 天皇制』大月書店)

 

・1945年9月には上院「天皇を戦争裁判にかけよ」と決議されるに至った。 これに対し、アメリカ政府は天皇制によって日本国民を統合し、間接統治をした方がアメリカの国益に適うと判断したため、天皇制はGHQによって存置された(昭和天皇の国内巡幸が大歓迎を受けたことも影響している) 

 

・ただし、天皇制に関して民主化を行う必要はあると判断し、皇室財産の凍結不敬罪の廃止などを日本政府に求めたほか、新憲法によって天皇から統治権を剥奪し、天皇の権限を大幅に縮小することを求めた。

 

5.2)連合国占領終結後 

・戦後、日本国憲法によって思想・良心の自由、言論の自由が保障されているため、言論によって天皇制廃止論を主張することが罪に問われることはなくなった。 

 

5.3)共産主義と「天皇制」 

谷沢永一によれば、戦前「天皇制」という言葉はごく少数がひそかに使用する以外まったく日本国民に知られていなかった。この言葉は日本製ではなく大正12年3月15日ソ連共産党が指導するコミンテルンから日本共産党(コミンテルン日本支部)にもたらしたもので、天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざす、天皇と皇室を憎みおとしめ呪う造語である。 

 

・戦後になって、日本国民は「天皇制」という言葉を「赤旗」(昭和25年10月20日)により初めて知った。これと呼応するように「民主主義と天皇制はあいいれない」なる議論が発生したという。 

 

・また中西輝政によれば、ソ連が天皇制廃止に強い執着を見せたのは、1927年のコミンテルンの日本共産党への指令(27テーゼ)以来、一貫していた「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからであり、日本がアメリカ陣営に組み込まれても天皇制廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになるという。

 

〇 部落解放運動 

・京都部落問題研究資料センター所長であった灘本昌久が公表した「部落解放に反天皇制は無用」論に対し、前身の京都部落史研究所所長であった師岡佑行「徹頭徹尾間違っており日本共産党が綱領から『君主制の廃止』をはずすのと同じく時流におもねるものである。貴族あれば賤族ありである。また天皇制の裏構造としての『救済幻想構造』があり、日本帝国主義のメカニズムの中では、辺境にあったり、疎外されていた人ほど、いったん信じると、天皇にたいする忠誠心や、天皇の下で我々も平等に扱われたいという、一体化願望を強くもつようになる。底辺にいるたとえば被差別部落民の中にも、熱狂的な天皇主義者が多かった」と批判した。 

 

〇 進歩派の観点からの廃止論 

・戦後の一時期、丸山真男らいわゆる戦後の進歩派は、ヨーロッパの市民革命思想への共感から、当面は天皇の政治的権能を縮小し、将来はフランスの共和制(ここでは第四共和制を指す)の議会制民主主義による象徴大統領制を実現すべきだと主張した。 

 

・また、高野岩三郎は天皇制を封建制の遺物であるとし、日本共和国憲法私案要綱を作成するなどした。 

 

〇 昭和天皇の戦争責任の追及 

・大日本帝国憲法において、天皇は「陸海軍を統帥す」と規定されていたことから、天皇に開戦・戦争遂行の責任を取らせるため、天皇制を廃止して共和制へ移行するべきとするものがある。 

 

5.4)著名な天皇制廃止論者 

 雁屋哲 高野岩三郎 幸徳秋水 天本英世 難波大助 天野恵一 横田喜三郎 堺利彦 徳田球一

 宮本顕治 丸山眞男 福田歓一 大西巨人 奥平康弘 弓削達 網野善彦 永六輔 大江健三郎 

 小谷野敦 鎌田哲哉 鵜飼哲 中山千夏 浅田彰 中沢啓治 栗原貞子 小森陽一 東郷健

 花柳幻舟 奥崎謙三 南博 佐高信 井上ひさし 野坂昭如 小田実 

 

6)日本共和国憲法草案 

日本人民共和国憲法草案は、昭和21年6月28日に日本共産党が決定し、翌、6月29日に発表した大日本帝国憲法の改正草案で、その内容は、日本共産党機関誌『前衛』1946年7月21日号に掲載された。太平洋戦争敗戦後、新憲法制定に関する議論がなされているときの日本共産党の意見である。 

 

・昭和20年9月2日に日本政府が正式に降伏文書に調印し、連合国との停戦協定が成立してから2か月後の昭和20年11月8日に日本共産党の全国協議会において決議され、昭和20年11月11日に日本共産党が発表した。

 

① 主権は人民に在り。 

 

② 民主議会は主権を管理する民主議会は18歳以上の選挙権被選挙権の基礎に立つ,民主議会は政府を構成する人人を選挙する。 

 

③ 政府は民主議会に責任を負う議会の決定を遂行しないか又はその遂行が不十分であるか或は曲げた場合その他不正の行為あるものに対しては即時止めさせる。 

 

④ 人民は政治的,経済的,社会的に自由であり、且つ議会及び政府を監視し批判する自由を確保する。 

 

⑤ 人民の生活権,労働権,教育される一権利を、具体的設備を以て保証する。 

 

⑥ 階級的並びに民族的差別の根本的廃止。 

から成る「新憲法の骨子」(1945年11月8日に日本共産党の全国協議会において決議されたものは、1945年11月11日に日本共産党が発表したものより1項目多く全7項目となっていた)基軸に、昭和21年6月28日に日本共産党が決定し、翌、6月29日に日本共産党が発表した大日本帝国憲法の改正草案の特徴は、天皇制を廃止して共和制・民主集中制を採用している事と自由権・生活権等が社会主義の原則に基づいて保障されている事であり、スターリン憲法などに代表される典型的な社会主義憲法の構成を採る。 

 

・ただし、党の指導性は明示されておらず、土地を始めとする生産手段の国有化は明文では規定されていなかった。 

 

・社会主義的な側面を挙げると、人民の権利に関しては、権利行使が物質的にも施設提供などによって保証されていたり、被用者へ経営に参加する権利が与えられていたりする。憲法改正によっても、共和制を破棄することはできないという条項もある。 

 

・その他には、「公務員」の章を設け、警察署責任者の住民による選出公務員の廉潔を義務付けていること、戸主制・家督相続制や拷問及び死刑を廃止することなどが特徴である。 

 

・なお、この憲法草案には日本国憲法第9条のような軍隊の不保持などの規定はないが、侵略戦争への不支持と不参加の規定がある。また、憲法改正国会の3分の2以上の賛成で可能であるため日本国憲法に比して軟性である。 

 

・一方で、「共和政体の破棄と君主制の復活は憲法改正の対象とならない」と規定し、条件を設けている。 

 

7)憲法無効論 

憲法無効論は日本国憲法の制憲過程に重大な瑕疵があり無効であるとするもの、あるいはサンフランシスコ講和条約締結にともない自動失効しているとするものの総称であり、法理論としては前者が取り上げられ現代の憲法改正論議において論じられることが多いが、当初は後者の視点からの論であった。 

 

・憲法無効・失効論の述べるところは憲法失効にともない大日本帝国憲法を唯一の法源とすべしという点にほぼ要約されるが(別論あり)、これはあくまで手続き上の議会主義的正統性に関する要求であり、旧憲法の改正手続きに則り速やかに新たな自主憲法を策定すべし、ないしは日米安全保障条約(条約)と憲法の整合性を確保するべく第9条を改正すべしとの論である。 

 

・今日では、最高裁をはじめ日本国憲法を法源とした多くの判例が適示されており、憲法無効論は法曹界ではすでに解決済みの論題として積極的に取り上げられる事は無く、日本国憲法が無効ないしは失効していると論じる法学者は少ない。 

 

・一方で議会を中心とした憲法改正論議においてしばしば紹介され論じられることがある。

 

・論点としては上記のように当初は新憲法9条と日米安保条約の整合性に焦点があったが、天皇主権を明示する帝国憲法が国民主権を前提とする新憲法を制定することはできないとする論点や(憲法改正限界説)、あるいは仮に可能であったとしても制憲過程に重大な瑕疵があったのではないかとの観点を含んでおり(無限界説における押し付け憲法説)論争を生んだ。 

 

・法理としては奇抜なものではなく、ナチスが作ったオーストリア憲法(1934年5月1日)やフランス憲法(1940年7月11日、占領憲法・ペタン憲法)は、ナチスによる占領解除後即座に失効宣言がなされ、破棄された(フランス1944年8月9日、オーストリア1945年5月1日) 

 

7.1)論拠と反論 

・憲法無効論は、概ね次のような論拠に基づき主張されている。 

① 日本国憲法は大日本帝国憲法の改正限界を超えている(憲法改正限界説)

 

② GHQの指導による憲法の改正は、ハーグ陸戦条約に違反している。

 

③ 大西洋憲章の理念に反している。

 

④ 占領政策の終了にともない統治体制下での立法は失効しており、新たに措置する必要がある。 

 

・憲法改正の限界を超えているという主張に対しては、そもそも憲法改正に限界は存在しないとする説(憲法改正無限界説)のほか、憲法改正限界説の立場からは、ポツダム宣言の受諾により、法律学的意味の「革命」が生じたとしてその正当性を説明する8月革命説が有力に主張されている。 

 

・また失効論についての有力な反論はボン基本法のような失効条項が明記されていない点が挙げられる。 

 

7.2)議論と経緯 

・昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効による占領政策の終了(主権回復)にともない、ポツダム政令は法的根拠を失い相次いで廃止・代替法律の制定・存続措置の実施が行われることになったが、この国会論議のなかでポツダム政令無効論が議論の対象となった。 

 

・この段階で日米安全保障条約を締結するために憲法を改正し、条約との整合性をとるべき(改正論)が主張されたが、憲法無効論そのものが論じられる事はなく、憲法9条と日本の再軍備の問題は決着を見ることなくサンフランシスコ講和条約及び日米安全保障条約が締結された。 

 

・議会で無効説が登場したのは昭和28年12月11日の衆議院外務委員会(並木芳雄委員)においてである。11月19日にニクソン副大統領が東京会館で日本を非武装化したのは失敗であったという意味の演説をおこない、またダレス長官が24日の記者会見でこれを支持したことを受け、日本国憲法第9条が無効であるのではないかと外務大臣岡崎勝男に質問したことを端緒とする。 

 

・これを引継ぎ、翌昭和29年3月22日衆議院外務委員会公聴会(大橋忠一)において制憲当時の情勢や英米法の理念にかんがみ日本国憲法が無効になっているとの発言がなされた。

 

8)自主憲法論 

自主憲法論とは、日本国憲法を無効もしくは、成立過程において不備があったために、日本独自で新しく憲法論議をし、新憲法を制定(前憲法破棄)しようとする考え方。創憲論とも呼ばれる。 どちらかというと、真正護憲論よりその主張は曖昧で、また穏健であるが、ほぼ同じであると解釈される。 

 

復古的改憲論と同様のものであることがほとんどである。日本国憲法第9条にある戦力・交戦権否定条項の廃止または修正が主眼とされ、また非常時の人権制限である国家緊急権の制定国民の義務に関する条項の追加天皇の元首性の明記伝統尊重条項の追加などを盛り込んだ内容であることが多い。

 

・憲法無効論に立ち、自主憲法論を避けると8月革命説を用いなくてはならなくなるとも言われる。講和後まもなく鳩山一郎らによって主張され、自由民主党結党時に綱領として掲げられた。

 

・自民党による自主憲法制定論は日本国憲法の改正手続きに則った憲法改正論であり、護憲勢力が衆議院の1/3以上を確保したことにより挫折した。 なお、当時の参議院は政党に属さない保守系議員が多くを占めていた。 

 

・鳩山は衆議院の2/3を確保することを目的の一つとして小選挙区制導入を図るが、これも失敗する。維新政党新風や小沢自由党が主に主張していたが、どちらも自主憲法草案を「日本国憲法」としており、真正護憲論との違いがみられる。 

 

民主党創憲論を主張しているが、あまり積極的ではなく、2011年12月20日に小沢一郎や石原慎太郎と言った創憲論者が、自主憲法制定を唱えるたちあがれ日本などとともに新党を結成する準備会合を開くという説もあった。但し、会合自体は延期された模様で、小沢一郎も2011年の間、離党しなかった。 

 

・現在では「たちあがれ日本」「新しい憲法をつくる国民大会」など保守系・復古派の政党・政治団体などによっても主張される。また生長の家など保守系宗教団体による支持もある。 

 

9)真正護憲論 

・大日本帝国憲法の復活を主張。大日本帝国憲法が日本の正当な自主憲法であり、憲法名の変更は許されず、仮に憲法を改正するにしてもその題名は「大日本帝国憲法」でなければならない、とする。 

・日本国憲法(占領憲法)と法律たる皇室典範(占領典範)は憲法典ではないとし、正統の憲法典たる要件とは、その法典が規範國體(不文憲法)を成文化したものであることに尽きるものだとする。 

大日本帝国憲法が日本の正当な自主憲法であり、日本国憲法への改正に瑕疵があることから、もともと無効なものであって大日本帝国憲法は現在でも有効であるとするものである。 

・日本国憲法が憲法として無効であるとする理由を13個の理由(※後述)を挙げて指摘する。 

 

9.1)真正護憲論の趣旨 

・主に、大日本帝国憲法第75条違反、「憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」の趣旨は、摂政をおく機関を国家の変局時と認識するものであり、これを類推解釈して、第75条違反により改正は無効であるとする理由を始めとする。 

 

・あくまで大日本帝国憲法の復活ではなく、現在も現存し有効であることの意識の復元を説く。真正護憲論は、南出喜久治著書「國體護持総論」の論理的部分を意味し、自立再生社会を実現することを目的とし、その手段としての真正護憲論について、占領憲法無効論、講和條約説を説く内容となっている。 

 

・真正護憲論の趣旨は、占領憲法(現行憲法)は憲法としては無効ではあるが、無効規範の転換理論により講和大権に基づく国際系の講和條約として成立したと評価するとし、講和條約としての時際法的処理がなされていないことから、そのまま国内法秩序への編入がなされず、事実上これと同樣の憲法的慣習法として通用しているとするものであるとする。 

 

9.2)日本国憲法(占領憲法)皇室典範(占領典憲)に関する参議院・衆議院請願 

・平成23年11月15日、史上初となる日本国憲法(占領憲法)皇室典範(占領典憲)に関する参議院請願を、自民党参議院議員西田昌二氏を紹介議員として奈良県の世界遺産である吉水神社の佐藤宮司が代表を務める、けんむの会が中心となって実施される。 

 

・また、平成24年11月11日には、こちらも史上初となる日本国憲法(占領憲法)皇室典範(占領典憲)に関する衆議院請願を、同じく、けんむの会を中心とした、自民党衆議院議員稲田朋美氏、城内実氏そして新党大地松木謙公氏が紹介議員となり実施される。

 

9.3)無効理由 

① 改正の限界を超えていることにより無効:憲法典には「改正の限界」というものが存在する。これを超えてなされた改正は手続上も、実質・内容上も無効であるということになる。 

 

② ハーグ陸戦法規違反による改正により無効 

 

③ 軍事占領下における典憲の改正の無効性:自由な意志のない強迫下においてなされた大日本帝国 憲法の「改正」は改正手続に反するものであり、無効である。 

 

④ 大日本帝国憲法第75条違反により無効:「憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」の趣旨は、摂政をおく機関を国家の変局時と認識するものであり、これを類推解釈して、第75条違反により改正は無効である。 

 

⑤ 典憲の改正義務の不存在にも関わらずなされた改正は無効:ポツダム宣言には、大日本帝国憲法と皇室典範の改正を義務づける条項が全く存在しなかった。 

 

⑥ 法的連続性の保障声明違反により無効:昭和21年6月23日の「帝國憲法との完全な法的連続性を確保すること」というマッカーサー声明に違反。 

 

⑦ 國體護持の宣明に違反:國體護持を国家の要諦として宣明し、ポツダム宣言を受諾したにも関わらず、規範國體(不文憲法)に反する違憲の「改正」がなされたこと。 

 

⑧ 憲法改正発議大権の侵害により無効:占領憲法の起草が連合軍によってなされたことは、大日本帝国憲法第73条で定める改正発議大権の侵害であり、同条違反である。 

 

⑨ 詔勅違反である改正により無効:告文、憲法発布勅語、上諭という詔勅に反する改正は無効である。 

 

⑩ 改正条項の不明確性:改正であるからには、どの条項をどのように改正したのか、が明確であるはずなのに、『日本国憲法』ではそれが全く明確でない。 

 

⑪ 憲法としての妥当性及び実効性の不存在 

 

⑫ 政治的意志形成の瑕疵:改正過程において、GHQによる言論統制が行われ、大日本帝国憲法の「改正」に対する批判が封じられる中での「改正」であったこと。 

 

⑬ 帝國議会審議手続の重大な瑕疵:「改正」についての帝國議会の審議には重大な瑕疵があり、手続上においても違憲の改正であったといわざるを得ないこと。

 

10)自主憲法論(創憲論) 

・創憲は、日本国憲法は無効である、若しくは破棄すべきものであるから、自主憲法を制定すべき、とする主張で、一般に自主憲法論と同質とされるが、改憲論や真正護憲論ともあまり区別されない。 

 

創憲論(※)とも呼ばれる。どちらかというと、真正護憲論よりその主張は曖昧で、維新政党新風や小沢自由党が主に主張していたが、どちらも自主憲法草案を「日本国憲法」としており、真正護憲論との違いがみられる。 

 

・民主党も創憲論を主張しているが、あまり積極的ではなく、2011年12月20日に小沢一郎や石原慎太郎と言った創憲論者が、自主憲法制定を唱えるたちあがれ日本などとともに新党を結成する準備会合を開くという説もあった。但し、会合自体は延期された模様で、小沢一郎も2011年の間、離党しなかった。

 

10.1)主張している主な政党・政治団体 

・民主党 たちあがれ日本 新党改革 維新政党新風 新党大地・真民主、

・(嘗て主張していた政党・政治団体)生長の家政治連合 小沢自由党 

 

10.2)民主党の創憲案 

・民主党は「生きた憲法の確立」として、創憲を主張、草案もまとめている。軍隊の保持国旗や国歌の明記領土の明記など、保守色の強い草案(※)となっている。一方で、小沢一郎の主張する徴兵制、貴族院復活などは認められていない。

 

・主な論者は、「小沢一郎 平沼赳夫 菅直人 仙谷由人」である。 

 

※創憲案

・前文 日本国民は、わが国と国際社会の平和および繁栄を念願し、この新しい憲法の制定にあた り、ここに決意を宣言する。

 

一、日本国民は、悠久の歴史を通じて、豊かな伝統と独自の文化をつくり上げてきた。われらは、これを継承発展させ、自立と共生の精神に基づく友愛の気風に満ちた国づくりを進 める。

 

一、日本国民は、立憲主義の理念と伝統を受け継ぎ、基本的人権尊重の原則に基づいて、 自由で民主的な国家を築いてきた。われらは、この礎の上に、国民の福祉を増進し、活力あ る公正な社会の建設に努める。

 

一、日本国民は、美しい国土と豊かな自然のなかで、大自然の営みを畏れ敬い、これと共に生きる心を育んできた。われらは、これを後世に伝えるとともに、地球規模で自然との共 生の確保に努める。

 

一、日本国民は、古来、和の精神に基づき、異文化の摂取および他国との協和に努めてき た。われらは、平和を愛する諸国民と手を携え、国際平和の維持に積極的に寄与し、尊厳あ る国づくりを進める。

 

一、日本国民は、変化に富む列島の気候風土のもと、個性あふれる地域文化を心の拠り所 としてきた。われらは、地域社会の自治と自立を尊重し、多様性と創造力に富む国づくりを 進める。

われらは、国家と国民の名誉にかけ、この崇高な理想と目的を達成することを誓う。 

 

序章

(象徴天皇制、国民主権) 第一条

① 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である。

② 主権は国民に属し、国のすべての権力は国民に由来する。国民は、代表者を通じて、 またはこの憲法の定めるその他の方法を通じて、主権を行使する。 

 

(国際平和主義、軍隊、徴兵制の禁止) 第三条

①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動 たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に これを放棄する。

②日本国は、国の独立と主権を守り、国民の生命、自由および財産を保護し、国の領土を保全し、ならびに国際社会の平和に寄与するため、軍隊を保持する。

③ 軍隊の最高の指揮監督権は、内閣総理大臣に属する。

④徴兵制は、これを設けない。

⑤安全保障に関する事項は、法律でこれを定める。 

 

第四条 ①日本国の国旗は、日章旗である。②日本国の国歌は、君が代である。 

 

第五条 日本国の領土は、日本列島およびその附属島嶼である。 

 

第一章 天皇

(皇位の継承)第六条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 

(天皇の国事行為)第九条 天皇は、国民のために、左の国事に関する行為を行う。(略)

三 憲法裁判所裁判官の互選に基づいて、憲法裁判所の長たる裁判官を任命すること。

 

(象徴としての行為)第十条 天皇は、伝統および慣習に従い、象徴としての行為を行う。 

 

第二章 権利および義務

(日本国民の要件)第十一条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

 

(信教の自由、政教分離)第十六条 ①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、政治に介入し、または政治上の権力を行使してはならない。②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。③国およびその機関は、宗派的な宗教活動をしてはならない。ただし、伝統的および儀礼的宗教行為は、この限りでない。

 

(国を守る責務)第四十七条 すべて国民は、国の安全と独立を守る責務を負う。

 

11)8月革命説 

8月革命説とは、昭和20年8月のポツダム宣言受諾により、主権の所在天皇から国民に移行し、日本国憲法は新たに主権者となった国民が制定したと考える学説のこと。主権の所在の移行を、法的な意味での革命と解することから、八月革命説と称される。憲法学者・宮沢俊義により提唱された。 

 

・8月革命説は、大日本帝国憲法の改正として成立した日本国憲法について、憲法改正限界説に立った場合の憲法制定過程説明理論である。すなわち、天皇主権を基本とする大日本帝国憲法から国民主権を基本とする日本国憲法への改正は、憲法改正の限界を超える。 

 

・しかし、「昭和20年8月のポツダム宣言受諾」により天皇から国民へ主権の所在が移行し、法的に一種の「革命」(8月革命)があったと解される。したがって、日本国憲法は新たに主権者となった国民が制定した憲法であり、改正手続は形式的な意味しか持たない。 

 

・このように、8月革命説は、革命という法的な擬制(フィクション)を用いて、日本国憲法の成立を説明した。 

 

11.1)八月革命説に対する批判 

・8月革命説は、説明に法的な擬制を用い、「革命」というセンセーショナルな語を含むため、発表の当初から様々な批判を受けた。1番の批判点は、そもそもポツダム宣言バーンズ回答国民主権の要求を含むのかという点にある。また、仮にそのような内容を含むとしても、多分に政治的な要求、又はせいぜい国際法上の義務を負ったに過ぎず、主権の所在が移行したとまでは言えないのではないかとの反論である。 

 

戦時国際法によればポツダム宣言の条項は、占領軍の撤退条件として例示されているものであり、また国際条約の締結をもって憲法の根幹が変更される(革命)と見なす場合、憲法に対する国際法の優越という別の問題が発生する。またハーグ陸戦条約附属書43条との整合性が問題になる。さらに占領政策下における国民主権という、実態や事実にあわない法理になっているのではないか、との論である。 

 

・ポツダム宣言の受諾当時、日本政府に天皇主権から国民主権に変わったという認識はなく、ポツダム宣言受諾以後も明治憲法は維持され、それが昭和21年11月3日公布の日本国憲法へと改正され、翌5月3日の施行にまで至ると解すべきではないか(憲法改正説)との論もある。 

 

・これらの見解に対する明確な反論は過去になく、8月革命説は長く通説としての立場を占めているのであるが、8月革命説はあくまで主権の移行に関する法的な説明をするための法理であって、事実経過に関する説明をするための見解ではないし、日本国憲法の成立の経緯に正当性を与えること目的としたものでもない。 

 

・これ以外にも異なる見解は多数提出されているが、8月革命説に替わり得るまでの有力説の登場には至っていない。 

 

12)憲法の変遷 

 憲法の変遷とは、憲法の規定の文言になんらの改定が加えられることなく、内閣行政府による有権解釈に基づく国家実行が行われ、議会が明示的ないし黙示的に追認することによって、事実上規範の意味が変化し、憲法改正されたのと同じ結果を生ずることを意味する。 

 

・一般的には事態を客観的に観察した結果を示す言葉であるが、これに司法的性格を持たせることができるか議論がある。 

 

実効性が失われた憲法規範法としての性格を持たないとして、これを肯定する見解がある。 

 

・他方、違憲状態はあくまでも事実にしか過ぎず、司法的性格をもちえないとして、これを否定する見解がある。


(5)世論の最近の動向


〇世論の最近の動向 

・平成17年、自民党が立党50年を機に第一次素案を発表した(この素案は、“自衛軍”の保持、軍事裁判所(軍法会議)の明記以外にも、環境権など新しい人権の追加という幅広く受け入れやすい要素を合わせ持っていた)この後、与党優勢を背景に国民投票法制定も含めて憲法改正に関する環境整備を進めようとする改憲派と、主に戦力の不保持を規定している日本国憲法第9条を守ろうとする護憲派が対立した。護憲派では九条の会などが結成された。 

 

〔平成16年〜17年年の世論調査〕

・平成16年〜17年年の世論調査では、改憲賛成「議論した結果改正することがあってもよい」という容認まで含めれば、60~80%台に増えている(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本世論調査会)。ただし、9条改正の賛成、反対のみを問うアンケートでは、賛成57%、反対36%(日本世論調査会)賛成・反対ともに39%(NHK) といった数字も出ている。 

 

〔平成18年のアンケート〕

・もっとも、「マガジン9条」が2006年1月に実施したアンケート で、「9条を変える」が82%、「9条を変えない」が18%となった。 ネット投票の誤差や組織投票呼びかけへの反応などの限界、投票者の年齢層などを指摘する声もあるが、“ 結果こそが全てである ” とする改憲派の自信と護憲派の危機感を呼んだ。 

 

〔平成19年~20年読売新聞世論調査〕

・一方、平成19年4月の読売による世論調査では、改憲賛成が過半数を占めたものの、大きく数を減らした。なかでも9条に関しては改正賛成が35%にとどまる一方で、改正せず解釈で対応するべきとの意見及び厳密に守るべきとの意見が合計で6割ほどになった。 

 

・特に、民主党支持層で改憲反対が増えたことから、安倍内閣への反発とみられるが、9条については改正反対の意見が根強いことをうかがわせる結果となった。 

 

・平成20年4月に同紙が行なった調査ではわずかながら改憲反対が賛成を上回った(42.5%に対し43.1%)。一方で、各政党が憲法議論をさらに活発化させるべきだと思う人は71%であり、時代にそぐわない部分が増えているとの認識が根強いと読売は分析している。 

 

〔平成22年 自民党 “ 憲法改正論点整理”〕

・平成22年には自民党・憲法改正推進本部(保利耕輔本部長)が “ 憲法改正論点整理の要旨 ” を発表。天皇の明文元首化や国歌国旗の制定、永住外国人の参政権否定、徴兵制度や国民が国を守る義務を定めることについて検討すると明記されていたことが論議を呼び、大島理森幹事長があわてて「公式なものではない」と否定して回る騒ぎとなった。 

 

〔米国知日派の見解〕

リチャード・アーミテージジョセフ・ナイは、憲法第9条と集団的自衛権について、「~何も日本は憲法を改正する必要はないということです。(以下略)」(アーミテージ)「個人的な見解ですが、“9条改正”という戦いに精力を注ぐよりも“解釈改憲”で行くべきだと思います。(以下略)」(ナイ)と述べているという。 

 

・もっともアーミテージは、平成24年7月22日の読売新聞への寄稿では、「~だが、こう言わなければ正直ではあるまい。日本の憲法上の制約は今後、日米同盟にとって、さらに重大な問題になるだろう。」と述べている。 

 

〔改憲賛否の主張〕

・改憲の積極的な賛成者は、近隣諸国(想定としては自衛隊が定義する対象国)による侵略からの防衛・抑止のために、また、日本国外に派兵して“国際貢献”もできるようにするために軍の保持を明記して疑いなく合憲にしようと主張する。 

 

・積極的賛成ではないが容認する中間層は新しい人権を追加する改憲に賛成である。北朝鮮の脅威などもあることから自衛隊から軍への昇格にもあまり反対しない状況が生じている。ただ、9条に関しては改正に反対する人も多い。 

 

・改憲反対者には、新しい人権に関しては現行憲法の人権規定で対応可能で現時点での改正は不要という人などがいる。

 

〇最近の世論調査

●憲法改正世論調査(2021.5.3 朝日新聞DIGITAL)

 改憲必要45%、不要44% 憲法9条は 朝日新聞世論調査

 *関連記事:Webサイト参照

 

●憲法改正世論調査(2021.5.3毎日新聞)

  憲法改正 「賛成」48%、「反対」31% 毎日新聞世論調査

 *関連記事:Webサイト参照

 

●憲法改正世論調査(2021.5.3読売新聞)

 憲法改正「賛成」上昇56%、緊急事態対応「明記を」6割…読売世論調査

  *関連記事:Webサイト参照

 

●憲法改正世論調査(東スポWeb2021.5.3)

 門田隆将氏が朝日・毎日の憲法改正の世論調査結果に言及現実派が確実に増えている」

 *関連記事:Webサイト参照

(追記:2021・05.06)


4.4 教育改革


(1)旧教育基本法の欠陥を補う試み(細川論文) 

(2)旧教育基本法の改正を目指して (細川論文)

(3)教育基本法の改正(平成18年12月)(細川論文) (4)学習指導要領の改正

(5)教科書検定基準の改正 (6)日本・中国・韓国の歴史教科書問題

(7)どうして教科書は自虐的になったのか

(8)昭和57年の教科書誤報事件と近隣諸国条項で教科書が悪化


(1)旧教育基本法の欠陥を補う試み(細川論文)


(引用:細川論文)

1)国民実践要領の頓挫(昭和26年9月) 

・旧教育基本法の欠陥は、同法施行当時、多くの人々の認識するところだったが、占領下ではいかんともしがかったのだろう。

・昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約の調印を機に、吉田茂内閣の天野貞裕文相は、教育基本法の欠陥を補い、道徳教育の指針を打ち立てようと努めた。

・そのために、天野文相が示そうと試みたのが、『国民実践要領』(※)である。『要領』は、個人・家・社会・国家の4章に分かれている。その第2章及び第4章を抜粋する。 

 

※国民実践要領 

第2章 家

(1)和合:家庭は自然に根ざした生命関係であるとともに、人格と人格とが結びついた人倫関係である。それゆえ、その縦の軸をなす親子の間柄においても、横の軸をなす夫婦の間柄においても、自然の愛情と人格的な尊敬がともに含まれている。

 

(2)夫婦:夫と妻たるものは、互に愛によって一体となり、貞節によってその愛を守り、尊敬によってその愛を高め、かくして互に生涯の良き伴侶でありたい。……

 

(3)親子:われわれは親として慈愛をもって子に対し、立派な人格となるように育成しなければならない。また子としては敬愛をもって親に対し孝養をつくさねばならない。……

 

(4)兄弟姉妹:兄弟姉妹は相睦び、それぞれ個性ある人間になるように助け合わねばならない。……

 

(5)しつけ:家庭は身近な人間教育の場所である。……家庭のしつけは健全な社会生活の基礎である。

 

(6)家と家:家庭は自家の利害のみを事とせず、社会への奉仕に励むべきである。家と家とのなごやかな交わりは社会の美しいつながりである。 

 

第4章 国家

(1)国家:われわれは国家のゆるぎなき存続を保ち、その犯すべからざる独立を護り、その清き繁栄と高き文化の確立に寄与しなければならない。……

 

(2)国家と個人:国家生活は個人が国家のためにつくすところに成り立つ。ゆえに国家は個人の人格や幸福を軽んずるべきでなく、個人は国家を愛する心を失ってはならない。……

 

(3)伝統と創造:…国民の精神的結合が強固なものであるためには、われわれは国の歴史と文化の伝統の上に、しっかりと立脚しなければならない。また国民の生命力が創造的であるためには、われわれは広く世界に向かって目を開き、常に他の長所を取り入れなければならない。

 

(4)国家の文化:国家はその固有なる民族文化の発展を通じて、独自の価値と個性を発揮しなければならない。その個性は排他的な狭いものであってはならず、その民族文化は世界文化の一環たるにふさわしいものでなければならない。

 

(5)国家の道義:国家の活動は、古今に通じ東西にわたって行われる人類普遍の道義に基づかねばならない。それによって国家は、内には自らの尊厳を保ち外には国際信義を全くする。

 

(6)愛国心:国家の盛衰興亡は国民における愛国心の有無にかかる。……

 

(7)国家の政治:国家は一部特定の党派、身分、階級の利益のための手段とみなされてはならない。われわれは常に国家が国民全体のための国家であることを忘れるべきではない。

 

(8)天皇:われわれは独自の国柄として天皇をいただき、天皇は国民的統合の象徴である。それゆえわれわれは天皇を親愛し、国柄を尊ばねばならない。……

 

(9)人類の平和と文化:われわれは世界の人類の平和と文化とに貢献することをもって国家の使命としなければならない。 

 

・以上のような内容から、天野の『国民実践要領』は、旧教育基本法の欠陥教育勅語の廃止を埋め合わせる試みであったことが明らかである。 

・しかし、当時の言論界教育界などから猛反発に遭い、『国民実践要領』は実現しなかった。日本が講和によって独立を回復したときに、歴史・伝統に基づく道徳教育を開始していれば、今日の教育の荒廃はなかっただろう。痛恨の極みである。 

 

2)独立後の教育発展(昭和27年4月~) 

・昭和27年4月、平和条約の発により、わが国は待望の独立国の地位を回復したが、当時わが国は、冷たい国際緊張の谷間にはさまれ国内的にも経済・社会の復興もいまだしの段階にあって、手ばなしで独立の春を謳歌することを許される状況ではなかった。

 

・しかし、政治・経済・社会の各分野にわたって占領下の諸施策反省と検討を加え、国家社会の発展国民生活の向上を図り、世界の進展に寄与しつつ、わが国が真に独立国として国際的地歩を確立するための方策を自ら見いだすことが急務とされた。 

・このような要請は、民主的な国家、社会、国民を形成するための基盤をつちかう教育の分野において特に切実なものがあった。 

 

2.1)教育施策の発展(6・3制の定着~教育の拡大~新たな変貌と発展への転換) 

・前述ように占領期間中に民主主義を基調とするわが国の戦後の教育改革の骨組みは成立したが、その実質的な整備はこの時期まで持ち越された。 

 

・一方、占領下に措置された諸施策の中には、民主主義的な教育の理念や方式の採用に急であって、その実施の経験を通じて、わが国の文化と伝統および進展する社会・経済との関係において必ずしも適切ではなく、そのままでは十分な成果を期待できないものもあることがしだいに明らかになってきた。 

 

・このような要請にこたえた、独立回復から今日までの20年間の教育施策を跡づけるとき、大観して3つの時期が認められる。 

 

第1期は独立から昭和32、3年頃までで、この期間に、一方では占領下施策について必要な是正措置が行なわれるとともに他方では新教育制度の充実のための諸施策が進められ6・3制がしだいに定着してきた。 

 

・次いで、第2期は、戦後復興期を終えた以降の30年代、なかんずくその後半を中心とする、経済・社会の急速な成長、発展の過程で、この時期にわが国の教育は急激な拡大をみせつつ、新時代に即応する新たな発展をとげたのである。 

 

・さらに第3期を設定するのは、ここ3、、4年の間の推移と将来の方向を展望しつつ、特に第2期と画して新たな変貌と発展への転換が始まっているとみることができるからである。 この動きを洞察した中央教育審議会はすでに、第3の教育改革を意図する教育改革構想を昭和46年6月答申している。 

 

・このような時期の分岐点は、占領、独立のような明確な事件で画することはできないもので、したがって3つの時期も一つの流れの中の時期的な特徴とみることもできよう。

 

2.2)顕著な社会現象(戦後出生児の急増と社会の発展) 

・さらに、この20年間の教育施策をみる場合に、これに至大な影響を与えた2つの顕著な社会的現象を見落としてはならない。

 

・一つは、いわゆるベビーブームの波と流れである。 昭和22年に始まる戦後出生児の急増の波頭は28年小学校に達し、以後35年中学校に、38年高等学校に、そして41年には大学の門戸に迫った。新学制の理念とする教育の機会均等は進学の障壁を撤廃した学校制度によって保障され、これに加えて、おりからの国民所得水準の上昇にささえられてこの波は進学率の上昇を伴ってわが国学校教育の目ざましい量的発展をもたらした。 

 

・他の一つは、科学技術の革新経済の高度成長社会の高度成熟である。この社会的現象は、第1の現象と合して教育需要を高め、教育の規模拡大の要因となるとともに複雑な影響を教育に与え、たんなる戦後の新教育の発展とのみはいえない新しい教育発展を促したのである。 

 

・これら二つの社会的現象が教育に与えた影響は特に先に述べた第2期以後において顕著である。しかしながらこの間、占領下施策をわが国の実情に即して是正しようとする措置や新たな社会的要請にこたえようとする施策に対して、新教育理念の後退戦前旧教育体制への復帰あるいは経済・社会の要請に対する教育の従属等を理由に一部に強い反対が起こり、時には教育界に混乱を生じたりして20年の歩みは決して平坦な道ではなかったことも忘れてはならない。 

 

・いずれにしても独立回復以降の教育施策について、前述の時期区分や社会現象をふまえて、いかなる措置がとられてきたかを以下概説する。 

 

3)教育課程の改善と学習指導の発展(昭和33年~44年)(1958~1969) 

・教育課程の基準とされた学習指導要領は、占領下の昭和26年に一度改訂されたが、独立後は真にわが国の教育内容の基準としてふさわしいものとするために自主的に点検され、改善されるべきことが急務とされた。 

 

・学習指導要領は、昭和33年と約10年後の昭和43・4年と再度にわたり全面改訂が行なわれた。

 

3.1)占領下の改訂(道徳教育の改善) 

・昭和33年の全面改訂が行なわれる以前に社会科の改訂が先行した。新教育のいわば目玉商品であった社会科について実施以来多くの論議をよび起こした。 

 

・まず、道徳教育社会科の指導の一環として取り扱われてきたため、戦後の道徳教育のあり方が国民各層から論議された。 

 

・そこで文部省は、昭和26年に道徳教育振興方策及び手引書要綱等を発表し、学校教育全体の周到な計画のもとに一貫した道徳教育を行なうこととした。 

 

3.2)独立後の改訂(道徳教育・地理・歴史の指導の充実) 

・次いで、道徳とともに地理歴史の指導を含めて社会科のあり方が検討され、30年には社会科の学習指導要領が改訂された。 

 

・ここでは、民主主義の育成に重要な役割をになう社会科の基本目標は正しく育成するが、実施の経験にかんがみ指導計画や指導法の欠陥を是正し、道徳教育、地理、歴史の指導の充実を図るというものである。 

 

・これらの動きを伴いながら文部省は独立後早々から学習指導要領改訂のための実態調査や研究討議を行ない、教育課程審議会の審議、答申を経て昭和33年にその全面改訂を告示した。 

 

3.3)第1次全面改訂(道徳教育の徹底と地理・歴史教育の改善) 

・昭和33年の措置によって教育課程は、従来の教科・教科外活動2領域を、各教科、道徳、特別教育活動、学校行事等4領域に明確化し、年間授業時数の最低を示し、かつ教育課程の基準として学習指導要領文部大臣が公示することとなった。 

 

・この改訂において特に考慮されたことは、道徳教育の徹底地理、歴史教育の改善のほか、特に国語、算数に関する基礎学力の重視、科学技術教育の向上を図るため特に算数、理科の内容の充実を図ったことなどである。 

 

3.4)第2次全面改訂(基礎教育の充実) 

・次いで、第2次全面改訂が小学校については昭和43年、中学校については昭和44年に行なわれたが、この間の10年は科学技術の革新経済の成長社会の成熟など各領域に急速な発展、変化がみられ、教育もまたかつてない規模拡大をとげた期間である。 

 

・これらの事情を考慮し、国民の基礎教育をいっそう充実するために再度の改訂が行なわれた。その要点は、社会が複雑化し変化が激しいほど学校の教育課程は精選化構造化を進め、基本的な知識や技能を習得させ、健康、体力の増進判断力や創造性情操や意志を養うため調和と統一のある教育課程の実現を図ろうとすることにある。 

 

・さらに地域や学校の実態に即応するため年間授業時数の標準を示し、構成領域は各教科道徳特別活動の三領域に改め、教育課程研究のための特例を認めるなど新しい時代に柔軟に対処しようとしている。

 

3.5)教育課程等の改善(教育の条件整備と学力調査等) 

・教育課程の充実した展開のため、すでに述べたようにこの間、学級編制教職員定数の適正化教材基準の設定等条件整備もあわせ進められた。特に、近年教育機器の開発とともに新しい教授学習過程の研究開発が進められ、文部省もこの面で研究校を設けてその推進を図っている。 

 

・なお、教育課程学習指導の改善教育条件の整備を図るための基礎資料をうる目的で、昭和31年から文部省は小・中・高校の児童・生徒の学力の実態調査を始め、さらに、36年年から4年間は、より豊富な資料をうるため中学校2、3年生の学力について悉皆調査を行ない、義務教育最終段階の学力について多くの資料を得所期の目的に資するところが多かった。 

 

・しかし、この悉皆調査については、国による教育の統制教員の評価に連なるとして一部において教員組合の組織的反対の事態も生じた。

 

4)教科書制度の整備(昭和23年~) 

4.1)教科書検定制度の実情(都道府県教育委員検定から文部省検定へ) 

・教科書については新学制発足とともに、民間の創意による多様な教科書が生まれることを期待して検定制度となったが、昭和22年の6・3制発足には間に合わず暫定的に文部省の著作によらざるをえないというちぐはぐな出発をした。 

 

・追いかけて昭和23年に検定規則検定調査会が生まれて昭和24年度から使用する教科書の検定が開始され、同時に昭和23年に「教科書の発行に関する臨時措置法」が制定されて、教科書の需給の調整適正価格の維持を図り教科書の発行・供給の円滑化を図った。 

 

・当時、教科書発行上の大きな隘路の一つであった用紙割当制が廃止された暁には教科書の検定都道府県教育委員会の権限とすることが規定されていたが、これは技術的・経済的な困難性のみならず教育的にも問題点が多く、中央検定を支持する意見が多く、結局、昭和28年の法改正によって、教科書の検定文部大臣の権限とされた。 

 

・新しい検定制度もしだいに定着してきたが他方、別の問題も指摘されるようになった。たとえば教科書発行者の増加に伴い売り込み競争が激化し、採択についての不公正な競争の弊害等が現われ、公正取引委員会から独占禁止法違反の疑いの警告や、特定の不正な取引方法が指定されるなどの措置がとられた。 

 

4.2)教科書検定制度の改善と教科書の無償給与 

・また教科書の種類が多くなるに従い検定機能がこれに追いつかず、記述の誤りや内容の偏りが指摘されるようになったので、文部省は教科書の検定、採択、発行、供給等についての改善を内容とする「教科書法案」を昭和31年、国会に提出したが審議未了となって成立しなかった。 

 

・その後、現行法の枠内での充実・整備を図ることとし、検定調査にたずさわる委員の大幅増員、新たに文部省の教科書調査官の設置、全国600か所の教科書センターの設置などの措置が講ぜられた。 

 

・また、義務教育無償措置の一環として教科書の無償給与が昭和26年から部分的にではあるが始まり、その後種々の変遷を経て昭和38年「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が制定され、以降年次計画をもって進行し、昭和44年に義務教育諸学校全体について教科書の無償給与が実現した。 

 

5)期待される人間像と日教組の反対(昭和41年10月) 

・その後、旧教育基本法には「よき日本人づくり」が挙げられていないとして、池田隼人首相が中央教育審議会に「期待される人間像」(※)の検討を諮問した。そして、昭和41年10月の中教審答申で発表された。 

 

・しかし、またもや日教組などの強い反対により、教育界には根づかなかった。 

 

※「期待される人間像」(抜粋要約)

第2部「日本人にとくに期待されるもの」

第2章「家庭人として」①家庭を愛の場とすること、②家庭をいこいの場とすること、③家庭を教育の場とすること、④開かれた家庭とすること

第3章「社会人として」①仕事に打ち込む、②社会福祉に寄与すること、③創造的であること、④社会規範を重んずること

第4章「国民として」①正しい愛国心を持つこと、②象徴に敬愛の念を持つこと、③すぐれた国民性を伸ばすこと 

 

6)「伝統の尊重」「愛国心の育成」「自衛心の涵養」の提案(昭和52年8月) 

・そうした状況において、日教組を批判する教職員団体・日本教師会(会長・田中卓皇學館大学文学部長当時)が、昭和52年8月に、教育基本法「伝統の尊重」「愛国心の育成」「自衛心の涵養」を盛りこむことを提案した。しかし、これも改正を実現する有効な動きとはならなかった。


(2)旧教育基本法の改正を目指して


 (引用:細川論文)

1)臨時教育審議会(昭和59年8月8日~昭和62年) 

臨時教育審議会は、昭和59年に公布された臨時教育審議会設置法に基づき総理府に設置され、内閣総理大臣の諮問に応じて調査審議することを所掌事務とした行政機関で、当時の中曽根康弘首相の主導で、政府全体として長期的な観点から広く教育問題を議論した。 

 

・運営に当たっては「21世紀を展望した教育の在り方」(第1部会)、「社会の教育諸機能の活性化」(第2部会)、「初等中等教育の改革」(第3部会)、「高等教育の改革」(第4部会)を議論する4つの部会が設けられ、議論のまとまったものから4次にわたって答申が出された。これらの答申に基づき、大学入学資格の弾力化学習指導要領の大綱化秋期入学制文部省の機構改革など教育全体に渡る様々な施策が実施された。

 

1.1)答申 

●第1次答申(昭和60年)

 ①我が国の伝統文化  ②日本人としての自覚   ③六年制中等学校   ④単位制高等学校 ⑤共通テスト 

 

●第2次答申(昭和61年)

 ①初任者研修制度の創設 ②現職研修の体系化 ③適格性を欠く教師の排除 

 

●第3次答申(昭和62年)

 ①教科書検定制度の強化  ②大学教員の任期制 

 

●第4次答申(昭和62年)

 ①個性尊重  ②生涯学  ③変化への対応 

 

1.2)第一部会と第三部会の対立 

・臨時教育審議会の内部では、「教育の自由化」を主張する第1部会と、それに強く反発する第3部会の対立がみられた。「教育の自由化」論者の代表的人物としては香山健一委員(学習院大学教授)がおり、「学習塾の私立学校としての認可」などを主張した。「教育の自由化」には文部省や自民党の文教族も反対し、第1部会と第3部会の争いは、規制緩和を進める中曽根首相文部省・文教族との代理戦争の様相を呈した。 

 

・結局、答申には「教育の自由化」は全面に登場することはなかったが、折衷案として「個性の重視・育成」がスローガンに掲げられ、「教育の個性化」が提案された。教職員組合や革新勢力の働きかけにより、教育基本法改正などの改革には踏み込むことはできなかった。

 

1.3)評価 

・「教育の自由化」が主張され、その後の新自由主義的・市場主義的な教育改革の端緒になったと評価されている。 

 

・また、それまでの教育政策は「文部省(教育行政)」「日教組(教職員組合)」という2項対立的枠組みで議論されてきたが、臨時教育審議会によりこの関係構図が大きく変わり、官邸主導・政治主導の教育政策立案という新しい流れが作られた。

 

2)教育改革国民会議(平成12年3月~13年4月) 

教育改革国民会議は、教育改革について幅広い検討を行うために、当時の小渕恵三内閣総理大臣の決裁によって、平成12年3月に設置された私的諮問機関のことである。 

 

・教育改革国民会議は、森喜朗内閣総理大臣のときまで平成13年4月まで積極的に開催が続けられ、特に教育基本法の改正奉仕活動の実施などを検討したことで注目された。

 

2.1)21世紀の日本を担う創造性の高い人材の育成を目指し 

・教育改革国民会議は、「21世紀の日本を担う創造性の高い人材の育成を目指し、教育の基本に遡って幅広く今後の教育のあり方について検討する」ことを目的として内閣総理大臣が開催する形がとられた。 

 

・教育改革国民会議は、内閣総理大臣が集めた有識者(委員)と必要に応じて出席を求められた関係者(オブザーバー、内閣総理大臣補佐官など)によって行われ、同会議に必要な庶務は、内閣官房内閣内政審議室教育改革国民会議担当室で実施された。 

 

・教育改革国民会議の委員には、26人の有識者が選ばれ、座長には、ノーベル物理学賞受賞者・理学博士(東京大学授与)の江崎玲於奈が、副座長には、ウシオ電機株式会社代表取締役会長の牛尾治朗と大学評価・学位授与機構機構長の木村孟が就いた。 

 

・教育改革国民会議の思想的な傾向については、教育基本法の改正や奉仕活動の実施等を検討した事から右翼的・保守的とも思われたが、幅広い提案を最終報告において行っているため、明確な判断が難しい。

 

・教育改革国民会議における話し合いは、多種多様な考え方を前提にしながらも総括的・全般的に行うことが指向され、当時の世間における教育議論の活性化にもつながったといわれている。しかし、「学力の向上」などの専門的な技術論よりも、「人間性の涵養」などの一般的な精神論の方が比較的多く議論されたためか、専門的な評論家による好意的な批評は、思想的な立場にかかわりなく比較的少ない。 

 

・教育改革国民会議の報告における提案については、具体化に向けたその後の検討が文部省・文部科学省などで行われている。これらには、すでに実施されたものもあるが、長い時間をかけて詳細な検討が続けられているものも多い。 

 

2.2)経緯 

①平成12年3月24日に小渕恵三内閣総理大臣(当時)の決裁があり、数日後の平成12年3月27日に第1回教育改革国民会議が行われている。 

 

②平成12年5月11日 青少年事件が相次いだため「教育改革国民会議座長緊急アピール」が出される。 

 

③平成12年7月26日には、分科会で行われた審議の報告が発表され、 

 

④平成12年9月22日には分科会の報告を取りまとめて教育改革国民会議全体としての「教育改革国民会議中間報告 -教育を変える17の提案-」(中間報告)を発表。 

 

⑤平成12年10月~11月:日本各地(福岡、大阪、東京、新潟)「一日教育国民会議」(公聴会)を開催。 

 

⑥平成12年11月 委員による小学校・中学校・高等学校の視察。 

 

⑦平成12年12月22日:「教育改革国民会議報告 -教育を変える17の提案-」(最終報告)が森内閣に提出。 

 

⑧平成13年4月2日 第14回会議開催、教育改革に対する政府の取り組み状況の説明。 

 

2.3)教育改革国民会議報告「教育を変える17の提案」 

・「教育を変える17の提案」(※)に示されたことには、専門職大学院の制度をはじめとしてすでに実現した事項もあるが、教員免許状の更新制をはじめとする多くの事項について文部科学省の中央教育審議会などで繰り返し審議が行われている。

 

※教育を変える17の提案

◇人間性豊かな日本人を育成する

①教育の原点は家庭であることを自覚する

②学校は道徳を教えることをためらわない

③奉仕活動を全員が行うようにする

④問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない

⑤有害情報等から子どもを守る 

 

◇一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する

⑥一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する

⑦記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する

⑧リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する

⑨大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する

⑩職業観、勤労観を育む教育を推進する 

 

◇新しい時代に新しい学校づくりを

⑪教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる

⑫地域の信頼に応える学校づくりを進める

⑬学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる

⑭授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする

⑮新しいタイプの学校(“コミュニティ・スクール”等)の設置を促進する 

 

◇教育振興基本計画と教育基本法

⑯教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を

⑰新しい時代にふさわしい教育基本法を


(3)教育基本法の改正(平成18年12月)


 (引用:細川論文)

1)教育基本法改正の経緯 

1.1)教育基本法改正の契機 

旧教育基本法は、占領下に作られ、戦後教育を呪縛してきた。同法が制定された後、国会で教育勅語排除・失効とされ、わが国の教育は、理念や方針根本的な問題を抱えたまま行われてきた。 

 

・戦後50年となる平成7年ごろから、教育に関する問題が次々に吹き出るようになった。いじめ、不登校、学級崩壊、対教師暴力、学力低下、援助交際という名の少女売春麻薬服用の低年齢化少年による凶悪犯罪等々、事態はもはや猶予を許さないところに至った。 

 

・このまま進めば、日本は亡国に至るという危機感が強まり、教育基本法の見直しを図る議論が高まったのは、平成14年ころからである。 

 

1.2)教育基本法改正議論の経緯 

〇 教育改革国民会議

◆平成12年3月24日 教育改革国民会議設置

◆同年12月22日 「教育改革国民会議報告―教育を変える17の提案-」を報告

・15の具体的施策とともに、教育基本法の見直しと教育振興基本計画の策定の必要性を提言 

 

〇 中央教育審議会

◆平成13年11月26日 中央審議会に諮問(総会15回、基本問題部門28回)

◆平成15年3月20日「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興計画の在り方について」答申 

 

1.3)自公連立政権による立案 

立案・審議の過程には、大いに問題があった。平成18年4月、教育基本法の改正が国会で審議されようとする段階に入る前、自公連立与党は、同法の改正に関し、3年間にわたって、秘密会議で協議していた。議事録も資料も公開しなかった。

 

与党検討会(大森理森会長)は、平成18年4月の最終報告段階になっても条文案を公表せず、要旨だけしか発表しなかった。それに対する国民の批判が高まり、ようやくその内容が、報道された。その時、報道された与党案が結局、そのまま法律となった。

 

・自公の関係者は、ごく一部の者の話し合いで案をつくり、それを一気に成立させてしまおうという目論見だったのだろう。彼らは、デモクラシーを保障する「公開の討論」という根本原則を無視していた。これは、従来の自民党にはなかった姿勢である。個人独裁的・中央集権的な体質を持つ公明党(創価学会)の手法が、自民党の政治手法に相当影響しているのではないかと懸念される。 

 

・平成17年、小泉政権のもとで行われた9・11衆議院選挙では、与党が歴史的な大勝をしたが、これは自民党が公明党と一体化を深めた結果である。選挙後は、ますます創価学会の意向に沿うことなしに、自民党は、政権維持・政策実現ができなくなっている。教育基本法の改正は、こうした状態において、国会で審議されたのである。  

 

※与党における検討:自由民主党&公明党

◇平成15年5月12日第1回「与党教育基本法に関する協議会」開催 

◇同年6月12日 協議会の下に「与党教育基本法に関する検討会」設置 

◇平成18年4月13日 第10回「与党教育基本法に関する協議会」開催

 ◆「教育基本法に盛り込むべき項目と内容について(最終報告)」を了承・公表 

 ◆官房長官に最終報告を手交

・「協議会」を10回、「検討会」を70回実施 

 

※教育の目標:抜粋

⑥-1 伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養

⑥-2 伝統文化を尊重し、郷土と国を大切にし、国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養 

◇政治教育

◆政治に関する知識など良識ある公民としての教養は、教育上尊重されること。

◆学校は、党派的政治教育その他政治活動をしてはならないこと。 

◇宗教教育

◆宗教に関する寛容の態度と一般的な教養並びに宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されること。

◆国・公立の学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。 

 

1.4)国会での審議状況 

〇与党案への修正要求

・国会での審議が始まると、教育基本法改正促進委員会(超党派改正議連・亀井郁夫委員長)、「日本の教育改革」有識者懇談会(民間臨調・西沢潤一会長)、日本会議国会議員懇談会(平沼赳夫会長)などが、与党に修正要求を出した。 

 

・与党案とは別の改正案も準備されていたが、与党案の全般的な修正は難しいという判断のもと、3点に搾って修正要求が出された。

①「国を愛する態度を養う」と表現した与党案について「態度」を「心」に変えること、

② 与党案に盛られていない「宗教的情操の涵養」を明記すること、

③ 教科書検定訴訟や国旗国歌反対運動の根拠とされてきた旧教育基本法の「教育は、不当な支配に服することなく」という文言は主語を「教育」から「教育行政」に改めること。

・これらの3点である。 

 

〇野党民主党の対案

・一方、民主党は、独自の対案を提出した。

① 民主党案は、愛国心に関しては、「日本を愛する心を涵養」という文言を前文に入れていた。

② 宗教的情操の涵養に関しては、「宗教的感性の涵養」という文言を入れた。

③ また、教育行政に関しては、「教育は、不当な支配に服することなく、」について、その文言を用いず、独自の条文案を提示した。 

 

・その限りにおいて、与党案の持つ欠陥を正す内容となっていた。保守系の学者・有識者の中には、与党案より優れていると評価し、与党に対し、民主党案をそっくり受け入れることを求める人もいた。 

 

・しかし、民主党は、戦後教育を大きくゆがめてきた元凶ともいえる日教組を、支持団体の一つに持っている。日教組を基盤とした議員もいる。民主党の教育政策は日教組の活動を容認し、日教組は民主党の教育政策を支持するという関係にある。 

 

・民主党は、教育基本法の改正案には優れた部分があったとしても、日教組を批判して、日本の教育を改革しようと意思は、まったく感じられない。日教組の支持を受けている政党が、歴史教育の偏向、道徳教育の欠落、過激な性教育の横行を是正できるはずがない。 

 

・それゆえ、民主党の改正案は、単なる国会戦術にすぎないものだったのではないかと指摘する人もいる。 

 

1.5)国会審議の経過 

〇政府:平成18年4月28日 「教育基本法」閣議決定、第164回通常国会に提出 

〇第164回通常国会(平成18年1月20日~6月18日)小泉内閣

・衆議院本会議:特別委員会設置(5月11日)、趣旨説明・質疑(5月16日)

・衆議院特別委員会:提案理由説明(5月16日)

・法案継続審議:通常国会閉会(6月18日) 

 

〇第165回臨時国会(平成18年9月26日~12月19日)安倍内閣

・衆議院:本会議特別委員会設置(9月28日)、特別委員会可決(11月15日)、本会議可決(11月16日)

・参議院:本会議特別委員会設置・趣旨説明・質疑(11月17日)、特別委員会提案理由説明(11月22日)、特別委員会可決(12月14月)、本会議可決・成立(12月15日) 

 

 ※国会審議における主な質疑応答:愛国心関連 

質問要旨

答弁要旨

教育基本法を改正する理由は何か

●小泉総理:科学技術の進歩や少子高齢化など、教育をめぐる状況が大きく変化する中で、道徳心や自律心、公共の精神、国際社会の平和と発展への寄与などについて、今後、教育において、より一層重視することが求められてきております。 

伊吹文相:日本にはやはり日本の祖先が営々として築き上げた法に書かれざる暗黙の申し合わせというか伝 統というか社会規範というか、こういうものがございますから、まず、これをはっきりと再認識する教育を取り戻さないと、現在の豊穣の中の精神の貧困という状態からなかなか抜けられない。

教育基本法を改正し、どのような人間の育成を目指すのか

小坂文相:我が国の伝統と文化を基盤として国際社会を生きる日本人など、二十一世紀を切り開く、心豊かでたくましい日本人の育成を目指して教育改革を進めていく。 

伊吹文相:日本人としてのアイデンティティー、つまり我が国国民が、民族が大切にしてきた伝統、文化、こういうものをしっかりと身につける。日本の固有文化、伝統、社会規範みたいなものがある。

前文の構成及び趣旨如何

小坂文相:伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進すべき旨を掲げております。

 伝統の継承とは、我が国の長い歴史を通じて培われ、受け継がれてきた風俗、習慣、芸術などを大切にし、それらを次代に引き継いでいくということであります。

 また、新しい文化の創造とは、これまでに培われた伝統や文化を踏まえ、さらに発展させ、時には他の文化も取り入れながら新しい文化を創造することを言っております。

伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育とは何か

田中障害学習政策局長:我が国の長い歴史を通じて培われ、受け継がれてきた風俗、習慣、芸術といったようなことでございまして、例で挙げますと、季節の行事でございますとか伝統芸能、あるいは伝統産業、伝承遊びといったようなことが考えられるんだろうと思いますけれども、そういう伝統を次代に引き継いでいこうという趣旨でございます。

教育の目的・

目標

2条第5号の趣旨如何。

(伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する)

小坂文相:グローバル化と言われる社会の中にあって、日本人が海外に出て活躍をする、そのときに、日本人のアイデンティティーとして、しっかりとした歴史観、そして伝統に対する認識、日本の伝統文化というものをしっかりその知識を身につけていただくことが、やはり日本を理解され、また日本人が尊敬されるもとだと思う。我が国の伝統と文化についての理解を深め、そして尊重し、それらをはぐくんできた我が国や郷土を愛する日本人の育成が求められているという認識 

安倍総理:日本人として異なる文化や歴史を持つ人々といかに共生していくかが重要な課題となっており、自国の、自分の国のみならず、他国の伝統や文化などを尊重する態度を養うことが求められております。

戦前のように国を愛する心を強制するのではないか

伊吹文相:愛国心の美名の下に個人の尊厳が損なわれた戦前の反省があって現行憲法はできたと、現行の教育基本法はできたと。だからそれを変えるのは、戦前に返るということではやっぱりないんじゃないでしょうか。

 個人の尊厳というのは、もう人間として有する人格はやっぱり不可侵のものであるということは今回の基本法においても認めている。戦前の、この愛国心という言葉の下で個人の尊厳が破壊されていた戦前に戻るなどということは、我々は毛頭考えておりません。

「我が国」には統治機構を含むのか

小坂文相:歴史的に形成されてきた国民、国土、そして伝統と文化から成る、言ってみれば歴史的な、あるいは文化的な共同体としての我が国というものを愛していくという趣旨でございまして、その中には、統治機構、すなわち今日の政府や内閣、こういったものを愛せということは含んでおりません。 

安倍総理:我が国を愛するとは、歴史的に形成されてきた国民、国土、伝統、文化などから成る歴史的、文化的な共同体としての我が国を愛するという趣旨であります。この趣旨を条文上明確にするため、伝統と文化をはぐくんできた我が国と郷土を愛すると規定し、統治機構、すなわちその時々の政府や内閣等を愛するという趣旨ではないことを明確にしております。このことは自由と民主主義を尊ぶ我が国にとって当然のことであります。

「態度」とした理由。「心」とすべきではないか

小泉総理:我が国と郷土を愛する態度とは、我が国を愛し、その発展を願い、それに寄与しようとする態度のことであり、このような態度は心と一体として養われるものと考えています。

 また、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する」ことを一体として規定することとしたところであり、これを受ける語句としては「態度を養う」とすることが適当であると判断したものであります。

「我が国を愛する」態度【とはなにか。どのように指導するのか。

小坂文相:社会科や道徳などにおきまして、現在の学習指導要領においても規定されておりますように、ふるさとの歴史や昔から伝わる行事を調べたり、あるいは、国家、社会の発展に大きな働きをした先人、偉人、また国際社会で活躍した日本人等の業績について調べたり、あるいはそういった理解を深める、そういったことを行うとともに、我が国の歴史などに対する理解と愛情をはぐくみ、そして、国家、社会の発展に努力していこうとする態度を育てるといった指導を行っていくわけでございます。 

安倍総理:我が国や郷土を愛し、さらに、その発展を願い、それに寄与しようとする態度のことであり、このように我が国と郷土を愛する心と態度は一体のものとして養われるものであります。

 このような我が国と郷土を愛する態度を養うため、学校教育では、我が国や郷土の発展に尽くした先人の働きや、我が国の文化遺産や伝統芸能などについて調べたり体験したりすることを通じて、我が国の歴史や伝統文化に対する理解と愛情をはぐくむ指導が今後より一層行われるよう努めてまいります。

「我が国を愛する」態度をどのように評価するのか。内心の自由を侵害するのではないか。

小坂文相:我が国の伝統や文化等の学習内容について進んで調べたり、あるいは学んだことを生活に生かそうとする、そういう関心、意欲、そういった態度を総合的に評価するものでございまして、具体的に申し上げますと、さらに申し上げますと、歴史上の人物などに関心を持っているか、あるいは、意欲的に調べ、学んだことをもとに、我が国の将来やその発展のために自分に何ができるだろうか、そういったことについて考えながら追求しようとしているかどうか、そういったことを評価するものでありまして、子供たちの内心に立ち入って評価するようなものではないわけであります。 

伊吹文相:愛国心とは差があって当然。評価する者の愛国心の基準で各々の人の心の中を評価するということは適当じゃない。 この国に生まれて良かったと、そして父や母の中ではぐくまれて良かったと、祖先の私はおかげで今ここに存在していると、私の愛国心というのは多分そういうものだろうと思うんですね。

 各々の学校で自分が生まれてきた歴史だとかあるいは史実だとか、こういうことをどの程度マスターをして、そしてそれを、積極的にそういうことを勉強していくことによって自分の心の中が形成されていくという態度を評価することは私構わないと思いますよ、その学習態度をですね。しかし、それがどういう心を形成するかということを評価してしまったら、これはどうしようもないことになるんじゃないんですか。

国を愛する心情を通知表で評価するのは不適当ではないか

小坂文相:我が国の歴史や伝統に関する学習内容に対する関心、意欲、態度を総合的に評価する。 

安倍総理:態度をこれは養うために、我が国の例えば歴史や文化や伝統あるいは偉人の業績等々について、また故郷の地域のすばらしさ等々を調べる、そういう調査をする、学習するという態度についての、それは評価をする

 

2)教育振興基本計画の策定(平成20年7月1日) 

〔教育振興基本計画抜粋〕 

第3章 今後5年間に総合的かつ計画的に取り組むべき施策

(3)基本的方向ごとの施策 基本的方向2

1)個性を尊重しつつ能力を伸ばし,個人として,社会の一員として生きる基盤を育てる

2)規範意識を養い,豊かな心と健やかな体をつくる

・新学習指導要領を踏まえ,生涯をより良く生きようとする力の源泉となる豊かな心と健やかな体を育成する。あわせて,将来,社会の責任ある一員として生きる自覚を促し,そのために必要な資質を養う。 

 

◇ 道徳教育の推進

・子どもたちの豊かな情操や規範意識,公共の精神などをはぐくむ観点から,道徳教育の充実に向けて,道徳教育推進教師を中心とした全校的な指導体制の下での指導計画づくりなどを促進するとともに,指導方法・指導体制等に関する研究や教材の作成などに総合的に取り組む。 

 

・特に,教材については,学習指導要領の趣旨を踏まえた適切な教材が教科書に準じたものとして十分に活用されるよう,国庫補助制度等の有効な方策を検討する。 

 

・また,子どもの発達の視点を踏まえつつ,家庭,学校,地域が一体となって徳育を推進するための諸方策について幅広く検討を行う。 

 

◇ 伝統・文化等に関する教育の推進

・ 伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う観点から,我が国や郷土の伝統・文化を受け止め,それを継承・発展させるための教育を推進する。 

 

・子どもたちが,学校や地域の文化施設において,優れた舞台芸術の鑑賞や文化芸術活動への参加ができる機会や,地域において民俗芸能,邦楽,茶道,華道などの伝統文化に関する活動を計画的・継続的に体験・修得する機会の提供を支援する。 

 

・さらに,我が国固有の伝統的な文化である武道の振興を支援する。

 

・ 異なる文化的背景を持つ人々との相互理解を深め,国際社会において主体的に行動できる人材を育成するため,各学校段階における国際理解教育の推進を促す。また,宗教に関する一般的な教養に関する教育の推進を図る。

 

3)改正教育基本法の内容(この教育基本法には欠陥がある) 

・結局、教育基本法の自公案は、一字一句修正されずに、平成18年11月16日、衆議院本会議で採決された。 

 

・3点に絞った修正要求、民主党の対案については、十分な議論のされぬまま、与党の単独採決によって、自公案が可決された。続いて参議院では12月15日に、採決が行われ、可決された。改正教育基本法は、このようにして成立した。 

 

・改正教育基本法は、旧教育基本法に比べて、どこが改正され、どこに問題を残したのであろうか。 

 

3.1)旧教育基本法の問題点 

〇「伝統の尊重」、「宗教的情操の涵養」、「愛国心」の欠如 

旧教育基本法は、わが国の教育の専門家による教育刷新委員会が原案をつくったが、帝国議会に上程される直前に、GHQのCIE(民間情報教育局)の指示で、法案の前文から「伝統を尊重し」という文言が削除された。また「宗教的情操の涵養」という部分も削除された。 出来上がった旧教育基本法は、憲法順守が謳われ、GHQ製の押しつけ憲法「精神」にのっとった教育を行うものだった。 

 

「人格の完成」「機会均等」などの教育理念が打ち出され、「個人の尊厳」「真理と平和の希求」が盛られる一方、愛国心、公共心、伝統の尊重などが欠け落ち、自国の歴史や伝統を重んじ、国の発展をめざすということが抜けていた。 

 

「民主」「平和」「個人」などの用語があるのに対し、「日本人」「民族」「国民」「歴史」「伝統」などの用語自体が使われていなかった。わが国の青少年をどういう「日本国民」に育てるか、という目標像がなかった。むしろ、日本人が日本民族としての自覚を持てず、歴史と伝統を受け継げないようにする内容となっていた。 

 

「宗教教育」についても、宗教的な情操教育を大切にするという姿勢はなく、憲法第20条3項とともに、公立学校での宗教教育を制限する狙いがあった。旧教育基本法全体が、日本人に自国の歴史と伝統を伝えないような内容となっていたが、その一環として、日本人の心の中核にある宗教的情操を弱め、次世代に伝わらないようにする意図があったと見られる。 

 

〇 政治利用された「不当な支配に服することなく」の規定

・また、教育は「不当な支配に服することなく、」という文言が入っていた。これは、国家による教育が、軍国主義者や超国家主義者によって支配されないようにするというGHQの意思の表現である。この条文は、日教組が教育現場への国の関与を排除するための根拠としてきた。

 

・学校行事における日の丸掲揚、君が代斉唱等に反対するために利用されてきた。

 

3.2)旧教育基本法の問題点の改善と取り残し 

・今回の教育基本法の改正で、上記の問題点の一部は、改善された。しかし、重要な部分の改善はされないままに終わった。 

 

〇 公共の精神を貴ぶと伝統・文化の尊重へ 

・まず、前文に「公共の精神を尊ぶ」が入った。「公」を忘れ、「私」に偏りすぎた戦後教育の理念を一定程度、修正するものとなっている。また「伝統の継承」が入ったのも、前進である。自国の伝統を尊重するという当たり前のことが、ようやく基本法に盛られた。

 

・その反面、「日本国憲法の精神にのっとり」の文言は残っている。GHQ製の押しつけ憲法の「精神」にのっとった教育という根本は、変わっていない。 

 

〇 愛国心が国を愛する態度へ

・第2条の5号に、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」と盛られた。公明党がかたくなに抵抗したため、「愛国心」という言葉は使用されなかった。 

 

・また、「愛国心」を用いない場合、「態度」という言葉を「心」に直すべきだという意見が出された。 当時、内閣府の世論調査によると、愛国心教育「必要」という人が80.8%もあった。不必要が10.4%、不明が8.8%だった。国民の8割が望んでいるのに、「国を愛する心」が盛り込まれなかったのは、異常である。 

 

・その一方、「他国を尊重し」と盛り込むのは、自国の国益より他国の国益を尊重することになりかねないと反対があったが、そのまま条文となった。 

 

〇 家庭教育の新設 

・第10条に、家庭教育の条文が新設されたのは、前進だった。父母その他の保護者が子供の教育について持つ「責任」が明記されている。「生活のために必要な習慣を身に付けさせ、」という文言は、しつけを基本とする基本的な生活習慣の習得を意味するものだろう。この点は、評価できる。 

 

〇 幼児期の教育の新設

・第11条に、幼児期の教育について盛られたのも良かった。ただし、問題点がある。「国と地方公共団体は幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備、振興」という文言は、「男女共同参画社会基本法」に引き寄せて理解すれば、フェミニズムによる曲解を許すと懸念される。

 

・すべての女性を労働者とするための保育所の増設、超長時間保育の拡大などのフェミニズム行政の根拠とされれば、他の教育改革はすべて基礎から崩れ去るおそれがある。 

 

〇 宗教に関する一般的教養としての宗教的情操の涵養

・第15条は、旧法の第一項に「宗教に関する一般的教養」という文言を加筆した。第二項は旧法と同じである。多くの国民が求めていた「宗教的情操の涵養」は、盛り込まれていない。

 

・神道・仏教・キリスト教などさまざまな宗教について、特定の宗教宗派に偏らずに教育し、宗教的情操を養うことは可能なことである。 

 

〇 「不当な支配に服することなく」の規定の残留

・第16条は、教育は「不当な支配に服することなく、」という文言が残った。この条文は、旧法第10条にあったもので、日教組・全教が国の関与を排除する根拠としてきた条文である。

 

・この文言がそのまま存続するので、教職員組合のイデオロギー的・政治的な活動を許すだろう。それを避けるには、教育についての行政責任を明記する必要があったのだが、この点は明記されていない。

 

3.3)新教育基本法の評価 

・以上、改正教育基本法は、部分的には前進があるけれども、全体を貫く理念・方針がはっきりしない。国家百年の計というにふさわしい大計のないままつくられたものと、言わざるを得ない。問題山積の教育の改革に取り組むにあたり、この新法からどれだけ実効性を引き出せるか、疑問が残る。 

 

・特に「愛国心」が明記されなかったこと、宗教的情操の涵養が盛り込まれなかったこと、教育に対する「不当な支配」の文言の修正がされなかったことの3点は、重大な欠陥である。今回の改正は、こうした欠陥を持ったままの取り敢えずの改正であり、連立与党の自民党・公明党による政治的な妥協と折衷の産物だとも言われている。 

 

3.3)教育勅語との関係 

・また、教育勅語との関係がある。旧教育基本法の制定時には、教育勅語の存在が前提とされていた。しかし、制定後、教育勅語はGHQの意思により、国会で排除・失効の決議がされた。そのため、旧教育基本法のもとでの教育は、教育の根本目的道徳教育の理念を欠いたものとなった。 

 

・今回の教育基本法の改正においては、国会で、教育基本法教育勅語の関係排除・失効の決議の法的有効性について、ほとんど議論されていない。教育勅語の見直しや復権はなされていない。それゆえ、新法のもとでも、道徳教育は、大きくは改善されないだろう。 

・この点が、今回の改正における最も大きな欠陥である。新法は、伝統の尊重公共の精神国を愛する態度等を盛り込んではいるが、それらを束ねる理念を欠いている。その理念は、教育勅語の復権なくして確立されないものである。 

 

・それゆえ、占領下に定められた教育基本法が、59年ぶりに改正された意義は、大きいものの、今回の改正の成果を踏まえ、さらに早期に再改正をすべきものであろう。憲法改正が先に実現すれば、新憲法のもとでの再改正となるだろう。その場合、今回の改正教育基本法は、暫定的な性格のものだったことが明らかになるだろう。

 

 4)教育基本法改正にあたっての内閣総理大臣等の談話 

4.1)内閣総理大臣の談話(平成18年12月15日) 

〔内閣総理大臣の談話〕

 本日、教育基本法改正法が成立いたしました。教育基本法の改正については、平成十二年の教育改革国民会議の報告以来、国民的な重要課題として取り組んでまいりましたが、今般この法律が成立したことは、誠に意義深いものがあり、ここに至るまでの関係者の御努力、国会の御審議に感謝申し上げます。

 

・昭和二十二年に制定された教育基本法のもとで、戦後の教育は、国民の教育水準を向上させ、戦後の社会経済の発展を支えてまいりました。

 

・一方で、制定以来既に半世紀以上が経過し、我が国をめぐる状況は大きく変化し、教育においても、様々な問題が生じております。

 

・このため、この度の教育基本法改正法では、これまでの教育基本法の普遍的な理念は大切にしながら、道徳心、自律心、公共の精神など、まさに今求められている教育の理念などについて規定しています。 

 この改正は、将来に向かって、新しい時代の教育の基本理念を明示する歴史的意義を有するものであります。

 

・本日成立した教育基本法の精神にのっとり、個人の多様な可能性を開花させ、志ある国民が育ち、品格ある美しい国・日本をつくることができるよう、教育再生を推し進めます。学校、家庭、地域社会における幅広い取組を通じ、国民各層の御意見を伺いながら、全力で進めてまいる決意です。 

 国民各位におかれましても、今回の改正の意義について御理解を深めていただき、引き続き、御協力賜りますようお願いする次第であります。

 

4.2)文部科学大臣談話(平成18年12月15日) 

〔文部科学大臣談話〕

 教育基本法改正法成立を受けての文部科学大臣談話(平成18年12月15日) 

 本日、教育基本法改正法が成立し、我が国の教育改革は新たな第一歩を踏み出しました。関係各位のこれまでのご尽力に対し感謝します。 

 個人の価値を尊重しつつ、その能力を伸ばし、志ある国民を育て、品性ある国民による品格ある国家・社会をつくるために、教育が重要であることはいつの時代も変わりありません。 

 

 昭和22年に制定された前教育基本法のもとで我が国の教育は充実発展し、豊かな経済社会や安心な生活を実現する原動力となるなど、多くの成果をあげてきました。しかし、制定から半世紀以上が経過し、科学技術の進歩、情報化、国際化、少子高齢化、家族のあり方など、我が国教育をめぐる状況が大きく変化し、様々な課題が生じています。 

 

 このため、今回の改正法は、これまでの教育基本法が掲げてきた普遍的な理念を継承しつつ、公共の精神等、日本人が持っていた「規範意識」を大切に、それらを醸成してきた伝統と文化の尊重など、教育の目標として今日特に重要と考えられる事柄を新たに定めています。 

 私は、教育基本法改正法の成立を受けて、国民の皆様や教育関係者に、その趣旨についての理解を深めて頂くとともに、教育基本法改正法の精神を様々な教育上の課題の解決に結びつけていくため、関係法令の改正や教育振興基本計画の策定などの具体的な取り組みを着実に進めてまいりたいと考えております。 

 

 これらの取り組みを通じて、国民の皆様の共通の理解を得ながら、学校・家庭・地域社会が一体となって教育改革を推進していくためにも、教育関係者、保護者の皆様をはじめ、国民各界各層の皆様のご協力を切にお願いします。


(4)学習指導要領の改正


(引用:Wikipedia) 

1)学習指導要領の概要 

学習指導要領は、文部科学省が告示する教育課程の基準であり、小学校、中学校、中等教育学校(中高一貫教育)、高等学校、特別支援学校の各学校が各教科で教える内容を、学校教育法施行規則の規定を根拠に定めたもの。 

 

・国立学校、公立学校、私立学校を問わずに適用されるが、実際の状況では公立学校に対する影響力が強い一方で、私立学校に対する影響力はそれほど強くない。なお、幼稚園では学習指導要領に相当するものとして幼稚園教育要領がある。

 

・なお、文部科学省は学習指導要領のより詳細な事項を記載した『学習指導要領解説』(※)を発行しており、学習指導要領とは異なり法的拘束力はないとされ、教科用図書検定規則などには学習指導要領解説に沿わなければならないという規定はない。 

 

・ただし、一部科目で学習指導要領解説で提示された公式のみが教科書に実際に記述されている(提示された公式以外の公式の記述はなし、学習指導要領解説にはない公式を掲載しても検定を通る可能性が低い)など、教科書検定の際には強い影響力を持っており、事実上拘束力がある。

 

※参照: 小学校学習指導要領解説 中学校学習指導要領解説 高等学校学習指導要領解説

 

1.1)学習指導要領の内容 

・学習指導要領の内容は校種によって若干の変化はあるが基本的に以下の4つからなる。

 総則教科道徳特別活動 

 

・ただし、高等学校においては道徳を扱わない。特別支援学校においては、上記のほかに、自立活動が含まれる。また、平成14年に小学校中学年から高等学校に創設された総合的な学習の時間は総則のなかで規定されている。 

 

・平成23年に施行される学習指導要領では、総合的な学習の時間は総則のなかではなく、独立した章で規定されている。また、小学校高学年に外国語活動が新たに規定された。 

 

・学習指導要領の内容は、学校をめぐるさまざまな事件受験戦争の激化不登校校内暴力学力低下問題などや、特に歴史などでは近隣の国々と日本の間の過去の関係やその理解の仕方などで変化してきている。 

 

1.2)学習指導要領の法的位置づけ 

・各教科の単元の構成やその詳細が指示されているが、法令ではない。しかし、学校教育法施行規則に基づいて定められているため、その効力については議論があるが、伝習館高校事件の最高裁判所における判例によると、一部法的拘束力とするには不適切な表現があるものの、全体としては法的拘束力を有すると判断されている。 

 

・ただし、伝習舘高校は公立高校であり、本判例が学習指導要領が私立学校までをも拘束する趣旨であるかどうかは微妙である。 

 

2)学習指導要領の変遷 

〔昭和20年~平成23年〕

・年度は小学校で本格的に開始された年度である。1単位時間は小学校は45分、中学校は50分である。

 

学校種

 

小学校

 

中学校

(上段:必須、下段:選択)

教科以外の活動

/特別教育活動

(上段:小学校、

下段:中学校)

 

昭和20

国語、算数、社会、理科、音楽、

図画工作、家庭、

体育、自由研究

国語、習字、社会、

国史、数学、理科、

音楽、図画工作、体育

職業(農業・商業・

水産・工業・家庭)

 

外国語、習字、職業、

自由研究

第2次世界大戦後しばらく行なわれていた学習指導要領。手引きという立場であり、各学校での裁量権が大きかった。昭和28年までは学習指導要領(試案)という名称であった。小学校において、戦前からの修身、地理、歴史が廃止され、社会科が新設され、家庭科が男女共修となった。自由研究が新設された。

昭和26

国語、算数、社会、理科、音楽、図画工作、家庭、体育

国語、社会、数学、理科、音楽、図画工作、保健体育、職業・家庭

教科以外の活動

(小学校)

 

特別教育活動

(中学校)

外国語、職業・家庭、その他の教科

 小学校の総授業時数は5,780コマ。中学校の総授業時数は3,045コマ。自由研究は廃止され、教科以外の活動(小学校)、特別教育活動(中学校)と改められた。

 中学校の習字は国語科に、国史は社会科に統合された。体育科は保健体育科に改められた。職業科は職業・家庭科に改められた。

昭和31

高等学校の学習指導要領のみ改訂された。

昭和36

国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭

道徳

外国語、農業、工業、商業、水産、家庭、薬業、数学、音楽、美術

道徳、特別教育活動(生徒会活動、クラブ活動、学級活動)

 系統性を重視したカリキュラム。道徳の時間の新設、科学技術教育の向上などで教育課程の基準としての性格の明確化を実現。公立学校に対して強制力がある学習指導要領が施行された。

 小・中学校の学習指導要領は昭和33年に告示され、小学校は昭和36年度から、中学校は昭和37年度から実施されたが、道徳のみ195810月から実施されている。また薬業は昭和37年に追加された。

 小学校6年間の総授業時数は5821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3941コマ。中学校3年間の総授業時数は3360コマ。中学校の職業・家庭科が技術・家庭科に改められ、高等学校の古典、世界史、地理、数学II、物理、化学、英語にAB(または甲・乙)の2科目を設け、生徒の能力・適性・進路等に応じていずれかを履修させるようにするなど、科目数が大幅に増加した。

昭和46

国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭

道徳

外国語、農業、工業、商業、水産、家庭、その他特に必要な教科

道徳、特別活動(生徒活動〔学級会活動、生徒会活動、クラブ活動〕、学級指導、学校行事)

 現代化カリキュラムといわれる濃密な学習指導要領。時代の進展に対応した教育内容の導入で教育内容の現代化を実現。ソ連が昭和32年に人工衛星スプートニク1号を打ち上げたことは、アメリカの各界に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃が走った。

 アメリカ政府は、ソ連に対抗するためにまずは学校教育を充実し、科学技術を発展させようとした。

 これに伴って、「教育内容の現代化運動」と呼ばれる、小中学校からかなり高度な教育を行なおうとする運動が起こった。この運動が日本にも波及し、濃密なカリキュラムが組まれたが、授業が速すぎるため「新幹線授業」などと批判された。

 当時は公立学校も私立学校もあまり違いがない学習内容だった。結局、教科書を消化することができず、教科書の内容を一部飛ばすなどしてやらない単元を残したまま進級・卒業をさせる場合もあった。小学校の学習指導要領は昭和43年に告示され昭和46年度から実施、中学校の学習指導要領は昭和44年に告示され昭和47年度から実施された。高等学校の学習指導要領は昭和45年に告示され、昭和48年度の第1学年から学年進行で実施された。

 小学校6年間の総授業時数は5821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3941コマ。3年間の総授業時数は3535コマ。

昭和55

国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭

道徳
特別活動(生徒活動〔学級会活動、児童会/生徒会活動、クラブ活動〕、学校行事、学級指導)

外国語、音楽、美術、保健体育、技術・家庭、その他特に必要な教科

 ゆとりカリキュラムといわれる、教科の学習内容が少し削減された学習指導要領。各教科などの目標・内容をしぼり、ゆとりある充実した学校生活を実現。

 現代化カリキュラムは過密であり、現場の準備不足や教師の力不足もあって、大量の付いて行けない生徒を生んでしまい、これに対する反省から授業内容を削減したもの。昭和51年に学習内容を削減する提言が中央教育審議会でなされた。

 私立学校はあまり削減を行なわなかったので、公立学校との差が付き始めた。学習内容が全て削減されたわけではなく、漢字数などはむしろ増えているため、意図したほどゆとりを生まなかったという批判もある。学校群制度なども影響し、公立学校の進学実績の低下が明らかになった時期でもある。

 小中学校の学習指導要領は昭和52年に告示され、小学校は昭和55年度から、中学校は昭和56年度から実施された。

 小学校6年間の総授業時数は5785コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3659コマ。中学校3年間の総授業時数は3150コマ。中学校の選択教科の選択肢が拡大された。

平成4

国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭、体育

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭

道徳
特別活動(学級活動、児童会/生徒会活動、クラブ活動、学校行事)

外国語、国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭、その他特に必要な教科

 新学力観の登場。個性をいかす教育を目指して改定された、教科の学習内容をさらに削減した学習指導要領。生活科の新設、道徳教育の充実などで社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成を実現。

 学習指導要領は平成元年に告示され、小学校は平成4年度、中学校は平成5年度から実施された。

 小学校6年間の総授業時数は5785コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3659コマ。

 中学校3年間の総授業時数は3150コマ。

 小学校の12年では理科・社会科を廃止し生活科が導入された。

 高等学校では社会科を地理歴史科(世界史・日本史の各A科目は、近現代史を中心とした構成で、各B科目は古代からの全体的な内容から構成されている。地理Aは自然地理中心の構成に対して、地理Bは系統地理学や地誌学を織り込んだ全体的な内容になっている。旧来の科目構成は、事実上Bに移行している)と公民科に再編するとともに、家庭科を男女必修とした。

平成14

国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭、体育

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭、外国語

道徳、特別活動(学級活動、児童会/生徒会活動、クラブ活動、学校行事)、総合的な学習の時間

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭、外国語、その他特に必要な教科

 戦後7度目の改訂の学習指導要領。教育内容の厳選、「総合的な学習の時間」の新設により、基礎・基本を確実に身に付けさせ、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」の育成を実現。

 小中学校の学習指導要領は平成10年に告示され、平成14年度から実施された。

 小学校6年間の総授業時数は5367コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3148コマ。中学校3年間の総授業時数は2940コマ。

 学校完全週5日制が実施された。中学校では英語が必修となった(実質的には大部分の学校で以前も事実上必修扱いであった)。

 また、小学校中学年から高等学校において総合的な学習の時間が、高等学校において情報科および福祉科が創設された。

 その一方で、教科の学習内容が大幅に削減され、さらに、中学校においてはクラブ活動(部活動)に関する規定が削除された。

 これまでにも、学習指導要領の改訂で既に教育のゆとり路線が段階的に強化されつつあったが、この平成14年度から実施された学習指導要領は学習内容の大幅な削減、完全学校週5日制の実施、総合的な学習の時間の新設など、今までのものに比べて大幅に改訂されたものであったため、一般には平成14年度がいわゆる「ゆとり教育」の始まりとされている。

 平成1512月に一部改正が行われて「過不足なく教えなければいけない」という歯止め規定の文言が消滅した。

平成23

国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭、体育

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭、英語、外国語
(各学校においては、選択教科を開設し、生徒に履修させることができる。)

道徳、外国語活動
総合的な学習の時間、特別活動(学級活動、児童会活動、クラブ活動、学校行事)

道徳、総合的な学習の時間、特別活動(学級活動、生徒会活動、学校行事)

 戦後8度目の改訂の学習指導要領。ゆとりでも詰め込みでもなく、知識、道徳、体力のバランスとれた力である生きる力の育成を実現。脱ゆとり教育とも呼ばれている。時の文部科学大臣・中山成彬は平成17年、中教審に学力低下騒動のあった前指導要領の全面的な見直しを要請した。これを受け中教審は平成19年、「審議のまとめ」にて、成果はあったものの課題が残ると発表した。

 それを受け、文部科学省は、新しい指導要領を「ゆとり」か「詰め込み」かではなく「生きる力」をはぐくむ教育とし、基礎的な知識や技能の習得と思考力、判断力、表現力の育成を強調している。

 平成20年に小学校学習指導要領・中学校学習指導要領が公示され、小学校では平成23年度、中学校では平成24年度から完全実施されている。

 内容の一部については、小学校では平成21年度~22年度、中学校では平成21年度~23年度の移行措置の実施されている。

 昭和50年代の改定以来、減り続けてきた授業時間はおよそ30年ぶりに増加。小学校の授業時数は6年間で現行より278コマ増えて5645コマ、中学校は3年間で105コマ増え3045コマとなる。

 前指導要領から開始された総合的な学習の時間の総授業時間は大幅に削減され、主要五教科(国語、算数・数学、理科、社会、英語)及び保健体育の総授業時間が増加した。

 小学56年生に「外国語活動」の時間を創設。高校では「英語III」、「オーラルコミュニケーションIII」、「リーディング」、「ライティング」を「コミュニケーション英語IIIIII・基礎」などと改名し、英語で授業を行うことを原則としている。

 算数・数学や理科などで、前回削減された内容の復活。伝統や文化(古文、文化遺産、武道など)に関する教育を充実。

 また、平成24年(2012年)4月から中学校の体育で男女共に武道とダンスが必須になった。武道は原則として柔道、剣道、相撲から選択する。柔道を実施する学校が多いが、地域によっては他の武道を実施する場合もある。

 

〔領土に関する教育等〕

・2014年1月に、日本国の領土に関する教育や自然災害における関係機関の役割等に関する教育の一層の充実を図るため、「中学校学習指導要領解説」のうち社会編の一部と、「高等学校学習指導要領解説」のうち地理歴史編及び公民編の一部について改訂を行った。

 

領土関係のうち地理的分野・科目では、竹島は日本国の固有の領土であるが、現在は韓国によって不法に占拠されているため、韓国に対して累次にわたり抗議を行っていること」を、「尖閣諸島は日本国の固有の領土であり、また現に日本国がこれを有効に支配しており、解決すべき領有権の問題は存在していないこと」を明確にした。

 

 ・また、歴史的分野・科目では、「日本国が国際法上正当な根拠に基づき竹島、尖閣諸島を正式に領土に編入した経緯」についても取り上げた。

 

・また、公民的分野・科目では、「日本国には領土問題について、固有の領土である竹島に関し未解決の問題が残されていることや、現状に至る経緯、日本国が正当に主張している立場を踏まえ、日本国が平和的な手段による解決に向けて努力していること」について理解を深めさせ、尖閣諸島をめぐる情勢については、「現状に至る経緯、日本国の正当な立場を踏まえ、尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題は存在していないこと」について理解を深めさせることを盛り込んだ。

 

・そして、自然災害関係のうち地理的分野・科目において、日本国は東日本大震災などの大規模な地震や毎年全国各地に被害をもたらす台風など、多様な自然災害の発生しやすい地域が多いことから、災害対策にとどまらず、災害時の対応や復旧、復興を見据えた視点からも取扱い、その際、消防・警察・海上保安庁・自衛隊をはじめとする国や地方公共団体の諸機関担当部局地域の人々ボランティアなどが連携して、災害情報の提供被災者への救援救助緊急避難場所の設営などを行い、地域の人々の生命や安全の確保のために活動していることなどを盛り込んだ。

 

〔2018年(平成30年)~〕

・2011年(平成23年)-の学習指導要領を一部改正。

 

・2015年(平成27年)3月27日、学習指導要領を一部改正し、これまで教科外活動(領域)であった小学校・中学校の「道徳」を、「特別の教科 道徳」とし、教科へ格上げした。小学校では2015年度(平成27年度) - 2017年度(平成29年度)の移行措置を経て、2018年度(平成30年度)から完全実施され、中学校では2015年度(平成27年度) - 2018年度(平成30年度)の移行措置を経て、2019年度(平成31年/令和元年)から完全実施される。

 

◇具体的な改正のポイントは以下の通りである。

◆道徳科に検定教科書を導入

・内容について、いじめの問題への対応の充実や発達の段階をより一層踏まえた体系的なものに改善 

・「個性の伸長」「相互理解、寛容」「公正、公平、社会正義」「国際理解、国際親善」「よりよく生きる喜び」の内容項目を小学校に追加

 

問題解決的な学習体験的な学習などを取り入れ、指導方法を工夫

 

数値評価ではなく、児童生徒の道徳性に係る成長の様子を把握し、文章表記で評価

※授業時数は、引き続き年間35コマ(小学校1年生は年間34コマ)の週1時間

※私立小学校・中学校はこれまで通り「道徳科」に代えて「宗教」を行うことが可能

 

〔2020年(令和2年)~〕

・2017年(平成29年)3月改訂。戦後9度目の改訂の学習指導要領。

 

・「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が図られる。

 

・幼稚園では2018年(平成30年)度、小学校では2020年(令和2年)度、中学校では2021年(令和3年)度から完全実施される。

 

・2018年(平成30年)に高等学校学習指導要領、特別支援学校学習指導要領が公示される予定で、高等学校では2022年(令和4年)度の第一学年から学年進行で実施され、特別支援学校では幼・小・中・高等学校の実施スケジュールに準拠して実施される。内容の一部については、小学校では2018年(平成30年)度~2019年(平成31年/令和元年)度、中学校では2018年(平成30年)度~2020年(令和2年)度の移行措置の実施、高等学校では2019年(平成31年/令和元年)度より前倒し実施されるものもある。

 

・小学校の授業時数は6年間で現行より140コマ増えて5785コマとなり、前回の改訂から2回連続の増加となる。これは、小学3、4年生に「話す」「聞く」を中心に教科以外の教育活動(領域)として学習する「外国語活動」を、これまで小学5、6年生で行っていたものを前倒しして週1時間(年間35コマ)行い、小学5、6年生は「話す」「聞く」に加えて「読む」「書く」も含めた「外国語」と正式な教科として週2時間(年間70コマ)行うことにより、授業時数が増加したことによるものである。

 

・中学校は3年間で3045コマと前回の改訂からの増減はない。

 

〔地理歴史科の見直し〕

高等学校の地理歴史科では、世界史必履修を見直し、世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉え近現代の歴史を考察する「歴史総合」、持続可能な社会づくりを目指し、現代の地理的な諸課題を考察する「地理総合」を必修として設定するとともに、発展的に学習する選択科目として「日本史探究」「世界史探究」「地理探究」を設定する。

 

〔公民科の見直し〕

・公民科では、現代社会の諸課題を捉え考察し、選択・判断するための概念や理論を習得し、自立した主体として国家・社会の形成に参画する力を育成する「公共」を必修として設定するとともに、発展的に学習する科目として「倫理」「政治・経済」を設定する。

 

〔国語科の見直し〕

・国語科は、共通必履修科目として、実社会・実生活に生きて働く国語の能力を育成する科目「現代の国語」と、我が国の言語文化への理解を深める科目「言語文化」を設定するとともに、選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」を設定する。

 

〔外国語科の見直し〕

・外国語科では、「聞くこと」「読むこと」「話すこと」「書くこと」を総合的に扱う科目群として「英語コミュニケーションI・II・III」を設定し、I を共通必履修科目とするとともに、外国語による発信能力を高める科目群として「論理・表現I・II・III」を設定する。

 

〔数学科の見直し〕

・数学科では数学Cで行列が部分的に復活しグラフ理論の入門が導入されるが、オイラーの多面体定理第二次導関数が削除される。ベクトルが数学Cに移されて、統計が必修化される。

 

学校種

教科

区分

各教科、各科目

特別の教科

教科以外の教育活動

国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭、体育、外国語

特別の教科 道徳

外国語活動
総合的な学習の時間
特別活動 (学級活動、児童会活動、クラブ活動、学校行事)

国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭、外国語
(各学校においては、選択教科を開設し、生徒に履修させることができる。)

特別の教科 道徳

総合的な学習の時間
特別活動 (学級活動、生徒会活動、学校行事)

 

3)学習指導要領の議論

3.1)詰め込み教育 

・詰め込み教育とは、機械暗記による知識量の増大に比重を置く、あるいは知識の増大を目指す教育方法とされるが、多量の勉強による基礎学力の早期習得を目指す教育や、短期間にできるだけ多くの事柄の学習を目指す教育のことを指す場合もある。 

 

・単に学習カリキュラムの内容の増減(や変化)の観点からのみ、「詰め込み教育」「ゆとり教育」が対語として用いられる場合もある。 

 

〔 詰め込み教育の欠点 〕

詰め込み教育試験の点数は上がる反面、児童・生徒の学習の動機付けに欠ける短所があると一般には言われている。 

 

普通教育の最終目標大学入学試験突破にあり、また当時の高度経済成長下において均質かつ従順で質の高い勤労者を育成する必要があった日本では、少なくとも1970年代まではこの教育方法が一般的であった。 

 

・だが、詰め込み教育の一番の問題として、「テスト過ぎたらすべて忘れる」といった成績のための暗記が一般的になったことがある。 

 

・また、膨大な量の知識だけをひたすらに暗記させた結果、「なぜ、そうなるのか」といった単純な疑問や創造力が欠如してしまう点も問題である。 

 

・1980年代以降、詰め込み教育の短所に対する反省から、児童・生徒の学習の動機付けに重点を置くゆとり教育へと路線を変更することとなった。 

 

〔 詰め込み教育への評価 〕

・東京大学元教授で、『超勉強法』などを執筆した野口悠紀雄ゆとり教育を批判し、詰め込み教育の必要性を訴えている。 

 

・ただし、野口は経済学者で、教育学についての専門的知識・学問的業績はなく、あくまで自身や東大生の受験経験と効率論を踏まえた持論である。 

 

・野口の論ずるところによると、土台となる基礎的知識の少ない小中学生に対して、「自由に創造しなさい」と指導しても、多くの児童生徒にとっては困惑する場合が多く、その結果も成熟度のない未熟なものにしかなり得ないと説いている。 

 

・この事は特に、小中学校の教育において、顕著になるとされる。 たとえば、音楽の素養のない生徒に対して、いきなり自由に作曲させるのではなく、ある程度の音楽的な知識と、ピアノの基礎を学ばせる事が必要なのと同じである。 

 

・これは「ゆとり教育」を完全否定しているのではなく、高校の生徒大学・大学院の学生にこそ「ゆとり教育」が必要であることを示している。 

 

〔 詰め込み教育の弊害〕 

・この教育の結果、前述のように「テストを過ぎたらすべて忘れる」等の問題点の他、詰め込み教育の結果「四当五落」「一浪は当たり前」と言われるほどの受験戦争になり、その結果として、勉強についていけない児童・生徒が増加し、いじめ、校内暴力、非行、体罰、落ちこぼれなどの問題が発生し、学校問題レベルではなく、社会問題となるほどの課題となった。 

 

〔 世界の詰め込み教育〕 

・中国でも、国内の学力偏重の詰め込み教育に対して批判が出ている。ただし、スパルタ教育かゆとり教育かではなく、知識重視か体育・芸術重視かを対立軸とする点が日本と異なる。 

 

3.2)ゆとり教育 

・ゆとり教育とは、日本において、知識重視型の教育方針詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、経験重視型の教育方針をもって、ゆとりある学校をめざした教育のことである。平成24年度現在、高等学校でのみ施行されている。 

 

校内暴力、いじめ、登校拒否、落ちこぼれなど、学校教育や青少年にかかわる数々の社会問題を背景に、平成8年7月19日の第15期中央教育審議会第1次答申が発表された。 

 

・答申は子どもたちの生活の現状として、ゆとりの無さ社会性の不足倫理観の問題自立の遅れ健康・体力の問題と同時に、国際性社会参加・社会貢献の意識が高い積極面を指摘する。 

 

・その上で答申はこれからの社会に求められる教育の在り方の基本的な方向として、全人的な「生きる力」の育成が必要であると結論付けた。  

 

〇 ゆとり教育の実施期間 

ゆとり教育は1980年度、1992年度、2002年度から施行された学習指導要領に沿った教育のことであり、小学校では1980年度から2010年度、中学校では、1981年度から2011年度、高校では1982年度から2014年度(数学及び理科は2013年度)まで施行される教育である。 

 

・1980年度、1992年度から施行された学習指導要領による教育と2002年度から施行された学習指導要領とを区別する人もいる。また、1992年度から施行された新学力観に基づく教育をゆとり教育という人もいる。 

 

〇 ゆとり教育導入の経緯と批判 

・まず1970年代に、日教組が「ゆとりある学校」を提起をし、国営企業の民営化を推し進めた第2次中曽根内閣の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で、「公教育の民営化」という意味合いの中で導入することでゆとり教育への流れを確立し、文部省や中教審が「ゆとり」を重視した学習指導要領を導入し開始された。 

 

「ゆとり教育」はその目的が達せられたかどうかが検証ができない状態の中、詰め込み教育に反対していた日教組教育者経済界などの有識者などから支持されていた一方で、それを原因として生徒の学力が低下していると指摘され、批判されるようになった。 

 

〇 脱ゆとり教育へ(政府の方針転換)

・平成17年、中山成彬文部科学大臣は、中央教育審議会に学習指導要領の見直しを要請し、平成19年10月30日の中央教育審議会答申ではゆとり教育による学力低下を認め反省し、授業日数及び算数・数学、理科、外国語の授業時数増加を提言した。 

 

・ほかには教育再生会議(内閣府設置会議)が出した報告書(第1次:平成19年1月24日 第2次:平成19年6月1日)において、「授業時間の10%増(必要に応じて土曜日授業の復活)」などが盛り込まれている。 

 

・さらに第1次安倍内閣の主導のもとに、ゆとり教育の見直しが着手され、平成20年2月15日、文部科学省は諮問機関「中央教育審議会」が前月に出した答申に沿い、今までの内容を縮小させていた流れとは逆に、内容を増加させた学習指導要領案が告示され、マスコミからは「脱ゆとり教育」と称されている。 

 

・平成23年〜24年度から授業時間を全体で3〜6%理数系に限れば平成21年度から前倒し実施で15%ほど増加させた指導要領改定案を発表した。なお、高校の指導要領改定案は平成25年度の第1学年から、理数系に限れば平成24年度の第1学年から学年進行で実施される。

 

4)これまでの学習指導要領の変遷 

・「学習指導要領」は、戦後すぐに試案として作られましたが、現在のような大臣告示の形で定められたのは昭和33年のことであり、それ以来、ほぼ10年毎に改訂されてきました。

 それぞれの改訂における、主なねらいと特徴は、以下のとおりです。 

 

①昭和33~35年改訂:教育課程の基準としての性格の明確化道徳の時間の新設、系統的な学習を重視、基礎学力の充実、科学技術教育の向上等) 

 

② 昭和43~45年改訂:教育内容の一層の向上(「教育内容の現代化」)(時代の進展に対応した教育内容の導入(算数における集合の導入等)) 

 

③ 昭和52~53年改訂:ゆとりのある充実した学校生活の実現 =学習負担の適正化(各教科等の目標・内容を中核的事項にしぼる) 

 

④ 平成元年改訂:社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成(生活科の新設、道徳教育の充実等) 

 

⑤ 平成10~11年改訂:基礎・基本を確実に身に付けさせ、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」の育成 (教育内容の厳選、「総合的な学習の時間」の新設等) 

 

(参考)ゆとり教育の経緯

出来事

1972

日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに「学校5日制」を提起。

1977-1978
(1980-1982年)

学習指導要領の全部改正

小学:1980年度、中学:1981年度、高校:1982年度から施行。ゆとり教育の開始

1)学習内容及び授業時数の削減。2)「ゆとりと充実を」「ゆとりと潤いを」がスローガン。

3)教科指導を行わない「ゆとりの時間」を開始。

1984

2次中曽根内閣のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)がゆとり教育の方針に取り組む

1985-1987

中曽根政権臨時教育審議会が「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」「国際化、情報化など変化への対応」などの、ゆとり教育の基本となる4つの答申をまとめる。

1989
(1992-1994年)

学習指導要領の全部改正。

小学:1992年度、中学:1993年度、高校:1994年度から施行。

1)新学力観を導入2)学習内容及び授業時数の削減。

3)小学校の第1学年及び第2学年の社会及び理科を廃止して、教科「生活」を新設。

1992

9月から第2土曜日が休日に変更。

1995

4月からはこれに加えて第4土曜日も休業日となった。

1996

文部省・中教審委員にて「ゆとり」を重視した学習指導要領を導入。

1998-1999
(2002-2003年)

学習指導要領の全部改正。

小中学校は2002年度、高等学校は2003年度から施行。・・・ゆとり教育の実質的な開始

1)学習内容及び授業時数の削減。2)完全学校週5日制の実施。

3)「総合的な学習の時間」の新設。4)「絶対評価」の導入。

2003

一部学習指導要領が改正される。

2004

OECD生徒の学習到達度調査(PISA2003)、国際数学・理科教育調査 (TIMSS2003)の結果が発表され、日本の点数低下が問題となる。

2005

中山成彬文科相、学習指導要領の見直しを中央教育審議会に要請。

2007

OECD生徒の学習到達度調査(PISA2006)の結果が発表され、日本の点数低下がさらに問題となる。安倍晋三首相の下「教育再生」と称してゆとり教育の見直しが着手され始めるが、日教組は「ゆとり教育を推進すべき」との主張を続ける。全国学力・学習状況調査が始まる。

2008

国際数学・理科教育調査(TIMSS2007)の結果が発表され、学力低下の下げ止まる。

2010

OECD生徒の学習到達度調査(PISA2009)の結果が発表され、学力が上昇する。

2008
2011-2013年)

学習指導要領の全部改正。

小学:2011年度、中学は2012年度、高校:2013年度から施行。ゆとり教育の終焉

 (引用:Wikipedia) 

〇 ゆとり教育の結果 

・ゆとり教育(ここでは平成10年度から11年度にかけて告示された指導要領を指す)は学力低下を引き起こすと懸念されていたが、成果については(文部科学省内においてすら)確定的な評価はない。学力の上昇を示すもの、低下を示すという両方の例が見られる。 

 

〇 社会的な見解

◆支持

・元文部省官僚である寺脇研は、当時の文部省の考えを代弁するスポークスマンとしてメディアに出て、ゆとり教育について説明を行っていた。 

 

・作家の三浦朱門は2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、ゆとり教育について、新自由主義的な発想から、数少ないエリートを見つけて伸ばすための「選民教育」であるという主旨を述べた。 

 

・知識偏重の詰め込み教育を批判していた教師や保護者などの他にも、経済同友会などの経済界や、学者、弁護士をはじめとする識者などの民間人が参加した「21世紀日本の構想」懇談会(小渕恵三内閣総理大臣の私的諮問機関)でも、ゆとり教育を支持していた。 

 

「21世紀日本の構想」懇談会の第5分科会は平成12年1月に提出された最終報告書の中で、教育への市場原理導入の観点から、義務教育週3日制と教科内容を5分の3にまで圧縮することを提案した。 

 

◆批判

・学力低下の心配から批判された。教育コンサルタントによると、過去に出題された同一問題の正答率を比較した結果、読解力、科学的リテラシー、数学的リテラシーのすべてにおいて、PISA型学力が下がり続けていることがわかっている。

・また、自分がやりたいことだけをやればいいという考えを教え、その考えを教えた世代にさまざまな人格的影響を与えたという批判もある 

 

(参考)新学力観

・新学力観は、臨時教育審議会答申や1987年の教育課程審議会答申で提起され、1989年改定の学習指導要領に採用された学力観のこと。「旧来の学力観が知識や技能を中心にしていた」として、それに代えて学習過程や変化への対応力の育成などを重視しようと考える学力観である。 

 

・新学力観では児童・生徒の思考力や問題解決能力などを重視し、生徒の個性を重視するとしている。学習内容については体験的な学習問題解決学習などの占める割合が従来よりも多くなり、評価についても関心・意欲・態度を重視する方向を打ち出している。それに伴い教師の役割も、旧来の指導から支援・援助の姿勢への転換を打ち出している。 

 

・新学力観が提起された社会的な背景として、社会の急激な変化があげられる。「社会の急速な変化が既習内容をすぐに古いものにしてしまう」という問題意識から、変化に対応する諸能力を重視するという考え方が提起された。 

 

・一方で新学力観に対しては、「基礎・基本を軽視しているため、学力低下の原因となっている」「関心・意欲・態度の客観的評価は困難で、授業での挙手回数などの形で関心・意欲・態度を測ることになり、新たなゆがみを生んでいる」などの批判も生まれている。 

 

〔PISAの学力観との類似性の指摘〕

・学力低下論の論拠の一つともなっているOECD生徒の学習到達度調査、いわゆるPISA調査であるが、その出題傾向を見ると、むしろPISAが見ようとしているのは新学力観が言うような意味での学力に近いと教育学者の藤田英典は指摘している。 

 

◆擁護

・第3期の教育改革(2002年度実施された学習指導要領改正)は始まったばかりで、ゆとり教育の評価は時期尚早だという意見もある。 

 

◆批判に対する反論

・『学力低下は錯覚である』(森北出版株式会社)を著した神永正博は、自身のブログで、「根拠がはっきりしないことで、若者をディスカレッジしない方がよいのでは」と補足している。 

 

・早稲田大学教授の永江朗は自身の執筆したコラム記事の中で、PISAの順位の低下は「参加国が増えたため」とも、冷静に分析すれば考えられると述べ、「PISAの結果が少し落ちていたぐらいで大騒ぎする理由がわからない」と教育社会学の専門家が疑問を呈しているということを紹介している。 

 

・元東京大学総長の有馬朗人はゆとり教育によりむしろ理科の力が上がった、と述べている。 

 

・広島大学教授の森敏昭はIEA(国際教育到達度評価学会)の調査結果を検討した上で「我が国の児童・生徒の学力は、今なお高い水準を保っている。(中略)「我が国の小・中学校段階の児童・生徒の学力は、全体としておおむね良好である」という文部科学省のいささか楽観的すぎるコメントも、あながち的はずれではない。」と述べている。 

 

◆総合的な学習の時間

・ゆとり教育によって導入された「総合的な学習の時間」は教員や児童・生徒の力量・意欲が高い場合は成功しやすく、そういった要素に左右されるという欠点を持つとされる。ただし、基本的に総合的な学習時間の何を成功・失敗の評価基準とするのかという問題も存在する。 

 

・実際、総合的な学習の時間を有意義に使う学校もある一方で、単に不足している授業時間の補完など評価基準のはっきりした伝統的科目の学力向上に使うなどというケースも少なくなかった。 

 

・また、基礎学力が低い生徒は「総合的な学習の時間」の目的とされる、「主体的に考える力」なども低くなる傾向があるという指摘もある。 

 

・この時間は、国際化や情報化をはじめとする社会の変化をふまえ、子供の自ら学び自ら考える力などの全人的な生きる力の育成をめざし、教科などの枠を越えた横断的・総合的な学習を行うために生まれ、ゆとり教育と密接な関連性を持っている。 

 

・特徴としては、体験学習や問題解決学習の重視、学校・家庭・地域の連携を掲げていることである。内容としては、国際理解、情報、環境、福祉・健康などが学習指導要領で例示されている。 

 

・一方でこの授業は基礎知識を軽視しているため、学力低下につながるとの批判もあり、現在は授業時数が削減されている。

 

5)改訂の基本的な考え方 

・教育基本法の改正等で明確になった教育理念を踏まえて教育内容を見直す。 

5.1)教育の目標に新たに規定された内容 

① 能力の伸長、創造性、職業との関連を重視

② 公共の精神、社会の形成に参画する態度

③ 自然の尊重、環境の保全

④ 文化の尊重、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、他国を尊重、国際社会の平和と発展に寄与 

 

5.2)学力の重要な3つの要素の育成 

① 基礎的な知識・技能をしっかりと身に付けさせます。

② 知識・技能を活用し、自ら考え、判断し、表現する力をはぐくみます。

③ 学習に取り組む意欲を養います 。

 

5.3)道徳教育や体育などの充実により、豊かな心や健やかな体を育成 

・「ゆとり」か「詰め込み」かではなく、基礎的・基本的な知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成との両方が必要です。 

 

〇【基礎的・基本的な知識・技能の習得の重視】 

① 会の変化や科学技術の進展等に伴い子どもたちに指導することが必要な知識・技能について、しっかりと教えます。

②つまずきやすい内容の確実な習得を図るための繰り返し学習を行います。 

 

〇【思考力・判断力・表現力等の育成の重視】 

③ 教科等の指導の中で、観察・実験やレポートの作成など、知識・技能を活用する学習活動を充実します。

④ 科等を横断した課題解決的な学習や探究的な活動を充実します 。

 

新しい学習指導要領では、子どもたちの「生きる力」をよりいっそう育むことを目指す

「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力 (引用(Wikipedia)) 

 

・変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力、豊かな心、健やかな体の知・徳・体をバランスよく育てることが大切です。 

 


(引用:Wikipedia)


(5)教科書検定基準の改正


作業中

(引用:Wikipedia)

1)根拠法令 

教科用図書検とは小学校、中学校、中等教育学校、高等学校並びに特別支援学校の小学部・中学部・高等部で使用される教科用図書(教科書)の内容が教科用図書検定基準に適合するかどうかを文部科学大臣(文部科学省)が検定する制度のことである。教科書検定とも呼ばれる。 

 

・学校教育法で、これらの課程(学校)においては文部科学大臣の検定を経た教科用図書(文部科学省検定済教科書)又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書(文部科学省著作教科書)を使用しなければならないと定められている。  

 

・ただし、高等学校、中等教育学校の後期課程、盲学校、聾学校、養護学校、種種の学校の特殊学級においては文部科学省検定済教科書・文部科学省著作教科書が存在していなかったり、教育で使用するのが適当でなかったりする場合は条件に応じて、他の適切な教科用図書を使用することもできる。 

 

1.1)教育基本法 (平成18年法律第120号)(抄)

・教育基本法(平成18年12月22日法律第120号)は、教育についての原則を定めた日本の法律である。教育基本法は、その名のとおり、日本の教育に関する根本的・基礎的な法律である。教育に関するさまざまな法令の運用や解釈の基準となる性格を持つことから「教育憲法」と呼ばれる場合もある

 

・2006年(平成18年)12月22日に公布・施行された現行の教育基本法は、1947年(昭和22年)公布・施行の教育基本法(昭和22年法律第25号)(以後旧法という)の全部を改正したものである。

 

・前文では、「たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」とした上で、この理想を実現するために教育を推進するとしている。

 

・本則は18条ある。第1章から第4章までに分けられており、それぞれ「教育の目的及び理念」「教育の実施に関する基本」「教育行政」「法令の制定」について規定されている。

 

〔構成〕

前文第一章 教育基本法の目的及び理念/第1条 教育の目的/第2条 教育の目標(※)/第3条 生涯学習の理念/第4条 教育の機会均等/第二章 教育の実施に関する基本/第5条 義務教育/第6条 学校教育/第7条 大学/第8条 私立学校/第9条 教員/第10条 家庭教育/第11条 幼児期の教育/第12条 社会教育/第13条 学校、家庭および地域住民等の連携協力/第14条 政治教育/第15条 宗教教育/第三章 教育行政/第16条 教育行政/第17条 教育振興基本計画/第四章 法令の制定/第18条/附則

〔関連条文〕

 

(※)第2条 教育の目標)

第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。  

五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

1.2)学校教育法(昭和22年法律第26号)(抄)

・学校教育法とは、学校教育制度の根幹を定める日本の法律である。所管官庁は、文部科学省である。学校教育法は、日本国憲法制定後の議会であった第92回帝国議会によって教育基本法などとともに制定された。法令番号は昭和22年法律第26号、1947年(昭和22年)3月31日に公布、翌4月1日から施行された。

 

・学校教育法で、指定された学校の種類(学校種)は第二次大戦後における教育改革の姿勢と方向付けを如実に示している。ただし、学校教育法に言及されていない教育の場も少なくない。学校教育法は、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年、幼稚園、高等専門学校5年、中等教育学校、義務教育学校、特別支援学校(以上一条校)のほか、専修学校や各種学校などについても定めている。

 

〔構成〕

・始めの第1章に総則、第2章に義務教育、後半の第12章に雑則、第13章に罰則をおくほかは各学校に関する内容を定めている。なお、各種学校に関する定めは第12章雑則にある。

上諭(公布文)/第1章 総則(1 - 15条)/第2章 義務教育(16 - 21条)/第3章 幼稚園(22 - 28条)/第4章 小学校(29 - 44条)/第5章 中学校(45 - 49条)/第5章の2 義務教育学校(49条の2 - 49条の8)/第6章 高等学校(50 - 62条)/第7章 中等教育学校(63 - 71条)/第8章 特別支援教育(72 - 82条)/第9章 大学(83 - 114条)/第10章 高等専門学校(115 - 123条)/第11章 専修学校(124 - 133条)/第12章 雑則(134条 - 142条)/第13章 罰則(143条 - 146条)/附則

 

〔関連条文〕

◆第34条第1項(注:小学校に適用する教科書に関する条項)

小学校においては、文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。

 

第49条(注:中学校に適用する教科書に関する条項)

第三十条第二項、第三十一条、第三十四条、第三十五条及び第三十七条から第四十四条までの規定は、中学校に準用する。この場合において、第三十条第二項中「前項」とあるのは「第四十六条」と、第三十一条中「前条第一項」とあるのは「第四十六条」と読み替えるものとする。

 

◆第49条の8(注:義務教育学校に適用する教科書に関する条項)

第三十条第二項、第三十一条、第三十四条から第三十七条まで及び第四十二条から第四十四条までの規定は、義務教育学校に準用する。この場合において、第三十条第二項中「前項」とあるのは「第四十九条の三」と、第三十一条中「前条第一項」とあるのは「第四十九条の三」と読み替えるものとする。

 

◆第62条(注:高等学校に適用する教科書に関する条項)

第三十条第二項、第三十一条、第三十四条、第三十七条第四項から第十七項まで及び第十九項並びに第四十二条から第四十四条までの規定は、高等学校に準用する。この場合において、第三十条第二項中「前項」とあるのは「第五十一条」と、第三十一条中「前条第一項」とあるのは「第五十一条」と読み替えるものとする。

 

◆第70条第1項(注:中等教育学校に適用する教科書に関する条項)

第三十条第二項、第三十一条、第三十四条、第三十七条第四項から第十七項まで及び第十九項、第四十二条から第四十四条まで、第五十九条並びに第六十条第四項及び第六項の規定は中等教育学校に、第五十三条から第五十五条まで、第五十八条、第五十八条の二及び第六十一条の規定は中等教育学校の後期課程に、それぞれ準用する。この場合において、第三十条第二項中「前項」とあるのは「第六十四条」と、第三十一条中「前条第一項」とあるのは「第六十四条」と読み替えるものとする。

及び

 

◆第82条(注:特別支援学校に適用する教科書に関する条項)

第二十六条、第二十七条、第三十一条(第四十九条及び第六十二条において読み替えて準用する場合を含む。)、第三十二条、第三十四条(第四十九条及び第六十二条において準用する場合を含む。)、第三十六条、第三十七条(第二十八条、第四十九条及び第六十二条において準用する場合を含む。)、第四十二条から第四十四条まで、第四十七条及び第五十六条から第六十条までの規定は特別支援学校に、第八十四条の規定は特別支援学校の高等部に、それぞれ準用する。

 

◆第142条(委任規程)

  この法律に規定するもののほか、この法律施行のため必要な事項で、地方公共団体の機関が処理しなければならないものについては政令で、その他のものについては文部科学大臣が、これを定める。

 

1.3)学校教育法施行令(昭和28年政令340号)

・学校教育法施行令は、学校教育法に基づいて定められた政令であり、義務教育に関する規定と認可、届出、指定に関する規定を主に行う。

 

・学校教育法はその規定の大半を文部科学省省令に委任しているため同省令である学校教育法施行規則が参照される機会が多い。昭和28年までは政令である学校教育法施行令は制定されていなかったが、地方自治法の一部を改正する法律の施行に伴う関係法令の整理に関する法律(昭和28年8月15日法律第213号) による学校教育法の改正でそれまで「監督庁の定める」とされていたもの一部が「政令で定める」とされたこと等にともないこの政令が制定された。 

 

〔構成〕

制定文目次/第1章 就学義務/第1節 学齢簿(第1条-第4条)/第2節 小学校、中学校、義務教育学校及び中等教育学校(第5条-第10条)/第3節 特別支援学校(第11条-第18条)/第3節の2 保護者及び視覚障害者等の就学に関する専門的知識を有する者の意見聴取(第18条の2)/第4節 督促等(第19条-第21条)/第5節 就学義務の終了(第22条)/第6節 行政手続法の適用除外(第22条の2)/第2章 視覚障害者等の障害の程度(第22条の3)第3章 認可、届出等/第1節 認可及び届出等(第23条-第28条)/第2節 学期、休業日及び学校廃止後の書類の保存(第29条-第31条)/第4章 技能教育施設の指定(第32条-第39条)/第5章 認証評価(第40条)/第6章 審議会等(第41条-第43条)/附則 

 

1.4)学校教育法施行規則(昭和22年文部省令第11号)

・学校教育法施行規則は、学校教育法(昭和22年法律第26号)、学校教育法施行令(昭和28年政令第340号)の下位法である文部科学省の省令である。1947年(昭和22年)5月23日公布。

 

・学校教育の根幹について定めた学校教育法の中心的な施行省令・委任省令であるが、詳細な規定を別の省令・告示に譲っている部分もある。そのため条文中、多くの文部科学関係の省令や告示を示している。 

 

1.5)学習指導要領

・令和3年5月現在、適用されている学習指導要領は、次の通り

◆幼稚園:平成29年改訂幼稚園教育要領  平成29年改訂幼稚園教育要領解説 

◆小学校:小学校学習指導要領(平成29年告示) 小学校学習指導要領(平成29年告示)解説

◆中学校:中学校学習指導要領(平成29年告示) 中学校学習指導要領(平成29年告示)解説

◆高校:高等学校学習指導要領(平成30年告示)  高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説

◆特別支援学校:平成29・31年改訂特別支援学校学習指導要領等 

 

1.6)教科用図書検定規則(平成元年文部省令第20号)

   (最終改正:令和3年2月8日文部科学省令第5号)

教科用図書検定規則は、学校教育法に規定する教科用図書の検定に関し必要な事項について定めた文部省(現在の文部科学省)の省令である。平成元年、旧教科用図書検定規則の全部が改正されたのが現在の規則である。 

 

〔省令概要〕

第1章 総則(第1条-第3条)

第1条(趣旨) 学校教育法(昭和22年法律第26号)第34条第1項に規定する教科用図書の検定に関し必要な事項は、この省令の定めるところによる。 

 

第2条(教科用図書) この省令において「教科用図書」とは、小学校、中学校、義務教育学校、中等教育学校、高等学校並びに特別支援学校の小学部、中学部及び高等部の児童又は生徒が用いるため、教科用として編修された図書をいう。 

 

第3条(検定の基準) 教科用図書(以下「図書」という。)の検定の基準は、文部科学大臣が別に公示する教科用図書検定基準の定めるところによる。 

 

第2章 検定手続(第4条-第13条)(条文内容:略)

第4条・第5条(検定の申請)/第6条(申請図書等の適切な管理)/第7条(申請図書の審査)/第8条(不合格理由の事前通知及び反論の聴取)/第9条(検定意見に対する意見の申立て)/第10条(修正が行われた申請図書の審査/第11条(教科書調査官による調査)/第12条(不合格図書の再申請)/第13条(検定審査料)

 

第3章 検定済図書の訂正(第14条~第15条の2)(条文内容:略)

第14条(検定済図書の訂正)/第15条(検定済図書の訂正の手続)/第15条の2(参照するウェブサイトの内容の変更の手続)

 

第四章 雑則(第16条-第19条)(条文内容:略)

第16条(検定済の表示等)/第17条(見本の提出)/第18条(申請図書等の公開)/第19条(検定済図書の告示等)

 

附則 

 

1.7)義務教育諸学校教科用図書検定基準(平成29年文部省告示第105号)

第1章 総則

(1)本基準は、教科用図書検定規則第3条の規定に基づき、学校教育法に規定する小学校、中学校、中等教育学校の前期課程並びに特別支援学校の小学部及び中学部において使用される義務教育諸学校教科用図書について、その検定のために必要な審査基準を定めることを目的とする。 

 

(2)本基準による審査においては、その教科用図書が、教育課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であることにかんがみ、知・徳・体の調和がとれ、生涯にわたって自己実現を目指す自立した人間、公共の精神を尊び、国家・社会の形成に主体的に参画する国民及び我が国の伝統と文化を基盤として国際社会を生きる日本人の育成を目指す教育基本法に示す教育の目標並びに学校教育法及び学習指導要領に示す目標を達成するため、これらの目標に基づき、第2章及び第3章に掲げる各項目に照らして適切であるかどうかを審査するものとする。 

 

第2章 各教科共通の条件 

1 基本的条件 

(教育基本法及び学校教育法との関係)

(1)教育基本法第1条の教育の目的及び同法第2条に掲げる教育の目標に一致していること。また、同法第5条第2項の義務教育の目的及び学校教育法第21条に掲げる義務教育の目標並びに同法に定める各学校の目的及び教育の目標に一致していること。 

 

(学習指導要領との関係)

(2)学習指導要領の総則に示す教育の方針各教科の目標に一致していること。 

 

(3)小学校学習指導要領(平成20年文部科学省告示第27号)又は中学校学習指導要領(平成20年文部科学省告示第28号)(以下「学習指導要領」という。)に示す教科及び学年、分野又は言語の「目標」(以下「学習指導要領に示す目標」という。)に従い、学習指導要領に示す学年、分野又は言語の「内容」(以下「学習指導要領に示す内容」という。)及び「内容の取扱い」(「指導計画の作成と内容の取扱い」を含む。以下「学習指導要領に示す内容の取扱い」という。)に示す事項を不足なく取り上げていること。 

 

(4)本文、問題、説明文、注、資料、作品、挿絵、写真、図など教科用図書の内容(以下「図書の内容」という。)には、学習指導要領に示す目標、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして不必要なものは取り上げていないこと。 

 

(心身の発達段階への適応)

(5)図書の内容は、その使用される学年の児童又は生徒の心身の発達段階に適応しており、また、心身の健康や安全及び健全な情操の育成について必要な配慮を欠いているところはないこと。 

 

2 選択・扱い及び構成・排列 

(学習指導要領との関係) 

(1)図書の内容の選択及び扱いには、学習指導要領の総則に示す教育の方針、学習指導要領に示す目標、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして不適切なところその他児童又は生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのあるところはないこと。 

 

(2)図書の内容に、学習指導要領に示す他の教科などの内容と矛盾するところはなく、話題や題材が他の教科などにわたる場合には、十分な配慮なく専門的な知識を扱っていないこと。 

 

(3)学習指導要領の内容及び学習指導要領の内容の取扱いに示す事項が、学校教育法施行規則別表第1又は別表第2に定める授業時数に照らして図書の内容に適切に配分されていること。 

 

(政治・宗教の扱い) 

(4)政治や宗教の扱いは、教育基本法第14条(政治教育)及び第15条(宗教教育)の規定に照らして適切かつ公正であり、特定の政党や宗派又はその主義や信条に偏っていたり、それらを非難していたりするところはないこと。

 

※第14条(政治教育)

 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。

2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

 

※第15条(宗教教育)

 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。

2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。 

 

(選択・扱いの公正) 

(5)話題や題材の選択及び扱いは、児童又は生徒が学習内容を理解する上に支障を生ずるおそれがないよう、特定の事項、事象、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること。 

 

(6)図書の内容に、児童又は生徒が学習内容を理解する上に支障を生ずるおそれがないよう、特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。 

 

(特定の企業、個人、団体の扱い) 

(7)図書の内容に、特定の営利企業、商品などの宣伝や非難になるおそれのあるところはないこと。 

 

(8)図書の内容に特定の個人、団体などについて、その活動に対する政治的又は宗教的な援助や助長となるおそれのあるところはなく、またその権利や利益を侵害するおそれのあるところはないこと。 

 

(引用資料) 

(9)引用、掲載された教材、写真、挿絵、統計資料などは、信頼性のある適切なものが選ばれており、その扱いは公正であること。 

 

(10)引用、掲載された教材、写真、挿絵、統計資料などについては、著作権法上必要な出所や著作者名その他必要に応じて出典、年次など学習上必要な事項が示されていること。 

 

(11) 統計資料については、原則として、最新のものを用いており、児童又は生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのあることはなく、出典、年次など学習上必要な事項が示されていること。

 

(構成・排列) 

(12)図書の内容は、全体として系統的、発展的に構成されており、網羅的、羅列的になっているところはなく、その組織及び相互の関連は適切であること。 

 

(13)図書の内容のうち、説明文、注、資料などは、主たる記述と適切に関連付けて扱われていること。 

 

(14)実験、観察、実習、調べる活動などに関するものについては、児童又は生徒が自ら当該活動を行うことができるよう適切な配慮がされていること。 

 

(発展的な学習内容) 

(15)1の(4)にかかわらず、児童又は生徒の理解や習熟の程度に応じ、学習内容を確実に身に付けることができるよう、学習指導要領に示す内容及び学習指導要領に示す内容の取扱いに示す事項を超えた事項(以下「発展的な学習内容」という。)を取り上げることができること。 

 

(16)発展的な学習内容を取り上げる場合には、学習指導要領に示す内容や学習指導要領に示す内容の取扱いに示す事項との適切な関連の下、学習指導要領の総則に示す教育の方針、学習指導要領に示す目標や学習指導要領に示す内容の趣旨を逸脱せず、児童又は生徒の負担過重とならないものとし、その内容の選択及び扱いには、これらの趣旨に照らして不適切なところその他児童又は生徒が学習する上に支障を生ずるおそれのあるところはないこと。 

 

(17)発展的な学習内容を取り上げる場合には、それ以外の内容と区別され、発展的な学習内容であることが明示されていること。 

 

(ウェブページのアドレス等)

(18) 学習上の参考に供するために真に必要であり、図書中にウェブページのアドレス又は二次元コードその他のこれに代わるものを掲載する場合は、当該ウェブページのアドレス等が参照させるものは図書の内容と密接な関連を有するとともに、児童又は生徒に不適切であることが客観的に明白な情報を参照させるものではなく、情報の扱いは公正であること。なお、図書中に掲載するウェブページのアドレス等は発行者の責任において管理できるものを参照させていること。

 

3 正確性及び表記・表現

(1)図書の内容に、誤りや不正確なところ、相互に矛盾しているところはないこと((2)の場合を除く。)。

 

(2)図書の内容に、客観的に明白な誤記、誤植又は脱字がないこと。

 

(3)図書の内容に、児童又は生徒がその意味を理解し難い表現や、誤解するおそれのある表現はないこと。

 

(4)漢字、仮名遣い、送り仮名、ローマ字つづり、用語、記号、計量単位などの表記は適切であって不統一はなく、別表に掲げる表記の基準によっていること。

 

(5)図、表、グラフ、地図などは、各教科に応じて、通常の約束、方法に従って記載されていること。 

 

第3章 教科固有の条件(抜粋)

[社会科(「地図」を除く。)] 

1 選択・扱い及び構成・排列 

(1)小学校学習指導要領第2章第2節の第2「各学年の目標及び内容」の〔第6学年〕の3「内容の取扱い」の(3)のイについては、選択して学習することができるよう配慮がされていること。

 

(2)図書の内容全体を通じて、多様な見解のある社会的事象の取り上げ方に不適切なところはなく、考えが深まるよう様々な見解を提示するなど児童又は生徒が当該事象について多面的・多角的に考えられるよう適切な配慮がされていること。

 

(3)未確定な時事的事象について断定的に記述していたり、特定の事柄を強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと。

 

(4)近現代の歴史的事象のうち、通説的な見解がない数字などの事項について記述する場合には、通説的な見解がないことが明示されているとともに、児童又は生徒が誤解するおそれのある表現がないこと。

 

(5)閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解又は最高裁判所の判例が存在する場合には、それらに基づいた記述がされていること。

 

(6) 近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。

 

(7) 著作物、史料などを引用する場合には、評価の定まったものや信頼度の高いものを用いており、その扱いは公正であること。また、法文を引用する場合には、原典の表記を尊重していること。

 

(8)日本の歴史の紀年について、重要なものには元号及び西暦を併記していること。

 

[特別の教科・道徳科] 

1 基本的条件

(1)小学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の3の(1)及び中学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の3の(1)に示す題材の全てを教材として取り上げていること。

 

(2)小学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の3の(2)のア及びイ並びに中学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の3の(2)のア及びイに照らして適切な教材を取り上げていること。

 

2 選択・扱い及び構成・排列

(1)図書の内容全体を通じて、小学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の2の(4)(※1)及び中学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の2の(4)(※2)に示す言語活動について適切な配慮がされていること。

 

(※1)児童が多様な感じ方や考え方に接する中で,考えを深め,判断し,表現 する力などを育むことができるよう,自分の考えを基に話し合ったり書い たりするなどの言語活動を充実すること。

 

(※2)生徒が多様な感じ方や考え方に接する中で,考えを深め,判断し,表現す る力などを育むことができるよう,自分の考えを基に討論したり書いたりす るなどの言語活動を充実すること。その際,様々な価値観について多面的・ 多角的な視点から振り返って考える機会を設けるとともに,生徒が多様な見 方や考え方に接しながら,更に新しい見方や考え方を生み出していくことが できるよう留意すること。

 

(2)図書の内容全体を通じて、小学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の2の(5)(※3)及び中学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の2の(5)(※4)に示す問題解決的な学習や道徳的行為に関する体験的な学習について適切な配慮がされていること。

 

(※3)児童の発達の段階や特性等を考慮し,指導のねらいに即して,問題解決 的な学習,道徳的行為に関する体験的な学習等を適切に取り入れるなど, 指導方法を工夫すること。その際,それらの活動を通じて学んだ内容の意 義などについて考えることができるようにすること。また,特別活動等 における多様な実践活動や体験活動も道徳科の授業に生かすようにするこ と。

 

(※4)生徒の発達の段階や特性等を考慮し,指導のねらいに即して,問題解決的 な学習,道徳的行為に関する体験的な学習等を適切に取り入れるなど,指導 方法を工夫すること。その際,それらの活動を通じて学んだ内容の意義など について考えることができるようにすること。また,特別活動等における多 様な実践活動や体験活動も道徳科の授業に生かすようにすること。

 

(3)小学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の3の(2)(※5)及び中学校学習指導要領第3章の第3「指導計画の作成と内容の取扱い」の3の(2)(※6)に照らして取り上げ方に不適切なところはないこと。

 

 特に、多様な見方や考え方のできる事柄を取り上げる場合には、その取り上げ方について特定の見方や考え方に偏った取扱いはされておらず公正であるとともに、児童又は生徒の心身の発達段階に即し、多面的・多角的に考えられるよう適切な配慮がされていること。

 

(※5)教材については,教育基本法や学校教育法その他の法令に従い,次の観 点に照らし適切と判断されるものであること。

ア 児童の発達の段階に即し,ねらいを達成するのにふさわしいものであ ること。

イ 人間尊重の精神にかなうものであって,悩みや葛藤等の心の揺れ,人 間関係の理解等の課題も含め,児童が深く考えることができ,人間とし 172 特別の 教科 道徳 てよりよく生きる喜びや勇気を与えられるものであること。

ウ 多様な見方や考え方のできる事柄を取り扱う場合には,特定の見方や 考え方に偏った取扱いがなされていないものであること。

エ 児童の学習状況や道徳性に係る成長の様子を継続的に把握し,指導に生か すよう努める必要がある。ただし,数値などによる評価は行わないものとす る。

 

(※6)教材については,教育基本法や学校教育法その他の法令に従い,次の観点 158 総 則 国 語 社 会 数 学 理 科 音 楽 美 術 保健体育 技術・家庭 外国語 特別活動 幼稚園 教育要領 に照らし適切と判断されるものであること。    ア 生徒の発達の段階に即し,ねらいを達成するのにふさわしいものである こと。    イ 人間尊重の精神にかなうものであって,悩みや葛藤等の心の揺れ,人間 関係の理解等の課題も含め,生徒が深く考えることができ,人間としてよ りよく生きる喜びや勇気を与えられるものであること。    ウ 多様な見方や考え方のできる事柄を取り扱う場合には,特定の見方や考 え方に偏った取扱いがなされていないものであること。

 

(4)図書の主たる記述と小学校学習指導要領第3章の第2「内容」及び中学校学習指導要領第3章の第2「内容」に示す項目との関係が明示されており、その関係は適切であること。

 

(※7)学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の要である道徳科においては,以下 に示す項目について扱う。

A 主として自分自身に関すること(項目の抜粋):[善悪の判断,自律,自由と責任]/[正直,誠実]/[節度,節制]/[個性の伸長]/[希望と勇気,努力と強い意志] /[真理の探究]    

 

B 主として人との関わりに関すること(項目の抜粋):[親切,思いやり]/[感謝]/[礼儀]/[友情,信頼]/[相互理解,寛容]

 

C 主として集団や社会との関わりに関すること(項目の抜粋):[規則の尊重]/[公正,公平,社会正義]/ [勤労,公共の精神] /[家族愛,家庭生活の充実] /[よりよい学校生活,集団生活の充実] /[伝統と文化の尊重,国や郷土を愛する態度] /[国際理解,国際親善]

 

D 主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること (項目の抜粋):[生命の尊さ]/[自然愛護]/ [感動,畏敬の念]

 

(※8)学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の要である道徳科においては,以下に 示す項目について扱う。  

A 主として自分自身に関すること(項目の抜粋):[自主,自律,自由と責任]/[節度,節制]/[向上心,個性の伸長] /[希望と勇気,克己と強い意志]/[真理の探究,創造]  

 

B 主として人との関わりに関すること (項目の抜粋):[思いやり,感謝]/[礼儀]/[友情,信頼]/[相互理解,寛容]   

 

C 主として集団や社会との関わりに関すること(項目の抜粋):[遵法精神,公徳心]/[公正,公平,社会正義] /[社会参画,公共の精神]/[勤労]/[家族愛,家庭生活の充実]/[よりよい学校生活,集団生活の充実] /[郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度]/  

 

D 主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること (項目の抜粋):[生命の尊さ]/[自然愛護]/[感動,畏敬の念] 

 

1.6)教科用図書検定規則実施細則

〔目次〕

第1  検定の申請/1 検定審査申請書の提出/2 申請図書の提出/3 検定審査料算定の基礎となるページ数

 

第2 申請図書の審査手続/1 申請図書等の適切な管理/2 申請図書の審査/3 不合格理由の事前通知及び反論の聴取/4 検定意見に対する意見の申立て/5 申請図書の修正/6 調査意見を記載した資料/7 不合格図書の再申請の期間

 

第3 検定済図書の訂正等/第4 見本の提出/第5 申請図書等の公開/第6 検定済図書の著作者の氏名等についての変更の届出

 

附則・別記・別紙様式 

 

2)論点 

2.1)日本国憲法との関連 

・教科用図書検定が日本国憲法第21条の検閲の禁止に反するとの議論がある。これに対し最高裁判所は教科用図書検定不合格となった教科書一般図書として販売されることは禁止されていないのだから、検閲ではないと判断した。 

・詳細は家永教科書裁判」(後述)を参照

 

2.2)歴史教科書問題 

・社会科教科書(主に歴史)検定には近隣諸国に配慮するという近隣諸国条項があり、これが義務教育への近隣諸国からの “ 内政干渉 ” をもたらしているとする議論がある。

・詳細は歴史教科書問題を参照 

 

2.3)沖縄戦「集団自決」記述削除問題 

・それまで沖縄戦における集団自決の軍命をしてきたとされる人物が「命令はしていない」と否定をし始め、裁判となった(「集団自決」訴訟)。それを理由の一つとして文科省は集団自決の軍による強制記述に意見をつけた。 

 

・2007年9月29日、宜野湾市で沖縄県の県議会各派や市長会が実行主体となり、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれた。参加人数は主催者によって当初11万人と発表された。その報道を受けて渡海紀三朗文部科学大臣は教科書会社による自主修正に応じる姿勢を示した。 しかし産経新聞は “ 関係者 ” (= 沖縄県警察幹部)の話として実際は4万人程度であったとし、日経新聞も4万人と報じた。 

 

・10月10日、文部科学省は教科書検定にかかわった職員外郭団体に異動させた。 

 

・10月11日、2008年度から使用される高校日本史の教科書検定で5社7冊の教科書の沖縄戦「集団自決」に日本軍の強制があったとする記述を削除する検定意見の原案となる「調査意見書」が教科調査官によって作成され、文部科学省の「実態について誤解するおそれがある」という「検定意見」となっていたことが第168回国会の衆議院予算委員会で明らかにされた。 

 

・同委員会で文部科学省の検定意見は「政治介入」であり、その撤回と記述回復が求められた。20年間意見がついたことがなかった記述を削除したことも分かった。 

 

・なお、教科書検定は発行者の申請を受け文部科学省職員の教科書調査官が検定意見の原案である「調査意見書」を作成し、初等中等局長等の決裁を受け教科用図書検定調査審議会で審議し、検定意見がつくられる。 

 

高校日本史教科書の検定の場合は審議会で第2部会の日本史小委員会が審議し、その結果をさらに第2部会が審議し、教科書調査官の調査意見書に異論が出なければ、それが文部省の「検定意見」になる。 

 

・結果的に教科書検定審議会は「軍の関与」などの表現での記述を認め、文科省もこれを承認した。 

 

・2008年3月28日、「集団自決」訴訟の判決が言い渡され、原告側の主張棄却された。 特に、審議会が検定意見の根拠のひとつとした「元戦隊長の証言」については、「信用性に疑問がある」として全面的に排除を強制する結果となった。原告側は判決を不服として控訴したが、 大阪高裁も2008年10月31日に地裁判決を支持して控訴を棄却、最高裁への上告も2011年4月21日、最高裁第一小法廷により棄却され、判決は確定している。


(6)日本・中国・韓国の歴史教科書問題


 (引用:Wikipedia)

1)概要 

・日中間の歴史教科書問題は、第2次世界大戦以前にも存在し、1914年9月13日、東京日日新聞「支那政府に厳談せよ」記事で、中国の反日的な教科書に対する抗議を主張したことをきっかけに、日中両国が互いに相手の教科書を問題として外交問題になった。

 

2)家永教科書裁判 

・家永教科書裁判は、高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎が教科用図書検定(教科書検定)に関して「教科用図書検定は検閲に当たり、憲法違反である」として国を相手に起こした一連の裁判。 

 

・1965年(昭和40年)提訴の第1次訴訟、1967年(昭和42年)提訴の第2次訴訟、1984年提訴の第3次訴訟がある。1997年、第3次訴訟の最高裁判所判決をもって終結。実際に日本国内の高等学校で使われることはなかった。 

 

・第1次と第3次の訴訟では、一部家永側の主張が認められ、国の裁量に行きすぎがあったとされたものの、家永の主張の大半は退けられ、日本国憲法下において教科用図書検定は制度として合憲・適法とされた。 

 

・教科用図書検定について争われた裁判には、ほかに例が少なく、判決理由として示された事項は、現代社会における教育裁判でも参考にされる。しかし、教育の主体者をどう捉えるかという点について、右派・左派に関わらず批判的な意見があがる。 

 

(参考)家永教科書裁判

〇訴訟内容

・訴訟における最大の争点が「教科書検定は憲法違反である」とする旨の家永側の主張であったが、最高裁は「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」とし、教科書検定制度は合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、家永側の実質的敗訴が確定した。

 

・一方、検定内容の適否については、一部家永側の主張が認められ、国側の裁量権の逸脱があったことが認定された。 

 

〇第1次訴訟

・家永らが執筆した『新日本史』が1962年の教科書検定で戦争を暗く表現しすぎている等の理由により不合格とされ(修正を加えた後、1963年の検定では条件付合格となった)、1962年度・1963年度の検定における文部大臣の措置により精神的損害を被ったとして提起した国家賠償請求訴訟。 

 

◆第1審〈昭和40年6月12日提訴、昭和49年7月16日判決、東京地裁〉

・判決は、国家の教育権論を展開して憲法26条違反の主張を否定、また教科書検定は表現の自由に対する公共の福祉による制限であり受忍すべきものとして憲法21条が禁じる検閲に当たらないとした。

 

・一方で検定意見の一部に裁量権濫用があるとして国側に10万円の賠償を命令し、家永の請求を一部認容した。 

 

◆第2審〈昭和49年7月26日原告控訴、1986年3月19日判決、東京高裁〉

・判決は、国の主張を全面的に採用し、また裁量権濫用もないとして請求を全て棄却。家永の全面敗訴となった。 

 

◆上告審〈昭和61年3月20日原告上告、1993年3月16日判決、最高裁〉

・判決は、第2審判決をほぼ踏襲し、上告を棄却。家永の全面敗訴となった。 

 

〇第2次訴訟

・1966年の検定における『新日本史』の不合格処分取消を求める行政訴訟。 

 

◆第1審〈昭和42年6月23日提訴、昭和45年7月17日判決、東京地裁〉

・判決は、国民の教育権論を展開して、教科書の記述内容の当否に及ぶ検定は教育基本法10条に違反するとした。

・また、教科書検定は憲法21条2項が禁止する検閲に当たるとし、処分取消請求を認容した。

・家永の全面勝訴となった。 

 

◆第2審〈昭和45年7月24日被告控訴、昭和50年12月20日判決、東京高裁〉

・判決は、検定判断が行政としての一貫性を欠くという理由で、国の控訴を棄却。家永の勝訴となった。 

 

◆上告審〈昭和50年12月30日被告上告、昭和57年4月8日判決、最高裁〉

・判決は、処分当時の学習指導要領がすでに改訂されているから、原告に処分取消を請求する訴えの利益があるか否かが問題になるとして、破棄差戻し判決を下した。 

 

◆差戻審〈昭和57年差し戻し、昭和59年6月27日判決、東京高裁〉

・判決は、学習指導要領の改訂により、原告は処分取消を請求する利益を失ったとして、第一審判決を破棄、訴えを却下した。 

 

〇第3次訴訟

・昭和57年の検定を不服として家永が起こした国家賠償請求訴訟。 

 

◆第1審〈昭和59年1月19日提訴、平成元年10月3日判決、東京地裁〉

・判決は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊の記述に関する検定を違法とし、国側に10万円の賠償を命令した。 

 

◆第2審〈平成元年10月13日原告控訴、1993年10月20日判決、東京高裁〉

・原告側証人として、芦部信喜(東京大学名誉教授・学習院大学教授)が原告側証人として1992年4月10日に出廷した。判決は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊に加え南京大虐殺、「軍の婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に30万円の賠償を命令した。 

 

◆上告審〈1993年10月25日原告上告、1997年8月29日判決、最高裁〉

・判決は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を7件中4件認め、草莽隊による年貢半減の公約、南京大虐殺、中国戦線における日本軍の残虐行為、旧満州731部隊の記述に関する検定を違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。(原告の訴えの中で却下された検定は、「日清戦争時の朝鮮人民の反日抵抗」「南京戦での日本軍の中国人婦女暴行」「沖縄戦」である) 

 

〇沖縄戦に関して

・家永教科書裁判では第3次訴訟で沖縄戦での住民犠牲について争われた。

 

・争点は、集団自決を記述せよとの文部省の検定意見は適当か、集団自決と住民殺害(いわゆる住民虐殺)はどちらが多いか、集団自決の様相はどんなものだったか、などであった。

・法廷では双方が証人を立てて沖縄戦での住民犠牲の有様を陳述した。 

 

◆第一審では原告側が大田昌秀(琉球大教授)、金城重明(沖縄キリスト教短期大教授)、安仁屋政昭(沖縄国際大教授)、山川宗秀(沖縄県立普天間高校教諭)が立ち、被告(国)側は曽野綾子(作家)、一富襄(元防衛庁戦史教官)が立った。 

 

◆第二審では、原告側が石原昌家(沖縄国際大教授)、被告側が波多野澄雄(筑波大教授)が立った。 

大田昌秀は、沖縄戦の特徴が住民殺害と「集団自決」などの住民犠牲にあることを述べた。 

金城重明は自身の「集団自決」の体験を証言し、それが自発的な意志ではなく日本軍に追い込まれたものであることを述べた。

 

・ 安仁屋政昭は、自らの20年以上もの長い住民への証言聴取経験を背景に、住民虐殺も「集団自決」もおなじく日本軍に責任があり、軍総指揮官にその意図(命令)があったこと、直接的な軍命がなくても、軍が作り出した状況自体が決定的だとした。また、「赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題だ」と述べた。 

 

山川宗秀は沖縄戦の学習状況を説明し、検定意見では間違った内容が生徒に伝わるとの意見を述べた。

曽野綾子は、渡嘉敷島での自分の取材経緯を説明し、「集団自決」の時に軍からの命令があったという証言はなかったと述べた。 

 

一富襄は住民は自らの意志で軍に協力し、また自決したと確信していると述べた。

 石原昌家は、その長い証言取材経験から住民犠牲の態様を30程に分類し、住民虐殺も「集団自決」もともに日本軍に原因があり、追い込まれたものと説明した。

・波多野澄雄は住民虐殺と「集団自決」は違う分類としたが、ともに日本軍に強いられたものという説明を行った。 

 

曽野綾子は第一審で証人として立ち多くの質問に答えている。それによれば、渡嘉敷島には10日間程度1人で滞在して取材した、当時兵事主任であり軍命を受けたと証言している富山真順について、「彼がそれだけのことを知っているのならば飛びついて、すぐに取材をしていたはずだが、村の誰もそのようなことは言わなかった」とし、富山真順自身は曽野綾子に会ったと証言したが、曽野は富山には取材はしていないと証言した。 

 

・住民の多くの証言が収録されている『沖縄県史・第10巻』は読んでいない(これから買います)、自著で批判した『鉄の暴風』の執筆者太田良博から批判があり沖縄タイムス上で論争をしたこと、自著の「ある神話の背景」では「集団自決」の強制となる証拠は見当たらなかったという事を書いたつもりだ、と述べた。 

 

◆判決は第一審から第三審まで検定意見は適法とし、国が勝訴した。

・その前の事実認定としては住民殺害より集団自決の方が数が多いとは必ずしも言えない、集団自決については「学会の状況にもとづいて判断すると、本件検定当時における沖縄戦に関する学会の状況は(中略)日本軍の命令により、あるいは追いつめられた戦況の中で集団自決に追いやられたものが、れぞれ多数にのぼることは概ね異論のないところであり」とし、集団自決の原因については、「集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的」とした(第三次訴訟・高裁判決文)。 

 

3)第1次教科書問題 

・各新聞の昭和57年6月26日付朝刊が、日本国内の教科用図書検定において、昭和時代前期の日本の記述について「日本軍が「華北に『侵略』」とあったのが、文部省(現在の文部科学省)の検定で「華北へ『進出』」という表現に書き改めさせられた」と報道したことを発端に、日本と中国との間で外交問題に発展した。これは第一次教科書問題ともいわれる。 

 

(参考)教科書誤報事件

 ・教科書誤報事件は、昭和57年に文部省が教科書検定で「華北へ侵略」「華北に進出」に変えさせたとする誤報がなされ、これにより日本の外交・内政に混乱が生じた事件。第1次教科書問題ともいわれる。 

 

〔事件の端緒〕

・昭和57年6月26日、大手新聞各紙および各テレビ局は、「文部省が、教科書検定において、高等学校用の日本史教科書の記述を(中国華北に対する)“侵略”から“進出”へと改めさせた」と一斉に報じた。 

 

・約一ヵ月後中国政府から公式な抗議があり、8月1日には、小川平二文相の訪中拒否を一方的に通告してきた。このため、同文相は、衆議院予算委員会で、教科書の「訂正容認」「日中戦争は侵略」との旨を発言するに至った。 

 

・また、8月23日には鈴木善幸首相が「記述変更」で決着の意向を示し、8月26日には「日本は過去に於いて韓国・中国を含むアジアの国々に多大な損害を与えた」(「侵略」との言葉は使用されていなかった)とする政府見解(宮澤喜一官房長官談話)を発表。そして、9月26日には首相自ら訪中して、この問題を中国側に迎合する形で処理しようとした。 

 

・鈴木内閣は以前に日米同盟についても失言があったことから「外交音痴」と批判されていた。10月には総辞職して中曽根康弘内閣が成立している。 

 

〔事件の背景〕

・発端となった実教出版の「世界史」の「華北へ侵略」「華北に進出」と書き換えた記述は存在せず誤報であった。 

 

・これは6月16日の教科書検定の集団取材において日本テレビ記者が担当した世界史教科書の取材において実教出版の教科書の「華北へ侵略」記述に対し、直さなくてもよい改善意見(B意見)が付記されたことと、帝国書院の「世界史」にあった「東南アジアを侵略」が「東南アジアへ進出」や「日本の中国侵略」が「日本の満州占領」、「特に東三省に駐屯する関東軍は…満州国をつくった。この侵略にたいして」が「特に東三省に駐屯する関東軍は…満州国をつくった。これらの軍事行動にたいして」などの検定書き換えがあったことを混同した結果であった。

 

・この集団取材の結果を、6月22日に各社持ち寄って6月26日に報道したことが誤報の始まりであった。 時の文部省教科書検定課長藤村和男は「最初は『侵略』から『進出』への書き換えがあったかもしれないと思っていた。それまでの検定で、『侵略』にはずっと改善意見をつけ、直した社も直さなかった社もあったからだ」と話す。 当時の検定意見には、必ず直さなければならない修正意見(A意見)と、直さなくてもよい改善意見(B意見)があった。

 

・「侵略」には、強制力の弱い後者の検定意見がつき、判断は教科書会社に委ねられていたのである。だが、実教出版の教科書にはいくら探しても「華北へ侵略」を「華北に進出」書き換えの該当部分が見つからなかった。

 

〔事件の報道〕

・当時の鈴木薫中等教育局長が7月30日の衆議院文教委員会において「この華北への侵略というような点については、今回の検定の教科書を精査いたしましたが、この部分についての該当は当たらないわけでございます」と答弁し、同日、藤村和男も衆議院外務委員会においても「ことしの春終了しました教科書の検定で、日本史、世界史の中で調べてみますと、原稿が『華北侵略』あるいは『全面的侵略』となっておって、それに意見をつけて『華北進出』『全面的進出』というふうに改められた事例は見当たらないわけでございます」と答弁しており、すぐに新聞でも報道された。 

 

・「今年の検定で『侵略』を『進出』と変えた例はいまのところの文部省調査では見当たらない」(7月30日付朝日)。「これまでの調べでは今回の検定で『侵略』が『進出』に言い換えられた例は見つかっていないという」(同日付毎日)。「検定前も『日本軍が華北に進出すると…』であり、『中国への全面的侵攻を開始した』である。検定で変わってはいないのだ」(7月28日付産経)。 

 

・朝日新聞は8月14日付では「『侵略』を『進出』になどと歴史教科書の記述を検定によって書き改めた、いわゆる歴史教科書問題は、・・・」と報道したが、朝日新聞8月25日付では「文部省は・・・「今回の検定で・・・中国側が指摘しているような、日本軍の華北への侵略、中国への全面侵略の『侵略』を『進出』に変えた例は、いまのところ見当たらない」ことを7月30日に続いて報道し、「朝日新聞社のその後の調査によっても、文部省のこの発言は事実と認められる」と、当初の華北部分については報道が誤報であったことを再度確認する記事を掲載した。 

 

・だが、国会での藤村答弁以降すぐに「侵略」を「軍事行動」に書き換え「東南アジアへ侵略」を「東南アジアへ進出」と書き換えた帝国書院版の実例があると指摘され、前述のように「侵略」を「進出」に書き換えるB意見の改善意見が実教出版版「世界史」にも存在していたことも指摘された。以後の国会での論戦は、最初に報道された「華北」部分以外の侵略進出書き換えについてであった。 

 

・つまり、華北部分についての書き換えが無かったことが政府説明員の答弁で確認された後は他部分の書き換えを何故したかの追求に変わったのである。政府説明員の答弁は「用語の統一」であったが、質問者は「それでは何故、ドイツや蒙古(モンゴル)は『侵略』で日本は『進出』にしたのか」と詰問した。この論議の果てに宮澤談話が出たのである。 

 

誤報〕

・書き換え報道があってから2ヶ月後の9月2日になって文藝春秋のオピニオン誌「諸君!」に渡部昇一の「萬犬虚に吼えた教科書問題」が掲載された。「諸君!」の渡部論文は、板倉由明の調査や8月6日付世界日報「テレスコープ」、「実際は変わっていない“教科書”」、「一部を誇大に報道」、「『侵略』記述は、逆に増加」などを参考にしている。 

 

・また、週刊文春には「意外『華北・侵略→進出』書き換えの事実なし」が掲載され、9月7日には産経新聞が一面で訂正お詫びを掲載した。ここに「侵略進出書き換えは誤報である」との主張が始まった。 

 

・一方朝日新聞は9月19日付の「読者と朝日新聞」という中川昇三社会部長名の四段の囲み記事で、「『侵略』→『進出』今回はなし」、「教科書への抗議と誤報」、「問題は文部省の検定姿勢に」と報じた。 「一部にせよ、誤りをおかしたことについては、読者におわびしなければなりません」としながら、「ことの本質は、文部省の検定の姿勢や検定全体の流れにあるのではないでしょうか」、「侵略ということばをできる限り教科書から消していこう、というのが昭和30年ごろからの文部省の一貫した姿勢だったといってよいでしょう」と書いた。 

 

・毎日新聞は9月10日付「デスクの目」で、この問題に触れ、「当初は、これほどの問題に発展すると予測できず、若干、資料、調査不足により読者に誤った解釈を与える恐れがある部分もあった」、「不十分な点は続報で補充しており、一連の報道には確信を持っている」と書いた。 

 

・小泉内閣において、文部科学省はこの件について国会答弁において、町村信孝大臣は民主党議員が「侵略進出書き換えは誤報であったのでは」との質問に対し「誤報であった」と認める答弁をし、次の遠山敦子大臣時代に社会民主党議員が「町村前大臣時代の『侵略進出書き換えは無かった』はあくまで『華北』についてであり他の部分ではあったのでは」と質問に対し、岸田文雄副大臣や政府委員が「侵略進出書き換え自体はありました。無かったのは華北部分」との答弁をしている。 

 

・歴史分野における教科用図書検定では、個別の教科書ごとに全体的な記述の調和を取るということで教科書内の用語使用に言及する「改善意見」(現在の「検定意見」の1部分に相当)もあった。「侵略」などの用語使用にかかわるものもそれに含まれていたと後者は主張しており、1978年には検定前後で「侵略」が「進出」に変わっている具体例があることを指摘している。 

 

〔近隣諸国条項〕(細部後述)

・教科書を記述する際、近隣諸国に配慮するという旨の、いわゆる「近隣諸国条項」はこのときの鈴木訪中で生まれたと言われている。しかし、実際の教科書検定の現場では、教科書調査官がこの条項を振りかざして記述の変更を迫ることはまずない。

 

・文部科学省の方針と検定を受ける教科書の記述表現が異なる場合は、「学説の主流」や「政府の公式見解」を理由に掲げて遠まわしに変更を迫られることの方が多いようである。 

 

4)近隣諸国条項(昭和57年6月)(1982) 

・昭和57年6月26日に、文部省による昭和56年度の教科用図書検定について、「高等学校用の日本史教科書に、中国・華北への『侵略』という表記を『進出』という表記に文部省の検定で書き直させられた」という日本テレビ記者の取材をもとにした記者クラブ加盟各社の誤報が発端となり、中華人民共和国・大韓民国が抗議して外交問題となった。

 

4.1)宮沢官房長官談話(昭和57年8月26日) 

・日本政府は8月26日、『「歴史教科書」に関する宮澤喜一内閣官房長官談話』を発表、9月8日に中国側が了承したことで事態は収束した。文部科学省においては、教科用図書検定規則(文部省令)に基づいて定められている教科用図書検定基準(文部省告示)の中に近隣諸国条項の追加を示唆した。 

 

(参考)宮沢官房長官談話

① 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。

 

 我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミニュニケの中において「過去の関係は遺憾であって深く反省している」との認識を、中国については日中共同声明において「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する」との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。 

 

② このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。 

 

③ このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。 

 

④ 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。 

 

4.2)教科用図書検定基準の改正(昭和57年11月24日) 

・その談話では、その後の教科書検定(教科用図書検定)に際して、文部省におかれている教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準(教科用図書検定基準)を改めるとされていた。 

・文部省内においては、昭和57年11月16日に教科用図書検定調査審議会から答申が出され、昭和57年11月24日に文部大臣が、規定を新しく追加する教科用図書検定基準の改正を行った。 

 

(参考)近隣諸国条項

 「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」 

 

4.3)近隣諸国条項の影響 

・本条項は、学校教育法を大本として公示された文書(告示)の一規定であり、教育法規に付随する文書である。このことから、ほかの教育法規などと同様に近隣諸国条項の解釈も、教育そのものが持っている目的などを踏まえて行うことが妥当であるともいわれる。 

 

・しかし、教科用図書検定の実施者が政治的責任も有している文部科学大臣であるため、教育法学の枠内に留まらない多面的な解釈が行い得る可能性も指摘されている。 

 

・近隣諸国条項の追加により、歴史分野の教科用図書検定においては、日本の侵略・進出などの記載について、以前より綿密に審査を行うこととされた。 

 

・また、日本国内における意見としては、この規定の存在が中国や韓国などからの激しい内政干渉を誘発しているというものと、この規定の活用が不十分であるのでもっと積極的に活用するべきであるというものが見られるようになった。 

 

4.4)問題点 

・教科書の記載に関して国際的な客観性を担保できるような基準を設けることは、国家間の歴史認識の溝を埋める点で好ましいという意見もある。 

 

 

・一方で、「近隣諸国との外交関係に配慮する」と言う政治的理由で、世界百数十ヶ国の中でたった3ヶ国でしかない、中国・韓国・北朝鮮の主観に基づく歴史観に迎合するような制度が、果たして国際的な客観性を担保できるような基準を設けることになるのか大いに疑問であるとする見解もある。 

 

・また、近隣諸国である中国・韓国・北朝鮮の教科書作成に関し同様の規定がないことを問題とする見解もある。 

 

5)第2次教科書問題 

・1986年6月、「日本を守る国民会議(現在の日本会議)」編の高校用教科書『新編日本史』(原書房)に中国が不満をのべ、中曽根康弘首相が文部省に検討を要請、修正が行われた。

 

・これは第2次教科書問題ともいわれる。制度上、文部省が検定合格後に発行者に対して修正を指示することは可能であったが、文部省の指示が適切だったどうかは議論を呼んだ。 

 

・『新編日本史』は、検定に合格しているものの、教科書採択率は低かった(最高時の1989年で1%との推計がある)

 

・この教科書は、特に近代の日本に重きをおき、平易な文章で記述されていたため、基本的な事項を重視する高等学校で主に採用されていた。 

 

・なお、家永三郎は当時、「立場は違うが、検定で落とせとは口が裂けても言えない」語り、教科書は自由発行・自由採択であるべきとの持論を述べた。 

 

6)現在に至るまで 

・第1・2次教科書問題を発端に、以降も90年代から2000年代にかけて歴史教科書問題は、歴史認識問題と連動してしばしば国際問題となってきた。

 

・特に第2次世界大戦中の中国大陸や朝鮮半島地域における日本の政策の評価の相違、侵略/進出などの歴史的事実の認識をめぐる記述の表現や量について問題になることが多い。 

 

・中国・韓国の歴史教科書(韓国は国定教科書が唯一の教科書であり、中国では教科書検定を行っている)では、日本が侵略者であったとする侵攻的側面が重点的に記述され、他方、日本のある教科書では「防衛戦略上、海外進出はやむを得なかった」とする自衛的側面が記述され、侵攻的側面の量は中国・韓国の教科書と比較して少ないもの、また日本の占領・植民地政策による近代化など軍事的な被害ばかりではない記述が見られる教科書や、日本に占領された東アジアの抗日運動家を英雄扱いする教科書など、日本には多様な教科書が存在している。

 

・そのため、一概に日本と中国・韓国の教科書を同列に比べることはできない。 日本国政府は中国政府・韓国政府に対して、中国・韓国の教科書の内容に関する変更を要求する声明を出していない。その理由は他国の教科書に関する要求は国家主権を侵害する虞があると、日本政府が懸念しているからではないかとの指摘もある。 

 

・そのため、中国政府・韓国政府からの日本の教科書に関する要望は、一方的なものとなっており、日本側から何も働きかけないことについてかえって日本国と中華人民共和国との相互理解の推進を阻んでいるとの懸念もある。 

 

6.1)『新しい歴史教科書』(扶桑社) 

・2001年に教科用図書検定に合格した『新しい歴史教科書』(扶桑社)は、中学校社会科の歴史教科書として新しい歴史教科書をつくる会によって執筆された。 

 

・この教科書は、大江健三郎等17名によって、「検定申請本から『従軍慰安婦』『三光作戦』『731部隊』などへの言及が激減し、日本の朝鮮植民地支配や中国侵略を正当化している事実を強く批判」した「加害の記述を後退させた歴史教科書を憂慮し、政府に要求する」という要望書が公表されている。 

 

・また、独自の歴史観が記述されているとして中国や韓国から批判を受けた。なお当時の教科書採択率は低い(2001年の推計で0.097%)。 

 

6.2)八重山教科書問題 

・2011年、沖縄県の八重山地区 (石垣市、与那国町、竹富町) で、文部科学省が平成14年8月に出した通知「教科書制度の改善について」 に基づく改革の実施に対し、「つくる会」系と称される自由社・育鵬社の中学歴史・公民教科書の採択反対を主張する勢力が、「つくる会」系教科書の採択のための改革と主張。 

 

・改革に対するネガティヴ・キャンペーンとしての教科書採択を巡る騒動へと発展した。那国島への自衛隊配備反対を主張する勢力も加わり、自衛隊配備に対するネガティヴ・キャンペーンとしての性質も帯びることとなった。 

 

・なお、この騒動は厳密には歴史教科書問題ではないが、前述の通り、「つくる会」系教科書反対派が当初、歴史教科書の採択反対に重点を置いたため、便宜上本項に分類する(八重山教科書問題)。 

 

7)日本・中国・韓国の歴史の争点 

・教科書問題を発端に、以降も90年代から2000年代にかけて歴史教科書問題は、歴史認識問題と連動してしばしば国際問題となってきた。特に第二次世界大戦中の中国大陸や朝鮮半島地域における日本の政策の評価の相違、侵略/進出などの歴史的事実の認識をめぐる記述の表現や量について問題になることが多い。 

 

・中国・韓国の歴史教科書では、日本が侵略者であったとする侵攻的側面が重点的に記述され、他方、日本のある教科書では「防衛戦略上、海外進出はやむを得なかった」とする自衛的側面が記述され、侵攻的側面の量は中国・韓国の教科書と比較して少ないもの、また日本の占領・植民地政策による近代化など軍事的な被害ばかりではない記述が見られる教科書や、日本に占領された東アジアの抗日運動家を英雄扱いする教科書など、日本には多様な教科書が存在している。そのため、一概に日本と中国・韓国の教科書を同列に比べることはできない。 

 

・日本国政府は中国政府・韓国政府に対して、中国・韓国の教科書の内容に関する変更を要求する声明を出していない。その理由は他国の教科書に関する要求は国家主権を侵害する虞があると、日本政府が懸念しているからではないかとの指摘もある。

 

・そのため、中国政府・韓国政府からの日本の教科書に関する要望は、一方的なものとなっており、日本側から何も働きかけないことについてかえって日本国と中華人民共和国との相互理解の推進を阻んでいるとの懸念もある。 

 

・中国や韓国の国定教科書と、民間の出版社による何種類もの日本の歴史教科書を比べることは難しく、また対立している部分は非常に多いが、必ずしも中国や韓国の歴史教科書と日本の歴史教科書が全ての部分で対立しているわけではないということにも注意しなければならない。 

 

7.1)日本と韓国 

以下に、日韓の教科書の相違点・争点を記述する。 

〈古代史〉

任那日本府

 

日本

 『日本書紀』には「任那日本府を通じて朝鮮半島から日本に文化が伝わる」と記述されているなど、任那日本府の存在を否定することは難しい。また、「半島から日本に文化が伝わる」という一部分だけ恣意的に抽出している韓国の歴史教科書はいかがなものか。

 『広開土王碑文』や『日本書紀』を否定する立場で研究を進めるのではなく、もっと学術的に検証し、任那日本府の実態を明らかにすることを念頭に研究を進めていかなければならない。

韓国

 『日本書紀』や『宋書』などを検証しても、任那日本府の神功皇后が韓半島(朝鮮半島)南部の7カ国を支配していた事実を確認することは出来ない。

 ただ、ヤマト王権が任那を軍事的に支配した事実はなかったという点では韓日双方の見解として一致している。そのため任那の存在の有無を研究するのではなく、4世紀当時の韓日関係を双方が新たに研究しなおさなければならない。

〈中近世史〉

元 寇

(蒙古襲来)

 

日本

 日本が、とその服属国だった高麗の連合軍による武力侵攻を二度にわたって受ける。しかし、元による侵攻は失敗に終わる。

韓国

 元から軍事的な侵攻で内政干渉を受けた高麗は元軍とともに、二度に渡って日本遠征を試みるも失敗。

 なお韓国の国定教科書では元寇を日本「征伐」と記載している。

〈中近世史〉

文禄・慶長の 役

(壬辰倭乱)

 

日本

 韓国が日本に併合されてから文禄・慶長の役という名称が一般に普及したのは事実だが、最近は「朝鮮侵略」という名称も一般化していて韓国側の批判はあたらない。

韓国

 国内問題のような名称を使っており、「豊臣政権が朝鮮に出兵した」など日本の侵略性が意図的に隠蔽されている日本の教科書がある。

 こういう国粋主義的な表現は、昨今の日本の右傾化を助長させている。

〈近現代史〉

韓国併合

 

日本

 日帝(日本帝国主義)という言葉を恒常的に使っていることからしても、韓国側の研究者が冷静にこの問題に取り組めているか疑問である。

 また、日本の植民地政策によって、インフラ整備や李氏朝鮮では禁止されていたハングルの採用など、朝鮮半島の近代化と文化振興が促進された点は否めない。

韓国

 日帝による韓国(朝鮮半島)支配は、他の日本の植民地に類を見ないぐらいおぞましいものであった。

 漢民族が今まで築いてきた経済や文化を奪い、民族の繁栄すら奪った。

 日本は朝鮮半島の近代化を誇るが、誰の・何の為の近代化だったかという観点がすっぽり抜け落ちている。

〈近現代史〉

日韓併合

条約

 

日本

日本が大韓帝国に多少の外交的な威圧は与えていたかも知れないが、国家の代表者である皇帝には圧力を掛けておらず、その当時の国際法上では明らかに合法である。また、日本の併合に問題が在れば、国際的な批判が日本に当然あったはずだが、当時の欧米列強は異議を唱えていない。また、19051226に交付された韓国の官報で、韓国の外務大臣が署名をし締結された第二次日韓協約の全文が載っている事実と辻褄が合わない。

韓国

 当時の大韓帝国は日本に軍事的圧力を受けており、韓日議定書を締結させられたりなど主権侵奪過程に結ばれた韓日併合条約は無効である。

 また、皇帝の署名や国璽がある批准書も存在しないなど不備も見られる。 

〈近現代史〉

創氏改名・慰安婦・皇民化教育など

 

日本

 これらは戦争が激化し始めた1930年代後半以降の「総力戦」の時期に起き始めたことであり、いずれも併合当時から取られた政策ではない。

 また、他の地域とは違い広範囲でそれらが行われたことは、日韓併合条約などの有効性を示すことにも繋がり着眼すべきである。慰安婦についても日本官憲による組織的強制連行の事実はない。

韓国

 1910年の日本の強占(併合)が始まった頃から、こういった日帝による韓国人の民族意識を根絶やしにするような政策が続いた。日帝の残虐性、鬼畜性を語る上で欠かせない歴史的事実である。

〈近現代史〉

竹島(独島)

領有権問題

日本

 日本固有の領土である。日本が連合軍の占領下から脱した翌年の1952年に韓国が不法占拠した。

 また、漁業をしていた漁夫が殺害されるなど日本側は悲惨な目に遭っている。

韓国

 韓国固有の領土である。「日本の領土」だという妄言は日本が侵略戦争を実行したことを反省していない証拠であり、軍国主義が復活している象徴である。

〈近現代史〉

日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

(日韓国交正常化)

 

日本

 漢江の奇跡に象徴されるよう韓国経済に多大な発展をもたらし、また東アジア地域の安定にも貢献した。

 また、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルと当時の日本の外貨準備額18億ドルの半分近い資金を韓国政府に援助するなど、そういう日本が尽力した面を韓国側が2005年まで一般国民に説明しなかったのが誤解の原因である。

韓国

 日本の朝鮮半島の植民地が正当化され、日本が果たさなければいけない謝罪と賠償の問題は存在するなど、不備が残る不平等な条約である。

〈近現代史〉

日韓基本条約が現在の問題

として議論が続く

理由の検証

 

日本

 当時は共産圏勢力の台頭により東アジアには軍事的な緊張が高まっていたなど、関係諸条約を結ぶに至った過程を多角的により一層検証すべきである。

 従軍慰安婦や強制連行は事実であるものの、それらの謝罪や賠償は解決済みであり(日本の戦争謝罪発言一覧・日本の戦争賠償と戦後補償)、歴史研究にそういう政治的な議論は控えるべきである。

韓国

 歴史教科書問題や、従軍慰安婦など徴用による被害者の補償などを含んだ今後の過去の清算を考える上で、大きな意義がある。

 

7.2)日本と中国 

 以下に、日中の教科書の相違点・争点を記述する。 

尖閣諸島問題

(尖閣諸島)

 

日本

 日本固有の領土である。単に林子平の著書だけで中国領とすることはできない。国際法的にも日本が占有してきた日本領であり、戦前、中華民国大使が尖閣諸島を日本領と認めていた公文書が存在する。海底油田の可能性が出てきて中国が領有権を主張するのは、あまりに矛盾がある。

 それ以前の地図には中国、台湾ともに尖閣諸島を日本領と図示しているのに、油田の可能性が出てきてからは地図が変更されてしまっている。

中国

 中国固有の領土である。日本国の林子平が1786年に記した三国通覧図説に清国の領土と記載していることからも明らかに中国領である。その著書を日本が隠しており、最初からそれを明かせば中国の領土になっていたことは間違いなく、今日まで日本は不法占拠をしている。

 そもそも小笠原諸島が日米和親条約締結時に小笠原には日本人がおらずアメリカ合衆国からの移民のみが島民として存在していたにも関わらず日本の帰属になったのも林子平の三国通覧図説によってである。幕末に同じ林子平の書物をもって日本は小笠原を領有したのであるから同じく林子平の書物に従って尖閣を中国の領土と認めるべきである。

・ドイツは戦争直後より謝罪し、個人に対する賠償もしている。 

(現実にはドイツの行った戦争被害への賠償は原則的にドイツ国民に対するものである。)

 「ナチスの不法行為」に対するドイツ国民や外国の個人に対する補償として1956年制定の連邦補償法などがあり、1952年に制定されたイスラエルとの補償協定などの第三国との合意に基づく補償は認めている。

 ただし「戦争被害」についてはドイツ国民以外の請求権は一切認めておらず、ドイツ政府を相手取った訴訟は全て「個人が戦争で受けた被害について自国以外に請求を行う事は出来ない」として請求が却下されている。)。

・現在に至って政府首脳がヒトラー・ナチス戦犯の墓地への参拝をしていない。(実際にはリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領はA級戦犯として有罪になった父親エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーの罪状を回想録で全面否定し、墓地への参拝も行っている。また戦犯として終身刑になったエーリヒ・レーダー元帥の葬儀はドイツ海軍の主催で行われ、代表して弔辞を述べたのは同じく戦犯であったカール・デーニッツであった。更に禁固18年の判決を受けたマンシュタインは釈放後にドイツ軍の常任顧問に迎えられるなど、ドイツでは戦犯の罪状を否定したり英雄と評価することは珍しくない。またドイツ社会民主党のブラント首相はワルシャワのゲトーの前で跪きユダヤ人迫害については謝罪したが、同様にポーランドが戦後行ったドイツ人追放を「いかなる理由があろうと正当化されることはない不正行為」と非難しており、ポーランドに対しては罪の相殺を計っている。)

・近隣諸国と共同で同じ歴史認識の下、歴史教育を受けていて、近隣諸国の理解を得ている。

(実際にはドイツ社会民主党以外の政権、特にドイツ社会民主党よりも政権を担当することが多かったキリスト教民主同盟などは周辺国の反感を買う歴史認識を示すことも多く、2004年のドイツの政権担当政党がドイツ社会民主党であることを好機として捉えたポーランド議会が20049月にドイツに対し「戦争被害賠償請求決議」を行い、20102月にはギリシャのパンガロス副首相が第2次大戦の賠償をドイツに求めると発言して外交問題になるなど、ドイツの戦後処理を巡り近隣国の批判は強い。政権によっては歴史教科書に関しても「ドイツの侵略」といった記述を変更させたり、戦後のドイツ人追放などドイツに対する加害行為も教科書に記載するよう周辺国に要求し圧力をかけることがある。

 ユダヤ人大量虐殺いわゆるホロコーストを否定する事はドイツでは違法であるが、戦争責任や一般的な戦争犯罪の否定は別に珍しい事では無く、1995年に行われた「国防軍の犯罪展」は主に保守層を中心に強い批判が行われている。)。

・日本が中国の教科書で、争議のある尼港事件・南京事件・通州事件などの記述がないことを批判している一方、日本が行った(とされる)中国人や諸外国人に対する迫害南京事件・慰安婦問題・731部隊による人体実験・強制連行・シンガポールの戦いにおけるアレクサンドラ病院虐殺事件・中国系住民虐殺・ニューギニア島など東南アジア諸国に与えた被害については殆ど記述をしない、または削除するように文部省の教科書検定などをはじめ、政府主導で行っている。

・このような日本が行った侵略戦争を靖国神社や一部右翼分子を中心に、大東亜戦争・聖戦と称して、現在なお美化している。

・日本政府は日中戦争の謝罪と何度にわたり言いながら、政治家・首相による靖国参拝や文部省主導の教科書の改悪などで、中国や朝鮮半島やその他日本から戦争被害を受けた人々に対して、謝罪の言葉と全く矛盾している行動をとり続けている。

・そして、このような教科書やメディアの報道により、日本は中立的ではなく偏見的さらには歪曲し歴史の教育をさせている。

・その為に日本の人々のほとんどは真の歴史、特に第二次世界大戦の歴史を知らない。

・日本のメディアでは中国に対してマイナスの面を中心に報道している。

・日本のメディアの反中報道により2005年の中国における反日活動が過大に報道され、日本国内で中国脅威論が起こるきっかけとなった。

 

7.3)日本と中華民国 

以下に、日華の教科書の相違点・争点を記述する。 

尖閣諸島

領有権問題

 

日本

 日本固有の領土である。現在台湾は中華民国の立場をとっており、中華人民共和国とは別国と考えられていることから考えても中華人民共和国の主張を同等と扱うことはできない。

 また、編入した際から長年なんら抗議せず日本国の領土として認めていたのにもかかわらず突如領有権の主張は矛盾している。

台湾

 中華民国固有の領土である。少なくとも中国の一部と考えられていた台湾は中国と同じ主張をできる。

 また、林子平の著書によれば釣魚島ではなく釣魚台と記述されている。中華人民共和国のものでも日本のものでもない。漁業権もこちらにある。

 

7.4)中国と韓国 

以下に、中韓の教科書の相違点・争点を記述する。 

高句麗史

 

中国

 当時の中国の地方政権の一つであり、高句麗の歴史は中国の歴史である。

韓国

 高句麗の歴史が韓国の歴史の一部であることは明白で、中国の歴史であるという言い分は歪曲でしかない。

 

8)各国の歴史教科書への総合的な指摘 

・米スタンフォード大学アジア太平洋研究センターによる日中韓米台の歴史教科書比較研究では、

「日本の教科書は戦争を賛美せず、最も抑制的」、「非常に平板なスタイルでの事実の羅列であり、感情的なものがない。」と評価された。 

 

韓国の歴史教科書については「韓国は日本が自国以外に行った行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。」とし、自己中心的にしか歴史を見ていないと指摘した。 

 

・また、中国の歴史教科書「共産党のイデオロギーに満ちており、非常に政治化されている。」と批判している。 

 

8.1)中国の歴史教科書への指摘 

① 中国戦線での日本軍との戦いがなければアメリカ軍や連合国の勝利がなかったなどと、第2次世界大戦での中国の役割を過大評価している。 

 

② ソ連が日ソ中立条約を反故にし満州侵攻をしたことを、世界平和の貢献を担ったと讃えるなど、その後シベリア抑留など苦痛を味わった日本国民の感情を無視している。 

 

③ 中国は国民党政府軍と英米軍と日本軍のビルマでの戦いを、自国の海外での初めての戦いとしている。しかし、それは李氏朝鮮が実質清の従属国であったと位置づけ、日清戦争で朝鮮半島と戦った事実を無視していることになる。 

 

④ 日清戦争の最中、旅順で起きた日本軍による清の非戦闘員の虐殺に関して、「被害者が慰霊されている万忠墓は、日本軍に刃物などでズタズタになるまで殺されたあの惨劇を忘れてはいけないと警告している」などと、生徒に対し反日感情を抱かせるような記述になっている。 

⑤ 日本の侵略による中国人の死者は約1,000万人とされているが中国の歴史教科書では約3,000万人と多い。 

 

9)大連日本人学校用教科書没収事件 

・2005年6月27日、中国大連市にある日本人学校が教材として使うため日本から取り寄せた資料集や問題集、CDなどが大連の税関で没収される事件が起きた。小学生用の「社会」や中学生用の「歴史」や「公民」の副教材が初めて差し押さえを受けた。 

 

・大連当局は、「台湾が独立した国として扱われ、”一つの中国”という大原則に違反している」、「尖閣諸島が日本領としている地図がある」などと主張。それらの教材は『違法図書』として罰金を日本学校の関係者に要求した。 

 

・日本学校の関係者が、罰金1千元と始末書を提出することで、事態は沈静化した。但し、中国当局はフランス、イギリスの在留者学校のそれに対しても同等の処分をしており、「日本人学校を狙い撃ちしたものではない」と回答している。 

 

・日本人学校で使用される教科書は、文部科学省の外郭団体である『海外子女教育振興財団』が手配をしている。しかしながら、授業を補助するために使用される副教材は日本人学校が選択しているため、中国国内では日本国内の出版物の検閲が強まりつつあるという見方がある。 

 

10)大学入学試験における歴史認識問題 

・2004年1月に行われた大学入試センター試験における世界史B第1問, 問5で、「日本統治下の朝鮮で、第2次世界大戦中、日本への強制連行が行われた」との選択肢が正答に設定されていたことに対して、ある受験者が「第2次大戦当時の言葉としてはなかった」と、採点からのこの問題の除外を求める仮処分申し立てを2004年2月に東京地方裁判所に起こした(2004/2/4 産経新聞)。 

 

・また同年、河合塾の試験では、創氏改名が「かつて、日本は朝鮮人を日本へ同化させる政策の一環として、姓を日本式に変えることを強要した」を正答とする出題を行ったが、実際は創氏と改名の間では扱いが異なるなど、単純な制度ではなく出題自体に不備があった。 

 

・このような事情から、歴史教科書は詳細に記述されていたほうが、答案作成者も受験者に誤解が生まれないような答案を作ることを心がけ、子供も本当の歴史を知る上で望ましいといわれる。 

 

・一方、教育内容に全ての歴史を詰め込むことは不可能なのだから、年齢や学年に応じた基礎基本の事柄を精選したほうが受験する子供には望ましいという意見もある。 

 

・教科用図書検定を実施している文部科学省は、教科用図書検定基準の改正などを行って教科書制度の改善に努めてもいるが、教科書の記述については、重要性や編集の難しさから、教育内容教育評価の点で議論となることが多い。 

 

11)各国の取り組み 

歴史教科書問題の解決に向けていくつかの方法が考えられるが、根本的な解決のためには「中国や韓国が持つ歴史認識を日本人も共有しなければならない」という論調がメディアなどでは強い。しかしながら、教育システムが全く違う国において、双方の国が要求するような共通の教育を行うことは難しい。 

 

・また中国に関しては、民主主義体制を敷いていないが故に広く公正に論じる為には、広く客観的に公正に教科書問題について論じなければならないが、反体制・現在や過去の歴史上、中国共産党に非があると記載される事に繋がる記述には、検閲や禁止などの政策が敷かれて言論の統制が残る現状では非常に難しい。 

 

・2005年5月7日に町村信孝外務大臣李肇星外相と会談し、中国の歴史教科書の偏った記述内容の改善を要求したが拒否されている。同年7月9日、町村外務大臣が日本で採用された歴史教科書の一部(近代歴史)を中国語・朝鮮語に翻訳し外務省のホームページで8月ごろに公開することを決めた。 

 

12)共同の歴史書・歴史教科書の制作 

12.1)政府間プロジェクト 

・日韓の国家間のプロジェクトとして、日韓歴史共同研究事業がある。しかし、韓国の研究者による、歴史検証よりもまず結論ありきの自国の歴史認識の主張があるなど、双方の研究者の研究姿勢のズレから、現時点での成果は少ない。 

 

・大韓民国の国定の歴史教科書は韓民族中心史観が強く、一部では非科学的な歴史の記述も見られる。誤述修正のための見直しには韓国世論の反発も予想され、日本の研究者の新しい見解や事実が受け入れられるのに時間がかかるといわれる。 

 

・また伊藤博文を殺害した安重根は大韓民国では祖国の独立運動の英雄とされるが、日本国では教科書によっては抗日運動家、あるいは単なる過激な暗殺者などと記述されるなど、双方の超え難い立場や視点の壁も存在する。 

 

・こういった様々な障壁から、共同研究の結果を出すことがなかなかできない状態であり、その結果を双方の歴史教育に反映させることは今のところ困難である。 

 

・また、日本側も、プロジェクト合意の時点で、日本の歴史教育で使用されている文部科学省検定済教科書の著作者があくまでも民間人であることにかんがみ、研究結果は教科書の執筆に直接反映されるわけでないことを明らかにしている。 

 

(なお、文部科学大臣が著作の名義を有する文部科学省著作教科書を発行することも制度的には不可能でない。しかし、2005年度の日本国内には、民間の著作による文部科学省検定済教科書が、小学校社会科で5種類、中学校社会科歴史的分野で8種類、高等学校の歴史分野で1科目につき平均9種類以上あるため、文部科学省(文部科学大臣)が教科書を著作することへの需要は低い)。 

 

12.2)民間プロジェクト 

・2004年(平成16年)8月、中国社会科学院近代史研究所の呼びかけで、日本国・中華人民共和国・大韓民国の3国の一部の識者共同で歴史書を制作すること発表され、2005年(平成17年)5月に3か国で発売された(邦題『未来をひらく歴史:日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』)。この教材の内容に関しては、賛否両論がある。 

 

〔肯定的評価〕 

① 自国中心ではなく、東アジア史の視点で記述されている。

 

② 各国の教科書でこれまで記述されていなかったことが、数多く記述されている。

 

③ 日本・中国・韓国の歴史教育関係者が共同して作成した、初めての歴史教材である。

 

④ 各国の執筆者がそれぞれの立場でできるだけ公平な歴史認識で記述しようと努めている。 

 

〔否定的評価〕 

①元々このプロジェクトが立ち上げた中国側の意図は「昨今の日本独自の歴史観や自由主義史観による歴史教科書に対抗するため」であった。 

 

反日的な内容が多く含まれている。 

 

③ 戦後60年の各国の動向の記述が少ない(チベット問題、ベトナム戦争など)。 

 

④ あとがきによれば「同じ内容の本を三国の言葉で同時発刊」とのことであるが、日本と韓国で発行された本の間で朝鮮戦争の記述などに全く異なる部分がある。そのようなこの本の現状が、まさに歴史認識の共有の困難さを示している。 

 

⑤ 各国からの参加者が限定的で、例えば日本からの参加者には 野平晋作(ピースボート)小河義伸(平和を実現するキリスト者ネット事務局代表)高嶋伸欣(琉球大学教授)松井やより(元『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク代表)など研究者ではない左翼系の政治運動家・市民運動家だけが参加し、政治的偏向が強い。


(7)どうして教科書は自虐的になったのか


 

1)戦後教科書を支配する東京裁判史観 

・大東亜戦争の敗戦後、6年8ヶ月にわたって占領がされた。アメリカ・イラク戦争と比べると異常に長い期間だとわかる。 この間、いわゆる「民主化」が進められたが、占領政策の目的は、日本が再び米国の脅威とならないように、日本人を精神的に骨抜きにすることだった。 一言で言えば、日本の弱体化である。 

 

・日本の伝統・国柄・教育・家庭等を破壊する政策が推し進められた。その結果、日本人の多くは、国に誇りを失い、自信喪失に陥ってしまった。 

 

・占領政策において、特に歴史教育に重点がおかれた。それまでの日本人の歴史観は否定された。 GHQは、昭和20年12月から、アメリカ中心の歴史観である「太平洋戦争史観」を新聞に連載し、日本人に植え付けた。連載は本となり、全国の学校に配付され教え込まれた。また、ラジオ・ドラマ化されて、『真相はこうだ』という番組で全国に放送された。このキャンペーンは、日本人に戦争の罪悪意識を植え付け、日本人から過去の歴史を断ち切る効果をもたらした。 

 

・これをさらに補強したのが、東京裁判の判決に基づく東京裁判史観である。東京裁判史観とは、戦勝国として日本を裁いたアメリカの太平洋戦争史観、ソ連のマルクス主義階級闘争史観、中国の抗日民族解放史観の混合物である。これこそ、戦後の歴史教科書の基本的な内容となっている歴史観である。 

 

2)左翼は青少年教育を重視し、教科書の左傾化を図った 

・その後、占領期間が終わっても、日本人は自らの歴史観を取り戻し、これを青少年に教える努力を怠った。その隙を衝いたのが、共産主義者・社会主義者だった。左翼は、教育を重視した。 

 

・昭和20年、当時日本共産党の幹部だった志賀義雄氏(のちに追放)は、次のような趣旨のことを語ったことが知られている。

 

「武闘革命など不必要だ。共産党が作った教科書で、社会主義を信奉する日教組の教師が反日教育を施せば、30~40年後には、その青少年が日本の指導者になる。その結果、教育で共産革命が達成できる」

と。(雑誌『センボウ』) 

 

・特に重点が置かれたのが、歴史教育である。左翼の学者歴史教科書の執筆を主に担当してきた。 また、左翼政党の指導を受けた日教組は、平和教育・民主教育美名のもとに、自虐的な歴史観唯物史観青少年に教育し、革命を担う次世代を育成しようとした。

 

・そうした教育を受けた世代が、60年安保や、昭和40年代の大学紛争70年安保等で左翼運動に駆り立てられた。 

 

・左翼は、教科書の内容自分達の主義・主張をより強く盛り込もうとした。これに対し、文部省(現在の文部科学省)検定制度に基づいて、偏向記述を是正してきた。 

 

・こうした中で、検定制度に反発して起こされたのが、家永教科書訴訟だった。家永三郎氏(元東京教育大学教授)は、占領下のGHQによる歴史教育に協力した学者の一人だった。 

 

・その後、家永氏は、左翼的な色彩の強い高校教科書『新日本史』を執筆者していた。当然、文部省は厳しい検定を行った。これを不当として、家永氏は昭和40年(1965)に第1次訴訟を起こした。 その後も、第2次訴訟第3次訴訟と続け、国による検定制度が違憲であると主張した。

 

3)昭和50年代、文部省が日教組と妥協的に 

・戦後、文部省と日教組の角逐のなかで、昭和50年代を迎える。昭和50年には、戦後30年となった。戦後教育を受けた世代が、社会の中堅を占めるようになり、省庁でも実務の中心となってきた。その影響もあるのだろうか、昭和50年代に入ると、文部省が段々日教組妥協する傾向を示すようになった。 

 

・特に大きな変化として指摘されるのが、昭和52年の学習指導要領の改訂である。

 

・昭和43年に文部省が作った「小学校学習指導要領・社会」の第6学年の部には、次のような「内容の取り扱い」に関する指摘があった。 

 

 「天皇については、日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げて指導し、歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすることが必要である」、「わが国の歴史を通じてみられる皇室と国民との関係について考えさせたり、貴重な文化財の尊重、保護が国民全体のたいせつな歴史的責任であることを自覚させたりするよう配慮する必要がある」。 

 

・ところが、昭和52年に、指導要領が全面改訂されたときに、すべて削られた。

 

・また、文部省は53年に、学習指導要領(※学年・教科など詳細不明)から以下の部分を削除した。 

 

「家庭の役割、社会および国家のはたらきなどそれぞれの特質を具体的な社会機能と結びつけて正しく理解させ、家庭、社会および国家にたいする愛情を育てるとともに、自他の人格の尊重が民主的な社会生活の基本であることを自覚させる」、「われわれの生活や日本の文化、伝統などはすべて歴史的に形成されてきたものであることを理解させ、わが国の歴史や伝統に対する理解と愛情を深め、正しい国民的自覚をもって国家や社会の発展に尽くそうとする態度を育てる」

 

・こうした学習指導要領の改訂が、その後の歴史教育をゆがめていくことになった。


(8)昭和57年の教科書誤報事件と近隣諸国条項で教科書が悪化


 

1)教科書誤報事件 

・昭和57年、それまでの教科書検定制度を揺るがす事件が起こった。歴史教科書「書き換え」誤報事件である。昭和57年6月26日から27日にかけて、昭和58年春から使用する高校用教科書の検定に関する記事が各新聞に大きく取り上げられた。 朝日・毎日等の新聞が、教科書の原稿で「中国への全面侵略」「華北への侵略」と表現されていたものを、文部省が「進出」へと表現を変えさせたと報道したのである。 

 

・これを受けて、中国は7月20日付けの「人民日報」で日本の文部省を追求する記事を載せ、韓国でも東亜日報、朝鮮日報などが激しい対日非難の記事を掲載した。 こうして本来、内政問題である教科書問題が、瞬く間にアジア各国の外交問題へと発展した。中国外務省は、日本の文部省は歴史の改ざんをしていると正式に抗議し、韓国議員連盟も記述訂正を要求してきた。 

 

・ところが、教科書検定において「侵略」を「進出」に変更させたという事実はなかったのである。書き換えさせられた教科書は1点もなかった。そのことを渡部昇一上智大教授が、フジテレビのテレビ番組『竹村健一世相を斬る』で指摘した。続いて、『週刊文春』9月9日号が取り上げた。渡部氏は月刊『諸君』に「歴史的大誤報から、教科書騒動は始まった」と題する論文で、事の経緯を書いた。これに対し、産経新聞などは、報道に誤りがあったと謝罪した。 

 

・北京政府をはじめ、アジア各国は、書き換えは無かった、という事実が明らかになると、それまでの抗議を引っ込めた。 

 

2)近隣諸国条項 

・これで、事態は収束へ向かうかと思えたが、鈴木善幸内閣の宮沢喜一官房長官は、その年の10月頃に予定していた首相の訪中が円滑に進むようにするために、中国等に安易に謝罪したのである。宮沢官房長官は「政府の責任において(教科書の記述)を是正する」、「今後の教科書検定に際しては‥‥検定基準を改め、前記の趣旨(近隣諸国との友好、親善)が十分実現するように配慮する」という宮沢談話を発表した。 

 

・事はすべてマスコミによる誤報だった、と明らかになっているにもかかわらず、宮沢談話に基づいて、文部省教科書検定基準の改訂作業が行われることになった。そして、昭和57年11月、検定基準に「近隣諸国条項」が加えられた。「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」という条文である。 

 

・従来、中国・韓国・東南アジアに関する「侵略」の表記には、教育的配慮などを求める検定意見が付されていた。それによって、自虐的・反日的な表現に一定の歯止めがかけられていた。 しかし、「近隣諸国条項」追加後は、いっさい検定意見が付されなくなり、小中高の歴史教科書に「侵略」用語が野放し状態になった。 南京事件や朝鮮における日本の土地収用政策、日本語使用、創氏改名などについても検定意見が付されなくなった。 

 

・我が国がアジアで行ったとされる「侵略」行為や「加害」の側面のみが強調され、盛んに記述されるようになった。 こうして、教科書誤報事件近隣諸国条項追加の結果、日本の教科書は、中国や韓国等の政府の抗議・要望によって、際限なく、書き改められていくという構造が出来上がった。 これは、日本が、青少年の教育に関して、中国や韓国などの外国の内政干渉を認めることにしたことを意味する。

 

3)昭和61年『新編日本史』が外圧で検定後に書き換え 

「近隣諸国条項」によって、最初に問題にされたのが、高校の歴史教科書『新編日本史』(原書房、小堀桂一郎監修)である。『新編日本史』は、「戦後の歴史教科書が自虐史観や反日史観などに偏向している現状を憂う執筆者が、誤った歴史観に束縛されない公正で客観的な記述で、生徒に歴史への誇りと自信を与えることを目的として編纂」したという。 既存の教科書の記述を批判するだけでなく、新たな教科書を作成するという点で、「新しい歴史教科書をつくる会」に先駆けるものだった。 

 

・『新編日本史』は、一旦、文部省の検定に合格した。しかし、その後、中国・韓国の圧力により、超法規的措置によって追加修正をさせられた。昭和61年5月27日、『新編日本史』は検定合格したのだが、6月7日以降、中韓両国が、『新編日本史』への非難キャンペーン開始した。 非難は、朝日新聞の記事がきっかけだった。新聞報道に呼応して中韓両国が日本政府へ抗議するという図式は、昭和57年の教科書誤報事件と一致する。 

 

・外圧に屈した文部省は、すでに検定に通った『新編日本史』を徹底的に書き直させた。書き直しは、南京事件大虐殺にする、日華事変侵略戦争とするなど、計137カ所に及んだ。この間、教科書検定に何の権限がないにも関わらず、外務省が『新編日本史』の書き直しを指導したといわれる。 

 

・『新編日本史』検定後書き換え事件は、近隣諸国に関する近現代史の記述について、外国からの圧力によって教科書が変更されるという前例を作った。『新編日本史』は昭和62年春から使われたが、採択校の低迷で出版社の原書房が撤退し、平成5年度検定(7年度使用開始)から『最新日本史』に書名を変え、国書刊行会から出版された。現在は明成社が発行している。 

 

4)平成2年実施の新検定制度の下、高校教科書が自虐ぶりを増す 

・平成2年から新検定制度が実施された。これによって、まず高校教科書が自虐的な内容を強めた。文部省が執筆者の意向を大幅に許容する姿勢に変化した。 

 

・その結果、昭和40年の家永裁判の第1次教科書訴訟以来、争点となっていた大東亜戦争に関する偏向した記述が、フリーパスで素通りした。 関東軍731部隊(細菌戦部隊による生体実験)、「南京大虐殺」朝鮮人の強制連行「従軍慰安婦」等の学界で論議を呼び、事実認識が確定していない事柄が、そのまま教科書に掲載された。 

 

・次に、中国を始め東南アジア各地に残虐な行為を行ったとする内容が大幅に増加し、検定意見がつけられなかった。また、アジアの犠牲者「2000万人」する記述が、検定に合格した。「2000万人」とは、昭和6年(1931)の満州事変から終戦までの死者だという。これは根拠のない数字だが、検定をパスさせたことで公式に認知したことになった。 

 

・そして、『最新日本史』を除くすべての高校歴史教科書に「従軍慰安婦」が登場した。「従軍慰安婦」とは、戦前にはなかった言葉であり、実際、「従軍」した慰安婦というものは存在しない。慰安婦は民間の業者(朝鮮人が多い)が募ったものであり、契約は業者と個人の間で行われた商行為である。日本軍が強制連行したという説も、強制連行を証明する資料はない。 

 

・また、サンフランシスコ講和条約や日韓基本条約等に基づいて、戦後賠償の問題はすべて決着している。国際法では、個人が外国を相手に補償を求めることは、認められていない。

 

・こうした事柄であるにもかかわらず、我が国の教科書には、元「従軍慰安婦」ら外国人戦争被害者個人への「戦後補償」は未解決の問題という趣旨の記述が急増した。 

 

5)謝罪外交・土下座外交が教科書に影響 

・平成に入ると、政治家の歴史認識自虐的傾向が強くなった。平成3年に海部俊樹首相が、東南アジア訪問の際に、「過去の反省に立った歴史教育」を強調した。平成5年8月4日、河野洋平官房長官が、「慰安婦強制連行」説を容認する談話を発表した。同5年細川護煕首相が大東亜線戦争について「侵略戦争と認識している」と発言し、「戦後補償」の推進を決定した。 各国と築いてきた戦後の国家間秩序をなし崩しにしかねない判断だった。 

 

・平成7年、わが国は戦後50年を迎えた。戦後世代が国や社会の指導層を占め、その世代の国家意識歴史観・価値観が、国や社会の全般に支配的になってきた。この年、大東亜戦争に関する謝罪をしようという動きがあり、衆議院で戦後50年決議がされ、村山富市首相謝罪談話をし、世界各国に「侵略謝罪」の手紙を送付した。 

 

・こうした政治家の歴史認識が、以前から国防の裏づけがなく弱腰になりがちなわが国の外交姿勢を、一層ゆがめていった。謝罪外交・土下座外交が顕著になった。 またこうした政府の姿勢が教育行政に影響し、中学・高等学校の歴史教科書の内容を自虐的なものとした。文部省自らが日本の加害行為強調する検定意見をつけるようになった。 

 

・平成に入って世界には大きな変化が起こっていた。20世紀の人類に大きな影響を与えた共産主義矛盾・限界をさらし、平成3年にソ連が崩壊した。共産主義は、左翼の政党・学者・教師によって、戦後わが国の教科書重大な影響を与えてきた。 

 

共産主義の破綻によって、教科書の内容は大幅に書き換えられるべきところである。ところが、冷戦終結後もわが国では左翼の学者らが教科書を書き続け、共産主義への反省階級闘争史観の見直しはなされなかった。世界の現実教科書の内容との違いが大きくなっていった。 それとともに、東アジアでは、共産主義由来の国家群が依然として存在し、経済力をつけた国々が、わが国の謝罪外交・土下座外交につけこんで圧力をかけるようになり、教科書の内容に反日的な表現が多くなっていく。 

 

6)平成5年河野談話による「慰安婦強制連行」説容認が教科書に反映 

・平成6年以降の全高校教科書、平成9年以降の全中学校教科書に、「従軍慰安婦が日本軍によって強制連行された」という虚偽が書かれた。これは、平成5年8月4日の河野官房長官談話の結果、全教科書に「慰安婦強制連行」が載ることになったのである。平成4年1月11日の朝日新聞の第一面の虚偽記事が、そもそものきっかけである。それは、「日本軍が、慰安婦を強制連行した」という内容のでっちあげ記事だった。 

 

・宮沢首相は、この朝日記事が出た5日後の1月16日に、最初の外遊先である韓国訪問を間近に控えていた。この朝日新聞の虚偽記事の真偽を知らない宮沢首相は、韓国訪問して、韓国大統領とのたった1回の会談中、慰安婦について6回謝った。 

 

・実は、この首相韓国訪問の時点では、日本政府は「慰安婦問題」について何ら調査していなかったのである。従って宮沢首相は、自分が慰安婦のどんな問題について謝っているのか、自分自身全く知らなかったのである。 

 

・そして、翌年の平成5年8月4日の内閣総辞職前日、河野官房長官は、証拠がなかったにもかかわらず、「日本軍の慰安婦強制連行」を認めてしまった。当時、官房副長官だった石原信雄氏は、この河野談話が、韓国との外交上の取引の結果であったことを、明らかにしている。

 

・石原氏は、当時、いくら公文書を調べても、強制連行の証拠は全くなかったと述べている。 河野談話の最後の数行は河野さんの個人的な思い入れだと、その文書の事務的部分を作成した石原氏が証言。河野談話は、韓国政府と真剣に交渉することを放棄して、安易な妥協に走った宮沢内閣による過ちだったことがよくわかる。 

 

7)平成8年、中学教科書の「従軍慰安婦」が社会問題に 

・平成8年6月27日に公表された中学校の新しい歴史教科書は、大きな波紋を起こした。最大の問題は、平成5年の河野談話の影響が現われたことである。 全社の中学教科書に「従軍慰安婦」が登場した。「従軍慰安婦」は戦後作られた造語であり、日本軍が強制連行したという証拠資料もない。それにもかかわらず、中学生に対し、慰安婦にする目的で朝鮮人女性の強制連行が行われたと理解させるような記述が掲載された。 

 

・「慰安婦」というような性的な事柄を、中学生に教える必要があるのか、国民的な議論が起こった。この記述は、「義務教育諸学校教科用図書検定基準」にある「児童生徒の心身の発達段階に適応し」「心身の健康や安全及び健全な情操の育成について必要な配慮を欠いている……ところはないこと」「未確定な時事的事象について断定的に記述しているところはないこと」という規定に違反している。(結局、平成13年の検定では「従軍慰安婦」という表現は姿を消した) 

 

・史実と実証できない記述も検定をパスした。南京事件の犠牲者数を20~30万とし、廬溝橋事件の発生日を7月7日とするなどの誤述が目立った。この表現の多くは、中国側、韓国側の主張を鵜呑みにした結果である。 また、新たに東南アジアでの日本軍の行為の残虐さを強調するものが増加した。

 

・全般に、教科書の執筆者自身が驚くほど、文部省による検定が緩やかになった。


(追記:2020.10.17/修正:2020.11.1/修正:2023.4.5)