トップ  継体天皇ゆかりの史跡めぐり

①父方の里 ②母方の里 ③潜龍の地 ④治水伝説 ⑤使者謁見の地 

⑥皇居の変遷 継体天皇⑦磐井の乱 ⑧2つの古墳 ⑨図書紹介  関連系図


継体天皇⑥皇居の変遷


1 継体天皇年表

2 継体天皇治世の相次ぐ遷都

(1)遷都の推移(2)樟葉宮(伝承地:交野天満宮)(3)筒城宮(伝承地:同志社大内)

(4)弟国宮(伝承地:乙訓寺)(5)磐余玉穂宮(伝承地:磐余) 


1 継体天皇年表


507年 ・大伴金村大連ら、応神天皇五世孫と伝える大との男大越前国三国坂中井(高向)

    から迎える。男大王を、河内国樟葉宮に至り即位。

509年 ・任那加羅領内に住む百済人を百済に遷す。

511年 ・都を山城の筒城に遷す。

512年 ・百済の要請に応じて、任那の西半にあたる四県を割譲する。

513年 ・百済、五経博士段楊爾を貢ぐ。さらに、己汶・滞沙を百済に割譲する。

514年 ・任那北部の伴跛国・子呑・滞沙に築城して倭国に備える。

515年 ・物部連至至が率いる倭国軍、滞沙江で伴跛国軍に敗退。

516年 ・百済・段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢ぐ。

518年 ・都を弟国に遷す。

523年 ・任那の加耶(加羅)国王・新羅と通婚する。百済の武寧王没。その子聖明王たつ。

526年 ・都を磐余の玉穂に遷す。

527年 ・近江毛野臣、任那復興のため六万の兵を率いて出発。筑紫国造磐井、新羅と通じて

    反乱。火・豊二拠りて毛野臣の軍をはばむ。

528年 ・大将軍物部麁鹿火、磐井を惨殺。磐井の子、筑紫君葛子は死罪を免れるため糟屋

    屯倉を献じる。

529年 ・近江毛野臣、任那の復興に失敗。

530年 ・近江毛野臣、新羅薨と百済の軍に敗れる。毛野臣、都に召喚される途中、

    対馬にて死去。

531年 ・継体天皇没。(日本書紀)紀のある本は534年没とする。古事記は527年没とする。

    紀所引の百済本記は、新羅が安羅に侵入し、日本の天皇及び太子・皇子ともに

    崩薨と伝える。


2 継体天皇治世の相次ぐ遷都


 約40年前、奈良県で勤務していたころは、古代史(継体天皇)に関心を持っていませんでしたので、継体天皇が皇居を変遷された史跡に行っておりません。

 従いまして、ここで紹介しますのは、主としてWebサイトからの資料です。写真は、福井県HPから引用していますが、樟葉宮、筒城宮、弟国宮については、Webサイトでいい写真を掲載したホームページがありましたので、リンクを張っています。


(1)遷都の推移


(引用:参考HP:福井県史HP

1)遷都の概要

 『日本書紀』によれば「5年の冬10月、都を山背の筒城に遷す」とあります。さらに12年春3月、「遷りて弟国に都す」とあり、20年秋9月、「遷りて磐余玉穂に都す」とあります。特にこの20年条には「一本に云わく、七年なりと」との注がついており、福井県史では、なぜこのように「遷都」が頻繁に行われたかを考えてみたいとして、次のように説明しています。

 

  最初の樟葉宮は、今は楠葉と書き、大阪府枚方市の北端に近い淀川左岸で、船橋川が淀川に合流する付近と考えられます。次の筒城宮は、今は綴喜と書き、京都府綴喜郡田辺町多々羅の普賢寺谷付近と推定されています。第三の弟国宮は、今は乙訓と書き、京都府長岡京市と向日市の境界に近い井ノ内付近と考えられています(下図左)。 

 

2)樟葉宮

 樟葉は、桂川・宇治川・木津川の三河川が集まって淀川となる合流点に近く、水陸交通の要衝です。崇神朝の武埴安彦の乱に際し、最後の戦場となったところと伝えられています。古来大きな戦場となったのは重要な地点であることを証しています。 

 

3)筒城宮

 筒城もまた交通の要衝です。北山城・河内・大和・南近江に通じる道の十字路に位置しています。付近には興戸遺跡・薪遺跡(京都府田辺町)など五、六世紀の集落遺跡があります。

 郷士塚四号墳(京都府田辺町)からは鉄鉗や鉄槌などの鍛冶道具が出土した。多々羅という地名自体、鉄生産を示唆しています。 

 

4)弟国宮

 弟国もまた交通の要路にあります。近くの今里遺跡(京都府長岡京市)は弥生前期から古墳時代に至る大集落で、ここの弥生時代の甕の六一パーセントが近江系であるといわれています。またその西の粟生(京都府長岡京市)の光明寺には、越前系の舟形石棺の蓋が残されています。すなわち近江・越前と縁故のある土地柄でありました。 

 

6)今城塚古墳

 以上の三宮地と近接した位置にあるのが、継体天皇陵としてほぼ確実視される大阪府高槻市の今城塚古墳です。とくに注目すべきは、今城塚古墳・弟国宮・筒城宮の三地点がほぼ二等辺三角形をなし、その重心に近い位置に樟葉宮が存在するという事実です。

 いわば初期継体王権最重要三角地帯ともいうべき場所で、その中枢を最初の樟葉宮が占めているのです。これは淀川中流域に継体天皇の特別な縁故があったことを示すもので、越前・近江以外にも地盤があったとみるほかはない。 

 

7)遷都の順序とその意義

 さらに細かくみるならば、この「遷都」が樟葉 ⇒ 筒城 ⇒ 弟国 ⇒ 磐余玉穂の順になっていることが注目されます。樟葉から筒城宮への移動は大和へ一歩近づいたことになりますが、そこから弟国宮への動きは、再び北へ退いたことになります。この後退を余儀なくさせたものは何であったのでしょうか。これら三つの宮を遍歴していたころのオホトは、はたして天下の主となっていたのでしょうか。

 

 中央豪族との妥協が成って、オホトが実際に大王位についたのは、樟葉に宮を置いたときか、それとも大和入りを果たした時だったのか。ここに疑問が起きますが、それを考察したのが、のちに述べる継体・欽明朝内乱説です。あるいは、この地域を舞台として展開し、『古事記』『日本書紀』に先行して述べられる武埴安彦王、および麛坂王忍熊王の反乱もそれに関連していたのではないのでしょうか。

   継体天皇の「遷都」概要図(福井県史HP)            同左(参考HP

樟葉宮は淀川、筒城宮は木津川、弟国宮は桂川を押さえる位置にあり、いずれも水上交通の要

参考HP:http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2004_11_19.htm

樟葉宮(西暦507年~)/筒城宮(西暦511年~)/弟国宮(西暦518年~)/磐余玉穂宮(西暦526年~) 


(2)樟葉宮(伝承地:交野天満宮)


(写真引用:福井県HP)

 『和名抄』は、樟葉宮の所在を河内国交野郡葛葉郷、すなわち今の大阪府枚方市楠葉としています。

 

 樟葉の地は、古くから交通の要衝であり、特に大和北部から木津川沿いに北上して、西国に向かう場合の淀川の渡河地点として重要な位置を占めていました。したがって、交通の要衝をおさえるために、宮を築いたと考えられるが、現在もなお、所在は確定していません。

 

 樟葉宮跡であるとされている地として、交野天神社があります。延暦6年 (787年) 創建と伝えられるこの神社は、桓武天皇が、父の光仁天皇を天神として祀ったのがはじまりとされ、室町時代の古建築として昭和25年に重要文化財に指定されています。

 

 交野天神社の付近一帯の原生林は「樟葉宮跡の杜」として枚方八景にも選ばれています。本殿の脇から原生林の中を50mほど入ったところに、祭神としてクラオカミの神継体大王を祀る貴船神社があります。大阪府は貴船神社を含む交野天神社の境内を「継体天皇樟葉宮跡伝承地」として史跡に指定しています。              (福井県HP抜粋)

樟葉宮に関係する写真のある参考ホームページ

http://www.tukinohikari.jp/jinja-oosaka/hirakata-katano/index.html 


(3)筒城宮(伝承地:同志社大内)


 越の国である福井県を本拠とした継体大王が、507年に樟葉宮 (くずはのみや)(大阪府枚方市)で即位したが、その4年後の511年から弟国宮(おとくにのみや)京都府長岡京市) に移る518年までの7年間、筒城宮が置かれました。

 

 京田辺市郷土史会が1961年に筒城宮顕揚会を結成し、当時の明治神宮宮司、甘露寺受長氏の筆による「筒城宮址」の石碑を、京田辺市多々羅都谷の同志社国際高校の敷地内に建てました。1986年にこの石碑は、地元の要望もあって同志社大学田辺キャンパス構内の不動尊遺址碑の脇に再度移設され現在に至っています。

 

 地名が「都谷」であるところから筒城宮の伝承地とされているが、考古学的には筒城宮址の位置は不明です。なお、「筒城」は『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』などにもうたわれており、後に郡の名前(綴喜郡)にもなっています。 (福井県HP抜粋)

筒城宮に関する写真のある参考ホームページ

http://www.tukinohikari.jp/jinja-kyoto/topics-kyotanabe-tutuki/index.html 


(4)弟国宮(伝承地:乙訓寺)


(写真引用:福井県HP)

 

弟国宮(おとくにのみや)遷都1500年記念事業

1500年前、歴史の舞台は長岡京市!

 長岡京市は、784年に遷都された「長岡京」の地で知られていますが、実はそれより以前にも都が営まれました。それが、「弟国宮」です。日本書紀によると、518年、継体天皇によって、「筒城宮」(京田辺市)から遷都されました。平成30(2018)年に、この遷都から1500年の記念の年を迎えました。

〇 継体天皇 第26代継体天皇は、西暦507年に「樟葉宮」(大阪府枚方市)で即位します。継体天皇は、応神天皇の五世の孫で、父は彦主人王、母は振姫と言われています。継体天皇が幼少のとき、父彦主人王が亡くなったため、振姫は幼子を連れて越前国(福井県)に戻り養育しました。

 日本書紀によると、ヤマトを治めていた武烈天皇が亡くなると、皇位継承者が絶えそうになったことから、大連の大伴金村らが候補者を捜し、越前にいた継体天皇に白羽の矢を立てたと記されています。

〇 遷都を重ねヤマトへ 継体天皇は、「樟葉宮」で即位した後、継体5年(西暦511年)に「筒城宮」(京都府京田辺市)に遷都し、その後、継体12年(西暦518年)に「弟国宮」として遷都しますが、その地が長岡京市北部だと考えられています。「弟国宮」は、「磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)」(奈良県桜井市)に遷都するまでの数年間、歴史の舞台として選ばれていました。

 継体天皇は、古くから淀川水系の交通の要衝として栄えた長岡京市に宮をおき着実に勢力を拡大してヤマトへ向かったと考えられています。それは、当時のヤマト(それまでの政権の中心地)には、継体天皇と対立する旧勢力の存在があったとも言われています。

〇 「弟国宮」はどこに? 答えは、未だ確定していませんが、長岡京市北部が有力と考えられています。古事記伝には、「井乃内村、今里村の辺なり」と記されています。また、井ノ内では、長岡第十小学校の建設時の埋蔵文化財発掘調査で、『弟国』と記された奈良時代の墨書土器の一部が出土しています。

 井ノ内車塚古墳や井ノ内稲荷塚古墳などの市北部の古墳群は、継体天皇即位後に一気に出現していることからも、「弟国宮」との関連が注目されています。

 

弟国宮に関する写真のある参考ホームページ

http://www.tukinohikari.jp/jinja-kyoto/topics-nagaokakyo-otokuni/index.html 


(5)磐余玉穂宮(伝承地:磐余)


(写真引用:福井県HP)

 継体大王は、526年に弟国宮から磐余玉穂宮に遷都しました。実に即位20年後にして初めて大和の地に入ったわけです。

 

 「磐余」とは桜井市西部および橿原市東部の昔の地名で、およそ寺川から西側で天香具山の西ぐらいまでの範囲であったと考えられています。

 

 記録によれば磐余池のほとりに4つの宮殿があったとされています。第17代履中大王稚桜宮(わかざくらのみや)、第22代清寧大王甕栗宮(みかくりのみや)、第26代継体大王玉穂宮(たまほのみや)、そして聖徳太子の父親の第31代用明大王池辺双槻宮(いけべなみつきのみや)です。

 

  稚桜宮は桜井市池之内の稚桜神社に、池辺双槻宮は同市吉備の春日神社にあったとされる伝承が残っていますが、これら4つの宮の所在地については、文献史学、考古学、地理学から様々なアプローチがされているものの、現在までのところ明らかになってはいません。

(福井県HP抜粋)


最終更新:令和3年(2021)3月21日