トップ  継体天皇ゆかりの史跡めぐり

①父方の里 ②母方の里 ③潜龍の地 ④治水伝説 ⑤使者謁見の地 

⑥皇居の変遷 継体天皇⑦磐井の乱 ⑧2つの古墳 ⑨図書紹介  関連系図


継体天皇⑨図書紹介


1 謎の大王継体天皇(水谷千秋著)

(1)概要 (2)内容(小見出しから) (3)関連事項(辛亥の変) 

(4)関連項目(王朝交代説)

2 継体天皇異聞

(1)概要 (2)内容(章ごとの要約)作業中


1 謎の大王 継体天皇(水谷千秋著)


(1)概要


『謎の大王 継体天皇』

水谷千秋 文春新書(㈱文藝春秋)(平成13年)

1)表紙コメント

「謎の大王 継体天皇」武烈天が跡継ぎを残さずに死んだあと、畿内を遠く離れた近江・越前を拠点とし、「応神天皇5世の孫」と称する人物が即位した。継体天皇である。この天皇にまつわるさまざまな謎 ー 血統、即位の事情、蘇我・物部・葛城などの氏族との関係、治世中に起きた「筑紫君磐井の乱」との関わり、「百済本紀」に記された奇怪な崩御のありさまなどを徹底的に追求し、さらに中世の皇位継承にその存在があたえたえいきょうまでをも考察した、歴史ファン必読の傑作。 

 

2)目 次

はじめに/第1章 継体新王朝説/第2章 継体出現前史ー雄略天皇、飯豊女王の時代/第3章 継体天皇と王位継承/第4章 継体天皇の即位と大和定着/第5章 磐井の乱ー地方豪族との対立 第6章 辛亥の変ー2朝並立はあったのか/終章 中世以降の継体天皇観 

 

3)はじめに(抜粋)

 日本の歴史、なかでも古代史について考えるとき、天皇の存在を抜きにすることは出来ない。日本の古代国家は、天皇を頂点に戴く朝廷を中核として、近畿地方を本拠に成立した。この朝廷は、武家政権の成立以後しだいに衰微したが、江戸時代にもかろうじて存続し命脈を保った。それが幕末の尊王攘夷思想の高まりなどによって権威を回復し、明治維新によって実権を取り戻したのだった。

 

 この間、なぜ天皇制は終わることがなかったのか?

 それは日本史を貫く大きな謎で、軽々に答えを出せる問題ではない。恐らく古代、中世、近世、近代とそれぞれの時代に応じて、天皇とこれをとりまく朝廷が、政治的・社会的・宗教的その他の諸機能をはたしてきたのだろう。しかしこれらを全て解きあかすのは、いまの私には手に余る課題だ。私がこの本で述べることができるのはせいぜい古代の天皇、それも5、6世紀の天皇についてである。とりわけ、ヲホド大王、後の継体天皇という名で呼ばれた天皇について、多くの頁を割きたいと考えている。私はこれまで、主にこの継体天皇をめぐる日本の古代史を自分の研究テーマとしてきた。6世紀初めに現れたこの天皇は、その前後の天皇と比較して極めて特異な存在であり、しかもその後の歴史に果たした役割は決して小さくない、と考えるからだ。

 

 継体天皇は、『古事記』には近江出身とされ、『日本書紀』には近江で生まれたのちに越前で育ったと記されている。歴代のなかで、このような地方出身の天皇は他にはない。他はみな、大和政権の本拠であった大和か山城、河内など畿内の出身である。そして出身地以上に奇妙なのは、継体の出自である。『古事記』をみると、かれのことを「応神天皇5世孫」、つまり応神天皇から数えて5代目に当たると記している。『日本書紀』にはこれに加えて母方が垂仁天皇から数えて8代目に当たるとも記している。いずれにしても、かなり疎遠な傍系王族であると言わなければならない。父親も祖父も曾祖父も天皇ではなく、やっと5代前の先祖が天皇であった、と言うのだ。

 

 5代前というと、およそ1230年くらい前のことであろうか。これほど古くては、この系譜が本当かどうか疑いたくもなる。たとえ本当であったとしても、こんなに遠い傍系では事実上王族とはいえないのではないかとも思われる。なぜこのような天皇が即位することになったのか、戦後の古代史研究のなかでさまざまな説が出され、議論されてきた。継体天皇は、それまでの王統とは血縁のない近江か越前の一地方豪族で、実力によって新しい王朝を奪い取ったのだ、そしてその子孫が現在に続く天皇家なのだ、というショッキングな説もある。

 

 この本では、これまで私が考えてきた継体天皇をめぐるさまざまな問題について、順を追って説明していきたい。ここで述べることができるのは、たいへんかぎられた問題であるけれども、これによって、より多くの人々に日本の古代という時代、ひいては日本の歴史全体についていくらかでも考えるきっかけになれば、望外の幸せである。

 

(注)なお、本書で引用した『古事記』は主として『日本思想体系 古事記』(岩波書店)に、『日本書紀』はっ主として『日本古典文学大系 日本書紀』上下(岩波書店)、『新編日本古典文学全集 日本書紀』1~3(小学館)に、また、『風土記』は『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店)に拠った。


(2)内容(小見出しから)


第1章 継体新王朝説

継体天皇の故郷・近江/越前三国から樟葉宮へ/真の継体陵・今城塚古墳/王朝交代説/河内王朝/継体=河内王朝/継体=息長氏出身説/近年の研究動向/継体天皇と現在 

 

第2章 継体出現前史ー雄略天皇、飯豊女王の時代

稲荷山鉄剣銘発見の衝撃/雄略天皇/葛城氏との対決/吉備氏との対決/雄略の人間像/清寧天皇/王位継承者の途絶/推古崩後の状況/孝徳即位時の状況/王族の脆弱性/巫女王・飯豊皇女/飯豊皇女の擁立/飯豊皇女から顕宗天皇、仁賢天皇へ 

 

第3章 継体天皇と王位継承

「上宮記一云」という史料/継体天皇位の系譜/牟義都国造と余奴臣/息長氏と三尾氏/「上宮記一云」と「継体紀」/『日本書紀』の語る継体の即位/倭彦王の物語/「仁徳系王統の断絶」は史実か?/『古事記』の語る継体即位/河内馬飼荒籠/継体は地方豪族化/「二つの大王家」論/倭王武の上表文/「応神五世孫」の系譜 

 

第4章 継体天皇の即位と大和定着

『記・紀』の継体后妃記事/宣化天皇の后妃/后妃からみた継体の支持勢力/『記・紀』にみる傍系王族の実態/傍系王族の地方土着化/仁徳系王統衰退の要因/6世紀以降の王族/王族の自立化/継体の諸宮/磐余玉穂宮遷都/大和進出が遅れた理由/反継体勢力はだれか/「非葛城連合」/葛城氏と蘇我氏/蘇我氏と継体天皇/蘇我氏台頭の背景 

 

第5章 磐井の乱ー地方豪族との対立 

磐井の乱/『古事記』の所伝/「筑後風土記」の石人石馬記事/「筑後風土記」の磐井の乱の伝承/磐井と新羅の内通は史実か?/征討軍の覇権/「安閑紀」の屯倉設置記事/那津官家の設置/九州支配の強化/考古学からのアプローチ/「有明首長連合」の成立/磐井の乱の本質/継体の大和定着と磐井の乱 

 

第6章 辛亥の変ー二朝並立はあったのか

二朝並立論とは?/継体の崩年/安閑の即位年/継体から安閑への譲位/「二種類の百済王歴」論/「辛亥の変」(※)の一解釈/欽明、宣化と安閑/安閑の支持勢力/安閑ヘの譲位の失敗/「辛亥の変」の意義/有力豪族による合議制/『日本書紀』にみえる合議制/合議制の主導権の所在/次期天皇の選定、即位要請/中央豪族による政権掌握/国際情勢と継体朝 

 

終章 中世以降の継体天皇観

「万世一系」と継体天皇/後鳥羽天皇の即位/『愚管抄』の継体天皇観/後嵯峨天皇の即位/後光巌天皇の即位/継体とその後の王位継承/天皇と武家/継体と中世以降の天皇/「上宮一云」の継体出自系譜/継体天皇の人物像 

あとがき 主要参考文献


(3)関連事項(辛亥の変)


※辛亥の変(しんがいのへん)                         (引用:Wikipedia) 

 継体・欽明朝の内乱、仮説上の内乱。当時の歴史を記録した文献資料において不自然な点が存在することから、6世紀前半の継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したという仮定に基づく。発生した年を『日本書紀』で継体天皇が崩御したとされている辛亥の年(西暦531年)と具体的に定めて、辛亥の変と呼ぶ説もある。

 

 『日本書紀』によれば、継体天皇の崩御の年次について、『百済本記』の説を採用して辛亥の年(531年)とする一方で、異説として甲寅の年(534年)とする説も載せている。甲寅の年は次の安閑天皇が即位した年とされ、これは通常継体天皇の没後、2年間の空位があったと解釈されている。 

 

ところが、ここにいくつかの疑問点が浮上する。

『百済本記』辛亥の年の記事は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨 [1]

 

『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の即位した年が辛亥の年(531年)とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。

 

『古事記』では継体天皇が丁未の年(527年)に崩御したことになっている。

 

 こうした矛盾を解釈する方法については、明治時代に紀年論が注目されて以来議論の対象となった。 

 まず最初に登場した説は継体天皇の崩御丁未の年(527年)欽明天皇の即位辛亥の年(531年)として間の4年間安閑天皇・宣化天皇の在位を想定する説である。この説では『古事記』・『日本書紀』ともに安閑天皇の崩御乙卯の年(535年)と一致していることと矛盾が生じる(勿論、これを正確な史料に基づく年次と取るか、同一の出典が誤っていたと取るかで議論の余地が生じる) 

 

 昭和時代に入って喜田貞吉が『百済本記』が示した辛亥の年(531年)に重大な政治危機が発生し、その結果として継体天皇の没後に地方豪族出身の尾張目子媛を母に持つ安閑-宣化系 [2] と仁賢天皇の皇女である手白香皇女を母に持つ欽明系 [3] に大和朝廷(ヤマト王権)が分裂したとする「二朝並立」の考えを示した。

 

 この考え方は第二次世界大戦後に林屋辰三郎によって継承され、林屋はそこから一歩進めて継体天皇末期に朝鮮半島情勢を巡る対立を巡る混乱(磐井の乱など)が発生し、天皇の崩御後に「二朝並立」とそれに伴う全国的な内乱が発生したとする説を唱えた。『日本書紀』はこの事実を隠すためにあたかも異母兄弟間で年齢順に即位したように記述を行ったというのである。 

 

 だが、『百済本記』は現存しておらず、その記述に関する検証が困難である。更に同書が百済に関する史書であるため、倭国(日本)関係の記事を全面的に信用することに疑問があるとする見方もある。そもそも辛亥の年に天皇が崩御したのが事実であるとしてもそれが誰を指すのか明確ではないのである(安閑天皇の崩御の年を誤りとすれば、辛亥の年に宣化天皇が崩御して欽明天皇が即位したという考えも成立する) 

 

 このため、「二朝並立」や内乱のような事態は発生せず、この時期の皇位継承については継体の崩御後にその後継者(安閑・宣化)が短期間(数年間)で崩御して結果的に継体→安閑→宣化→欽明という流れになったとする『日本書紀』の記述を採用すべきであるという見方を採る学説も有力である。

 

 更に「二朝並立」を支持する学者の中でも必ずしも林屋の説が全面的に支持されているわけではない。例えば、林屋は欽明天皇の背後に天皇と婚姻関係があった蘇我氏がおり、安閑・宣化天皇の背後にはこの時期に衰退した大伴氏がいたと解釈するが、背後関係を反対に捉える説をはじめ、継体天皇とその後継者を支持する地方豪族と前皇統の血をひく欽明天皇を担いで巻き返しを図るヤマト豪族との対立 [4] とみる説、臣姓を持つ豪族と連姓を持つ豪族の間の対立とみる説などがある。 

 

 継体天皇から欽明天皇の時代にかけては、仏教公伝や屯倉の設置、帝紀・旧辞の編纂、和風諡号の導入、武蔵国造の乱など、その後の倭国(日本)の歴史に関わる重大な事件が相次いだとされており、「二朝並立」や内乱発生の有無がそれらの事件の解釈にも少なからぬ影響を与えるとみられている。 

 

脚注

[1] 「又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」

[2]  宣化天皇は安閑天皇の同母弟。

[3]  欽明天皇は安閑・宣化天皇の異母弟。ただし、母方を通じて武烈天皇で断絶したそれ以前の皇統の血を引いていることになり、当然母親の格式も高い。

[4]   継体天皇は遠い皇孫でありながら近江・越前を根拠として、武烈天皇崩御後の混乱の後に実力で皇位に就いた。『日本書紀』には平穏な即位が謳われているが、実際には大和入りに20年もかかっていることから即位に反発する勢力も存在して政情不安を抱えていたとみられている。


(4)関連項目(王朝交代説)


※王朝交代説                       (引用:Wikipedia) 

 王朝交替説は、日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説。

1)概要

 第二次世界大戦前まで支配的だった万世一系という概念に対する批判・懐疑から生まれた説で、1952年に水野祐が唱えた三王朝交替説がその最初のものでありかつ代表的なものである。

 

 ただし、それに先立つ1948年に江上波夫が発表した騎馬民族征服王朝説も広い意味で王朝交替説であり、崇神天皇を起点とする皇統に着目している点など水野祐の説が江上波夫の説の影響を受けていることを指摘する学者もいる。のち水野自身、自説をネオ狩猟騎馬民族説と呼んでいる。

 

 また、古代天皇の非実在論に基づいている点は津田左右吉の影響を受けており、九州国家の王であった仁徳天皇が畿内を征服して王朝を開いたという説は邪馬台国九州説の発展に他ならない。 

 

 水野の三王朝交替説はその後様々な研究者により補強あるいは批判がなされていくが、現在では万世一系を否定する学者でも水野の唱えるように全く異なる血統による劇的な王権の交替があったと考えるものは多くない。

 

 水野のいう「王朝」の拠点が時代により移動していることも政治の中心地が移動しただけで往々にして見られる例であり、必ずしも劇的な権力の交替とは結びつかないとされている。

 

 また、近年では、ある特定の血統が大王(天皇)位を独占的に継承する「王朝」が確立するのは継体・欽明朝以降のことで、それ以前は数代の大王が血縁関係にあっても「王朝」と呼べる形態になっていなかったとする見解が主流になっている。 

 

2)水野祐の「三王朝交替説」

 昭和初期(戦前)、津田左右吉は記紀が皇室の日本統治の正当性を高めるために高度な政治的な理由で編纂されたとの意見を表現し、有罪判決を受けた。 

 

 戦後になって記紀批判が行えるようになり、昭和29年(1954年)、水野祐が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表。この著書で水野は、古事記の記載(天皇の没した年の干支や天皇の和風諡号など)を分析した結果、崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てたが、これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であった。 

 

 水野は、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。そして、15代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開した。仮説では、記紀の天皇の代数の表記に合わせると、第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝の興廃があったとされる。崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在し、現天皇は継体王朝の末裔とされている。 

 

 水野祐の学説は当時の学界で注目はされたが賛同者は少なく、その後水野の学説を批判的に発展させた学説が古代史学の学界で発表された。井上光貞の著書『日本国家の起源』(1960年、岩波新書)を皮切りに、直木孝次郎、岡田精司、上田正昭などによって学説が発表され、王朝交替説は学界で大きくクローズアップされるようになった。

 

 古代史の学説を整理した鈴木靖民も王朝交替論は「古代史研究で戦後最大の学説」と著書『古代国家史研究の歩み』で評価している。また、王朝交替説に対して全面的に批判を展開した前之園亮一も著書『古代王朝交替説批判』のなかで、万世一系の否定に果たした意義を評価している。 

 

2.1)3つの王朝について

 崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在した可能性は上記で記したとおりだが、それらについて詳しく述べる。

 

2.1.1 )崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)

 崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよばれている。水野祐は古王朝と呼称した。この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれることもある。

 

 この名称はこの時期に限られており、後代に贈られた和風諡号とは考えられない。崇神天皇の名はミマキイリヒコイニエ、垂仁天皇の名はイクメイリヒコイサチである。他にも崇神天皇の子でトヨキイリヒコ・トヨキイリヒメなどがいる。ただし、崇神・垂仁天皇らの実在性には疑問視する人も多い。 

 

 古墳の編年などから大型古墳はその時代の盟主(大王)の墳墓である可能性が高いことなどから推測すると、古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)箸墓古(卑弥呼の墓と推測する研究者もいる)行燈山古墳(崇神陵に比定)メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことがわかる。

 

 さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げた大古墳のある地域と重なっていることを考え合わせると、崇神天皇に始まる政権はこの地域を中心に成立したと推測でき、三輪政権と呼ぶことができる。 

 

 日本古代国家の形成という視点から三輪政権は、初期大和政権と捉えることができる。この政権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半と推測されている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。政権の性格は、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」卑弥呼を女王とする邪馬台国呪術的政権ではなく、宗教的性格は残しながらもより権力的な政権であったと考えられている。 

 

2.1.2)応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)

 応神王朝は天皇の宮と御陵が河内 ( 当時、律令制以前の為、律令制以後の河内国以外の摂津国、和泉国の範囲を含んでいた ) に多いことから河内王朝ともよばれている。この王朝に属する天皇や皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。

 

 河内王朝は上記の王朝交替論のなかでも大きな位置を占める。その理由は、前後の二つの王朝を結ぶ位置に河内王朝が存在するからである。水野祐は中王朝と呼称し、一般に初期大和政権第2次大和政権などと呼ばれる王朝である。 

 

 なお、応神天皇を架空の天皇とする見解もある。応神天皇の出生が伝説的であることから、応神天皇と仁徳天皇は本来同一の人格であったものが三輪王朝と河内王朝を結びつけるために二つに分離されて応神天皇が作り出されたとする説で、この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。水野祐も仁徳王朝としている。 

 

 河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王が10回にわたり遣使したとの記述があり、倭の五王が河内王朝の大王と推測されることから王朝全体の実在の可能性は高い。ただし、倭の五王の比定は諸説ある。 

 

 また、大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、応神天皇は難波の大隅宮に、仁徳天皇は難波の高津宮に、反正天皇は丹比(大阪府松原市)柴垣に、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどから、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことは間違いない。 

 

 この河内王朝説を批判する門脇禎二によると河内平野の開発は新王朝の樹立などではなく、初期大和政権の河内地方への進出であったとする。

 

 また、河内王朝説でも直木孝次郎、岡田精司による、瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説や、上田正昭による三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野、井上の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説とがある。 

 

2.1.3)継体王朝(越前王朝)

 継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかは判断がわかれている。水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。 

 

 また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和に入ったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の息長氏は大王家に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統の王位継承資格者であって、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。 

 

 なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い (※)。ただし、継体天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また血統の点でも前の大王家の皇女(手白香皇女)を妻として入り婿の形で皇位を継承していることなどから、これを新王朝として区別できるかどうかは疑問とする考え方もある。

 

(※) 平安時代の平将門が桓武天皇の5代の末裔であるため、継体天皇の即位は血縁からいえば、平将門が天皇に即位するに等しい行為となる。 

 

3)岡田英弘の倭国論・王朝交代説・日本の建国についての見解

 東洋史学者の岡田英弘は、東洋史学者としての立場から中国・日本の史料を解釈することを標榜し、「日本の建国」に先立つ日本列島の歩みを次のように区分した。

 

① 中国 (秦・漢時代) の地方史を構成していた時期。日本列島に散在した倭人の「諸国」とは華僑たちが居住する交易の拠点であり、北九州の「奴国」や邪馬台国などの倭王たちは、中国の都合で設置された、倭人の「諸国」の「アムフィクテュオニア」(※)の盟主にすぎず、国家といえるような実態は日本列島にはまだ存在しなかった。

 

※隣保同盟(りんぽどうめい、ギリシア語: Αμφικτυονία、ラテン語: Amphiktyonia、英語: Amphictyonic League)は古代ギリシアにおいて、ある特定の神殿もしくは聖域を共同で維持管理するために近隣の都市国家(ポリス)や部族間で結ばれた同盟である。 

 

② 中国の分裂 (三国時代・南北朝時代) に乗じて中国周辺の各地域に独自の政権が成立していく一環として、近畿地方を拠点とする政権が成立した時期。この時期、近畿地方を支配圏として倭国が成立、日本列島の各地や朝鮮半島の南部の諸国を服属させ、その支配者は中国の政権 (三国の魏や南北朝の宋など ) から「倭王」の称号を受けた(倭の五王その他)。

 

③中国の再統一にともなう国際情勢の激変にともない、日本列島の倭国とその他の諸国がそれぞれの組織を解消して統一国家「日本」を建国。中国で統一王朝が成立 ( 隋および唐 ) し、中国による近隣諸国への攻撃、併合 ( 突厥・高句麗・百済 ) がすすみ、日本列島が国際的に孤立するという緊張の中、668年~670年、倭国とその他の諸国は従来の組織を解消、ひとりの君主を中心とする統一国家としての組織を形成し、国号を「日本」、君主を「天皇」と号し、これを「日本の建国」とする。 

 

 岡田は、720年に成立した日本書紀について、「日本の建国事業の一環として編纂され、壬申の乱で兄の子弘文天皇より皇位を奪った天武天皇の子孫である現政権の都合を反映した史料」と位置づける。 

 日本書紀にみえる歴代の天皇たちについては、神武天皇より応神天皇までは、創作された架空の存在とし、当時の近畿地方の人々に「最初の倭王」と認識されていたのが「河内王朝」の創始者である禰 (でい、日本書紀でいう仁徳天皇 ) とし、その後播磨王朝、越前王朝が次々に交代したとする。 

 

 また、日本書紀が、現皇室系譜を直接には「越前王朝の祖」継体天皇にさかのぼらせている点について、隋書の記述(※)を根拠として、日本書紀には日本書紀の成立直前の倭国の王統について極めて大きな作為があること、また、舒明天皇とそれ以前の皇統の間でも「王朝の交代」があった可能性を指摘している。

 

(※)日本書紀が推古女帝・摂政聖徳太子の治世とする時期、隋の使節は妃や太子のいる男王と会見したと記録している。  

 

●岡田英弘の王朝交代説

河内王朝

播磨王朝

越前王朝

④ 舒明天皇以降の、「日本建国の王朝」  

 

4) 鳥越憲三郎の説

4.1) 葛城王朝説

 鳥越憲三郎が唱えた説で、三王朝交替説では実在を否定されている神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。詳細は欠史八代「葛城王朝説」を参照。

 

 河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。

 

 仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘磐之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。

 

 また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押磐皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。

 

 さらに、雄略天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。

 

 こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。


2 継体天皇異聞


(1)概要


「継体大王異聞」

(讃 紫雲:幻冬舎メディアコンサルティング発行、幻冬舎発売)

 大胆な仮説を掲げ、今に連なる天皇系の始祖となった

継体天皇の実像に迫る歴史巨編

1)帯の説明から

(表帯説明)

古代史の謎、皇統の分水嶺となった継体天皇(大王)とは何者だったのか。

 なぜ継体天皇は皇統を継げたのか、朝鮮半島との交流に積極的だったのか。

(裏帯説明)

 幼少期にある奇跡により霊威を帯びた男大迹(ヲホド)は、越前、近江、そして尾張国で事績を重ね、各地の豪族の期待を担っていく。

 やがて雄略天皇に見出されて大和に召されるが、その遠すぎる血筋と地方出身ゆえに大和の豪族たちの抵抗を受ける。

 武烈天皇の後を継ぎついに天皇となった彼を、次なる試練が待ち受けていた。

倭国、百済、任那を舞台に継体天皇の生涯を描く。

 

2)目次

第一章 持衰/第二章 越の鳳雛/第三章 邂逅/第四章 鉄と巡拝/第五章 治水/第六章 倭の成り立ち/第七章 百済の騒擾/第八章 倭国のかたち/第九章 王統の継承/第十章 北の臥龍/   第十一章 混迷、そして即位/第十二章 親政と後嗣/第十三章 半島と蘇我出現/第十四章  倭国創建への勾配/第十五章 西からの旋風/第十六章 倭よ、永遠に/第十七章 終章

 

3)内容紹介(裏帯説明と同じ) 幻冬舎ルネックス新社HP

  幼少期にある奇跡により霊威を帯びた男大迹(ヲオト)は、越前、近江、そして尾張国で事績を重ね、各地の豪族の期待を担っていく。やがて雄略天皇に見出されて大和に召されるが、その遠すぎる血筋と地方出身ゆえに長らく大和の豪族たちの抵抗を受ける。武烈天皇の後を継ぎついに天皇となった彼を、次なる試練が待ち受けていた。倭国、百済、任那を舞台に継体天皇の生涯を描く。

 

4)著者紹介 幻冬舎ルネックス新社HP )

 讃 紫雲(さん しうん) 1949年 香川県高松市生まれ。1973年 大阪大学文学部史学科卒業。

 その後、一般企業に定年まで勤務する。現役会社員生活を65才でリタイアした後、歴史への興味を深め、このたびの著作にいたる。


(2)内容(章ごとの要約)


作業中

第一章 持衰

第二章 越の鳳雛

第三章 邂逅

第四章 鉄と巡拝

第五章 治水

第六章 倭の成り立ち

第七章 百済の騒擾

第八章 倭国のかたち

第九章 王統の継承

第十章 北の臥龍

第十一章 混迷、そして即位

第十二章 親政と後嗣

第十三章 半島と蘇我出現

第十四章  倭国創建への勾配

第十五章 西からの旋風

第十六章 倭よ、永遠に

第十七章 終章


ページ追加:令和3年(2021)3月8日              最終更新:令和3年3月9日