トップ 歴史散歩への誘い

東北①青森 東北②岩手 東北③秋田
近畿①奈良 近畿②大阪 近畿③京都 近畿④兵庫 近畿⑤和歌山 近畿⑥滋賀
中国①岡山  ※九州地域については〔古代史の謎③④⑤⑥〕参照

歴史散歩への誘い(東北)③


秋田県の歴史散歩


後三年の役


 後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。

 

1 経緯

 

1.1 背景

 

 11世紀、東北地方には出羽国清原氏陸奥国安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていた。しかし陸奥国の安倍氏は陸奥国府と対立し、康平5年(1062年)前九年の役で滅亡した。この時、戦役の最終局面で参戦して国府側戦勝の原動力となったのが、清原氏の清原武則である。

 

 永保3年(1083年)に後三年の役が始まるまでの東北地方の政治状況ははっきりしないが、清原氏の当主の座は前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、武則を経て武則の息子の武貞、さらにその嫡子の藤原真衡へと継承されていた。

 

 清原武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻(有加一乃末陪)(ありかいちのまえ)を自らの妻としていた。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた息子がいた。

 

 この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞と彼女の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた清原家衡が生まれた。

 

1.2 真衡の養子成衡の婚姻と清原氏の内部分裂

 

 武貞の死後、清原氏の惣領の地位を嗣いだ清原真衡であったが、真衡には嫡男が生まれなかったので、真衡は海道小太郎なる人物を養子に迎えた。これが清原成衡である。これで清原氏は桓武平氏との縁戚関係が出来たことになる。

 

 更に真衡は源氏との縁戚関係の構築を目論み、永保年間(1081年〜1083年)に常陸国から源頼義の娘とされる女性を迎え、成衡の嫁とした。この女性の詳細は不明だが、『奥州後三年記』によると、源頼義が陸奥国に向かう途中、平国香流の平宗基という人物の娘と一夜を共にし、その時に生まれた娘であるとされる。

 

 これが事実であれば、清原氏には常陸平氏河内源の惣領家に近い系統の血が一気に入る一方で、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引く清原家衡は清原氏の嫡流から外れるということになる。

 

 清原成衡の婚礼の際、陸奥の清原真衡の館に出羽から真衡の叔父に当たる吉彦秀武が祝いに訪れた。吉彦秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、真衡の前にやってきたが、清原真衡は碁に夢中になっており、秀武を無視し続けた。面目を潰された秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。

 

1.3 源義家の介入と真衡の急死

 

 清原真衡吉彦秀武の行為を聞いて直ちに吉彦秀武討伐の軍を起こした。一方の吉彦秀武は、同じく清原真衡と不仲であった清原家衡清原清衡に密使を送って蜂起を促した。2人は吉彦秀武に呼応して兵を進め、白鳥村を焼き払った後に清原真衡の館に迫った。これを知った真衡が軍を返して清原家衡清原清衡を討とうとした為、2人は決戦を避けて本拠地へ後退した。

 

 清原家衡清原清衡を戦わずして退けた清原真衡は、再び吉彦秀武を討とうと出撃の準備を始めた。永保3年(1083年)の秋、源頼義の嫡男で清原成衡の妻の兄である源義家が陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、清衡真衡源義家を三日間に渡って多賀城(国府)で歓待し、その後に出羽に出撃した。清原家衡清原清衡清原真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、すでに備えをしていた清原真衡方が奮戦した上、国府も清原真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗を喫して国府に降伏した。ところが出羽に向かっていた清原真衡は行軍の途中で病のために急死してしまった。

 

1.4 清衡と家衡の抗争

 

 清原真衡の死後、源義家清原真衡の所領であった奥六郡を3郡ずつ清衡と家衡に分与した。この時、清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡、家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡が与えられたのではないかと考える者も多いが、確証は無い。

 

 ところが清原家衡はこの裁定を不満とし、応徳3年(1086年)清原清衡の館を攻撃した。清原清衡の妻子一族はすべて殺されるも清原清衡自身は生き延び、源義家の助力を得て清原家衡に対抗した。清原清衡源義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった清原家衡を攻撃したが、季節は冬であり、充分な攻城戦の用意が無かった清原清衡・源義家連合軍は敗れた。

 

 清原武貞の弟である清原武衡清原家衡勝利の報を聞いて清原家衡のもとに駆けつけ、清原家衡源義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めた。寛治元年(1087年)源義家・清原清衡軍金沢柵に拠った清原家衡・清原武衡軍を攻めた。この時に源義家の発案で剛の座・臆の座(剛臆の座)(※)が設けられ、源義光の郎党藤原季方が活躍する。が、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武は兵糧攻めを提案した。

 

※剛臆の座(ごうおくのざ):軍陣で剛勇の者と臆病な者とを分けて並ばせた座。

 包囲したまま秋から冬になり、飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。源義家はいったんはこれを助命しようとしたが、食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。これに恐怖したため柵内から降伏するものはなくなり、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した。

 

 清原武衡は近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられ斬首された。清原家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られた。戦いが終わったのは寛治元年11月14日(1087年12月11日)であった。

 

1.5 戦後処理

 

 朝廷は、上記戦役を源義家の私戦とし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。更に源義家は陸奥守を解任された(後任は藤原基家。着任の翌年に死去)

 また源義家が役の間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、その間の官物未納が咎められ、源義家はなかなか受領功過定を通過出来なかった。

 そのため源義家は新たな官職に就くことも出来なかった。ちなみに10年後の承徳2年(1098年)白河法皇の意向で受領功過定が下りるまでその未納を請求され続けた。

 

 結果として源義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。

 

 戦役後、清原清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。清原清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復し(奥州藤原氏)、清原氏の歴史は幕を閉じた。 

 

2 逸話

 

2.1 雁行の乱れ

 

  源氏軍清原家衡・武衡軍の籠もる金沢柵へ行軍中、西沼(横手市金沢中野)の付近を通りかかった。源義家が馬を止め上空を見ると、通常は整然と列をなして飛ぶ雁が乱れ飛んでいた。それを見た義家はかつて大江匡房から教わった孫子の兵法を思い出し、清原軍の伏兵ありと察知し、これを殲滅した。義家は「江師(ごうのそつ)の一言なからましかばあぶなからまし」と語ったという。

 

 かつて前九年の役の後、京の藤原頼通邸で源義家の戦功話を評していた際、「器量は賢き武者なれども、なお軍(いくさ)の道を知らず」と大江匡房がつぶやいたということが、義家の家人を通じて源義家本人に伝わり、怒り出すどころか辞を低くして大兄匡房の弟子となったと伝えられている。また、大江匡房は源義家の弟の源義光に笙の笛の秘伝を教えたともいう。後に大兄匡房の曾孫大江広元は鎌倉幕府創建に功をなした。

 

後三年の役 - Wikipedia

後三年合戦絵詞(引用:Wikipedia)

 

 なお、『後三年合戦絵詞』のなかでは知識の多い老人である大江匡房から兵法を教わり、そのことがあったために伏兵を悟ったということになっているが、実際は大江匡房は源義家よりも若いため、そのようなことはありえない。

 そのため絵巻は大江匡房にたいして「老賢人」としてのイメージが出来上がってから描かれていることがわかり、この「雁行の乱れ」のエピソード自体が作られた話、もしくはもともとあった小競り合いに物語性を出すために大江匡房の話を付け加えたものである可能性が非常に高いことが言える。

 

平安の風わたる公園1  平安の風わたる公園2

平安の風わたる公園(引用:横手市HP

 

 源義家が馬を止めた丘は後に「立馬郊(りつばこう)」と呼ばれた。立馬郊は近代に入って大正天皇即位記念園として整備されている。また、現在西沼には後三年の役をテーマにした公園「平安の風わたる公園」がある。

 

 『後三年合戦絵詞』(東京国立博物館所蔵。戎谷南山模写は金澤八幡宮所蔵)でもこの雁行の乱れのシーンが一番有名である。これに因み、西沼の横手市側の対岸にある美郷町飯詰付近では雁の里と名乗っている。

 

2.2 鎌倉権五郎景政の奮戦

 

 源義家方の先鋒軍に、鎌倉景政(権五郎)という16歳の若武者がいた。清原軍の放った矢が右目に刺さるも、その敵を逆に射殺し、自陣に帰った。苦しむ景政に対し仲間の三浦平太郎為次が駈け寄り、矢を抜こうと景政の顔に足をかけた。景政は怒り為次に斬りかかった。驚いた為次に対し、景政は「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言ったという。為次は謝り丁重に矢を抜いたと伝えられている。景政の子孫には鎌倉幕府創建の功臣梶原景時がいる。

 

 景政が目を洗った川である厨川には片目の鰍が住むようになったという伝説がある。また、戦の後に景政が敵の屍を集めて葬り杉を植えた塚は現在「景正功名塚」と呼ばれている。塚の周辺は、大正期に伊藤直純らにより金沢公園として整備された。塚の杉は大木となっていたが、二次大戦後、火災に遭い現在は幹だけが残っている。

 

 宮城県亘理町(経清の本拠地)にも同様の伝承があり、矢抜沢(亘理町逢隈田沢字柳沢)という地名があり、沢のほとりに「権五郎矢抜石」という石がある。矢を射掛け逆に首を取られたのは、鳥海弥三郎(安倍宗任とする伝承があるが時代が違う)という清原武衡の家人で阿武隈川河口鳥の海の住人である。


金沢柵


(引用:Wikipedia)

〇金沢柵

 

 金沢柵(かねざわさく、かねざわのき)は、出羽国に置かれた古代日本の城柵の1つ。後三年の役の舞台となった。

 

 正確な建造時期や場所はわかってはいないが、平安時代頃に現在の秋田県横手市金沢にあったとされる。古代城柵としての確実な遺構は発掘されていないものの、戦国時代の山城である「金沢城」があった山が比定地とされており、本丸などから最古で9世紀後半の遺物が出土している。

 

 麓に羽州街道を望む。四周が断崖絶壁の岩山で天然の要害をなし、数多くの堀を設けた堅固な柵であったといわれる。清原氏の居城であり、後三年の役においては、清原家衡、清原武衡が籠城し抗戦した。源義家も攻略に手を焼いたが、兵糧攻めにより1087年(寛治元年)に落城した。

 

 1458年(長禄2年)には十三代南部守行の子、金沢右京亮が入り、1470年(文明2年)まで居城とした。その後は小野寺氏の家臣、金沢権十郎などの居城となった。江戸時代、久保田藩主佐竹氏が秋田へ入部した際、居城の候補の一つとして金沢に城を再整備する案が梶原政景から提案されたが、最終的に久保田城が居城となり、金沢城は一国一城令によって廃城となった。

 

 現在は金沢公園(金澤八幡宮)としてその跡をとどめている。後三年の役の際、源義家が愛用の兜を埋めたとされる兜杉や、武衡が隠れようとしたとされる蛭藻沼、戦果を上げた鎌倉景正が立てた景正功名塚、兵糧庫跡や当時の柱穴址が残っている。

 

 また、柵北側の断崖下を流れる厨川に右目が見えない片目カジカが目撃され、敵に右目を射られた後にここで目を洗った景正の武勇を今に伝えるとされている。

 

〇金澤八幡宮

 

 金澤八幡宮(かねざわはちまんぐう)は秋田県横手市にある神社である。

 

●由緒

 

 後三年の役で奥羽を平定した河内源氏の源義家が、奥州藤原氏初代の藤原清衡に命じ京都の石清水八幡宮の八幡神を、陥落させた金沢柵跡に勧請し社殿を創建し、金澤八幡神社としたのが始まりである。江戸時代には、源義家の弟・源義光の末裔である佐竹氏が秋田藩主となったため厚く信仰され、1604年(慶長9年)以来十数回の修改築がなされている。1989年(平成元年)に金澤八幡宮と改称した。

 

●祭神

 

 八幡大神

 

●境内・金沢公園

 

・神馬像・・・青銅製。1936年(昭和11年)完成。太平洋戦争前中の度重なる金属類回収令による供出要請を免れた。

・兜杉・兜八幡・・・源義家・義光兄弟を祀る。

・兜石・・・兜八幡の傍らにある石。戦勝後の義家が凱旋の折に兜を埋めて其の上に石を置いたとされる。

・伝兵糧倉・・・焼米が出土するといわれている。

・景政功名塚・・・矢によって片目を射抜かれても戦ったとされる鎌倉景政由来の塚。

・御野立所跡・・・昭和天皇が立ち寄られた。平野を一望できる。

・納豆発祥地・・・兵糧不足に悩んだ義家軍の馬の背で大豆が発酵し納豆が誕生したという伝承がのこる。

・金沢城跡(中世)・・・小野寺氏系・六郷氏系の各城主が居住した連郭式の山城。本丸・二ノ丸・北ノ丸・西ノ丸・武者溜ほか。昭和40年代に発掘調査を実施している。

 

●周辺

 

・物見山・・・斥候山とも記す。仙北平野を一望できる。頂上に矢木沢神社が鎮座する。斜面は陶窯として利用された。

・立馬郊(平安の風わたる公園)・・・義家軍が馬を立てたという伝承。西沼に近い。

・西沼・・・飯詰村との境にあり、飯詰側は大沼という。源義家が雁行の乱れによって伏兵のあることを知ったという伝承がのこる。

・蛭藻沼・・・敗北した清原武衡が潜んでいたとされる沼。

・長岡森・・・清原家衡最後の地。

 

●年表

・1087年(寛治元年):金沢柵が陥落し、後三年の役が終結。

・1093年(寛治7年):源義家の命で藤原清衡、京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請し、創建。

・1602年(慶長7年):<佐竹義宣、秋田入封。>

・1868年(明治元年)3月:<神仏分離令>

・1871年(明治4年)5月14日:<社格制度制定>

・1989年(平成元年):金澤八幡宮に改称。

 


作成開始:02.07.20                            最新更新:03.01.17


作業中