トップ 近現代史の復習

 ①(戦前・明治) ②(戦前・大・昭) ③(戦前・朝鮮) 

④(戦前・中国)⑤(戦前・台湾) ⑥(戦前・ロシア)■⑦(戦前・米英蘭) 

⑧(戦後・占領下) ⑨(戦後・独立後) ⑩(現代)


近現代史の復習①(戦前・明治)


趣旨


 これまで、趣味の継体天皇ゆかり史跡巡りを楽しむために、関連する古代史の謎について、アプローチしましたが、日本の歴史についてあまり素養がなく、古代史の謎は深まるばかりです。古代史の謎に関するページについては、今後も少しずつ加筆・修正をしていきたいと考えています。

 

 振り返って近現代史に関しては、高校時代(昭和36~39年)の大学受験準備の際、入試問題にあまり出題されていないこともあり、高校での歴史教育でも明治時代以降はあまり重視されてこなかったため、今から思うと驚くほど勉強不足だったことが思い出されます。

 

 この『近現代史の復習』ページの作成動機は、ボランティア活動での調査研究の課題「我が国の防衛意識の現状と今後の課題」に検討チームの一員として参画した際、下記に示したように、チームの一員からの発言で「世界価値観調査」(2005年)で「いわゆる愛国心」が世界で最下位であると言うことを知りました。

 

 そして、この要因を知る為には、近現代史の復習が必要と考え、個人的に関係資料を収集する為、Wikipediaを中心にWEBサイトのサーフィンをして、資料を収集してきたものです。

 

 したがって、この「近現代史の復習」ページは、個人的な勉強のための学習ノート的な形になっております。疑問点が出るたびに関連事項を補足してきましたので、内容的にアンバランスなところはありますが、今後とも、逐次、追加修正していきたいと思っています。

 

 又、この学習ノートは、主としてWikipediaの説明記事をベースに作成しており、特に明示していない部分の引用はWikipedia であり、本文中の語句のリンク先もWikipediaの記事を優先して採用しています。写真の引用も、Wikipediaからの引用に限定しています。それ以外の引用については可能な限り、該当箇所に引用元を記載するように努めておりますが、漏れがありましたらご容赦下さい。

 

(追記)

 調査研究段階では、世界価値観調査(2005年)のデータ(15.1%)を引用しましたが、世界価値観調査(2017年~2020年)では13.2%に低下しているので、過去の状況を確認するため主要国の時系列データを追記しています。

 

 教育基本法の改正等で愛国心が向上しているのではないかと思っていたところでしたが、この結果には少々驚いています。

(追記:2023.4.7)


(参考)世界価値観調査(2005年)



(参考)世界価値観調査(2017年~2020年)


***世界各国の価値観***

***主要国の時系列データ***

(引用:)社会実情データ図録 https://honkawa2.sakura.ne.jp/5223.html


(追記:2023.4.7)


近現代史の復習(目次)


1 明治維新から敗戦までの国内情勢

 1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新) 

 1.2 天皇親政から立憲君主制へ

 1.3 大正デモクラシーの思潮 

 1.4 昭和維新から大東亜戦争へ

 

2 明治維新から敗戦までの対外情勢

 2.1 対朝鮮半島情勢

 2.2 対中国大陸情勢

 2.3 対台湾情勢

 2.4 対ロシア情勢 

 2.5 対米英蘭情勢

 

3 敗戦と対日占領統治

 3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印

 3.2 GHQの対日占領政策 

 3.3 WGIPによる精神構造の変革

 3.4 日本国憲法の制定

 3.5 占領下の教育改革 

 3.6 GHQ対日占領統治の影響

 

4 主権回復と戦後体制脱却の動き

 4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース

 4.2 対日講和と主権回復 

 4.3 憲法改正

 4.4 教育改革

 

5 現代

 5.1 いわゆる戦後レジューム

 5.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)

 5.3 日本人としての誇りを取り戻すために

 5.4 愚者の楽園からの脱却を!

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(戦前・明治)です。


1 明治維新から敗戦までの国内情勢


目次(1 明治維新から敗戦までの国内情勢)

1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新)

(1)幕末の思潮/(2)尊王攘夷運動/(3)幕藩体制から大政奉還/(4)明治維新 

 /(5)祭政一致による天皇親政へ/(6)明治新政府の文教政策

 

1.2 天皇親政から立憲君主制へ

(1)明治6年政変(征韓論政変)/(2)自由民権運動/(3)士族の反乱 

 /(4)教育令・教学聖旨・軍人勅諭/(5)明治14年政変(国会開設の詔勅)

 /(6)大日本帝国憲法の制定/(7)教育勅語と井上文相の教育改革/(8)治安警察法

 /(9)大逆(幸徳)事件/(10)南北朝正閏論/(11)不平等条約の改正 

 

1.3 大正デモクラシーの思潮

(1)大正デモクラシー/(2)大正政変/(3)民本主義と天皇機関説/(4)第1次大本事件

 /(5)第2次護憲運動/(6)普通選挙法/(7)治安維持法の制定/(8)教育制度の拡充

 

1.4 昭和維新から大東亜戦争へ

(1)統帥権の独立と統帥権干犯問題/(2)経済の悪化/(3)国際社会の不安定化

 /(4)昭和維新と軍部の台頭/(5)国体明徴運動/(6)大政翼賛体制と東亜共栄圏構想

 /(7)戦時下の教育

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(1.1 & 1.2)です。


1.1  幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新)


(1)幕末の思潮 (2)尊王攘夷運動 (3)幕藩体制から大政奉還 (4)明治維新 

(5)祭政一致による天皇親政へ (6)明治新政府の文教政策


(1)幕末の思潮


1)江戸時代における儒教

儒教は、尭、舜の行いに従い、文王武王の法令を信奉し、孔子を尊び、其の言を重んじ神道を以て敎を設けて夏・殷・周三代の礼制を踏襲している思想体系で、紀元前の中国に興り、東アジア各国で2,000年以上にわたって強い影響力を持ち、東アジア全体に共通する文化的·精神的基盤ともいわれる。

 

・日本では儒教は学問 (儒学) として受容され、国家統治の経世済民思想帝王学的な受容をされたため、神道、仏教に比べて、宗教として意識されることは少ない。しかし、葬儀、死生観、祖先崇拝を中心に儒教も大きな影響を残している。

 

先祖霊などの観念は、現在では仏教に組み込まれているが、本来は仏教哲学と矛盾するものであり、古来の民間信仰儒教に由来するといわれる。位牌、法事など、先祖供養に関わる重要な習慣が儒教起源である。思想、道徳としての儒学は支配階級を中心に学ばれ、明治以降は一般庶民にも直接、間接に影響を与えた。

 

儒教は、江戸時代になると、それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ、一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離)。中国から、朱子学陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。藤原惺窩の弟子である林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。

 

林羅山像(引用:Wikipedia)

京都大学総合博物館蔵。原本の絵師は不明。本図は江戸時代後期の模写。

 

朱子学は、文治政治移行の傾向を見せる幕政において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出し、幕府および各藩の政策決定に大きな影響を与えた。

 

新井白石(引用:Wikipedia)

 

陽明学派としては、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊沢蕃山が岡山藩において執政するなど各地に影響を残した。いわゆる近江商法にその影響を見る者もいる。陽明学は知行合一を説く実践的な倫理思想となり、大塩平八郎の乱など、変革の思想になることもあった。 

中江藤樹(引用:Wikipedia) 

 

・儒教と仏教が分離する一方、山崎闇斎によって神儒一致が唱えられ、垂加神道などの儒教神道が生まれた。日本の儒教の大きな特色として、朱子学や陽明学などの後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する聖学(古学)、古義学、古文辞学などの古学が、それぞれ山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠によって始められた。 

 

山崎闇斎(引用:Wikipedia)

 

・江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなった。一方、一般民衆においては、石田梅岩の石門心学等わずかな例外を除き、学問としての儒教思想はほとんど普及しなかった。

 

・儒教的な徳目は曲亭馬琴の南総里見八犬伝などを通じて教化が試みられ、儒教的価値観は武士や農民、町民などの間に広まっていった。

 

2)国学と古事記伝

国学は、江戸時代中期に勃興した学問であり、蘭学と並び江戸時代を代表する学問の一つである。その扱う範囲は国語学、国文学、歌道、歴史地理、有職故実、神学に及び、学問に対する態度も学者それぞれによって幅広い。

 

・それまでの「四書五経」(四書:『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経:『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化・思想、精神世界を日本の古典や古代史のなかに見出していこうとする学問である。

 

・国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎(江戸時代前期の儒学者)古義学(※1)荻生徂徠古文辞学(朱子学の批判、古義学に対抗)の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。

 

・国学は、江戸時代に形骸化した中世歌学を批判するかたちで現れた。木下勝俊(歌人)戸田茂睡(歌学者)らに始まるこうした批判は、下河辺長流(歌人)契沖(真言宗僧・古典学者)の『万葉集』研究に引き継がれた。

 

・特に後者の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷の神官であった荷田春満が神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする古道論(※2)を唱えた。

 

・一部において矛盾すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。

 

・真淵の門人である本居宣長は『古事記』を研究して、古い時代の日本人は神と繋がっていたと主張して「もののあはれ」の文学論を唱える一方で『古事記伝』(※3)を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。

 

※1 古義学:朱子学や陽明学の注釈に飽き足らず、直接「論語」や「孟子」の原典に当たって古義を明らかにし、仁を理想とする実践道義を説いた。

 

 

※2 古道論:本居宣長・平田篤胤が主張した日本古来の純粋素朴な精神を重んじる考えで、宣長は『古事記』などの古典から,神の命のままに素直に生きることを古代の道とした。さらに篤胤によって古道は神学的な修飾で神秘化され,尊王論のもとになった。

 

※『古事記伝』:江戸時代の国学者・本居宣長の『古事記』全編にわたる全44巻の註釈書である。『記伝』と略される。宣長は『古事記』の註釈をする中で古代人の生き方・考え方の中に連綿と流れる精神性、即ち『道』の存在に気付き、この『道』を指し示すことにより日本の神代を尊ぶ国学として確立させた。

 

3)平田篤胤と復古神道

・飛鳥時代に仏教が日本に伝来して以来、神道は仏教といわゆる神仏習合で混ざり合いながら発達してきた。神道は仏教やキリスト教のような戒律や根本聖典がない(古事記や日本書紀は歴史書であって聖典ではない)素朴な精霊信仰の形態を今にとどめる数少ない宗教のひとつで「古道」とも称されるが、それは「神道神学」を形成していく上でのさまたげになった。ゆえに、神道は独自性を高めなければ宗教的に独立できなかったのである。

 

 平田篤胤(引用:Wikipedia)

 

復古神道とは江戸時代、国学者たちによって提唱された神道であり、本居宣長門人の平田篤胤が、宣長の持つ「古道論」を、法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れ新たな神道である「復古神道」に発展させ、いわゆる「平田派国学」を大成させた。

 

・彼の思想は江戸時代後期の尊皇攘夷思想にも影響し、日本固有の文化を求めるため、日本の優越性を主張する国粋主義皇国史観にも影響を与えた。

 

神仏習合とは、土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)すること。一般的に日本で神祇信仰と仏教との間に起こった現象を指す。神仏混淆ともいう。

 

・もともと神々の信仰は土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的なものであった。普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な神観念に大きな影響を与える事になる。

 

仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられた事や、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想を車の両輪にしたことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経神宮寺が広まった。

 

復古神道の教義といっても一概にはいえないが、賀茂真淵本居宣長らの国学者によって体系づけられ、平田篤胤本田親徳らによって発展した。儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想であり、明治維新の尊王攘夷運動のイデオロギーに取り入れられた。

 

維新政府の政治理念の中心になった復古神道について、角川日本史辞典には「江戸後期の国学系統の神道、古代の純粋な民族信仰の復古を唱えた神道、独善的排他的な一面をもつが、明治維新の思想的側面を形成し、神仏分離廃仏毀釈の運動となり、神道国教化を推進した」とある。

 

復古神道は、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神造化三神(※)根源神としている。『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも「独神(ひとりがみ)(男女の性別が無い神)として成って、そのまま身を隠したという。

 

※ 造化の三神

・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) -  至高の神

・高御産巣日神(たかみむすひのかみ) -  征服や統治の神

・神産巣日神(かみむすひのかみ) -  生産の神

 

・倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い、平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。

 

4)倒幕・革命につながる朱子学と陽明学

4.1)倒幕運動へつながる朱子学

・幕府の官学である朱子学との関係については、幕府は朱子学支配原理として採用し、儒教思想が定着した。しかし、徳川幕府はもともと武士の争乱の末に政権を奪取しており、「王道」に反する「覇道」にあたるから、朱子学による幕府の正統化の論理は、最初から矛盾をはらんでいた。

 

・儒学のモデルであり、当時の憧れの対象であった中国では明が滅び、清に支配されて「畜類の国」となれば、もはや規範とすべき国とはいえなくなり、これを見て山鹿素行は、日本こそが儒学の正統だとして、「日本こそ中国である」と論じた。

 

・また、儒教思想の日本への定着はすなわち、中華思想(華夷思想)の日本への定着を意味し、近代の皇国史観などに影響を与え、日本版中華思想ともいうべきものの下地となった。

 

・儒教では、湯武放伐を認めるかどうかが難題とされてきたが、徳川幕府は朱子学について孟子的理解に立ち、湯武放伐、易姓革命論を認めていたが、それを認めると天皇を将軍が放伐してよいことになり、山崎闇斎を始祖とする崎門学派湯武放伐を否定して、体制思想としての朱子学を反体制思想へと転化させた。

 

・そして、従来は同じく中国思想であったものが日本化した攘夷論とむすびつき、幕府や幕藩体制を批判する先鋭な政治思想へと展開していき、この思想が明治維新の原動力となった。また、「昭和維新」を標榜する昭和期の右翼や二・二六事件の反乱軍などにより「尊皇討奸」というスローガンが掲げられている。

 

4.2)革命運動につながる陽明学

陽明学は、すべての人に聖人となる可能性を認めたため、儒学を士大夫の学ではなく、庶民の地平にまで広げた。このことが王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれ、体制に反発する者が好む場合もあった。このため陽明学は反体制を擁護する思想となっていき、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。

 

・鏡面のような心(本来の人間が持っている心の状態の状態)に無いのに、己の私欲、執着を良知(是非・善悪を誤らない正しい知恵)と勘違いして、妄念(誤った思いから生じる執念)を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある。

・幕末・維新期の尊皇派の主要人物である西郷隆盛吉田松陰は、ともに朱子学ではなく陽明学に近い人物であり、佐幕派の中核であった会津藩、桑名藩はそれぞれ保科正之松平定信の流れであり朱子学を尊重していた。

 

5)水戸学と尊王攘夷

水戸学は常陸国水戸藩で形成された学問でり、全国の藩校で水戸学は教えられ、その「愛民」、「敬天愛人などの思想は吉田松陰西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。

 

・水戸学は、一般的に日本古来の伝統を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心としていた前期水戸学と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校・弘道館を舞台とした後期水戸学とに分かれるとされるが、前期と後期に分けることの可否も含め、多くの考え方がある。

 

5.1)前期水戸学

前期水戸学は、徳川光圀の修史事業に始まる。光圀は、水戸藩の世継ぎ時代の1657年に江戸駒込別邸内に史局を開設した。紀伝体の日本通史(のちの大日本史)の編纂が目的であった。当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。藩主就任後の1663年、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。

 

・1665年、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、1672年には24人、1684年37人、1696年53人となって、40人~50人ほどで安定した。

 

 

朱舜水(引用:Wikipedia)

 

・前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。学派やもとの身分は様々であり、編集員同士の議論を推奨し、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。

 

・実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。

 

・また、大日本史の三大特筆の中でも、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える(南北朝正閏論)。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳、丸山可澄(活堂)、安積澹泊、栗山潜鋒、打越直正(撲斎)、森尚謙らがいる。1737年、安積澹泊の死後、修史事業は停滞した。

 

5.2)後期水戸学

 ・後期水戸学は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心とした修史事業の復興を起点とする。この頃、水戸藩が深刻な財政難に陥っていたことや、蝦夷地にロシア船が出没したことなどがあって、修史事業に携わるばかりでなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題に意見を出すようになった。

 

・その弟子の藤田幽谷は、1791年に後期水戸学の草分けとされる正名論を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。

 

・この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、立原翠軒と藤田幽谷と対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、1803年、幽谷は逆に翠軒一派を致仕(官職を辞して隠居すること)させ、1807年総裁に就任した。(「史館動揺」)。幽谷の門下、会沢正志斎藤田東湖、豊田天功らが、その後の水戸学派の中心となる。

 

1824年、水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。

 

・事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した新論を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

 

・1837年、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。 

 

藤田東湖(引用:Wikipedia)

 

・中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。

 

徳川斉昭の改革は、1844年、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。改革派の家臣たちも同様に謹慎の罪を言い渡された。

 

・この謹慎の間に藤田東湖により「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」(※)が著される。「回天詩史」は東湖の自叙伝的詩文であり、「正気歌」は文天祥の正気歌に寄せた詩文である。

 

・ともに逆境の中で自己の体験や覚悟を語ったものだけに全編悲壮感が漂い、幕末の志士たちを感動させるものであり、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。1849年、斉昭の藩政関与が許可される。

 

・水戸藩はその後、1858年の戊午の密勅返納問題、1859年の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、1864年の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。

 

・なお、弘道館は江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜の謹慎先となったが、慶喜が薩長軍との全面戦争を避け、大政奉還したのは、幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想がその根底にあったためとされる。

  

※ 和文天祥正気歌(正気歌)(漢詩)(引用:Wikipedia)

〔原文・書き下し文〕

 天地有正氣 雜然賦流形  天地に正気有り 雑然として流形を賦く

 下則爲河嶽 上則爲日星  下りては則ち河嶽と為り 上りては則ち日星と為る

 於人曰浩然 沛乎塞蒼冥  人に於ては浩然と曰い 沛乎として蒼冥に塞つ

 皇路當淸夷 含和吐明庭  皇路清夷なるに当たりては 和を含みて明廷に吐く

 時窮節乃見 一一垂丹靑  時窮すれば節乃ち見れ 一一丹青に垂る

 在齊太史簡 在晉董狐筆  斉に在りては太史の簡 晋に在りては董狐の筆

 在秦張良椎 在漢蘇武節  秦に在りては張良の椎 漢に在りては蘇武の節

 爲嚴將軍頭 爲嵆侍中血  厳将軍の頭と為り 嵆侍中の血と為る

 爲張睢陽齒 爲顏常山舌  張睢陽の歯と為り 顔常山の舌と為る

 或爲遼東帽 淸操厲冰雪  或いは遼東の帽と為り 清操氷雪よりも厲し

 或爲出師表 鬼神泣壯烈  或いは出師の表と為り 鬼神も壮烈に泣く

 或爲渡江楫 慷慨呑胡羯  或いは江を渡る楫と為り 慷慨胡羯を呑む

 或爲撃賊笏 逆豎頭破裂  或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎の頭破れ裂く

 是氣所磅礡 凛烈萬古存  是の気の磅礡する所 凛烈として万古に存す

 當其貫日月 生死安足論  其の日月を貫くに当っては 生死安んぞ論ずるに足らん

 地維頼以立 天柱頼以尊  地維は頼って以って立ち 天柱は頼って以って尊し

 三綱實係命 道義爲之根  三綱 実に命に係り 道義 之が根と為る

 嗟予遘陽九 隷也實不力  嗟 予 陽九に遘い 隷や実に力めず

 楚囚纓其冠 傳車送窮北  楚囚 其の冠を纓し 伝車窮北に送らる

 鼎鑊甘如飴 求之不可得  鼎鑊 甘きこと飴の如きも 之を求めて得可からず

 陰謀劇鬼火 晴院閉じる 空国 陰謀 鬼火劇として 晴院 天の黒さにとザザ猿

 牛驥同一皂 鷄棲鳳凰食  牛驥 一皂を同じうし 鶏棲に鳳凰食らう

 一朝蒙霧露 分作溝中瘠  一朝霧露を蒙らば 分として溝中の瘠と作らん

 如此再寒暑 百沴自辟易  此如くして寒暑を再びす 百沴自ら辟易す

 嗟哉沮洳場 爲我安樂國  嗟しい哉沮洳の場の 我が安楽国と為る

 豈有他繆巧 陰陽不能賊  豈に他の繆巧有らんや 陰陽も賊なう不能ず

 顧此耿耿在 仰視浮雲白  顧れば此の耿耿として在り 仰いで浮雲の白きを視る

 悠悠我心悲 蒼天曷有極  悠悠として我が心悲しむ 蒼天曷んぞ極まり有らん

 哲人日已遠 典刑在夙昔  哲人 日に已に遠く 典刑 夙昔に在り

 風簷展書讀 古道照顏色  風簷 書を展べて読めば 古道 顔色を照らす

 

〔通訳〕 

 この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。

 

 政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。

 

 例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。

 

 ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。

 

 この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。

 

 君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。

 

 釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。

 

 牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。

 

 ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。

 

 茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。

 

6)幕末期の教育

6.1)近世の教育から近代の教育へ

・明治維新後のわが国近代の教育は、その源をさぐれば江戸時代に遡る。近世封建社会の中で教育の近代化がしだいに進められていたのである。特に幕末開港後は近代化の傾向が顕著となり、これが明治維新後の文明開化の思潮とともに一挙に開花したものと見ることができる。

 

・明治維新後の近代教育は、欧米先進国の教育を模範とし、その影響の下に成立し発達した。その意味で、わが国近代の教育近世の教育と明らかに区別され、そこには教育の一大転換を認めねばならない。

 

・しかし、他面から見れば、わが国の近代の教育の内容は、必ずしも欧米の近代教育と同一であるとはいえない。そこには江戸時代までの長い歴史の過程を経て形成された生活思想があり、文化教育伝統が継承されている。その意味で、わが国近代の教育は近世の文化と教育を基盤とし、その伝統の上に成立したものといえよう。

 

・明治維新後において、わが国の近代化が急速に進められ、短期間に高度な近代社会を成立させることができたことについても、その背後に幕末において、わが国の文化と教育が高い水準に達していたことを見のがすことができないのである。

 

・江戸時代には封建社会の構造に基づいて、士・農・工・商の身分制が確立しており、特に武士と庶民は厳格に区別され、大きく二つの階層に区分されていた。このことは江戸時代の社会生活と文化を全般的に特色づけでいたが、教育についても基本的には武家の教育庶民の教育が、それぞれ独自の形態をとって成立していたのである。

 

・江戸時代の武家は、近世社会の支配者であり、また指導者としての地位を保っていたのであり、したがって、それにふさわしい文武の教養をつむべきものと考えられていた。そのために設けられた教育機関が「藩校」であった。他方庶民は日常生活に必要な教養を求めた。そのために、「読み」・「書き」を主とする簡易な教育機関として「寺子屋」が成立している。

 

・藩校と寺子屋は江戸時代後期、特に幕末にかけて著しい発達を見た。そして近代の学校の主要な母体となったのである。このように武家の学校(藩校)庶民の学校(寺子屋)が別個に設けられ、二系統の学校が併立して、それぞれ独自の発達を示したところに近代と異なる近世の教育の特質が認められる。

 

・しかし、江戸時代にはその他の教育施設も発達し、また幕末にはそれぞれの教育の近代化が進められていた。そして武家の教育と庶民の教育がしだいに接近し、両者の融合化も行なわれて、近代の教育へと近づいているのである。

 

6.2)武家の教育

・江戸時代の武家は、近世封建社会において、その地位を保持する上からも、学問を学び教養をつむべきものとされ、文の教育がしだいに組織化された。

 

・まず藩主は、自らの教養を高めて藩の統治にあたるために、儒学者や兵学者を招いて講義させ、重臣たちにもこれを聴講させた。また、一般の藩士にも学問を奨励し、武芸とともに文の教養をつむことを求めた。

 

・江戸時代の学問は、幕府の方針に基づいて儒学を中心とし、中でも朱子学が正統として尊ばれた。中世の武家は、寺院において僧侶を師として学問修行に努めたが、近世の武家は、城下に学校を設けて儒学者を師として学問を学んだのである。この学校が藩校(藩学)(※)である。

 

・藩校は、江戸時代の初期には一部の藩に設けられていたに過ぎなかったが、中期以後は急速に普及して小藩にも設けられ、二百数十校に達している。

 

 ※藩校の例

明倫養賢堂

(宮城県・仙台藩)

興譲館

(山形県・米沢藩)

日新館

(福島県・会津藩)

佐倉藩学問所・温古堂

(千葉県・佐倉藩)

集成館

(神奈川県・小田原藩)

成章館

(愛知県・田原藩)

明倫館

(愛知県・尾張藩)

明道館

(福井県・福井藩)

稽古館・弘道館

(滋賀県・彦根藩)

振徳館

(兵庫県・篠山藩)

花畠教場

(岡山県・岡山藩)

講学所

(広島県・広島藩)

弘道館・誠之館

(広島県・福山藩)

尚徳館

(鳥取県・鳥取藩)

養老館

(山口県・吉川藩)

私塾山口講堂

(山口県・岩国藩)

敬業館

(山口県・長府藩)

明倫館

(山口県・萩藩)

明教館

(愛媛県・松山藩)

修猷館

(福岡県・黒田藩)

伝習館

(福岡県・柳川藩)

育徳館

(福岡県・小笠原藩)

明善堂

(福岡県・久留米藩)

弘道館

(佐賀県・佐賀藩)

志道館

(佐賀県・唐津藩)

五教館

(長崎県・大村藩)

時修館

(熊本県・熊本藩)

聖堂・造士館

(鹿児島・薩摩藩)

 

 6.3)庶民の教育

・江戸時代の庶民は、封建社会の構造に基づいて、庶民としての道徳が要求され、また庶民の日常生活に必要な教養をつむべきものと考えられた。江戸時代の庶民の教育は、一般に家庭生活および社会生活の中で行なわれた。当時は、徒弟奉公や女中奉公などの奉公生活、また若者組などの集団生活が広く行なわれ、その中での教育も重要な意味をもっていた。

 

・江戸時代中期以後は寺子屋が発達し、庶民の子どもの教育機関としてしだいに一般化して、重要な位置を占めることとなった。寺子屋は、近代の学校教育との関連からも特に注目すべきものである。寺子屋は、庶民の子どもが読み・書きの初歩を学ぶ簡易な学校であり、江戸時代の庶民生活を基盤として成立した私設の教育機関である。

 

・寺子屋は江戸時代中期以後しだいに発達し、幕末には江戸や大阪の町々はもとより、地方の小都市、さらに農山漁村にまで多数設けられ、全国に広く普及した。

 

・明治5年に学制が発布され、その後短期間に全国に小学校を開設することができたことは、江戸時代における寺子屋の普及に負うところがきわめて大きいといえるのである。

 

6.4)女子の教育

・江戸時代の社会は武家社会の主従関係に基礎をおいていたが、さらにこれが家庭内にもおよび、親子の関係夫婦の関係主従の関係と同様に見なされていた。そのため女子の教育は、このような人間関係を基礎とし、男子の教育と全く区別して考えられていた。この点では庶民の場合にも武家とほぼ同様であった。

 

・江戸時代には、女子は男子のように学問による高い教養は必要がないものと考えられ、女子は女子としての心得を学び、独自の教養をつむべきものとされた。

 

女子の教育は主として家庭内で行なわれ、家庭の外でなされる教育も、お屋敷奉公女中奉公を通じて行儀作法などを学ぶことが重視され、学校教育のような組織的な教育の必要は認められなかった。一般には近世封建社会における家庭の中の女子として、また妻としての教養が重んぜられた。

 

6.5)郷校(郷学)

・武家の藩校と庶民の寺子屋は江戸時代の代表的な学校であったが、江戸時代にはこのほかにも種々の教育機関が設けられていた。その一つとして注目すべきものは郷校(郷学)である。従来、郷学あるいは郷校と総称されているものの中には大別して二種のものがある。

 

・その一つは藩校の延長あるいは小規模の藩校ともいうべきもので、藩主が藩内の要地に設け、あるいは家老・重臣などが領地に藩校にならって設けたものである。この種の郷学は武家を対象としている点でも、また教育の内容から見ても藩校と同類のものである。

 

・他の一つは、主として領内の庶民を教育する目的で藩主や代官によって設立されたものである。この種の郷校は庶民教育機関としては寺子屋と同類のものであるが、幕府や藩主の保護・監督をうけていた点で寺子屋と区別される。

 

6.6)私塾の発達

・江戸時代の教育機関として藩校・寺子屋などとともに注目すべきものは「私塾」である。私塾は一般に教師の私宅に教場を設け、学問や芸能を門弟に授ける教育施設であった。

 

・私塾は本来古代・中世の秘伝思想の流れを受けて、師弟の緊密な人間関係に基づき、特定の学派や流派の奥義を伝授することを目的として設けられたものである。

・しかし、近世においては、時代の推移とともにしだいに公開的性格をもち、近代の学校へと発展する条件をそなえるに至っている。

 

・幕末の私塾には、漢学塾・習字塾・算学塾(そろばん塾)・国学塾・洋学塾などがあり、またこれらを合わせ授けるものもあって、各種の私塾が発達している。

 

・幕府は漢学、特に儒学を教学の中心とし、学問を奨励したので、多数の儒学者があらわれ、儒学を主とする漢学塾が江戸時代を通じて隆盛であった。

 

6.7)洋学及び洋学校の発達

・幕末から明治維新期にかけて「洋学」が急速に発達普及したが、これによって欧米の近代文化がわが国に導入され、教育の近代化が進められた。

 

・洋学の発達とともに多くの洋学校洋学塾が設けられた。これらの洋学校や洋学塾は、学制発布後の中等教育機関の源流をなし、また直接の母体となった。その意味で、幕末維新期における洋学および洋学校の発達は、近代の学校教育と重要な関連をもっている。

 

・幕末には江戸および長崎を中心として、幕府関係の洋学機関が発達し、諸藩でも積極的に洋学を取り入れるものも多く、また民間でもしだいに洋学が発達している。このようにして明治維新後急速に展開される近代教育への準備がなされていたのである。


(2)尊王攘夷運動


1)外国船の来訪状況

1.1)幕末の黒船

・黒船とは、室町時代末期から江戸時代末期にかけて、わが国を来訪した欧米諸国の 艦船の総称で、その船体が黒色に塗ってあったことに由来する。当時日本は塗料を用いず白木の船だったが、欧米の船は防腐・防水のためにタール (石炭などからつくる黒くてねばねばした液体) を塗っていた。そのため日本人は欧米の船を黒船と呼んだ。

 

・幕末、鎖国時代の大型外国船を意味するようになり、主な黒船来航としては、以下のようなものがある。「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」と狂歌にも謳われた ペリーが率いる黒船は、黒船の代表的なものとなった。この狂歌にでてくる上喜撰とは上質のお茶のことで、これを飲むと夜に眠れなくなる。上喜撰と蒸気船をかけおり、黒船 (実際は蒸気船2隻と帆船2隻) の出現は、日本人にとって夜に眠れなくなるほどの衝撃だった。

 

・当時の日本人にとっては、この世の物とは思えないペリーの蒸気船だが、実は、外輪式蒸気軍艦は、すでにイギリス・フランスで発展していたスクリュー式蒸気軍艦に比べ、鈍重さが目立ち、時代遅れのものとなりつつあった。

 

・ペリー来航の年に勃発したクリミア戦争では、大きな外輪が敵の砲撃の的となり、外輪を破壊されて航行不能となった艦が続出し、実戦での弱点を露呈していた。1853来航時のペリーの4隻の艦隊は、2隻が蒸気船の旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号、残り2隻が帆船サラトガ号・プリマス号。この時、蒸気船の2隻が、動力を持たない2隻を曳航し、全艦が帆走せずに航行している姿を演じて圧倒させたといわれている。

 

 1.2)鎖国日本を揺さぶる欧米列強の来航地図

 

  

 http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/tizu-tougou1/tizu-gaikokusen1.htm

(引用:Wikipedia)

◇アメリカの捕鯨船

・幕末当時、アメリカではアジアの国々との貿易を求めていた。また、捕鯨が盛んに行われ、大西洋では少なくなったマッコウクジラを求めて、太平洋に進出してきた。当然のように日本近海まで航海してくるようになった米国捕鯨船は、水や食糧、石炭などの補給を必要とし、日本に補給港が必要となった。1845年、アメリカの捕鯨船が江戸湾に現れるなど、補給港開設が急務となった米国政府は、ペリー提督を派遣して、日本国との交渉に乗り出してきた。

 

◇初めての洋式船

・ロシアの使節・プチャーチンも、ペリー来航のすぐ後に日本に来航。しかし、幕府との外交交渉が長引き、その間に安政の大地震が起こり、ロシア船を失ってしまった。ロシア使節団の一行を帰国させるために、幕府は伊豆半島の戸田洋式船を日本で始めて建造した。この日本初の洋式船・ヘダ号は、進水式で、2本のマストを持ち、約四十人乗りの小型船であった。

 

1.3)アダム・ラクスマン(ロシア)の来航と通商の要求(1792年) 

 

       

  俄羅斯舩之図(根室市指定有形文化財)(引用:根室市HP     アダム・ラクスマン

   ラクスマンが乗ってきたエカテリーナ号を描いたもの       (引用:Wikipedia)

 

・ロシアは当初日本との通商を行うに当たり、パベル・レベデフ=ラストチキンのような商人の活動に期待していた。しかし、陸軍の軍人であったアダム・ラクスマン(※1)は、大黒屋光太夫(※2)ら漂流者の日本への送還すると同時に日本との通商を行うことを計画し、エカチェリーナ2世の命を受けることに成功した。

 

・通商要望の信書はエカチェリーナ2世ではなくシベリア総督の名前で出されたが、ラクスマンはロシア最初の遣日使節となった。1792年9月24日、オホーツク港を出港し、帆走ブリッグ・エカチェリーナ号(※3)を率いて、同年10月20日に根室国に到着した。 

 

流氷の入った根室港。奥はエカテリーナ号が停泊した弁天島(根室市HP

 

・冬が近づいていたのでエカテリーナ号を弁天島につけ、乗組員42名は上陸して家を建て、翌年6月15日までの8カ月間、根室で過ごしました。(年月日は全て現在の西暦に換算しています)。当時の根室には、松前藩の役人・商人 ・アイヌの人々らが数十人住んでいました。ラクスマンは漂流民の返還の名のも とに、通商交渉と来航目的を告げ、日本側は直ちにこの事実を松前に知らせました。

 

・すぐに松前藩と江戸幕府から、根室へ交渉の役人らが着きましたが、本交渉は松前で行われました。ラクスマンは江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなうことを希望したが、老中松平定信らは、ラクスマンを箱館に廻航させて漂流民の身柄を受け取ること、シベリア総督の信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示した。

 

・この結果、ラクスマンらは1793年6月、箱館に入港して上陸し、松前に赴いて光太夫らを日本側に引き渡した。ラクスマンは長崎への入港許可証(信牌)を交付されたが、長崎へは向かわずに帰国した。

 

※1  アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(1766年 - 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。 

 

※2 漂流民大黒屋光太夫は、天明2年12月(1783.1)に、伊勢白子港(三重県鈴鹿市)から、江戸(東京)に向けた、船頭大黒屋光太夫(幸太夫とも書く)ら17人を乗せた神昌丸が、出港しました。ところが、途中で嵐にあい、7カ月も漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。 光太夫らは、この島で4年間過ごし、ロシア人と共同して船を造りカムチャツカに脱出。

 

 さらにオホーツクからイルクーツクに送られ、日本語教師になるよう要請されましたが、あくまで帰国を希望し、ここで会った学者であり実業家であるキリル・ラクスマンの尽力により、ペテルブルグまで行き、エカテリーナ2世に謁見し、帰国が許されました。

 

 光太夫らは、キリルの息子アダム・ラクスマンがロシア初の遣日使節の一員として、同行することになりました。オホーツク港から根室に着いたとき、17人は光太夫・磯吉・小市の3人になっ ていました。

 

 12人は途中で次々に死んでしまい、2人はイルクーツクに残りました。  小市も根室に着いて亡くなりました。白子港を出て、根室に着くまで、実に10年と いう歳月でした。 光太夫と磯吉は、松前で日本側が受け取り、その後江戸で暮らしました。(引用:根室市HP)

 

※3 艦名:エカチェリーナ;艦種:帆走ブリッグ、建造年:不明、トン数積載量:150トン程度(bmトン)、乗組員:42名、機関出力:無、備砲:不明

 

〔参考 : 根室でのラクスマンたちの暮らし〕

 根室での8カ月間は、ロシアと日本と情報交換の場でもありました。日本側では、日本で最初のロシア語辞典を作成したり、エカテリーナ号の模型を作ったり、ロシアの地図を写し地名を聞き取ったりしました。

 

 ラクスマンらも、日本の地図を写し、植物・鉱物を採集し標本にしたり、根室港周辺を測量したり、アイヌの人々と日本商人らの関係を聞き取ったりしました。

 

 また、蒸し風呂を造ったり、結氷した根室港でスケートをしたりしました(これは日本で最初のスケートでした)。根室は、ロシア語研究の最初の地であり、ロシアの地理などの知識を受け入れた最初の場所でもあったのです。(引用:根室市HP)

 

〔参考:ラクスマンの根室来航の歴史的意義〕

 日本史上では、ラクスマンの来航は、江戸幕府の外国に対する通交・通商政策、国防政策などを方向づけた、重要な出来事です。 この時は、老中松平定信が幕府の実権を握っていました。 定信の前の田沼意次は、蝦夷地を開発してロシアと 交易しようとも考えていましたが、定信は対外関係に対しては慎重でした。

 

 しかし、ラクスマン来航によって、北方に強い関心を示すことになります。  大黒屋光太夫と磯吉は、江戸の薬草園で生涯を送りましたが、蘭学者などと交流があ り、日本の洋学の発展に大きく貢献しました。 

 

 世界史上では、この直前にフランス革命が起こり、ロシアは直接的な影響を受けませんでしたが、ロシアのヨーロッパへの武力進出、パーベル1世暗殺などがあり、ラクスマンがつくった日本との交渉の道すじは、1804年のレザノフの長崎来航まで生かされませんでした。(引用:根室市HP)

 

1.4)ニコライ・レザノフ(ロシア)の来航と通商の要求(1804年)

・1804年:  ロシア使節ニコライ・レザノフ、通商を求めて長崎に来航。幕府はレザノフを町外れに軟禁し、半年も経って通商拒絶を言い渡した。憤激したレザノフは部下に蝦夷地襲撃を指示し、北方での紛争が続いた。

 

           

(左)レザノフのナジェージダ号(視聴草より国立公文書館)(引用:Wikipedia)

 (右)ニコライ・レザノフ(引用:一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋

 

・ニコライ・レザノフは、露米会社経営者であったが、その発展に日本との交易が重要と考えており、使節の派遣を宮廷に働きかけた。

 

・彼は日本人漂流民の津太夫(※1)一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、ラクスマンが入手した信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長としてペテルブルクから出航し、南米回りで太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。

 

・1804年(文化元年)ナジェージダ号(※2)に乗って9月に長崎の出島に来航する。しかし、交渉は進まず、レザノフたちは半年間出島に留め置かれることになる。翌年には長崎奉行遠山景晋から通商の拒絶を通告された。

 

・レザノフは長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏した。のち撤回したものの部下のフヴォストフが単独で1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所襲撃する(フヴォストフ事件、文化露寇)

 

フヴォストフ事件により日露関係は緊張する。以後、江戸幕府は自らの威信維持のために内外に対して強硬策を採らざるを得なくなり、やがて1811年にはゴローニン事件が発生する。   

 

※1  津太夫らの漂流について

 1793年(寛政5年)11月、日本人16人が乗り込んだ「若宮丸」が石巻から江戸へ向かう途中暴風に遭い漂流する。  1794年5月アリューシャン列島東部のウナラスカ島に漂着した。

 

 ロシア人に助けられた後、移動先のイルクーツクにて、1796年12月、大黒屋光太夫らと一緒に漂流した新蔵と出会う。 その後、津太夫らの若宮丸漂流民14名は、イルクーツクで7年間暮らす。

 

 若宮丸漂流民は1803年にイルクーツクを発ち、モスクワを経てペテルブルグにうち10名がたどり着く。  アレクサンドル 1 世皇帝に謁見し、津太夫ら4名が帰国することを許可される。

 

 津太夫ら4名は、レザノフ一行と共に、ロシア帝国遣日使節船(世界一周航海船でもある)「ナジェシダ号」(船長:クルゼンシュテルン) にて、クロンシュタット港(本港で新蔵と別れる)からコペンハーゲン、カナリア諸島、ホーン岬、マルケサス諸島、ハワイ諸島を 経て、1804年7月ペテロパウロフスクに到着した。その後、同年9月に長崎に来航した。 津太夫は漂流して以来12年目にして61歳で世界一周を成し遂げた。

 

 1805年(文化2年)3月、正式に身柄が引き渡される。 江戸・仙台藩邸で「環海異聞」編集のために聴取を受けた後、 1806年(文化3年)2月津太夫4名は13年振りに帰郷を果たした。

 

※2 艦名ナジェージダ:艦種:帆走フリゲート、建造年:不明、トン数:積載量350トン程度、乗組員:76、機関出力:無、備砲:不明〉

 

1.5)ゴローニン事件(ロシア)(1811年)

 ゴローニン事件とは、日本の江戸時代にあたる1811年(文化8)、ロシアの軍艦ディアナ号が南千島を測量。艦長のゴローニンが国後島で松前藩の役人に捕らえられて2年間監禁された。「ゴローニン事件」とは艦長のゴローニンが日本に抑留された事件。

 

     

           ロシアの切手  (引用:Wikipedia)  ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン

◇経緯

・ロシア帝国の東方拡張により18世紀には日露両国は隣国同士となり、蝦夷地を中心に両国は接触していた。日本との通商を求めるロシアに対し、日本の江戸幕府は鎖国政策を堅持していたが、江戸時代中期には北方探査を始めた。1792年(寛政4年)にはアダム・ラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らを伴い来日した。

 

・露米会社を設立したニコライ・レザノフは日本人漂流民の津太夫一行を返還し、通商を求めるために来日し、1804年(文化元年)9月に長崎へ来航。その後、半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌1805年(文化2年)3月に長崎奉行所において遠山景晋が対応し、通商を拒絶される。

 

・レザノフは漂流民を返還して長崎を去るが、1807年(文化4年)、フォボストフらロシア軍人2名を雇い択捉島や樺太に上陸し、略奪や放火など襲撃を行わせる。幕府は東北諸藩に臨戦態勢を整えさせて蝦夷地沿岸の警備を強化、北方探査も行う。

 

・ロシアではフォボストフらは処罰されるが、日本の報復を恐れて日露関係は緊張した。

 

1808年(文化5年)には長崎でフェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。

◇ゴローニン抑留

・1811年(文化8年)、松前藩は測量のため千島列島へ訪れていたディアナ号を国後島で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中佐ら8名を捕らえ抑留した。

 

・ゴローニンらを人質に取り、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、副艦長のピョートル・リコルドはロシアへ帰還し、日本人漂流民を使者、交換材料として連れて翌1812年(文化9年)に再び来日、8月には国後島においてゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶する。 

 

        

         老年のリコルド  (引用:Wikipedia) 日露友好の碑(函館市)

1999年にゴローニンとリコルドの子孫が来日し高田屋嘉兵衛の子孫と再会したのを記念して建立された。

 

リコルドの報復措置

・リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕。乗り合わせていた廻船商人の高田屋嘉兵衛らを抑留した。翌1813年(文化10年)9月、ゴローニンは高田屋嘉兵衛と捕虜交換により解放され、ロシアへ帰国した。この一連の事件解決には高田屋嘉兵衛の交渉があったといわれている。

 

・帰国したゴローニンは『日本幽囚記』を執筆し、各国語に翻訳される。その後も、幕府による異国船打払令が出されるなかロシア船は漂流民返還のために来航し、幕末には1853年(嘉永6年)にプチャーチンが通商条約締結のため、長崎、下田へ来航する。

 

1.6)モリソン号事件(アメリカ)(1837年) 

 

モリソン号(引用:Wikipedia)

 

モリソン号事件とは、1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。

 

・鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカのオリファント商会の商船「モリソン号 (Morrison) 」(ロバート・モリソン (宣教師)に因んだ命名)に対し薩摩藩および浦賀奉行太田資統は異国船打払令に基づき砲撃を行った(江戸湾で砲撃を命ぜられたのは小田原藩と川越藩)

 

・しかし、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことが1年後に分かり、異国船打払令に対する批判が強まった。

 

・またモリソン号は非武装であり、当時はイギリス軍艦と勘違いされていた。のちに、『慎機論』を著した渡辺崋山『戊戌夢物語』を著した高野長英らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件(蛮社の獄)(※)が起こる。

 

※ 蛮社の獄

・蛮社の獄は、天保101839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。

 

蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保81837年)に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。

 

天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後、薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである。また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。

 

・翌天保9年(1838年)6月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来のいきさつについて報告した。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきたことを知った(ただしモリソン号はイギリス船と誤って伝えられた)老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけた。7~8月に提出された諸役人の答申は以下のようである。

 

諸役人の答申

*勘定奉行・勘定方:通商は論外だが、漂流民はオランダ船にのせて返還させる。

*大目付・目付:漂流民はオランダ船にのせて返還させる。ただし通商と引き換えなら受け取る必要なし。モリソン号再来の場合は打ち払うべき。

*林大学頭(林述斎。鳥居耀蔵の父):漂流民はオランダ船にのせて返還させる。モリソン号のようにイギリス船が漂流民を送還してきた場合むやみに打ち払うべきではなく、そのような場合の取り扱いも検討しておく必要あり。

 

・水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌9月の林の答申は前回と変わらず、水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。これに対する戌10月の評定所一座の答申は以下のとおり。 

 

評定所一座の答申

*評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行):漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし。

・水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であったため、12月になり水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。

 

〔参考:『戊戌夢物語』と『慎機論』〕

・幕閣でモリソン号に関する評議がおこなわれていたのと同時期、天保9年(1838年)10月15日に市中で尚歯会の例会が開かれた。席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において現在進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに示した。

 

・前述のように、幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものだったが、もっとも強硬であり却下された評定所の意見のみが尚歯会では紹介されたために、渡辺崋山・高野長英・松本斗機蔵をはじめとするその場の一同は幕府の意向は打ち払いにあり、またモリソン号の来航は過去のことではなくこれから来航すると誤解してしまった。

 

・報せを聞いてから6日後に、高野長英は打ち払いに婉曲に反対する書『戊戌夢物語』を匿名で書きあげた。幕府の対外政策を批判する危険性を考慮し、前半では幕府の対外政策を肯定しつつ、後半では交易要求を拒絶した場合の報復の危険性を暗示するという論法で書かれている。

 

・これは写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に意見を唱える形で『夢々物語』『夢物語評』などが現われ、幕府に危機意識を生じさせた。なお、松本斗機蔵も高野長英と同様の趣旨の「上書」を幕府に提出している。

 

・一方、渡辺崋山『慎機論』を書いた。自らの意見を幕閣に届けることを常日頃から望んでいた崋山は、友人の儒学者・海野予介が老中・太田資始の侍講であったことから海野に仲介を頼んでいた。

 

・しかし当の『慎機論』は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。

 

・内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。

 

・自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。

 

・なお、『夢物語』『慎機論』いずれもモリソンを船名ではなく人名としているが、松本の「上書」では事実通りの船名となっており、長英と崋山はあえてモリソンを人名としたものと思われる。

 

・モリソンを恐るべき海軍提督であるかのように偽って幕府に恐れさせ、交易要求を受け入れさせようとしたものとみられる。

 

・同じ頃、これは目付・鳥居耀蔵江川英龍に江戸湾巡視の命が下った時期でもあるが、崋山は友人の儒学者・安積艮斎宅に招かれ世界地図を広げ海外知識を説いている。居並ぶ客皆感嘆の声を漏らさない者はなかったが、唯一、林式部(林述斎の三男・鳥居耀蔵の弟)だけは冷笑するばかりであったという(赤井東海『奪紅秘事』)。

 

1.7)その後の外国船の来航

・1844年 :  フランス船、琉球に来航、通商を求める。

・1844年:  クーパー船長率いるオランダ軍艦マンハッタン号がオランダ国王の開国勧告書簡を携えて長崎に来航。

・1845年 :  イギリス船、琉球、長崎に来航、通商を求める。

 

2)米国の開国要求

2.1)ジェームズ・ビドルの来航と開国の要求(1846年)

・1846年:  米国東インド艦隊司令長官ビドル率いる軍艦2隻、コロンバス号、ヴィンセンズ号(乗組員1,000名、砲門107)が浦賀に入港、 通商を求めるが果たせず。

 

     

        浦賀におけるコロンバスとビンセンス         ジェイムズ・ビドル

(引用:Wikipedia )

・米国はアヘン戦争後に清と望厦条約を結ぶことに成功した。国務長官のジョン・カルフーンは公使として清に滞在していたケイレブ・クッシングに対し、日本との外交折衝を開始する旨の指令を与え、その指令書を東インド艦隊司令官に任命されたジェームズ・ビドルが清まで運んだ。

 

・しかし、クッシングはすでに帰国した後であり。また、彼の後任であるアレクサンダー・エバレットは、日本への航海に耐えうる健康状態では無かった。このため、ビドルは自身で日本との交渉を行うことを決意した。

 

・1846年7月7日、ビドルは戦列艦・コロンバス(※1)および戦闘スループ・ビンセンス(※2)を率いて、日本に向かってマカオを出港し、7月19日(弘化3年閏5月26日)に浦賀に入港した。直ちに日本の船が両艦を取り囲み、上陸は許されなかった。

 

・ビドルは望厦条約と同様の条約を日本と締結したい旨を伝えた。幕府からの回答は、オランダ以外との通商行わず、また外交関係の全て長崎で行うため、そちらに回航して欲しいというものであった。

 

・ビドルは「辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ること無く」交渉することが求められていたため、それ以上の交渉を中止し、7月29日(6月7日)、両艦は浦賀を出港した。

 

・なお、ビドルが来訪するであろうことは、その年のオランダ風説書にて日本側には知らされていた

 

※1 艦名:コロンバス:艦種:帆走戦列艦、建造年:1819、トン数:積載量2480トン

   乗組員:780、機関出力:無、備砲:32ポンド砲x68・42ポンドカロネード砲x24

 

※2 艦名:ビンセンス:艦種:帆走スループ、建造年:1826、トン数:積載量700トン、

   乗組員:80、機関出力:無、備砲:32ポンド砲x18

 

2.2)ジェームス・グリンの来航と米国捕鯨船員の開放(1849年) 

 

     

      グリンの乗艦、プレブル(引用:Wikipedia)長崎寄港の記録がある、プレブルの航海記録

 

・東インド艦隊司令官であるデビッド・ガイシンガーは、広東のオランダ領事から、アメリカ捕鯨船の船員18人が、長崎で牢に入れられていることを聞いた。ガイシンガーは彼らの救出のため、部下のジェームス・グリンに長崎に向かうよう命令した。

 

・グリンは1849年4月17日に長崎に到着した。グリンに与えられた命令は、注意深くしかしながら断固とした交渉を行うことであった。

 

・グリンは捕らえられている船員の開放を要求し、また米国の軍事介入の可能性をほのめかした。オランダ商館の手助けもあり、4月26日には全員が解放され、グリンのもとに送り届けられた。

 

・実際には、捕鯨船の乗員はオランダ船で米国に送還される予定であった。しかし、グリンは「強さ」を見せたことが成功につながったと判断した。

 

・その後、グリンは米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させること、また必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出した。

 

・彼のこの提案は、マシュー・ペリーによる日本開国への道筋をつけることとなった。

 

〈艦名:プレブル:艦種:帆走スループ、建造年:1839、トン数:積載量565トン、乗組員:不明 機関出力:無、備砲:32ポンド砲x16〉

 

2.3)マシュー・ペリーの来航と日米和親条約 

 

    

            黒船来航   (引用:Wikipedia)    マシュー・カルブレイス・ペリー

 

・米国の捕鯨船は、1820年代から日本近海に現れていた(但し、1850年代には米国の捕鯨はすでに衰退に向かっていた)。また米墨戦争によりカリフォルニアを獲得したため、米国西海岸と中国を結ぶ航路が開かれた。

 

・このため日本との外交関係を樹立することは米国にとって有益であると考えられ、ミラード・フィルモア大統領は東インド艦隊の司令官であるジョン・オーリックにその任を与えた。

 

・しかし、オーリックは部下とのトラブルのため任を解かれ、代わって1852年2月マシュー・ペリーにその任務が委ねられた。ペリーは任命される1年も前の1851年1月には日本遠征の独自の基本計画をウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出していた。

 

・1853年6月3日 :  米国東インド艦隊司令長官ペリーが率いる蒸気船サスケハナ号、ミッシシッピー号、帆船プリマス号、 サラトガ号の黒船艦隊4隻(※が大西洋・インド洋経由で浦賀沖へ来航し、浦賀(現在の久里浜)に上陸。

 

・18547年1月16日:  ペリー艦隊7隻、神奈川 (横浜村) に来港。ペリーはアメリカ大統領の親書を携え、日本に開国を迫り、大砲(空砲)で脅しをかけながら、日米和親条約 (神奈川条約)を締結させた。 日本は長い鎖国から、一気に開国へと向かった。

 

◇第一次来航(1853年)

・ペリーは日本を開国させるためには軍事的な威嚇が必要と考えた。このため、5隻の蒸気船を含む13隻の艦隊を編成することを計画した。しかし、実際には使用可能な蒸気船は3隻だけであり、そのうち1隻(ポーハタン)は出港が送れたため第一次の遠征には間に合わなかった。

 

・結果として、第一次の日本遠征は2隻の蒸気フリゲート(サスケハナおよび ミシシッピ)、2隻の帆走スループ(サラトガおよびプリマス)の4隻という小規模なものになった。

 

・1853年7月8日(嘉永6年6月3日)ペリー艦隊(※)は浦賀に入港した。7月14日(6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄・井戸弘道に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡した。

 

・幕府は将軍徳川家慶が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げた。艦隊は6月12日(同年7月17日)に江戸を離れ一旦香港へ帰った。

 

・このペリー来航は前年のオランダ風説書で予告されており、9隻の艦名も記されている。さらには陸兵および攻城兵器を搭載しているとの噂も含まれていた。オランダは米国の軍事的圧力によって開国させられるより、オランダと平和的に外交関係を結ぶべきと幕府に訴えたが、これは無視された。 

 

ミシシッピ号(引用:Wikipedia)

※ 米国艦隊(第一来航) 

・サスケハナ:蒸気外輪フリゲート、1850年、積載量2450トン、排水量3824英トン、300名

  NHP、795IHP、150ポンドパロット砲x2・9インチダールグレン砲x12・12ポンド砲x1

 

・ミシシッピ:蒸気外輪フリゲート、1841年、積載量1692トン、排水量3220英トン、

  260名、4NHP・650IHP、10インチペクサン砲x8・8インチペクサン砲x2

 

・サラトガ:帆走スループ、1843年、積載量882トン、260名、機関出力:無、

  8インチ砲x4・32ポンド砲x18

 

・プリマス帆走スループ、1844年、積載量989トン、260名、機関出力:無、

  8インチ砲x8・32ポンド砲x18 

 

◇第二次来航(1854年)

 ・ペリーは香港で将軍徳川家慶の死を知ると、約束の1年をまたず、再び日本を訪れた。嘉永7114(同年211日)にサウサンプトン(帆走輸送艦)が現れ、116(同年213日)までに旗艦「サスケハナ」、ミシシッピ、「ポーハタン」( 以上、蒸気外輪フリゲート)、マセドニアン、ヴァンダリア(以上、帆走スループ)、レキシントン(帆走補給艦)6隻が到着した。

 

・26日にサラトガ(帆走スループ)221日にサプライ(帆走補給艦)が到着して9隻の大艦隊(※)が江戸湾に集結した。約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。

 

・33331日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。

 

・その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、525日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。

 

※ 米国艦隊(第二次来航)  

・ポーハタン:蒸気外輪フリゲート、1852年、積載量2415トン、排水量3765英トン、289名

  0NHP・795IHP、11インチダールグレン砲x1・9インチダールグレン砲x10・12ポンド砲x5

 

・サスケハナ:蒸気外輪フリゲート、1850年、積載量2450トン、排水量3824英トン、300名

  NHP・795IHP、150ポンドパロット砲x2・9インチダールグレン砲x12・12ポンド砲x1

 

・ミシシッピ:蒸気外輪フリゲート、1841年、積載量1692トン、排水量3220英トン、260名

  4NHP・650IHP、10インチペクサン砲x8・8インチペクサン砲x2

 

・サラトガ:帆走スループ、1843年積載量882トン(bmトン)260無8インチ砲x4・32ポンド砲x18

 

・マセドニアン:帆走スループ、1852年改造、積載量1341トン、489(改造前)、無、

  8インチ砲x6・32ポンド砲x16

 

・バンダリア:帆走スループ1848年改造積載量770トン 150無8インチ砲x432ポンド砲x16

 

・サウサンプトン:帆走補給艦1845年積載量567トン 不明無42ポンド砲x2

 

・レキシントン帆走補給艦1843年改造積載量691トン 190(改造前)無32ポンド砲x6

 

・サプライ:帆走補給艦1846年購入積載量547トン 60無24ポンド砲x4

 

3)ロシアの開国要求

3.1 プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年) 

 

       

    フリゲート・パルラダ号 (引用:Wikipedia) エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン

 

・1853年7月: ロシア使節 極東艦隊司令長官プチャーチン、長崎来航。旗艦パルラダ号ほか3隻。プチャーチンは、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられた。

 

・しかし、それが実施に移されたのは1852年になってからであり、日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられ、皇帝ニコライ1世により平和的に交渉することを命令された。途中英国で蒸気船ボストークを購入し、1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊(※)を率いて長崎に来航した。

 

・長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日、長崎を離れ一旦上海に向かった。

 

・1854年1月3日(嘉永6年12月5日)、再び長崎に戻り、幕府全権川路聖謨、筒井政憲と計6回に渡り会談した。交渉はまとまらなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意した。

 

・翌1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、ディアナ号に乗り換えて函館に入港したが、同地での交渉を拒否されたため大阪へ向かった。翌月に天保山沖に到着、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12月3日(嘉永7年10月14日)に下田に入港した。

 

・報告を受けた幕府では再び川路聖謨(としあきら)筒井政憲らを下田へ派遣、プチャーチンとの交渉を行わせた。交渉開始直後の1854年12月23日(安政元年11月4日)安政東海地震が発生し交渉は中断。

 

・1855年1月1日(安政元年11月13日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、プチャーチンは遂に日露和親条約の締結に成功した。

 

・ペリーとは対照的に、プチャーチンは軍事的威嚇などをすることもなく(戦力的に貧弱という実状もあったが)、紳士的に交渉を続けた。このため川路聖謨は、プチャーチンの姿勢に好感を持った。

 

※ 露国艦隊

・パルラーダ:帆走フリゲート1832年積載量1400トン程度 不明無54

・ボストーク:蒸気船 1852年英国にて購入不明不明 不明68ポンド x 4

・オリバーツ:帆走軍艦 不明 不明 不明 無 不明

・メンシコフ:帆走補給艦 不明 不明 不明 無 不明 

 

 

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〔参考〕産経新聞(令和5年(2023年)11月30日オピニオン(8面)特集記事)から引用

第5部 幕末・戦国乱世の余薫㉕

「転換点を読む」日本史人物録(編集委員 関厚夫)

 

最後の三河侍・捨て台詞

 

 樺太(サハリン島)日本人居住区と択捉島(実質的な北方四島)の帰属についてはわれらに義あり。一歩も引くな。だが代替わり(※1)に伴う繁忙を理由に結論は先送りせよ。通商交渉は鎖国という祖法があり、朝廷や諸大名との協議で時間をとられるため、3~5年の猶予が必要だと得心させよー。

 

 ひらたく言えば以上が、長崎でロシア使節団との談判にのぞむ首席格全権の幕臣、川路聖謨(としあきら)に幕閣が与えた指示だった。談判開始の直前ー嘉永6(1853)年晩秋のことである。

 

 いつのまに不可逆的に劣化していた徳川幕府という組織における「前線指揮官」の悲哀であろう。川路らは終始、手前勝手な幕閣指示と無理を承知で譲歩を迫るロシア側への対応という「二正面作戦」を迫られた。

 

不逞のはったり

 

 川路らと露全権のプチャーチンによる本格的な談判は嘉永6年12月20日(旧暦)から翌年1月4日までの間に計6回開催、当時の大みそかにあたる12月30日と新年早々の1月2日、6日には交渉団の中村為弥(ためや)(?~1881年?)(※2)とロシア側による実務折衝が行われた。

 

 『大日本古文書 幕末外国関係文書之三』によると、プチャーチンは12月24日の談判で大意つぎのように豪語した。

 

 「帰国の軍艦が何十隻束になろうと、西洋艦1隻の敵ではない。またフリゲート艦(※3)なら貴国で最も海防堅固とされる長崎とて攻略は難しくない。貴国が国を閉ざし、泰平を謳歌している間に西洋諸国は兵器・戦術・海軍力の分野で精緻を極めたが、わが国は戦争にかけてはほぼ無敗である」

 

 プチャーチンが率いる4隻の艦隊のうち、旗艦は大型だが老朽化した帆走船は箔(はく)をつけるために急遽英国で購入した1隻のみだった。なのに欧米を代表する海軍国家であるような発言をするのは滑稽だが、幕府はロシア海軍の非力さなど知るまいと高をくくっていたのだろう。

 

 またこれはプチャーチンが知るよしもないことだが、日露談判に先立つこと3ヶ月前に勃発したクリミヤ戦争で、「軍事大国ロシア」は緒戦こそ老大国のオスマン・トルコを相手に有利に戦いを進めていたが、翌春、トルコの敗北を恐れたイギリスとフランスの参戦を機に一敗地にまみれることになる。

 

甘言自在

 

「蒸気機関の発明によって世界の様相は一変した。もし御入用ならば蒸気船や軍艦はもちろん、大砲はじめ兵器はいくらでも差し上げましょう」(12月24日)「いろいろと忠告するのは私個人として隣国である貴国を格別に思うゆえ。万が一、ほかの国が貴国に乱暴狼藉を働く(戦端を開く)ようなことがあれば、いついつまでもご加勢申し上げよう」(1月4日)

 

 プチャーチンはまた、以上のような発言で川路ら幕府交渉団にゆさぶりをかけ、通商開始とロシア側に有利となる国境の画定を迫った。

 

 「魯人の機をみること殊に早く、実は人を馬鹿にするというがごとき意有(あり)。されども正理を以て押ゆれば必ず無言に成、別事をいうか、日延(ひのべ)を願う」

 

 川路の12月28日付の日記の記述である。川路らは、通商交易と北方四島の帰属に関しては幕閣の指示を堅持。樺太は「欧州の地図にもそうある」として島をはぼ折半する北緯50度以南の領有を主張した。

 

 日露談判は時に押し問答、時に丁々発止。新年にかけてロシア側がだしぬけに自国の要望を列記した日露条約草案を作成し、川路が「勇み足も甚だしい」と苦情を入れる一幕もあったが、1月7日、いったん離日するプチャーチン一行を長崎奉行所西役所に招いて送別の宴を催すと、「魯人共(ども)殊の外(ほか)(やわ)らぎて、何卒此次罷出(なにとぞこのつぎまかりいで)候節、肥前守(全権の最年長、筒井政憲)、左衛門尉(川路)の懸(かかり)(担当)たらんことを願う旨申し立て」(川路日記)たという。

 

水の泡。実に苦々しき事也

 

 これほど親近の情を示しておきながら、翌8日付でロシアが送り付けてきた書簡には、

「川路と筒井はとうてい全権といえる権限がなく、これ以上長崎に滞在しても無益ゆえ出帆する。両人はわれらが再訪するまでの間に江戸の老中に対してわが国の希望を叶えるよう周旋されたし。次回は条約締結に至ることを望む」

といった棄て台詞のような文言が並べられていた。

 

 [今迄の心配も水の泡。実に苦々しき事也」と川路付きの文官は記している。

「異国人の詞の上手なる、こころ根のおそろしき、憎むべき也」とは別の分脈での7日付川路日記の一文だが、まるで翌日のロシア書簡を見透かしたかのようである。

 

 そしてこの年秋、プチャーチン艦が突如大阪湾に現れる。

 

(※1)12代将軍の徳川家慶は嘉永6年6月、米国艦隊の来航後まもなく死去。家督を継いだ家定が日露談判開始直前、朝廷から13代将軍に任じられた。

 

(※2)現在の財務省局長級といえる勘定組頭。次回の下田談判での働きと合わせ、川路は中村を功労者としてたたえた。

 

(※3)50門前後の砲を備えた軽快性の高い軍艦

追記、令和5年11月30日

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3.2)ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)

・東シベリア総督ムラビヨフは1859年8月18日(安政6年7月20日)に、旗艦のスクリューフリゲート・アスコルド以下9隻の艦隊(※1を率いて江戸に来航した。ムラビヨフは樺太全土をロシア領とし、宗谷海峡を日露国境とすることを主張したが、江戸幕府はこれを拒否した。

 

・この交渉の間に、ロシア士官1人と水夫1人が、横浜の波止場近くで突然抜刀した日本人に襲われ殺害されるという事件が発生している。これは幕末期の最初の外国人殺害事件であった。しかしながら、ムラビヨフは賠償金の請求は行わなかった。

 

・この事件の幕府側担当者は、神奈川奉行の水野忠徳であったが、責任を問われて左遷され、翌年の万延元年遣米使節に加われなかった。さらに、この際、部下に事件の調査を任せ自ら動かなかったことが、 英国公使ラザフォード・オールコックに嫌われて、当時外国奉行でありながら文久遣欧使節(※2)からも外された。

 

※1 ロシア艦隊

・アスコルド号:スクリューフリゲート、1854年建造、積載量2834トン、乗員463名、機関出力360

・その他は不明 

 

※2 文久遣欧使節 

 文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。

 

 正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。竹内遣欧使節とも。

 

3.3)ロシア軍艦対馬占領事件(1861年)

・ロシア艦隊の太平洋司令官であったリハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶した。

 

・しかし、海事省大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりビリリョフが艦長を努める、蒸気コルベットポサードニク(※1)が派遣された。

 

・ビリリョフは1861年4月25日(文久元年3月16日)に対馬に到着、藩主への面会を再三要求し、5月2日(3月23日)には芋崎の租借を求めて来た。

 

・ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。

 

    

    ニコライ・ビリリョフ         小栗忠順        ラザフォード・オールコック

(引用:Wikipedia)

 

・長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送ったが、有効な手は打てなかった。

 

・幕府は外国奉行・小栗忠順を対馬に急派して事態の収拾に当たらせたが、解決方法に関して幕閣と対立し、小栗は解任された。

 

・英国公使ラザフォード・オールコックは香港でこの事件を知り、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープと協議し、軍艦2隻(アクテオン、リンドーブ)を対馬に派遣して偵察を行わせた。

 

・1861年8月14日(文久元年7月9日)、オールコックとホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、幕府はこれを受け入れた(その代償として、オールコックは伊能図の提供を求めている)

 

・8月28日(7月23日)、イギリス東インド艦隊の軍艦2隻(※2)(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープはロシア側に対して厳重抗議した。ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチはイギリスの干渉を見て形勢不利と察し、ビリリョフを説得。9月19日(8月15日)、ポサードニクは対馬から退去した。

 

※1 露国艦隊

・ポサードニク:蒸気スクリューコルベット(1857年)885トン、36ポンド砲x11

 

※2 英国艦隊 

・エンカウンター:蒸気スクリューコルベット(1846年)953トン、225名

・リンドーブ:蒸気スクリュー砲艦(1856年)674トン

・アクテオン:帆走測量艦(1831年)630トン

 

4)英国の開国要求

4.1)スターリングの来航と日英和親条約(1854年) 

 

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英国東インド艦隊旗艦ウィンチェスター(引用:Wikipedia)

 

・プチャーチンとその艦隊が長崎に入港中であるとの情報を得たジェームズ・スターリングは、それを捜索・拿捕すべく旗艦の帆走フリゲート・ウィンチェスターと3隻の蒸気軍艦(※)を率いて1854年9月7日、に長崎に入港した。

 

・すでにプチャーチンは長崎にはいなかったが、スターリングは英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。

 

・このときの長崎奉行は水野忠徳であったが、もともと水野はペリーとの交渉のために長崎に派遣されていた(幕府はペリーに次回の交渉時こめには長崎に行くように伝えていた)

 

・このため、水野はスターリングも外交交渉のための来航と考え、幕府に許可を求めた(スターリングは同年3月に日米和親条約が締結されたことを米海軍より入手していたが、外交交渉は任務に含まれていなかった)

 

・江戸幕府の許可を得た水野忠徳及び同目付永井尚志が同年10月14日(嘉永7年8月23日)日英和親条約に調印した(スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかった。)

 

・しかし、日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。 

 

※ 英国 艦隊

・ウィンチェスター:帆走フリゲート1487トン450名、42lb砲x16、カロネード砲x8、24lb砲x36

・エンカウンター:蒸気コルベット953トン/1934英トン、主として32lb砲

・スティックス:蒸気外輪スループ1054トン/1379英トン、160名、10インチ砲 x 2(旋回式)42lb砲 x 4

・バラクータ:蒸気外輪スループ1053トン/1676英トン、68lbポンド砲x2、 10インチ砲x4

 

4.2)薩英戦争(1863年) 

 

    

       イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘 (引用:Wikipedia) イギリス公使代理ジョン・ニール

 

安政五カ国条約(※1)が締結され、1859年7月1日(安政6年6月2日)に横浜が開港すると、横浜に居留する外国人の数は増加した。れに伴いトラブルも増えていたが、ついに第一次東禅寺事件が発生し、英国公使ラザフォード・オールコックが襲撃された。

 

・このため、オールコックは英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープに対し、居留民保護を目的として軍艦の派遣を要請した。

 

 しかし、オールコックが帰国中に第二次次東禅寺事件が発生し、代理公使ジョン・ニールが襲われる。ニールはホープに追加の艦艇の派遣を要請した。ここにいたり、ホープは、外国人襲撃は個人的な動機によるものであり、根本的な解決のためには幕府の強力な取り締まりが必要である、さらに幕府にそれを実行させるには圧力をかける必要があり、具体策として海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を提案した。

 

・この提案は後に本国政府の承認を得ることになる。ホープはニールの要請に応じて、部下であり彼の後任として東インド艦隊司令官に内定していたオーガスタス・レオポルド・キューパーを横浜に派遣した。その到着当日、すなわち1862年9月14日(文久2年8月21日)に生麦事件(※2が発生した。英国居留民らはキューパーに対して強硬な対応を求めたが、キューパーに与えられた命令は海上封鎖の可能性の調査であり、またニールも慎重な対応に同意した。

 

・一方、本国政府では対日強攻策が主流になっており、1862年12月24日(文久2年11月4日)、ラッセル外相からニールに対し、生麦事件の対日要求が示された(ニールに訓令が到達したのは1863年3月4日(文久3年1月15日))

 

・すなわち、幕府に対しては公式謝罪と10万ポンドの賠償金、薩摩藩に対しては犯人の処刑と2万5000ポンドの賠償金の支払いを要求し、幕府が応じない場合は船舶および海上封鎖、薩摩藩が応じない場合は鹿児島湾封鎖直接攻撃を認めるものであった。

 

・ニールもホープも軍事行動は最後の手段であると考え、1863年3月22日(文久3年2月4日)、ホープの副官であるキューパーに軍艦3隻(ユーライアス、ラットラー、レースホース)を率いさせて横浜に呼び寄せ、幕府に最後通牒を突きつけて海上封鎖の可能性を仄めかせた。

 

・これを憂慮したフランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールの仲介によって6月24日(5月9日)にニールと江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償がまとまって日本海上封鎖は直前に中断され、残る薩摩藩との対応が主目的となった。

 

・8月6日(6月22日 )ニールは薩摩藩との直接交渉のため、キューパーに7隻の艦隊(※3)を率い横浜を出港。

 

・8月11日(6月27日)は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。当初英国側は戦闘になる可能性は低いと見ていたが、交渉は決裂し、英国は軍事行動を決意する。

 

・8月15日(7月2日)早朝、薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕。これをきっかけに薩摩側の砲台が砲撃を開始した。英国艦隊は台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃・ロケット弾攻撃を加え、城下で大規模な火災が発生した。陸上砲台や近代工場を備えた藩営集成館も破壊された。午後5時過ぎ、艦隊は砲撃をやめ、桜島横山村・小池村沖に戻って停泊した。

 

・翌8月16日、イギリス艦隊は城下や台場に砲撃を加えながら湾内を南下、谷山村沖に停泊し艦の修復を行う。8月17日、英国艦隊は薩摩から撤退し横浜に向かった。

 

・11月15日(10月5日)、幕府と薩摩藩支藩佐土原藩の仲介により代理公使ニールと薩摩藩が講和。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払った(この借用金は幕府に返されることはなかった)。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。

 

※1安政五カ国条約

 安政五カ国条約は、幕末の安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ不平等条約の総称。勅許 なく調印されたため安政の仮条約ともいう。この条約で問題となった点は主に以下の3点である。

 ①領事裁判権の規定

 ②関税自主権の欠如

 ③片務的最恵国待遇(日露修好通商条約のみは双務的最恵国待遇)

 

 これらの条約は、領事裁判権を認める、関税自主権がない、などといった不平等条約だった。しかし、歴史学者の三谷博は当初問題にされたのは勅許を得ていないという点であり、当時の日本人の国際知識の欠如もあったが、これらの不平等性が問題になったのは明治維新以降であって、調印時点では大きな問題とみなされていなかったとしており、同じく歴史学者の荒野泰典もこれに賛成している。明治新政府が条約の不平等性と改定の必要性を指摘したのは明治二年の岩倉具視による『外交・会計・蝦夷地開拓意見書』が最初と考えられている。

 

※2 生麦事件

  生麦事件は、文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。

 

 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3年(1863年)7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発した。

 

※3 英国艦隊 

・ユーライアス:蒸気フリゲート2371トン/3125英トン、540名 110lbアームストロング砲x5

  40lbアームストロング砲x8、その他22門、鹿児島砲撃時にカロネード砲x16を追加

 

・パール:蒸気コルベット1469トン/2187英トン、400名、68lb砲x1、10インチ砲x20

 

・パーシュース:蒸気スループ955トン/1365英トン、175名、40lbアームストロング砲x5・32lb砲x12

 

・アーガス:蒸気外輪981トン/1630英トン、175名、110lbアームストロング砲x1、10インチ砲x1・2lb砲x4

 

・レースホース:蒸気砲艦695トン/877英トン、90名、110lbアームストロング砲x1

  10インチ砲x1・32lb砲x1・20lb砲x2

 

・コケット:蒸気砲艦677トン、90名、110lb、アームストロング砲x1・10インチ砲x1・32lb砲x1・20lb砲x2

 

・ハボック:蒸気ガンボート232トン37名、68ポンド砲x2

 

5)下関戦争

5.1)攘夷の実行

・攘夷機運は高まる一方であり、将軍徳川家茂孝明天皇に対し、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達していた。

 

・多くの藩はこれを無視したが、攘夷運動の中心的存在である長州藩は、下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取っていた。

 

・攘夷期限の6月25日、長州藩はアメリカ商船ベンプローク号を攻撃、7月8日(5月23日)にはフランスの通報艦キャンシャン号を、さらに7月11日(5月26日)にはオランダ東洋艦隊所属のメジューサ号を攻撃した。

 

5.2)米国およびフランスの報復攻撃(1863年) 

 

     

     米艦ワイオミング号の下関攻撃 (引用:Wikipedia) フランス艦隊による報復攻撃

 

・この時期のアメリカは南北戦争の最中で、蒸気スループワイオミング(※1)は南軍の襲撃艦アラバマの追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ公使ロバート・プルインの要請を受けて横浜に入港していた。

 

・アメリカ商船ベンプローク号が攻撃を受けたことを知らされたデービット・マックドガール艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港した。7月16日(6月1日)、ワイオミングは下関海峡に入った。

 

・ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の壬戊丸、庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。

 

・7月20日(6月5日)、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス(※2)准将率いるセミラミスタンクレードが報復攻撃のため海峡に入った。セミラミスは前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。 

 

下関戦争で連合国によって占拠された長府の前田砲台(引用:Wikipedia)

 

・長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。

 

※1 米国艦隊 

・ワイオミング:蒸気スループ1457英トン 198名、11イインチダールグレン砲x2・60lbパロット砲x1・32lb砲x3

 

※2 仏国艦隊

・セミラミス:蒸気フリゲート3830トン521名、備砲35門

・タンクレード:蒸気スクリュースループ(1861年)、排水量500トン程度、不明、不明。4備砲

 

5.3)四国艦隊による下関占領(1864年) 

 

 

四国連合艦隊による下関砲撃(引用:Wikipedia)

 

・米国及びフランスの報復攻撃は、一定の成果はあげたものの、長州藩は砲台を修復し、下関海峡は依然として封鎖されたままだった。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。

 

・アジアにおいて最も有力な戦力を有するのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。

 

・だが、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。

 

・日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。

 

・1864年7月22日(元治元年6月19日)、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達する。

 

・9月4日(8月4日)四国連合艦隊(※)の来襲が近いことを知った藩庁はようやく海峡通航を保障する止戦方針を決めたが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。

 

・5日午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。長州藩兵も応戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は前田浜で砲撃支援の下で陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。

 

・6日、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山縣有朋は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。

 

・7日、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲した。

 

・8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。長州藩の主力は京都へ派遣されており、このため下関守備の長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式の後装ライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。

 

・9月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。

 

・18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可下関砲台の撤去賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。

 

・ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能なこともあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目であった。

 

※英国艦隊

・ユーライアス:蒸気フリゲート2371トン/3125英トン、540名4 110lbアームストロング砲x5

  40lbアームストロング砲x8 その他22門カロネード砲x16

 

・コンカラー:蒸気戦列艦2845トン830名、68ポンド砲x1、8インチ砲x32

  32ポンド砲x56、下関戦争時は合計48門

 

・レオパード:蒸気外輪フリゲート1406トン310名、110lbアームストロング砲x1

  10lb砲x1、32lb砲x4

 

・バロッサ:蒸気コルベット1700トン240名、110lbアームストロング砲x1、8インチ砲x20

 

・ターター:蒸気コルベット1296トン250名、110lbアームストロング砲x1

  40lbアームストロング砲x4、8インチ砲x14

 

・アーガス:蒸気外輪981トン175名、110lbアームストロング砲x1、10インチ砲x1、32lb砲x4

 

・パーシュース:蒸気955トン、175名、40lbアームストロング砲x5、68lb砲x1・32lb砲x8

 

・コケット:蒸気砲艦677トン、90名、110lbアームストロング砲x1、10インチ砲x1、32lb砲x1、20lb砲x2

 

・バウンサー:蒸気ガンボート233トン、40名、68lb砲x2

 

※仏国艦隊

・セミラミス:蒸気スクリューフリゲート3830トン521名35門

 

・デュプレ:蒸気スクリューコルベット1795トン、203名、6.4インチ砲x10

 

・タンクレード:蒸気スクリュースループ500トン程度、4門

 

※蘭国艦隊

・メターレン・クルイス:蒸気コルベット2100トン240名6.3インチ砲x8、30ポンド砲x8

 

・ジャンビ:蒸気コルベット排水量2100トン240名、6.3インチ砲x8、30ポンド砲x8

 

・メデューサ:蒸気コルベット排水量1700トン、16門

 

・アムステルダム:蒸気外輪軍艦8門

 

※米国艦隊

・タキアン:蒸気改造砲艦609トン、40名、30lbパロット砲x1

 

6)戦後賠償

6.1)兵庫早期開港要求(1865年)

下関戦争の賠償は幕府が負担することとなった。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四国が納得する新たな提案を実施することとなった。

 

・英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3にする代わり、兵庫開港を2年間前倒しする案があった)

 

・1865年11月1日(慶応元年9月13日)、キング提督を司令官とした英国4隻(※1)(プリンセス・ロイヤル、レパード、ペラロス、バウンサー)フランス3隻(※2)(グエリエール、デュプレクス、キャンシャン)、オランダ1隻(※3)(ズートマン)の合計8隻(米国は今回は軍艦は派遣せず)からなる艦隊は、英仏蘭の公使を乗せて横浜を出港し、11月4日(9月16日)には兵庫港に到着した。

 

・幕府は老中阿部正外および松前崇広派遣し、11月11日(9月23日)から三国の公使との交渉を行わせた。途中、両老中の解任などの紆余曲折を経て、11月24日(10月7日)、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、三国に対して回答した。

 

・開港日は当初の通り1868年1月1日(慶応3年12月7日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは三国の外交上の勝利と思われた。また、同時に関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。

 

※1 英国艦隊

・プリンセス・ロイヤル:蒸気戦列艦3129トン/4540英トン、850名不明91門

 

・レオパード:蒸気外輪フリゲート1406トン310名110lbアームストロング砲x1、10インチ砲x1・32lb砲x4

 

・バウンサー:蒸気スクリューガンボート233トン40名 68ポンド砲x2

 

※2 仏国艦隊

・グエリエール:蒸気フリゲート、3935トン

 

・デュプレ:蒸気コルベット1795トン203名6.4インチ砲x10

 

・キャンシャン:通報艦

 

※3 蘭国艦隊

・ズートマン:蒸気コルベット2100トン240名、6.3インチ砲x8、30ポンド砲x8

 

6.2)兵庫開港(1867-68年) 

 

 

 兵庫に集結した艦隊(事故死した米国アジア艦隊司令官ヘンリー・ベル少将の葬儀)(引用:Wikipedia)

 

・ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、なお兵庫開港については勅許を与えない状況が続いた。兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた1867年6月26日(慶応3年5月24日)のことである。

 

・第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てにようやく勅許を得ることができた。

 

・兵庫開港を約束どおり幕府に実行させるため、パークスの提案で英・仏・米の3ヶ国18隻の大艦隊が兵庫に派遣されることとなった。

 

・1867年12月末に艦隊は兵庫に到着、1868年1月1日(慶応3年12月7日)、神戸は無事開港した。

 

・その直後の 1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽・伏見の戦いが勃発した。

 

・戦いに敗れた徳川慶喜は1月6日夜(1月30日)、天保山沖に停泊中の米国軍艦イロコイに一旦避難、その後幕府軍艦開陽丸で江戸に脱出した。1月11日(1868年2月4日)、神戸事件が発生し、兵庫港に停泊中の諸艦の水兵が神戸を占領した。

 

 7)神戸事件・堺事件(1868年)

7.1)神戸事件

神戸事件とは慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえ、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。

 

・この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。相前後して堺事件が発生した。

 

〇事件の発端

・慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出立させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は大砲を伴って陸路を進んだ。

 

・この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」を通らず、西国街道を進んだ。

 

・1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとした。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。

 

・しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった。これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。

 

・この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない。 

 

〇事件の推移

・自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった。

 

・備前側では、家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令、お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かった。

 

・神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。

 

・この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たるも決裂するに至る。

 

・1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を代表として交渉を開始した。

 

・諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。

 

・この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあったが伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決される。

 

・結局、2月2日(2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、2月9日(3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。

 

〇事件の意味

 神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件である。諸国列強の要求に従い、滝善三郎一人の切腹によって問題が解決された。

 

(参考)エピソード

•   シーパワー論(※)の提唱者として後年名を知られることになるアルフレッド・セイヤー・マハン少佐は、神戸事件の最中、兵庫港に停泊する米国艦イロコイ号の副長を務めていた。 

※ シーパワー論(引用:Wikipedia)

・『海軍戦略(マハン)』(Naval Strategy)とは1911年に発刊されたアルフレッド・セイヤー・マハンによる海軍戦略の著作である。

 

 

・マハンはアメリカ海軍兵学校の教官として海軍戦略を講義し、著書として刊行した。帆船時代の経験に基づいて書かれた1890年刊『海上権力史論』では世界の海軍関係者にその名を知られた。

 

 21年後に刊行され、最後の著作となった本書では、日清戦争や米西戦争、日露戦争で新たに戦史に加わった汽走海軍の戦いを踏まえた内容となっている。

 

 本書は海洋の戦略的意義を初めて体系的に分析し、国家戦略としての戦略思想を確立した。特に地理的要因を戦略理論の中に導入したことは後のハルフォード・マッキンダーの地政学でも参照されている。

 

 1914年のパナマ運河開通が近未来史に予測され、大西洋・太平洋に艦隊を分散配置せねばならないアメリカ合衆国の戦略環境が立論の背景となっていた。 

 

〇錦旗紛失事件

 この神戸事件の影響を受けて、1868年(慶応4年)年1月14日に土佐藩士の本山茂任が土佐藩へ運ぶ途中の「錦の御旗」をフランス兵に奪われるという前代未聞の錦旗紛失事件が起きている。(のち返還される)

 

7.2)堺事件

 

 (引用:Wikipedia)

 

 堺事件は、慶応4年2月15日(旧暦。太陽暦では1868年3月8日)に和泉国堺町内で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。泉州堺事件とも呼ばれる。

 

〇事件の概要

・攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年2月15日 (旧暦)午後3時頃、フランス海軍のコルベット艦デュプレクスは、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入り、同時に港内の測量を行った。

 

・この間、士官以下数十名のフランス水兵が上陸、市内を徘徊した。夕刻、土佐藩軍艦府の命を受けた八番隊警備隊長箕浦元章(猪之吉)、六番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、土佐藩兵は仏水兵を連行しようとした。

 

・仏水兵側は土佐藩の隊旗を倒伏、逃亡しようとしたため、土佐藩兵側は咄嗟に発砲し、仏水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。

 

・土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。遺体は16日に引き渡しを終えた。死亡した仏水兵は11名。いずれも20代の若者であった。

 

〇事件までの経緯

〔土佐藩兵の行動〕

箕浦猪之吉率いる土佐藩八番隊は鳥羽・伏見の戦い直後の慶応4年1月9日八つ時(午後2時)に京を出立、淀城に向かった。皇軍総裁仁和寺宮彰仁親王警護の土佐藩兵先鋒と交代するためであったが、同日夜に淀城に到着した時は、仁和寺宮と警護兵は既に城を立ち大坂に向かった後だった。

 

・軍監林茂平(亀吉)の判断で八番隊は翌10日夜明けに淀城を立ち、淀川を下って、同日夜大坂で仁和寺宮隊と合流した。この時点で仁和寺宮の警護は薩摩藩兵に代わっており、八番隊は当初の目的を失ってしまった。

 

・1月11日、八番隊の新たな任務が堺町内の警護に決まった。当時の堺は大坂町奉行の支配下にあったが、1月7日の大阪開城で大坂町奉行は事実上崩壊し、旧堺奉行所に駐在していた同心たちも逃亡してしまっていた。八番隊は即日出発し、その日のうちに堺に入った。

 

・1月16日、箕浦の下に神戸事件の情報が入った。事件は箕浦を怒らせるに十分であった。箕浦はもともと儒学者で、その日のうちに箕浦は在京阪の土佐藩兵力を検討している。

 

・神戸事件以外に箕浦を苛立たせていた出来事があった。1月17日、大坂の林軍監より「中国四国征討総督四条隆謌の姫路進発のため、堺の土佐藩兵の一部を大坂へ帰還させよ」との命令が出たのである。

 

・これでは任務を遂行できないとみた箕浦は、林に増援を求める書状を送り、時には自ら大坂の軍監府に赴いた。箕浦の要求が通り、京から西村佐平次率いる六番隊が到着したのは2月8日である。

 

〔フランスの行動〕

・ロッシュを訪問していた極東艦隊司令長官ギュスターヴ・オイエは、2月10日の離日に際し、部下に浅瀬の測量を命じている。前年12月15日に大坂天保山沖でアメリカ海軍提督を乗せたボートが転覆し、提督らが溺死した事故を踏まえての指示であった。

 

〔事件へ〕

・2月15日、ヴィヨー、ロアら一行は大阪から兵庫の領事館への帰路、陸路を伝って堺に寄ろうと紀州街道を南下した。外国事務局からその通報の無かった箕浦、西村率いる土佐藩兵は同日昼ごろこれを阻み、大和川にかかる大和橋で引き返させた。

 

〇事後処理

〔埋葬〕

・殺害された仏水兵11名は、神戸居留地外人墓地において駐日仏公使レオン・ロッシュ、駐日イギリス公使ハリー・パークスのほかオランダ公使ら在阪外交官立会いのもとに埋葬された。

・ロッシュは悲哀を込めた弔文を読み上げたが、それには「補償は一層公正であり、少しも厳しくないことはないであろう。私はフランスと皇帝の名において諸君に誓う。諸君の死の報復は、今後われわれ、わが戦友、わが市民が、諸君の犠牲になったような残虐から免れると希望できる方法で行われるであろう」という、復讐を誓った激烈な一文が込められていた。    

 

〔波紋〕

・事件発生の報は翌2月16日の朝には京に届いた。山内容堂は、2月19日早朝、たまたま京の土佐藩邸に滞在していた英公使館員アルジャーノン・ミットフォードに、藩士処罰の意向を仏公使に伝えるように依頼した。この伝言は淀川を下り、夕刻には大坂へ戻ったミットフォードにより、兵庫に滞在する仏公使ロッシュに伝えられた。

 

・ロッシュは、同じく2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦(※)は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。

 

・一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。

 

・これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされるが、捕縛ではなく発砲による殺傷を目的とした野蛮な対応に外国は震撼した。

 

〔土佐藩士への処分〕

・土佐藩は警備隊長箕浦、西村以下全員を吟味し、隊士29名が発砲を認めた。

 

・一方朝廷の岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者を数を減らすように要求。結局、政府代表の外国事務局輔東久世通禧らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下二十人を処罰すること。処刑の時間および場所などをまとめた。

 

・まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて決めた。

妙国寺にある土佐藩士供養塔(引用:Wikipedia)

〔死刑執行〕

・2月23日(3月16日)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行った。

 

・その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請し、結果として9人が助命された。

 

・一説に、暮色四辺にたちこめ、ついに日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。

 

〔外交決着と藩士への恩赦〕

・2月24日、外国事務局総督山階宮晃親王は、大阪鎮台外国事務兼務伊達宗城を伴ってフランス支那日本艦隊旗艦「ヴェニス」に行き、ロッシュと会見。明治天皇からの謝意と宮中への招待を述べた。そのとき、宗城とロッシュとの間に生存者9名についての話し合いがもたれ、仏側は死亡者と屠腹者の数が同じことで当方の寛大な処置を示す根拠ができたとして、9名の助命を了承した。

 

・翌25日には土佐藩主山内豊範が「ヴェニス」に乗船、ロッシュらに謝罪したが、加害者側の藩主が来ることもあって、このときは24日と違って礼砲もないなど仏側の態度は冷やかであった。

 

・ロッシュは30日御所に参内(はじめパークスも一緒に参内する予定であったが、直前に京都市内縄手通りで堺事件に憤激した攘夷志士三枝蓊、朱雀操に襲撃されて取りやめとなり、翌3月1日に延期となった。)天皇からの謝意を受けた。こうして政府間の問題解決は終了することになる。

 

・また9人については29日に東久世通禧、伊達宗城、鍋島直大の連名で「・・・死一等ヲ免シ、其藩ヘ下シ置カレ候条、流罪申付クベキ事」という書面が土佐藩に30日付で下され、こうして残された9名の処置が決定した。9名は熊本藩、広島藩に預かりとなっていた。

 

〔その後〕

・処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流と決まるが、皆口々に「我々は国のために刀を抜いた者だ。仏人の訴えで縛に就き、死罪を免ぜられ無罪となり帰国したのに、このうえ流罪とは納得できない」と不平を述べた。

 

・藩側は改めて朝廷の沙汰書を示し「ご処置は気の毒だが、枉げて承知してほしい。流罪といっても長期ではない」などと説得してようやく了解を得た。こうして、袴帯刀を許され駕籠を用いるという破格の処遇で入田へ向かった。庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後明治新政府の恩赦により帰郷した。遭難したフランス人の碑は神戸市立外国人墓地に建てられた。

 

・大阪では事件についての流行歌「今度泉州沖で、土佐の攘夷が、大あたり、よか、敵は仏蘭西、よっ程 ゑじゃないか、よふか、よか、よか、よか、」「妙国寺、妙国寺、土佐のおさむらい腹を切る。唐人見物、ビックリシャックリと、おおさビックリシャックリと。」などが歌われた。

 

・はじめ11人の墓は妙国寺に置かれる予定であったが、勅願寺に切腹した者を葬るのは不都合という伊達宗城の意見が通り、同じ堺市内の宝珠院に置かれた。その11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った九人には「ご命運様」として死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかった。

 

※英国艦隊

・ロドニー:蒸気スクリュー戦列艦(1860年改造)2590トン排水量4375英トン850名、70門

 

・オーシャン:蒸気スクリュー装甲艦(1865年改造)4047トン排水量6832英トン606名、

  8インチ砲x4、7インチ砲x20

 

・バジリスク:蒸気外輪スループ1849年積載量1031トン排水量1710英トン310名、64ポンド砲x5(6?)

 

・リナルド:蒸気スクリュースループ1860年積載量951トン 排水量1365英トン175名0NHP、

  40ポンドアームストロング砲x5・68ポンド砲x1・32ポンド砲x8

 

・ラトラー:蒸気スクリュースループ1860年積載量950トン 排水量1280英トン175名、

  40ポンドアームストロング砲x5・68ポンド砲x1・32ポンド砲x8

 

・コーモラント:蒸気スクリュー砲艦1860年積載量695トン 排水量877英トン90名、7インチx1

  64ポンド砲x2

 

・サーペント:蒸気スクリュー砲艦1860年積載量695トン 排水量877英トン90名7インチx1、64ポンド砲x2

 

・スナップ:蒸気スクリューガンボート1855年積載量232トン 37名68ポンド砲x2

 

・シルビア:蒸気スクリュー測量艦1866年積載量695トン 排水量865英トン不明4門

 

・サラミス:蒸気外輪送迎艦1865年積載量835トン 排水量985英トン不明20ポンド砲x2

 

・アドベンチャー:蒸気スクリュー軍隊輸送艦1855年購入積載量1593トン 不明2門

 

・マニラ:蒸気スクリュー倉庫艦1860年購入積載量295トン 不明2門

 

※仏国艦隊

・ラプラス:蒸気スクリューコルベット、不明、排水量1900トン、10門

 

※米国艦隊

・ハートフォード:蒸気スクリュースループ、1859年積載量1900トン 排水量2900トン、302名、

  9インチダールグレン砲x20・20ポンドパロット砲x2・12ポンド砲x2

 

・シェナンドー:蒸気スクリュースループ(1863年)積載量1375トン 排水量2030トン、175名

  150ポンドパロット砲x1・11インチダールグレン砲x2、30ポンドパロット砲x1

  24ポンド榴弾砲x2、12ポンド砲x2、重12ポンドx2

 

・イロコイ:蒸気スクリュースループ1859年積載量1016トン 排水量1488トン123名、

  100ポンド砲x1・9インチ砲x1・60ポンド砲x1・32ポンド砲x4

 

・オーネイダ:蒸気スクリュースループ1862年積載量1032トン 排水量1488トン123名

  11インチ砲x2・8インチ砲x6・30ポンド砲x1・24ポンド砲x2・12ポンド砲x1

 

・アルーストック:蒸気スクリュー砲艦1862年積載量507トン 排水量1488トン114名、400IHP、

  11インチダールグレン砲x1・24ポンド砲x1・20ポンド砲x1・12ポンド砲x2

 

8)不平等条約の締結

・19世紀から20世紀初頭にかけて、帝国主義列強はアジア諸国に対して、条約港の割譲や在留外国人の治外法権承認領土の割譲や租借など不平等な内容の条約を押し付けた。

 

・そのなかには、片務的最恵国待遇もあった。憲法及び法典(民法、商法、刑法など)を定めている先進国側が、それらの定められていないあるいは整備の進んでいない国において、それらを定めていないことによって被るであろう不当な権力の行使を避けるために結ばれることが多い。

 

・不平等条約は、具体的には「関税自主権を行使させない」ことや「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」ことによって、ある国の企業や個人が、通商にかかわる法典の整備されていない国に商品を輸入する際に莫大な税金を要求されたり、軽犯罪によって死刑を被ったりすることを避けることを目的としたものである。

 

・しかし、条約上有利な国の国民が不利な側にある国の居留民として犯罪を犯した際、その国の裁判を免れることから、重大な犯罪が軽微な処罰ですんだり、見過ごされたりする場合もあった。

 

・日本も封建制度の体制下で欧米の近代法にある法治国家の諸原則が存在しておらず、刑事面では拷問や残虐な刑罰が存置され、民事面では自由な契約や取引関係を規制して十分な保護を与えていなかったために、欧米列強からはその対象国であると考えられていた。

 

・一方で日本の側でも認識不足があり、外国人を裁く事の煩雑さを免れる事と、関税という概念を十分に理解していなかったことから、結果として不平等条約を結ぶ事となった。

 

・江戸幕府が日米和親条約日米修好通商条約で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には条約改正が外交課題となっていた。

 

 ※幕末・明治期日本の不平等条約

・1854年:日米和親条約(米国)、日英和親条約(英国)

・1855年:日露和親条約(ロシア帝国)、日蘭和親条約(オランダ)

・1856年:アロー号事件

・1858年:日米修好通商条約安政五か国条約)(米国)、日英修好通商条約(英国)

・1860年:日葡修好通商条約(ポルトガル)

・1860年:桜田門外の変(井伊直弼暗殺)

・1861年:日普修好通商条約(プロイセン) 

・1866年:日伊修好通商条約(イタリア) 

・1867年:樺太島仮規則(ロシア帝国)

・1869:日墺修好通商航海条約(オーストリア・ハンガリー帝国)

・1875年:樺太・千島交換条約(ロシア帝国)

 

9)尊王攘夷思想・尊皇攘夷論・「大攘夷」論

9.1)尊王攘夷思想

尊王攘夷とは、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄(中華思想における異民族)を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。

 

・日本では、江戸時代末期(幕末)に朝廷から一般民衆まで広く論じられ、討幕運動の合言葉として利用された。国家存在の根拠としての尊王思想侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。

 

尊王論は、武力(覇道)をもって支配する「覇」(覇者)に対し、徳(王道)をもって支配する「王」(王者)を尊ぶことを説く。

 

・日本における尊王論は当初鎌倉時代から南北朝時代にかけて受容され、天皇を「王」、武家政権(幕府)を「覇」とみなし後者を否定する文脈で用いられた。そして鎌倉幕府の滅亡・建武の新政への原動力となった。

 

・徳川幕府の幕藩体制において、朝廷は幕府の制約を受けていたが、権威的秩序宗教的な頂点の存在として位置づけられていた。江戸時代中期には国学がさかんになり、記紀や国史、神道などの研究が行われ、武士や豪農などの知識層へも広まった。また、天皇陵の修復や、藩祖を皇族に結びつける風潮も起こる。

 

9.2)尊皇攘夷論

 攘夷論の風刺図(開港直後の横浜で行われた相撲の模様を描いている)(引用:Wikipedia)

 

・幕末には、幕政改革の混乱や北海道でのゴローニン事件、九州でのフェートン号事件等異国船の来航による対外的緊張など政治的混乱が起こり、幕府は秩序維持のため大政委任論に依存して朝廷権威を政治利用したため、朝廷の権威が復興することとなった。

 

・攘夷論は、日本に於いては、江戸末期に広まった考えで、夷人(外国人)を退ける。つまり外国人を実力行使で排斥しようという思想で、元は中国の春秋時代の言葉である。

 

・元々は朱子学を重んじた水戸学から発して全国に尊皇攘夷思想として広まった。だが、それが勤皇思想と結んだ結果において倒幕と言うエネルギーに一転した。

 

・開港以後は、国学の発展によって強化されつつあった日本は神国であるというナショナリズムの発想である尊皇論と結びつき、尊皇攘夷論となって諸藩の志士や公卿によって支持された。

 

9.3)「大攘夷」論

・幕末の国内では国学の普及にともなって民族意識がとみに高まった時代でもあった。ことは複雑で事態は単純ではないが、大きな流れとしては、幕末では「開国」を主張する徳川幕府や薩摩藩と、あくまで「鎖国」の状態を維持することを主張する長州藩の対立となった。

 

・ところが、欧米列強の圧力により修好通商条約に天皇が勅許を出した(1865年)ことにより「攘夷」「鎖国」は結びつかなくなった。

 

・しかし薩英戦争下関戦争において外国艦隊との力の差に直面したことにより、鎖国という手段に固執した攘夷論に対する批判が生じ、また、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一富国強兵を優先すべきだとする大攘夷論が唱えられたことは、「開国」「攘夷」という2つの思想の結合をより一層強め、「討幕」という一つの行動目的へと収斂される可能性を生んだ。

 

・土佐藩の坂本龍馬らの斡旋や仲介もあり、幕末日本の攘夷運動の主力であった薩摩藩長州藩二大地方勢力の主張も事実上開国論という手段を受容した攘夷へと転向し、討幕へと向かっていくことになる。


(参考1)幕末の英傑(蛮社の獄)


(引用:Wikipedia)

 蛮社の獄は、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英・渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた他、処刑された。

 

〔背景〕

 天保年間(1830年代)には江戸で蘭学が隆盛し新知識の研究と交換をする機運が高まり、医療をもっぱらとする蘭方医とは別個に、一つの潮流をなしていた。渡辺崋山はその指導者格であり、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。この潮流は国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ同好の集団、社中。「蛮学社中」の略)と呼ばれた。

 

 後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府の文教部門を代々司る林家の出身であった。儒教を尊んできた幕府は儒学の中でもさらに朱子学のみを正統の学問とし、他の学説を非主流として排除してきた。

 

 林家はそのような官学主義の象徴とも言える存在であり、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる林一門にとって蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また林家の門人でありながら蘭学に傾倒し、さらに多数の儒者を蘭学に引き込む崋山に対しても、同様の感情が生まれていた。

 

 以上の通説に対して田中弘之(※)は、林述斎(耀蔵の実父)は儒者や門人の蘭学者との交流に何ら干渉せず寛容であり、また後述するように述斎はモリソン号事件の際、幕府評定所の大勢を占める打ち払いの主張に反対して漂流民の受け入れを主張しており、非常に柔軟な姿勢がうかがえること、鳥居も単なる蘭学嫌いではなく、多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して反対するなど、その実用性をある程度認めていたこと、そもそも林家の三男坊にすぎなかった鳥居耀蔵は鳥居家に養子に入ることにより出世を遂げたため、鳥居家の人間としての意識のほうが強かったことを指摘している。

 

田中弘之

1937年東京に生まれる。1964年駒澤大学文学部卒業。元駒澤大学図書館副館長 ※2011年6月現在【主な編著書】『幕末の小笠原』『幕末小笠原島日記』

 

 また、崋山の友人である紀州藩の儒者・遠藤勝助は、救荒作物や海防について知識交換などを目的とした学問会「尚歯会」を創設したが、崋山・長英・三英はこの会の常連であったために「蛮社=尚歯会」「蛮社の獄=尚歯会への弾圧」という印象が後世生まれたが、尚歯会の会員で蛮社の獄で断罪されたのは崋山と長英のみであり、その容疑も海外渡航や幕政批判・処士横議で、会の主宰であった遠藤をはじめ他の関係者は処罰されておらず、そのような印象は全くの誤解だとしている。

 

対外的危機と開国への期待

 天保年間、日本社会は徳川幕府成立から200年以上が経過して幕藩体制の歪みが顕在化し、欧米では産業革命が推進されて有力な市場兼補給地として極東が重要視され、18世紀末以来日本近海には異国船の来航が活発化し始めた。

 

 寛政5年(1793年)ラクスマンの根室来航を契機として、幕府老中松平定信は鎖国祖法観を打ち出した。幕府の恣意的規制の及ばない西洋諸国との接触は、徳川氏による支配体制を不安定化させる恐れが強く、鎖国が徳川覇権体制の維持には不可欠と考えたためである。

 

 一方でこの頃から、蘭学の隆盛とともに蘭学者の間で西洋への関心が高まり開国への期待が生まれ始め、庶民の間でも鎖国の排外的閉鎖性に疑問が生じ始めていた。

 

 文政7年(1824年)には水戸藩の漁民たちが沖合で欧米の捕鯨船人と物々交換を行い300人余りが取り調べを受けるという大津浜事件が起こっている。また、異国船の出没に伴って海防問題も論じられるようになるが、鎖国体制を前提とする海防とナショナルな国防の混同が見られ、これも徳川支配体制を不安定化させる可能性があった。

 

 そのような中で出されたのが文政8年(1825年)異国船打払令である。これについては、西洋人と日本の民衆を遮断する意図を濃厚に持っていたと指摘されている。

 

 また、文政11年(1828年)には幕府天文方・書物奉行の高橋景保が資料と引き換えに禁制の地図をシーボルトに贈ったシーボルト事件が起こり、幕府に衝撃を与えており、天保3年から8年(1832年 - 1837年)にかけては天保の大飢饉が発生して十万人余が死亡し、一揆と打ち壊しが頻発した。特に天保8年(1837年)大塩平八郎の乱・生田万の乱は全国に衝撃を与えた。

 

 また、対外関係は、19世紀初頭に紛争状態にあった北方ロシアと関係改善されるも、インド市場と中国市場を獲得したイギリス政府が日本市場を狙い台頭する状況から、イギリスの小笠原諸島占領計画モリソン号渡来が蛮社の獄に影響し、これら内外の状況が為政者の不安と有識者の危機意識を掻き立てていた。

 

 ただし、これについては田中弘之は、当時のイギリスは清国との関係が急激に悪化しており、そのため日本人漂流民の送還もアメリカ商船モリソン号に委ねなければならなくなったと指摘している。小笠原諸島は清国との有事の際のイギリス商人の避難地およびイギリス海軍の小根拠地と考えられていたにすぎず、香港を獲得するとイギリスの占領計画も自然消滅しており、当時の幕府もイギリスの小笠原諸島占領に全く無関心であったとしている。

 

 モリソン号の来航を機に鎖国の撤廃を期待したのが高野長英・渡辺崋山らで、崋山は西洋を肯定的に紹介して「蘭学にして大施主」と噂されるほどの人物であった。

 

〔発端〕

◆モリソン号事件

 蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保8年(1837年)に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。

 

 彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。

 

 天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。

 

 日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである。また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。

 

 翌天保9年(1838年)6月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来のいきさつについて報告した。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきたことを知った(ただしモリソン号はイギリス船と誤って伝えられた)。老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけた。7~8月に提出された諸役人の答申は以下のようである。

 

・勘定奉行・勘定方:「通商は論外だが、漂流民はオランダ船にのせて返還させる」

 

・大目付・目付:「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。ただし通商と引き換えなら受け取る必要なし。モリソン号再来の場合は打ち払うべき」

 

・林大学頭:(林述斎。鳥居耀蔵の父)「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。モリソン号のようにイギリス船が漂流民を送還してきた場合むやみに打ち払うべきではなく、そのような場合の取り扱いも検討しておく必要あり」

 

 水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌9月の林の答申は前回と変わらず、水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。これに対する戌10月の評定所一座の答申は以下のとおり。

 

・評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行):「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」

 

 水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であったため、12月になり水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。

 

『戊戌夢物語』と『慎機論』

 幕閣でモリソン号に関する評議がおこなわれていたのと同時期、天保9年(1838年)10月15日に市中で尚歯会の例会が開かれた。席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎(靖兵隊隊長芳賀宜道の父)が、評定所において現在進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに示した。

 

 前述のように、幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものだったが、もっとも強硬であり却下された評定所の意見のみが尚歯会では紹介されたために、渡辺崋山・高野長英・松本斗機蔵をはじめとするその場の一同は幕府の意向は打ち払いにあり、またモリソン号の来航は過去のことではなくこれから来航すると誤解してしまった。

 

 報せを聞いてから6日後に、高野長英は打ち払いに婉曲に反対する書『戊戌夢物語』を匿名で書きあげた。幕府の対外政策を批判する危険性を考慮し、前半では幕府の対外政策を肯定しつつ、後半では交易要求を拒絶した場合の報復の危険性を暗示するという論法で書かれている。

 

 これは写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に意見を唱える形で『夢々物語』・『夢物語評』などが現われ、幕府に危機意識を生じさせた。なお、松本も長英と同様の趣旨の「上書」を幕府に提出している。

 

 一方、渡辺崋山『慎機論』を書いた。自らの意見を幕閣に届けることを常日頃から望んでいた崋山は、友人の儒学者・海野予介が老中・太田資始の侍講であったことから海野に仲介を頼んでいた。しかし当の『慎機論』は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。

 

 内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。

 

 なお、『夢物語』・『慎機論』いずれもモリソンを船名ではなく人名としているが、松本の「上書」では事実通りの船名となっており、長英と崋山はあえてモリソンを人名としたものと思われる。モリソンを恐るべき海軍提督であるかのように偽って幕府に恐れさせ、交易要求を受け入れさせようとしたものとみられる。

 

 同じ頃、これは目付・鳥居耀蔵と江川英龍に江戸湾巡視の命が下った時期でもあるが、崋山は友人の儒学者・安積艮斎宅に招かれ世界地図を広げ海外知識を説いている。居並ぶ客皆感嘆の声を漏らさない者はなかったが、唯一、林式部(林述斎の三男・鳥居耀蔵の弟)だけは冷笑するばかりであったという(赤井東海『奪紅秘事』)

 

◆江戸湾巡視

 モリソン号に関する審議や『戊戌夢物語』の流布などを経た10か月後、天保9年(1838年)12月に水野忠邦鳥居耀蔵を正使、江川英龍を副使として江戸湾巡視の命を下した。両者は拝命し、打ち合わせを重ねたが鳥居が江川に無断で巡見予定地域を広げるなど当初からいざこざが絶えなかった。

 

 江川は出発にそなえ斎藤弥九郎を通じて渡辺崋山に測量技術者の推薦を依頼し、それに応えて崋山は高野長英の門人である下級幕臣・内田弥太郎奥村喜三郎の名を挙げ、また本岐道平を加わらせた。

 

 一方鳥居の配下には、後に蛮社の獄で手先として活動する小笠原貢蔵がいた。江川は内田の参加が差し障りがないかどうか鳥居と勘定所にただしたところ、問題なしとの返事が来た。

 

 しかし出発前日の天保10年(1839年)1月8日になり、勘定奉行から内田随行不許可の内意が示された。巡見使一行は1月9日に出発したが、江川は内田の参加がなければ測量はできないと判断し、病と称して見分を延期し、勘定所に内田随行の願書を再三提出した。

 

 その結果ようやく21日になり随行が許可されたが、これは鳥居と江川という高官同士の対立を感知していた勘定所が政争に巻き込まれることを恐れたためと言われている。こうして内田と奥村は2月3日になって一行に合流したが、鳥居は今度は奥村の寺侍という身分を問題にし、強引に帰府させた。

 

 鳥居・江川の一行が測量を終えて帰府したのは3月中旬であるが、この頃には鳥居は、崋山が江川と親しく、人材と器具を提供しているばかりか数々の助言を与えていることをつかんでいた。

 

 佐藤一斎の門人で林家に連なる身でありながら蘭学に傾倒した上、友人の儒学者らを蘭学に多数引き入れ、また陪臣の身分で幕府の政策に介入し外国知識を入説しようとする崋山は、林家と幕臣という二重の権威を誇り、身分制度を絶対正義と見なし西洋の文物を嫌悪する鳥居と林一門にとって、決して許容できない存在として憎悪の対象になった。

 

 さらに、折からの社会不安と外警多端によって幕藩体制がゆらぎを見せ始めていることに対する鳥居なりの危機意識、江川に代表される開明派幕臣を排除したい出世欲などが加わり、崋山を槍玉に挙げ連累として開明派を陥れることが、それらの解決策であると彼は考えるようになった。何よりも水野忠邦を首班とする幕閣全体に、『戊戌夢物語』の流布に見られる処士横議の風潮に対する嫌悪感があった。

 

 以上が蛮社の獄発端のあらましで、フィクションにおいてしばしば採用される、測量図製作において鳥居が江川に敗れたのを逆恨みしたためというのは俗説であり、高野長英の獄中手記『蛮社遭厄小記』からとられたものである。長英は鳥居と江川・崋山の根深い対立や、後述する崋山の論文『外国事情書』について知らなかったのである。

 

 以上の通説に対して田中弘之は、前記のとおり林家は蘭学に対しても非常に寛容であったし、鳥居耀蔵も林家よりも幕臣鳥居家の人間としての意識のほうが強かったと指摘している。

 

 江戸湾巡視の際に鳥居と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと鳥居と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、鳥居が失脚する弘化元年(1844年)まで続いている。

 

 江戸湾巡視における両者の対立が決定的なものだったなら、そのようなことはあり得ない。そもそも鳥居と江川は、西洋に対する厳しい警戒心・鎖国厳守・幕府に対する並々ならぬ忠誠心という点では同一であり、江川が海防強化に積極的なのに対して鳥居は消極的という点で異なっているにすぎず、逆に海防論者を装いつつ内心では鎖国の撤廃を望む崋山と江川は同床異夢の関係であった。

 

 江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川を啓蒙しようとしていたのである。また、鳥居は蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めており、蛮社の獄の原因を江戸湾巡視に求めるのは誤りであるとしている。

 

◆事情書三部作

 3月中旬、江戸湾巡視を終えて江戸に帰ってきた江川英龍は、復命書を作成するにあたって渡辺崋山の意見書も幕府に提出する予定であった。10年近くにわたり蘭学の知識を吸収し国防に関して意見を練り上げてきた崋山にとっても、これは幕府中枢に自分の意見を届けることのできるまたとない機会であった。日をおかずに崋山は『初稿西洋事情書』を書きあげたが、これは江川に送ることを断念した。この『初稿西洋事情書』が、2ヵ月後の蛮社の獄で幕政批判の証拠として挙げられ、『慎機論』とともに断罪の根拠とされることになる。

 

 崋山は改めて『再稿西洋事情書』と『諸国建地草図』を脱稿し、3月22日に送付した。だが江川は後者は採用したが、前者は幕政批判の文言が激しいために却下し、書き直しを指示した。江川の希望に従い、崋山は4月23日になり改稿した『外国事情書』を先方に送付した。

 

 『再稿西洋事情書』が幕府の鎖国政策と怠惰性を激しく攻撃し、もっぱら幕政批判に終始しているのに比べ『外国事情書』は分量だけでも『再稿西洋事情書』の3倍近くに達し、海外知識と海防の具体案で占められている。海外知識に関しては最新の資料が活用され、崋山の蘭学研究の集大成であるとともに、論文としても当時の最高水準に達したものであった。

 

 崋山はこの論文を執筆していることを誰にも明かさず、高野長英もその例外ではなかった。蛮社の獄における通説の主要な情報源である長英の『蛮社遭厄小記』において、この『外国事情書』をめぐる動きについて一切触れられていないのはそのためである。

 

 一方、書き直しを繰り返して完成が遅れたために、崋山が江川に『外国事情書』を送付した4月23日には江川はすでに幕府に復命書を提出してしまっていた。江川が幕府に復命書を提出した4月19日は、鳥居耀蔵が配下の小笠原貢蔵らに崋山について内偵を命じた日でもあった。

 

 陪臣の崋山が、幕府の業務たる測量行に、それも蘭学をもって介入したことだけでも不審と不快を覚えていた鳥居の感情は、江川が報告書に崋山作成の『諸国建地草図』を付したことでさらに悪化していた。蛮社の獄の狙いは、大局的には開明派の弾圧であり、直接的には江川を通じての『外国事情書』上申を阻むことにあった。鳥居の視点から見れば、これは西洋による文化侵略から日本を守る崇高な行動であった。

 

 以上の通説に対して田中弘之は、江川が崋山に求めたものは、西洋の危険性を明らかにし日本が早急に海防を強化しなければならない理由を記した西洋事情の概説書であり、一方で崋山は江川からの依頼を好機として江川に鎖国・海防政策の誤りを気づかせようとしたものであるとしている。

 

 崋山の事情書三部作には、イギリス・ロシアなど主要国の大まかな地誌・歴史・社会・軍備等が記されており、特に『初稿西洋事情書』ではそうした概説的記述の他に西洋に対する肯定的紹介、鎖国・海防への婉曲的な批判が巧みに挿入されているが、これは鎖国批判を含む内容が過激すぎたためか江川に送ることを断念し、次に鎖国の撤廃をほのめかした部分などを除いた『再稿西洋事情書』を書いて『諸国建地草図』とともにこれを送った。だがこれも江川の意に添わず書きなおしを求められ、崋山が再度書き直して送ったのが『外国事情書』である。

 

 だがこの『外国事情書』でも西洋への称賛は控えめなものの海防の強化は婉曲に批判しており、これは依頼した江川の意図とは反するため、結局江川は幕府への復命書を書くにあたって『再稿西洋事情書』『外国事情書』を参考にすることはなかった。さすがに江川もこの時点で崋山が海防論者でないことを悟ったのだと思われる。

 

 『外国事情書』の上申を阻むのが蛮社の獄の目的なら、正使の鳥居が部下である副使の江川が提出する報告書や『外国事情書』を却下すれば済むことであり、また開明派・守旧派などの存在も不分明で、そのような説は成立しがたいとしている。

 

◆無人島渡航計画

 無人島である現在の小笠原諸島の存在が日本に知られるようになったのは寛文10年(1670年)のことで、延宝3年(1675年)に幕府は探検船を派遣して調査し領有を宣言した。

 

 当時は長崎に来航する唐船を模して建造されたジャンク様式の航洋船が長崎にたまたま1隻あり、朱印船貿易時代の航海術にくわしい船頭もいたからだが、18世紀にはそのような船や人も失われており、19世紀に入り幕府の外国への警戒が厳しくなって異国船打払令が発令されると、幕府の無人島に対する姿勢も委縮し硬化していった。無人島の正確な位置さえ誰もわからなくなっており、関心も失われて半ば放置されていた。

 

 そのような中、文政10年(1827年)にイギリスの探検船ブロッサム号が父島に来航しイギリス領宣言を行ったが、イギリス政府の正式な承認は得られなかった。天保元年(1830年)には欧米人・ハワイ人など25名が父島に入植している。彼らは島に寄港する捕鯨船に水や食料を売って生活していた。

 

 通説によると、モリソン号事件に象徴される外交問題に頭を悩ませていた幕府にとって、海防と沿岸調査は急務の事案であった。すでに天保9年(1838年)イギリス人の小笠原諸島入植の風説に対応し、幕府は代官・羽倉簡堂を同地の調査に派遣している。また、後に蛮社の獄で連累されることになる下級幕臣・本岐道平が羽倉に同行している。本岐は蘭学に通じた技術者であった。羽倉の友人であった渡辺崋山はこの調査に同行することを藩に願い出て、却下されているとする。

 

 これに対して田中弘之は、羽倉の伊豆諸島巡見は彼の支配地である大島から八丈島までの巡見であり、無人島渡航を命じられた事実はうかがえず、羽倉の無人島渡航は単なる噂に過ぎなかった。当時の和船では八丈島への航海でさえ危険が伴ったのである。

 

 崋山は噂を事実と信じて同行を希望したが、彼は西洋人が小笠原島に定住していることを知っていたようで、西洋に肯定的認識を持っていた崋山はそれゆえに最も身近な西洋とも言える無人島への興味と憧れから無人島渡航への同行を希望したものとみられる。そもそも羽倉と崋山の接点は不明で、もし2人が親密な間柄であったなら、無人島渡航の計画がないことを崋山は知らされていただろうとしている。

 

 また、18世紀末以来、松浦静山『甲子夜話』や本多利明『西域物語』などの書物に桃源郷のような無人島の話が載っており、佐藤信淵『混同秘策』では空想的な無人島開発論が書かれており、無人島の噂は流布していたものとみられる。一方で、異国船打払令を発令していた幕府は、日本人と西洋人の接触を厳しく禁じるとともに、西洋への警戒心の緩んだ日本人への警戒を強めていた。

 

 天保の半ばころ、常陸国無量寿寺の住職・順宣とその子息・順道は林子平の『三国通覧図説』や漂流者の日記などを読んで影響を受けたことから、無人島に関心を持ち、現地への渡航という夢を抱くようになった。旅籠山口屋の後見人・金次郎らもこの計画に関心を持っており、他に蒔絵師・山崎秀三郎、御徒隠居・本岐道平、陪臣医師・阿部友進、御普請役の兄・大塚同庵、元旗本家家臣・斉藤次郎兵衛、後に仲間を裏切って鳥居のスパイとなった下級幕臣・花井虎一らもこの計画に参加していた。

 

 この無人島渡航計画はもちろん幕府の許可を得たうえで実行することになっていたが、資金をはじめ船や食料の調達など具体的なことは何一つ決まっておらず、無人島に関心のある人々が地図や記録類を集めては夢や期待を語りあっていただけであった。

 

〔事件の展開〕

◆鳥居之暗躍

 流布した『戊戌夢物語』は天保10年(1839年)春ごろには老中・水野忠邦にも達したようで、水野は「モリソン」という人物と『夢物語』の著者の探索を鳥居耀蔵に命じた。4月19日、鳥居は配下の小笠原貢蔵・大橋元六らに『夢物語』の著者探索にことよせ、渡辺崋山の近辺について内偵するよう命じた。鳥居はすでに前年から崋山の身辺を探索しており、この機会を利用して「蘭学にして大施主」と噂される崋山の拘引を狙っていたとみられる。10日後の4月29日、小笠原は調査結果を復命した。

 

・イギリス人モリソンの人物について

・『夢物語』は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうという風説

・幡崎鼎の人物像と彼と親しい者の名(松平伊勢守・川路聖謨・羽倉簡堂・江川英龍・内田弥太郎・奥村喜三郎)。また彼らは幡崎が捕らえられてからは崋山・長英と親しくしていること

・崋山の人柄と彼に海外渡航の企てがある旨

 

 これらを述べた後さらに小笠原は、順宣・順道ら常州無量寿寺の人間たちが無人島(小笠原諸島)に渡航しようとしており、さらにアメリカまで行こうとしているという、『夢物語』とは関係なく水野の探索指令にもない一件を加えている。

 

 これら一連の情報を小笠原にもたらしたのは、下級幕臣の花井虎一である。彼は蘭学界に出入りして崋山宅もしばしば訪れており、さらにはそもそも無人島渡航計画にも加わっていた人物であった。鳥居は蛮社の獄の1年も前から花井を使って崋山の内偵を進めており、花井は鳥居一派に完全に取りこまれ、犯罪の既成事実を作るべく崋山と順宣グループそれぞれに渡海をけしかけていた。報告を受けた鳥居は、無量寿寺についてさらなる調査を命じた。

 

 一連の調査の結果、順宣らの計画は幕府に許可の願書を出し済みの合法的なものであることが判明したが、鳥居は、この計画に崋山が関与しさらに単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野に提出した。先年崋山が羽倉の小笠原諸島の調査に同行しようとしたことも、密航の企ての証拠とされた。

 

 なお告発状の大部分は崋山への誣告で占められているが、崋山の同調者として羽倉や江川、見分に同行した内田と奥村ら幕臣の名前が批判的に挙げられている。鳥居の狙いが、崋山の陥れとともに政敵排除と見分に介入されて不快を覚えた私怨を晴らすことにあったということが、ここからもうかがえる。

 

 ちなみに川路聖謨は告発状の中に名を挙げられていない。水野は鳥居の訴状を鵜呑みにはせず、配下の者に再調査を命じた。その結果、俎上にあげられた人間のうち、幕臣(松平伊勢守・羽倉・江川・内田・奥村・下曽根信敦)は皆容疑から外された。

 

 以上の通説に対して田中弘之は、前記の通り鳥居と江川は昵懇の間柄であり、鳥居は崋山の友人に幕府高官もいることを利用して水野に崋山の危険性と影響力の強さを強調しようとしたもので、幕臣を告発する意図は最初からなかったとしている。

 

 また水野が再調査を命じた根拠とされる、鳥居の上書(告発状)以外のもう1通の上書についても、水野の再調査命令による上書ではなく、吟味の過程で鳥居の告発に疑問を抱いた北町奉行所が作成したものだと思われる。もし水野の信任厚い羽倉・江川に疑惑があるなら直接問いただすはずだし、またこの時点で水野が鳥居を全面的に信頼しているのは明らかだとしている。

 

 5月14日に崋山・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。キリストの伝記を翻訳していた小関三英は自らも逮捕を免れぬものと思い込み、5月17日に自宅にて自殺した。高野長英は一時身を隠していたが、5月18日になり自首して出た。これにより、逮捕者は以下の8名となった。

 

・渡辺崋山(田原藩年寄。47歳)

・高野長英(町医。36歳)

・順宣(無量寿寺住職。50歳)

・順道(同上。順宣の息子。25歳)

・山口屋金次郎(旅籠の後見人。39歳)

・山崎秀三郎(蒔絵師。40歳)

・本岐道平(御徒隠居。46歳)

・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣。66歳)

 

 なお、崋山拘引の直後、水野は「登(崋山)事夢物語一件にてはこれ無く、全く無人島渡海一件の魁首なり」と断言しており、『夢物語』よりも無人島渡海を重要視している姿勢がうかがえる。

 

◆吟味

 召喚された面々に対し、北町奉行・大草高好によって吟味が開始された。鳥居耀蔵の告発状をもとに大草が尋問したところ、海外渡航の企てなどはすべて事実無根であり、さらに花井虎一が渡辺崋山に海外渡航をけしかけたこと、また崋山は順宣らグループとは無関係である一方、グループのメンバー斎藤次郎兵衛を花井が一度だけ崋山宅に連れて来たことがある旨を崋山は返答した。

 

 この日の時点で、大草は崋山に「その方、意趣遺恨にても受け候者これありや」と問うている。翌15日の吟味では、順宣グループと崋山の突き合わせ吟味が行われた。大草の尋問に対し順宣父子は、崋山という人物は名前も知らないこと、また告発状の中では具体的な渡航計画が述べられているが、これは花井が順宣らにこの通りにするようせかしてきたが、幕府の許可が降りていないために断った旨を述べた。

 

 また他のメンバーも崋山と渡航計画が無関係であるとの証言をし、崋山の嫌疑は晴れたかに見えた。しかしその間も、崋山の自宅から押収された文書類の検査は続けられていた。5月17日、鳥居は江川英龍に手紙を送った。「先月提出された報告書には外国事情を記した文書も付する予定だったそうだが、それがなかったのはいかなるわけか。速やかに提出されたし」という文面は、『初稿西洋事情書』を家宅捜索によって確保したことからくる皮肉と嘲笑だった。江川は鳥居の意図を察し、『外国事情書』の上申を断念せざるをえなかった。

 

 5月22日に、奉行所で吟味が再開された。崋山の逮捕後鳥居がさらに提出した告発状に記された、大塩平八郎との通謀容疑・下級幕臣の大塚同庵に不審の儀があることについても事実無根が明らかになっていたが、無罪の者を捕らえたとなっては幕府の沽券に関わるので、奉行所は糺明する容疑を海外渡航から幕政批判に切り替えた。

 

 崋山の書類の中から『慎機論』『初稿西洋事情書』の二冊が取り出され、その中に幕政批判の言辞があることが問題とされた。崋山はそれらの文章が書き殴りの乱稿であり、そのような文字の片言隻句を取り出して断罪する非を言いつのったが、聞き入れられなかった。

 

 老中水野忠邦が、幕臣は容疑から外したものの処士横議の風潮を嫌い、崋山や長英の逮捕を是としていた以上幕閣の空気は有罪論に傾いていかざるをえなかった。崋山は取り調べが続く中も、『初稿西洋事情書』を発展させて『慎機論』としたとの虚偽の答弁をした。

 

 『初稿西洋事情書』『外国事情書』と無関係とすることで、江川の『外国事情書』上申に支障が出ないようにと考えたのだが、江川は前述の通りすでに上申を諦め、5月25日に、崋山の文書を参照した外国に関するごく簡略な短文を提出している。

 

 以上の通説における『外国事情書』の上申の部分について、田中弘之は事情書三部作の節に記されているとおり、最初から上申は意図されておらず、また江川の意にも沿わない書であったため江川の復命書にも全く反映されなかったとしている。なお北町奉行の大草は、花井の偽証や鳥居の捏造と吟味介入に不信感を抱き、崋山らに同情的だった。

 

 吟味自体は6月16日に終了した。長英を含む他の逮捕者全員は、有罪を認め口書に書判した。崋山一人が抵抗していたために判決が下りないでいたが、有罪を認める口書についに彼が書判させられたのは、7月24日のことだった。崋山の書判により裁判は一応の結審を見、量刑を決める段階に入った。

 

◆救援活動

 渡辺崋山の交際は幅広く、幕府・大藩の高官から知識人に至るまで多岐に及んでいたが、彼が逮捕されるや高官や儒学者らは、松崎慊堂とその弟子・小田切要助と海野予介を除けば、こぞって崋山との無関係を強調することに務めた。

 

 投獄された崋山の救援のために立ち上がり、奔走したのは、身分が低く新知識にも無縁な絵の弟子や友人達であった。救援活動の中枢をになったのは、崋山の画弟子の椿椿山である。また同じ崋山門下の一木平蔵・小田甫川・斎藤香玉、画友の立原杏所・高久靄厓・多胡逸斎ら、田原家中で崋山の義父でもある和田伝・小寺大八郎・金子武四郎らが、主な活動者であった。崋山投獄のニュースが伝わると彼らは乏しい家計の中からやりくりして獄中の崋山と牢役人に差し入れと付け届けをし、崋山は早くも5月21日には牢内で牢隠居の座につくことができた。

 

 獄中における崋山の安全をとりあえず確保した後、彼らはそれぞれの縁故を頼って要路へのわたりをつけ、崋山の出獄・減刑のために活動した。その動きのうち主立ったものは、以下のごとくである。

 

1)当時の老中と町奉行へのつて。

 松崎慊堂・海野予介を通じて太田資始へ。

 小田切要助(水野の侍講)を通じて水野忠邦へ。

 龍野藩士某を通じて脇坂安董(龍野藩主)へ。

 

 下曽根信敦を通じて下曽根の実父・南町奉行の筒井政憲を介し吟味担当者の北町奉行・大草高好へ、それぞれ影響を与えるべく尽力した。鳥居耀蔵の告発状にも名前を挙げられた下曽根は、旗本でありながら西洋砲術の研究家だった。

 

2)田原藩側用人の八木仙右衛門が田原藩主三宅康直を動かし、崋山赦免のために働きかけてくれるよう水戸藩主徳川斉昭に対し陳情させる案が練られたが、これは実現を見なかった。

 

3)椿山のいとこ・椿蓼村が、つてをたどり塙次郎を介して大草高好に請願した。また蓼村は崋山の儒学の師の佐藤一斎ならびに林家の門も訪ね、彼らの様子を報告した。一斎は崋山救援のために動くことはなかったし、林家は崋山が逮捕されるや、間髪を入れず門人名簿から崋山の名を削ってしまっていた。

 

4)画弟子の斎藤香玉は、姉婿で幕臣の松田甚兵衛を通じ、将軍徳川家斉の愛妾お美代の方の養父中野碩翁に働きかける用意をした。しかし崋山は大奥の力で助かることをよしとせず、主君三宅公の安危に関わる場合の非常手段に留めるよう獄中から指示している。

 

 また香玉の父・斎藤市之進は寛永寺領代官を務めていた関係で、寛永寺の宮に幕府に声をかけさせるよう働く作戦もたてられたが、これは崋山の死罪が決定的になった場合にのみ頼るべきものとして同じく実行は見送られた。

 

5)水戸藩士立原杏所を中心とする、菊池淡雅・安西雲烟・高久靄厓といった風雅の友や下野の文人らが、共通の友人である崋山のために多額のカンパをした。杏所は洋学にも関心をもっていて高野長英とも親しく、処分は所払い程度であろうと獄中で楽観した長英が、その場合には水戸付近に住居を世話してくれるよう手紙で頼んだ相手はこの杏所である。

 

 その他多数の人間達が、崋山救援のためにわずかなつてを頼って町奉行や奉行所役人に陳情や接触をこころみた。また、当時出府中であった佐久間象山が獄中の崋山に励ましの手紙を送ったことは、崋山が書簡中で特筆している。

 

 もっとも、権力を恐れてこれまでの言動を翻した者の方がはるかに多かった。当時の江戸では新知識と開明性を尊ぶ気運が高まり、崋山の元には多くの儒学者・名士高官が集まっていたが、獄が始まると彼らは皆一様に崋山や洋学との無関係を喧伝した。文雅の友の中でも、八徳を説いた『南総里見八犬伝』の著者曲亭馬琴は救援のために動くことはなかった。

 

 また「幕末の三筆」として書道史に名高い市河米庵は崋山に肖像画を描かせるほど親しかったが、ある書画会で「崋山などという人間はまったく知らぬ」と言い放ち、その場にいた人間に「ではあなたの肖像画を描いたのはどなたでしたかな」と切りかえされたという。

 

 奔走した中でもっとも名高いのは、やはり松崎慊堂であろう。慊堂はもとは林家の門人だった。25歳下の鳥居耀蔵とも、彼が子供の頃から今に至るまで親密な交際があった。蛮社の獄は慊堂にとって、崋山の逮捕と鳥居の陰謀の噂によって二重に心を痛めさせる出来事であった。慊堂の日記『慊堂日歴』には、鳥居の潔白を信じようとする心情がつづられている。

 

 7月24日に至って崋山は、奉行所作成の口書に書判させられた。この口書は末尾に「別して不届」という語句が入っており、当時の慣習ではこれは死罪を免れないことを意味した。この口書の内容を知った松崎慊堂は崋山の死罪を予想して愕然とし、病をおして、崋山の人柄の高潔さと、政治批判を断罪するべきではない旨を訴える長文の嘆願書を書き上げ、浄書して29日に小田切要助を介して水野忠邦に提出させた。北町奉行所が口書に基づき作成して幕閣に提出していた、崋山斬罪の伺書が差し戻しになったのは8月3日のことであった。

 

 もともと当時の老中4名のうち太田資始・脇坂安董が崋山に同情的であった上に、慊堂の尽瘁をおもんぱかった水野の意向が加わり、12月18日に崋山に対し在所蟄居の判決が下された。

 

◆判決とその後

12月18日に言い渡された判決は、次の通りである。  

・渡辺崋山 - 幕政批判のかどで、田原で蟄居。

 

・高野長英 - 永牢(終身刑)。

 

・山口屋金次郎 - 永牢。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。

 

・山崎秀三郎 - 江戸払い。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。

 

・斉藤次郎兵衛 - 永牢。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。

 

・順道 - 未決。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。

 

・順宣 - 僧籍の身で投機にはしったかどで押込。

 

・阿部友進 - 獄開始後、渡航グループに接触した容疑で奉行所に召喚された、崋山の友人であり医者である同人も、無人島開発計画を吹聴し、山口屋に鉄砲を渡す相談に乗ったかどで100日押込。

 

・本岐道平 - 無断で鉄砲を作成したかどで100日押込。

大塚同庵 - 山口屋金次郎に鉄砲を渡したかどで100日押込。

 

・鈴木孫介 - 蛮社の獄に直接関係なかったが、崋山に貸した大塩平八郎の書簡を焼却したことが不埒として押込。

 

 無人島渡海について、拷問で獄死した町人たちと同罪と見られる罪状がありながら、幕臣・陪臣はそれぞれ別件で「押込」という軽い処罰で済まされているが、その理由として田中弘之は、蛮社の獄は「幕府が緩み始めた鎖国の排外的閉鎖性の引き締めを図った事件」であって、罪状の有無よりも西洋・西洋人への警戒心の風化を戒める一罰百戒としてみせしめ的厳罰という要素が強かったため幕臣は除かれ町人たちだけが冤罪の犠牲にされた。

 

 鳥居耀蔵が『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた事件であるとの説を提示している。

 

 その後崋山は判決翌年の1月に田原に護送され、当地で暮らし始めたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)10月11日に自刃した。享年49。

 

 長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄した。蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡したが、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害された。享年47。

 

 本岐道平は獄中生活で体を壊したためか、出獄後まもなく死亡。順宣は無量寿寺に戻り、慶応3年(1867年)2月15日、77歳で死亡。

 

 花井虎一は誣告の罪で重追放にされるべきところ、犯罪の摘発に寄与した功績が認められて無構え。その後花井は、翌年の4月6日に昌平黌勤番に抜擢されている。昌平黌は林家の所管であり、この異例の昇進には水野忠邦の内意も働いていた。その後花井は小笠原貢蔵の養女をめとり、長崎奉行付与力に昇進した。義父となった小笠原とともに長崎に赴任し、鳥居耀蔵による高島秋帆の陥れにも一役買ったという(ただしこれも鳥居によるものではなく、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中・水野によって行われたものとする説もある)。  

追記:2023.6.4


(参考2)幕末の英傑(安政の大獄)


(引用:Wikipedia)

 安政の大獄は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行った弾圧。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。

 

 幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。

 

 弾圧されたのは尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。形式上は13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が全ての命令を発したとされており、家定の台命として行なわれたのは家定死去の直前である7月5日、尾張藩主・徳川慶勝や福井藩主・松平慶永、水戸藩の徳川斉昭・慶篤父子一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間に限られる。

 

〔経緯〕

  江戸時代後期の日本には、外国船が相次いで来航した。清朝がアヘン戦争に敗れると、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題が議論される。老中・阿部正弘が幕政改革を行ない、黒船来航後の安政元年(1854年)にアメリカ合衆国と日米和親条約を、ロシア帝国と日露和親条約を締結した。

 

 黒船が来航した嘉永6年(1853年)には、12代将軍・徳川家慶が死去し、13代将軍に家慶の四男・徳川家定が就任するが、病弱で男子を儲ける見込みがなかったので将軍継嗣問題が起こった。前水戸藩主・徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し対立した。

 

 その頃、米国総領事タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約への調印を幕府に迫っていた。この時、幕府は諸大名に条約締結・調印をどうしたらよいか意見を聞いていた。そして、条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、幕府も承認した。このため、勅許を受けに老中・堀田正睦が京に上った。当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることはできなかった。

 

 正睦が空しく江戸へ戻った直後の安政5年(1858年)4月、南紀派の井伊直弼が大老に就任する。直弼は、無勅許の条約調印家茂の将軍継嗣指名を断行した。徳川斉昭は、一旦は謹慎していたものの復帰、藩政を指揮して長男である藩主・徳川慶篤を動かし、尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永らと連合した。

 

 6月24日、慶永は彦根藩邸を訪れて登城前の直弼に違勅調印を詰問し、さらに将軍継嗣の発表を延期するよう要求した。直弼は自身の袂をつかんで引き止めようとする慶永を振り切り江戸城に登城した。この後、慶永は後を追うように江戸城に登城した。また斉昭父子と慶勝は直弼以下幕閣を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)を冒した。直弼は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居・謹慎などに処した。これが安政の大獄の始まりである。

 

 一橋派であった薩摩藩主・島津斉彬は直弼に反発し藩兵5000人を率いて上洛して朝廷を守護した上で、違勅を正して一橋派の復権を指示する勅諚を得て、幕府と対峙することを計画したが、同年7月に鹿児島で出兵の調練中の水当りが原因で急死、出兵・勅諚計画は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父・島津斉興が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。

 

 8月には、薩摩藩と協働して朝廷工作を行なっていた水戸藩及び長州藩に対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白・九条尚忠が辞職に追い込まれた。

 

 このため9月に老中・間部詮勝、京都所司代・酒井忠義らが上洛し、中心人物と目された梅田雲浜他、近藤茂左衛門橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという弾圧が始まった。

 

 京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、評定所などで詮議を受けた後、死罪、遠島など酷刑に処せられた。幕閣でも川路聖謨岩瀬忠震らの非門閥の開明派幕臣が謹慎などの処分となった。この時、寛典論を退けて厳刑に処すことを決したのは井伊直弼と言われる。

 

 安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において直弼が殺害された後、弾圧は収束する。

 

 文久2年(1862年)5月、勅命を受け慶喜将軍後見職に、松平春嶽(慶永)政事総裁職に就任する。慶喜と春嶽は、直弼が行なった大獄は甚だ専断であったとして、

 

・井伊家に対し10万石削減の追罰

・弾圧の取調べをした者の処罰

・大獄で幽閉されていた者の釈放

 

 桜田門外の変坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦を行なった。幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行なわれ、将軍・家茂と皇女・和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。

 

 安政の大獄は、幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き諸藩の幕府への信頼を大きく低下させることとなり、反幕派による尊攘活動を激化させ、江戸幕府滅亡の遠因になったとも言われている。

 

〔受刑者〕

 ◆死刑・獄死

・安島帯刀………水戸藩家老、切腹

・鵜飼吉左衛門…水戸藩京都留守居役、斬罪

 

・鵜飼幸吉………水戸藩京都留守居役助役、獄門

・茅根伊予之介…水戸藩奥右筆、斬罪

 

・梅田雲浜………元小浜藩士、獄死

・飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来、斬罪

 

・頼三樹三郎……京都町儒者、斬罪

橋本左内………越前福井藩松平春嶽家臣、斬罪

 

吉田松陰………長州藩毛利敬親家臣、斬罪

・日下部伊三治…薩摩藩士、獄死

 

・藤井尚弼………西園寺家家臣、獄死

・信海……………僧侶、月照の弟、獄死

 

・近藤正慎………清水寺成就院坊、獄死

・中井数馬………与力、獄死

 

◆隠居・謹慎

一橋慶喜………一橋徳川家当主(徳川慶喜)

松平春嶽………福井藩主

 

・徳川慶勝………尾張藩主

・伊達宗城………宇和島藩主

山内容堂………土佐藩主

 

・堀田正睦………佐倉藩主・老中

・本郷泰固………川成島藩主・若年寄(1万石から5千石へ減封、川成島藩は改易)

 

◆隠居・差控

・鵜殿鳩翁………駿府奉行

・川路聖謨………江戸城西丸留守居

・土岐頼旨………大目付・海防掛

・石河政平………一橋徳川家家老

 

◆御役御免・差控など

徳川慶篤………水戸藩主(9月30日に免除)

・太田資始………前掛川藩主・老中

 

・松平忠固………上田藩主・老中

・板倉勝静………備中松山藩主・寺社奉行

 

・中山信宝………水戸藩家老(9月27日に免除)

・黒川雅敬………一橋徳川家家臣

 

・佐々木顕発……勘定奉行

・浅野長祚………京都町奉行、小普請奉行

 

・高須鉄次郎……外国奉行支配調役

・大久保忠寛……江戸城西丸留守居

 

・岩瀬忠震………作事奉行

・永井尚志………軍艦奉行 

 

◆永蟄居

・徳川斉昭………前水戸藩主

 

◆譴責

・松平頼胤………高松藩主

・松平頼誠………守山藩主

・松平頼縄………常陸府中藩主

 

◆その他:細部略

・甲府勝手・遠島・重追放・中追放・所払・永押込・国許永押込・押込・急度叱り置き

・手鎖

 

捕縛前に死去:略

 

◆朝廷への処分:略

 

(追記2023.6.4)


(参考3)幕末の英傑(江川英龍)


(引用:Wikipedia)

 江川 英龍(えがわ ひでたつ)(1801年6月23日-1855年3月4日)は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん / たんなん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。

 

 日本列島周辺に欧米列強の船舶がしきりに出没するようになった時代において、洋学とりわけ近代的な海防の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方の一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。

 

 また兵糧として西洋式のパンを焼いたことから、現代では「パン祖(そ)」とも呼ばれる。

 

〔生涯〕

 江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事した。英龍はその36代目の当主に当たる。文政4年(1821年)、兄・英虎の死去により英毅の嫡子となる。文政7年(1824年)、代官見習の申し渡しを受ける。天保6年(1835年)、父・英毅の死去に伴い34歳で代官となる。

 

 代官となる前の英龍は多くの士と交友し、例えば岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回るなどしている。

 

 甲斐国(現在の山梨県)では天保7年(1836年)8月に一国規模の天保騒動(※1)が発生し、騒動では多くの無宿(博徒)が参加していた。江川は騒動が幕領が多い武蔵国や相模国へ波及することを警戒し、8月に伊豆・駿河国の廻村から韮山代官所へ帰還して騒動の発生を知ると、斎藤弥九郎を伴い正体を隠して甲斐へ向かう(甲州微行)。江川は同年9月3日に甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると韮山へ帰還した。その後も弥九郎との関係は終生続いた。

 

※1 天保騒動

 江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。

 

 父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られ、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。英龍は自身や自身の役所、支配地の村々まで積極的な倹約を実施した。

 

 一方で、殖産のための貸付、飢饉の際の施しは積極的に行い領民の信頼を得た。また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。現在に至っても彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っている事が伺われる。

 

◆ 海防に強い問題意識を抱く

 江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、ときには薪水を求める事態も起こっていた。幕府は異国船打払令(※2)を制定、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っており、天保8年(1837年)、米国の商船を打ち払うモリソン号事件(※3)が発生した。

 

※2 異国船打払令

 江戸幕府が1825年(文政8年)に発した外国船追放令である。無二念打払令外国船打払令文政の打払令とも言う。1842年(天保13年)に「薪水給与令(天保の薪水給与令)」が発令されると廃止された。

 

 1808年10月に起きたフェートン号事件、1824年の大津浜事件宝島事件を受けて発令されたと言われている。

 

 フェートン号事件大津浜事件との間においてイギリスは熱心に開国を試みた。1816年には琉球に通商を請い、1817年から1822年まで浦賀に何度も船をよこしていた。

 

 打払令が出された1825年は、イングランド銀行からヨーロッパを巻き込む恐慌(Panic of 1825)が起こった。この3年後にはシーボルト事件が起きた。

 

 日本の沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃し、追い返した。また、上陸外国人については逮捕又は処罰を命じている。

 

※3 モリソン号事件

 しかし、日本人漂流漁民音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を送り届けてきたアメリカ合衆国商船モリソン号をイギリスの軍艦と誤認して砲撃したモリソン号事件は日本人にも批判された。また、日本では大国と認識されていた清がアヘン戦争で惨敗した事実により、幕府は西洋の軍事力の強大さを認識し、1842年には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという「薪水給与令」を出して、文化の薪水給与令の水準に戻すことになった。

 

 阿部正弘の政権の下では外国船の出没が頻繁になったため、打払令の復活の可否が議論された。しかし、沿岸警備の不十分さを理由に打払令の復活は撤回された。

 

 英龍自身は早くから蘭学者幡崎鼎の教えを受けており、天保8年正月には海防に関する建議を行っている。天保9年(1838年)12月には目付の鳥居耀蔵を正使、江川英龍を副使として、江戸湾(現在の東京湾)防備強化のための備場巡検が行われることとなった。

 

 巡検自体は元々相模一帯が範囲だったが、鳥居が内密に巡検範囲を安房国(現在の千葉県南部)や伊豆国まで広げる、英龍の測量士解雇を求めるなど鳥居と英龍の間に争いが起こった。

 

 また、測量終了後、渡辺崋山に江戸湾防備に関する復命書の草案を依頼するが、後述の蛮社の獄に影響され崋山の案文が採用されることはなく、英龍の報告は穏健なものにならざるを得なかった。

 

 こうした時期に川路聖謨羽倉簡堂の紹介で英龍は渡辺崋山高野長英尚歯会(※4)の人物を知る事になる。崋山らはモリソン号の船名から当該船は英国要人が乗っている船であるとの事実誤認を犯していたが、それだけに危機意識は一層高いものとなり、海防問題を改革する必要性を主張した。

 

※4 尚歯会 

 江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)。

 

 構成員は高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成された。

 

 当初は天保の大飢饉などの相次ぐ飢饉対策を講ずるために結成されたといわれる。従来の通説では西洋の学問を中心にした集まりとされたが、主宰の泰通は儒学者であり、蘭学に限らない、より幅の広い集団であったようである。

 

 鎖国下の当時、西洋の学問を学ぶことはある程度容認されていたが、幕府によって制限が設けられていた。そのため表向きには「歯を大切にする」という意味の「尚歯」を会の名前に使い、尚歯会と名乗って高齢の隠居者・知恵者やそれを慕う者の集まりとした。

 

 尚歯会で議論される内容は当時の蘭学の主流であった医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたった。一時は老中・水野忠邦もこの集団に注目し、西洋対策に知恵を借りようと試みていた。

 

 しかしこれが災いして、幕府内の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった鳥居耀蔵によって長英は投獄、崋山は禁固(蟄居)となり、三英も逮捕をおそれて自殺した(蛮社の獄。蛮社とは尚歯会の蔑称である)

 

 近年までは江戸時代における一大思想弾圧事件として取り扱われていたが、上述のように実態は鳥居による政敵とみなされた者への排除のための冤罪事件といえるというのが通説である。

 

 これに対して、尚歯会の会員で蛮社の獄で断罪されたのは崋山と長英のみであり、その容疑も海外渡航や幕政批判・処士横議で、会の主宰であった遠藤をはじめ他の関係者は処罰されておらず、尚歯会は弾圧されていないことを指摘する説がある。

 

 尚歯会の実態には不明な点も少なくないが、藤田東湖や松崎慊堂も会員であった一方で江川や川路は尚歯会の会員ではなく、水野が尚歯会に力を借りようとしたこともない。

 

 蛮社の獄は、緩み始めた鎖国の排外的閉鎖性の引き締めを幕府が図った事件であるとの説が提示されている。 

 

 ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりであった。尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。そうした中で英龍と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。

 

 しかし、幕府内の蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とした。特に耀蔵からすれば過去に英龍と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された事があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして彼のブレーンとなっていた崋山らが気に入らなかった。

 

 天保10年(1839年)、ついに耀蔵は冤罪をでっち上げ、崋山・長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった(蛮社の獄(後述))。しかし英龍は彼を高く評価する忠邦に庇われ、罪に落とされなかったというのが通説である。

 

 これに対して、英龍と長英は面識がなく、また崋山と簡堂の接点も不明で、崋山と秋帆も面識はなかったとの指摘がある。崋山・長英らはいずれも内心では鎖国の撤廃を望んでいたが、幕府の鎖国政策を批判する危険性を考えて崋山は海防論者を装っていた。田原藩の海防も助郷返上運動のための理由づけとして利用されただけだった。

 

 海防論者である英龍は崋山を海防論者と思って接触し、逆に崋山はそれを利用して英龍に海防主義の誤りを啓蒙しようとしたもので、やがて英龍も崋山が期待したような海防論者ではないことを悟ったと思われる。

 

 また、江戸湾巡視の際に耀蔵と英龍の間に対立があったのは確かだが、もともと耀蔵と英龍は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵が失脚する弘化元年(1844年)まで続いている。蛮社の獄に際しても耀蔵は英龍を標的とはしておらず、英龍は蛮社の獄とは無関係だとしている。なお、尚歯会の会員で処罰を受けたのは崋山と長英のみで、尚歯会自体は弾圧を受けていない。

 

西洋流砲術を導入する

 その後、英龍は長崎に赴いて高島秋帆に弟子入りし(同門に下曽根信敦がいた)、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。これが実現し、英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められる。

 

 以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、「江川塾」を江戸に開き、全国の藩士にこれを教育した。佐久間象山大鳥圭介橋本左内桂小五郎(後の木戸孝允)黒田清隆大山巌伊東祐亨などが彼の下で学んでいる。

 

 天保14年(1843年)水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、嘉永6年(1853年)ペリー来航直後に勘定吟味役格に登用され、正弘の命で品川台場(お台場)を築造した。銃砲製作のため湯島大小砲鋳立場を設立し、後の関口製造所の原型となっている。こうした武器製造に欠かせない鉄鋼を得るため反射炉の建造に取り組み、息子の代で完成している(韮山反射炉)

 

 だが、正弘は海防強化には終始消極的で、忠邦が罷免され正弘が老中として実権を握ると、海防強化策は撤回され英龍も鉄砲方を解任されているとの指摘もある。品川沖台場の築造も翌嘉永7年(1854年)に日米和親条約が調印されると、11基のうち5基が完成しただけで工事の中止が決定されている。

 

 造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア帝国使節プチャーチン一行への対処の差配に加え、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図したが、あまりの激務に体調を崩し、安政2年(1855年)1月16日に本所南割下水(現在の東京都墨田区亀沢1丁目)にあった江戸屋敷にて病死。享年55(満53歳没)

 

 跡を継いだ長男・英敏が文久3年(1863年)に農兵軍の編成に成功した。また、英敏の跡を継いだ英武(英龍の5男)は廃藩置県後、韮山県県令となった。娘の英子は木戸孝允の養女となって河瀬真孝に嫁ぎ、外交官夫人として夫を支えた。

 

〔人物〕

 学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊谷文晁、剣術を岡田吉利(初代岡田十松)に学ぶなど、当時最高の教育を受けている。特に剣術は、神道無念流免許皆伝で岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられ、同門で後に代官所手代となる斎藤弥九郎は、江戸三剣客の1人にも数えられている。その他、蘭学、砲術などを学んだ。絵画ははじめ大国士豊に学び、後に谷文晁に就いて学び直し、さらに同門の渡辺崋山に師事する事を望んだが謝絶された。

 

 国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目して兵糧パン(堅パンに近いもの)を焼いた人物である。日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれており、江川家の地元伊豆の国市では「パン祖のパン祭り」が例年開催されている。パンは最初、1543年に種子島に来たポルトガル船による鉄砲伝来と伴うもので、その後のキリスト教宣教師の布教活動とともにパン食の普及も始まり、織田信長が食べたという記述も残っているが、キリシタン弾圧(禁教令)や鎖国によってしばらく途絶えていた。

 

 刀剣制作は庄司直胤に学び、呑んだ暮れで破門された同門の小駒宗太胤直を引き取って韮山邸内で向鎚を打たせた。

 

 英龍の薫陶を受けた手代(補佐官)達も学問に秀でた優秀な人材達であり、その一方で関東一円を荒らす無宿との闘争においては白刃の下に己の身を潜らせて心胆を練っている。

 

 英龍は屋敷近隣の金谷村の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされる。今でも日本中で使われる「気をつけ」「右向け右」「回れ右」といった号令・掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族の石井修三に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものである。

 

 伊豆の国市韮山に建つ静岡県立韮山高等学校の学祖とされる(参考:静岡県立韮山高等学校)

 

 戦国時代から江戸時代初期にかけて江川家では日本酒が醸造されていた。これが「江川酒」である。 鎌倉時代や室町時代、京において造り酒屋が隆盛しており、京の以外の地方でも他所酒(よそざけ)として日本酒が盛んに造られていた。地酒のはしりである。

 

 江川酒は当時、田舎酒の五大銘酒として知られ徳川家康にも献上された。近年、地元酒販店の店主らが「現代の最高の技術と原料で江川酒を復活させよう。」と地元の技術を結集し、この幻の銘酒が現代に復活した。現在、大吟醸「江川酒・担庵」、純米酒「江川酒・韮山」として伊豆の国市ら地元の酒販店で販売されているが、醸造量は極めて少ない。

 

 江川家の支配地域には武蔵国多摩も入っており、英龍が佐藤彦五郎のような在地の有力な名主たちと共に農兵政策自警活動を勧めた為に、多摩の流派である天然理心流を学ぶものが増えそれが後の新撰組結成に繋がった。新撰組副長・土方歳三は義兄である佐藤彦五郎を通じて英龍の農兵構想を学んでいたと言われ、身分を問わない実力主義の新撰組は英龍の近代的な農兵構想の成果ともいえる。

 

 林業にも精通しており、高尾山にスギの植樹を行っている。英龍が植えたスギは、平成21年(2009年)時点で樹齢147年に達しており、高尾山で最も古い部類の人工林(江川スギ)となっている。

 

 第13代将軍徳川家定の御前でペリー献上の蒸気機関車を初めて運転したとも言われる。

 

 福澤諭吉が『福翁自伝』で英雄として取り上げており、江川家の江戸屋敷(芝新銭座の旧大小砲習練場、後に江川氏塾となる)が幕府瓦解後、柏木忠俊の配慮で福澤に払い下げられて慶應義塾舎となり、門は韮山高校に運んで今の表門となっている。

 

 開国前に海防論を唱えた高島秋帆佐久間象山は、後にその誤りに気付いて開国・通商論に転じたが、英龍は死ぬまで頑迷な海防論者だった。 

追記:2023.6.4追記


(参考4)幕末の英傑(吉田松陰)


(引用:Wikipedia)

吉田松陰像(山口県文書館蔵)

 

 吉田 松陰(文政13年8月4日〈1830年9月20日〉- 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。

 

〔生涯〕

 文政13年8月4日(1830年9月20日)、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。

 

 9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。

 

 松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」「神国由来」、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた。

 

 嘉永3年(1850年)9月、九州の平戸藩に遊学し、葉山左内(1796-1864)のもとで修練した。葉山左内は海防論者として有名で、『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)が軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を紊乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張し、民政・内治に努めるべきだと主張していた。

 

 松蔭は葉山左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けた。

 

 ついで、松蔭は江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎、山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学んでいる[5]。

 

 嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学した。

 

 秋田では相馬大作事件の現場を訪ね(盛岡藩南部家の治世を酷評している)、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。 山鹿流古学者との交流を求め訪問した米沢では、「米沢領内においては教育がいき届き、関所通過も宿泊も容易だった。領民は温かい気持ちで接し、無人の販売所(棒杭商)まである。さすがに御家柄だ」と驚いている。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

 

 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。このとき、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには「聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。そのときにこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた。

 

 その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦したことから同艦が予定を繰り上げて出航していたために果たせなかった。

 1853年旧暦8月に、藩主に意見書「将及私言」を提出し、諸侯が一致して幕府を助け、外寇に対処することを説いた。

 

 嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、3月27日渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された(下田渡海事件)

 

 幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固、老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった(9月18日)

 

 長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚された。ここで富永有隣、高須久子と知り合い、彼らを含め11名の同囚のために『論語』『孟子』を講じ、それがもととなって『講孟余話』が成立することになる。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

 

 安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。安政3年8月22日(1856年9月20日)、禁固中の杉家において「武教全書」の講義を開始した。

 

 安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった(山縣有朋、桂小五郎は松陰が明倫館時代の弟子であり、松下村塾には入塾していない)

 

 なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。

 

 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。

 

 松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。

 

 松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

 

 

 安政6年(1859年)梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。

 

 評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年30。

 

〔思想〕

●一君万民論

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」ということは、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。

 

●飛耳長目

 塾生には、常に情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた。これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。

 

●草莽崛起

 「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。

 

 安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

 

●対外思想 

 『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は清領だった満洲や台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。

 

 その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。 

 

〇吉田松陰に影響を与えた中国の思想家

●魏源

 清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。

 

●王陽明

 松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。

 

●文天祥

 南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった。

追記:令和5年11月30日 


(参考5)幕末の英傑(橋本左内)


(引用:Wikipedia)

引用:Wikipedia

福井市立郷土歴史博物館蔵(島田墨仙作)

 

  橋本 左内は、日本の武士(福井藩士)、志士、思想家。号は景岳、黎園(れいえん)。諱は綱紀(つなのり)。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。安政の大獄で25歳で死罪となった。

 

〔生涯〕

 1834年4月19日(天保5年3月11日)、福井藩奥外科医で二十五石五人扶持の橋本長綱の長男として越前国常磐町に生まれる。母は小林静境の娘。弟にのち陸軍軍医総監・子爵となった橋本綱常がいる。桃井氏一族の桃井直常の後胤と称した。直常の子孫が母姓を冒して橋本姓に改姓したという。

 

 嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事する(適塾時代に、福沢諭吉が左内を尾行したという話があるが、左内と福沢諭吉は同時期に適塾に在籍しておらず、フィクションである)

 

 嘉永5年(1852年)19歳の春に父・長綱が病気のため大坂での勉強を打ち切って帰藩し、代診に従事して患者の治療に励んだ。11月に父が病死すると、藩医(表医師外科)の列に加えられた。

 

 安政元年(1854年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく坪井の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。

 

 窮迫した時勢に接するうちに、医学を離れたい心をおこした左内は、中根雪江鈴木主税の尽力によって安政2年(1855年)に藩医職を解かれ、御書院番に転じた。

 

 やがて福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、安政4年(1857年)正月藩校・明道館御用掛り・学監同様となる。在任中は、明道館内に洋書習学所(洋学所)惣武芸稽古所等を設けた。同8月、江戸詰めを命じられ、侍読兼御内用係を務め、藩主の側近として藩の政治、国の政治に大きな関わりを持つようになった。

 

 14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した。またロシアとの同盟を提唱し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。

 

 安政5年(1858年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられた。取り調べの際「私心でやったのではなく藩主の命令である」と主張したことが、井伊の癪に障ったらしく(当時は藩主をかばうのが当然という朱子学たる武士の倫理があった)、遠島で済む刑罰が重くなり安政6年10月7日(1859年11月1日)、伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年26(25歳没)。本人も死罪は予想しておらず、最後はその無念さから泣きじゃくりながら死んでいったと伝わる。

 

 墓は福井市の善慶寺に隣接する左内公園と、長州の吉田松陰などとともに南千住の回向院にもある。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。1891年(明治24年)、贈正四位。 

 

〔思想〕

 7歳で漢籍・詩文と書道を、8歳で漢学を学び、生涯を通じて学問武道に励んだ。 左内が15歳の時に著した『啓発録』に、後年、序文を記した矢嶋皞によれば、当時の橋本左内は、学友が激論しているときも常にうつむいて行儀よく座り、皆の話を黙って聞いているような少年で、自分の学才を表に出さず、沈思黙考しているような人物だった。

 

 『啓発録』は、左内がそれまでの生き方を省み、その後の生き方の指針として5項目を定め、著したものとされる。下記はその概要である。

 

1)去稚心(稚心を去る。) : 目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心や親への甘えは、学問の上達を妨げ、武士としての気概をもてないので、捨て去るべき。

 

2)振気(気を振う。) : 人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する。

 

3)立志(志を立てる。) : 自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。

 

4)勉学(学に勉む。) : すぐれた人物の素行を見倣い、自らも実行する。また、学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、自らの才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう、自らも用心し慎むとともに、それを指摘してくれる良い友人を選ぶよう心掛ける。

 

5)択交友(交友を択ぶ。) : 同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。益友には、次の5つを目安とする。

・厳格で意思が強く、正しい人であるか。

・温和で人情に篤く、誠実な人であるか

・勇気があり、果断な人であるか。

・才知が冴えわたっているか。

・細かいことに拘らず、度量が広い人であるか。

 

〔積極国防及び日露同盟論を提唱〕

 (出典:『大東亜戦争の実相』(P42)瀬島龍三著 PHP研究所)

 また思想家として吉田松陰と並び称される橋本左内も積極国防及び日露同盟論を提唱して、次のような趣旨を述べております。

 

「日本は東海の一小国であり、現在のままでは四辺にせまる外来の圧力に抗して独立を維持することは難しい。速やかに海外に押し出し、朝鮮、シベリア、満州はもとより、遠く南洋、インド、さらにアメリカ大陸にもで属領を持って、初めて独立国としての実力を備えることが出来る。そのためには露国と同盟を結んで、英国を抑えるのが最善の道である。正面の敵は英国であるがもとより今すぐ戦えというのではない。日本の現状では、それは不可能である。英国と一戦を交える前に、国内の大改革を行い、露国と米国から人を雇い、産業を興し、海軍と陸軍の大拡張を行わねばならない」(※)

というのであります。

 

 後年日本は日英同盟又は日露協商のいずれかを択ぶべきかに直面するのでありますが、つとに半世紀前に橋本左内によって論じられていたのであります。

 

 吉田松陰、橋本左内は共に、若くして刑死しましたが、やがて明治維新革命の主流として活躍し、引き続き明治時代の日本の指導的地位にあった人々に対し、強烈な思想的影響を与えたのでありました。

 

 この両人の構想は、一見帝国主義的な東亜経略案であるようにも見えますが、私はその基調は露英仏米等欧米列強の極東進出に対する防衛策であり、日本の独立を確保するための国防論であったと考えます。

 

 かくて明治維新後における日本の国是は、「開国進取」の一事にありました。「富国強兵」なるスローガンも指摘されますが、それは明治維新前から封建諸侯が競って採用した政策の名残というべきでありましょう。

 

※出典:林房雄著『大東亜戦争肯定論』30頁掲載、番町書房発行、昭和39年(1964年)8月

 

〔同時代の評価〕

西郷吉之助「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」

吉田松陰「左内と半面の識なきを嘆ず」

横井小楠「彼を以て鼂錯に似たり」

武田耕雲斎「東湖の後又東湖あり」

川路聖謨

 

 *「扨又た橋本左内へは初めて対面仕候が、未だ壮年に見え候に、議論の正確、驚入り候事共にて、餘に辨晰、刀もて切られぬ迄の事に候ひて、かばかり押つめられ、迷惑に侍りし事は覚え候はず」

 

 *「備中殿(堀田)笑い給ひて、左衛門(川路)が申せしは、左内は二十四五ばかり、六七にはなる間敷き若者なるに、辨論、才知、天晴なる事共にて殆ど辟易せる由、越公にはよき家来を持たれたりと、殊の外賞嘆しおれり」

 

坪井信良「…就中今度福井藩中橋本左内と申者来り申候、年甫て二十一才、頗る沈才篤厚、誠に頼母敷人物、国公にも殊の外秘蔵の才子にて、小子迄別段心附教授可致との命も御坐候、先年大坂にて一年、纔一年才の修行なれども、当時拙塾頭栗山立孝と頗る頡頏、無程飛物に候事と珍喜仕候、小子も年来逢人千百人、如斯人は初てなり、実に可畏可羨一俊才に御坐候」 

 

〔関連史跡〕

◆左内公園

 左内の遺骸は当初、小塚原の回向院に埋葬されたが、1863年(文久3年)5月、福井相生町(現在の福井県福井市左内町)の菩提寺善慶寺(日蓮宗)に改葬された。 墓所は善慶寺の境内にあったが、1945年(昭和20年)、空襲により善慶寺が焼失。善慶寺は妙経寺に併合した。この一帯は終戦後の都市計画で児童公園として整備された。

 

◆銅像など

銅像(大正14年建設、昭和7年除幕式)

 最初の橋本左内像(大塚楽堂 作)は1925年(大正14年)12月24日、大野郡上庄村出身の松浦操が発起人となり、福井市役所の許諾を得て、足羽公園天魔ヶ池の側に建てられた。除幕式は1932年(昭和7年)10月23日、足羽山公園三段広場で行われたとある。台座正面「橋本景岳先生像」の文字は、元帥東郷平八郎の揮毫によるもの。像高は7尺5寸(227cm)あったが、実際の身長は150cm程度であったといわれている。なお、この像は1944年(昭和19年)の戦争中に銅の回収のため撤去された。

 

・銅像(昭和38年建設)

 1963年(昭和38年)10月7日に左内公園に橋本左内銅像が建てられた。

 

橋本左内石像

 鯖江市惜陰小学校の校門脇に1943年(昭和18年)住民から寄贈された石像がある。左内の姉が鯖江藩士木内左織に嫁いでおり、左内と鯖江に何らかのかかわりがあったためとされる。 

追記:2023.6.4


(3)幕藩体制から大政奉還


1)公武合体と大政奉還論

・江戸時代、徳川将軍は日本の統治者として君臨していたが、形式的には朝廷より将軍宣下があり、幕府が政治の大権を天皇から預かっているという大政委任論も広く受け入れられていた。

 

・幕末、主に開国・通商条約締結問題を巡り国論が分裂すると、それは幕府・朝廷間の意見の不一致により幕府権力の正統性が脅かされるという形で表面化してきたことから、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上してきた。

 

・1858年に戊午の密勅(※)が幕府を介さず水戸藩に直接下賜されたことに始まり、ついには朝廷が幕政改革や攘夷の実行を要求するなどの事態に直面した幕府は、朝廷と幕府の一致、すなわち公武合体の一環として大政委任の再確認・制度化を朝廷に要求するようになった。

 

・文久3(1863年)3月・翌元治元年4月にそれぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現し、究極的には幕府の命令すなわち朝廷の命令となす(「政令一途」)ことによる、幕府権力の再強化が目指されたのである。

 

※ 戊午の密勅

・戊午の密勅は、1858年9月14日(安政5年8月8日)に孝明天皇が水戸藩に勅書(勅諚)を下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の裁可)を経ないままの下賜であったことによる。

 

・密勅は関白九条尚忠の目を避け、8月7日深更、万里小路正房より水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門知信に下ったが、吉左衛門の持病が悪化していたため子の幸吉知明が代わりに受領、小瀬伝左衛門と変名し、東海道を潜行(副使の薩摩藩士・日下部伊三次は中山道より下行)、16日深夜に水戸藩家老安島帯刀を介して水戸藩主徳川慶篤にもたらされた。

 

・これに先立ち、薩摩藩士西郷吉之助が安島へ水戸内勅の打診をしたところ、安島は藩状の混乱により遠慮の意向を示しており、京へ帰った西郷と入れ違いの勅諚拝受に安島は驚愕したという。幕府には10日に禁裏付の大久保一翁を通じて伝えられたが、江戸より水戸に先着することを図っての時期であった。水戸藩以外の御三家、御三卿などには秘匿されていたが、写しは関白以外の摂家を通じて縁家の大名に送付された。

 

・勅許の内容は、

①勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。

②御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。

③上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書。

以上の3つに要約することができる。

 

・将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。

 

・とりわけ、鵜飼吉左衛門から安島帯刀宛への書簡には、井伊暗殺の秘事(薩摩藩から兵200から300人が上京し、彦根城を落城させるというもので、伊地知正治からの伝聞とされる)が記されていたとされ(長野主膳から井伊へ宛てた手紙に記載があるのみ)、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。

 

・当時の水戸藩 状況は、もともと前藩主の斉昭が藩主に就任した時以来、水戸藩では斉昭に忠実な天狗党と幕府との関係を重視する諸生党の対立が激しかったが、密勅の対応を巡ってさらに確執を深めることとなった。密勅の返納に反対する藩士は城下を離れ、街道を封鎖して脱藩、後に井伊の襲撃を計画した。

 

公武合体は、幕府側にとっては、日米修好通商条約の調印を巡って分裂した朝廷・幕府関係の修復を図り、幕府の権威を回復するための対応策として推進された。

 

・尊王の立場から朝廷と幕府の君臣間の名分を正すことで反幕府勢力による批判を回避する一方、既に慣例化していた大政委任論を朝幕間で再確認し、改めて制度化することにより、幕府権力の再編強化が目指された。

 

・この公武合体政策を単なる名目に終わらせず、具体的にその成果を国内にアピールするため推進されたのが、将軍・徳川家茂に対する皇妹・和宮の降嫁策であった。

 

・一方で、松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った横井小楠や、大久保一翁・勝海舟ら開明的な幕臣などによって、大政奉還論(大政返上論)が早くから提唱されていた。

 

・越前藩の松平慶永(春嶽)、薩摩藩の島津斉彬・久光ら公武合体派と呼ばれる諸大名からは、朝幕の連携に加え、外様藩をも含めた有力諸藩が力を合わせて挙国一致の体制を築くことが主張された。

 

・これは従来の譜代大名が就任する老中制に変革を迫るものであり、保守的な幕閣との摩擦は避けられないものであったばかりか、幕府中心の公武合体政策とも次第に齟齬をきたした。

 

・彼らは通商条約の異勅調印には批判的であったものの、開国・通商容認論が大勢を占めており、戦争も辞さぬ破約攘夷を唱える尊王攘夷急進派と鋭く対立した。

 

・しかし幕府は朝廷の攘夷要求と妥協しつつもあくまで公武合体を推進したので、これらの主張が現実化することはなかった。

 

2)土佐藩による大政奉還建白

・雄藩の政治参加を伴う公武合体を構想していた薩摩藩は、参預会議(1864年)の崩壊により一橋慶喜(当時将軍後見職)や幕閣との対立を深め、また切り札と考えた四侯会議(1867年)でも15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、長州藩とともに武力倒幕路線に傾斜していった。

 

・このような状況の中、土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張した。

 

・これに薩摩藩の小松清廉らも同意し、6月22日薩土盟約が締結された。これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。

 

・大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否することを見越し、これを討幕の口実にすることにあったといわれる。そのため、盟約には土佐藩の上京出兵将軍職の廃止を建白書に明記することが約束された。

 

・後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、山内容堂(前土佐藩主)は大政奉還を藩論とすることには同意したものの、上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。

 

・薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。

 

・10月3日、土佐藩は単独で大政奉還の建白書を藩主・山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。

 

3)大政奉還の成立

・慶応3年10月の徳川慶喜による大政奉還は、それまでの朝幕の交渉によって再確認された「大政」を朝廷に返上するものであり、江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件であった。しかし、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していた。

 

・土佐藩の建白を受け、10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問した。

 

・10月14日(11月9日)「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌10月15日(11月10日)に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定した。慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立した。

 

 

・大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、上表は薩摩藩らの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は武家の棟梁としての地位を失っていなかった。討幕の密勅の下賜(後述)以降、薩摩藩・長州藩は大規模な軍事動員を開始し、この動きを制するため慶喜は10月24日に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る。

 

・幕府は、朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えていたといわれる。

 

・見通しの通り、朝廷からは上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされた。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになった。

 

・実際に朝廷は外交に関しては全く為す術が無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府であった。

 

・朝廷は慶喜に当分の間引き続き庶政を委任し、諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関し何ら主体的な意思決定ができぬまま事態は推移した。

 

・11月中に上京した有力大名は薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみで、土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく12月8日であった(王政復古クーデターが勃発するのはその翌日である)。 

 

・この間、土佐藩は坂本龍馬を越前藩に派遣するなど、公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。

 

・他方、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らにの間には大政奉還が薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。

 

4)倒幕派の対応

・慶喜は10月24日に将軍職辞職も朝廷に申し出るが辞職が勅許され、幕府の廃止が公式に宣言されるのは12月9日の王政復古の大号令においてである。

 

・大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにあった。しかし大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、薩摩藩を中核とする討幕派による朝廷クーデターが起こったのである。

 

・大政奉還上表の同日(10月14日)、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡された。この密勅には天皇による日付や裁可の記入がないなど、詔書の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであった。

 

・大政奉還が行われた時点においては、岩倉ら倒幕派公家は朝廷内の主導権を掌握していなかった。前年12月の孝明天皇崩御を受け、1月9日に践祚した明治天皇は満15歳と若年で、親幕府派である関白・二条斉敬(慶喜の従兄)が摂政に就任した。一方、三条実美ら親長州の急進派公家は文久3年八月十八日の政変以来、京から追放されたままであった。

 

・つまりこの時期の朝廷は、二条摂政や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)ら親幕府派の上級公家によってなお主導されていたのであり、さきの討幕の密勅は、徳川慶喜の大政奉還を想定した上で、主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側の非常手段として画策されたものである。

 

・このような朝廷の下では、大政奉還後の新政権も慶喜が主導するものになることが当然予想された。薩長や岩倉らが実権を掌握するためには、武力蜂起により親幕府派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して体制を刷新し、慶喜には辞官・納地(旧幕府領の返上)を求めて新政権の中枢から排除することが必要となった。

 

・密勅に基づく討幕の実行は大政奉還の成立に伴い延期となるが、薩摩・長州・芸州の3藩は再び出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで12月9日の王政復古へと向かっていくことになった。

 

5)大政奉還後の国家構想

大政奉還上表(※)の前日の10月13日、徳川慶喜は開成所教授職を務めた幕臣の西周に対し、英国の議院制度等に関して諮問を行っている。大政奉還成立後の11月、西は意見書として「議題草案」を慶喜側近の平山敬忠に提出している(他にも慶喜周辺に存在した構想として、津田真道の「日本国総制度」(同年9月)などが知られている)

 

・西はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。西洋の官制に倣う三権分立が形式的にではあるが取り入れられ、行政権を公府が(暫定的に司法権を兼ねる)、立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。

 

・公府の元首は「大君」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、上院議長を兼ね、下院の解散権を持つものとされていた。軍事については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。

 

・その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった。

 

・また、11月27日、永井尚志(幕府若年寄格)は後藤象二郎に対し、慶喜には将来的に郡県制を施行する構想があることを伝えている。

 

大政奉還上表の内容

(原文)臣慶喜謹テ皇国時運之改革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト不少、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候、況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候、臣慶喜国家ニ所尽、是ニ不過奉存候、乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸侯江相達置候、依之此段謹テ奏聞仕候 

 以上 — 大政奉還上表文(部分)

 

(現代語訳)陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて、朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元の乱・平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。以上、本件について謹んで奏上いたします。

 

〔参考〕

 戦前には、天皇に関する行事は11月10日に実施される事が多かった。例えば昭和天皇の即位の礼(西暦1928年)や皇紀2600年式典(西暦1940年)は、いずれもこの日に実施された。これは大政奉還を勅許して政権が天皇に復した日が11月10日である事に因んでいる。 


(4)明治維新


1)王政復古の大号令(1868年)

・慶応3年12月9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた尾張藩・土佐藩・薩摩藩・越前藩・安芸藩の5藩兵が京都御所9門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、驚いた二条摂政や朝彦親王などにも参内を禁止した。

 

・そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、新政府の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた。その上で、改めて開催された三職会議(小御所会議)でいわゆる「王政復古の大号令」(※)を審議、決定した。その内容は以下のとおりである。

 

王政復古の大号令

「徳川内府(内大臣徳川慶喜)、従前御委任の大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然聞こしめされ候。抑癸丑(1853年)以来未曾有の国難、先帝(孝明天皇)頻年宸襟を悩ませられ御次第、衆庶の知る所に候。之に依り叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今、摂関幕府等廃絶、即今まず仮に総裁・議定・参与の三職を置かれ、万機行なわせらるべく、諸事神武創業の始にもとづき、縉紳武弁堂上地下の別無く、至当の公議を竭し、天下と休戚を同じく遊ばさるべき叡慮に付き、おのおの勉励、旧来驕懦の汚習を洗い、尽忠報国の誠を以て奉公致すべく候事 — 王政復古の大号令(部分)」

 

・大号令を要約すると次のとおりである。

①将軍職辞職を勅許 

②京都守護職・京都所司代の廃止 

③江戸幕府の廃止 

④摂政・関白の廃止 

⑤新たに総裁・議定・参与の三職をおく。 

 

・この宣言は、12月14日に諸大名に、16日に庶民に布告された。

・徳川慶喜の将軍辞職を勅許し、京畿における幕府方として朝廷と連携してきた会津藩・桑名藩を追うことで、慶喜が主導する公武合体の新政府を阻止する一方で、王政に「復古」するといいながらも、従来からの摂政・関白以下の朝廷の機構を廃止して五摂家を頂点とする公家社会の秩序をも解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、岩倉ら一部の倒幕派公家と5藩(さらには長州藩)の有力者が主導する新政府の樹立を宣言するものであった。

 

・なお、この三職制度は翌・慶応4年閏4月の政体書にて廃止され、太政官制度に移行した。 

 

2)五箇条の御誓文(明治維新の理念)(1868)

2.1)公布の経緯

・王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政を基本とし、諸外国に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。要約すると、合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。

 

・なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。

 

・その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。

 

2.2)御誓文には勅語と奉答書

御誓文(※)の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った5つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。また、奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。

 

※御誓文

 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

 一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 

〇勅語

(現代表記)「我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの趣旨に基き協心努力せよ。年号月日 御諱」

 

(意味)「我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。」

 

〇奉答書

(現代表記)「勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。」

(意味)「天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。」

 

・これら御誓文の内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。

 

2.3)億兆安撫国威宣揚の御宸翰

・五箇条の御誓文が皇祖神に対して誓ったものであるのに対して、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」(※)は、明治元年3月14日(1868年4月6日)、御誓文の宣言に際して明治天皇が臣下と国民に賜ったおことばであり、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。

 

注:「億兆」とは国民全体のことであり、天皇は「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」と述べて政治への決意と責任感を示した。

 

※億兆安撫国威宣揚の御宸翰

『中世以来、表面には朝廷を尊んで、実は敬して遠ざけていたため、君主と臣下の間は遠く隔たってしまったが、それでは君臨の意味がない。このたび朝政を一新するにあたり、国民の中に一人でもそのところを得ないものがあれば、それはすべて私、天皇に責任があるのだから、骨を折り心を苦しめて善政をおこなおうと思う。お前たちはよくよくこの方針を理解し、私見を捨てて公のことを考え、天皇を助けて、国家をまもり、皇祖皇宗の神霊を慰めよ。』

 

2.4)儀式と布告

・御誓文は明治天皇の勅命によって、3月13日に天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫され、翌3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿で行われた天神地祇御誓祭という儀式において示された。天神地祇御誓祭の前には、天皇の書簡である御宸翰が披瀝されている。

 

・同日正午、在京の公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。

 

・議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。

 

・その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。

 

2.5)政体書体制での御誓文

・慶応4年 (明治元年) 閏4月に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、劈頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。

 

・政体書は、アメリカ憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。

 

・このほか、同年4月12日の布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。

 

・また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年8月の「奥羽士民に対する告諭」は御誓文の第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。

 

2.6)御誓文の復活

・その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。

 

・明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。

 

・この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。

 

・明治8年(1875年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。

 

3)五榜の掲示

五榜の掲示(※)とは、五箇条の御誓文を公布した翌日(3月15日)、幕府の高札が撤去され、太政官が辻々に立てた五つの高札である。太政官(明治政府)が民衆に対して出した最初の禁止令である。

・五箇条の御誓文は、天皇が神明に誓う形式で表明した施政方針であり、公卿や大名に示され、都市で発売されていた太政官日誌に布告されるのみであったのに対して、五榜の掲示は、全ての国民を対象に、全国各地の高札場で掲示され、周知徹底された。

 

※五榜の掲示

 ◆第一札 : 五倫道徳遵守

 ◆第二札 : 徒党・強訴・逃散禁止、

 ◆第三札 : 切支丹・邪宗門厳禁

 ◆第四札 : 万国公法履行

 ◆第五札 : 郷村脱走禁止

 

・五榜の掲示の内容は、君主や家長に対する忠義の遵守、集団で謀議を計ることの禁止、キリスト教信仰の禁止など、江戸幕府の政策を継承するものとなっている。

 

・その一方で、同時に旧幕府時代の高札の廃棄も命じているところから、新政府の権威とその支配圏を象徴するものであった。

 

・そのため、新政府に敵対していた奥羽越列藩同盟に加盟する藩では、五榜の掲示は立てられず、あるいは新政府との開戦と同時に破棄されている。また、その他の佐幕派の大名・旗本領でも掲示されていない。

 

4)明治維新以後の水戸学

・幕末水戸藩は、天狗党の筑波山挙兵(天狗党の乱)をはじめとして、他藩と比肩出来ないほどの多くの犠牲者を出した。徳川御三家であるにもかかわらず、尊皇の旗を掲げそのさきがけを担ったことは、藩の分裂ともなり、水戸藩の悲劇でもあった。

 

・しかし、水戸の犠牲の上に明治維新が成り、また徳川慶喜の水戸学に基づく恭順により幕府対薩長という西洋列強の傀儡戦争をも避けたことは、日本の歴史上特筆されることである。後に乃木希典陸軍大将は、明治天皇崩御後、当時の皇太子裕仁親王に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している。

 

・明治維新後、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに、多くの人々に讃えられたが、最も心を尽くしたのは明治天皇である。天皇は、光圀・斉昭に正一位の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常磐神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社に列した。

 

・また、明治39年に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた史書保存のための費用を下賜し、それによって彰考館文庫が建造された。・さらに、大日本史編纂の功績により水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。

 

・現在、水戸学は、茨城県水戸市にある水戸史学会によって研究されている。 


(5)祭政一致による天皇親政へ


 1)経緯

・明治維新後、平田篤胤の思想に共鳴した平田派の神道家たち、また津和野藩出身の国学者たちは、明治維新の精神を神武創業の精神に基づくものとし、近代日本を王政復古による祭政一致の国家とすることを提唱していたが、王政復古の大号令には王政復古と神武創業の語が見え、従来理想として唱えられていた王政復古と「諸事神武創業ノ始ニ原」くことが、実際の国家創生に際して現実性を帯び、「万機御一新」のスローガンとして公的な意義を持つようになったのであった。

 

・明治政府は、新政府樹立の基本精神である祭政一致の実現と、開国以来の治安問題(浦上村事件(※)など)に発展していたキリスト教流入の防禦のため、律令制の崩壊以降衰えていた神祇官を復興させ、中世以来神仏習合等により混沌とした様相を見せていた神道の組織整備をおこなった。

 

※浦上村事件

・「浦上四番崩れ」は、長崎県で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件のことであり、浦上地区で起こった隠れキリシタンへの4度目の弾圧という意味である。

 

・1867年(慶応3年)、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。

 

・江戸幕府のキリスト教禁止政策をひきついだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされたが、このことは諸外国の激しい非難を受けた。

 

・欧米へ赴いた遣欧使節団一行がキリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、1873年(明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、1614年(慶長19年)以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。

 

・ちなみに、「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。これより前にも「天草崩れ」「大村崩れ」など、江戸時代中期には各地でキリシタンが発見され、処刑される事件が起こっている。

 

2)国家神道の宗教性と教義

 2.1)非宗教説

・神道は「国家の宗祀」であって、いわゆる「宗教」ではないというのが政府当局の見解であった。また、政府は、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないというのが公式見解であった。行政上も明治33年に内務省社寺局から「神社局」と「宗教局」に分離され、その後、宗教局は文部省に移管するなど、神道とその他諸宗教は明確に区分された。

 

・そもそも「神道」とは、人で在る為の道である「人道」と呼応する言葉であり、神で在る為の道(惟神〔かんながら〕の道)である。「道」とは道理や倫理等、物事や人などの在るべき在り方を意味している。一神教の絶対神崇拝を中心とした宗教観とは、趣を異にする。

 

・明治時代、天皇をトップとした社会構築にあたり、国民の精神的支柱として神道を中心とした精神性が見直され、国家形態として採用された。五箇条の御誓文にもその精神と倫理が採用されているが、宗教性は特に見られない。

 

2.2)宗教説

〇「菱木政晴」説

・世界には言語による教義表現を軽視する宗教もあり、比較宗教学や文化人類学の成果をもちいることによって困難なく抽出可能であるとして以下のようにまとめている。

 

聖戦- 自国の戦闘行為は常に正しく、それに参加することは崇高な義務である。

英霊- 聖戦に従事して戦死すれば神になる。そのために死んだ者を祀る。

顕彰 - 英霊を模範とし、それに倣って後に続け。

 

 そして、「顕彰教義に埋め込まれた侵略への動員という政治目的を、聖戦教義・英霊教義の宗教的トリックで粉飾するもの」と指摘している。

 

・また、国家神道の教義の中心を「天皇現人神思想」や「万世一系思想」とする意見もある。

 

「柳川啓一」説

・「国家神道は明確な教義を有していた」として以下の4点をあげている。

①天皇は神話的祖先である天照大神から万世一系の血統をつぐ神の子孫であり、自ら現御神である。

 

②『古事記』、『日本書紀』の神話の国土の形成、天壌無窮の神勅にみえるように、日本は特別に神の保護を受けた神国である。

 

③世界を救済するのは日本の使命。他国への進出は聖戦として意味づけられた。

 

④道徳の面においては、天皇は親であり、臣民は子であるから、天皇への忠は孝ともなるという忠孝一本説。

 

3)主要政策及び制度

・万世一系の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い紐帯があることを前提に、全国の神社は神祇官の元に組織化され、神仏分離、神社合祀、民間信仰禁止等の諸制度が整備され、橿原神宮(神武天皇)、平安神宮(桓武天皇)、明治神宮(明治天皇)などの天皇や皇族を祀る神社や湊川神社(楠木正成)、四條畷神社(楠木正行)などの功績のある人物を祀る神社(建武中興15社など)が数多く造営された。

 

3.1)神仏分離

・神仏分離は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏分離令(※)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。

 

※神仏分離令

正式には神仏判然令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称。

 

・神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院の腐敗に苦しめられていた民衆がこれに加わった。腐敗の例として、戒名代が少ないことを理由に、僧侶から破門を仄めかされる(破門されると切支丹と見做される)

 

・政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となった。

 

3.2)神社合祀

・神社合祀とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の境内社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

 

3.3)民間信仰禁止政策

・明治初期において、神霊の憑依やそれによって託宣を得る行為、性神信仰などが低俗なものや迷信として否定され、多くの民俗行事が禁止された。そのため、出雲神道系などの信仰が偏狭な解釈により大きく後退した。

 

・また、神社の祭神も、その土地で古来から祀られていた神々ではなく、『古事記』、『日本書紀』などの皇統譜につながる神々に変更されたものが多い。そのため、地域での伝承が途絶えた場合にはその神社の古来の祭神が不明になってしまっている場合がある。

 

3.4)人物の顕彰のための神社造営

・明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。

 

・これに伴い、明治2年の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社(※)の創建・再興や贈位などが行われるようになった。

 

※「建武中興十五社」

・建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。これらの神社は「建武中興十五社会」を結成している。後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであった。これは、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武の中興に関った人々を祀る神社がその縁地などに作られた。

 

吉野神宮(後醍醐天皇)、鎌倉宮(護良親王)、井伊谷宮(宗良親王)、八代宮(懐良親王)、金崎宮(尊良親王・恒良親王)、小御門神社(藤原師賢公)、菊池神社(菊池武時公・菊池武重公・菊池武光公)、湊川神社(楠木正成公)、名和神社(名和長年公)、阿部野神社(北畠親房公・北畠顕家公)、藤島神社(新田義貞公)、結城神社(結城宗広公)、霊山神社(北畠親房公・北畠顕家公・北畠顕信公・北畠守親公)、四條畷神社(楠木正行公)、北畠神社(北畠顕能公・北畠親房公・北畠顯家公)

 

4)天皇の神格性と「現人神」

・古来より天皇の神格性は多岐に渡って主張されるところであったが、明治維新以前の尊皇攘夷・倒幕運動と相まって、古事記・日本書紀等の記述を根拠とする天皇の神格性は、現人神として言説化された。

 

・また、福羽美静ら津和野派国学者が構想していた祭政一致の具現化の過程では、天皇が「神道を司る一種の教主的な存在」としても位置づけられた。

 

・幕府と朝廷の両立体制は近代国家としての日本を創成していくには不都合であったが故の倒幕運動であり、天皇を中心とする強力な君主国家を築いていきたい明治新政府の意向とも一致したため、万世一系の天皇を祭政の両面でこれの頂点とする思想が形成されていった。

 

4.1)三条ノ教則

・具体的な国民教導に失敗した宣教使が廃止された後、神仏儒合同でおこなわれた教部省による国民教導では「三条ノ教則」が設定された。

 

・その内容は、

①敬神愛国の旨を体すべきこと

②天地人道を明らかにすべきこと

③皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと

であった。

 

・この「三条ノ教則」を巡る解説書は仮名垣魯文『三則教の棲道』(1873年)など多数が出された。これらのなかには「神孫だから現人神と称し奉る」とする例が複数存在した。

 

4.2)国体の本義

 ・また、教部省廃止以降もその思想的展開として、東京帝国大学で宗教学を講じた加藤玄智は『我が国体の本義』(1912年)で「現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身である」と述べている。

 

・憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉の「皇道概説」(1913年「国家学会雑誌」27巻1号)は「概念上神とすべきは唯一天皇」などと述べ、これは昭和初期には陸軍における正統憲法学説となっていった。

 

・陸軍中将石原莞爾は『最終戦争論・戦争史大観』(原型は1929年7月の中国の長春での「講話要領」)のなかで「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。

 

・最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と極論を展開するなど、昭和維新運動以後の軍国主義の台頭によって、天皇の威を借りた軍部による政治介入が頻発した。満州事変はこの石原の最終戦争論にもとづいて始められた。

 

4.3)神国・現人神

〇神国

・神国とは、「神の国」を意味する語であるが、「神である天皇が治める国」あるいは「神々の宿る国」という意味合いの語である。神州ともいう。

 

・天照大神の末裔である天皇が現人神として君臨し、万世一系と天照大神の神勅のもとに永久に統治を行い、これを支え続けてきた皇室、更にこれに臣属した諸神の末裔である国民との緊密な結合と全ての政治は神事をもって第一とする理念によって、神の加護が永遠に約束される、そういう国家を指している。

 

・かつて、日本の国家と国土はこの神国思想に基づいて神々によって作られて守られてきたものであるとされてきた。本来は農業国が持つ農耕儀礼に基づく信仰に由来するものであったが、後に選民意識と結びつき、更には国粋主義・排外主義・覇権主義・軍国主義的な思想へと転化していった。特に太平洋戦争敗北までは、対外戦争毎に強調され、国家神道を支えた。

 

・明治維新により天皇が政権を奪還すると、国家神道が国教とされ、国家神道を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びついた。日本の帝国主義・軍国主義路線の膨張、植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行った。

 

・日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、ミッドウェー海戦で大敗してからも「神州不滅」の主張の元に玉砕・神風特攻隊・本土決戦論などの、“臣民全て滅びようとも天皇一族だけは厳然と残らねば・残されねばならない、そして最後には日本が勝つのだ”という思想が横行し、多くの生命が失われた。大戦末期、例え敗北が目に見えても、民衆の中には“いずれ神風が吹いて、敵艦隊をまとめて沈めてくれる”と本気で考えていた者が多くいたという。

 

〇現人神

・現人神は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。現御神、現神、明神とも言う(読みは全て「あきつみかみ」)。荒人神とも書く。「人間でありながら、同時に神である」という語義でも用い、主に第二次世界大戦終結まで天皇を指す語として用いられた。後述する「人間宣言」では「現御神」の語を使用している。

 

・その成立にあたって王政復古の形式をとった明治新政府は、大日本帝国憲法第3条において「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めるように、神格化された天皇を国民統合の精神的中核とする国家体制を形成した。

 

・第二次世界大戦での敗戦後、天皇のいわゆる「人間宣言」によってその神格性が「架空のもの」であると念押し的な意味合いで言及されたため、公の場で「現人神」と言う呼称を用いられる事は無くなった。

 

・ただし、このような詔書解釈に右翼・保守派・宗教者の一部は疑義を抱き、現在でも天皇を「現人神」として神聖視している者もいる。それは日本の近代化の道筋が、古事記から目覚め国学に発展し、明治維新に連なり、大東亜戦争が終わっても、その政体骨格の損傷を最小限に抑えた先人により今がある。

 

・それを直視した上での大人の議論があるべきであるが、それぞれは枝葉抹消に分解する意図の議論により日本という国柄の要諦に文化的空白領域が広がりつつある。だからといって伊勢を中心とする国家神道では伝統の全体像は見えないし、最も重要な出雲の古代を解析する学者が頼りないといった現実がある。


(6)明治新政府の文教政策


 1)明治維新と教育の基本方針(学制の発布)

1.1)維新政府の教育の基本方針

・幕府が滅亡し、王政復古の宣言のもとに成立した新政府は、一面では「復古」、他面では「改革」の両面の性格と課題をもち、世界の大勢に即応する近代国家を目ざして新しい体制の整備を急いだ。新政府の基本方針は、慶応4年(1868)3月の「五ケ条ノ御誓文」によって明らかにされたが、それは同時に維新政府の教育の基本方針を示すものでもあった。

 

・その各条はいずれもその後展開される新政府の教育政策と深い関連をもっていた。特に第5条には「智識ヲ世界ニ求メ大二皇基ヲ振起スヘシ」とあり、欧米の近代文化を導入し、わが国教育の近代化を進める方針が明らかにされているが、同時にそれは「大ニ皇基ヲ振起」することを最高目標とするものであった。

 

・また第3条に「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス」とあることは、指導層のみならず国民一般の教育組織を、構想企画する政策に連なるものであったといえよう。

 

・維新政府は、当時の文明開化の思潮を背景として積極的に国民を啓蒙し、これを近代国家の組織の下に編成して国家の富強を図る立場をとった。そのため政府が教育方針を立て全国の教育を統轄し、国民一般への教育の普及を図ろうとしたのである。

 

1.2)学制の発布

・そこで新政府は、まず欧米文化の導入および指導者養成の機関として大学の創設を企画し、また直接新政府が管轄する府県について、国民一般のための小学校を開設しようとした。

 

・しかし、維新直後は諸藩がそれぞれ独自に教育を行なっており、廃藩置県によって新政府が全国の教育を統轄するまでは、全国的規模の教育方針および教育制度を確立することはできなかった。 

 

・その間新政府の内部において、また諸藩においても、しばしば復古的傾向と革新的要素が交錯して複雑な様相を呈しつつ、新しい時代の教育を模索していた。

 

・新政府は、明治4年廃藩置県後まもなく文部省を設置した。そこで全国の教育をすべて文部省が統轄することとなった。文部省は、翌5年に「学制」を発布し、ここにはじめて近代学校制度の成立を見たのであり、これによって新政府の教育の基本方針が明確にされた。

 

1.3)国民教化の政策(祭政一致)

・明治新政府は神祇祭祀等を掌る官職として明治元年太政官に神祇官をおいたが、2年7月の官制改定では神祇官を太政官の上におき、また「宣教使」をおいて皇道思想に基づく国民教化運動を掌らせることとした。

 

・3年1月「大教宣布の詔」が発せられ、「祭政一致」の基本理念のもとに、「宣教使」をおいて「惟神の大道」を宣布する国民教化運動が展開されることとなったが、その実績は必ずしも振わなかった。

 

・この大教宣布運動は、王政復古に際して皇国思想を唱道した国学者の皇道主義の思想及びその献策によるところが大きかった。また明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の運動と深い関連をもっていた。

 

・明治4年8月神祇官は神祇省に改められたが、5年3月にはこれを廃止して教部省がおかれた。教部省の設置によって祭祀と宣教(教化活動)は分離され、祭祀は式部寮に移され、教部省はもっぱら教化活動を行なうこととなったのである。

 

・神祇省の廃止とともに宣教使も廃止されたが、翌4月には「教導職」がおかれた。教導職には全国の神官・僧侶を任命し、国民教化活動を担当させることとした。

・また同時に、国民教化の基本目標すなわち教化の内容を示して教導職の心得とするために、三条教憲(※)(三条の教則)が定められた。それは、次の玉条であった。

 

※三条教憲

 一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキコト。

 一、天理人道ヲ明ラカニスベキコト。

 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守スベキコト。

 

・これによって神官とともに仏教の僧侶も国民教化活動に参加することとなったのである。時代の動きとも関連して教導職による国民教化活動は十分な成果を収めることができなかった。

 

・それは以上のように、明治初年には皇道主義に基づく国民教化の政策が展開された。しかし他方では、文明開化の思潮がしだいに隆盛となり、新政府もまたこれを基本とするようになった。

 

・そこで皇道主義の国民教化運動は、明治5年ごろを境として急速に衰え、国民教化の上に大きな力をもつには至らなかった。しかし、明治10年代以後の教育思想及び政策と関連して注目すべきものがあるといえよう。 

 

1.4)文明開化と洋学校

・明治維新後は、西洋文明を急速に取り入れて日本文明を開化させようとするいわゆる「文明開化」の思潮が高まった。欧米の近代思想や科学技術のみでなく、生活様式や風俗習慣等に至るまで、社会生活すべての面にわたって西洋の文物が勇敢に取り入れられた。古来の日本的・東洋的なものは軽蔑され放棄されて、西洋風のものであれば無批判に尊ばれるという時代でもあった。

 

・明治維新当初は、攘夷主義者も多く、欧米のものを排斥する風潮もなお強かったが、新政府の開明政策と相まって廃藩置県のころからは文明開化が社会の大勢を古め、一大風潮となって社会を風靡する状況を呈した。そしてこの風潮は、学制発布後に引き継がれていったのである。 

 

・外来文化を受容することは、それ自身広い意味で教育の問題であったが、狭い意味でも文明開化は教育と深い関連をもっていた。当時の学校では欧米風の学科を設け、文明開化の翻訳教科書が広く使用された。また洋学塾や洋学校(外国語学校)が隆盛をきわめ、多くの外人教師が厚い待遇をもって雇われ、多数の海外留学生が欧米に派遣されたのもこの時代の特色である。

 

・文明開化の風潮とともに、民間の啓蒙運動もきわめて盛んであった。当時の洋学者や啓蒙家によって、欧米の思想や生活を紹介した著書や翻訳書が多数出版され、新聞や雑誌が新しく発行されて国民の啓蒙が行なわれた。また、福沢諭吉の慶応義塾をはじめ当時の洋学塾は、文明開化の啓蒙運動に大きな役割を果たしたのである。

 

2)近代教育制度の創始(明治5年~明治18年)

2.1)文部省創設と全国教育の統轄

・明治維新によって、国民生活の各部面にわたる革新とともに、教育についても一大改革が行なわれた。明治新政府がこの教育改革を実施するために、初めて定めた近代学校制度が明治5年の「学制」である。この学制は、文部省の設置により、その企画のもとに起草され発布されたものである。

 

・維新直後は、江戸時代以来の諸藩がなお存続しており、個別に藩内の教育を統轄し、また独自の教育改革を行なっていた。したがって新政府の教育政策の直接の対象は府県の教育に限られ、それは全国的に見れば一部の地域に過ぎず、全国の大部分を占める諸藩の教育は新政府の直接統轄するところではなかった。

 

・4年7月廃藩置県が行なわれ、その後新政府は初めて全国に統一した行政を実施できる体制となり、これに伴って全国の教育行政を総括する機関として文部省が設置されたのである。

 

2.2)学制の制定

〇学制の教育理念(個人主義・実学主義)

・学制を公布するに当たって明治5年8月2日(太陽暦9月4日)に発せられた太政官布告第214号は、学制の基本精神を明らかにしたものであり、学制公布についての政府の宣言書である。

 

・文部省はこれを学制本文の前にそえて全国府県に頒布したので、学制の前文に当たるものであり、当時はこれを「学制序文」とも呼んでいる。

・学制序文は、学制の教育理念を明示したものであり、新しく全国に学校を設立する主旨を述べ、また学校で学ぶ学問の意義を説いている。そこに示されている教育観・学問観は従前の儒教思想に基づくものとは明らかに異なっており、これを批判し排除する立場に立っている。

 

・すなわち欧米の近代思想に基づくものであり、個人主義・実学主義の教育観、学問観である。また四民平等の立場から、学制は全国民を対象とする学校制度であることを強調している。この太政官布告(※)の内容の要点は次の通り。

 

※太政官布告

・太政官布告は、「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは・・・・・・」で始められているが、まず学校を設立する主旨を述べている。

・人が立身出世し、悔いのない生涯を送るためには学問を修めなければならない。この学問のために学校はなくてはならない働きをもっている。そして人は学校という機関をとおして勉励してこそ、はじめて立身出世できるのである。

・人間がその身を滅ぼすのは多く不学にその原因がある。しかし、従来一般の人々は学問をするのは身分の高い人に限るとして、学問の必要性を認めていなかった。

・何のために学問をし、学問がいかなるものであるかの認識がきわめて乏しかったのであろうそこで、文部省はここに学制を定めて従来の民衆の学問に対する考え方を改めさせ、一般の人々にひとしく学問を授けることを計画し、それが実現することを希望するのである。

・学齢期の子女をもつ父兄は何はおいても必ずその子どもたちを小学校に入学させるよう心掛けなければならない。

 

・この太政官布告の中に示されている学校教育の考え方はきわめて明白である。学校が究極において目標としていることは「人々各々その身を立て、その産を治め、その業をさかんにする」ようにさせることに帰着する。

 

・この立身・治産・昌業のためには、人々すべてその身を修め、智を開き、才芸を長ずることが緊要である。学校は、身を修め智を開き才芸を長ずることを学ばせるところで、人はその才能天分に応じて勉励して、このような学問に従事すべきである。

 

・学問は立身に欠くことのできない財本で、すべての人が学ぶべきものである。従来学問を国家のためにするなどと考えて、それが立身の基礎であることを忘れたような沿襲の弊はこれを根本から打破すべきであるとしている。

 

・この新しい学校についての考え方と従来の学問教育を批判した言葉とは、きわめて巧みに表現された近代学校観であるといわねばならぬ。「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」という大きな抱負をもって、全国民の前にまさに施設されようとしている学校は、立身・治産・昌業のために役だつものでなければならないと宣言している。

 

・近代産業生活に役だつ国民教育施設としての学校とその精神とが近代学校の旗印として高く掲げられている。学校の教育を受けなければ、自分の身を立てその繁栄をうることができないという教育観は、わが国に移し植えられた近代教育と離れることができない関係をもって最初から存在していたのである。

 

・学校が発展して膨大な組織を持ち、その機能を表わすようになると、この学校観もまた広く国民の間に浸透するに至った。 

 

〇学制の性格(二重系統の学校組織の放棄)

・学制の中に規定された学校制度の基本的性格として最も重要なことは、維新以来の新政府の教育政策の中に残存していた二重系統の学校組織を承認する考え方を捨てたことである。

 

・すなわち学校はこれを小学・中学・大学の三段階として組織し、これを全国民に対して一様に開放し、単一化された制度を確立するようになったことである。

 

・この方針は先に述べた太政官布告の中にすでに明確に現われており、「自今以後一般の人民」は必ず学校に入学すべきものであるとし、「必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と宣言したのであるが、その際一般の人民とはいかなるものを表わすについて註釈を施している。

 

・すなわち「華士族卒農工商及婦女子」として華族から農工商に至るまですべての人に対して一様に教育が施されることを制度の土台としたのである。

 

・またこの布告文の中に「高上の学に至てはその人の才能に任かすといへども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事」せしめなければならないとしていて、特に小学校の教育が国民全部に対して一様に課せられるべきものであることを明確にしているのである。

 

・小学校以上の学校教育に関しては才能に任すとしているが、その際に小学校を卒業したものはすべて一様に上級の学校に進学する機会を持つものであることを示しているのである。

 

・このように学制における学校制度の根本方針は国民のあらゆる階層に対して一種類の学校を用意するという考えにおいて徹していたのであって、この点をどこまでもその言葉のとおりに実現したところに今日のような進歩した学校の組織に到達することのできた端緒があったと見なければならない。

 

・すでに述べたように江戸時代以来武士のための学校と庶民のための学校とは別個に構成されていたが、明治維新後はこれを一つに合わせて組織したところに、学制のもつ教育史上の重要な意義を認めなければならない。

 

3)学制下の道徳教育(教育勅語以前)

3.1)学制の成立(明治5年)

・日本は明治維新によって近代国家としての歩みを始めるのだが、明治政府は教育に関して当初から困難を抱えていた。それは教育の中心を国学、漢学(儒学)、そして洋学のどれにすえるのかという問題である。

 

・政府は王政復古の理念に従って国学を中心にすることを考えるが、これには漢学派が反対して折り合いがつかず、結局、各学派の主導権争いのすえ「実学性」に富んだ洋学を主体とすることになった。

 

・そして、このような考えのもと、明治4年に文部省が設置され、翌年には『学制』が制定された。この1874年の学制の制定をもって日本における近代学校制度が発足したとされる。なお、この学制の起草委員である「学制取調掛」はそのほとんどが洋学者であった。

 

・この学制に先立って、学制の精神理念を示す『学制奨励に関する被仰出書』(以後は単に被仰出書と呼ぶ)が太政官布告の形で宣言され、その内容は

 

①人々の立身出世のために、学校では学問を授ける。

②学ぶべきこととは、単なる文章の暗記などではなく、読み書き・算数の知識であり、これは誰もが必要とするものである。

③全ての人が学校に通い学ぶ必要がある。

というものであった。

 

・この被仰出書は福沢諭吉の『学問のすすめ』の影響を受けていると考えられており、それゆえ啓蒙主義的な内容となっている。

 

3.2)修身の成立

・学制の中では、道徳教育は「修身科」がになうことになっており、以後、昭和20年までこれが続いた。これにより、小学で「修身」、中学で「修身学」という教科が置かれることになっていたが、実際には下等小学の低学年に「修身口授」という教科が全授業時間数の3%程度置かれただけであった。

 

・さらに、その授業形態は教師の談義や口述によるものであり、教科書はほとんどが欧米の倫理書等の翻訳本で、内容も法律書のようであり、児童が容易に理解できるものではなかった。

 

・ただ、東京師範学校刊行の『小学校生徒心得』(明治6年)は児童・生徒に対する日ごろの心得を教えたものであったという点でこれらの教科書とは違ったものであった。

 

・このように、学制においての道徳教育(修身科)は民衆にとって実生活に直接関連したものであったとはいえず、あまり重要視されてはいなかった。

 

・そして、このような性格を持ったこの時期の修身科は後に教育の重要性が叫ばれるようになると批判の矢面に立たされることになった。

 

・ともあれ、このような問題点を抱えつつも、学制において道徳教育は「修身科」という教科の一つとして開始されたのである。


1.2 天皇親政から立憲君主制へ


(1)明治6年政変(征韓論政変) (2)自由民権運動 (3)士族の反乱 

(4)教育令・教学聖旨・軍人勅諭 (5)明治14年政変(国会開設の詔勅)

(6)大日本帝国憲法の制定 (7)教育勅語と井上文相の教育改革 (8)治安警察法

(9)大逆(幸徳)事件 (10)南北朝正閏論 (11)不平等条約の改正 


(1)明治6年政変(征韓論政変)(明治6年10月)


1)征韓論の背景

・江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。

 

・幕末期には、松陰や勝海舟、橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。慶応2年(1866年)末には、清国広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった八戸事件

 

・王政復古し開国した日本は、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、儒教の復興と攘夷を国是にする鎖国攘夷策を採り、意気大いに上がっており、これを理由に日本との関係を断絶すべきとの意見が出されるようになった。

 

・明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。

 

・朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。

 

2)明治政府における征韓論議と政変

・明治6年6月、森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。

 

・大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前、いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを閣議決定するが、明治天皇は岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下している。

 

・9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは、西郷が殺害されれば朝鮮との開戦になるという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ロシアとの戦争を遂行するだけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。時期尚早としてこれに反対、10月に遣韓中止が決定された。

 

・10月の閣議では、西郷派遣案の採決は賛否が同数になる。しかし、西郷の辞任示唆の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。これに対し大久保利通、木戸孝允、大隈重信らは辞表を提出、岩倉も辞意を伝える。

 

・後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった三条が17日に過度のストレスから倒れ、意識不明に陥る。

 

・太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、明治天皇の意思を拘束しようとした。そして23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。

 

・その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野した。また、桐野利秋ら西郷に近く征韓論を支持する官僚・軍人が辞職した。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷を咎めず、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。

 

・この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋と井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。この政変が明治7年の佐賀の乱から明治10年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。

 

3)政変後の征韓論と政策決定の正常化

・その後、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに国交回復のための外交が行われ、明治7年9月、一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「9月協定」)したが、大阪会議(立憲政治の樹立及び参議就任等の協議)や佐賀の乱への対応で朝鮮問題を後回しにしているうちに、朝鮮では大院君側の巻き返しが図られて再び攘夷論が巻き起こり決裂した。

 

・一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあり、当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。

 

・この政変において、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。これの危険な点は、例えば天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうという危険性があるというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定が可能な点にある。

 

・そして、西南戦争直後に形成された侍補を中心とする宮中保守派の台頭がその可能性を現実のものとした。その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ


(2)自由民権運動(明治7年~明治23年)


・自由民権運動とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動である。従来の通説では明治7年の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。

 

・それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、明治23年の帝国議会開設頃まで続いた。

 

1)愛国公党の結成(明治7年1月)(1874)

・明治6年末、いわゆる明治六年政変で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した古沢滋(土佐藩士)、小室信夫らの意見を聞き、政党の結成を思い立った。

 

・明治7年1月12日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らは愛国公党(※)を結成し、反政府運動を始めた。愛国公党は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張した。そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとも主張した。 

 

※愛国公党の結成

・愛国公党は、最初の自由民権運動の政治結社で、明治時代中期の政党である。征韓論、明治六年政変で下野した板垣退助らは、幸福安全社を基礎に明治7年1月12日、東京京橋区銀座の副島種臣(佐賀藩士)邸に同士を集めて結成。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。

 

・1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋が署名している。

 

・愛国公党は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早すぎた、という感は否めない。

 

・後に板垣退助や片岡健吉が帰郷し、江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止し、自然消滅を迎えることとなる。日本で初めて「愛国」を名称に冠した組織・団体・結社として知られる。

 

2)民撰議院設立建白書の提出と立志社の設立(明治7年1月)(1874)

・愛国公党を結成して有司専制を批判するとともに、5日後の明治7年1月17日、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参議)、副島種臣(前参議)、由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)、及び起草者の古沢滋、小室信夫の8名は、連名で民撰議院設立建白書を左院(当時の立法議政機関)に提出して高知に立志社を設立する。この建白書は、自由民権運動の端緒となった文書である。

 

民撰議院設立建白書(※)は、まず、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ有司専制(有司=官僚)にあることを批判する。そして、この窮地を救う道はただ「天下ノ公議」を張ることにあり、「天下ノ公議」を張るとは「民撰議院」を設立することであるとする。「民撰議院」によって有司の専権を抑え、以て国民は幸福を享受することになると主張する。 

民撰議院設立建白書・序文(引用:Wikipedia)

 

※民撰議院設立建白書抜粋

 某等別紙奉建言候次第、平生ノ持論ニシテ、某等在官中屡及建言候者モ有之候処、欧米同盟各国へ大使御派出ノ上、実地ノ景況ヲモ御目撃ニ相成、其上事宜斟酌施設可相成トノ御評議モ有之。然ルニ最早大使御帰朝以来既ニ数月ヲ閲シ候得共、何等ノ御施設モ拝承不仕、昨今民心洶々上下相疑、動スレバ土崩瓦解ノ兆無之トモ難申勢ニ立至候義、畢竟天下輿論公議ノ壅塞スル故卜実以残念ノ至ニ奉存候。此段宜敷御評議ヲ可被遂候也。

 

明治七年第一月十七日

 高智県貫属士族 古沢迂郎 高智県貫属士族 岡本健三郎 名東県貫属士族 小室信夫

 敦賀県貫属士族 由利公正 佐賀県貫属士族 江藤新平 高智県貫属士族 板垣退助

 東京府貫属士族 後藤象次郎 佐賀県貫属士族 副島種臣

 

左院 御中

 臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス。夫有司、上帝室ヲ尊ブト曰ザルニハ非ズ、而帝室漸ク其尊栄ヲ失フ、下人民ヲ保ツト曰ザルニハ非ラズ、而政令百端、朝出暮改、政情実ニ成リ、賞罰愛憎ニ出ヅ、言路壅蔽、困苦告ルナシ。夫如是ニシテ天下ノ治安ナラン事ヲ欲ス、三尺ノ童子モ猶其不可ナルヲ知ル。因仍改メズ、恐クハ国家土崩ノ勢ヲ致サン。臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン。請、遂ニ之ヲ陳ゼン。

 夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。是天下ノ通論ニシテ、復喋々臣等ノ之ヲ贅言スルヲ待ザル者ナリ。

(中略)

 臣等 既ニ已ニ今日我国民撰議院ヲ立テズンバアル可カラザルノ所以、及今日我国人民進歩ノ度能ク斯議院ヲ立ルニ堪ルコトヲ弁論スル者ハ、則有司ノ之ヲ拒ム者ヲシテ口ニ藉スル所ナカラシメントスルニハ非ラズ。斯議院ヲ立、天下ノ公論ヲ伸張シ、人民ノ通義権理ヲ立テ、天下ノ元気ヲ鼓舞シ、以テ上下親近シ、君臣相愛シ、我帝国ヲ維持振起シ、幸福安全ヲ保護センコトヲ欲シテ也。請、幸ニ之ヲ択ビ玉ンコトヲ。

 

3)民撰議院設立建白書の影響

・民撰議院設立建白書の内容は、イギリス人ジョン・レディー・ブラックによる新聞『日新真事誌』に掲載されて広く国民に知られた。政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。

 

・民撰議院設立建白書は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。しかし、国民各層にはその考え方が次第に浸透して行き、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。

 

・この建白書が新聞に載せられたことで広く知られるようになり、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。運動が広く知られるようになる(※)

 

※ただし、板垣らの民撰議院設立建白書は当時それほどの先進性はなく、自らを追放に追い込んだ大久保利通ら非征韓派への批判が主体であり、政府における立法機関としての位置づけも不明確であった。むしろ板垣や江藤・後藤らが政権の中枢にあった時期に彼らが却下した宮島誠一郎(元米沢藩士)の『立国憲義』などの方が先進性や体系性において優れており、現在では民撰議院設立建白書の意義をそれほど高く認めない説が有力である。

 

・翌明治8年には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、すぐに消滅する。また、後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄(※)が発生して幹部が逮捕されている。

 

※立志社の獄

・明治10年の西南戦争に乗じて立志社の林有造や大江卓が元老院議官陸奥宗光らと共謀して高知県にて挙兵を企てたとされる事件。同年8月に事件が発覚して林をはじめとする首謀者や片岡健吉ら高知在住の幹部が逮捕され、翌年8月に大審院において有罪判決が下った。

 この事件については立志社の指導者である板垣退助・後藤象二郎らは無関係で片岡も林ら過激な首謀者の巻き添えとなったとする見解が『自由党史』以来の通説であるが、これに対して同書は板垣監修の書であり、仮に板垣自身が関与したとしてもその事実を記載をするとは考えにくいとする史料批判や、林や大江の回想録が板垣と協議した事実を記していること、後藤象二郎と陸奥宗光が戦争中に板垣あるいは木戸孝允を司令官とした旧土佐藩士を中心とした西郷隆盛討伐の義勇軍を持ちかけて一旦は明治政府の方針とされたこと(4月15日に中止)から、これを挙兵の大義名分作りのための計画とみなして板垣や後藤も挙兵計画に関与していたとする反論もある。

 いずれにしても、自由民権派による「第2の西南戦争」になる事を危惧した明治政府側は板垣・後藤に対する責任追及を避けて、「一部過激派」の暴走と規定することで事態の収拾を図ったとは言える。

 

・江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。武力を用いる士族反乱の動きは明治10年の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であった。

 

4)国会期成同盟の結成(明治13年)

・板垣退助の主導する自由民権運動が高まる中、御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして板垣らに解釈されるようになった。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、当初は民選議会を意図したものではなかったが、後に民選議会を開設すべき根拠とされた。

・明治11年9月に愛国社が再興し、明治13年の第四回大会で国会期成同盟(※)が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。

 

※国会期成同盟

・日本の国会開設運動で中心的な役割を果たした政治結社。自由党の母体ともなった。

 

◇結成大会と国会開設請願

・明治13年3月15日に第4回愛国社大会が大阪の喜多福亭で開かれた。2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まった。3月17日には会場を太融寺(大阪府北区)に移し大会は4月9日まで続いた。

 

・大会では議長に片岡健吉(元土佐藩士)、副議長に西山志澄(元土佐藩士)が選ばれた。そして、19条からなる規約が作成されて愛国社が拡大発展する形で国会期成同盟が発足することになった。こうして第4回愛国社大会は第1回国会期成同盟大会に衣替えとなった。

 

 ・規約の内容としては、各地の政治結社との連絡の為に常備委員を設置する事、国会開設請願書を天皇に提出する事、国会開設の請願が天皇に聞き届けられなかった場合には同年11月に大会を開く事、国会開設が実現するまでは国会期成同盟を解散しない事、などが決まった。

 

・国会期成同盟は河野広中(元三春藩士)、片岡健吉を請願の代表として選んで東京に出向き、国会開設請願書である『国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書』を太政官および元老院に提出しようとしたが、政府は請願権を認めず却下した。また、政府は4月5日に太政官布告として集会・結社の自由を規制する法令である集会条例を制定して自由民権運動を圧迫、弾圧した。こうした政府の動きに対して自由民権運動を展開する勢力は反発し、個別に建白書や請願書を政府に提出するなどして自由民権運動は盛り上がりを迎えていった。

 

第2回大会と自由党準備会

・明治13年11月10日に第2回国会期成同盟大会が東京の元愛国社支社で開かれた。2府22県から各地の政治結社を代表する64人が参加し、国会開設請願を求める約13万人の署名が集まった。この大会では議長に河野広中が選ばれた。

 

・そして、運動によって弾圧を受けた者やその家族を扶助することを規定した「遭変者扶助法」が定められた。また、合議書が制定されて、国会期成同盟の名称を大日本国会期成有志公会と改称する事、本部を東京西紺屋町に置く事、次回大会までに各々の政治結社が憲法私案(私擬憲法)を作成して持ち寄る事、国会開設が実現するまで会を解散しない事、などが決まった。

 

・大会後には各地で五日市憲法や東洋大日本国国憲按などの私擬憲法が作成された。また、大会で議決はされなかったが河野広中・植木枝盛・松田正久らから運動を統率する為に政党を結成しようとの提案が出された。大会後、12月15日に嚶鳴社(おうめいしゃ)の沼間守一や草間時福、河野広中、植木枝盛、松田正久らは会議を開いて、沼間守一を座長とした自由党(準備会)を結成した。

 

第3回大会と自由党結党

・明治14年10月に開かれる予定の第3回国会期成同盟大会での重要議題は各地で作成された憲法私案の審議であった。また、10月1日、10月2日の幹部相談会では常務委員の林包明を中心として大日本国会期成有志公会と自由党(準備会)を糾合して新党を結成する相談がなされた。

 

・そうした中、開拓使官有物払下げ事件が明るみとなって政府側を追求した結果、明治十四年の政変が起こって大隈重信が政府から追放された。と同時に政府は批判をかわすために明治14年10月12日に国会開設の詔を発布し、明治23年に国会を開設することを決めた。国会開設の目的が達せられたと判断した自由民権運動家達は大会での憲法私案の審議を見送り、政党を樹立すべきとの意見が大勢を占めた。

 

・なお、地方出身者層と都市出身者層との間で意見の相違が発生したため、嚶鳴社の沼間守一らは新党結成から離脱した。

 

・10月18日に東京の井生村楼に全国各地から代表78人が集まって大会が開かれた。大会では議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪が選ばれた。10月19日には自由党盟約・規約が作成され、10月29日には総理(党首)に板垣退助、副総理に中島信行が選ばれ、自由党が発足した。

 

・この時期の農村指導者層を中心にした段階の運動を豪農民権という。豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、明治9年、地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府による地租軽減と、西南戦争の戦費を補うために発行された不換紙幣の増発によるインフレーションにより、農民層の租税負担が減少し、政治運動を行う余裕が生じてきたことが挙げられる。

 

・実際交通事情が未整備な当時、各地の自由民権家との連絡や往復にはかなりの経済的余裕を必要としていた。これら富農層が中心となった運動だけに、政治的な要求項目として民力休養・地租軽減が上位となるのは必然であった。

 

・また、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られた。

 

 5)自由民権運動の弾圧

・民権運動の盛り上がりに対し、政府は明治8年には新聞紙条例、讒謗律の公布、明治13年には集会条例など言論弾圧の法令で対抗した。

 

5.1)新聞紙条例(明治8年)

・新聞を取り締まるための条例のことで、反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。明治8年、新聞紙条目ヲ廃シ新聞紙条例(※)ヲ定ム(明治8年太政官布告)により、従前の新聞紙発行条目(明治6年太政官(布))を「廃更」するかたちで成立した。

 

※新聞紙条例の概要

・自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定した。

・新聞紙発行条目を全面改正し、適用範囲を新聞以外の雑誌・雑報にまで広げたものであった。

・以下主な内容を示す。

①発行を許可制とした。

②社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、違反時の罰則を定めた。

③同時発布の讒謗律との関係を明示した。

④記事には筆者の住所・氏名を明記することを原則とした。

⑤筆名を禁止した。

⑥政府の変壊・国家の転覆を論じる記事、人を教唆・扇動する記事の掲載を禁じた。

⑦官庁の許可のない建白書の掲載を禁じた。

 

・これらはさらに明治16年4月16日に改正・強化され、1ヶ月以内に47紙が廃刊し、前年には355紙あったものが、年末には199紙に激減したという。このために俗に「新聞撲滅法」とも称された。

 

5.2)讒謗律(明治8年6月)

・讒謗律(※)とは、明治8年6月に成立した名誉毀損に対する処罰を定めた法律であり、明治13年に旧刑法制定に伴い消滅した。

 

讒謗律(※)が公布された当時は自由民権運動が活発な時期であり、8日前に公布された新聞紙条例とあわせて、新聞、風刺画等により官吏等当時の為政者を批判することを防ぐ為に公布されたという見方が多数を占めている。

 

・全8条からなり、第1条で下の通り示されているように、事実を挙げる挙げないに関わらず、著作物を通じて他人を毀損することに対する罰を定めたものである。

 

※讒謗律の概要

(大意)凡ソ事実ノ有無ヲ論セス人ノ栄誉ヲ害スヘキノ行事ヲ摘発公布スル者之ヲ讒毀トス。人ノ行事ヲ挙グルニ非スシテ悪名ヲ以テ人ニ加ヘ公布スル者之ヲ誹謗トス。著作文章若クハ画図肖像ヲ持ヒ展観シ若クハ発売シ若クハ貼示シテ人ヲ讒毀若クハ誹謗スル者ハ下ノ条別ニ従テ罪ヲ科ス。

 

(大意の口語訳)事実の有無に関係なく、他人の名誉を損ねる出来事を暴き、広く知らせることを讒毀とする。出来事を挙げず、他人に悪名を押し付けて広く知らせることを誹謗とする。文章や図画を見せたり、売ったり、貼り付けたりして他人を讒毀したり誹謗したりするものは、以下の条によって罰す。

・また第二、三、四、五条でそれぞれ天皇、皇族、官吏、それ以外に対する讒毀・誹謗に対する罰則を定めており、定められた罰の重さもこの順である。

 

5.3)集会条例

・明治13年4月に公布された日本の法令で、明治23年に集会及政社法により消滅し、明治33年の治安警察法に継承された。この集会条例(※)は、集会・結社の自由を規制した法律である。同年の新聞紙条例改正、また出版条例と共にこの集会条例は自由民権運動を圧迫した。明治15年に改正され、さらに規制が強化された。主な規定内容は、次のとおり。

 

※集会条例の概要

・政治に関する事項を講談論議するため公衆を集める者は開会3日前に事項、演説者の氏名および住所、会同の場所および日時を詳記し、所轄警察署に届け出、認可を受けねばならない。ただし、屋内に限る。

 警察署は正規の警察官に監視させることができ、派出の警察官は認可証の提示が拒まれるとき、講談論議が届出事項以外にわたり、または公安に害ありと認める場合などは解散を命ずることができる。陸海軍人の常備予備後備の名籍にある者、警察官、官立公立私立学校の教員生徒、農業工芸の見習生は会同することは許されない。

 上述と同じ目的で結社する者は事前に社名、社則、会場、社員名簿を所轄警察署に届け出、認可を受けなくてはならない。集会に参同することを許されない者は結社に加入することを禁じられる。

 このほかに政治に関する事項を講談論議するために、その趣旨を広告し、または他の社と連絡し、および通信往復することはできないという箇条がある。以上の規定にはそれぞれ重い罰則がある。

 

・自由党、改進党の結党があり、政治的集会も全国でますます盛んになり、政府は取締をいっそう厳重にするために、明治15年、改正がおこなわれた。その主な点は、集会については、臨監の警察官が解散を命じた場合、特定の演説者に対し、その情状によって1箇年以内に限り、地方長官の命をもってその管内で、また内務卿の命をもって更に全国において公然政治を講談論議することを禁ずることができる。

 

・結社については、更に支社を設けることを禁じる。また、集会ならびに結社を通じ、あらたに政治以外の目的を有するものの取締規定を設け、学術その他のいわば仮面をつけたものも看過しないという姿勢を示した。

 

・政府によるこの運用はきわめて猛烈なもので、新興政党運動などは手も足も出なかったありさまで、自由党もやがて解散するに至った。改進党はかろうじて解散はまぬかれた。

 

・憲法発布のころは集会条例第8条の廃止を求める声がかまびすしかったゆえんである。


(3)士族の反乱


1)佐賀の乱(明治7年2月)(1874)

・佐賀の乱は、1874年(明治7年)2月に民撰議院設立建白書に名を連ねた江藤新平らが郷里の佐賀で不平士族の首領となって明治政府に対して起こした士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。

 

・不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。しかし、廃刀令や家禄制度の廃止によって士族の不満はいっそう高まった。

 

1.1)征韓党と憂国党

・征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高らを擁する憂国党による旧佐賀藩士を中心とした反乱であり、以後続発する士族による乱の嚆矢となった。

 

・乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったのだが、政府の強硬な対応もあり決起することとなった。しかし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。

 

・そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少なかった。また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは藩内ですら実現しなかった。

 

1.2)徴兵令による国民軍

・薩摩や長州など諸藩の武士で構成された部隊が官軍を編成した戊辰戦争と違い、明治6年に制定された徴兵令による国民軍が軍隊を編成して初めての大規模な内戦である。また、1871年から1876年までの短期間大日本帝国海軍に存在した海兵隊も戦闘に参加した。このほか、蒸気船による迅速な行軍や電信技術なども使用されている。

 

・徴兵による鎮台兵は武士たちとも互角に渡り合えることを示したが、全体的にみると徴兵による兵隊だけでは間に合わず、士族召集兵によって鎮台兵の不足を満たざるをえなかった。

 

・また、不慣れな軍装による長距離の遠征で兵の多くが靴ずれを起こし進軍が遅れた例もある。

 

・また電信も、迅速な情報の伝達に威力を発揮したが、最初期に命令を受けた熊本鎮台への電信は佐賀を経由して伝えられたため、当然の如く命令は佐賀軍の知ることとなるなど幾つかの問題点も発生している。

 

2)神風連の乱(明治9年10月)(1876)

・神風連の乱は、1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。敬神党(※)の乱とも言う。

 

・1876年10月24日に旧肥後藩の士族太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら、約170名によって結成された「敬神党」により廃刀令に反対して起こされた反乱で、この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので、神風連の乱と呼ばれている。名誉回復、すなわち贈位後(大正13年2月11日、太田黒・加屋に正五位が贈られた後)は、「神風連の変」と呼称される。

 

・1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。しかし翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。

 

・敬神党側の死者・自刃者は、計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。

 

・この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる。

 

※敬神党

・敬神党は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった、勤皇党の一派である。

 ・肥後藩では、教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、林桜園を祖とする国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党(河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅ら)が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。

・この敬神党は、神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は、多くが神職に就いており、新開大神宮で「宇気比」と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵したのである。

 

3)秋月の乱(明治9年10月)(1876)

・秋月の乱は、明治9年に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

 

・明治9年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。

 

・神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で説得にあたった福岡県警察官穂波半太郎を殺害(日本初の警察官の殉職)。旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族、杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。

 

・しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・朝倉市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら七士は自刃した。

 

・抗戦派の今村は他26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払ったのち、分かれて逃亡したが、11月24日に逮捕された。なお益田は挙兵前の10月26日に旧佐賀藩士族の同時決起を求めるため佐賀へ向かったが、その帰りに逮捕されている。

 

・12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。

 

4)萩の乱(明治9年10月)(1876)

・萩の乱は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名によって起こされた反乱である。

 

・前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同士を集め、10月26日には県庁を挟撃するため徳山の同士に決起を促す使者を派遣した。10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇に直訴するため山陰道を東上するよう方針を転換した。しかし、悪天候で一旦萩に戻ったためそのまま市街戦となり、県令関口隆吉を敗走させた。

 

・その後、前原らは軍勢を小倉信一にまかせ別行動をとったが、小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。

 

・また、前原・奥平ら幹部7名も東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、11月5日に島根県令佐藤信寛らに逮捕された。

 

・なお、前原は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。

 

・12月3日に萩で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平は即日斬首された。

 

・なお、松下村塾の塾頭玉木文之進(吉田松陰の叔父)は養子である玉木正誼(乃木希典の弟・萩での市街戦で戦死)や前原をはじめ多くの塾生らが事件に関与した責任を感じ、切腹した。

 

5)西南戦争(明治10年)(1877)

・西南戦争、または西南の役は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後の内戦となった。

 

5.1)近因(私学校と士族反乱)

・明治六年政変で下野した西郷は明治7年、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。

 

・一方、近代化を進める中央政府は明治9年3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

 

・これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で「萩の乱」が起こった。鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。

 

・ただ、書簡中では若殿輩が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。

 

・その一方で明治4年に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた事に対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。

 

・一方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、明治9年内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。

 

・この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。

 

・しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その1つが明治9年1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視川路利良が中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことである。これに対し、私学校徒達は中原尚雄等の大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。

 

5.2)西南戦争の意義

〇経済的意義

・1871年の廃藩置県で全国の直轄化が完成した明治政府だったが、反面、各藩の借金および士族への俸禄の支払い義務を受け継ぐことになり、家禄支給は歳出の30%以上となってしまった。政府は、赤字財政健全化のため、生産活動をせずに俸禄を受けている特権階級の士族の廃止を目的に四民平等を謳い、1873年に徴兵令、1876年に秩禄処分を行った。これで士族解体の方向が決定付けられてしまったため、士族の反乱が頻発し、西南戦争に至る。

 

・政府の西南戦争の戦費は4100万円にのぼり、当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大になった。政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し(→国立銀行)、インフレーションが発生した。このため、のちの大蔵卿松方正義は、増税、官営企業の払い下げ、通貨整理を行って兌換紙幣発行に漕ぎ付け、通貨の信用回復により日本が欧米列強に並ぶ近代国家になる下地が作られた。

 

・しかし、この過程で松方デフレが発生し、農民の小作化が進んで(小作農率の全国平均38%→47%)、大地主が発生した。また、小作を続けられないほど困窮した者は都市に流入し、官営企業の払い下げで発生した財閥が経営する工場で低賃金労働をさせられ、都市部の貧困層が拡大した。

 

・また、財政難となった国は、「原則国有」としていた鉄道の建設が困難になり、代わって私有資本による鉄道建設が進んだ。

 

・西南戦争は、士族の特権確保という所期の目的を達成出来なかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、プロレタリアートを増加させた。

 

・その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となった。

 

・結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったが、貧富の格差は拡大した。

 

〇政治的意義

●官僚制の確立

・官僚制が確立し、太平洋戦争による敗戦まで続く、内務省主導の政治体制が始まった。

 

●軍事的意義

・西南戦争は日本最後の内戦となり、士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させて終焉した。士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着した。

 

・政府軍は勝利の原因が、近代的装備、火力、通信手段、指揮能力の違いにあったことを正しく把握しており、西南戦争後の軍の近代化路線では、徴兵を基盤とした常備軍を置き、装備統帥の近代化を追求する路線に変更はなかった。

 

・一方で、兵力と火力に勝っていながら、鎮台兵は戦術的戦闘ではしばしば西郷軍の士族兵に敗北した。兵士の戦意、士気の問題は政府軍にとって解決すべき課題であった。

 

・西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まった。西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになった。

 

・スナイドル弾薬製造装置を取り上げられても西郷軍がエンフィールド銃で戦い、巨額の戦費を費やしてこれを鎮圧せざるを得なかった事を反省して、旧式ではあっても継戦能力に優れた前装銃が各地に分散保管されている状況を危険視した政府は、西南戦争後の明治11年からこれらを回収し、まとめてスナイドル銃に改造して、軍による造兵施設の独占と軍用銃の所持を厳しく規制する事で、国民の武装を封じて内乱の再発を防ごうと努めた。

 

・西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って九州各地で激しい戦闘が展開された。

 

・戦争のさなか木戸孝允が病死、西郷隆盛も戦死し、翌明治11年には大久保利通が東京で不平士族に暗殺された(紀尾井坂の変)。こうして明治政府の「維新三傑」体制は終わりを告げ、薩長元老による官僚藩閥政権が確立した。 


(4)教育令・教学聖旨・軍人勅諭(明治)


1)教育令の公布

1.1)学制の批判と改革の動向

・学制実施の経験により、また当時における時勢の変化に即応させるために、明治12年9月「学制」を廃止して「教育令」を公布した。

 

・学制はわが国の国民教育制度を確立したことにおいて画期的な意義をもっていた。政府はすべての国民を就学させることを目標として学校の普及発達を図り、地方官もまた政府の意を体して、管内の学事奨励に努めた。そこで学制実施の成績は見るべきものがあった。

 

・学制の画一主義的学事奨励がこれにあずかって力があったのであるが、しかし元来その計画が欧米の教育制度を模範として定めたものであって、実地の経験を基礎としたものでなかったために、考慮すべき多くの問題を含んでいた。また当時の国力・民情および文化の程度においては、とうていこれを全国的に実施することが困難であった。

 

・しかもこれをしいて実施しようとしたため干渉がその度を過ぎ、いたずらに地方の経費を増し、種々の弊害を生じ、不平の声を聞くようになった。

 

1.2)教育令の起草と公布

・教育令の起草に当たっては、時の文部大輔田中不二麻呂が中心となっていた。明治10年文部省内に委員を設けて、11年5月には新しい法令案としての「日本教育令」が上申されている。

 

・田中不二麻呂は欧米諸国の教育を視察した際に、アメリカの教育制度及び行政に注目し、自由主義による進歩したアメリカの制度をとり入れて学制の画一主義を改めることを唱えていたのである。そしてこの教育令起草に当たっても、特にアメリカの教育行政制度を参照し、当時のわが国の教育を考慮して、日本教育令をつくりあげ、11年5月14日に上奏された。

 

・公布された教育令を文部省原案として上奏した「日本教育令」と比較すると、かなり大きな修正が行なわれている。

 

・まず学制の基本であり「日本教育令」にも残されていた「学区」の規定は全く削除され、文部卿の職務権限に関する条文の多くを削除し、教育議会の条文や教員に関する規定の一部なども削除された。

 

・これらの修正は当時の政治情勢などをも反映して行なわれたようであり、文部省で立案した際の方針とは異なった方策が織り込まれたといえよう。

 

1.3)教育令の内容と性格

・教育令は全文47条からなり、学制に比べてきわめて簡略であった。この簡単な条章をもってわが国のあらゆる教育機関の規定を行なったのであるから、この条文だけでは学校制度の運用をすることが不可能のように思われる。もちろん計画としてはこれに付帯して各学校に関するくわしい規定を公布する方針であった。

 

・教育令がこのように簡潔な条章をもって整えられていることは、教育令は教育制度の根本を規定するものであって、長期間にわたっても特に改正を要しないように条文を整えねばならぬという趣旨に基づくものであった。

 

・教育令を学制と比較すれば、学区制を廃止したことが注目すべき変化であり、教育令では町村を小学校設置の基礎としている。

 

・また学制に見られた督学局・学区取締の規定はなく、教育令では町村住民の選挙による「学務委員」をおいて学校事務を管理させることとした。これはアメリカの教育行政方式を模範としたものといえよう。

 

1.4)教育令に対する批判

・教育令は、学制の中央集権的、画一的性格を改めて、教育の権限を大幅に地方に委ね、地方の自由に任せた。これは学制に対する批判に応えようとしたものであったが、同時にその緩和政策は新しい批判を呼び起こす原因となった。

 

・このような教育令における小学校設置運営についての自由な方針は、教育界全般にきわめて強い印象を与えた。これを当時の自由民権の思想とも結びつけて、「自由教育令」と通称するようになった。

 

・教育令は、アメリカ諸州のように、その土地と民度に応じて取捨選択をそれぞれの地方に委ねる進歩した方法であったが、わが国における実施の結果は、かえって小学校教育を後退させることとなってしまった。

 

・地方によっては児童の就学率は減少し、経費節減のため廃校、あるいは校舎の建築を中止するなどの事態も生じている。そこでこれが問題として論議され、教育令への批判が強くなったのである。ここにおいて強制教育論と自由教育論とが対立することともなり、結局この教育令を改正しなければならない事情にまで進んだのである。

 

 ・当時教育令の公布が自由民権運動と直接結びついたものとは考えられない。ただ学制発布以後学校設置に関して強硬な方策をとってきたことと比較してみるならば、地方の実情にそわせるという見地から、町村人民の自由に任せた部分もできたのであるから、ある意味においては寛大な教育方策であったということができる。

 

・しかし教育令における方針は、けっして文教行政を弱体化させて、人民の意向に迎合しようとしたものではなく、国民生活の現実に基礎をおいて方策を樹立したのであり、従来とかく問題を起こしがちであった学校設置の方策の無理を除こうとしたものであった。ところが当時はこれを自由教育令として批判された。

 

・この年、明治天皇は山梨・長野・岐阜・京都各地を御巡幸になり、河野文部卿に供奉を仰せつけた。河野敏鎌は就任早々その先発として各地の教育状況を視察、京都御着を待って委細を奏上した。河野文部卿の一行は各地で自由教育令の失敗を認めたので、同年9月文部省に帰ると調査委員をあげて改正教育令の起草に着手したのである。

 

1.5)改正教育令の実施

〇教育令の改正

・新たに文部卿に就任した河野敏鎌は直ちに教育令を改正する準備を進め、明治13年12月9日に改正原案を太政官に上申した。この原案は新しく創案したものではなく、教育令の条文の改正であり、したがって長時日を必要としなかった。

 

・太政官に上申された教育令改正案は、その後元老院の審議を経て一部修正が加えられ、13年12月28日太政官布告第59号をもって公布された。これがいわゆる「改正教育令」である。

 

・改正教育令の基本方針は、上奏文に「教育令公布以後は教育行政の上で地方の自由を認める方針であったのに対して、改正教育令は国家の統制、政府の干渉を基本方針とした点において著しい特徴が見いだされる。

 

・すなわち政府の督励や強制を欠いてはとうてい教育を普及させることはできないとするのが根本方針であって、これを確立することによって、教育令公布以後衰退を示すかに見えた小学校教育の改善振興を図ろうとした」と、教育令改正の趣旨が明確に示されている。

 

・このように改正教育令は、教育令の方針を改めて文部省が地方の教育を統轄する文教政策への転換を企図したものであった。

 

〇改正教育令の内容と性格

・改正教育令は教育令の条文に修正を加えるとともに、一部の条文を削除し、3か条を追加して50条となっている。このうち6か条が削除されているから有効な条文は44か条である。

 

・まず主要な修正点は、教育行政上の重要な事項について「文部卿の認可」を規定したこと、また府知事・県令の権限を強化したことである。このことは教育令に対する地方官からの批判の声に応えたものといえる。このほか学校の設置、就学の義務に対する規定の強化などが重要な修正点である。

 

・改正教育令では文部卿の権限および府知事県令の権限を強化して中央集権化を図ったが、その点で学務委員に関する規定についても注目すべき修正が見られる。学務委員は各町村に置かれ、町村の学務を幹理し、学齢児童の就学、学校の設置保護等を掌という地方教育行政の末端機関としての役割には変化はないが、その選出方法が改められている。

 

・すなわち教育令では「町村人民の選挙」によることとなっていたが、これを町村人民が定員の2倍もしくは3倍を「薦挙」し、府知事県令がその中から「選任」することに改めた。またその薦挙規則は府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることとしている。

 

・このように教育令において定めていた教育の地方分権の考え方が改正教育令においては大きな修正をうけているのである。

 

〇諸規則の制定と実施

・改正教育令は基本となる条文だけを定めた簡略な法令であり、これに基づいて諸規則が制定され、これによってはじめて改正教育令が実際に施行される性質のものであった。そこで文部省は明治14年以後改正教育令の施行規則ともいうべき多くの規則を制定した。その際、多くは全国画一的に施行する規則を定めたのではなく、主として各府県で定める規則の基準を示すための規則を定めたのである。

 

・このことは学制と異なる改正教育令の趣旨によるものであり、改正教育令は教育を地方の管理に委ねることを本来の性格としていたのである。その点では教育令の基本的性格を受け継いでいた。

 

2)教学聖旨と文教政策の変化

 2.1)教学聖旨の起草

・教育令・改正教育令によって教育制度全般についての改革が行なわれたが、教学の根本方針についても文部省の教育政策の上に大きな変化があらわれている。その発端をなすものは明治12年の「教学聖旨」である。

 

・明治天皇は明治11年の夏から秋にかけて、東山・北陸・東海の諸地方を御巡幸になり、親しく各地の民情及び教育の実情を御覧になった。当時の記録によれば、各地の小学校・中学校および師範学校に臨幸されて教育についての施設・方法・内容に関して詳細に御覧になったのである。

 

・この結果、明治天皇は各地の教育の実態がはなはだ憂慮すべきものであることを痛感されたのであった。維新後の急激な教育体制の改革、文明開化運動および欧米流の知識の摂取は、まだ人民の間に十分に吸収されていなかったばかりでなく、混乱の様相さえ呈していたのである。

 

・学制以来の民衆の教育に対する不満が、「学問の益未タ顕ハレスシテ人民之ヲ厭フノ念」といわれていることでも明らかなように、就学率の不振となって現われてきていたし、また欧米流の知識技術に重点を置く実学主義的な、また主知主義的な傾向は、民衆の実生活そのものからは遊離し、明治政府の意図する文教政策からも逸脱するところがあるかのような観があった。

 

・このような地方の教育実態から、明治天皇は、文教政策の振興の必要を痛感されて、政府の国民教育に関する根本精神を明らかにし、教学の本義がいかなるところに存するかを侍講元日永孚に指示され、教学に関する聖旨(教学聖旨)の起草を命じられた。

 

2.2)教学聖旨(明治12年8月)

・『教学聖旨』は、明治12年8月に明治天皇より参議伊藤博文・同寺島宗則(文部卿兼務)に出された教育方針で、総論である「教学大旨」(※)及び小学校教育に関する「小学条目二件」※)から構成されている。

 

・学制以来の明治政府の教育政策が知識教育に偏っており、その弊害が見られることから、儒教を基本とする道徳教育を追加して知育と徳育のバランスをとること、効果的な徳育は幼少期に始めるべきこと、庶民教育は出身階層に合わせた実学を中心とすべきとする趣旨であった。

 

・ところが、この文章の実際の執筆者が保守的な儒学者として知られていた侍補の元田永孚であることが分かると、伊藤は激怒した。かねてより日本の近代化そのものに否定的な考えを持っていることで知られた元田に警戒感を抱いていた伊藤は、ただちに「教育議」を執筆して元田の主張こそ現実離れの空論であると噛み付き、両者は激しく論争した。

 

・まもなく伊藤は侍補の廃止を決断する一方、高まる自由民権運動に対抗するために道徳教育の強化には同意して政府の教育政策の継続が認められた。だが、明治政府の立憲国家建設に真っ向から反対して天皇親政を唱える元田に対する明治天皇の信任は増すばかりであり、伊藤らは政府の方針と天皇の意向の乖離に苦慮することになる。

 

・一方、元田の理念はそのままの形では実現されなかったものの、その儒教的・絶対的な天皇中心主義は『教育勅語』という形で実現することになった。

 

※教学聖旨大旨

【要旨】教学大旨の内容を概観すると、

「教学の要は仁義忠孝を明らかにして知識や才芸を究め、人の人たる道を完(まっと)うすることであって、これこそわが祖先からの訓であり国典であるのに、近時は知識才芸ばかりを尚(たつと)んで、品行を破ったり風俗を傷っけたりするなど物の本末を誤っている者が少なくない。

 

 そのような有様では昔からの悪い習を捨てて、広く知識を世界に求めて西洋の長所を取り、また国勢を振興するのに益があるかもしれないが、一方では仁義忠孝の道をあとまわしにするようでは、やがては君臣父子の大義をわきまえなくなるのではないかと将来が危うく思われる。

 

 これはわが国の教学の本意ではない。それゆえ今後は祖宗の訓典によって仁義忠孝の道を明らかにし、道徳の方面では孔子を範として人々はまず誠実品行を尚ぶよう心掛けなくてはならない。

 

 そうした上で各々の才器に従って各学科を究め、道徳と才芸という本と末とを共に備えるようにして、大中至正の教学を天下に広めるならば、わが国独自のものとして、世界に恥じることはないであろう。」

という趣旨のことが述べられている。

 

※小学條目二件

【要旨】1)仁義忠孝の心は人はみな持っているものであるが、幼少のうちからつちかい育てなくては他の物事ばかりが耳にはいってしまって、それからあとではいかんともすることができない。

 

 それゆえ、小学校ではおのおのの所持している絵画によって、古今の忠臣・義士・孝子・節婦の画像や写真を掲げて、幼年の生徒が入校した際にまずこの画像を示して、その行為や事件のあらましを説明し、忠孝の大義を第一に感覚させることがたいせつであって、こうしたならば忠孝の徳性を養成して物の本末を誤ることはないであろう。

 

【要旨】2)去年の秋各県の学校を巡覧してその生徒の芸業を調べたところ、農商の子弟でありながら説く事は多くの場合高尚な空論だけであって、はなはだしいものに至っては、洋語を語るのにそれを日本語に訳することさえできない有様であった。

 

 こういう者がやがて卒業して家に帰っても本業にはつきがたいし、また官途についても空論では益がない。そればかりでなく、博聞を誇って長上を侮ったりする事もあって、かえって害がある。

 

 それよりも農商には農商の学科を設けて、やがてはその道のためになるような教刈ができることが望ましい。

 

・以上が教学聖旨の要旨であって、この中には、知識才芸よりも先に仁義忠孝に基づくいわば儒教的な道徳教育が、わが国教学の要として確立されるべきことが強調されているのである。

 

・この徳育に関する政策は、明治初年以来官民あげて文明開化に狂奔していた、いわゆる欧化時代に対して、その転換を意味する注目すべき政策であった。

・ところでこの教学聖旨は、当時文部卿であった寺島宗則および内務卿の伊藤博文にまず示されたのであった。

 

・文部卿寺島宗則は聖旨を拝承して、教学に関する根本精神に基づいて、文教の刷新に着手することになった。

 

・当時は教育令が公布され、翌年はこれが改正されるという時期でもあったため、この制度改正を期として、教学聖旨に基づく文教刷新が実施されたのであって、改正教育令およびそれ以後の教育の規定や学科内容に関する諸方針の中には、これに基づく徳育の一連の政策が、基本的文教方針として採り上げられることとなったのである。

 

・先に、教学聖旨が文部卿寺島宗則および内務卿伊藤博文に示された際、伊藤博文に対しては特にこれについての意見を求められた。伊藤博文は「教育議」を提出して、教育に関する見解を奏上している。

 

・伊藤博文は明治新政府の代弁者でもあり、欧米の新知識を急速に導入しなければならない理由を奏上しているのであるが、元田永孚はさらにこれに対して反論を加えている。

 

・すなわち元田永孚は、「教育議附議」を上奏して自己の見解を披瀝しているように、「木朝瓊々杵尊以降、欽明天皇以前二至り、其天祖ヲ敬スルノ誠心凝結シ、加フルニ儒教ヲ以テシ、祭政教学一致、仁義忠孝上下ニアラサルハ、歴史上歴々証スヘキヲ見レハ、今日ノ国教他ナシ、亦其古二復セン而已」の精神を譲らなかった。

 

・この元田永孚対伊藤博文の論争は、明治初期のわが国教育政策をめぐっての伝統的思想と進歩的思想との論争であったと見ることができるであろう。

 

2.3)教学聖旨後の文教政策

・政府の教育政策は明治13年ごろから教学聖旨の基本理念に基づいて進められた。12年の教育令では小学校の教科の末尾に置かれていた「修身」が、13年の改正教育令では教科の冒頭に置かれていることも政府の教育政策の変化を端的に示しているものといえよう。

 

・文部省ではこれより先、13年3月省内に編輯局をおき、小学校の修身教育を特に重視して『小学修身訓』(西村茂樹編、明治13年5月)を刊行している。これは当時の修身教科書に範を示すためであった。

 

・その内容は主として東洋の古典から格言名句を選んで集録したものであり、仁義忠孝を中心とする儒教思想が基本となっている。

 

・また文部省では府県で使用している教科書を調査し、不適当と認めた教科書を13年8月と9月に公示してその使用を禁止した。その中には政治や風俗に関するものが多く、自由民権関係のものなどが含まれている。また学制期に文部省が刊行して標準教科書として指示したものも含まれ、文部省の教育方針の変化を物語っている。

 

・明治14年5月に定めた「小学校教則綱領」は原案を上奏し、聖旨に基づいて一部修正して公布したものといわれているが、この教則綱領では修身と歴史を国民精神を育成するものとして特に重視し、教学大旨の理念がそこに反映されている。また小学条目二件の趣旨に従って教育を実際生活に即応させる観点から教科内容が編成されている。

 

・さらに同年7月の中学校教則大綱、同年八月の師範学校教則大網においても、特に修身を重視し、教科の最初に修身を掲げている。

 

・文部省は徳育による文教政策の刷新を徹底させるため、14年6月に文部卿福岡孝弟の名をもって「小学校教員心得」を公布した。そこには普通教育の弛張、したがって国家の盛衰は小学校教員の良否にかかっており、その任務はきわめて重大であると述べ、「尊王愛国の志気」を振起すべきことを説き、道徳教育の重要性を強調している。

 

・そして16項目にわたって教員の心得を述べている。また同年7月「学校教員品行検定規則」を制定し、教員の行為について特に取り締まりを厳重にした。

 

・このように文部省は国民道徳の観点から教員の性格を改めて教育の基礎を築き直そうとしたのであった。

 

・教学聖旨の精神の徹底は文部省の文教政策と並んで他の面からも進められた。明治天皇は、12年教学聖旨を下賜せられた前後、教学の要を確立するためには、別に一書を編集して幼学のために用いなければならないとの旨を、元田永孚侍講に伝えられた。この御親論によって元田永孚を編集の中心として、やがて「幼学綱要」の完成を見ることになった。

 

・幼学綱要は、教学聖旨をはじめとする一連の徳育振興の方策が文部省において遂行されていることと並行して、宮内省において計画編集されたものである。多くの編集委員によって、幼童教学の基本となるべき徳育に関しての意見が出されたが、要は日本化された儒教的道徳の強調であったと見ることができるであろう。

 

・その編集事情については、元田永孚のこの書に掲げられた序文の中に詳細に述べられている。

 

・20項の徳目に基づいたこの教訓書は、「明倫修徳ノ要」を知らせるものであり、また、幼童に対して「忠孝ヲ本トシ仁義ヲ先ニス」べきことを示されたものであった。

・15年12月、幼学綱要は宮内省から地方長官を通じて、全国の学校に頒賜されたのであった。

・以上のように、教学聖旨以後徳育の振興を中心とする種々の文教政策が示されている。これは明治10年代の初めごろから興隆した社会一般の復古思潮と関連をもって、儒教主義を基本とする皇国思想が政府の文教政策の中核となったことによるものであった。この思想と政策はやがて教育勅語の発布へと発展するのである。

 

3)教育令と儒教主義への回帰     

3.1)学制への批判と教育令

・こうして始まった学制と修身科は一定の啓蒙的役割を果たしたが、以下のようにいくつかの問題を抱えていた。

①教育費の受益者負担

②強制就学による労働力の喪失

③実生活を無視した教育

 

・さらに、同時期、士族の反乱や自由民権運動により政治的緊張の高まっており、これに相まって、明治政府の欧米化政策に対して強い反発が表れるようになった。このような中で、もともと、「欧米化」により日本人としての精神が失われることに強い危機感を持っていた儒学者からは「教育の精神的よりどころを従来の儒学的思想に置くべきだ」との意見が噴出した。

 

・そうして、明治12年に『教学聖旨』が提示されることとなる。これは、維新以来の欧米化政策に対する憂慮と、それによる古来からの儒教主義的道徳観にもとづく教育の確立という「時代の要望」であったともいえる。

 

・この文書は天皇による聖旨という形で書かれているが起草を担当したのは儒学者で天皇の侍講の元田永孚であった。しかし、天皇の名を使ったものであっただけに影響は大きく、同年には早速、修身において翻訳書を使用禁止となった。そして、これ以降、日本の教育政策は知育重視から徳育重視の方針に転換することになる。

 

・この聖旨の具体的内容は、自由民権運動などの問題(風俗の乱れ)は維新以来の「教育が知育主義に走り道徳教育をないがしろにした」ことが原因と批判し、「仁義忠孝」を中心とした伝統的な儒教的な道徳教育を中心に教育を進めるべきであると主張するものであった。

 

・これはつまり、「列強を恐れすぎて近代化を急ぎすぎたので、これを修正しよう」というものであったが、同時に特定の道徳観念を強制するものでもあった。

 

・ただし、この教学聖旨に対しては開明派官僚の反対が相次いだ。例えば、伊藤博文は『教育議』(1879)の中で「風俗の乱れは欧米化によるものではなく、急激な社会構造の変化によるもの」であるとし、「科学的な知識教育こそがそのような問題を失くしていく方法だ」と主張した。

 

・これに対して、また、元田は『教育議附議』を提出し反論するがその意見は認められず、同年従来の学制を廃止し『教育令』が公布された。

 

・なお、後の改正教育令と区別するため、この教育令を『自由教育令』と呼ぶこともある。その主な内容は「就学義務の緩和」や「学務委員の選挙による選出」など自由・放任主義を原則とするものであったが、道徳教育に関しては特に重視されたりすることなく従来と変わらない扱いであった。

 

3.2)改正教育令

・前述のように、明治12年には学制を廃止して新しく教育令が公布されたが、教学聖旨などの儒教主義への回帰主義に逆らうことはできず、翌年明治13年に「改正教育令」としてその内容をガラリと変えることになる。

 

・この改正教育令の特徴は教科の順番で修身が一番先頭に来ていることであり、以後、太平洋戦争が始まるまで学校教育においては「修身」が筆頭となることとなった。

 

・具体的には、例えば、この翌年明治14年に作成された『小学校教則綱領』では小学校における修身科の授業時間数が学制の時に比べて12倍に増え、同年にこの改正教育令に基づいて作られた『小学校教員心得』では教師は児童・生徒に知識を教え込むのではなく道徳性を持たせるべきであるとされた。

 

・さらに、その修身科の内容も儒教色の濃いものとなった。例えば、前述のように修身科の教科書として翻訳書を禁止した一方で、元田永孚の『幼学綱要』(明治15年)や、西村茂樹の『小学修身訓』(明治13年)『小学修身書』(明治16年)など新しい教科書を儒学者によってつくらせた。

 

・また、明治15年の文部省による『小学修身編纂方大意』においては「儒教が日本固有の道徳倫理に密接に関係している」「欧米の倫理学は日本の風土に合わない」といったことがと書かれており、これにもとづいた教科書からは西洋の格言などが姿を消した。

 

・このような「道徳教育重視」の流れによって、この時代の学校教育は干渉主義・統制主義の強いものになった。前述のような教科書の統制だけではなく、明治14年には『教員品行検定規則』によって「教師の反体制的言動・思想」が規制の対象となったり、修身科以外の教科に対しても内容干渉がおこなわれたりするようになり、各教科の自立性が失われる結果となった。

 

3.3)徳育論争

・しかし、このような流れが素直に受け入れられたわけではなかった。早くは、先に述べたように伊藤博文が『教育議』によって儒教主義的教育への回帰に反発し、また、福沢諭吉も明治15年に『徳育如何』という論文を発表して、「道徳教育は国民の自主的な議論に基づいたものであるべきだ」と反論を加え、「儒教主義的教育の根源となっている信仰や服従の精神」を批判した。

 

・また、西村茂樹も『日本道徳論』(明治20年)で「儒教は『やってはいけないこと』ばかりを教えており、自主性が育たない」と指摘した。なお、先に述べたように彼は修身科教科書として『小学修身訓』を書いたが、これは西洋と東洋の哲学・倫理観をうまく組み合わせて折り合いをつけようとしたものであって、儒教主義一辺倒のものではなかった。

 

・初代文部大臣であった森有礼もまた、このような儒教主義に批判的立場にあった。彼は道徳教育に「自発性」を求め、忠孝道徳の暗記を強要する儒教主義には限界があると主張し、明治20年に刊行した『倫理書』で「自分と他人は常に助け合って生きている」という自他併立の倫理観を発表した。

 

・また、道徳教育は修身科によって言葉で教え込むよりも、体育のような「体で覚えさせえる」教科によって行われるべきだとした。

 

・また、別の立場・主張も存在した。例えば、杉浦重剛は『日本教育言論』(明治20年)の中で、儒学と洋学を基礎として日本古来の倫理観に基づく道徳教育をすべきだと主張した。

 

・また、加藤弘之も明治20年に『徳育方法案』を発表し、「道徳教育を宗教の中に求める」ことを主張した。彼によると、道徳教育において一番大切なのは「愛国心」を育てることであり、そのためには儒教だけではなく、神道、仏教、キリスト教なども組み合わせて教育をおこなうべきであるとした。

 

・このように1880年代に起こった道徳教育に関しての議論を「徳育論争」と呼ぶが、能勢栄はこの様子をみて、「どの論も甲乙付けがたく、限りがない」といったという。そして、彼はこの徳育論争のまとめとして明治23年に『徳育鎮定論』を刊行した。

 

・その内容は、洋学主義や儒教主義といったような「ただ1つの主義を決めて道徳教育をおこなう必要はない」と主張し、日本人が昔から持っている「コモンセンス」を大切にして道徳教育をおこなうべきだというものであった。

 

・このように、道徳教育に関する議論は収束することなく、混迷を極めた。しかし、結局、『教育聖旨』という天皇の名によって発せられた方針にあらがうことはできず、その儒教主義的な教育内容を変えることはできなかった。

 

・さらに、明治22年に森有礼が暗殺されると、政府内部からも森への批判が表面化することとなる。

 

・こうして、その翌年の明治23年には『徳育涵養ノ義ニ付建議』が提出され、『教育勅語』の渙発がなされると、事態は解決を迎えおおむね儒教的思想にもとづいた内容となった。

 

3.4)教科書

〇第1期国定教科書(明治37年使用開始)(1904)

・教育勅語以後の検定期の教科書と比べると、児童の発達段階も考慮され、各課の内容は主知的、開明的で、全体の基調としては近代的市民的倫理が強調されている。

 

・しかし、ヘルバルト主義教育論者からは、その内容が忠孝主義かつ徳目主義に偏っているとの批判がなされ(ヘルバルト主義教育論者は徹底した人物主義教授法により、子どもたちに自然に感動させる修身教育を目指した)、一方で日本主義の論者からは忠孝道徳を軽視していると批判された。

 

・尋常科4年間、高等科2年間にわたる教科書において、主要な道徳として示されているものは163あり、内容のおよその割合は以下の通り。

 

◇国家に対する道徳 - 2割:公益・興産および公民の心得など国民の義務に関するものが多い。国体についての道徳は各学年で必ず入っているが、全体の1割に過ぎない。

 

◇人間関係についての道徳 - 4割:博愛・親切・正直・人への迷惑のいましめなど社会性の市民倫理を主とするものが多い。水夫虎吉がアメリカの捕鯨船に救われた話(尋常科4年・第18課)や、ナイチンゲール(高等科1年・第25・26課)などの外国人をとりあげて、国際的な博愛を取りあげる課もある。高等科2年・第15課「人身の自由」ではリンカーンの奴隷解放をたたえるなど自由・平等・博愛の思想にもとづくものもある。

 

◇個人の道徳 - 4割:生活規律・習慣に関するもの、自主的態度に関するものが多い。学問・知識・理性の尊重などがみられる。また、「勤労、勤勉」(高等科2年・第25課)では近代的職業倫理の重要性が示されている。

 

〇第2期国定教科書(明治43年から順次発行、使用開始)(1910)

・儒教主義的倫理が強調され、さらに、軍国的教材も登場、それらが国家主義と家族主義に結合されるように構成されている。

・教育勅語を教科書の中に多く取り入れ、教科書の巻4(尋常小学校4年用)の最初に教育勅語の全文が載せられ、巻5ではいくつかの課で勅語の語句を説明し、巻6の最後の3つの課で勅語の大意を説いている。第1期の教科書において13人登場していた西洋人は5人となった。

・尋常小学校6年間にわたって示されている主要な徳目は157であり、内容のおよその割合は以下の通り。 

 

◇国家に対する道徳 - 25%:「国民の義務」に関する内容は激減し、国体に関するものが大幅に増加し、低学年から万世一系の国体観念を持たせようとしている。また、木口小平は第1期では「勇敢」そのものの例として登場していただけだが、第2期では日露戦争における旅順港閉塞隊の例とともに「忠君」と「愛国」と「義勇」とを結びつける教材として登場している。

 

◇人間関係についての道徳 - 40%:家族関係についての儒教的道徳観が増加。祖先をまつり、家名を重んずる内容がみられ、「家」の観念が強調されている。「人の自由を守る」、「人を助ける」、「商いの正直」、「人に迷惑をかけぬ」などが削除または減少し、かわって、「廉潔」、「報恩」、「寛容」、「謙遜」などが増加または追加されている。

 

◇個人の道徳 - 35%:学校の意義、教育を受ける、過ちをなくすなどの項目が削除され、自立自営・勤勉・勤労・忍耐も各1つずつ減少。沈着・勇気を説く例話として、新たに木村重成・毛利元就の妻・加藤清正・佐久間勉艇長も登場している。

 

4)修身要領

・『修身要領』は慶應義塾が編纂した教訓集である。正式名称は『脩身要領』福澤諭吉の『修身要領』として知られているが、福澤が編纂したものではなく、実際には、福澤の弟子や子息が集まって編纂したものである。

 

4.1)成立

・福澤は、1898年(明治31年)から『時事新報』に連載された『福翁自伝』の最後で、「私の生涯の中(うち)に出来(でか)してみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすること」であると述べているように、国民の道徳を高める必要性を感じていた。

 

・しかし、同年9月26日に脳出血で倒れたため、書物を執筆することが困難になった。そのため、弟子の小幡篤次郎・門野幾之進・鎌田栄吉・日原昌造・石河幹明・土屋元作および長男の福澤一太郎等に命じて、新しい道徳から成る教訓集を編纂させることになった。

 

・教訓集は、福澤が『修身要領』と名づけて、『時事新報』明治33年2月25日号に発表された。また、同年6月に福澤が全文を揮毫し、明治34年7月25日に単行本が発行された。以下、「近代デジタルライブラリー」収録の『修身要領』からの引用を含む。

 

4.2)修身要領の内容

〔独立自尊の定義〕

第二条 心身の獨立を全うし、自(みず)から其身を尊重して、人たるの品位を辱(はずかし)めざるもの、之を獨立自尊の人と云ふ。

 

〔個人の独立自尊〕

第一条 人は人たるの品位を進め智徳を研(みが)き、ますく其光輝を發揚するを以て本分と爲(な)さざる可らず。吾黨の男女は獨立自尊の主義を以て脩身處世の要領と爲(な)し、之を服膺(ふくよう)して、人たるの本分を全(まっと)うす可(べ)きものなり。

 

第三条 自(みず)から勞して自から食(くら)ふは、人生獨立の本源なり獨立自尊の人は自勞自活の人たらざる可(べか)らず。

 

第四条 身體を大切にし健康を保つは、人間生々(せいせい)の道に缺く可らざるの要務なり。常に心身を快活にして苟(かりそ)めにも健康を害するの不養生を戒む可(べ)し。

 

第五条 天壽を全うするは人の本分を盡すものなり原因事情の如何(いかん)を問はず、自(みず)から生命を害するは獨立自尊の旨に反する背理卑怯の行爲にして最も賤(いやし)む可き所なり。

 

第六条 敢爲活溌(かんいかつぱつ)堅忍不屈(けんにんふくつ)の精神を以てするに非ざれば、獨立自尊の主義を實にするを得ず人は進取確守の勇氣を缺く可(べか)らず。

 

第七条 獨立自尊の人は、一身の進退方向を他に依頼せずして、自(みず)から思慮判斷するの智力を具へざる可らず。

 

〔家族の独立自尊〕

第八条 男尊女卑は野蛮の陋習(ろうしゅう)なり。文明の男女は同等同位互に相(あい)敬愛(けいあい)して各(おのおの)その獨立自尊を全(まった)からしむ可(べ)し。

 

第九条 結婚は人生の重大事なれば、配偶の撰擇は最も愼重ならざる可らず。一夫一婦終身同室、相敬愛して、互いに獨立自尊を犯さゞるは、人倫の始なり。

 

第十条 一夫一婦の間に生るゝ子女は、其父母の他(ほか)に父母なく、其子女の他に子女なし。親子の愛は眞純の親愛にして、之を傷(きずつ)けざるは一家幸福の基(もとい)なり。

 

第十一条 子女も亦獨立自尊の人なれども、其幼時に在(あり)ては父母これが教養の責(せめ)に任ぜざる可(べか)らず。子女たるものは、父母の訓誨に從(したがつ)て孜々(しし)勉勵、成長の後、獨立自尊の男女として世に立つの素養を成す可(べ)きものなり

 

第十二条 獨立自尊の人たるを期するには、男女共に、成人の後にも、自(みず)から學問を勉め、知識を開發し、徳性を脩養するの心掛を怠る可らず。

 

〔社会人の独立自尊〕

第十三条 一家より数家、次第に相集りて、社会の組織を成す。健全なる社会の基(もとい)は、一人一家の独立自尊に在りと知る可し。

 

第十四条 社会共存の道は、人々(にんにん)(みず)から権利を護り幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重して、苟(いやしく)も之を犯すことなく、以て自他の独立自尊を傷(きずつ)けざるに在り。

 

第十五条 怨(うらみ)を構へ仇(あだ)を報ずるは、野蛮の陋習にして卑劣の行為なり。恥辱を雪(そそ)ぎ名誉を全うするには、須(すべか)らく公明の手段を択(えら)むべし。

 

第十六条 人は自(みず)から従事する所の業務に忠実ならざる可らず。其大小軽重に論なく、苟(いやしく)も責任を怠るものは、独立自尊の人に非ざるなり。

 

第十七条 人に交(まじわ)るには信を以てす可し。己(おの)れ人を信じて人も亦己れを信ず。人々(にんにん)相信じて始めて自他の独立自尊を実(じつ)にするを得べし。

 

第十八条 礼儀作法は、敬愛の意を表する人間交際上の要具なれば、苟(かりそ)めにも之を忽(ゆるがせ)にす可らず。只(ただ)その過不及(かふきゆう)なきを要するのみ。

 

第十九条 己れを愛するの情を拡(おしひろ)めて他人に及ぼし、其疾苦を軽減し其福利を増進するに勉むるは、博愛の行為にして、人間の美徳なり。

 

第二十条 博愛の情は、同類の人間に対するに止まる可らず。禽獣を虐待し又は無益の殺生(せつしよう)を為(な)すが如き、人の戒む可き所なり。

 

第二十一条 文芸の嗜(たしなみ)は、人の品性を高くし精神を娯(たのし)ましめ、之を大にすれば、社会の平和を助け人生の幸福を増すものなれば、亦是(こ)れ人間要務の一なりと知る可し。

 

〔国民の独立自尊〕

第二十二条 國あれば必ず政府あり。政府は政令を行ひ、軍備を設け、一國の男女を保護して、其身體、生命、財産、名譽、自由を侵害せしめざるを任務と爲(な)す。是(ここ)を以て國民は軍事に服し國費を負擔するの義務あり。

 

第二十三条 軍事に服し國費を負擔すれば、國の立法に參與し國費の用途を監督するは、國民の權利にして又其義務なり。

 

第二十四条 日本國民は男女を問はず國の獨立自尊を維持するが爲めには生命財産を賭(と)して敵國と戰ふの義務あるを忘る可らず。

 

第二十五条 國法を遵奉(じゅんぽう)するは國民たるものゝ義務なり。單にこれを遵奉するに止まらず、進んで其執行を幇助(ほうじょ)し、社會の秩序安寧を維持するの義務あるものとす。

 

〔国家の独立自尊〕

第二十六条 地球上立國の數少なからずして、各(おのおの)その宗教、言語、習俗を殊にすと雖も、其國人は等しく是(こ)れ同類の人間なれば、之と交(まじわ)るには苟も輕重厚薄の別ある可らず獨り自ら尊大にして他國人を蔑視するは獨立自尊の旨に反するものなり

  

〔教育と文明の重要性〕

第二十七条 吾々今代(こんだい)の人民は、先代前人より継承したる社会の文明福利を増進して、之を子孫後世に伝ふるの義務を尽さざる可らず。

 

第二十八条 人の世に生るゝ、智愚強弱の差なきを得ず。智強の数を増し愚弱の数を減ずるは教育の力に在り。教育は即ち人に独立自尊の道を教へて之を躬行実践するの工風(くふう)を啓(ひら)くものなり。

 

第二十九条 吾党の男女は、自(みずか)ら此要領を服膺(ふくよう)するのみならず、広く之を社会一般に及ぼし、天下万衆と共に相率(あいひき)ゐて、最大幸福の域に進むを期するものなり。

  

4.3)特徴

・『修身要領』の特徴は、「徳教は人文の進歩と共に變化するの約束」と言うように、道徳が時代とともに変化すると述べていることである。そのため、『教育勅語』に反するものとして攻撃された。

・道徳が時代とともに変化するのであれば、『修身要領』自体の内容も時代とともに修正・変更する必要があることになる。

 

5)軍人勅諭の下賜(明治15年1月)(1882)

・『軍人勅諭』は、明治15年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という。

 

5.1)沿革

・西周(啓蒙思想家)が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正されたとされる。

 

・下賜当時、西南戦争・竹橋事件(※)・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、明治11年10月に陸軍卿山縣有朋‎が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。

 

※竹橋事件

・明治11年8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動ともいわれる。事件経過は、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊の兵卒約260名が、週番士官らを殺害、大蔵卿大隈重信公邸に砲撃を加え、周辺住居数軒に放火した。さらに天皇のいる赤坂仮皇居に進軍し、集まる参議を捕らえようとした。

 

・近衛歩兵隊、鎮台兵により鎮定された。動機は、兵役制度や西南戦争の行賞についての不平であり、大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。

 

・後に日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。

 

5.2)内容

・通常の勅語が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの文語体で、総字数2700字におよぶ長文であるが、陸軍では、将兵は全文暗誦できることが当然とされた。一方で、海軍では「御勅諭の精神を覚えておけばよい。御勅諭全文より諸例則等を覚えよ」とされることが多く、全文暗誦を求められることは多くなかった。

 

・内容は、前文で「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と天皇が統帥権を保持することを示し、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文から成る。

 

・特に「忠節」の項において「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じる。ところが大日本帝国憲法に先行して天皇から与えられた「勅諭」であることから、陸軍(および海軍の一部)は軍人勅諭を政府や議会に対する自らの独立性を担保するものと位置づけていた。

 

※陸軍の一部には「政論に惑わず政治に拘わらず」について「政府や政治家が何を言おうと気にする必要はない、ということだ」という解釈すらあったという。

 

・海軍においては政治への不関与を命じたものと位置づけるのが主流であったが、政党政治に終局をもたらせた暗殺テロ、五・一五事件に代表される急進派も存在した。

 

・戦いに於いては「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」と、「死は或いは泰山より重く或いは鴻毛より輕し」という古諺を言換え、「普段は命を無駄にせず、けれども時には義のため、喩えば天皇のため国のために、命を捨てよ」と命じたものとされるが、換言の意図は不明である。

 

※「人固有一死或重於泰山或輕於鴻毛」(人もとより一死有れども、或いは泰山より重く、或いは鴻毛より輕し)(司馬遷報任少卿書)。人の死は必然だが、その死の意味は山の如く重いこともあれば、鴻毛(ダウン)の如く軽いこともある。すなはち軍人は、みだりに死なば「鴻毛」と化すが、死ぬべき死(義のための死)は「山岳」であるということである。この古諺は「義」を説く物であるが、勅諭では主語に明示された。

 

・終戦時には、下村定大将は名古屋幼年学校時代に橘校長からならった御勅諭を読みなさいとの言葉を思い出し、「我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ」をもって、軍人勅諭には敗戦時の心得が明記されているとして、交戦を望む部下たちを説得した。

 

6)初代森有礼文相の教育政策(明治18年12月)

 ・森有礼が初代の文部大臣に就任したのは、明治18年12月であり、明治維新以来の政治変革が一段落を告げようとするときであった。森有礼はかねてから国家の発展と教育との関係については深く思いをいたしており、国の発展・繁栄のための教育を重要視していたのであった。

 

・明治18年以後における教育制度の整備の問題は、明治5年以来十数年にわたって試みられてきた新しい制度を検討し、さらに将来への見通しをもってこれを完成させようとする段階にあった。

 

・森有礼の教育方策は、国家のためにする教育の強調であって、学制の発布の際の太政官布告の中に主張された立身昌業のための学問、また『学問のすすめ』初編の中に主張されている福沢論吉の教育観とは、非常なへだたりをもつものであり、森文相の教育の主義は「国体教育主義」であった。この基本方針のもとに彼の教育政策が実施されたのであった。

 

・森文相が閣議に図った教育主義の根本に関する意見書があり、この閣議案には国家教育の目標が何であるかを詳述し、学校制度全般の整備はこの点から出発しなければならないことが示されている。その中には、次のように国体主義の教育観(※)が述べられている。

 

※国体主義の教育観

・今は文明の風駸々として行はれ、日用百般の事物漸く変遷し進む。然るに我が国民の志気果して能く錬養陶成する所ありて、難きに堪へ苦を忍び、前途永遠の重任を負担するに足る歟。

 

・20年の進歩は果して真確精醇深く人心に涵漸し、以て立国の本を鞏固ならしむるに足る歟。加ふるに我国中古以来文武の業に従い躬国事に任ずるは偏に士族の専有する所たり。

 

・而して今に至り開進の運動を主持する者僅かに国民の一部分に止まり、其他多数の人民は或は茫然として立国の何たるを解せざる者多し。

 

・蓋教育の規則粗ほ備はるも、教育の準的は果して何等の方法を以て之を成遂することを得べき乎。

 

・顧みるに我国万世一王天地と與に極限なく、上古以来威武の耀く所未だ曾て一たびも外国の屈辱を受けたることあらず。

 

・而して人民護国の精神忠武恭順の風は亦祖宗以来の漸磨陶養する所、未だ地に墜るに至らず。此れ乃ち一国富強の基を成す為に無二の資本至大の宝源にして、以て人民の品性を進め教育の準的を達するに於て他に求むることを假らざるべき者なり。

 

・蓋国民をして忠君愛国の気に篤く、品性堅定志操純一にして、人々怯弱を恥ぢ屈辱を悪むことを知り、深く骨髄に入らしめば、精神の嚮ふ所万派一注以て久しきに耐ゆべく、以て難きを忍ぶべく、以て協力同心して事業を興すべし。

 

・督責を待たずして学を力め智を研き、一国の文明を進むる者此気力なり。生産に労働して富源を開発する者此気力なり。凡そ万般の障碍を芟除して国運の進歩を迅速ならしむる者総て此気力に倚らざるはなし。長者は此気力を以て之を幼者に授け、父祖は此気力を以て之を子孫に伝へ、人々相承け家々相化し、一国の気風一定して永久動かすべからざるに至らば国本強固ならざるを欲すとも得べからざるべし」

 

・このような国家至上主義の教育観が、森文相の国体主義の教育の内容であり、この教育方針は明治20年前後に明確にされて、その後に引き継がれているのである。

 

・学校教育に関する森文相の方策は、すべて右に述べた国体主義の教育観によって貫かれていた。そしてこの主義による教育方策がしだいに実現されていった。

 

・たとえば、はじめて大学令の規程をつくった際にもこれを帝国大学と命名し、国家の須(す)要に応ずる学術技芸を教授攻究することを、大学教育の目標として規定したのである。

 

・また全国の男子17歳から27歳に至るまでのすべての者に操練を課して、護国の精神を養うべきであると右の閣議案の中で述ベている。これは忠国愛国の気が、一国文明の進歩、生産富源の開発、国運進歩の根源であるとする森文相の考えによるものであった。

 

・森文相は女子教育についても強い関心をもち、その重要性を強調しているが、その思想は国体主義の教育観と軌を一にするものであった。彼の女子教育観は東京高等女学校卒業証書授与式における演説(21年7月)などによって示されている。それによれば、人の性質の賢愚は慈母の養育のいかんに帰するものとし、「賢良なる慈母」となるための女子教育の必要を説き、また女子教育が国家社会の進歩にとって重大な意義をもつものであると述べている。

 

・右のほか、森文相が特に重視したものに地方視学政策がある。森文相は地方の教育を自ら視察して、しばしば講演や訓示を行ない、地方の教育を激励するとともにその指導監督に努めた。森文相の時代から教育の国家管理が強化されたが、政府が単に法令を定めてこれを実施するにとどまらず、地方の教育を直接に視察監督することの必要を認めていたためである。

 

・この観点から、文部省に視学部を設けて視学官を置き、視学制度の強化拡充を図った。このことも森文相の教育政策として注目すべきことであろう。 


(5)明治14年政変(国会開設の詔勅)(明治14年10月)(1881)


・明治14年に自由民権運動の流れの中、参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する参議・伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。

 

・一方、政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。これによって国会開設のスケジュールが具体的になった。実は、政府は10年もたてばこの運動もおさまるだろうと思っていたという。

 

・近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の明治23年に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。

 

・これは大久保利通暗殺後の政府部内の主導権争いでもあったが、世論がこの事件に対して激化、民権運動はさらに高揚の様相を呈したため、政府は、近い将来の議会制度確立を約束して、運動の尖鋭化を抑えようとしたものである。

 

1)立憲体制導入手法に関する意見徴集

・明治10年代の明治政府において、大久保利通亡き後、自由民権運動興隆の状況を目にした参議山縣有朋が明治12年、民心安定のために国会開設が必要だとの建議を提出したのをきっかけに、政府は参議全員に意見書の提出を求めた。

 

・国会開設運動が興隆するなかで、政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。

 

・そのような状況下で、政府は消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)とやや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。それに対し、伊藤博文は条約改正を視野に入れ、そのためには将来的に立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出している。

 

・大隈は政府内にあって、財政政策を巡って松方正義らと対立していた。更に宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定であった。

 

・薩長土肥四藩の連合が変化し、薩長二藩至上主義的方向へ姿を変えていた。またこのとき、太政大臣・三条実美が薩長と談合し、「自由民権運動と結託して政府転覆の陰謀を企てた」として、大隈の罷免を明治天皇に願い出た場面が記録されている。

 

・明治13年に入ると、立憲体制に消極的であった岩倉も自由民権運動への対応から、参議や諸卿から今後の立憲体制導入の手法について意見を求めることにした。伊藤は同年暮れに意見書を提出、条約改正を視野に入れ、そのためには将来的に立憲政体の導入が必要だという漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議した。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。

 

・伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈重信だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。明治14年3月、漸く大隈重信が左大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して「密奏」という形で意見書を提出、その中でイギリス流の立憲君主国家を標榜し、早期の憲法公布と国会の2年後開設を主張したのである。

 

・5月に内容を知った岩倉はその内容とともに自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見書を出した経緯に激怒し、太政官大書記官の井上毅に意見を求めた。

 

・井上毅は大隈重信案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)との類似点を指摘して、一刻も早い対抗策を出す事を提言、岩倉の命令を受けた井上はドイツ帝国を樹立したプロシア式に倣った君権主義国家が妥当とする意見書を作成した。

 

2)憲法制定に関する路線対立

2.1)府内での立憲体制路線の対立

・だが、大隈重信の密奏も岩倉・井上毅の意見書も他の政府首脳には詳細が明かされなかったために、伊藤がこの事情を知ったのは6月末であった。ただし、伊藤は大隈に対してのみではなく、岩倉・井上毅が勝手にプロシア式の導入を進めようとしていた事に対しても激怒して、説明に来た井上毅を罵倒した上で実美に辞意を伝えた。

 

・岩倉は伊藤に辞意の翻意を求め、井上毅も国家基盤を安定させてからイギリス流の議院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を求めたが、伊藤はイギリス式かプロシア式かは今決める事ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的であった。

 

・この間にも井上毅が伊藤の盟友・井上馨(当初は将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入れ、伊藤が薩摩閥と結んでまず憲法制定・議会開催時期の決定することを求めた。

 

2.2)開拓使官有物払下げ事件と政変勃発(大隈罷免)

・自由民権運動は、明治14年3月に起きたロシアのアレクサンドル2世暗殺事件の影響で過激な論調が現れるようになっていた。そんな折の同年7月末に『東京横浜毎日新聞』及び『郵便報知新聞』のスクープにより、薩摩閥の開拓使長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に格安の金額で官有物払下げを行うことが明るみに出ると、政府への強い批判が起こり自由民権運動が一層の盛り上がりを見せた。

 

・また、参議大隈重信は、新聞も用いて開拓使長官の黒田清隆を鋭く批判、早期の国会開設を主張した。更に大蔵省内の大隈派が黒田の払い下げ内容が不当に廉価であるとして中止を公然と主張したことから、伊藤が大隈派の「利敵行為」に激怒して一転して、「大隈と民権陣営が結託した上での陰謀」と断じて「大隈追放」に賛成する。

 

・8月31日政府内で払下げに反対していた大隈重信の処分と反政府運動の鉾先を収めるため、岩倉、伊藤、井上毅らは協議を行い、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈重信の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。

 

・天皇が行幸から帰京した10月11日に御前会議の裁許を得て、翌日国会開設の詔勅などが公表された。

 

・なお、この際に「建国の本各源流を殊にす。彼れを以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が為され、結果として自由民権運動や大隈重信の唱えるフランス流やイギリス流を否定したものの、岩倉らの進めようとしたプロシア流についても一旦は白紙撤回されることとなった。

 

3)国会開設の詔勅

国会開設の詔勅(※)は、明治14年10月12日に、明治天皇が出した詔勅であり、明治23年を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔した。詔勅の本文は、次の通り。

 

※国会開設の詔勅

・朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緒ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ歩ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。

 

顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。

 

朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。 

奉勅   太政大臣三條實美 明治十四年十月十二日

 

・この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。

 

・憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、明治17年、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば、おのずから国体が変換する」と演説した。

 

・伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。

 

・伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。大日本帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。

 

4)政変の影響

4.1)伊藤博文による憲法制定作業及び諸制度の整備

・既にプロシア式の憲法導入に積極的であった岩倉や井上毅と違い、政変後の伊藤個人は立憲体制導入の決意は固めていたものの、どの形態を採るかについてはまだ確信は得ていなかった。

 

・また、華族制度改革や将来の内閣制度導入を巡って、岩倉との間に見解の相違があることも明らかになってきた。

 

・このため、明治15年、伊藤はドイツ(プロシア)の憲法事情を研究するという名目でドイツを訪問するが、それもあくまでも岩倉の意に沿ったというだけではなく、単にイギリスやフランスの事は自由民権派の人達が研究するだろうから、彼らが研究しないドイツを選んだという選択に過ぎなかった。

 

・伊藤がプロシア式の憲法導入の決意を固めたのは、現地で指導を受けたロレンツ・フォン・シュタインの助言によるものであるとされている。伊藤は明治16年に岩倉の死に合わせるかのようにして帰国して、本格的な憲法制定作業に取り掛かることになった。

 

・また、明治17年、華族令を制定して国家の功労者にも爵位を与えて華族とし、貴族院を作るための華族制度を整えた。

 

・明治18年には太政官制を廃止して内閣制を導入し、初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任、新設された枢密院の議長にも就任した。

 

・明治21年には市制、町村制、府県制、郡制が公布され地方自治制が実施された。

 

・伊藤以降の初期内閣の構成はいずれも薩摩藩(黒田清隆)と長州藩(山県有朋)を中心にして組閣され、帝国議会の幕が開いた。

 

・以後激しい選挙干渉にて民党を抑えようとしたが、1892年(明治25年)に成立した第2次伊藤内閣の時には政府と自由党が次第に歩み寄りを進め、協力して政治を運用するようになった。

 

4.2)政変で下野した政治家・官僚の動向

・政変で、明治政府から追放されることとなった板垣退助は自由党を、福地源一郎は立憲帝政党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る10年後の国会開設の準備を図ろうとした。

 

・また、大隈は、翌明治15年10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に開設した。

 

・また、政府から追い出され下野した慶應義塾(福澤諭吉)門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することになる。横浜正金銀行の運営に携わり、「丸善」を創始した早矢仕有的、三井の中上川彦次郎、藤山雷太、小林一三など財界への基盤を確固たるものにした。

 

・伊藤らは民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。後藤象二郎を通じて自由党総理板垣退助に洋行を勧め、板垣がこれに応じると、民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出。批判した馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを板垣が逆に自由党から追放するという措置に出たため、田口卯吉・中江兆民らまでも自由党から去ることとなった。

 

・また改進党系の郵便報知新聞なども自由党と三井との癒着を含め、板垣を批判。板垣・後藤の出国後には自由党系の自由新聞が逆に改進党と三菱との関係を批判するなど泥仕合の様相を呈した。

 

4.3)自由民権運動の激化と衰退

・政変によって、自由民権運動に好意的と見られてきた大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功して、結果的にはより強硬な運動弾圧策に乗り出す環境を整える事となった。

 

・大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた。

 

・こうした背景のもとに明治14年、秋田事件(地元秋田県横手の明治政府庁舎への暴動事件)、明治15年、道路造成事業に反対した農民や自由党員らが検挙され(福島事件)、続いて、明治16年には高田事件(新潟県高田における政府転覆容疑による逮捕事件)、明治17年には群馬事件・加波山事件・秩父事件(埼玉県秩父郡での農民による政府に対する武装蜂起事件)・飯田事件・名古屋事件、明治19年には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した。

 

・こうして自由民権運動は衰退していき、明治20年、大同団結運動をおこしに政府に迫ったが、政府は保安条例を発して多くの民権運動家を東京から追放した。

 

・明治18年の大阪事件(朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結び付けようとした事件)もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。なお、政府は明治18年1月15日に爆発物取締罰則を施行した。

 

・この間、明治15年には板垣が保守主義者の暴漢に襲われた(岐阜事件)。

 

・また、明治17年には自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど打撃を受けた。

 

4.4)運動の再燃から国会開設へ

・その後、明治19年に星亨らによる大同団結運動(※)で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。

 

※大同団結運動

・明治20年~22年に発生した帝国議会開設に備えた自由民権運動各派による統一運動。

 

・自由民権運動は政府の弾圧によって衰微し、自由党は解党、立憲改進党も休止状態にあったが、明治20年にいわゆる三大事件建白運動が発生すると、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治を打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、3月に旧自由党・立憲改進党の主だった人々に呼びかけたのがきっかけである。

 

・翌明治20年にはさらに、井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動(※)が起り民権運動は激しさを増した。

 

※三大事件建白運動

・明治20年10月に片岡健吉が元老院に提出した建白書(「三大事件建白」)をきっかけに起きた政治運動。大同団結運動と並んで自由民権運動の最後を飾る運動として知られている。

 

・明治19年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行うが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示した。このため、小村寿太郎や鳥尾小弥太、法律顧問ボアソナードがこれに反対意見を提出し、更に翌明治20年には農商務大臣谷干城が辞表を提出する騒ぎとなった。これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされた。

 

 このような中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、

①言論の自由の確立

②地租軽減による民心の安定

③外交の回復(対等な立場による条約改正実現)

を柱とした「三大事件建白」と呼ばれる建白書を提出した。

 

・折りしも、後藤象二郎による大同団結運動が盛り上がっている最中であり、片岡の他に尾崎行雄や星亨もこれにこうじて民権派の団結と政府批判を呼びかけた。これに対して政府は同年12月に保安条例を発布して片岡を逮捕したほか多数の運動家を追放・逮捕してこの運動は挫折を余儀なくされた。また、この影響で大同団結運動も分裂を来たし、自由民権運動は大きな曲がり角に差し掛かる事になった。


(6)大日本帝国憲法の制定(明治22年2月)(1889)


1)概要 

・明治維新により近世の幕藩体制・封建制社会から復古的な天皇制・国民国家へと脱皮した日本国は、明治22年2月11日、大日本帝国憲法の制定により、近代市民国家へと変貌した。

 

・大日本帝国憲法は神権的な天皇制と古典的自由主義・民主主義理念が共存し、国家の統治権が天皇にあることとともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。

 

・短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けばアジア初の近代憲法である。昭和22年5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。

・昭和22年5月2日まで存続し、第73条の憲法改正手続を経て翌5月3日に日本国憲法が施行された。

憲法発布略図 明治22年 橋本(楊洲)周延画(引用:Wikipedia)

2)沿革

2.1)明治維新による国制の変化

〇体制奉還と王政復古

・日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。

 

・1867年11月の大政奉還及び1868年1月の王政復古を経て、新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。

 

・これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。

 

・大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。

 

〇版籍奉還と廃藩置県

・明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。

 

・さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。

 

・大日本帝国憲法第1条および同第4条は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。

 

・版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。

 

・大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。

 

〇身分制度の改組

・新政府は、版籍奉還の後、公卿・諸侯を華族、武士を士族、足軽などを卒族、その他の人民を平民に改組した。明治4年には士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民もひとしく公務に就任できることとした。

 

・明治5年には徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして、武士の階級的な特権は廃止された。

 

・大日本帝国憲法第19条は人民のひとしい公務就任権を規定し、同第20条は兵役の義務を規定した。

 

・帝国議会開設に先立ち、明治17年に華族令を定めて、華族に身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は華族の貴族院列席特権を規定した。

 

2.2)明治の変革

・王政復古によって設置された三職(総裁、議定、参与)のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正、福岡孝弟、木戸孝允らは公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5ヶ条にまとめた。

 

※公議政体論

・幕末から明治初期にかけて、議会制度を導入して合意(「公議輿論」)を形成することによって日本国家の意思形成及び統一を図ろうとする政治思想。佐幕派にとっては江戸幕府再生の構想として、倒幕派にとっては明治維新後の政治の理想像の1つとして唱えられた。

 

・明治元年3月14日(1868年4月6日)明治天皇がその実現を天地神明に誓ったものが五箇条の御誓文である。

 一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ

 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

 一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 

・政府は、五箇条の御誓文に示された諸原則を実施するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。政体書は、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官として、公議輿論の中心となる立法議事機関である議政官を設けることなどを定めた。

 

・しかし、戊辰戦争終結の見通しがつくとともに、政府は公議輿論の尊重に対して消極的となり、同年9月(同年10月)には議政官は廃止された。

 

・明治2年3月(1869年4月)、議事体裁取調所による調査を経て、新たに公議所が設置された。これは各藩1人の代表者により構成される立法議事機関である。広議所は同年9月(同年10月)には集議院に改組される。

 

・明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施され、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。

 

・明治7年、前年のいわゆる明治六年政変(征韓論の争議)に敗れて下野した副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平等が連署して、民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書では、官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張された。

 

・これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。

 

・また、このころには各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。代表的なものとしては、明治7年の佐賀の乱、明治9年の神風連の乱、明治10年の西南戦争などが挙げられる。 

 

立憲政体の詔書(国立公文書館所蔵)(引用:Wikipedia)

 

・明治8年4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が出された。

「朕、…ここに元老院を設け、もって立法の源を広め、大審院を置き、もって審判の権を鞏(かた)くし、又、地方官を召集し、もって民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ衆庶と倶にその慶に頼らんと欲す」

 

・すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。

 

・これは、大久保利通、伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允、板垣退助らの民権派の会談である大阪会議の結果である。

 

・また、地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して、各府県に民選の府県会(地方議会)を設置した。これが日本で最初の民選議院である。

 

2.3)私擬憲法

・明治7年からの自由民権運動において、さまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。

・政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、明治8年の讒謗律、新聞紙条例、明治13年の集会条例などさまざまな法令を定めた。明治20年の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。

・私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。

・天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。

・例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。

 

2.4)制定への動き

・明治9年9月6日、明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発した。

 

・この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じている。

 

・元老院はこの諮問に応えて、憲法取調局を設置した。明治13年、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、大蔵卿・大隈重信も「憲法意見」を提出した。

 

・このうち、日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなどベルギー憲法(1831年)やプロイセン憲法(1850年)の影響を強くうけていたため、岩倉具視・伊藤博文らの反対にあい、大隈の意見ともども採択されるに至らなかった。 

 

国会開設の勅諭(引用:Wikipedia)

 

・岩倉具視を中心とする勢力は明治14年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。その結果、明治14年10月12日に次のような国会開設の勅諭が発された。

 

・この勅諭では、第一に、明治23年の国会(議会)開設を約束し、第二に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。

 

2.5)制定までの経緯

・明治15年3月、「在廷臣僚」として、参議・伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を始めた。

 

・伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。

 

・その結果、プロイセン(ドイツ)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。

 

・伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。

 

・翌明治16年に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。

 

・明治18年には太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。

 

・井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレルやアルバート・モッセなどの助言を得て起草作業を行い、明治20年5月に憲法草案を書き上げた。

 

・この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。

 

・当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、相州金沢の東屋旅館に移り作業を継続する。

 

・しかし、メンバーが横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、明治21年4月に成案をまとめた。

 

・その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は明治22年1月に結了した。

 

・明治22年2月11日君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。

 

・この憲法は明治天皇から黒田清隆首相に授けるという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。

 

・また、同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は第1回帝国議会が開会された明治23年11月29日に施行された。

 

・国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。

 

・当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。

 

・自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。

 

・また、福澤諭吉は主宰する『時事新報』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。

 

・中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついている。

 

 2.6)制定後の出来事

・明治24年、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。

 

・この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。

 

・かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。

 

・もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。

 

・昭和5年、ロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に対し、野党と海軍軍令部、右翼団体が、政府による統帥権の干犯であると難じ、内閣総理大臣・濱口雄幸が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。いわゆる統帥権干犯問題である。これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。

 

・昭和10年、貴族院議員で陸軍中将の菊池武夫が、当時、通説的地位を持っていた統治機構に関する学説である天皇機関説を国体に反するものと非難。機関説の主唱者であり、貴族院議員でもあった美濃部達吉は反論の演説をするも、攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。

・また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、国体明徴声明を出し、美濃部の著書を発禁処分とした。いわゆる天皇機関説事件である。

 

・ちなみに、昭和天皇はこのとき、「機関説でよいではないか」と側近に漏らしていたという。近代立憲国家の一般的な理解でさえも押し潰されたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治はその実質を失ったことを示す。

 

3)特徴

3.1)欽定憲法

 

大日本帝国憲法下の統治機構図(カッコで括った機関は、憲法に規定がない。)(Wikipedia)

 

・この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。

・日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説(※)的と評された。

 

※王権神授説

・「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想のことである。

 

 ヨーロッパの絶対王政期において、長らく「神の代理人」とされてきたローマ教会の権威・権力からの王権の独立と、国民に対する絶対的支配の理論的根拠となった。

 

 前述のごとくヨーロッパの絶対主義の場合は、王権に対するキリスト教会という精神的な権威が一方にあり、両者が棲み分けをしうまくバランスをとる形になったが、第二次世界大戦前の日本では状況が異なり天皇の“神格”という概念と、天皇の“大権”(政治的権力)という概念とが結びついて一極集中の巨大な力となり、その支配が人間の内面にまで及んだ(国家神道)。

 

 日本において見られた、このようなバランス勢力や抑止作用を欠いた危険な構造が第二次世界大戦での日本の暴走と悲惨な結果を生んだ、と指摘されることもある。

 

 小室直樹によれば、明治の初年、伊藤博文は立憲政治の前提として「宗教なるものありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一」することが必要であるとし、立憲政治、民主主義政治はその機軸に宗教がなければ機能しないと理解していたとする。

 

 日本はペリーにより開国させられ不平等条約を結ばされたが、外国と対等に付き合うため日本を近代化すべく立憲政治へ移行したいが、日本には一神教といえるほどの宗教が無かった。

 

 小室の理解によれば、世界の植民地は独立するに際して、どの植民地もデモクラシー憲法を制定したにも関わらず、そのほとんどが軍部独裁や先軍政治へなだれ込んでしまった原因は、その機軸に一神教を設定しなかったからである。

 

 伊藤は「我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」とし、皇室をもって立憲政治の機軸たる一神教へ昇華させ、日本人の心を一つにまとめて日本近代化の礎石にしようと考えた。皇室を「ヨーロッパ文化千年にわたる機軸を成してきたキリスト教の精神的代用品」と捉えたのである

 

 明治初年の当時はまだ天皇の知名度は低く、民衆は天皇の存在を知らないばかりか、知っていても天皇をインド渡来の低位神である天王と誤解していたり、天皇が我ら日本国民になにかしてくれた事があるのかなどと嘯く者の出るありさまであった。

 

 宗教が発祥するためには奇跡が必要である。その後、日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝つこととなる。日本より文化的に優れていると信じ込んでいた中国に勝ち、日本の20倍も強いロシア軍を降して勝利した。

 

 この奇跡によって日本国民は天皇を天照大神の子孫であり最高神の一柱であるとして信仰するようになり、明治の初めには一部の尊皇家だけのものであった尊皇思想は全国民に行き渡り、伊藤博文の目論見どおり天皇教が宗教として成立し、大正には日本はすでに近代先進国家の一員としての道を歩んでいたのである。

 

 ところが昭和に入り大東亜戦争と太平洋戦争に敗れ、GHQの占領統治で天皇の人間宣言が指令されるに至って、神たる天皇と日本国民との絆は断ち切られることとなる。日本は立憲政治の基盤を失い、国民は精神的支柱を失って、日本人全体が急性アノミーを引き起こし、この精神疾患の特徴的症状として、日本人の独立自尊の精神はアメリカ依存自虐へと正反対に転向してしまった、と指摘する。(小室直樹「日本人に告ぐ」)

 

3.2)立憲主義の要素

・立憲主義の要素としては次の諸点がある。

 言論の自由、議会制、大臣責任制・大臣助言制、司法権の独立

 

〇言論の自由

・言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が法律の留保のもとで保障されていること(第2章)。これらの権利は天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」とされた。日本国憲法ではこれらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と規定する。また、権利制限の根拠は、「法律ニ定メタル場合」、「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。

 

〇議会制

・帝国議会を開設し、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また、帝国議会は法案提出権や予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。上奏権や建議権も限定付きながら与えられた。

 

〇大臣責任制・大臣助言制

・天皇の行政大権の行使に国務大臣の輔弼を必要とする体制(第4章)。内閣や内閣総理大臣に関する規定は憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされ、国務大臣(各省大臣)に対する指揮監督権や任免権もないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。

 

〇司法権の独立

・司法権の独立を確立したこと。司法権は第57条で天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は司法裁判所にはなく行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。

 

3.3)国体の要素

・国体の要素としては次の諸点が挙げられる。

 万世一系、総攬者、天皇大権、唯一の立法機関、統帥権、皇室自律主義

 

〇万世一系

・大日本帝国憲法では皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。

 

『告文』(憲法前文)には以下のような文章がある。

 …天壤無窮ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(かんながら)ノ宝祚ヲ承継シ…

— 『大日本帝国憲法』告文, 日本の憲法

 

 輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…

 

・そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」(※)のような詩的な文言がもちいられたのはこれが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも公式な告知や発表文でも広く使われて周知されていった。

 

※万世一系

◆伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、万世一系を以下のように定義している。

  第一:皇祚を践むは皇胤に限る。第二:皇祚を践むは男系に限る。第三:皇祚は一系にして分裂すべからず

 

◆国体の本義:大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

 

〇総攬者

・「天壌無窮ノ宏謨(こうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首、統治権の総攬者としての地位に置いた。この天皇が日本を統治する体制を国体という。

 

・同憲法は天皇を第三条で神聖不可侵と規定し、第四条で統治権を総攬する元首と規定した。つまり形式上は天皇が権力の総元締ということになった。

 

・天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、高山樗牛、井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。

 

・井上らの国体論は、古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。

 

・これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。

 

・憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は、「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。

 

〇天皇大権

・天皇が天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。

 

・なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使することはなく、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。

 

〇唯一の立法機関

・天皇が唯一の立法機関とされ、帝国議会は立法機関ではなく、天皇の立法協賛機関とされたこと(第5条)。天皇の立法権は概ね法律の裁可が中心で、議会は立法協賛組織であり、法律制定には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であった(第55条)。

 

・つまり、大臣の副署を経てから天皇が裁可し法案が成立する、という形式である。同時代の君主国憲法の多くが立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であるといえる。

 

・さらに、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員から成る衆議院と公選されない華族から成る貴族院の二院で構成され、貴族院に衆議院とほぼ同等の権限を持たせた。

 

・また、枢密院など内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。このほか、元老、重臣会議、御前会議など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。

 

◆枢密院

・枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。明治21年創設、昭和22年に廃止。

 

◆元老

 戦前の日本において、政府の最高首脳であった重臣である。大日本帝国憲法は元老についての規定を明記しておらず、憲法外機関とされる。法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって元老としての地位を得て、主権者たる天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦、開戦・講和・同盟締結等に関する国家の最高意思決定に参与した。

 

◆重臣会議

 昭和時代に元老の職掌を引き継ぐ形で、後継の内閣総理大臣の選定や国家の重要事項に関して、天皇の諮問に答える形で開かれた会議。構成要員は内閣総理大臣経験者及び枢密院議長とされている。

 

◆御前会議

 大日本帝国憲法下の日本において、天皇も出席して重要な国策を決めた会議である。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争の開始と終了に関して開かれた、天皇・元老・閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。

 

〇統帥権

・統帥権を独立させ、陸海軍は議会や政府に対し一切責任を負わないこと。統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、シビリアンコントロールの概念に欠けていた。

 

・統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、軍部大臣現役武官制とともに軍部の政治力の源泉となった。

 

・後に、昭和に入ってから軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。

 

〇皇室自律主義

・皇室自律主義を採り、皇室典範などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。

・宮中(皇室、宮内省、内大臣府(※))と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる内大臣が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。

 

※内大臣府

・戦前の日本に存在した政府機関(宮内省の外局)の一つ。宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務などを所管した政府機関である。1885年創設、1945年廃止。長は内大臣。

 

・ 1885年に内閣制度を発足させた折、内閣を構成し国務を司る国務大臣(内閣総理大臣を含む)とは別に、明治維新時に廃止された内大臣を宮中の大臣職として復活させた。さらにその職掌を司る庁として、内大臣府が新設された。令外官時代の略称が内府(だいふ)であったことと、内務大臣(内相)と区別する必要から、内大臣は大臣でありながら内府と呼ばれた。

 

・明治政府下における内大臣は、親任官である宮内大臣・侍従長とともに、常に天皇の側にあって補佐(常侍輔弼)する官職であった。具体的には、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、国民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、聖旨に従ってこれを処理するなど、側近としても重要な役割を果たした。

 

 3.4)分立主義

・本憲法の統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)。

 

・そして、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上機務六条(※)、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者(元老など)を必要としていた。

 

・行政権であるが、日本国憲法と異なり連帯責任ではなく、第55条で各国務大臣は天皇を輔弼し個別に責任を負うものであった。

 

※機務六条

 明治19年9月7日に明治天皇と伊藤博文(内閣総理大臣兼宮内大臣)が内閣を代表する形で交わした約束事。これによって、天皇と内閣の関係を規定すると同時に、明治天皇が親政の意思を事実上放棄して、天皇の立憲君主としての立場を受け入れることを表明した。

 

・内閣に於て重要の国務会議の節は、総理大臣より臨御及上奏候上は、直に御聴許可被為在事

 

・各省より上奏書に付、御下問被為在候節は、主務大臣又は次官被召出、直接御下問被為在度事

 

・必要之場合には地方行幸被為在度事

 

・総理大臣又は外務大臣より、内外人至当之資格ある者に御陪食を願出候節は、御聴許可被仰付事

 

・国務大臣、主管事務上に付拝謁願出候節は、直に御聴許可被為在事

 

・御仮床又は入御之節は、国務大臣御内儀に於て拝謁被仰付事 但書面又は出仕等の伝奏にては到底 事情を難尽、為めに機務を処理するに於て往々機会を失する虞有之候事

 

・そしてこの、権力が割拠し、意思決定中枢を欠くという問題を解決するために、権力の統合を進めようとする動きがあった。政党内閣制はその試みのうちの有力なものである。

・しかし、そういった動きに対しては、天皇主権を否定し、「幕府的存在」を作ることになるとの反発などもあり(例:内閣官制における大宰相主義の否定、大政翼賛会違憲論など)、ついに解消されることはなかった。

 

4)大日本帝国憲法の問題点

4.1)内閣・首相のない規定

・大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣(首相)」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。

 

・グナイストは伊藤に対して、

「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」

とアドバイスした。

 

・この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になった。これが後に日本に大変な災いをもたらすことになった。

 

4.2)統帥権の独立

・前項のこの欠陥に気づいた軍部が政府を無視して暴走しはじめたのである。「陸海軍は天皇に直属する」という規定をたてに政府の言うことを聞かなくなった。これが「統帥権干犯問題」の本質でもある。

 

・昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。

 

・第一は第11条に規定されている「天皇は陸海軍を統帥する」という規定であった。内閣や帝国議会は軍部に対して直接関与できなかった(これが、後の統帥権干犯問題を引き起こすこととなった)

 

4.3)臣民の権利の制限

・第二は第21条で規定された「法律の範囲内において自由である」という臣民の権利であった(後に治安維持法などで権利の制限を行うようになる)

4.4)超然主義

・黒田清隆首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢(超然主義)」を示し、議会と対立した。

 

(参考)立憲主義・外見的立憲主義

・フランス革命、名誉革命という立憲主義の波の中、フランスと英国から国際的圧力を受けていた資本主義後進国のプロイセン=ドイツでも、人権・自由の保障を求める三月革命が起るが、前期的資本を上からの革命によって産業資本へ転化させようとする流れによって、三月革命は頓挫を余儀なくされ、1871年ビスマルク憲法 (ドイツ帝国憲法) によって立憲君主国としてドイツの統一が実現する。

 

・日本でも、ドイツと同じ流れの中で、明治維新が起こり、1889年大日本帝国憲法が成立するが、ドイツ帝国憲法と大日本帝国憲法は、いずれも旧体制の機構の温存こそが目的であって、人権や自由の保障を目的とするものではなく、そこでの権利は恩典的な性質のものとされたことから、外見的立憲主義による憲法と呼ばれることになる。

 

・このうち、ドイツでは実際にも親政が行われ、伝統的な支配体制がある程度機能していた。他方、日本では天皇大権は当初から有名無実であり、憲法の規定と政治の実態がはなはだしく乖離していた。その矛盾は後に国家法人説に基づく天皇機関説事件や統帥権干犯問題として噴出することになる。


(7)教育勅語と井上文相の教育改革


1)教育勅語の公布

1.1)明治憲法の発布と教育勅語(明治22年2月)

・明治14年に国会開設の詔勅が発せられて後、政府は憲法制定の準備を進め、明治22年2月11日に「大日本帝国憲法」(明治憲法)が発布された。その後はこの憲法に基づいてわが国の政治が行なわれ、したがってその後の教育行政はこれを基本として実施されたのである。

 

・明治憲法には、教育に関する規定は設けられなかったが、教育の基本となる勅令を発する根拠となる条文があり、また教育行政の基本となる官制等の制定に関する条文が設けられている。これらは天皇の大権事項として定められているのである。

 

・教育行政組織の基本をなすものは官制であり、それはすでに内閣制度創設以後定められていたが、憲法によってその基礎が与えられた。憲法第10条には、行政各部の官制、文武官の俸給の制定、文武官の任免を天皇の大権事項として定めている。

 

・これに基づいて勅令をもって各省官制、地方官官制、直轄学校の官制等が制定され、また高等官・判任官の官等俸給令が定められた。このように明治憲法においては法律によらず勅令をもって行政組織の基本が定められ、これに基づいて教育行政が実施される組織となっていたのである。

 

・教育に関する規定を憲法の条文中に設けるか否かについては、憲法の起草過程において問題とされたが、結局設けられなかった。そこで教育に関する重要事項、特に教育の目的・内容等に関する基本事項は勅令をもって定められることとなったのである。

 

・明治23年の小学校令制定に際し、帝国議会の開会を目前に控えて、これを法律によるか勅令とするかについての論議もなされたが、結局勅令をもって公布された。その後は教育に関する基本法令は勅令をもって定められることとなった。

 

・明治憲法には第9条に、法律の執行、公共の安寧秩序の保持、臣民の幸福の増進のために必要な命令を発することを天皇の大権事項として定めており、右の勅令はこの条文に基づくものといえる。このことは明治憲法下における教育法令の勅令主義とよばれ、教育行政の基本的性格をなすものである。 

 

1.2)教育勅語の起草と発布(明治23年10月)

・明治20年代の初めに確立されたわが国独自の近代国家体制は、政治の面では大日本帝国憲法によってその基礎が置かれた。

 

・他方、国民道徳の面からこの体制の支柱として位置づけられるのが「教育に関する勅語」(教育勅語)である。教育勅語は元田永孚の起草になる明治12年の教学聖旨の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にも支えられ、両者の結合の上に成立したものといえよう。

 

・また日本軍隊の創設者であり、軍人勅諭の発案者でもあるといわれる山県有朋が内閣総理大臣として参画したことも注目すべきである。教育勅語が発布されると、やがて国民道徳および国民教育の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。

 

・明治20年前後において、わが国の近代学校制度がしだいに整えられたのであるが、その際国民教育の根本精神が重要な問題として論議されたのである。

 

・明治12年に教学聖旨が示されたが、15年以後になると、条約改正問題を控えて欧化主義思想が国内を支配し、従来の徳育の方針と激しい対立を示すようになった。そして徳育の方針に関し、論者は互いに自説を立てて論争し、いわゆる「徳育の混乱」と称せられる状況を現出し、明治20年前後における徳育の問題は、各種各様の意見が並立して修身教育をも混乱させることとなっていた。

 

・地方の教育界においてもこのことが問題となり、どのような方針によって修身科の教授をなすべきかの論議あり、明治23年2月末の地方長官会議において、徳育の根本方針を文教の府において確立し、これを全国に示してほしいという趣旨の建議を内閣に提出するようになった。

 

・この建議は閣議においても取り上げられて論議され、明治天皇の上聞に達した。同年5月榎本文相に代わって文部大臣に就任した芳川顕正の親任式に際して、明治天皇から特に箴言編纂のことが命ぜられ、その後、徳育の大本を立てる方策が急速に進められ、教育勅語の成立に至っている。

 

・教育勅語は、総理大臣山県有朋と芳川文相の責任のもとに起草が進められた。最初は徳育に関する箴言を編纂する方針であったが、やがて勅語の形をとることとなった。起草について、はじめ中村正直に草案を委託したようであるが、その後当時法制局長官であった井上毅の起草した原案を中心として、当時枢密顧問官であった元田永孚が協力し、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものであるとされている。

 

・明治23年10月30日、明治天皇は山県総理大臣と芳川文相を官中に召して教育に関する勅語を下賜された。これによって国民道徳および国民教育の根本理念が明示され、それまでの徳育論争に一つの明確な方向が与えられたのである。

 

1.3)教育勅語の下賜(明治23年10月)

・教育勅語は、明治23年10月30日に、明治天皇の名で発表された勅語であり、その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国では、修身・道徳教育の根本規範と捉えられた。

 

・教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。

 

・続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。

 

・以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。

 

・これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日本人に適用するわけにもいかず、かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた儒教や仏教を使うことも明治政府の理念からすれば不適切であった。

 

・このため、伝統的な道徳観を、天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。

 

・こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学及び明の朱元璋の発表した六諭からの影響が指摘されている。

 

(参考)教育勅語に示された12の徳目

 1 親に孝養をつくそう(孝行)

 2 兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)

 3 夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)

 4 友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)

 5 自分の言動をつつしもう(謙遜)

 6 広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)

 7 勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)

 8 知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)

 9 人格の向上につとめよう(徳器成就)

10 広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)

11 法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)

12 国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)

 

1.4)教育勅語発布後の教育

・徳教に関する勅諭のことが内閣において議せられている間に、芳川文相はどのようにしてこの勅諭を奉体し聖旨を全国に公布すべきかについて方策を練っていた。

 

・明治23年9月26日芳川文相が山県総理大臣に提出した閣議を請う文にはくわしく奉体の方法が述べられている。このように政府は教育勅語発布以前から勅語奉体の方法等を慎重に考慮し、その精神の徹底について企画していたのである。

 

・教育勅語が発布されると、芳川文相は翌10月31日勅語奉承に関する訓示を発し、勅語の謄本が各学校に下賜され、学校では奉読式を行なった。

 

・なお24年6月に制定した「小学校祝日大祭日儀式規程」によれば、紀元節・天長節などの祝日・大祭日には儀式を行ない、その際には「教育二関スル勅語」を奉読し、また勅語に基づいて訓示をなすべきことを定めている。このように教育勅語は教育の大本を明示する神聖な勅諭として厳粛な雰囲気のもとで取り扱われることとなったのである。

 

・教育勅語が発布されると、直ちに「勅語衍義」すなわち解説書の編纂が企画され、多くの学者・有識者の回覧と意見を求め、24年9月に「勅語衍義」を刊行した。その後、勅語衍義は師範学校・中学校等の修身教科書として使用された。このほか民間でも多数の解説書を出版している。

 

・教育勅語は、小学校および師範学校の教育に特に大きな影響を与えたが、なかでも修身教育において顕著であった。24年11月の小学校教則大綱は23年の小学校令に準拠して定めたものであるが、同時に教育勅語の趣旨に基づくものであった。

 

・特に「修身」について、授けるべき徳目として、孝悌、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹等をあげ、特に「尊王愛国ノ志気」の涵養を求めている。

 

・歴史(日本歴史)についても、「本邦国体ノ大要」を授けて「国民タルノ志操」を養うことを要旨とし、また修身との関連を重視している。このように教則大綱を通じて教育勅語の趣旨の徹底を図った。

 

・小学校の修身教科書は、教育勅語の趣旨に基づいて特に厳格な基準によって検定が行なわれることとなった。当時の小学校修身教科書を見ると、毎学年に勅語に示された徳目を繰り返す編集形式がとられ、これは後に徳目主義と呼ばれているもので、教育勅語発布直後の修身教科書の特色である。

 

・30年代になると、ヘルバルト派の教育思想の影響により、歴史上の模範的人物を中心として編集した人物主義の修身教科書が多くあらわれたが、その際にも人物に教育勅語に示された徳目を配置して編集しており、教育勅語の趣旨は一貫している。

 

・師範学校について見ると、明治25年に尋常師範学校の学科課程が改正されたが、その際従前の「倫理」を「修身」と改め、毎週教授時数も1時間から2時間に増加している。そして修身の教授要旨を「教育二関スル勅語ノ旨趣二基キテ人倫道徳ノ要領ヲ授ク」と定めている。

 

・師範学校は国民一般の教育にたずさわる小学校教員を養成する所であり、そのため政府は特に師範学校に対して教育勅語を徹底させる方策をとったものと見ることができる。

 

1.5)明治政府の修史事業

・明治期に新政府によって進められた正史(国家史)の編纂事業は、次のとおりである。

 

・明治2年、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明、明治9年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。しかし明治10年に財政難のため修史局は廃止され、代わって太政官修史館が設置された。またこの際、『大日本史』を準勅撰史書と定め、編纂対象も南北朝以降の時代に変更された。

 

・この修史事業に携わっていたのは前記「修史の詔」が漢文による正史編纂を標榜していたことから分かるように基本的に漢学者であり、明治8年以降修史局の幹部であった重野安繹は、明治13年『東京学士会院雑誌』に「国史編纂の方法を論ず」を発表し、清代考証学の伝統を引く実証的方法論を主張していた。

 

・しかしこのような方法論をめぐっては修史館内部にも意見の相違があり、明治14年の機構改革に際し川田剛・依田学海が修史館を去った背景には、彼らと重野・久米邦武・星野恒との間に編纂方針をめぐる対立があったという見方もある。

 

・以後、修史事業は重野・久米・星野を中心に行われ、明治15年には漢文体編年修史『大日本編年史』の編纂事業が開始された。また重野らにより所謂「抹殺史学」を唱道する論考が書かれるようになったのもこの頃からである。

 

・しかしその急進的な主張は、修史事業において非主流派の位置に追いやられた国学系・水戸学系歴史家(多くは皇典講究所に拠っていた)との対立を激化させることとなった(これがのちの久米の筆禍事件に発展した)。この間修史館はいくつかの改編を経て帝国大学(東京帝国大学の前身)に移管、最終的には同大学の史誌編纂掛となり、また1889年には修史事業の柱の1つと目されていた『復古記』(王政復古関係史料集)が完成した。

 

・しかし明治25年、論文「神道ハ祭天ノ古俗」の筆禍事件(久米邦武筆禍事件)(※)により久米が帝大文科大学教授を非職になると、翌明治26年、井上毅文相は『大日本編年史』編纂事業の中止と史誌編纂掛の廃止、さらに重野の同掛編纂委員長嘱託罷免に踏み切った(同年、重野は帝大教授も辞職した)。これ以降、国家機関による史書編纂は正史の編纂ではなく史料編纂の形で行われることとなり、事件後、帝大に設置された史料編纂掛(1929年:史料編纂所に改称)による『大日本史料』の刊行を中心的な事業とした。

 

※久米邦武筆禍事件

・久米邦武(佐賀藩出身)の論文「神道ハ祭天ノ古俗」を明治25年に田口卯吉が主宰する『史海』に転載したのをきっかけに問題となり、帝国大学教授職を辞することとなった事件である。この問題は、学問の自由(特に歴史学)と国体とのかかわり方について一石を投じた。政治に対する学問の独立性及び中立性を考えさせるものになった。この事件の経過は、次のとおり。

 

・明治24年1月 「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』に発表する。

 

・明治25年 『史海』に転載する。このとき、主宰者の田口卯吉は以下の文を掲載する。

「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシテ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サザルベカラズ」と述べ、神道家を挑発する。

 

・明治25年2月28日 神道家の倉持治休、本郷貞雄、藤野達二、羽生田守雄は久米邦武に詰め寄る。翌日も論文撤回を要求する。

 

・明治25年3月3日 久米は新聞広告を出し、論文を取り下げる。しかし、彼は、主張は曲げていない。

 

・明治25年3月4日 帝国大学教授職非職

 

・明治25年3月5日 『史学雑誌』第二編第23、24、25号及び『史海』第8号に発禁処分となり、一応の決着となる。

 

・明治25年3月29日 修史編纂事業の是非の議論起こる。そして、翌日、史誌編纂掛を廃止を決定し、  4月7日に帝国大学総長浜尾新に通達する。

 

・明治26年4月10日 重野安繹、星野恒ら編集委員を解任

 

・なお、昭和に入って国体明徴運動の影響を受けて再び正史編纂の動きが高まり、文部省主導で国史編修院が設置されるが、実際にスタートしたのが太平洋戦争終結後(1945年8月)で、すぐにGHQに目を付けられてわずか半年余りで廃止を命じられることになった。

 

2)井上文相と教育改革(明治26年3月)

・明治26年3月井上毅が文部大臣に就任した。井上毅は伊藤博文に協力して明治政府の政策の中枢に参画し、明治憲法の制定、教育勅語の起草などに重要な役割を果たした。

 

・井上文相の教育政策は、その経験と彼のすぐれた識見に基づいて展開され、近代教育制度の確立と整備の上に重要な位置を占めることとなっている。

 

・井上文相は森文相によって設定された教育制度の基本構成を受け継ぎ、これを修正して発展させるとともに、時代の趨勢に即応してこれを補充整備する政策を展開したものとみることができる。

 

・井上文相の教育政策は、明治20年代におけるわが国独自の近代国家体制の確立に即応しつつ、資本主義社会の発展、その中核をなす近代産業の発達についての展望のもとに実施された。

 

・彼は新しい時代が求める国家に有用な人材の育成を目標として教育制度全般の改革を意図したのであった。その最も特徴的なものは産業教育振興政策であり、特に工業技術者・技能者の大量養成に重点が置かれた。その政策のもとに、実業補習学校規程・工業教員養成規程・徒弟学校規程・簡易農学校規程が制定され、また実業教育費国庫補助法の成立を見たのである。

 

・さらに実用に即する人材を育成する観点から、尋常中学校の実科規程、また実科中学校の制度を設けた。高等教育についても同様の見地から、高等中学校を廃止して専門学科を本体とする高等学校を設けることとし、新しく高等学校令を公布した。

 

・以上のように、井上文相の教育政策は森文相の教育改革を受けて、これを補完し発展させたばかりでなく、さらに教育制度の根本的再編制を構想し企画していたものと見るべきことができる。

 

・その施策の中には、在任中には実施されず退任後に実現を見たものもあり、実施の結果が政策の意図に反する実態を示したものもあったが、その後の教育改革の基礎となった点で、重要な意義を認めるべきであろう。

 

3)学科課程と教科書の制度

3.1)諸学校の学科課程の整備

・明治19年の各学校令により、諸学校は学校種別に制度化されたが、文部省はそれぞれの学校令に基づいて省令をもって学科課程の基準を定め、学科の編制、修業年限等とともに学科課程の基準について定めている。

 

・小学校については、明治23年の小学校令に基づき、24年11月「小学校教則大綱」を定め、各教科目の教授内容の基準を詳細に示している。同時に各教科目の毎週教授時間配当一例を別に示した。

 

・明治30年代には学校制度が整備され、これに伴って学科課程についても制度上いっそう整備され、教育内容の国家統轄が進められた。

 

・小学校について見ると、33年に小学校令を改定し、これに基づいて「小学校令施行規則」を定めた。これは従前の小学校教則大綱、小学校設備準則などを総括し、小学校令の施行に関する細則を省令をもって統一的に規定したものである。そして学科課程の基準はこの施行規則の中に含まれることとなった。

 

・なお小学校については明治36年に国定教科書制度が確立され、その後は教育内容の細部まで国家統轄が及ぶこととなった。中学校、高等女学校及び師範学校についても学科課程の基準や各学科目の教授内容を詳細に示し、これらの学校の教育内容が国家的見地から統一化されるに至った。

 

3.2)教科書検定制度の実施

・小学校の教科書については、文部省は学制実施の当初から深い関心をもち、教科書を通じて全国に近代教育を普及させるため、その指導に努めた。

 

・明治10年代には文教政策の変化とともに、小学校教科書の取り締まりを厳重にし、14年に開申制度、16年には認可制度を設けたこと。

 

・しかしこの認可制度は府県において教科書の採択を決定してから、文部省の認可を受けて実際に使用するまでに相当の期間を要し、はなはだ不便な制度であるとして、むしろ検定制度を要望する声もあった。

 

・一方文部省でも早くから検定制度を実施する意図をもっていた。そこで教育の国家統轄が強化されるようになった森文相の時代から教科書の検定制度が実施されるに至ったのである。検定制度は小学校のみでなく師範学校・中学校の教科書についても実施したが、特に小学校の教科書については厳格に行なった。

 

・教科書検定制度の実施については、小学校令および中学校令中に、これらの学校の教科書は文部大臣の検定したものに限ると定めており、また師範学校令では文部大臣の定めるところによると規定している。これに基づいて、明治19年5月に「教科用図書検定条例」を定め、翌20年5月にはこれを廃止して、新たに「教科用図書検定規則」を定めた。その後はこれに基づいて検定制渡を実施・運営したのである。

 

・教科書の検定制度は小学校のほか師範学校および中学校にも実施されたが、小学校については府県ごとに採択することとし、その採択方法について規定し、審査委員の組織などについても定めている。

 

・また教育勅語発布後は小学校修身教科書について特に厳格な基準を設けて検定を行なっている。検定制度の実施により、教科書の体裁および内容は明治前期に比べて著しく統一化された。

 

・また一方では教科書会社が東京に集中し、教科書の販売競争がしだいに激化した。そして遂に教科書の採択をめぐる贈収賄の大規模な摘発検挙が行なわれ、いわゆる教科書疑獄事件が発生したのである。

 

・これが直接の契機となって、明治36年に小学校教科書の国定制度が確立された。このようにして小学校の主要な教科書は国定教科書となったが、検定制度は存続し、師範学校・中学校・高等女学校の教科書および小学校の一部の教科書には引き続き検定制度が実施された。

 

3.3)小学校国定教科書の成立

・小学校教科書の国定制度を成立させる直接の契機となったのは教科書疑獄事件であったが、この時代の情勢を背景として国定教科書への要望が高まっていたことも重要な要因であった。

 

・教育勅語の発布によって国民思想の統一、義務教育の国家統轄が急速に進められ、ことに日清戦争後は国家主義思想が興隆していた。そこで小学校教科書、中でも修身教科書は政府が直接編集すべきであるという意見が強く唱えられていた。

 

・明治29年の第9議会において、修身教科書を国家で編集すべきであるとする建議が貴族院から提出され、次いで翌30年には修身教科書と国語読本の国定が要望された。

 

・衆議院でも33年に修身教科書、翌34年にすべての小学校教科書の国定についての建議がなされた。このため文部省でも33年修身教科書調査委員会を設け、国定修身書編集の準備に着手していた。

 

・このような状況の中で教科書疑獄事件が発生したのである。

 

・教科書疑獄事件の結果、当時の主要な小学校教科書は法令上の罰則の適用によって使用できなくなり、検定制度を持続することはその点からも困難となった。そこで政府はかねてから懸案となっていた小学校教科書の国定制度を一挙に実施したのである。

 

・36年4月に小学校令を改正して国定制度が確立され、翌37年4月から国定教科書が使用された。国定制度では、教科書の著作は文部省が行ない、翻刻発行と供給は民間にゆだねることとした。そこで翻刻発行規則を定め、用紙の標準や定価の最高額などについても定めている。

 

・国定教科書は四十年義務教育年限の延長に伴って修正編集され、その後も時代の動きや教育思想の変化を反映して幾度か修正編集されている。国定教科書の成立によって、教育内容を細部にわたって国家で統轄することがきわめて容易となった。


(8)治安警察法(明治33年3月)


 1)治安警察法の概要(明治33年3月)

・治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)は、日清戦争後に高まりを見せ始め、先鋭化しつつあった労働運動を取り締まる為に、第二次山県有朋内閣時に制定された法律である。

 

・それまで自由民権運動を念頭に置いて政治活動の規制を主な目的としていた集会及政社法に、労働運動の規制という新たな機能を付加した上で継承発展させる形で制定された。

 

・敗戦直後の1945年11月、GHQの指令に基づく「治安警察法廃止等ノ件(昭和20年勅令第638号)」により廃止。

 

・内容は、全33条(うち2条削除)より成り、治安維持法とともに、戦前の有名な治安立法として知られる。帝国の臣民が法律の範囲内で言論、著作、印行、集会および結社の自由を有するとする、大日本帝国憲法第29条に対して加えられた制限である。

 

(参考)治安警察法の概要

・第1条ないし19条が集会、結社、多衆運動の取締方法に関する規定で、

 すなわち、

・政治結社の届出(1条)、

・政治上の結社加入の資格なき者(5条1項、6条、15条)、

・政治に関し公衆を会同する集会の届出(2条)、

・政治に関係なき公事に関する結社または集会の届出(3条)、

・屋外における公衆の会同もしくは多衆運動の届出(4条)、

・屋外集会、多衆運動、群集の制限、禁止、解散および屋内集会の解散(8条)、

・集会における言論の制限(9条、10条)、

・結社、集会、多衆運動に関する警察官の尋問、集会の臨監(11条)、

・集会および多衆運動における喧擾、狂暴者の取締(12条)、

・戎器、兇器等の禁止(13条、18条)、

・街頭その他公衆の自由に交通することを得る場所における作為の禁止(16条)、

・秘密結社の禁止(14条)

が規定された。第20条以下は罰則である。

 

2)改正

2.1)第17条の削除

・第17条はストライキを制限するものであったが、大正15年法律第58号により削除され、代わって暴力行為等処罰ニ関スル法律(※)が制定された。

 

※ 暴力行為等処罰ニ関スル法律(大正15年4月)

 暴力行為等処罰ニ関スル法律(大正15年4月10日法律第60号)は、団体または多衆による集団的な暴行・脅迫・器物損壊・面会強請・強談威迫などを特に重く処罰する日本の法律である。

 治安警察法17条の削除に伴う制定で、公布・施行は1926年、2004年に改正。

 1条(集団的暴行、脅迫、毀棄の加重)

 1条の2(銃砲刀剣類による加重傷害)

 1条の3(常習的な傷害、暴行、脅迫、毀棄の加重)

 2条(集団的、常習的な面会強請・強談威迫の罪)

 3条(集団的犯罪等の請託)

 

2.2)第5条の改正

・また第5条では、軍人及警官、神職僧侶や教員などと共に、女性が政党などの政治的な結社へ加入すること、また政治演説会へ参加し、あるいは主催することを禁じた。そのため、同法制定直後には早くも改正を求める請願運動が起こる。

 

・改正運動は執拗に続き、大正11年3月には集会の自由を禁じた第5条2項の改正に至った(治安警察法第五条改正運動)。しかし女性の結社権を禁じた5条1項は残されたため、婦人団体を中心に、治安警察法5条全廃を求める運動がその後も続いた。

 

3)治安警察法改正の背景

・大正9年より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。大正6年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。

 

・また、大正10年4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。

 

・また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。


(9)大逆(幸徳)事件(明治43年)


 1)大逆罪の制定と適用

・政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪を重罪とし、1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(昭和22年削除)で規定していた。

 

・大逆事件とは、このいわゆる大逆罪が適用され、訴追された幸徳事件(明治43年)、虎ノ門事件(大正12年)、朴烈事件(大正14年)、桜田門事件(1932年)の四事件の総称であるが、単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた明治43年の幸徳事件を指すのが一般的である。

 

・虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯で、幸徳事件と朴烈事件は、当時、計画段階で発覚したとされた。大逆罪には、死刑・極刑をもって臨み、裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。 

 

大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」(和歌山県新宮市)(引用:Wikipedia)

 

2)信州明科爆裂弾事件

・堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の明治43年5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。

 

・以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件。

 

・敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。

 

・1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下している。

 

3)明治天皇暗殺計画容疑

・信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。

 

・松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

 

・1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決があり、1月24日に幸徳秋水ら11名が、1月25日に1名が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは5人、仮出獄できた者は7人で有、赤旗事件で有罪となって獄中にいた4人は事件の連座を免れた。

 

4)大逆事件以後

・社会主義運動はこの事件で、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。

 

・徳冨蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年1月に幸徳らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。

 

・大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。

 

・木下杢太郎は明治44年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。永井荷風は『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。

 

・また、秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった。

 

・帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。

 

・以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。

 

・また翌明治45年6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表し、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。

 

・馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく。

・大石誠之助(社会主義者・キリスト者・大逆事件で処刑)の甥である西村伊作(教育者)は大石の遺産の一部で文化学院を創設した。このことについて柄谷行人(哲学者・思想家)は「大正デモクラシー、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘している。


(10)南北朝正閏論


・南北朝正閏論とは、日本の南北朝時代において南北のどちらを正統とするかの論争。閏はうるう年の閏と同じで「正統ではないが偽物ではない」という意味。

 

1)明治政府での南北朝正閏論

1.1)北朝正統論から南朝正統論へ(明治維新)

・明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。

 

・これに伴い、明治2年の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。

 

1.2)北朝から南朝への歴代天皇の変更(明治10年~16年)

・また、明治10年、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて明治16年に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。

 

1.3)皇統譜の書式制定(明治24年)

・なお、明治24年に皇統譜(天皇・皇族の身分に関する事項を記載する帳簿)の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている。

 

・ただし、これらの決定過程については不明な部分が多い。また、こうした決定の効果は宮中内に限定されていた。

 

2)南北朝正閏論争の影響

2.1)国定教科書の改訂問題(明治43年)

・歴史学界では、南北朝時代に関して『太平記』の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて明治36年及び同42年の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。

 

・ところが、同43年の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水での発言がこれに拍車をかけた。

 

2.2)帝国議会における南北朝正閏問題(明治44年)

・そして、明治44年1月19日付の読売新聞社説に

「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」、

「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」

という論が出され、これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。

・この問題を巡って野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。このため、政府は野党や世論に押され、明治44年2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。

 

2.3)国定教科書の改定(明治44年)

・さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には『大日本史』の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。

 

・それでも、田中義成(国史学者)などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。

 

※ 現在の学説では北朝の光厳・光明・崇光の三帝は三種の神器を保有していたことがほぼ確実とみられ、神器の有無を根拠に北朝のすべてを「正統でない」とするのは無理である。

 なお、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされる。また、明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであって、最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)ことまでを否定するものではなく、したがって現在の北朝の天皇の正当性を否定するものではない。

 

3)以後の皇国史観

・この南北朝正閏問題の以後、戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏を天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。

 

・昭和9年には斎藤内閣の中島久万吉商工相(政友会)が尊氏を再評価した雑誌論説「足利尊氏論」(13年前に同人誌に発表したものが本人に無断で転載された)について大臣の言説としてふさわしくないとの非難が起こり、衆議院の答弁で中島本人が陳謝していったん収束した。

 

・しかし貴族院で菊池武夫議員が再びこの問題を蒸し返し、齋藤實首相に中島の罷免を迫った。これと連動して右翼による中島攻撃が激化し、批判の投書が宮内省に殺到したため、中島は辞任のやむなきに至った。

 

・この事件の背景にはのちの天皇機関説事件につながる軍部・右翼の政党勢力圧迫があったとされる。


(11)不平等条約の改正


1)不平等条約の改正に向けて

・19世紀後半にアジアの多くの国々は欧米諸国の植民地となっていたが、幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためにはなによりも重要であった。明治11年に外務卿寺島宗則のもとでアメリカとの間で税権回復の交渉が成立したが、イギリスなどの反対により新しい条約は発効しなかった。

 

・後を継いだ外務卿・井上馨は欧化政策を取り、風俗や生活様式を西洋化して交渉を有利に運ぼうとした。明治16年に日比谷に建てられた「鹿鳴館」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放(内地雑居)するかわりに税権の一部を回復し、領事裁判制度を撤廃するというものであったが、国権を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、明治20年に交渉は中止され、井上は辞職した。

 

・これに続いて、明治22年、大隈重信外相がアメリカ・ドイツ・ロシアとの間に新条約を調印したが、大審院に限り外国人裁判官の任用を認めていたので、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切りに国民協会を率いる保守派の品川弥二郎や鳥尾小弥太、民権派の星亨を中心として再び国内に反対運動が起きた。

 

・大隈は玄洋社の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も青木周蔵外相の交渉が明治24年に訪日したロシア皇太子(ニコライ2世)が大津で警護の警察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。

 

・その後、イギリスは東アジアにおけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。明治27年に外務大臣陸奥宗光は駐英公使青木周蔵に交渉をすすめさせ、イギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。

 

2)条約改正の実現と帝国主義国家への道

・明治38年、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、明治41年に辞任した。また、明治39年のポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)及び長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満州鉄道株式会社(満鉄)が設置された。

 

・その後明治42年7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定、10月26日に伊藤はロシアとの会談を行うため渡満したが、ハルピンに到着した際に大韓帝国の独立運動家安重根に暗殺された。

 

・明治43年には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。

 

・明治44年、外務大臣小村寿太郎は関税自主権の全面回復に成功し、長年の課題であった条約改正を実現した。日本はアメリカ合衆国と新しい日米通商航海条約を締結、英・独・仏・伊とも同内容の条約を締結し、関税自主権を完全回復した。

 

・ここに、幕府が西洋列強と結んだ不平等条約を対等なものに改める条約改正の主要な部分が完了し、日本は名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成された。

 

・その後、第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で日本は大正9年に設立された国際連盟に常任理事国として参加、明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになった。


(追記:2020.10.12/修正2020.11.4/修正2023.3.15)            最終更新:2023.3.15