トップ 近現代史の復習

 ①(戦前・明治) ②(戦前・大・昭) ③(戦前・朝鮮) 

④(戦前・中国)⑤(戦前・台湾) ⑥(戦前・ロシア)⑦(戦前・米英蘭) 

⑧(戦後・占領下) ⑨(戦後・独立後) ⑩(現代)


近現代史の復習③(戦前・朝鮮)


1 明治維新から敗戦までの国内情勢

 1.1 幕藩体制から天皇親政へ(幕末~明治維新) 1.2 天皇親政から立憲君主制へ

 1.3 大正デモクラシーの思潮 1.4 昭和維新から大東亜戦争へ

2 明治維新から敗戦までの対外情勢

 2.1 対朝鮮半島情勢 2.2 対中国大陸情勢 2.3 対台湾情勢 2.4 対ロシア情勢 

 2.5 対米英蘭情勢

3 敗戦と対日占領統治

 3.1 ポツダム宣言と受諾と降伏文書の調印 3.2 GHQの対日占領政策 

 3.3 WGIPによる精神構造の変革 3.4 日本国憲法の制定 3.5 占領下の教育改革 

 3.6 GHQ対日占領統治の影響

4 主権回復と戦後体制脱却の動き

 4.1 東西冷戦の発生と占領政策の逆コース 4.2 対日講和と主権回復 

 4.3 憲法改正 4.4 教育改革

5 現代

 5.1 いわゆる戦後レジューム 5.2 内閣府世論調査(社会情勢・防衛問題)

 5.3 日本人としての誇りを取り戻すために 5.4 愚者の楽園からの脱却を!

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(戦前・朝鮮)です。


2明治維新から敗戦までの対外情勢


2.1 対朝鮮半島情勢

(1)征韓論/(2)江華島事件/(3)壬午事変/(4)甲申事変 

 /(5)甲午農民戦争(東学党の乱)/(6)乙未事変/(7)韓国保護国化・韓国併合

 /(8)三・一独立運動/(9)韓国併合での主要な施策 (10)日韓基本条約の締結

 /(11)日韓基本条約による諸問題の清算/(12)条約締結後も繰り返される対日請求 

 /(13)竹島問題 

2.2 対中国大陸情勢 

(1)日清戦争/(2)北清事変(義和団の乱)/(3)青島の戦い/(4)膠州湾租借地

 /(5)対華21カ条要求/(6)五・四運動/(7)万県事件/(8)南京事件/(9)山東出兵

 /(10)済南事件/(11)満州事変/(12)華北分離作戦/(13)北支事変

 /(14)通州事件/(15)第2次上海事変/(16)南京攻略戦・(参考)南京事件論争

 /(17)徐州会戦・(参考)黄河決壊事件/(18)武漢作戦/(19)広東作戦

 /(20)大陸打通作戦/(21)敗戦後の復員事情/(22)小山克事件/(23)通化事件

 /(24)根本中将の撤退作戦/(25)戦後中国の論点/(26)尖閣諸島問題

2.3 対台湾情勢  

(1)台湾の歴史/(2)日本統治時代の台湾/(3)台湾抗日運動

 /(4)主要な日台間事件・事案/(5)戦前の主要な施策

 /(6)戦後に秘匿されてきた主要事案

 2.4 対ロシア情勢

(1)幕末・明治維新から日露戦争まで /(2)日露戦争/ (3)シベリア出兵

 / (4)尼港事件/(5)ノモンハン事件 /(6)ソ連対日宣戦布告/ (7)シベリア抑留

 /(8)北方領土/(9)戦後ロシア(旧ソ連)の論点

2.5 対米英蘭情勢

(1)第二次世界大戦の概要/(2)大東亜戦争の背景/(3)ABCD対日包囲網

 /(4)仏印進駐/(5)宣戦布告と開戦/(6)日本軍の攻勢/(7)戦局の転換期

  /(8)連合軍の反攻/(9)戦争末期/(10)大東亜戦争の終戦 

 

注:この目次の中で黄色で示した項目が、本ページの掲載範囲(2.1)です。


2.1 対朝鮮半島情勢


(1)征韓論 (2)江華島事件 (3)壬午事変 (4)甲申事変 

(5)甲午農民戦争(東学党の乱)(6)乙未事変 (7)韓国保護国化/韓国併合

(8)三・一独立運動 (9)韓国併合での主要な施策 (10)日韓基本条約の締結

(11)日韓基本条約による諸問題の清算 (12)条約締結後も繰り返される対日請求 

(13)竹島問題 


(1)征韓論


(引用:Wikipedia)

1)征韓論の背景

1.1)江戸時代後期

・江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。

・幕末期には、吉田松陰や勝海舟、橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。

・慶応2年(1866年)末には、清国広州の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった(八戸事件)。

〇八戸事件(1867年)

・八戸事件は、1867年1月に清国広州の新聞『中外新聞』に掲載された、「八戸順叔」なる香港在住の日本人が寄稿した征韓論の記事がきっかけとなり、日本と李氏朝鮮および清国との間の外交関係を悪化させた事件である。

・征韓論は江戸時代末期(幕末)の吉田松陰や勝海舟らの思想にその萌芽が見られるが、現実の外交問題として日清朝三国に影響を及ぼしたのはこの八戸事件が最初である。

・さらにこの事件はその後も10年近く尾を引き、後の江華島事件における両国間交渉にまで影響を及ぼした。

・当該記事の内容は、次の通り。

※新聞記事:「日本は軍制を改革して、新型兵器・軍艦を購入・製造し、現在すでに火輪兵船(蒸気軍艦)80隻を所有している。また12歳から22歳までの優秀な若者14名を選抜してロンドンに派遣した。

 留学生らは西洋風の髪型にそろえてヨーロッパ式の軍服を着用し、英語にも精通している。

 また、江戸政府は督理船務将軍の中浜万次郎を上海に派遣して火輪兵船を建造し、すでに帰国している。幕府は、国中の260名の諸侯を江戸に結集して、朝鮮を征討しようとしている。

 日本が朝鮮を征討しようとするのは、朝鮮が5年に1度実施していた朝貢をやめ、久しく廃止しているからだ。」

・この記事の内容のほとんどは誤情報から成り立っており、いたずらに外交摩擦を生じさせかねない文章となっている。

・田保橋潔が『近代日鮮関係の研究』で「朝鮮に関する部分は全然無根で、何故に彼がかかる流言を放ったか、理解するに苦しむものがある」と述べている通り、「八戸順叔」という人物がなぜこのような妄説を新聞に寄稿したのか、目的は全く不明である。

 

1.2)明治維新後の国交交渉

・王政復古し開国した日本は、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。

・朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、儒教の復興と攘夷を国是にする鎖国攘夷策を採り、意気おおいにあがっており、これを理由に日本との関係を断絶すべきとの意見が出されるようになった。

・明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。

・9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。

・朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。

 

2)征韓論(明治6年) 

2.1)明治政府における征韓論議と政変 

 

 

征韓議論図。西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)鈴木年基作。(引用:Wikipedia)

 

・明治6年6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。

・大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前、いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを閣議決定するが、明治天皇は岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下している。

・9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは、西郷が殺害されれば朝鮮との開戦になるという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ロシアとの戦争を遂行するだけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。

・時期尚早としてこれに反対、10月に遣韓中止が決定された。

・10月の閣議では、西郷派遣案の採決は賛否が同数になる。しかし、西郷の辞任示唆の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。これに対し大久保利通、木戸孝允、大隈重信らは辞表を提出、岩倉も辞意を伝える。

・後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった三条が17日に過度のストレスから倒れ、意識不明に陥る。太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、明治天皇の意思を拘束しようとした。

・そして23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。

・その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野した。また、桐野利秋ら西郷に近く征韓論を支持する官僚・軍人が辞職した。

・更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷を咎めず、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。

・この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋と井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。

・この政変が明治7年の佐賀の乱から明治10年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。

 

2.2)政変後の征韓論と政策決定の正常化

・その後、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに国交回復のための外交が行われ、明治7年9月、一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)したが、大阪会議(立憲政治の樹立及び参議就任等の協議)や佐賀の乱への対応で朝鮮問題を後回しにしているうちに、朝鮮では大院君側の巻き返しが図られて再び攘夷論が巻き起こり決裂した。

・一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあり、当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。

・この政変において、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。これの危険な点は、例えば天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうという危険性があるというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定が可能な点にある。

・そして、西南戦争直後に形成された侍補を中心とする宮中保守派の台頭がその可能性を現実のものとした。

・その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ。


(2)江華島事件(明治8年9月20日)(1875)


(引用:Wikipedia)

1)事件の概要

・江華島事件は、明治8年9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。

・朝鮮西岸海域を測量中(書契及び服制問題の打開を兼ねて示威運動)の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。

 

2)書契問題と征韓建白書 

・明治新政府は、新政権樹立の通告と近代的な国際関係の樹立を求める国書を李氏朝鮮政府に送ったが、大院君のもとで攘夷を掲げる朝鮮政府は、国書の受け取りを拒否した。(書契問題)。

・書契問題が膠着するなか、朝廷直交を実現すべく皇使を派遣すべきだとの意見が維新政府内に強まり、調査目的に佐田白茅らが派遣されたが、彼は帰国後の明治3年に「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建白書を提出する。 

 

3)倭館欄出

・明治5年5月には外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。

・同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにした。

・この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行った。

・明治5年9月対馬藩と交替するために来朝した花房義質が、春日丸に乗ってきたことから、日本を西欧勢同様、衛正斥邪の対象として、前述のように食糧の供給を停止した。

・大院君は、「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷秩序を乱す行為である」と非難し、交渉が暗礁に乗り上げると、日本では朝鮮出兵を求める征韓論争など出兵問題が政治問題化するようになる。

・征韓論争は明治6年政変によって「延期」(「中止」ではない)と決まったが、その後の台湾出兵の発生と大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして相手の状況をみることとした。 

・明治8年、釜山に於いて、東莱府と森山理事官との間で初めての政府間交渉が持たれた。しかし宴饗の儀における日本大使の大礼服着用(服制問題)と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、東莱府が承認しないなどのため紛糾、さらに朝鮮政府の中央では大院君の支持者が交渉中止を求めたために議論が紛糾し、東莱府も確実な回答を日本側に伝えることが不可能となっていた。

 

4)軍艦派遣と江華島事件 

 

    

 永宗城を攻撃する雲揚の兵士ら(想像図)(引用:Wikipedia) 雲揚号兵士朝鮮江華戦之図(木版画 想像図)

 

・膠着した協議を有利に進展させるため、日本側交渉担当者(理事官である森山と副官である廣津)から測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が提出され、「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸へと極秘裏(征韓論者の反撃を惧れて)に派遣されたが、交渉の進展に寄与することは無く森山たちの帰国という形で一旦打ち切られることになった。

・こうして交渉支援を終えた2隻は、名目上の任務である朝鮮東岸部を測量し、一旦釜山に帰港している。

・その後「雲揚」は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港。その航行の途中、9月20日に首府漢城に近い月尾島沿いに投錨。端艇を下ろして江華島に接近したところ島に設置されていた砲台から砲撃を受けて交戦状態となった。

 

5)事件後の朝鮮

・この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて変革を望む開国勢力が台頭する切っ掛けとなった。

・事件以後、朝鮮はゆっくりと開国への道を歩み始めたといえる。

・しかし、朝鮮が鎖国政策を廃するのは明治15年5月に清国の斡旋によって締結された米朝修好通商条約を待たなくてはならない。

・また江華条約を巡って日朝両国は開港地選定や関税の設定などの問題について対立することとなり、これらの対立が鎖国攘夷を唱える守旧派勢力を刺激して明治15年7月に発生した壬午事変の遠因ともなった。

 

6)講和条約:「日朝修好条規」(明治9年2月) 

・日朝修好条規は、江華島事件の後の明治9年2月27日に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。

・条約そのものは全12款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文がある。これら全てを含んで一体のものとされる。

・朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を持つ独立国であることを明記したが、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。

・それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が、開国する契機となった条約であるが、近代国際法に詳しい人材がいなかったため、朝鮮側に不利なものとなっている。

・その後、朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも同様の条約を締結することとなった。そのため好む好まざるとに関わらず近代の資本主義が席巻する世界に巻き込まれていくことになる。

 

7)日本側の交渉の基本方針

・日本側の交渉の基本姿勢は、以下の2点に集約される。

① 砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

② 江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。

・また清朝の干渉をなくすべく、事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。

・19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は、朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって中国皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化を強めた。

 

※条約の主な内容

 修好条規は12款で構成され、条文は漢文と日本語で書かれた。また両国の外交文書は日本語と朝鮮真文(漢文)で書くこととし、日本側の文書には、先10年間は日本語に漢文を併記する事とした。両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。

・第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。

・第二款 日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させること。

・第四款・第五款 すでに日本公館が存在する釜山以外に2港を選び開港すること。開港においては土地を貸借し家屋を造営しあるいは所在する朝鮮人の家屋を賃借することも各人の自由に任せること。

・第七款 朝鮮の沿岸は島嶼岩礁が険しいため、きわめて危険であるので、日本の航海者が自由に沿岸を測量してその位置や深度を明らかにして地図を編纂して両国客船の安全な航海を可能とするべし。

・第九款 通商については、各々の人民に任せ、自由貿易を行うこと。両国の官吏は少しもこれに関係してはならない。貿易の制限を行ったり、禁止してはならない。しかし詐欺や貸借の不払いがあれば両国の官吏はこれを取り締まり追徴すべし。自由貿易について定めた条項。

・第十款 日本人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。また朝鮮人が罪を犯した場合は朝鮮官吏が裁判を行うこと。しかし双方は、その国法をもって裁判を行い、すこしも加減をすることなく努めて公平に裁判することを示すべし。領事裁判権に関する条項。

 この他特記しておかねばならないのが、最恵国待遇の条項である。日本側の原案にはこの条項が当然入っていたが、朝鮮側の強い要望により削除された。朝鮮は今後も西欧列強に対し開国する意志がないので無用だというのが、その理由であった。

 

8)李氏朝鮮の開国

・条約の締結によって李氏朝鮮は開国し、それまでの慣習法を基にした伝統的な日朝関係が、国際法を基にした近代的なものへと置き換えられた。

・日朝間の条約締結をうけて、欧米諸国はなおも鎖国政策を継続しようとする朝鮮に対してより一層開国を迫るようになった。

・砲艦外交や米価騰貴、領事裁判権などいくつもの要因が重複して、朝鮮側の日本への悪感情を蓄積させていった。それはやがて壬午事変の暴発を招いた。

・条約締結以後、清朝が建国以来の冊封国朝鮮を維持しようと、朝鮮に積極的に関与するようになる。朝鮮を冊封体制から近代国際法的な属国へと位置づけし直そうとしはじめる。

・同じく日本も朝鮮を影響下に置こうと画策しはじめていたため、日本と清朝の対立が深まり、日清戦争の遠因となった。


(3)壬午事変(明治15年7月)(1882)


(引用:Wikipedia)

1)壬午事変の概要

・壬午事変は、1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。

・壬午軍乱、朝鮮国事変、あるいは単に朝鮮事変とも呼ぶ。以下に示す理由から大院君の乱と言うものもある。

 

2)事件の発端

2.1)事大党と独立党の対立

・江華島事件以来、当時の朝鮮は、清朝の冊封国としての朝鮮のままであるべきであるという「守旧派」(事大党)と、現状を憂い朝鮮の近代化を目指す「開化派」(独立党)とに分かれていた。

・加えて、宮中では政治の実権を巡って、高宗の実父である興宣大院君らと、高宗の妃である閔妃らとが、激しく対立していた。

・開国して5年目の1881年5月、朝鮮国王高宗の后閔妃の一族が実権を握っていた朝鮮政府は、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の筆頭となり日本と同じく近代的な軍隊を目指した。

・近代化に対しては一日の長がある日本から、軍事顧問を招きその指導の下に旧軍とは別に、新式の編成で新式の装備を有する「別技軍」を組織し、日本の指導の元に西洋式の訓練を行ったり日本に留学させたりと、努力を続けていた。

・開化派は軍の近代化を目指していたため、当然武器や用具等も新式が支給され、隊員も両班の子弟が中心だったことから、守旧派と待遇が違うのは当然だったが、守旧派の軍隊は開化派の軍隊との待遇が違うことに不満があった。

・それに加え、当時朝鮮では財政難で軍隊への、当時は米で支払われていた給料(俸給米)の支給が13ヶ月も遅れていた。そして7月23日にやっと支払われた俸給米の中には、支給に当たった倉庫係が砂で水増しして、残りを着服しようとした為砂などが入っていた。

・これに激怒した守旧派の兵士達は倉庫係を暴行した後、倉庫に監禁した。いったんこの暴動は収まったが、その後、暴行の首魁が捕縛され処刑されることとなった。

・そのため、再度兵士らが暴動を起こした。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭である大院君の陰謀であった。

〇事件発生時の漢城の状況 

壬午軍乱 襲撃された日本公使館(引用:Wikipedia)

・反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、貧民や浮浪者も加わった暴徒は別技軍の軍事教官や漢城在住の日本人語学生等にも危害を加えた。

・また王宮たる昌徳宮に難を逃れていた閔妃の実の甥で別技軍教練所長だった閔泳翊は重傷を負い、閔妃一族を中心とした開化派高官達の屋敷も暴徒の襲撃を受け、多数が殺傷された。

●清国側の対応

・事変を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。

・事変を煽動した大院君側は、閔妃を捕り逃がしたものの、高宗から政権を譲り受け、企みは成功したかに見えた。

・しかし、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が漢城に駐留し、鎮圧活動を行った上で乱の首謀者と目される大院君を軟禁。これによって政権は閔妃一族に戻り、事変は終息した。

・以後、朝鮮の内政・外交は清国の代理人たる袁世凱の手に握られることになった。

・大院君は清に連行され査問会にかけられ、天津に幽閉された。それに対して高宗は「朝鮮国王李熙陳情表」を清国皇帝に提出し、大院君の赦免を陳情したが効無く、大院君の幽閉は3年間続き、帰国は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共とだった。

●日本側の対応 

朝鮮反乱軍に襲撃される花房義質公使一行(楊洲周延の錦絵)(引用:Wikipedia)

・事変によって多数の日本人が殺傷された日本政府は花房公使を全権委員として、高島鞆之助陸軍少将及び仁礼景範海軍少将の指揮する、軍艦5隻、歩兵第11連隊の1個歩兵大隊及び海軍陸戦隊を伴わせ、朝鮮に派遣する。

・日本側は当初、朝鮮政府による謝罪と遺族への扶助料、犯人の処罰、巨済島または鬱陵島の割譲を要求したが、清国軍とアメリカの軍艦派遣による牽制のため領土の割譲は諦め、日本と朝鮮は済物浦条約を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった。

・このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。

・こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、冊封体制を維持したい清との対立が高まることになり、やがてこの対立が日清戦争へと結びつくことになる。

 

3)済物浦条約(明治15年)

・条約の主な内容は、壬午事変における公使館焼き討ち事件並びに公使一行襲撃事件、在漢城日本人加虐の実行犯等の逮捕と処罰、日本側被害者の遺族・負傷者への見舞金5万円、損害賠償50万円、公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権、兵営設置費・修理費の朝鮮側負担、謝罪使の派遣等である。

・また同時に日朝修好条規続約(追加条項)として、居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴を認めさせた。 軍隊駐留権を認めさせたことは、暴動の再発防止の他に、宗主権を主張する清国を牽制する意味合いもあったのではないかとされている。


(4) 甲申事変(政変)(明治17年12月)(1884)


(引用:Wikipedia)

1)事変の概要 

          独立党のリーダーとして活躍した金玉均(引用:Wikipedia)

 

・当時の李氏朝鮮は、壬午事変(明治15年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。

・このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた開化派(独立党)人士らは、明治12年、李東仁を日本に密入国させ、福澤諭吉や後藤象二郎をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。

・日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。

・開化派の狙いは、日本と同じように君主を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗のいわば「一本釣り」を計画。

・外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。

・金玉均らが計画したクーデター案は、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーの際、会場から少し離れたところに放火を行い、その後、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃。

・朝鮮国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。日本は公使館警備用の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、というものだった。

 

 清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日のバクレ伏兵事件(引用:Wikipedia)

 

・この計画のネックとなるのが清の存在だったが、清は当時フランスと、ベトナムの覇権を争う清仏戦争の最中であり、一度に双方には派兵する二正面戦争はできないだろうという予測がなされていたほか、当時、同戦争のため朝鮮駐留の清軍も通常時の約半数ということもあり、1884年(明治17年)12月、計画は実行に移された。

・しかし、この段階まで来て不幸にも清仏戦争で清が敗退し、フランス領インドシナが誕生することになる。

・せめて朝鮮における覇権だけは保ちたいと考える清は、威信に懸けても朝鮮をめぐる争いで譲るわけにはいかなくなってしまった。

・開化派は意気消沈するが、予定通り計画を実行する。竹添進一郎在朝鮮公使など日本側の協力のもと、放火は失敗するものの概ね計画は順調に進み、閔泳翊ら閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。

・そして首謀者の金玉均は、首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置く事を表明した。

・そして、新内閣は国王の稟議を経て、その日の内に、

1)国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。

2)清国に対して朝貢の礼を廃止する事。

3)内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。

4)宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。

等、14項目の革新政策を発表し、旧弊一新の改革を実現させようとした。

 ・しかしながら、やはり予想通り袁世凱率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め寄りクーデター派は敗退。結局日本軍も撤退し、親清派の守旧派が臨時政権を樹立。

・開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された。

 

2)事件の影響

・朴泳孝や金玉均ら開化派を全面支援した福澤諭吉。甲申政変が三日天下に終わり、関係者への残酷な処刑が実行されると、福澤が主宰する『時事新報』は社説に「脱亜論」を掲載した。

・この後、朝鮮に拘泥するのは双方の為にならないとした日本と清国の間に明治18年4月、天津条約が結ばれ、双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などが取り決められた。

・これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争の火蓋が切られることとなる。

・金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らであったが、この事件で朝鮮・中国に対していわば完全に匙を投げてしまうこととなる。とりわけ開化派人士や、幼児等も含むその近親者への残酷な処刑は福澤らをして激しい失望感を呼び起こし、福澤が主宰する『時事新報』は明治18年2月23日と2月26日の社説に「朝鮮独立党の処刑」を掲載した。

・さらに、天津条約締結の前月の3月16日に社説「脱亜論」を掲載し、8月13日には社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」を掲載するに至った。

・また、この事件で日本軍の軍事的劣勢もはっきりしたが、この時の経験が後の日清戦争に役立った。

・天津条約に調印したのは、伊藤博文と李鴻章であったが、この二人は日清戦争の後、下関条約の調印の場で11年ぶりに再び顔を合わせることとなる。皮肉にも、この時、勝者と敗者の立場は入れ替わっていた。

 

3)漢城条約(明治18年1月9日)

・漢城条約とは、明治18年1月9日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。甲申政変後の日朝間の講和を目的に締結された。日本側全権大使は井上馨、朝鮮側全権大臣は金弘集であった。甲申政変に関する条約は、他に日本が清国と締結した天津条約がある。

・甲申政変の発生と失敗によって在漢城駐箚公使竹添進一郎は、在留邦人と公使館員を仁川の日本人居留地にまで退避させると共に、朝鮮政府に対し『在漢城日本居留民への朝鮮民衆と清国軍の暴虐』及び、『仁川へと退避しようとしていた公使一行が朝鮮人と清国人に攻撃を受けたこと』に対する抗議文を駐留清国軍・朝鮮政府双方へ発した。

・朝鮮側は日本公使が甲申政変において、金玉均等独立党一派の行動に積極的に加担し、六大臣暗殺等にも深く関与していると疑っており、公使が事変時に朝鮮政府への通達無く兵を率いて王宮に入ったことを強く非難した。

・これに対して竹添公使は、朝鮮国王の親筆書と玉璽の捺された詔書を示し、自身の行動は朝鮮国王の要請に基づいた正当な行動であったと主張。双方の事件認識は、このように大きく食い違っていた。

・後に朝鮮側から、日本側が正当性の裏づけとして示した親筆書は独立党一派が偽作したものであるから無効であるとの反論が為されたが、璽印は真正なものであることを認め、無断入闕を咎める追及は後退させることになった。

・しかし互いに行動の正当性は主張して譲らず、そのまま議論は平行線を辿り、問題の解決は全権大使として派遣された井上馨の手に委ねられることになる。

・この様な状況で日本政府から事件解決の全権を委任された井上馨は、両国関係を速やかに修復することが肝要であるとして、日朝双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、『朝鮮国内で日本人が害されたこと』、『日本公使館が焼失したこと』という明白な事実のみを対象に交渉を妥結することを提案。

・朝鮮側全権大臣金弘集も、最終的にこれに同意した。

・交渉の席中、清国欽差大臣呉大澂が議論に割り込もうとする一幕もあったが、両全権は日朝間の問題に第三国が容喙することを許容せず、陪席を拒否して二国間のみで漢城条約が締結された。

 

※条約の内容

・第一款 朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪を表明すること。(謝罪使節として徐相雨とドイツ人外務顧問のモルレンドルフが来日した。)

・第二款 日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する見舞金、及び暴徒に略奪された商人の貨物の補填として、朝鮮国より11万円を支給すること。(壬午事変時よりも被害者数が膨大になっているので、その分済物浦条約よりも増額されている。) 

・第三款 磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正しく処罰すること。(済物浦条約の例に倣って、20日以内の逮捕が約されている。)

・第四款 日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮国が代替の土地と建物を交付しそれに充てること。また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を支給し、工費に充てること。(当初は再建費用4万円を要求していたが、朝鮮側が減額を望んだので、井上が既存の建物を改修して用いるという修正案に改めた。)

・第五款 公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約第五款の通り朝鮮政府が施行すること。(済物浦条約第五款の規定、即ち『兵営を設置・修繕するのは朝鮮国の役目とする』を改めて確認したもの。)


(5)甲午農民戦争(東学党の乱)(明治27年)(1894)


(引用:Wikipedia)

1)概要

・甲午農民戦争は明治27年(甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱である。関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる。

・尚、大韓民国では東学農民運動や東学農民革命と呼ばれている。

・この戦争の処理を巡って、日本と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。

 

2)第一次蜂起(明治17年)(1884年)

・1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。

・閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、そして1876年の日朝修好条規(江華島条約)をはじめとした閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくる等、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。

・朝鮮の改革を巡っては、壬午事変や甲申政変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革を行うことができずにいた。

・このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、明治16年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、明治17年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。

・全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱と変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。

・全琫準は下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が、形成されていた。 

 

      

   甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文 (引用:Wikipedia)  全琫準

 

・この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。

・これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。

・この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し締結したといわれる。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が設けられ、全羅道に農民権力による自治が確立した。 

 

3)日清戦争(明治27年~)

・日本は、明治15年の壬午事変と明治17年の甲申政変を契機に朝鮮を巡って清と対立していたが、甲午農民戦争(反乱)が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け入れずに対峙を続けた。

・日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出すが、清は「日本(のみ)の撤兵が条件」として拒否した。

・日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れた。

・この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれていた。

・これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答。一方朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権を誕生させた。

・金弘集政権は甲午改革(内政改革)を進め、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼した。

・そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。

・当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが、士気と訓練度で勝った日本は勝利し下関条約によって以下の内容を清に認めさせた。

① 朝鮮の独立の承認

② 領土として遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲

③ 賠償金2億両(テール:3億1千万円)を獲得

④ 重慶・長沙・蘇州・杭州の4港開港

・下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えた(李氏朝鮮は明治30年に大韓帝国として独立)。

・しかし、遼東半島は露仏独の三国干渉により返還させられた(代償として3,000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。

・結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。

・他方「眠れる獅子」と言われた清が敗戦したことから、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。

・加えて、日清戦争の賠償金は明治30年の金本位制施行の源泉となり、官営八幡製鉄所造営(明治34年開設)の資金となるなど戦果は経済的にも影響を与えた。

 

4)第二次蜂起(明治27年)(1894年)

・全琫準は日清両国が軍を派遣して間もない7月には既に第二次蜂起を起こそうとしていた。しかし、平和的な解決を望む東学の上層部の説得に時間が掛かり、蜂起したのは10月に入ってからであった。

・今度は朝鮮の新政権と日本軍を相手にする反乱であった。

・全琫準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。11月末に忠清道公州で農民軍と日本軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に農民軍はあえなく敗退する。

・農民軍は全羅道に逃げ帰り、全琫準らは淳昌で再起の機会をうかがっていたが、1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で処刑された。

 

逮捕された後の全琫準(1894年12月)(引用:Wikipedia)

 

・全琫準が処刑されて間もなく、全琫準を密かに偲んで次の歌が全羅道で流行ったという。

『鳥よ鳥よ 青い鳥よ 緑豆の畠に降り立つな 緑豆の花がホロホロ散れば 青舗売りが泣いて行く』

(緑豆は全琫準のことで、青舗は緑豆で作った菓子、青舗売りは貧しい民衆を表していた。)

・なお、大院君は、閔氏政権によって投獄されていた東学の巨魁2名を釈放し、1人を内務衙門主事に1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた。

・また密使は、忠清道の東学巨魁任箕準、徐長玉に、全羅道の東学巨魁全琫準、宋喜玉に、それぞれ会って東徒の召集を促し、慶尚道に於ては直接に東徒の糾合を呼びかけた。

・呼びかけにより10、11月に相次いで蜂起する。そして大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。

・これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から発見された。

・その後も大院君と李埈鎔の扇動教唆の手紙を発見し、また後に逮捕された部下たちの供述によって発覚し、日本公使の追及によって、国王、大院君、李埈鎔が謝罪して認めた。

・このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく日本を放逐せんとする大院君の思惑も働いている可能性がある。


(6)乙未事変(明治27年)(1894)


(引用:Wikipedia)

・1894年3月28日、閔氏政権によって開化派の中心人物金玉均が暗殺された。そして5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争が勃発した。

・農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国清に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府は、日本も朝鮮へ出兵することを決定した。

・閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に内政改革を求めたが、受け入れられず、日清戦争開戦を2日後にひかえた1894年7月23日、日本軍は景福宮を占領した。

・日本は閔氏政権と対立していた興宣大院君(高宗の父)の復権を行い、開化派の金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本の支援のもと、甲午改革を進めた。

・日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月6日に政権を奪回した。下関条約からまだ3ヶ月も経過していなかった。

・日清戦争直後にロシア軍の力を背景に行った閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。

・こうした中で、日本公使三浦梧楼、軍事顧問岡本柳之助らは前年の王宮占領の再現を狙って、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされるが、一方で大院君が軍事顧問の岡本柳之助に再三に渡り密使を送っていたことや、10月6日に訓練隊を解散し隊長を厳罰に処すとする詮議がなされたことが漏れ伝わったことで激昂した訓練隊は大院君を奉じ決起することとなったという一次資料も存在している。

・1895年10月8日午前三時、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。

・この時、三浦らは大院君をかつぎだすため、屋敷から王宮へ参内させたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に行うはずだった作戦は破綻したとする説もある。

・なお、日本守備隊は鎮静化のため王宮の警備を行った、侍衛隊と訓練隊との衝突は軽微なものとなった、大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認したなどとする日本側の記録もある。


(7)韓国保護国化/韓国併合(明治37年2月~43年8月)


(引用:Wikipedia)

1)概要 

 事  項

 内 容

総     説

韓国併合 · 大韓帝国 · 日本統治時代の朝鮮

日韓二国間

協約・条約

日韓議定書 · 第一次日韓協約 · 第二次日韓協約 

第三次日韓協約 ·日韓併合条約(韓国併合ニ関スル条約)

第三国との

国際協定

桂・タフト協定 · 日英同盟 · 高平・ルート協定 

ポーツマス条約

韓国国内政治

一進会 · 韓日合邦を要求する声明書 · 義兵

 

2)日韓議定書(明治37年2月23日)(1904年)

2.1)概要

日韓議定書は、日露戦争中の明治37年(1904)2月23日に、日本と大韓帝国(韓国)との間で締結された条約である。

・漢城(現:ソウル)において、日本の特命全権公使林権助と韓国(李氏朝鮮)の外部大臣臨時署理李址鎔が調印した。

・日本による、韓国施政忠告権臨検収用権など、日本側に有利な条項もあるが、反面、日本政府は、韓国皇室韓国の独立及び領土を確実に保障し、片務的防衛義務を負うなどとしており、一方的に日本に有利なものとはなっていない。

 

2.1)背景

・明治37年(1904)1月21日、韓国政府は日露交戦の折には戦時局外中立をすると宣言、清をはじめイギリス、フランス、ドイツなどがこれを承認した。

・他方、2月8日に日本政府は韓国の戦時局外中立宣言を無視する形で、日本軍を仁川へ上陸させ、その後漢城へ進駐し、締結された。

・日露戦争において、補給上重要な韓国における、日本軍の通行権などを確保する目的があったと言われている。

 

2.2)主な内容

・締結された議定書(※)の主な内容は以下の通りである。

① 施政忠告権

② 韓国政府は、施政の改善に関し、日本政府の忠告を容れる事。

③ 韓国皇室の安全康寧の保障

④ 日本政府は、韓国の皇室を安全康寧ならしめる事。

⑤ 韓国の独立保障

⑥ 日本政府は、韓国の独立及び領土保全を確実に保証する事。

⑦ 日本による韓国防衛義務

・第三国の侵害により若しは内乱のため、韓国の皇室の安寧或いは領土の保全に危険ある場合は、日本政府は、速やに臨機必要の措置を取らなければならない。

・そして、韓国政府は、その日本の行動を容易ならしめるため、十分便宜を与える事。

・日本政府は、その目的を達するため、軍略上必要の地点を臨検収用することができる事。

(原文)

 大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔ハ各相当ノ委任ヲ受ケ左ノ条款ヲ協定ス。

・第一条 日韓両帝国間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル為大韓帝国政府ハ大日本ヲ確信シ施政ノ改善ニ関シ其ノ忠告ヲ容ルゝ事

・第二条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ皇室ヲ確実ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事

・第三条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事

・第四条 第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事

・第五条 両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事

・第六条 本協約ニ関連スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事

(訳文(抄訳))

① 施政忠告権

 韓国政府は、施政の改善に関し、日本政府の忠告を容れる事。

② 韓国皇室の安全康寧の保障

 日本政府は、韓国の皇室を安全康寧ならしめる事。

③ 韓国の独立保障

 日本政府は、韓国の独立及び領土保全を確実に保証する事。

④ 日本による韓国防衛義務

 第三国の侵害により若しは内乱のため、韓国の皇室の安寧或いは領土の保全に危険ある場合は、日本政府は、速やに臨機必要の措置を取らなければならない。そして、韓国政府は、その日本の行動を容易ならしめるため、十分便宜を与える事。日本政府は、その目的を達するため、軍略上必要の地点を臨検収用することができる事。

⑤ 条約遵守義務

 両国政府は、相互の承認を経ずして後来、本協約の趣意に違反する協約を第三国との間に訂立する事ができない事。

 

2.3)条約遵守義務

・両国政府は、相互の承認を経ずして後来、本協約の趣意に違反する協約を第三国との間に訂立する事ができない事。

 

3)第1次日韓協約(明治37年8月)(1904年)

3.1)概要

第一次日韓協約は、日露戦争中の明治37年(1904)8月22日に日本と大韓帝国(以下、韓国、李氏朝鮮)が締結した協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。

・協約締結に際しての日本側代表は日本政府特命全権公使の林権助、韓国側の代表は外部大臣尹致昊であった。締結時の正式名称は、韓日外国人顧問傭聘に関する協定書

・この協約が締結されたとき、日露戦争は未だ継続中であったが、朝鮮半島での日露の戦闘は日本軍の勝利という結果で終了し、韓国は事実上、日本の占領下に入っていた。

・協約の内容は、大韓帝国(韓国)政府は日本政府の推薦する日本人1名を財務顧問に、外国人1名を外交顧問として雇い、その意見にしたがわなければならない、また、外交案件については日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないというものであり、韓国保護国化の第一歩となるものであった。

・これにより、大蔵省(現在の財務省)主税局長の目賀田種太郎が財務顧問に、アメリカ駐日公使館顧問であったダーハム・W・スティーヴンスが韓国外交顧問に就任した。(注) 

(注) スティーブンスは1908年、サンフランシスコにおいて韓国人張仁煥の手にかかり暗殺された。

・しかし、韓国皇帝高宗はこれを良しとせず、ロシア帝国に密使を送った。明治38年(1905)3月26日韓国皇帝によるロシア皇帝ニコライ2世宛の密書が発覚。その後も高宗は、7月にロシア、フランスへ、10月にアメリカ、イギリスに密使を送った。

・これらの行動を受けて日本は、韓国は外交案件について日本政府と協議することを定めた同協約第3条を遵守する意志がないと考え、日本が韓国の外交権を完全に掌握できる協約の締結を要求するようになり、ポーツマス条約調印後の1905年11月17日、日韓両国は第二次日韓協約を結んだ。

※協約の全文は以下の通り。

一  韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ

一  韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部[注釈 2]ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ

一  韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権、譲与若ハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ

    明治三十七年八月二十二日 特命全権公使 林権助 光武八年八月二十二日 外部大臣署理 尹致昊

 

4)第2次日韓協約(明治38年11月)(1904年)

4.1)概要

第二次日韓協約は、日露戦争終結後の明治38年(1905)11月17日に大日本帝国と大韓帝国

が締結した協約。 日韓保護条約とも言う。

・これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。

・日韓保護条約、韓国保護条約ともいい、乙巳年に締結したという意味で乙巳條約、乙巳五條約、乙巳保護条約とも。締結当時の正式名称は日韓交渉条約であった。韓国は「韓日協商条約」として公表される。韓国側は現在、「乙巳条約」「乙巳五条約」「乙巳協約」「乙巳勒約」等と呼称している。また、大日本帝国によって強制で結んだ条約という観点からは乙巳勒約とも呼ばれる。

・大日本帝国側代表は特命全権公使林権助、大韓帝国側代表は外部大臣朴斉純

・1965年、本条約は日韓の国交を正常化する日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の第2条で「もはや無効」であることが確認された。

 

4.2)経緯

・大日本帝国は日露戦争中である1904年の第一次日韓協約締結により大韓帝国の財政・外交に対し関与する立場となっていたが、その間、桂・タフト協定が締結された。

・日露戦争に勝利し、その講和条約であるポーツマス条約(1905年9月5日)により大韓帝国に対する優越権をロシアから承認され、また高宗が他の国に第一次日韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、大日本帝国からの信頼を無くしていた大韓帝国に対し、より信頼できる行動をとることを求めるため、この協約を結ぶこととなった。

・協約締結後の1907年に、協約の無効を主張する高宗の親書を携えた密使が万国平和会議に派遣されたが国際的には有効な協約であったため、拒絶された(ハーグ密使事件)。

・この密使の派遣が問題となり、高宗は李完用らに責任を問われ皇帝の地位を純宗に譲ることとなり、第三次日韓協約の調印へと進むこととなった。

 

4.3)全文(原文)

・日本國政府及韓國政府ハ兩帝國ヲ結合スル利害共通ノ主義ヲ鞏固ナラシメムコトヲ欲シ韓國ノ富強ノ實ヲ認ムル時ニ至ル迄此目的ヲ以テ左ノ條款ヲ約定セリ

・第一條  日本國政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓國ノ外國ニ對スル關係及事務ヲ監理指揮スヘク日本國ノ外交代表者及領事ハ外國ニ於ケル韓國ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ

・第二條  日本國政府ハ韓國ト他國トノ間ニ現存スル條約ノ實行ヲ全フスルノ任ニ當リ韓國政府ハ今後日本國政府ノ仲介ニ由ラスシテ國際的性質ヲ有スル何等ノ條約若ハ約束ヲナササルコトヲ約ス

・三條  日本國政府ハ其代表者トシテ韓國皇帝陛下ノ闕下ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ專ラ外交ニ關スル事項ヲ管理スル爲京城ニ駐在シ親シク韓國皇帝陛下ニ内謁スルノ權利ヲ有ス日本國政府ハ又韓國ノ各開港場及其他日本國政府ノ必要ト認ムル地ニ理事官(レヂデント)ヲ置クノ權利ヲ有ス理事官ハ統監ノ指揮ノ下ニ從來在韓國日本領事ニ屬シタル一切ノ職權ヲ執行シ並ニ本協約ノ條款ヲ完全ニ實行スル爲必要トスヘキ一切ノ事務ヲ掌理スヘ

・第四條  日本國ト韓國トノ間ニ現存スル條約及約束ハ本協約ノ條款ニ抵觸セサル限總テ其效力ヲ繼續スルモノトス

・第五條  日本國政府ハ韓國皇室ノ安寧ト尊嚴ヲ維持スルコトヲ保証ス

右証據トシテ下名ハ本國政府ヲリ相當ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナ 

                  明治三十八年十一月十七日 特命全權公使 林權助

                      光武九年十一月十七日 外部大臣 朴齊純

 

4.4)内容(口語訳)

・第1条:日本国政府は、東京にある外務省により今後韓国の外国に対する関係および事務を監理指揮するものとし、日本国の外交代表者および領事は、外国における韓国の臣民および利益を保護するものとする。

・第2条:日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うする任務に当たり、韓国政府は、今後日本国政府の仲介によらずして国際的性質を有する何らの条約もしくは約束をしないことを約する。

・第3条:日本国政府は、その代表者として韓国皇帝陛下の下に統監(resident general)を置く。統監は、外交に関する事項を管理するため京城に駐在し親しく韓国皇帝陛下に内謁する権利を有する。日本国政府は韓国の各開港場およびその他日本国政府の必要と認める地に理事官(resident)を置く権利を有する。理事官は、統監の指揮の下で、従来在韓国日本領事に属した一切の職権を執行し、ならびに本協約の条款を完全に実行するために必要とすべき一切の事務を掌理するものとする。

・第4条:日本国と韓国との間に現存する条約および約束は本協約の条款に抵触しないかぎり全てその効力を継続するものとする。

・第5条:日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証する。

 

4.5)締結後

・同年11月23日、日本国内では同条約の告示とともに、条約に準じて韓国統監府及び理事庁を設置する旨の勅令第240号が公布された。

・韓国では、締結後の1905年11月末に駐韓英国公使館、12月に米国公使館などの各公使館が韓国を撤退し、清国の曾廣銓やロシア帝国公使なども本国へ呼び戻された。

・初代韓国総監に伊藤博文、初代総務長官に鶴原定吉が任命され、翌年の1906年(明治39年)に李氏朝鮮の高宗に拝謁、後に宮廷顧問官と韓国総監府管制などを協議した。

・韓国統監府において、伊藤は教育の設備改善をはじめ諸事の事柄を上奏し、諸事のための資金1千万円を日本興業銀行から韓国へ融資させ、改善に取り組んだ。

 

4.6)無効論

・本協約は、1965年に結ばれた日韓基本条約第2条により、他の条約とともに「もはや無効」であることが確認されたが、この解釈においても日本と韓国(大韓民国)では割れている。

・日本では1965年の条約締結以降に無効になったと考えている。

・一方、韓国政府は「日韓併合条約が当初から無効であった(締結時から条約としての効力を発していない)」という立場を取っている。

〇 協約締結時の高宗皇帝

・李完用らが上疏した「五大臣上疏文」では、締結交渉自体を拒否しようとした強硬派大臣たちに対し、高宗自らこれを戒め「交渉妥協」を導いた様子が報告されている。

・また、高宗は少しでも大韓帝国に有利になるように協約文の修正を行うこととし、李らの修正提案を積極的に評価している。

・大日本帝国側も大韓帝国側からなされた4カ所の修正要求を全て受け入れ協約の修正を行った。それに対して朝鮮大学の歴史地理学部長である康成銀は「五大臣上疏文」自体が李完用ら協約賛成派によって記され、協約に賛成する事で売国奴と糾弾された乙巳五賊自身の皇帝に対する弁明を記した上疏文に過ぎない事などを指摘している。

・1906年1月5日に提出された「呉炳序等上疏文」は「五大臣上疏文」を批判して、五大臣が責任を皇帝に被せようとした諸事実を指摘しており、皇帝はこの「呉炳序等上疏文」に批答を与え「爾(なんじ)の言葉は詳しく明らかであり、条里(ママ)がある」と肯定的に評価している。

・また1905年11月25日に乙巳五賊のひとりである当の権重顕が提出した「権重顕上疏文」には「乙巳五条約」が定められた条約手続きを踏んでいないことや、皇帝の裁可を経ずに調印されたことなど、後に提出された「五大臣上疏文」とはまったく正反対の内容が記されている。康成銀はこれらの事実を以って「五大臣上疏文」の資料としての信頼性に疑問を呈している。

〇 協約締結後の高宗皇帝 

 

第二次日韓協約の無効を訴える高宗のイギリス宛の親書(引用:Wikipedia)

・1905年11月18日に勒約が締結されると、皇帝はこれが「無効であること」をただちに明らかにするために、芝罘経由で11月26日に緊急電文をイギリスのハーバート・ヘンリー・アスキスに送った。

・その内容は「朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。」というものであった。

・第二次日韓協約の無効を訴えるイギリス宛親書後、高宗は第二次日韓協約締結の不当性を国際社会に訴えようと努力したが、当時の国際情勢によって皇帝の密書などは支持を得られなかった。

・高宗の第二次日韓協約無効を主張する書簡には1906年1月29日に作成された国書、1906年6月22日にハルバート特別委員に渡した親書、1906年6月22日にフランス大統領アルマン・ファリエールに送った親書、1907年4月20日ハーグ密使李相卨への皇帝の委任状などがある。

 

4.7)国際法上の評価

・当時の国際法においては、国家への武力による条約の強制があっても有効であるが、国家代表者に対する脅迫があった条約は無効原因となるとされている。

・第二次日韓協約の締結と同一年に刊行された英国の国際法の教科書であるオッペンハイム(L. Oppenheim)には「真正の同意がない場合には条約は拘束力を欠くので、締約国には絶対的な行動の自由がなければならない。しかし、『行動の自由』という表現は、締約国の代表者に対してのみ適用される。当事国の代表者に対する脅迫に基づき締結された条約は、この者の代表する国家を拘束するものではない」との説明が見られる。

・同時代の代表的国際法学者であったホール(W.E. Hall)の他に、ブルンチュリ(M. Bluntschili)やフィオレ(P.  Fiole)、倉知鉄吉や高橋作衛といった学者も同様の見解を示していた。

・このように、国の代表者に対して個人的に加えられた強制や脅迫の結果として結ばれた条約が無効となるということは、第二次日韓協約締結当時の国際慣習法として成立していたものと思われる。

・今日における無効論の大多数は、以下の2点を主張し、その根拠としている。

① 本協約は当事国の代表者への脅迫に基づいて強制的に調印させた条約である。

② 本協約朝鮮には皇帝の承認(署名・調印)がない。

・韓国の学者やフランス国際法学者フランシス・レイは「第二次日韓協約締結時に国家代表たる高宗に強迫が使われた」ことと「日本の韓国に対する保証義務」をあげて1905年条約が無効”と主張している。

・また、1935年にハーバード大学法学部が米国の国際法学会から委託を受け、条約法制定に関してまとめた「ハーヴァード草案」では、条約強制に関する部分でフランシス・レイの理論をそのまま採択し、第二次日韓協約を相手国代表を強制した効力を発生しえない条約の事例として挙げた。

・更に1963年に国連ILC報告書の中で、ウォルドック特別報告官は第二次日韓協約を国家代表個人の強制による絶対的無効の事例としていた。ここで言う代表者個人への強制の事例としては、強硬な反対派であった参政大臣の韓圭ソル(ハン・ギュソル)の別室への監禁と脅迫、憲兵隊を外部大臣官邸に派遣し、官印を強引に奪い取極書に押捺した事などがあったとされており、その様子がロンドンデイリーメイル紙の記者マッケンジーの著書『朝鮮の悲劇』や、11月23日付けの『チャイナ・ガジェット』(英字新聞)に記載されている。

・一方、海野福寿(明治大教授)は協約調印の当日に韓国駐箚軍が王宮前広場で演習などを行ったりはしていたが、この日は李完用学部大臣の邸宅が焼き討ちされる等の状況にあり、過剰警備であったとしても、それが国家代表者への脅迫とはいえず、また、無効論者が強制の根拠としている『韓末外交秘話』は、その著者自身が噂をまとめたものと記しているように資料的価値がないとし、更に、条約に署名・調印する者は、国際法では皇帝でなくとも特命全権大使や外務大臣でもよいため、韓国側の外部大臣と日本側の駐韓公使が署名調印した同条約は国際法的に問題はないとしている。

・また、海野は1966年の国連国際法委員会で採択された条約法『国の代表者に対して強制があった条約は無効とする法』に同条約への言及がないことを指摘し、国家への強制性は認められるが、国際法的に無効原因となる国家代表者個人に対する脅迫の事実を史料的に確認することはできないとしている。

・また、上述(#協約締結時の高宗皇帝)のように原田環(県立広島女子大教授)からは、『五大臣上疏文』などの史料調査から皇帝の高宗は「日本の協約案を修正して調印する方向に韓国の大臣達を動かしていた」とし、脅迫をされたという皇帝自ら協約締結のリーダーシップをとっていたとの指摘がなされている。

・2001年、この問題を検討するために韓国側の強い働きかけにより開催された国際学術会議、韓国併合再検討国際会議では、日韓および欧米の学者が参集し問題を検討している。

・韓国の学者は一致して不法論を述べ、また日本から参加の笹川紀勝も持論の違法論を述べるなどしたが、ダービー大学のキャティ教授が帝国主義全盛の当時において「国際法が存在していたかどうかさえ疑わしい」とし、ケンブリッジ大学のクロフォード教授(国際法)は「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年-1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」、「国際法は文明国間にのみ適用され、非文明国には適用されない」とし、「英米などの列強の承認があった以上、当時の国際法慣行からするならば、無効ということはできない」としている。

 

5)第3次日韓協約(明治40年7月)(1907年)

5.1)概要

・  第三次日韓協約は、明治40年(1907)7月24日に締結された協約。ハーグ密使事件をうけて、大韓帝国議会は1907年7月18日に高宗を退位させた。

・第二次日韓協約によって外交上の日本の保護国となり、すでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権に関し韓国統監が一部権限を有すること(第4条)、韓国政府の一部官吏に韓国統監が推薦する日本人を登用できること(第5条)などが定められた。

・これによって、朝鮮の内政は日本の強い影響下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散による日本軍駐留の正当化と司法権・警察権の韓国統監への委任が定められた。

 

5.2)覺書(非公表)

 明治四十年七月二十四日調印日韓協約ノ趣旨ニ基キ漸次左ノ各項ヲ實施スルコト

・第一  日韓兩國人ヲ以テ組織スル左記ノ裁判所ヲ新設ス

  一  大審院 一箇所 位置ハ京城又ハ水原トス 院長及檢事總長ハ日本人トス 判事ノ内二名書記ノ内五名ヲ日本人トス

  二  控訴院 三箇所 位置ハ中央部ニ一箇所南北部ニ各々一箇所トス 判事ノ内二名檢事ノ内一名書記ノ内五名ヲ日本人トス

  三 地方裁判所 八箇所 位置ハ舊八道觀察府所在地トス 所長及檢事正ハ日本人トス 全體ヲ通シテ判事ノ内三十二名書記ノ内八十名ヲ日本人トシ事務ノ繁閑ニ應シテ分配ス 檢事ノ内一名ヲ日本人トス

  四 區裁判所 百十三箇所 位置ハ重要ナル郡衙ノ所在地トス 判事のない一命初期のない一命を日本人トス

・第二  左記ノ監獄ヲ新設ス

  一 監獄 九箇所 位置ハ各地方裁判所所在地ニ一箇所及島嶼ノ内一箇所典獄ハ日本人トス 看守長以下吏員ノ半數ヲ日本人トス

・第三  左記ノ方法ニ依リテ軍備ヲ整理ス

 一 陸軍一大隊ヲ存シテ皇宮守衛ノ任ニ當ラシメ其ノ他ハ之ヲ解隊スルコト

 一 教育アル士官ハ韓國軍隊ニ留マルノ必要アルモノヲ除キ他ハ日本軍隊ニ附屬セシメテ實地練習ヲ爲サシムルコト

 一 日本ニ於テ韓國士官養成ノ爲相當ノ設備ヲ爲スコト

・第四  顧問又ハ參與官ノ名義ヲ以テ現ニ韓國ニ傭聘セラルル者ハ總テ之ヲ解傭ス

・第五  中央政府及地方廳ニ左記ノ通日本人ヲ韓國官吏ニ任命ス

  一 各部次官

  一 内部警務局長

  一 警務使又ハ副警務使

  一 内閣書記官及書記郎ノ内若干名 

  一 各部書記官及書記郎ノ内若干名

 一 各道事務官一名

 一 各道警務官

 一 各道主事ノ内若干名

右ノ外財務警務及技術ニ關スル官吏ニ日本人ヲ任用スル件ハ追テ別ニ之ヲ協定スヘシ

 

6)韓国併合(明治43年8月)

 韓国併合とは、1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国(日本)が大韓帝国を併合して統治下に置いた事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦などとも表記される。厳密には日本による朝鮮半島の統治は、大日本帝国がポツダム宣言による無条件降伏後も続いており、1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が降伏文書に調印するまで実質的には約35年間続いた。

 

6.1)日韓併合条約締結(明治43年8月)

 

General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg

「韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。(引用:Wikipedia)

 

大韓帝国の内閣総理大臣李完用の名前や、最後の皇帝純宗の諱である坧の署名が見える。

・韓国併合ニ関スル条約とは明治43年(1910) 8月22日に漢城府(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相が調印し、29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定した条約のこと。大日本帝国はこの条約に基づき大韓帝国を併合した。

・通称、日韓併合条約、韓国併合条約。韓国では「韓日併合条約」と呼ばれている。

・調印された条約文書、ならびに明治天皇と純宗がそれぞれの国に発した勅諭は、大韓民国・ソウル大学の奎章閣に保管・展示されている。

〇 条約公布に際し大韓帝国皇帝(純宗)が公布した勅諭

 ※邦訳

 皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。

 故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。

 惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。

 朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。                 隆煕四年八月二十九日 御璽

〇 条約に関する論争

 世界的に「『韓国併合ニ関スル条約』は当時の国際法上、合法であった」とするのが多数派である。違法論は現在では、大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)以外の国では少数派である。

● 合法論側の主張

 合法の根拠は17世紀頃からヨーロッパで創生され発展した韓国併合当時の万国公法(国際法)である。日本と韓国は正式な文書で併合条約を交わしている。国家元首による条約の署名・捺印も必ず要するものではなく、また、本条約は批准を必要とする条約とされていない。一部学者が主張する韓参政に対する個人的脅迫も、証拠に乏しく、違法論の根拠にはならない。

● 無効論側の主張

 日朝修好条規にて「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」とされ、日本國と朝鮮國(李氏朝鮮)の二国間条約では自主の国と認めている。しかし、その後の日韓協約や韓国併合ニ関スル条約締結時に朝鮮國側は外務大臣の署名のみで “ 当時自主の国間では必要とされた批准と署名 ” (朝鮮國国王による)はされず、公布はいずれも日本が単独でおこなっている。

● 現代の議論

 韓国政府は日韓基本条約の交渉の過程から一貫して無効論を提示しているが、条約上は「もはや無効である」との妥協的表現で決着している。学術面では岩波の「世界」誌上で日韓の学者がかつて争ったことがあったが決着がつかず、アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催で国際学術会議、韓国併合再検討国際会議が開かれることになった。

 これは韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援のもとに、韓国の学者たちの主導で準備されたものだった。韓国側の狙いとして、国際舞台で不法論を確定しようと初めから企図し、そのために国際学術会議を持ったのであり、それを以って謝罪と補償の要求の根拠にしたかったとする見方がある。

 2001年にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた韓国併合再検討国際会議において韓国併合の合法性が論議された。韓国や北朝鮮の学者は無効・違法論を展開したが、欧米の国際法学者らからは異なる見解が出された。

 イギリスのケンブリッジ大学のクロフォード教授(国際法)は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」と反論されたほか、併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出された。

 またこの会議では、朝鮮学会の原田環から、併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国を保護国にした日韓保護条約(1905年)について、皇帝(国王)の日記など韓国側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、高宗皇帝日韓保護条約賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする見解を新たに紹介している。

● 日韓両国による「無効確認」

 韓国併合ニ関スル条約は1965年(昭和40年)に締結された日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約日韓基本条約によって「もはや無効であることが確認される」とされた。

 

6.2)韓国併合の経緯

〇概要

 1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)寺内正毅統監李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、日本は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮半島の領有は終了した。

 条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。

 その後朝鮮半島は、北緯38度線を境に南部アメリカ軍北部ソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

なお「韓国併合」や「日韓併合」という言葉は、条約締結という出来事だけではなく、条約締結の結果、日本が朝鮮半島を統治し続けた継続的事実を指すこともある。

〇冊封体制下の秩序と開国

 当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持しており、1869年に日本の明治政府が王政復古を朝鮮に通告したときも、中国の皇帝が朝鮮に下す「皇上」や「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に受け取りを拒否した。

 1876年の江華島事件を経て日朝修好条規が日朝間で締結されて国交は結ばれたが、日本は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させ、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた。

 その後、李氏朝鮮は米国との条約提携を清朝に依頼し、天津で交渉にあたった李鴻章は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」という条文を盛り込むことを試みたが、アメリカ側が属国(属邦)と条約は結べないとして反対したため断念した。

 しかしながら、李氏朝鮮の高宗は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」とする照会を米国だけではなく、ドイツ・イギリスとの条約締結の交渉の際にも行った。

 1882年10月4日に朝鮮は清国と中朝商民水陸貿易章程を締結し、清国の藩部であることを明言した。

〇開国後から日清戦争まで

 開国後の李氏朝鮮では、衛正斥邪(欧米諸国を夷狄視して排斥し、鎖国を維持する)を是とする高宗の実父興宣大院君、明治維新に倣って朝鮮の近代化を進めようとする朝鮮青年貴族(金玉均、洪英植、朴泳孝ら)たちの開化派、清国への臣属を主張する高宗の妃閔妃を擁する閔氏一族(閔泳翊ら)の事大党による政争が続いていた。

 1882年、興宣大院君は閔氏一族を排するためクーデターを起こすが、閔妃は清国の袁世凱と結んで反乱を鎮圧する。大院君は中国の天津に幽閉され、大院君派の官吏・儒学者は凌遅刑に処されて壊滅した壬午軍乱

 1884年には開化派によるクーデターが起こったが、清国の軍事介入により鎮圧されて開化派も失脚した甲申政変。これらの政変により、清国は朝鮮への影響力を強め、閔氏一族の後見となって政権を掌握させた。清国と日本と天津条約を結び、朝鮮に出兵をする際は双国とも事前通告することを約定して、朝鮮半島から撤兵した。

 1885年、高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する露朝密約事件と、清国は影響力を維持するため大院君を朝鮮に帰国させる。帰国した大院君は高宗を廃して嫡孫の永宣君を王位に擁立して自らは摂政に収まることを画策し、全琫準を通じて東学党との関係を深めていった。

 1894年6月、東学党が蜂起して全羅道を占領して閔妃政権の退陣を求める甲午農民戦争と、閔氏政権は自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼する。李鴻章は2,000名規模の陸軍を派兵したが、日本も天津条約の取り決めに従って邦人保護のために8,000名規模の混成旅団を派兵した。

 反乱の鎮圧後、朝鮮は両国に対して撤兵を要求するが双方から拒否された。日本は朝鮮に独立国かの再確認を行い、朝鮮側から「自主国である」との回答が受けたことから、自主国である朝鮮に清国軍が駐留することは清国が朝鮮を属国として扱おうとする不当な動きとして批判し、日清間の緊張は高まった。また、日本は朝鮮政府に内政改革案を提示したが、閔妃一族は改革案よりも撤兵を求め、朝鮮王朝による自主的な改革を実施すると返答しため、閔氏一族との対立も深まった。

 1894年7月25日、朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突豊島沖海戦を契機に日清戦争が勃発し、勝利した日本は清国と下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功した。

〇三国干渉後と大韓帝国の成立

 日清戦争直後の朝鮮半島は、清国と結んでいた閔氏一族が失脚し、復権した開化派は金弘集を総理大臣として甲午改革が推進した。

 しかし、1895年(明治28年)にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国による下関条約に関する干渉に日本が屈すると、高宗の妃閔妃はロシア帝国に接近して復権を果たすが、失脚した大院君が開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデター(乙未事変)を起こされて殺害された。

 残された事大党(李範晋ら)は、妻を殺害された高宗を味方につけ、1895年にクーデターに失敗(春生門事件)するも、1896年にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して復権を果たす。高宗により金弘集らの開化派の閣僚は処刑され、親露派内閣による執政が行われた露館播遷

 朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するため、小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれ、高宗は1897年(明治30年)2月にロシア公使館から慶雲宮に帰還した。

 1897年(明治 30年)10月12日、高宗は自ら皇帝に即位して国号を「大韓」と改めた。高宗はロシアの力を借りて専制君主国家の成立に取り組み、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルの要請を受け、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと交代させ (度支顧問事件)、1898年2月には露韓銀行を設立させた。

 また、1898年1月には釜山の絶影島にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地を租借を要求する事件が起きた (絶影島貯炭庫設置問題)。開化派の運動組織独立協会は、中心人物の徐載弼が中枢院顧問から解任・国外追放され、1898年2月に、ロシア、日本などからの自立を求めた上疏が黙殺されるなど冷遇を受けた。

 また、大院君も高宗に諫言を行ったが、「倭奴(日本)の何か事場を醸すの処あっての事なるや」「露国は朕に親切にして、且つ後楯を為せり。」と一蹴された。

 独立協会を引き継いだ尹致昊は市民の街頭集会(万民共同会)を通じて議会設立を求める運動を推進したが、高宗も褓負商 (行商人) を動員して皇国協会を設立して対抗した。

 1899年1月、高宗が独立協会に解散命令を下すと会長の尹致昊は米国公使館に逃げ込み、開化派は壊滅した。1898年4月に日露間で西・ローゼン協定が結ばれ、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控えることが定められた。

 高宗は皇帝の専制政治を目論んで光武改革と称する政治運動を進めようとするも、しかし、1898年7月には皇帝譲位計画が、9月には金鴻陸による高宗・皇太子暗殺未遂事件(毒茶事件)が起こるなど臣下の離反が相次ぎ、王室の財源を確保するための経済政策も国民の支持を得ることができないまま、早々に破綻してしまった。

〇光武改革

 1899年(明治 32)8 月、高宗は「大韓国国制」を発布し、皇帝は統帥権、法律の制定権、恩赦権、外交権など強大な権力を有することが定められ、皇帝専制による近代化政策(光武改革)が進められたが、韓国独自の貨幣発行は失敗して財政は悪化した(後述の「財政問題及び偽白銅貨の流通」を参照)。

 韓国政府により京城~木浦間に鉄道を敷設する計画も発表されたが、資金不足により実現に取り掛かることはできなかった。

 また、光武量田事業と呼ばれる土地調査を実施し、封建制度の基礎となる土地私有制を国家所有制に切り替え、近代的地税賦課による税収の増加を目論んだが、土地所有者たちへの説明が不明瞭なまま強引に推し進められたことや経費の不足から徹底することができないまま、日露戦争の勃発により事業は終了した。

 イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』(※)で以下のように述べている。

 『朝鮮紀行』

『朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。

 官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。

 政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。

 日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。

 「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。— イザベラ・バード, 『朝鮮紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、1998年』

●財政問題及び偽白銅貨の流通

 当時の白銅貨には、典圜局製造の「官鋳」、正式な特別許可による外製の「特鋳」、韓国皇室の内々の勅許 (啓字公蹟) による外製の「黙鋳」、密造による「私鋳」があると見られていた。

 韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、大韓帝国において通用する白銅貨の偽物が日に増して流通し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた。また、大韓帝国においては偽造勅許証 (偽造啓字公蹟) が多く出回っており、それによる偽啓默鋳も行われていた。しかし、内密の勅許を暴露することは重罪であったため、民間人が白銅貨鑄造の勅命許可証の真偽を判断することは難しかった。しかし、日本公使館は内密な手段によってこの真偽を確かめることができた。

 兪吉濬によれば、仁川監理の河相驥が白銅貨偽造に手を染めていたとされる。金亨燮によれば、革命一心会に所属する兪吉濬が徐相潗や河相驥に白銅貨偽造を行わせたとされる。その他にも啓字偽造により尹孝寬、丁徳天、李聖烈、洪淳学や、洪秉晋などが逮捕されている。

 また、当時は白銅貨や韓銭だけでなく、清の商人の発行する銭票や日本の商人の発行する韓銭預かり手形も韓国の市場に流通していた。白銅貨低落の影響を受けた日本の在韓商人には、韓国の安定した貨幣制度の確立を望む者と、むしろ韓国通貨の低落を助長して日本貨幣の流通を拡張すべきだと主張する者が存在した。1902年5月、日本の第一銀行は韓国において日本円との兌換が保証された第一銀行券を発行、韓国の親露派からの妨害があったにも関わらず、その信用は増していった。

 1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、貨幣の原盤の流出元とみられる典圜局は廃止され、1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[25]、硬貨は大阪造幣局で鋳造されることとなった。 

〇 ロシアの南下と日露戦争

日露戦争の風刺画(引用:Wikipedia)

 

 ロシア帝国は南下政策の一環として、東アジアの領土拡張を推進していた。日本が日清戦争で勝利し、下関条約で遼東半島を割譲されると、ロシアはフランス、ドイツと共同で干渉を行って、遼東半島を返還させた三国干渉

 同時にロシアは清と露清密約を結び、東清鉄道の敷設など満州への権益を確保、1898年には遼東半島の旅順港と大連湾、威海衛を租借して植民地化を進めていった。また、露館播遷以降は朝鮮半島にも進出を始めていた。

 ロシアの南下政策に対して、日本は満州でのロシア帝国の優越権朝鮮半島での日本の優越権を相互に認めあう満韓交換論を主張する元老の伊藤博文と、ロシアを信用せずに欧米列強と協力して対抗するべきと主張する元老の山縣有朋が対立したが、1902年に日英同盟が成立するとロシアとの軍事的な緊張が高まった。

 1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は局外中立を宣言して、日露間の軍事衝突に関わることを避けようとしたが、日本は大韓帝国の独立と領土保全および皇室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と、軍略上必要な土地の収用を韓国に承認させた日韓議定書[注]。

 

[注] 日韓議定書 第四条「第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ。而シテ大韓帝 国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事」

 

 8月22日には第一次日韓協約を締結して、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問に日本の外務省に勤務していたアメリカ人のダーハム・W・スティーブンスを推薦して、韓国政府内への影響力を強めた。

 1904年(明治37年)9月5日、日露戦争が開戦すると、高宗はロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束したが、韓国国民はロシアの排除と日本の勝利を支持しており、政府と国民に大きな乖離が生まれた。

〇 日露戦争後の朝鮮半島を巡る国際情勢

 英国ランズダウン外相はロシアの南下を阻止するため、韓国が自主独立の国家として存在することを望んでおり、ジョーダン駐韓公使に対して韓国の支援を行うように指示を行った。ジョーダンは韓国の立場になって日露の干渉を排除するために尽力していたが、日露戦争の終結時になると、ジョーダンはマクドナルド駐日公使に対して「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、此処10年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示すようになる。

 マクドナルドもジョーダンに同意し、韓国は日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論をイギリス本国に報告した。ランズダウン、バルフォア首相は2人の見解を了承し、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることが承認された。

 米国は高宗の厚遇を得ていた駐韓公使ホレイス・ニュートン・アレンが日本の干渉に抵抗を続けていたが、セオドア・ルーズベルトによる日露戦争の仲介が始まると、1905年6月に駐韓公使を更迭された。

 1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。

① 大日本帝国は、アメリカ合衆国の植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。

② 極東の平和は、大日本帝国、アメリカ合衆国、イギリス連合王国の3国による事実上の同盟によって守られるべきである。

③ アメリカ合衆国は、大日本帝国の韓国における指導的地位を認める。

 会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。

 桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。

 ロシアは日露戦争の講和条約ポーツマス条約で韓国に対する日本の優越権を認め、1906年に駐日公使 (1899年-1903年) を務めたアレクサンドル・イズヴォリスキーがロシア帝国の外務大臣に就任すると日露関係の緊張は解けていき、朝鮮半島への干渉から撤退していく、その後も、フランスが1907年の日仏協約で日本の韓国における優越的地位を認めるなど、日本の朝鮮半島に関する支配権は欧米列強の協調外交に組み込まれていった。 

〇第二次日韓協約とハーグ密使事件

 ロシアの後ろ盾をなくした高宗は、韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進し[注]、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結される。

 この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となった。12月には、韓国軍の指揮権を有する行政府である統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。

[注]「日省録」や「承政院日記」などの分析から高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする研究結果も、2001年(平成13年)にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた国際学術会議で出されている。

 実権を失った高宗は、三国干渉で日本が遼東半島の主権を断念したように、欧米列強の干渉で第二次日韓協約を撤回させて、日本から外交権の回復することを画策し、1907年(明治40年)6月15日からオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に、日本による韓国支配を糾弾するため密使を派遣した。

 しかし、この会議は1899年に定められた国際紛争平和的処理条約の批准国による国際協調を調整する会議であり、締約国ではない大韓帝国は参加することはできず、また、第二次日韓協約によりに韓国の外交権が失われていることを理由にいずれの国からも接触を拒否され、実質的な成果を挙げることなく失敗に終わった。ハーグ密使事件

 密使たちは日本の大阪毎日新聞を含む各国の新聞で韓国の主張を訴える戦略に切り替えたため、高宗の秘密外交は国際的に露見することになり、日本でも知れ渡るようになった。

 日本の世論は高宗を優遇してきた韓国統監の伊藤を厳しく批判し、伊藤も高宗を「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と叱責し、李完用らの閣僚も高宗の独断専行が大韓帝国の維持に有害であると退位を企てるようになる。

 孤立した高宗は日本に抗う術はなく、7月19日に高宗は退位して、純宗が即位した。7月24日、韓国は第三次日韓協約を結んで内政権を日本に譲り、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。

 第二次日韓協約のころまでは韓国に同情的な意見もあった日本の世論も、政治能力のない大韓帝国の存在は韓国民衆にとって不幸であり、世界の平和と安寧のためにも朝鮮を日本に併合することが「世界に対する帝国の任務」であると併合の推進を進める論調が主流となり[注]、1909年(明治42年)7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合の体制が整った。

[注] 「ハーグ密使事件は皇帝の責任に属す ことはもちろんだが、統監府が未然に防止できなかったことは統監の迂闊を世界に公表したものである。しかも、これは統監一人の身にとどまらず、日本の名誉毀損・威厳の侮辱・信用の抹殺である」(大阪毎日新聞 1907年7月16日の社説)

〇伊藤博文の暗殺

 1909年(明治42年)10月26日、ロシア帝国のハルビン駅頭で日本の枢密院議長伊藤博文が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されると、韓国の併合は決定的になった。

 ロシア帝国は欧米列強の中で韓国への支援を継続していた最後の国であったが、ロシア領内で事件が勃発されると関与の疑念を払拭するため、韓国の関係を断絶して、日本との協調路線に転じた。

 また、伊藤博文は征韓論政変以来、韓国併合反対派の重鎮であり、国際協調派の元老として、山県有朋らの軍閥による軍事拡張を抑えていたが、伊藤の暗殺により、軍閥の発言力は高まった。それまで韓国統監は文官である伊藤博文・曾禰荒助が務めたが、寺内正毅以降は朝鮮総督も含めていずれも武官が就任するようになる。

 

6.3)大韓帝国の統治時代 

〇民間の政治団体・一進会の上奏声明

  12月4日には大韓帝国にあった民間の政治結社・一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏。

 「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また、日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり外交権が奪われ、保護条約に至ったのは我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

との声明を発表した。

 ただし、「韓日合邦を要求する声明書」は日本と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の両国の時勢・国力比から考えて日本側には受け入れられない提案であったために拒絶した。

〇 併合

 

併合当日に発行された『朝鮮総督府官報』第1号の第1面。(引用:Wikipedia)

明治天皇が併合に際して発した詔書が掲載された。

曰く「朕ハ韓国皇帝陛下ト与(とも)ニ〔中略〕茲(ここ)ニ永久ニ韓国ヲ帝国ニ併合スルコトトナセリ」。

 1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。

 8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められた。親日派で固められた韓国閣僚でも李容植学相は併合に反対するが、大勢は併合調印賛成に傾いており、8月22日の御前会議では李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。

 統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上に、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、日本は大韓帝国を併合した。

 これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで日本の統治下に置かれた。大韓帝国政府韓国統監府廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。


(8)三・一独立運動 (大正8年3月)(1919)


(引用:Wikipedia)

1)概要

  三・一運動(さんいちうんどう)は、1919年(大正8年)3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動。独立万歳運動や万歳事件、日本では、三・一事件(さんいちじけん)、三・一独立運動とも呼ばれる。

 現在の大韓民国(韓国)では肯定的に評価され、3月1日を三一節として政府が国家の祝日に指定しており、同日には現職大統領が出席し演説を行う記念式典が開催されるなどしている。

 逆に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、失敗したブルジョア蜂起と否定的な評価をしているなど、南北での見解に差がある。

 

タプコル公園のレリーフの1枚(引用:Wikipedia)

 

・第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより " 十四か条の平和原則 " (※)が発表されている。

・これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京府東京市神田区(現:東京都千代田区神田駿河台)のYMCA会館に結集し、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。

・これに呼応した朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の各宗教指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。

・3月1日から3月14日までの間に日本人死者10人、 負傷者15人が出ている。

 

※「十四か条の平和原則」:1918年1月8日、アメリカ大統領ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した平和原則である。

◇概要:アメリカは前年1917年3月の参戦によって協商国(連合国)側の勝利を決定づけ、この演説によって第一次世界大戦の講和原則、ひいては大戦後に実現されるべき国際秩序の構想を全世界に提唱した。この提案はドイツの降伏を引き出すことになり、同年11月、大戦の休戦協定において講和の基本原則とすることが約された。翌1919年1月に開会されたパリ講和会議で、米国全権代表となったウィルソンはこの十四か条をアメリカの中心的主張とした。

◇内容:「十四か条」の各項目は以下の通りである。

第1条:秘密外交の廃止/第2条:海洋の自由/第3条:経済障壁の撤廃/第4条:軍備の縮小/第5条:植民地問題の公正解決、「民族自決」の一部承認(後述)/第6条:ロシアの回復/第7条:ベルギーの回復/第8条:フランス領の回復/第9条:イタリア国境の調整/第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治オーストリア=ハンガリー統治下の諸民族の自治の保障/第11条:バルカン諸国の回復/第12条:トルコ少数民族保護、オスマン帝国統治下諸民族の自治保障とダーダネルス海峡自由航行/第13条:ポーランドの独立、18世紀のポーランド分割の結果消滅していたポーランドの復活・独立/第14条:国際平和機構の設立

◇影響:「十四か条」のうち、第14条はヴェルサイユ条約の第1章「国際連盟憲章」として条文に盛り込まれ国際連盟設立という形で結実した。しかしほとんどの内容は、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。

◇「十四か条」と民族自決:「十四か条」は、1917年の十一月革命で成立したロシアのソヴィエト政権が出した「平和に関する布告」(1917年11月18日 / 以下「布告」)に対抗して出された色合いが強いが、それは「民族自決」に関する規定にも現れている。

 「布告」がヨーロッパ・非ヨーロッパの区別なく植民地を含めた領土・民族の強制的「併合」を否定して民族自決の全面的承認の規定になっているのに対し、同じ連合国で植民地大国であった英・仏などに配慮し、「関係住民(=属領・植民地住民)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(=支配国・本国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する」とかなり限定的な規定になっており、その具体的な適用範囲も、第10〜13条に現れているように、ほとんど敵対する同盟国の領土(ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国・オスマン帝国)に限定されている。この結果、ヴェルサイユ条約を初めとする一連の講和条約で民族自決原則を適用され独立を認められたのは旧ドイツやオーストリア・ハンガリー(およびロシア)支配下にあった東欧・中欧諸国のみであった。しかもそれはあくまでもロシア革命やハンガリー革命から西欧を防衛することを目的とした方便によるものであった(そして、70年後のチェコスロバキア・ユーゴスラビア解体後にこの事が批判を受けることになる)

 オスマン帝国領においてはサウジアラビアが自力で独立を達成したのを唯一の例外に、その他の中近東地域は英仏の委任統治領(A式が適用され近い将来に独立するものとされた)となった。また、同じドイツ領でもアフリカ・太平洋島嶼部の植民地はB式・C式委任統治領とされ戦勝国である英仏日の事実上の植民地となった。

・他の植民地・半植民地地域では講和成立後の1921年にイギリスの支援でイランが独立し、1922年にはエジプトの独立が認められた程度である。

・しかし、ともかくも帝国主義列強の一角であったアメリカ(およびロシア)が「民族自決」を容認したことの反響は大きく、十四か条における民族自決の適用から外されていたアフリカの大部分やアジアなど植民地・半植民地地域では、この規定を逆手にとって本国(連合国)の政府に対しより高度の自治や独立を要求する運動が盛んになった。

 

2)経緯

運動の引き金となった高宗の葬儀(引用:Wikipedia)

 

2.1)民族代表33人

・3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞の泰和館に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした(※1)。参加者は、以下の33名であり、しばしば民族代表33人といわれる。(※2)

 

(※1) 開催場所の変更:場所の移動は群集が暴徒化し、それを口実に総督府が「凶悪な弾圧手段に出るかもしれない」(崔麟「自叙伝」)という恐れからであった。

(※2) 民族代表33人:彼等については評価が分かれている。独立宣言発表後すぐに朝鮮総督府に自首し運動を積極的に牽引しなかったことについて、大衆に背を向けたとする説(山辺健太郎・姜徳相)と彼等を再評価する説(朴慶植)とがある。

宗教

人名

役職

天道教

孫秉熙

天道教前教主

権東鎮 呉世昌 林礼煥 羅仁協 洪基兆 朴準承 梁漢黙 権秉悳 羅龍煥

天道教教師

李鍾勲 洪秉箕

天道教長老

李種一

「天道教月報」編集長

崔麟

普成高等普通学校校長

金完圭

一般信徒

キリスト教

李昇薫 李明龍

長老派教会長老

朴熙道

キリスト教青年会中央幹事

李甲成

セブランス病院事務員

梁甸伯 吉善宙 劉如大 金秉祚

長老派教会牧師

呉夏英 申錫九 鄭春洙

南部メソジスト牧師

崔聖模 李弼柱 申洪植

北部メソジスト牧師

金昌俊 

北部メソジスト伝道師

朴東完

北部メソジスト教会補佐書記

仏教

韓龍雲

臨済宗僧侶

白龍城

曹渓宗僧侶

 

 独立宣言書は崔南善(文学者)によって起草され、1919年(大正8年)2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。

 高宗の国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行ったが、前者への働きかけは成功しなかった。

 

2.2)独立宣言

タプコル公園にある独立宣言書のモニュメント(引用:Wikipedia)

 

 独立宣言は、以下の一文から始まっている。

「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。」

 なお、北朝鮮側は、独立宣言を「投降主義分子がウッドロウ・ウィルソン(アメリカ合衆国大統領)の民族自決主義に無駄な期待を掛け、請託と物乞いで独立を離陸させようとして繰り広げたどんちゃん騒ぎ」として否定的な評価を行っている。

 

2.3)運動の広がり

 発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。

 道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、朝鮮人のキリスト教などの宗教指導者たちの扇動により、朝鮮朝鮮半島全体に運動は暴動として広がり、暴徒による日本人惨殺や放火などが相次いだ。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

 

2.4)規模

 三月から五月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道や慶尚南道、黄海道、平安北道などの地域であった。

 地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫された。

 

2.5)運動の担い手と形態

 運動の担い手はキリスト教、天道教、仏教などの宗教指導者であり、中学生(旧制)を勧誘し、運動の拡大を目論んだ。また、日本に留学していた朝鮮人や上海で反日運動を展開していた朝鮮人たちも関与していた。

 3月は示威運動に留まっていたが、宗教指導者たちが一般人を扇動したこともあり、4月上旬には朝鮮全土に暴動として広がり、警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われる事態となった。

 韓国の漫画家ユン・ソインは、1920年の「3・1運動2周年記念行事」の準備に関する文書の中で、運動に参加しない者や消極的な参加者に対し、主催者側が放火や暗殺の脅迫をおこなっていたことを挙げ、「日本の巡査よりも残酷非道な三一運動主催者」「日本にとっては非暴力運動、私たち同士は暴力運動だ」と述べた。

 

2.6)被害

 襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。

 

3)日本の対応

3.1)運動の鎮圧

 日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化を行った。犠牲数には立場によって一定ではないが、当時上海に亡命しており伝聞の情報であると本文中に書かれている朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。(※)

 他方、日本の警察は運動に関しては平和的に対処し、破壊や殺人が発生した場合に武力で鎮圧したもので、韓国側の歴史記述は日本側の鎮圧ぶりを誇張している面があるとの意見もある。

 

(※) 犠牲者数:この運動に伴う検挙者数・死傷者数に関しては今なお論争がある。朴殷植は事件発生当時上海に亡命しており、死傷者数は伝聞によるものであると本書中で断っているが、韓国の教科書や研究者にはこの犠牲者数を参照しているものが多い。一方、当時の朝鮮総督府の記録「朝鮮騒擾事件道別統計表」(3月1日-4月11日)によると357名が死亡し、負傷者は約802名とされている。ただこの集計は日本から増派された軍が配置され本格的な鎮圧(弾圧)が始まる前のものであること、「内外に対し極めて軽微なる問題となす」べきと総督府側自身がいうように、その発表された数は意図的に少なく抑えられているとする研究者もいる。その他の記録でも検挙者数・死傷者数について食い違いがある。たとえば、和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店、2002年)では「朝鮮総督府の武力弾圧で約7,500人が死亡、4万6,000人が検挙された」とされている(106頁)。いずれにせよ、独立を唱える大規模な示威行動が朝鮮半島において展開され、その過程で暴徒と化した群集を朝鮮総督府が武力によって鎮圧(弾圧)する際、死傷者が出たことは確かである。

 

 こうした中、堤岩里事件が発生した。この事件は4月15日に堤岩里の暴動を鎮圧するため、暴動の指導者20余名を教会に集めて射殺して教会を焼き払った事件である。この事件は朝鮮軍司令官からの暴動鎮圧の訓示を指揮官の有田中尉が自己の所信で土匪討伐と解して鎮圧したために発生したものであり、有田は軍令違反で軍法会議に処されたが「被告の行為は訓示命令を誤解したるに出でて正当に暴動鎮圧の任務に服したるものと言うを得ざるが故に有罪たることを免れざるが如きも、被告は任務遂行上必要の手段にして当然為すべきこととの確信を以てついに及びたるが故に被告の行為は要するにこれを犯意なきものとせざるべからず又これを以て過失による犯罪又これを以て過失による犯罪を構成したるものと認めるを得ざるのみならず他にかかる行為を罰すべき特別の規定存せざるを以て結局被告に対しては無罪の言渡しを為すべきものとす」として無罪の判決を受けた。

 また、内乱罪で懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所で獄死した女性独立運動家の柳寛順は、後に大韓民国で「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれて尊敬を集めている。一方で、彼女についての実際の記録はほとんどなく、柳寛順研究家の任明淳は、「柳寛順の最終刑量は、懲役7年でなく3年だった」と主張し「いい加減な事実が広まっており、子供向けの伝記にまで膨張した話が掲載されている」と問題視している。

 

3.2)運動の終息

 朝鮮総督府当局による武力による鎮圧の結果、運動は次第に終息していった。(※1)司法的には以下のように決着がつけられた。

 逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。1919年(大正8年)5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。

 きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。

 下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には高等法院(最高裁判所)において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。

 高等法院で確定した刑期も、大正9年の大赦令によりさらに半減されている。

 一方司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、彼らの国内における独立運動は挫折した。(※2)その後の朝鮮半島では昭和20年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。

 

(※1) 日本側対応の形容について:三一運動の弾圧については、たとえば「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会 編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、215頁)や「民衆の蜂起と日本の弾圧」(姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、「激しい弾圧」(吉田光男 編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、140頁)という表現を用いている。一方で名越二荒之助『日韓2000年の真実』(国際企画)等をはじめ、日本の教科書など、「鎮圧」という表現を用いているものもある。

(※2) このうち後に独立派の中心人物となった金九は、事件後中国の上海に逃亡し、大韓民国臨時政府に参画している。朝鮮人移住者が多数いた満州の間島地域では、独立軍の抗日武装闘争が活発化し、青山里戦闘などの事件が起きた。

 

4)当時の反響

4.1)日本 

 発生当時の新聞の論調は「新聞各紙は各地暴動の状況益々悪化しつつありて近く討伐を令せられるべき旨を報じた」とあり、三一運動を暴動とみなしていたが、一部には運動に同情を寄せる識者もいた。

 たとえば民本主義を標榜し、大正デモクラシーの主導者となった吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。

 また孫文との交友で知られる宮崎滔天は運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。

 この他石橋湛山や柳宗悦なども運動への理解を表明している。

 こうした言論の影響を受け1926年には、総督府とも親密な副島道正による「朝鮮自治論」が唱えられた。対米関係を念頭に置きながら、一貫して朝鮮民族の参政権賦与を唱える副島の主張は政策として採用されることはなかった。

 

5)影響と意義

 朝鮮史の歴史学者宮田節子は、三・一運動は、独立という目的こそ達成できなかったが、大きな影響と意義をもった運動であった。一部の者だけが決起するのではなく、多くの民衆の参加したことは民族解放運動の画期をなしたとしている。(※)

 

(※) 宮田節子「三・一運動について」(『歴史と地理』522号、1999)、pp11-15

 

 たとえば日本及び朝鮮総督府の武断統治を改めさせ、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。

 朝鮮人による国外での独立運動が活発化する契機となったことや、国内での合法的民族運動を展開する道が開けることになったことは三・一運動の大きな成果といえる。ただそれは日本当局による皇民化政策のより一層の推進を促す結果となったのも事実である。

  三・一運動後、国内の組織的抵抗が日本側の弾圧によってほとんど不可能になった1922年までの間に、民族主義者にも動揺が現れ「漸進主義」と「急進主義」の分化が見られるようになった。やがて愛国的青年層は「実力の養成」「民族精神の発揮」「団結の必要」などを叫んで「婉曲に排日思想を鼓吹」していたので、総督府側はこの気運を利用し、非難の方向をそらすために「文化運動」が唱えられた。

 他にも、三・一運動で掲げられた要求を受け、総督武官制、軍隊統率権の廃止、地方制度の改正、結社の制限廃止などの法制度改革を一挙に進めていった。こうして、三・一運動を招いた反省から、武断的な統治を文化統治へ大きく改めた結果、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗がまったくみられなくなった。

 三・一運動の様子を描写したレリーフが現在の韓国首都であるソウル特別市(旧:京城市)のタプコル公園に設置されている。また、現在の大韓民国憲法の前文にも「我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と…」との記述がある。


(9)韓国併合での主要な施策


(引用:Wikipedia)

1)朝鮮総督府による政策

1.1)身分解放

 統監府は1909年、新たに戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。

 李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。

 

1.2)土地政策

 朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。

 申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた。その他に隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地なども)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。

 ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする。

 この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。

 総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、

 一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。

 

[注] 李氏朝鮮時代も土地売買は可能であり経国大典(1460年)や続大典(1744年)で届出制を規定していたが、これら官許方式は衰退し民間同士での私的売買が横行しており公証機能が衰退していた。『最新韓国実業指針』岩永重華(宝文館明治37年)や雑誌『韓半島』第2年2号(明治35年)などは朝鮮末期の不動産売買や制度の混乱について記録している。

 

1.3)教育文化政策

 日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した。

1911年、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した。

 

2)評価と争点

 日本側では、韓国併合を否定的に評価する見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。一方で韓国側では、併合を否定的に評価する見方が多数であり、肯定的な意見は容認されないケースが多い。

 韓国における併合への肯定的な見方、及び争点と評価(歴史認識)の相違については下記を参照。

 

2.1)大韓民国における大日本帝国統治時代の評価

 独立後の韓国の歴史学者は、大日本帝国による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。

 「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。

 また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど、「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として痛烈な批判をしばしば受け、社会的制裁を受ける事例もある。

 そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した。ただし、その発表は国境なき記者団が発表した世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)とは完全に相反し、公信力にかなりの疑問を買っている。

 この発表では、2002年の韓国の言論自由指数は世界39位(10.50点)であり、世界40位(11.0点)を占めたイタリアと似ている。また、2002年Freedom Houseが発表した言論自由指数で、韓国は30点でギリシャ、イスラエルのような「自由(Free)」国家に分類された。

 しかし1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判したり、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。

 本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。

① 金完燮は、当時の朝鮮は腐敗した李朝により混乱の極みにあった非常に貧しい国であり、日本が野望を持って進出するような富も文化もなかった、とする。

・彼によれば近代日本の歩みは列強、特に当時極東へ進出しつつあったロシアとの長きにわたる戦いであり、日清戦争から日露戦争そして韓国併合に至る一連の出来事は全て日本の独立を守るための行為であった。

・当初日本は、福沢諭吉の門下生の金玉均を始めとする日本で文明に触れた朝鮮人を通して、朝鮮が清から独立し近代国家となって日本にとっての同盟国となることを望んだ。

・しかしながら朝鮮人自身の手で朝鮮を改革しようとする試みは頓挫し、福沢諭吉が脱亜論を著したように方針を転換。

・日本自らの元で清、そしてロシアから朝鮮半島を守り、朝鮮を近代化する道を選んだ。その後日本は朝鮮を「日本化」することによって教養ある日本人を増大させることによる国力の増加を目指し、積極的にインフラへ投資した。

・朝鮮が自分たちで独立を保ち、近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本によるこれらの植民地政策がなければ近代化することもなかったであろう、として韓国における歴史教育を批判している。これらの言動・著作から彼は親日派とされ、苛烈な弾圧を受けている。

②ソウル大学名誉教授の安秉直(アン・ビョンジク)や成均館大学教授の李大根は、日本植民地統治下の朝鮮において、日本資本の主導下で資本主義化が展開し、朝鮮人も比較的積極的に適応していき、一定の成長が見られたとしている。

③ソウル大学教授の李栄薫は、大日本帝国の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示するが、韓国国内では少数派である。彼もまた親日派とされ糾弾されている。

④崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている。

⑤元韓国空軍大佐の崔三然も、「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。

・諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言し、肯定的に併合時代を評価した上で日本政府の行動を批判している。

⑥当時の併合時代に育ち、のちカナダに移住した朴贊雄は2010年に発表した著書で「前途に希望が持てる時代だった」「韓国史のなかで、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」として、統治時代の肯定的側面を公正に見ることが真の日韓親善に繋がると主張している。

⑦2004年に東亜日報社長の権五琦は、新しい歴史教科書をつくる会による教科書について、特に反発を感じないとしながら、「韓国でも併合に一部のものが賛成していた」という同教科書の記述について「『韓国人はみんな日本に抵抗した』と自慢したいのが韓国人の心情かもしれないが、本当はそうでないんだから、韓国人こそがこの教科書から学ぶべきだ」「どの程度の『一部』だったか知ることは、何もなかったと信じているより韓国人のためになる」と発言している。

⑧漢陽大学名誉教授で日露戦争や韓国併合についての著書もある歴史学者崔文衡は、左派寄り教科書とされる金星出版社『高等学校韓国近現代史教科書』における「日帝が韓国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争のため」といった記述に関して、事実とは異なるとしたうえで、ロシアが米国と協力し満州から日本の勢力を追い出そうとする露米による対日牽制などの折衝を日本が克服するために併合に時間がかかったのだとした。

・また、「代案教科書」における安重根による伊藤博文狙撃が併合論を早めたとする記述についても、併合は1909年7月6日の閣議で確定しており、安の狙撃で併合論が左右されたのではないと指摘したうえで、双方の教科書に代表されるような、当時の世界情勢や国際関係を看過する史観について「自分たちの歴史の主体的力量を強調する余り、国際情勢を無視し、 歴史的事実のつじつまを合わせようとしている」と批判し、世界史において韓国史を理解しようとしない教育は「鎖国化教育」であるとした。

⑨高麗大学名誉教授(当時)の政治学者韓昇助は2005年に日本の雑誌『正論』に、日本による韓国併合はロシアによる支配に比べて「不幸中の幸い」であったとし、また大日本帝国による諸政策で朝鮮半島の近代化が進展したと肯定的に評価する論文を発表した。しかしこの論文が韓国国内で問題視され、その結果、韓昇助は謝罪したうえで名誉教授職を辞任することとなった。

⑩元韓国国土開発研究院長金儀遠は、戦前日本の国土計画では朝鮮人を満洲に追放して京城を日本の首都としようとしたと主張する一方で、日本が朝鮮で鉄道・道路・港湾・学校を建設したことについて「 日本人が私たちから搾取して建設したという主張があるが、事実と違う。朝鮮総督府の予算を分析すると、朝鮮で集めた税金は農地税程度であり、これでは当時の公務員の月給の10分の1にもならなかった。総督府の役人が本国に行ってロビー活動をし、予算を確保した。もちろん鉄道などは大陸進出のため」であった と語っている。

⑪第4代台湾総統の李登輝は2012年3月、日本の保守系団体のインタビューに答えた。これはBS11『INsideOUT』で4月に放送された。日本統治時代は韓国人より台湾人のほうが差別されていたのに不満はないのか、という問いに対し、韓国は併合と言われていたのに、そしてほとんど原野だった台湾と違って元々ちゃんとした国だったのに、植民地の様にあつかわわれ、国名も「日本」のままだったのだから、インフラをあの程度、整えたぐらいでは彼らは不満だ、と答えた。

2.2)日本国内における研究・日本人研究者の評価

 木村光彦は、統計資料等をもとに実証的な検証を行い、「総合的に見れば、日本は朝鮮を、比較的低コストで巧みに統治したといえよう。巧みに、というのは、治安の維持に成功するとともに経済成長(近代化と言い換えてもよい)を促進したからである。

 しかし、一九四〇年代に入ると、米国との戦争が状況を一変させた。日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込んだとして、現代につながる日韓の歴史問題は第二次世界大戦期に主に発生したと総括している。

 

2.3)資本主義萌芽論

 日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、資本主義の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする資本主義萌芽論が、1950年代に北朝鮮で唱えられた。これはのち1960年代から1970年代に日本に紹介され、1980年代には韓国へ日本を経由して伝わった。

 近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し、李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定した。

 またハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートは、資本主義萌芽論を「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」とし、韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、戦後の韓国の資本主義や工業化も、大日本帝国の近代化政策を模したものであるとした。

 またエッカートは大日本帝国による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などを挙げ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている。

  これに対しカリフォルニア大学のステファン・ハガードは、エッカートの議論は具体例に欠しいと批判した。しかしハガードの研究においても、戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性を弱めていると主張する韓国人もいる。

 ほか韓国においても、その後の実証的研究の進展により、若い研究者からはこの資本主義萌芽論は採用されなくなってきている。

 

2.4)日本内地への影響

 日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。

 また、朝鮮半島内でのインフラ整備に重点をおいたため、東北地方のインフラ整備に遅れが生じた[要出典]。さらに、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮することとなった。このため崔基鎬は、韓国併合によって搾取されたのはむしろ日本であるとしている。

 

2.5)訪れた外国人の評価

 1912-1913年の駐日アメリカ大使アンダーソンの妻で作家のイザベルが、日本へ赴任の際に韓国に立ち寄った時の手記によると、「寺内総督統治の下、韓国に多くの発展があった。これは、地元の人と征服者の間に摩擦無く成し遂げられるとは限らないが、その結果は確かに驚くべきものだと認めなければなるまい。政府は再編成され、裁判所が確立され、法が見直され、景気が良くなり、交易が増えた。農業試験場が開設されて農業が奨励され、内陸から海岸まで鉄道が敷かれ、港が浚渫されて灯台が建立された。韓国への日本の支出は毎年1,200万ドルに上っている。」


(10)日韓基本条約の締結


引用:Wikipedia)

1)概要 

 「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(昭和40年条約第25号)は、昭和40年(1965年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。通称日韓基本条約。同年12月18日、ソウルで批准書が交換され発効した。

 当条約では、明治43年(1910年)に発効した日韓併合条約は「もはや無効」であることを確認し、日韓併合により消滅していた両国の国交の回復、大韓民国政府が朝鮮半島における「唯一の合法的な政府」であることが合意された。また当条約と付随協約により、日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄し、当時の韓国の国家予算の2年分以上の資金を提供することで、日韓国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、日本の対韓請求権と韓国の対日請求権という両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓関係正常化などが取り決められた。

 なお当時の東西冷戦を背景に、当条約締結のための日韓交渉はアメリカ合衆国が仲介を行い、また朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は当条約を「無効」と主張している。

 日本は韓国に対して、無償3億ドルに等しい価値を有する10年間の日本国の生産物及び日本人の役務による供与、有償2億ドルを韓国政府が希望した韓国政府に合計5億ドル分供与する形式で、相互に請求権を放棄することで合意した。しかし、最終的に日本は約11億ドルの経済援助を行った。韓国は日本からの受けた請求権資金・援助金で浦項総合製鉄、昭陽江ダム、京釜高速道路、漢江鉄橋、嶺東火力発電所などが建設されて、最貧国から一転して経済発展した。

 日韓基本条約によって日本から受けた資金5億ドル(当時)に含まれた個人への補償金であった無償援助3億ドル分含めて、韓国政府が経済発展資金に回したことが発覚して2014年に裁判になったが、日韓請求権協定で受け取った資金を韓国政府が産業育成やインフラ整備など他の目的に使用したことについて「法律に沿うもので違法行為とは見ることはできない」などの理由で原告は棄却や敗訴している。逆に韓国政府や裁判所の日韓請求権協定で解決との立場を変えた判決が、2012年や2018年に韓国の最高裁から出されている。

 

2)条約交渉までの経緯 

2.1)「戦勝国」としての請求

 1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。

 日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。さらに1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した。

 また韓国は対日講和条約である日本国との平和条約 (サンフランシスコ講和条約) の締結時も戦勝国(連合国)(※)としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた。

 

(※) 日本国との平和条約では第14条にて日本が賠償を行う国は日本が占領し損害を与えた連合国と規定されているため、韓国は対象とはならない。

 

 1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問は梁駐米韓国大使に対して「日本と戦争状態にあり、かつ1942年1月の連合国共同宣言の署名国である国のみが条約に署名するので、韓国政府は条約の署名国にはならない」と述べた。梁駐米韓国大使は「大韓民国臨時政府は、第二次世界大戦に先立つ何年も前から日本と戦争状態にあった」と反論した。アメリカは「朝鮮は大戦中は実質的に日本の一部として日本の軍事力に寄与した」ため、韓国を対日平和条約の署名国からはずした理由とした。

 韓国側はこうしたアメリカ側の判断を受け入れがたいとみなし、韓国側は「韓国の参加を排除したことは非合理性が犯す非道さの極まり」と非難した。兪鎮午日韓会談代表は1951年(昭和26年)7月30日に発表した論文で「韓国を連合国から除外する今次の草案の態度自体からして不当だ。第二次世界大戦中に韓国人で構成された組織的兵力が中国領域で日本軍と交戦した事実は韓国を連合国の中に置かねばならないという我々の主張の正当性を証明している」と主張した。最終的に、1951年9月8日の日本国との平和条約調印式に韓国の参加は許可されなかった。

 一方、参加リストから外された後も韓国はアメリカに使節団を派遣し、解放後の朝鮮における日本の公共・私有財産の没収について書かれた米軍政庁法令33号「朝鮮内にある日本人財産権取得に関する件」の効力を確認するなど、対日賠償請求の準備をすすめていた。

 韓国の主張に対し日本側は、韓国を合法的に領有、統治しており、韓国と交戦状態にはなかったため、韓国に対して戦争賠償金を支払う立場にないと反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資 (GHQ調査で52.5億ドル、大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル)の返還を請求する権利があると主張した。

 しかし、1951年7月25日付け大韓民国駐日代表部政務部作成の「説明書」には、「大韓民国が日本に要求する賠償は、上記のような戦闘行為を直接原因とした点は至極少ない」とあり、また「韓国併合条約が無効であるとして、そこから発生した当時までの被害を一括して賠償というのも難しい」とされていた。

 

2.2)アメリカ合衆国の仲介

 日韓交渉の背後には1951年7月頃からアメリカ政府の主導があったことが知られており、当時の李承晩大統領が韓国を「戦勝国」としてサンフランシスコ講和条約に参加することを求めたものの、第二次世界大戦当時には既に朝鮮半島が日本の統治下にあり、日本と交戦する関係になかったために「戦勝国」として扱う根拠がないことからアメリカやイギリスをはじめとした連合国側から拒絶され、「当事国」になることができなかった。

 1951年9月の日本国との平和条約調印後、サンフランシスコ講和会議に参加することが許可されなかった李大統領は、日本政府との直接対話を希望し、アメリカの斡旋で日韓は国交正常化交渉に向けて、1951年10月20日に予備会談を開始した。会談は東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)でシーボルド外交局長の立会いのもとに行われた。

 

3)日韓会談

 1951年(昭和26年)10月20日の交渉から1965年(昭和40年)日韓基本条約締結までの会談を日韓会談日韓国交正常化交渉という。

 交渉では、日韓併合により消滅していた国家間の外交交渉の回復方式、「李承晩ライン」以降韓国が占拠を続けていた竹島(独島)をめぐる漁業権の問題戦後補償(賠償)の問題、日本在留の韓国人の在留資格問題や北朝鮮への帰国支援事業の問題歴史認識問題、 文化財返還問題など多くの問題を含んでおり、独立運動家として日本を敵視し続けていた李大統領の対日姿勢もあり予備交渉の段階から紛糾した。

 しかし、最終的にはアメリカの希望もあり、冷戦下での安全保障のため合意にいたった。韓国は当時「戦場国家」であり、日本は「基地国家」であった。

 

3.1)会談直前

〇 予備会談

 1952年(昭和27年)1月9日、日韓会談直前の予備会談で日本側から「日韓の雰囲気をよくするため」の文化財返還が提示された。

〇 李承晩ライン

 李承晩は対話の前提として、まず日本の謝罪、「過去の過ちに対する悔恨」を日本側が誠実に表明することが必要であり、そうすることで韓国の主張する請求権問題の解決にうつることができるとした。

 しかし、日本側は逆に日本も韓国に対して請求権を要求できると述べ、反発した韓国の李承晩政権は報復として日韓会談直前の1952年(昭和27年)1月18日に日本海に軍事境界線の李承晩ラインを宣言した。

 

3.2)第1次会談

 第1次会談は1952年2月15日-4月25日に行われた。請求権問題日韓併合条約(旧条約無効問題)文化財返還などが議題となった。4月26日、事実上打ちきりとなった。

 1952年2月20日の第1回請求権委員会で韓国の林松本代表は「日本からの解放国家である韓国と、日本との戦争で勝利を勝ち得た連合国は、類似した方法で、日本政府や日本国民の財産を取得できる」と述べ、日韓会談は日本側がこの主張を認めるか否かにかかっていると日本に警告し、韓国は連合国と同等の権利を持ち、朝鮮半島に残された日本財産没収の正当性を主張した。

 韓国は、日本国との平和条約第14条の「日本国が、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきこと」、また各連合国が日本の財産を差し押え、処分する権利を有することなどを請求権の根拠とし、自らを連合国の一員と位置づけることで日本から利益を得ようとしていた。

 1952年2月21日の第1回財産請求権委員会で韓国側が韓日財産及び請求権協定要綱で「韓国より運び来りたる古書籍、美術品、骨董品、その他国宝、地図原版及び地金と地銀を返還すること」と提示された。これについて韓国側は2月23日、「不自然な方法、奪取のごとき、韓国民の意思に反して搬出された」と規定した。

 1952年3月5日の第4回基本関係委員会で韓国「大韓民国と日本国間の基本条約(案)」を提出したが、その第3条は「大韓民国と日本国は1910年8月22日以前に旧大韓帝国と日本国の間で締結されたすべての条約が無効であることを確認する」となっていた。

 1952年3月10日の第5回請求権委員会で日本側がインドは独立後もインド国内にあった英国の財産を認めたと述べたところ、韓国側は「太平洋戦争で日本が無条件降伏したことにより韓国が解放されたのだからインドと英国の関係とは違う」と述べ、イギリスとの合意の下に独立したインドと、日本の敗戦によって解放された韓国は違うし、韓国は日本と敵対した結果独立したと主張した。

 1952年3月12日の第5回基本関係委員会で日本側は、「日本と大韓帝国との間のすべての条約と協定はすでに消滅しているのだからこのような条項を挿入することは無意味である。」などとして削除を要請した。韓国側は「1910年以前の条約は意思(民族の総意)に反して行われたものであるので遡って無効としなければならない」が、法理論上は問題があるとも認めていた。日本は旧大韓帝国が国際法上の主体として消滅している以上、大韓民国は別個の国でcontinuityはなく、すでに消滅した条約の無効をいまさら問題とすることは意味がないと述べた。これに対して韓国は大韓民国は「韓半島にはなくとも海外にあって、三一宣言にもあるごとく民族として継続している」と大韓民国は大韓帝国の継承国であることを主張した。ただし、大韓帝国の消滅は1910年であり、上海での大韓民国臨時政府成立は1919年であり、両者の継続性はなく、また「1910年以前の条約が民族の総意に反した」という主張も事実に基づく主張ではなかった。

 1952年3月22日の第6回基本関係委員会で日本は「日本国と大韓民国との間の友好条約(案)」を提出した。その第1条「国際連合憲章の目的及び原則に、且つ、両国間の善隣関係に即応する方法によって」を韓国は削除を求めた。また韓国側林松本代表は英国とインドの例について、韓日と英印は根本において差異があり、インドが英国の合意下に独立した大英帝国の一連邦であるという事実を忘れてはならず、韓国は日本への併合に合意していなかったと述べた。

 1952年3月26日の第7回基本関係委員会で日本は(これまでの)「条約や協定は現在は効力を有しない(at present ineffective)」と提案したが、韓国は「最初から無効(null and void from the beginning)」とすべきと主張した。

 1952年4月2日の第8回基本関係委員会では日本側は前文に「日本国と旧大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定が日本国と大韓民国との関係において効力を有しない(ineffective)」としるされた。日本の記録では「韓国側から第一条の一部につき留保を付したほか、全条文について意見の一致」をみたとある一方、韓国の記録『韓日会談略記』では「旧条約無効問題」について妥協できなかったとある。ただし、韓国の記録は一部が不自然に削除されている。

 同日1952年4月2日の松本俊一と梁代表との非公式会談で、日本側が訂正案を出したところ韓国から異議は出されなかった。

 1952年4月16日-18日の松本俊一と梁代表との非公式会談で、韓国側は、日本が朝鮮半島に残した私有財産に対する請求権を放棄しない限り、審議はすすめられないと申し出た。

 1952年4月21日の松本俊一と金代表との非公式会談で、韓国側は基本条約前文について蒸し返し、「無効(null and void)」との記載を要求、日本側は「効力を有しない(ineffective)」が「最善である。この点は絶対に譲れない。」と反論、金代表は韓国政府内では「illegal(非合法、不法、違法)」に置きかえようとの強硬論もあったと抗弁した。

 

3.3)第2次会談

 第2次会談は1953年(昭和28年)4月15日-7月23日に行われた。しかし、第2次会談直前の日韓関係は険悪化し、1953年1月5日から7日までの非公式訪日のさいの吉田茂と李承晩の直接会談非常に険悪なものであったとされる。

 第2次会談では、韓国は韓国国宝などの目録を提示し、日本は調査中と答弁した。1953年4-7月の非公式会談で広田アジア局第2課長は日本渡来の経緯に種々あり、古く渡来したものもあれば正当な価格で購入したものもあるので、これを網羅的にとりあげることは困難と答弁した。会談は進捗せず、対立したまま自然休会した。

〇韓国軍による日本漁船銃撃と竹島上陸

 また第2次会談と平行して、韓国が宣言した李承晩ラインの問題も深刻化し、会談直前の1953年2月4日には韓国海軍によって日本の民間の漁船が銃撃され、船長が死亡する第一大邦丸事件が発生した。また、第2次会談が開始直後の4月20日には韓国の民兵独島義勇守備隊が島根県の竹島に駐屯した。なお、1953年7月27日には朝鮮戦争休戦した。

 

3.4)第3次会談

 第3次会談は1953年10月6日-10月21日に行われた。日本側首席代表の外務省参与久保田貫一郎によれば、10月6日の第3次会談以前までは、原則的なことではなく、未払い給料文化財水産関係の事案などの事務的な交渉を行っていたが、第一大邦丸事件や韓国の民兵による竹島上陸などの実力行使を背景に、10月以降の会談では韓国側は既成事実の圧迫の前に全問題を一気に解決しようと図り、事務的なことから本質的な議題へと移ったところ、後に「久保田発言」として知られる10月15日会談での韓国併合などの歴史認識問題にいたった。

 1953年10月13日の会談で久保田参与は、日本は戦争中、東南アジア諸国で掠奪や破壊をしその賠償をしようとしているが、韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない、万一あるなら賠償すると述べた。 会談は久保田発言をめぐって応酬、決裂した。

〇久保田発言

 1953年10月15日の会談で、韓国側が、日本の在韓財産はアメリカが接収したのであり本来なら韓国は36年間の日本の支配下での愛国者の虐殺韓国人の基本的人権の剥奪食料の強制供出労働力の搾取などへの賠償を請求する権利を持っていると述べたところ、久保田貫一郎が日本は植林し、鉄道を敷設し、水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろうと反論し、また米国による日本人資産の接収は国際法に違反していないと考えるし、違反してたとしても米国への請求権は放棄したと回答した。

 この久保田の発言に対して、「植民地支配は韓国に害だけを与えたと考えている」韓国側からは、妄言として批判され、日韓会談は中断した。

 久保田参与による説明 (1953年10月27日参議院) や、韓国側の記録によると会談は以下のような内容であった。

久保田発言
  韓国の主張 久保田貫一郎参与の主張
日本の請求権問題、在韓日本人財産の扱い 請求権の問題について日本側の要求は認められない、日本側の請求権はなく、韓国側から日本に対する請求権の問題だけがある。

併合時代の韓国は奴隷状態の地域であり、そこに所在していた日本人財産は、元来権力的搾取によって不法に取得したものであるから、没収された。奴隷地域を解放させるという第二次世界大戦後の新しい高次的理想は、私的所有権尊重よりももっと高次的で、より強いもので、そうした理想を実現させるために没収されたのである。

私有財産の尊重という原則に基いた対韓請求権は放棄していない。また韓国にあった日本の私有財産が没収されていないという解釈ではアメリカ軍政府の措置は国際法に合致しているが、韓国のように日本の私有財産は没収されたという解釈では米国が国際法違反をやつたということになり、日本としてはそういう解釈はとりたくない。

連合国が中立国に所在する日本人財産まで没収したのは不当である。

朝鮮総督府の政治 日本の請求権の要求は多分に政治的であり、もし日本がそのような政治的な要求をするのなら、韓国としては韓国併合36年間の賠償を要求。 もし韓国併合36年間の賠償要求を出していれば、日本としては、総督政治のよかった面、例えば禿山が緑の山に変つた、鉄道の敷設、港湾の建設、米田が非常に殖えたことなどをあげて韓国側の要求と相殺したであろう。
カイロ宣言問題 朝鮮総督政治は警察政治で以て韓国民を圧迫搾取し、自然資源も枯渇せしめ、そうであればこそカイロ宣言に韓国の奴隷状態ということを連合国が明記した。 カイロ宣言は、戦争中の興奮状態において連合国が書いたものであるから、現在は、今連合国が書いたとしたならば、あんな文句は使わなかつたであろう。
朝鮮(韓国)独立 韓国側は、第二次世界大戦後の処理で国際法が変つて、被圧迫民族の朝鮮民族の独立と解放の原則が出て来たが、朝鮮の独立にしても講和条約を待たずに独立したが、これは国際法違反かと質問した。 韓国の独立はサンフランシスコ条約の効力発生時点だから、それ以前の独立は、たとえ連合国が認めていても、日本から見れば異例措置である(10月15日会談)。

韓国独立は国際法違反の問題ではなく、ある新しい国家が独立した場合、それを他の国が承認するかしないかの問題がある。講和条約以前に独立した韓国について国連はじめ多数の国家が承認した事実を日本は認定するものであるが、この承認を時期尚早とも見ないし、国際法違反とも思わない。日本はカイロ宣言に明示された韓国の独立方針を承認し降伏文書に署名したが、その後の日本は連合国に占領され完全主権国家ではなかったので韓国独立を自ら進んで承認できなかった。日本は平和条約発効時点で韓国独立を承認したが、連合国の承認日付と発効日付に間隔があったので、これが国際法上異例であるという発言であった(10月21日会談での説明。韓国側記録による)

日本人の強制送還 終戦のときに日本人が朝鮮から強制送還されたことは国際法違反かと質問した。 久保田参与は、それは占領軍の政策の問題であり、国際法違反であるともないとも言わないと答えた。

(引用:Wikipedia)

 

 1953年10月20日の会談で金代表は、10月15日の会談で日本側は、次のように発言したと確認を求め、日本による朝鮮統治は強制的占領であったし、日本は貪慾と暴力で侵略し自然資源を破壊し、朝鮮人は奴隷状態になったと述べた。

・韓国が講和条約の発効の前に独立したことは国際法違反である、と日本はいった。

・日本人が終戦後朝鮮から裸で帰されたことが国際法違反である、と日本はいった。

・請求権について米国と韓国が国際法違反をしている、と日本はいった。

・カイロ宣言の奴隷状態というものは興奮状態で書いたものである、と日本はいった。

 久保田参与は、韓国独立は日本から見れば異例であったが国際法違反かという問題ではない、日本人送還も国際法違反であるともないとも言わなかった、米国側の軍政府も国際法違反を犯したことにはならない、カイロ宣言の効力は戦争中の興奮状態で書かれたものである。朝鮮統治は、悪い部面もあっただろうが、いい部面もあつたと答えた。金代表は「日本代表の発言は破壊的である」と発言した。

 1953年10月21日の会談で韓国側は久保田発言を撤回し、悪かったと認めなければ会談の続行は不可能と述べた。

 久保田参与は、韓国は日本が非建設的であるというが、韓国は1952年の日韓会談直前に李承晩ライン宣言を強行したり、日本の漁船を拿捕し、雰囲気を悪化させたし、これは国際法違反であり、国際司法裁判所に提訴するのが原則であると述べ、国際会議で見解を発表するのは当然のことであるし、まるで暴言したかのように外国に宣伝することは妥当ではないし、撤回はしない、また発言が誤りであったとは考えないと答えた。

 韓国側は会談に今後出席できないが、これは完全に日本に責任があると述べ、会談は終了し、韓国は「久保田妄言」への報復として李承晩ラインを設定し、竹島を占領した。

 10月27日の参議院で久保田参与は、韓国側は日本に対して「戦勝国」であると錯覚しており、また、「被圧迫民族の独立という新らしい国際法ができたから、それにすべてが従属される」ため、韓国は国際社会での寵児であるという認識があるが、いずれも「根拠がございません」と答弁している。

 また、久保田貫一郎外務省参与は1953年10月26日付の極秘公文書「日韓会談決裂善後対策」 で韓国について「思い上がった雲の上から降りて来ない限り解決はあり得ない」と記述し、韓国人の気質は「強き者には屈し、弱き者には横暴」であるとした上で、李承晩政権の打倒を開始するべきであるとの提言を残しており、この公文書の存在を2013年6月15日に報道した朝日新聞は久保田発言について日韓交渉を決裂させた原因とした。

 久保田発言は1957年12月31日、藤山愛一郎外相と金裕澤大使との会談で撤回された。

 

3.5)第4次会談

 第4次会談は1958年4月15日-1960年4月15日に行われた。

・1958年4月16日、日本は東京国立博物館の106点の文化財を韓国に返還したが、韓国側は資料的価値の低いものと評価して、韓国には歓迎されなかった。1958年6月4日、日本は韓国側の気持に同情的であると述べたが、10月には全文化財の引渡は不可能とのべた。

〇 四月革命以降の韓国

 1960年4月19日には韓国で四月革命が発生、4月26日に李承晩は大統領を辞任した。

 1960年8月に首相に就任した張勉は日韓正常化を掲げた。

 

3.6)第5次会談

 第5次会談(1960年10月25日-1961年5月15日)では専門家会議がはじめて実施され、韓国の不法に持ち去られたという主張と日本の反論が繰り返された。日本側が正当な手段で入手したと主張すると、韓国側は「正当な取引であるとしても、その取引自体が植民地内でなさえた威圧的な取引であった」と答えた。

 1961年5月16日、韓国で朴正煕らが5・16軍事クーデターを起こし、日韓会談は中断した 。韓国のクーデター直後、池田ケネディ日米首脳会談では民政移管を条件として韓国軍事政権の支持が合意された。

 

3.7)第6次会談

 第6次会談(1961年10月20日-1964年12月2日)。

 1962年3月の会談にあたっての韓国内部文書では、請求金額について無償援助は最低2億6000万ドル、債権4600万ドルは日本が放棄することを前提に、交渉では始め8億ドル、次いで6億ドルを順次提示、5億ドル、最悪4億ドルでの妥結も可能だが、最低2億6000万ドル以上は絶対に無償援助によるもので、最大限の努力を尽くすこととあった。

〇大平-金外相会談

 1962年10月、11月に大平正芳外務大臣と金鍾泌大韓民国中央情報部 (KCIA、現大韓民国国家情報院) 部長による外相会談が開催された。会談で韓国側は妥協金額を6億ドル、日本は1.5億ドルを提示し、アメリカの仲介で3-3.5億ドルに収まっていった。

 10月21日会談で大平外相は3億ドル、年2500万ドルで12年の支払いとのべ、この年2500万ドルについては、日本がフィリピン、インドネシア、ベトナム、タイ、ビルマ、台湾に7600万ドルを毎年賠償として支払ってきたがこのなかで最多の額がフィリピンで2500万ドルと説明した。

 金KCIA部長は、フィリピンが2500万ドルといってもそれに従う必要があるのか、フィリピンの場合と韓国の場合は異なるとのべ、また12年はあまりに長いとのべた。

 大平外相は、国会や国民に合理的に納得してもらうために独立祝賀金といった名目などの理由を加えたり、請求権についてもなぜ韓国にあげなけれなばならないのかという国民の声もあり、6億ドルは到底ありえないと答えた。

 10月22日の池田首相と金KCIA部長会談で、池田首相は法的根拠に基づいた純弁済額はいくら厚く計算しても7000万ドルであり、相当な考慮によって1.5億ドル、またはそれ以上を提示した。

 11月11日会談で無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上という条件が提示され、大平外相が40分ほど考えた末合意し、合意内容をメモし、金KCIA部長に渡した。このメモは「金・大平メモ」とよばれる。

 また韓国側は、韓国の軍事力が日本の国防に貢献しているため負担金を要求、日本は「韓国の防衛力は韓国自体を守るために存在している」のであり、もし日本を守るために存在するなら韓国国民のプライドが許さないはずだと反論した。

〇朴正煕議長の来日

 国家再建最高会議議長朴正煕が1961年11月11日に訪日し池田勇人と会談し、朴議長は請求権問題は賠償的性格でなく法的根拠を持つものに限ると述べ、池田首相も、法的根拠が確実なものに対しては請求権として支払い、それ以外は無償援助、長期低利の借款援助を示唆し、経済協力方式による解決が提示された。しかしこれが報道されると、韓国内で朴政権が妥協したと批判されたため、朴政権は請求権問題と「経済協力」は別々の問題であると説明した。

 この日韓首脳会談が契機となり、歴史認識問題や竹島(独島)の帰属問題は「解決せざるをもって、解決したとみなす」で知られる丁・河野密約により棚上げとなり、条約の締結に至った。

 1963年には韓国国内政治の混乱があったが、朴正煕が大統領に当選すると、李承晩ライン撤廃に向けての漁業協定に問題が集約していった。しかし1964年6月3日には日韓条約反対デモが警察を占領する6.3事態が発生し、戒厳令が韓国で宣布され、交渉も凍結された。のちに大統領となる李明博もこの時逮捕され、懲役刑を受けた。

 これ以降、進展しない日韓交渉に苛立ったアメリカはベトナム戦争の激化もあり、露骨に介入するようになっていった。

 

3.8)第7次会談

 第7次会談(1964年12月3日-1965年6月22日)

 2月17日、椎名外相が韓国を訪問し、2月20日、日韓基本条約仮調印し、帰国した。4月3日、日韓会談で、漁業、請求権、在日韓国人の法的地位の合意事項に仮調印した。 1965年6月22日に、文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定が締結された。ほかに、漁業、請求権、在日韓国人の法的地位の協定にも調印した。

 

3.9)日韓会談での争点

〇 旧条約無効問題

 本条約は締結されたとは言え、これ以前に締約された日韓併合条約や協定に対する「もはや無効であることが確認される」という条文に対して日韓両国の解釈が異なるなど、歴史認識論議が絶えない。

 韓国側は、本条約の締結により「過去の条約や協定は、(当時から)既に無効であることが確認される」という解釈をしているのに対し、日本側は本条約の締結により「過去の条約や協定は、(現時点から)無効になると確認される」という解釈をしている。

 これは、特に韓国併合に対して、韓国側は「そもそも日韓併合条約は無効であった」という立場であるのに対し、日本側は「併合自体は合法的な手続きによって行われ、併合に関する条約は有効であった(よって、本条約を持って無効化された)」という立場をとるという意味である。

 これは、韓国側が主張した "null and void" (無効)に already を加えて "already null and void" (もはや無効)とし、双方の歴史認識からの解釈を可能にしたもので、事実上問題の先送りであった。

 藤井賢二はこうした旧条約無効の主張は、感情的で歴史的事実とは乖離したものであり、韓国が自らを連合国(戦勝国)として位置づけようとしたことと密接な関係があると述べている。

 韓国側公開文書「1950年10月 対日講和条約に関する基本態度とその法的根拠 対日講和調査委員会」に添付された駐日韓国代表部政務部による1951年10月25日付の説明文には、「韓国が対日平和条約に署名できなかったのは、韓国が対日戦争に参加しなかったという事実に起因すると言えるが、韓日合併条約無効論の立論が不十分であったためでもあると記されており、旧条約無効の主張は韓国が自らを連合国として位置づけるためにも妥協は許されなかった」と藤井は指摘している。

〇 文化財の返還問題

 朝鮮半島から流出した文化財の返還問題については付随協定として「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結んだ。これにより日韓間における文化財の返還問題に関しては法的に最終的に決着した。

 日本は「正式の手続きにより購入したかあるいは寄贈を受けたか、要するに正当な手続きを経て入手したもので、返還する国際法の義務はない」との立場 をとっていたが、およそ1321点の文化財を韓国側へ引き渡した。

 椎名悦三郎外相は「返還する義務は毛頭ないが、韓国の文化問題に関して誠意をもって協力するということで引き渡した」と説明した。当初、韓国側は「返還」、日本側は「贈与」という表現を用いるよう主張し、最終的に「引渡し」という表現で合意した。

〇 個人への補償

 韓国が日韓交渉中に主張した対日債権(韓国人となった朝鮮人の日本軍人軍属、官吏の未払い給与、恩給、その他接収財産など)に対して日本政府は、「韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行う」と提案したが、韓国政府は「個人への補償は韓国政府が行うので日本は韓国政府へ一括して支払って欲しい」とし、現金合計21億ドルと各種現物返還を請求した。

 次の日韓交渉で日本は韓国政府へ一括支払いは承諾したが21億ドルと各種現物返還は拒否し、その後、請求額に関しては韓国が妥協して、日本は「独立祝賀金」「発展途上国支援」として無償3億ドル有償2億ドル民間借款3億ドルの供与及び融資を行った。

 この時、韓国政府はこの供与及び融資を日本に対して債権を有する個々人にはほとんど支給せず、自国の経済基盤整備の為に使用した。現在この点を批判する運動が韓国で起きている。

 また、交渉過程で、日本が朝鮮を統治している時代に朝鮮半島に残した53億ドル分の資産は、朝鮮半島を占領した米ソによってすでに接収されていることが判明して(※) おり、この返還についても論点のひとつであった。交渉過程ではこれら日本人の個人資産や国有資産の返還についての言及も日本側からなされたが、最終的に日本はこれらの請求権を放棄した。

(※) インドがイギリスから独立したとき、イギリス人やイギリス企業がインドに持っていた資産が独立後も継続して保証されたというように、植民地が独立した場合にも宗主国財産は従前の通り保証される場合が多かった。ただし、イランやインドネシアのように、独立後に強制接収されるケースもある。

〇日本の対韓請求権

 日本の対韓請求権に関しては、韓国が米国に照会して日本の対韓請求権は存在しないことが確認されている。1945年12月の米軍政法令第33条帰属財産管理法によって、米軍政府管轄地域における全ての日本の国有・私有財産を米軍政府に帰属させることが決定された。

 また日本国との平和条約第二条(a) には「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。

〇強制徴用・強制連行問題

 韓国政府は交渉の過程で、「強制徴用、徴兵被害者など多大な被害を受けた」として日本政府に対し資料の開示と賠償を要求したが、日本政府は「韓国政府に証明義務がある」と主張した。

 韓国政府は関連資料をすべて日本側のみが持っていると主張した上で強制徴用、徴兵被害者などの被害者数を「103万人余」とした。なおこの数値については、当時交渉に参加した鄭一永元外務次官が2005年1月20日、「証拠能力のない」「適当に算出」したものだと証言した。2009年、韓国政府は約12万人の強制動員が確認されたと発表した。

 

4)条約の内容

 条約は7条からなる。

・第2条では、両国は日韓併合(1910年)以前に朝鮮、大韓帝国との間で結んだ条約(1910年(明治43年)に結ばれた日韓併合条約など)の全てをもはや無効であることを確認した。

・第3条では、大韓民国が朝鮮にある唯一の合法政府であることを確認された。

 条約は英語と日本語と韓国語(朝鮮語)で二部ずつが作られ、それぞれ両国に保管されている。

 この条約と付随協約によって国交正常化した結果、日本は韓国に対して約11億ドルの経済援助を行った。政府開発援助 (ODA) もその一環である。

 

4.1)付随協約

 日韓基本条約締結に伴い、以下の協定及び交換公文形式の約定が結ばれた。

① 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定)

② 日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(在日韓国人の法的地位協定)

③ 日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定(日韓漁業協定) 

④ 文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定

⑤ 日本国と大韓民国との間の紛争の解決に関する交換公文

〇 財産及び請求権に関する協定

 最終的に両国は、協定の題名を「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」とした。

 この協定において日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することに合意した。

 以下、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定の第二条 両国は請求権問題の完全かつ最終的な解決を認めるより引用する。

  • 第二条
  1. 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
  2. この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執つた特別の措置の対象となつたものを除く。)に影響を及ぼすものではない。(a)一方の締約国の国民で千九百四十七年八月十五日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益(b)一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつて千九百四十五年八月十五日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいつたもの
  3. 2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつてこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。

(引用:Wikipedia)

4.2)「経済協力金」とその使途

 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定によって日本は韓国に次のような現物供与及び融資をおこなった。

① 3億ドル相当の日本国の生産物及び日本人の役務 無償(1965年)(当時1ドル=約360円)

② 2億ドル相当の日本国の生産物及び日本人の役務 有償(1965年)

③ 3億ドル以上 民間借款(1965年)

計約11億ドルにものぼるものであった。なお、当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。

 また、用途に関し、「大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。」と定められてあった。

 韓国政府は日本との交渉で補償金を受けとった後に韓国政府が個別支給するとしていたが、韓国のインフラ整備や企業投資の元手として使った。韓国政府は1971年の対日民間請求権申告に関する法律及び1972年の対日民間請求権補償に関する法律(1982年廃止)によって、軍人・軍属・労務者として召集・徴集された者の遺族に個人補償金に充てた。

 しかし戦時徴兵補償金は死亡者一人あたりわずか30万ウォン(約2.24万円)であり、個人補償の総額も約91億8000万ウォン(当時約58億円)と、無償協力金3億ドル(当時約1080億円)の5.4%に過ぎなかった。韓国政府は上記以外の資金の大部分は道路やダム・工場の建設などインフラの整備や企業への投資に使用し、そのため「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展をおこせた。

 

4.3)「個別支給」と韓国経済発展

 韓国政府が日本から受け取った金を日本政府の提案した個別支給を交渉で断って、使ったのだから補償金を支払えとの一部の韓国国内の要求に対して、2017年に請求権協定に深く関わった金鍾泌元首相は文書で、「1961年に新政府が発足したが、国庫が空っぽであり、国家安保や経済再建という国家財源確保のためには韓日会談の再開による日本の請求権資金しかなかった」と韓国は当時は世界の最貧困国だった事実を示した。

 さらに「請求権資金を元手に韓国は経済大国に発展し、恩恵を受けた企業は巨大な財閥級に成長した」と日本との国交と提供資金がどれだけ韓国の発展に必要だったのかを説明している。

 さらに誠意のある対策と支援を恩恵を受けた企業と韓国政府がする必要性に共感するとの考えを明かした。日本の裁判所も請求権協定により、韓国政府が個人への支払いの責任を取るべきだと結論付けている。

 

5)反対運動

 条約締結に際し、日韓両国で激しい反対運動が起こった。韓国では南北分断が固定化され、冷戦に日本が巻き込まれることで、「日本の平和」が奪われ、日本が戦争に参加するようになるとして批判された。

 1965年8月14日、韓国国会は条約批准の同意案を可決した。日本での反対運動は学生活動家や旧社会党などによって展開された。(※)

 

(※) 新左翼諸派は、60年安保後の共産主義者同盟(ブント)の分裂から再編・復興への端境期に当たり、反対運動の中心を担う存在ではなかった。

 

 そこでは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を無視した韓国との単独国交回復に反対するものが主であった。これは、日本共産党は朴政権を軍事政権として正統な政府と認めず、社会党は北朝鮮を朝鮮半島の唯一正統な政権と認識していたからであり、韓国を唯一正統な政権と認める本条約は受け入れがたい内容だったからであって、後年のような歴史認識の相違等は主たる反対理由にはしていなかった。

 10月25日、衆議院日韓特別委員会は審議を開始した。10月27日、民社党書記西村栄一は日韓条約批准に賛成と言明し、党内が混乱し、11月5日、民社党議員総会は日韓条約賛成を決定した。

 11月6日、自民党は、衆議院日韓特別委員会で強行採決、野党各党は無効を主張した。11月9日、衆議院本会議は議長職権で開会、自社両党の動議の応酬で11月11日まで徹夜国会。11月12日未明、議長発議(前例なし)で日韓条約案件を議題とし、同条約を可決した。

 11月13日、参議院本会議は議長職権で開会、自民・民社両党で日韓特別委員会の設置を強行した。11月22日、委員長職権で、特別委員会で審議を開始。12月4日、自民党は、参議院日韓特別委員会で強行採決。12月11日、参議院本会議は自民・民社両党のみで可決、日韓基本条約などが成立した。

 結局、衆参両院の日韓特別委員会に於いて与党の自民党がこの条約の委員会採決を強行。本会議でも自民党と民社党のみが出席(他党は審議拒否)して条約の承認を可決した。

 1965年10月12日、日韓条約批准阻止で社会・共産両党系統一行動、10万人が国会請願デモをおこなう。11月9日、社会・共産両党系団体共催の日韓条約粉砕統一集会が41都道府県329か所で開催される。11月13日に第2次統一行動。

 韓国側の反対運動は特に歴史認識、請求権、李承晩ライン破棄等に対する反発であり、韓国側は従来の主張を大幅に譲歩させた。これに対して「売国奴」「豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の日帝侵略の償いをはした金で許すのか」「屈辱的譲歩」というものが大勢であった。

 また、当時の朴政権は軍事独裁政権であり、この種の開発独裁に関する不正蓄財やODAに関するまつわる不正蓄財に日本側の資産が流用されると言った韓国国内の政治事情にからむ反対意見や日本資産の直接流入による貿易赤字や失業率の増大低賃金労働の固定化等経済的事情を主張する意見もあった。 朴政権は、最終的には国内の反対を戒厳令を敷く形で鎮圧した。

 

6)北朝鮮の立場 

 北朝鮮は、 ”日本・南朝鮮「協定」” とよび、日本からの「強盗さながらの要求」によって結ばれた無効なものであると主張する。

 北朝鮮政府は、「日本はまだ北朝鮮に対して、戦後賠償や謝罪をしていない」と、北朝鮮による日本人拉致問題の解決の交渉の上で再三述べ、日朝国交正常化と日本の北朝鮮に対する戦後賠償と謝罪が何より先決だと主張している。

 日韓両国は日韓基本条約第三条にて韓国政府の法的地位を「国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの」として朝鮮にある唯一の合法的な政府とすることで合意した。

 この国連決議は韓国の単独選挙を行うことに関する決議であるが、韓国の単独選挙は米軍政府管轄区域(38度線以南)のみで行われ、ソ連軍政府管轄区域である38度線以北は除外された。

 日本は現在、このような解釈をもとに、北朝鮮による日本人拉致問題の解決と日本の北朝鮮に対する国交正常化後の経済協力を包括した日朝国交正常化交渉を行っている。

 

 7)韓国政府における議事録の公開

 2005年1月17日、韓国において、韓国側の基本条約、及び、付随協約の議事録の一部が公開された。韓国政府は、公表と同時に、「政府や旧日本軍が関与した反人道的不法行為は、請求権協定で解決されたとみられず、日本の法的責任が残っている」との声明を発表した。

 韓国側の議事録が公開されると、日本と韓国間の個人賠償請求について当該諸条約の本文に「完全かつ最終的に解決した」と「1945年8月15日以前に生じたいかなる請求権も主張もすることができないものとする。」の文言が明記されている事が韓国国内に広く知られるようになった。

 また、韓国では2005年8月26日に追加公開を行った。公開前に、国益に著しく反すると判断されるごく一部については非公開とされた。公開における文書の分量は、156冊で、3万5354ページである。韓国側の議事録が明らかになったことで、日韓交渉時における韓国政府の交渉に不満を持つ一部の韓国国民は、再交渉して条文の補填を要求している。韓国のインターネットで東北亜歴史財団、東亜日報などが公開し、日本語の部分訳もある。

 日本政府は、(議事録、メモなどの日韓会談に関する文書の公開は)日朝交渉への影響を及ぼすとして、公開しておらず、韓国政府に対しても非公開を随時要請していた。韓国側の文書公開に対しても、町村信孝外相(当時)が、特段のコメントをする必要はないと述べている。


(11)日韓基本条約による諸問題の清算


 (引用:Wikipedia)

1)概要

 1965年(昭和40年)、日韓両国にて交わされた日韓基本条約において、1910年(明治43年)8月22日以前に両国において交わされたすべての条約、協定はもはや無効であることが「確認」され、日韓併合は無効化された。

 また、同条約において日本は巨額の資金協力(無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル、いずれも昭和40年当時額)を韓国に対して行い、それと引き換えに下記の点が確約された。

① 両締約国は、両締約国及びその国民(法人含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。(個別請求権の問題解決。)

② 一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。(相手国家に対する個別請求権の放棄。)

・しかし、事後も韓国からの「賠償要求」は発生しつづけている(以下の近況を参照)。

 

2)近況

 2009年(平成21年)、韓国政府(外交通商部)は、強制動員労務者と軍人・軍属の不払い賃金訴訟にさいし、「(不払い賃金)は、請求権協定を通じて日本から受けとった無償の3億ドルに含まれているとしているため、日本政府に請求権を行使しにくい」という立場を公式に提示した。なお韓国政府は太平洋戦争強制動員犠牲者支援法制定後、2008年(平成20年)から「人道的次元で苦痛を慰める」として不払い賃金被害者たちに1円あたり2000ウォンで換算し、慰労金を給付している。

 2010年(平成22年)、菅直人首相は日韓併合100周年を記念して韓国に詫びる談話を発表したが、「謝罪」ではなく「お詫び」という表現を用いたため韓国側からの反発を買った。また、菅はこの談話について、安倍晋三以外の日本国首相経験者から同意を得た。

 2010年(平成22年)8月13日、日本キリスト教協議会は、韓国キリスト教教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」を発表し、日韓併合条約は「武力の脅迫によって調印された条約」であり不法であること、また独立運動(抗日パルチザン)への処罰が「人道主義に反する植民地犯罪」であったこと、また日本の統治は朝鮮半島に窮乏化をもたらし、そのため多数の朝鮮人を中国、ロシア、日本などに移住させたこと、また日本による統治のため、朝鮮半島が分断し、朝鮮戦争が起こったことなどを主張した上、日韓併合条約の無効化と日本政府による賠償、朝鮮半島の平和統一に向けた努力等を訴えた。この主張は、2015年に和田春樹、林博史、内海愛子らが発起人となり、姜尚中、李成市らの賛意を得た「2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する」の声明で繰り返し訴えている。

 

3)併合条約の合法性

 3.1)日韓両国の見解

 第二次世界大戦後の日本側は韓国併合に関しては韓国併合ニ関スル条約の締結自体合法であったと考えている。

 第二次世界大戦後に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国として成立した両政府とも、「韓国併合ニ関スル条約は日本と大韓帝国の間で違法に結ばれた条約であるとして、同条約とそれに関連する条約すべてが当初から違法・無効であり、日本による朝鮮領有にさかのぼってその統治すべても違法・無効である」と主張している。

 この点について、日本国と大韓民国の間で1965年(昭和40年)の国交回復時に結ばれた日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)では、その条文第二条において「千九百十年八月二十二日以前に日本と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とすることで合意に達した。

 しかし、両国でこの条文に関する解釈が異なるなど、見解の相違が解決したわけではない。日本国政府はこの条約についての「もはや無効である」という表現は日本側の立場をいささかも損なうものではないと表明している。他方、韓国側ではこの日韓基本条約さえも無効とする勢力もある。

 

3.2)国際法からの観点

 英ケンブリッジ大学の国際法学者J. クロフォード教授は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、韓国併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降のもので、当時としては問題になるものではない」としている。


(12)条約締結後も繰り返される対日請求


(引用:Wikipedia) 

1)条約締結後の対日請求

 日韓請求権並びに経済協力協定によって韓国の日本に対する一切の財産及び請求権問題に対する外交的保護権は放棄されているが、その後も韓国議会、司法、韓国民による対日請求が出されており、日本側の主張と対立が生じている。徴用工訴訟問題、慰安婦問題、サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題、日本に略奪されたと主張される文化財の返還問題などが争点となっている。

 

2)個人請求権に関する日本政府答弁と誤解

 日本国内においては、財産、権利及び利益については外交的保護権のみならず実体的にその権利も消滅しているが、請求権については、外交的保護権の放棄ということにとどまっている。

 1991年8月27日、柳井俊二条約局長として参議院予算委員会で、『(日韓請求権並びに経済協力協定は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ』と答弁した。

 これが韓国国民に誤解されて以降、韓国より個人請求権を根拠にした訴訟が相次ぐようになった。しかし、これは韓国国民の請求権は確かに残っているが、それは日本への請求権ではなく、お金を直接渡さないことを希望して資金を受けた韓国政府に対する請求権は残っているという原則的な答弁であり、2009年にようやく韓国政府がこの事実を認める表明を韓国国民へした。

  • この第二条の一項で言っておりますのは、財産、権利及び利益、請求権のいずれにつきましても、外交的保護権の放棄であるという点につきましては先生のおっしゃるとおりでございますが、しかし、この一項を受けまして三項で先ほど申し上げたような規定がございますので、日本政府といたしましては国内法をつくりまして、財産、権利及び利益につきましては、その実体的な権利を消滅させておるという意味で、その外交的な保護権のみならず実体的にその権利も消滅しておる。ただ、請求権につきましては、外交的保護の放棄ということにとどまっておる。個人のいわゆる請求権というものがあるとすれば、それはその外交的保護の対象にはならないけれども、そういう形では存在し得るものであるということでございます。

 1993年5月26日の衆議院予算委員会 丹波實外務省条約局長答弁 (引用:Wikipedia)

 

3)盧武鉉政権以降の再請求(2005年)から韓国政府による条約にて既に解決済みと認める表明(2009年)

 韓国政府や韓国メディアはこの協定による賠償請求権の解決について1965年当時からも韓国国民に積極的に周知を行うことはなく、民間レベルでも日本政府への新たな補償を求める訴えや抗議活動がなされ続けていた。

 賠償請求の完全解決は、韓国側議事録でも確認されており、日本政府もこの協定により日韓間の請求権問題が解決したとしているが、韓国政府は2005年の盧武鉉政権以降から、慰安婦サハリン残留韓国人韓国人原爆被害者の問題は対象外だったと主張をはじめた。

 また2005年4月21日、韓国の与野党議員27人が、日韓基本条約が屈辱的であるとして破棄し、同時に日本統治下に被害を受けた個人への賠償などを義務付ける内容の新しい条約を改めて締結するように求める決議案を韓国国会に提出した。とともに、日韓両政府が日韓基本条約締結の過程を外交文書ですべて明らかにした上で韓国政府が日本に謝罪させるよう要求した。

 2009年8月14日、ソウル行政裁判所による情報公開によって韓国人の個別補償は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないことがようやく韓国国民にも明らかにされてから、日本への徴用被害者の未払い賃金請求は困難であるとして、韓国政府が正式に表明するに至った。

 補償問題は1965年の日韓国交正常化の際に日本政府から受け取った「対日請求権資金」ですべて終わっているという立場を、改めて韓国政府が確認したもので、いわゆる慰安婦等の今後補償や賠償の請求は、韓国政府への要求となることを韓国政府が国際社会に対して示した。

 

4)韓国大法院、日本企業の徴用者に対する賠償責任を認める(2012年)

  韓国大法院は2012年5月23日、日韓併合時の日本企業による徴用者の賠償請求を初めて認めた。元徴用工8人が三菱重工業と新日本製鉄を相手に起こした損害賠償請求訴訟の上告審で、原告敗訴判決の原審を破棄し、原告勝訴の趣旨で事案をそれぞれ釜山高法とソウル高法に差し戻した。

 韓国大法院は「1965年に締結された日韓請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するための交渉ではないため、日帝が犯した反人道的不法行為に対する個人の損害賠償請求権は依然として有効」とし、「消滅時効が過ぎて賠償責任はないという被告の主張は信義誠実の原則に反して認められない」と主張した。

 また、元徴用工が日本で起こした同趣の訴訟で敗訴確定判決が出たことに対しても、「日本の裁判所の判決は植民地支配が合法的だという認識を前提としたもので、強制動員自体を不法と見なす大韓民国憲法の核心的価値と正面から衝突するため、その効力を承認することはできない」と主張した。

 以降、韓国の下級裁判所では元徴用工と元徴用工の遺族が日本企業3社 (新日鉄住金、三菱重工業、不二越) に損害賠償を求める裁判を相次いで起こしている。2015年12月24日現在、確認されただけで係争中の裁判が13件あり、このうち5件で日本企業側に損害賠償を命じる判決が出ており、3件が韓国大法院の判断を待つ状態になっている。

 2016年8月23日、ソウル中央地方裁判所は新日鉄住金に対し、元徴用工遺族らに計約1億ウォン(約890万円)の支払いを命じる判決を出した。

 2016年8月25日、ソウル中央地方裁判所は三菱重工業に対し、元徴用工遺族ら64人に被害者1人あたり9000万ウォン(約800万円)ずつ賠償するよう命じる判決を出した。

 2016年11月23日、ソウル中央地方裁判所は不二越に対し、元女子勤労挺身隊の5人に1人あたり1億ウォン(約950万円)の支払いを命じる判決を出した。

 日本政府は元徴用工らが賠償を求めた訴訟で日本企業に相次いで賠償命令が出たことを受け、韓国大法院で敗訴が確定した場合、国際司法裁判所(ICJ)に提訴する方向で検討に入ったと2013年8月30日の産経新聞が報じた。

 2013年11月8日にソウルで行われた日韓外務次官級協議では、日本の外務審議官の杉山晋輔が韓国の外務第1次官である金奎顕に対し、元徴用工訴訟問題で韓国大法院で日本企業の敗訴が確定した場合、日韓請求権協定に基づき韓国側に協議を求める方針を伝えた。また韓国側が協議に応じなかったり、協議が不調に終わった場合は国際司法裁判所への提訴のほか、第三国の仲裁委員を入れた処理を検討すると表明した。

 

5)韓国憲法裁判所、「日韓請求権協定は違憲」の訴えを却下(2015年)

 韓国憲法裁判所は2015年12月23日、1965年に締結された日韓請求権協定は違憲だとする元徴用工の遺族の訴えを審判の要件を満たしていないとして却下した。

 原告である元徴用工の遺族は、韓国政府による元徴用工への支援金支給の金額の算定方法や対象範囲を不服として、支給を定めた韓国の国内法と日韓請求権協定が財産権などを侵害しているとし、韓国の憲法に違反していると告訴していた。

 韓国憲法裁判所の決定は国内法の不備を認めず、支援金支給に関して日韓請求権協定が「適用される法律条項だとみるのは難しい」とした。また日韓請求権協定が仮に違憲であっても原告の請求には影響しないとし、審判の要件を満たしていないと却下した。

 

6)日本政府側の対応

 日本は請求権協定により「完全かつ最終的な解決」をみたとの立場をとり続けている。

岸田外務大臣(安倍第二次内閣)は、2013年5月22日の衆院外務委員会で、旧日本軍慰安婦への補償について、日韓国交正常化時の請求権協定により「解決されたと確認されている。紛争は存在しない」と述べた。

 協定の解釈や実施をめぐる「紛争」は外交的に解決するよう3条で定めるが、補償問題は対象外との日本政府の立場を明らかにした。

 

7)個人請求権に関する日本政府の主張に対する異論

7.1)慰安婦国連報告

 1996年1月から2月にかけて国連人権委員会に報告されたクマラスワミ報告では、本条約に言及したうえで個人請求権に関する日本政府の主張に対して以下の通り反論している。

  • 104.さらに日本政府は、特別報告者に手渡した書面で、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(1965年)/20第2条第1項は、「両締約国及びその国民の財産、権利及び利益に関する問題が、………完全かつ最終的に解決されたこととなること」を確認していると主張する。第11条(3)は、「一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって………他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置……に関してはいかなる主張もできないものとする」としている。実際、総額5億米ドルが支払われたと,日本政府は指摘する。
  • 107.国際法律家委員会は、1994年に公表された「慰安婦」に関する調査報告(21)の中で、日本政府が言及する諸条約は、非人道的処遇に対して個人が行う請求権を含む意図はまったくなかったと述べている。「請求権」という言葉は、不法行為による請求権を含まず、また合意議事録または付属議定書でも定義されていない、と国際法律家委員会は論じる。また、戦争犯罪及び人道に対する犯罪から生じる個人の権利の侵害に関して,なんら交渉はなされなかったとも主張する。国際法律家委員会はまた、大韓民国の場合、日本との1965年協定は、政府に対して支払われる賠償に関連するもので、被った損害に基づく個人による請求権は含んでいないと断言している。

日本政府はこのクマラスワミ報告に対する再反論を行っている。(引用:Wikipedia)

 

7.2)日本の市民団体による請求権未解決説

 日本の団体強制動員真相究明ネットワークは、当時の日本政府内で「完全かつ最終的に解決された」ことは曖昧なままで請求権は未解決であったことが認識されていたと大蔵省の内部資料などで明らかになったと主張している。また、日韓会談文書・全面公開を求める会は文書の全面公開を要求している。


(13)竹島問題


(引用:Wikipedia 2020.11.23現在) 

 竹島問題とは、 日本海の南西部に位置する島嶼群(日本名:竹島)の領有権をめぐる領土問題(領土紛争)。韓国政府側では独島と称され、「日本との間に領土問題は存在しない」としている。 

竹島の位置図

(引用:海上保安庁HP

1 )概要

 第二次世界大戦後、日本の領域は1952年発効のサンフランシスコ平和条約より定められた。これに先立ち、同条約の発効によってマッカーサー・ラインが無効化されることを見越した韓国の李承晩大統領は李承晩ラインを設定し、竹島を韓国領として韓国側水域に含めた。その後、1965年に締結された日韓基本条約で李承晩ラインは廃止されるが、現在に至るまで韓国は竹島の実効支配を継続している。

 日本側は毎年韓国に「不法な支配である」との口上書を提出し、また国際司法裁判所での司法解決の提案をしているが、韓国側はこれを拒否している。

 竹島(韓国名:独島)は、現在も日本・韓国双方が「歴史的にも国際法的にも自国の領土である」と主張し、北朝鮮も韓国の主張を支持している(※)。日本は戦後一貫して韓国に対し抗議しているが、韓国は「日本との間に領土問題は存在しない」という立場を崩していない。

 日本の行政区画では「島根県 隠岐郡 隠岐の島町」、韓国での行政区画では「慶尚北道 鬱陵郡 鬱陵邑 独島里」とされている。

 

(※) 北朝鮮も、竹島を「民族固有の領土」と主張し、南北共同の歴史学者討論会を開いたり、韓国での対日抗議行動を好意的に報道している。

1.1 )名称について

〇 日本での名称

竹島は、日本において幕末以前は「松島」と呼ばれ、現在韓国領の鬱陵島(慶尚北道鬱陵郡)「竹島」と呼ばれていた。ところが、幕末から明治中期にかけて西洋で作成された地図では、鬱陵島が誤って「松島」と記載され、それが流布した。

・それにともない、日本でも鬱陵島「松島」と呼ぶ習慣が一般化したため、本来の松島(現在の竹島)の呼称に困ることになった。これにより、1905年(明治38年)、現在の竹島を正式に「竹島」と呼ぶこととし、従来「竹島」(「松島」)と呼ばれてきた鬱陵島を元の「鬱陵島」に復した。

〇 日本以外での名称 

朝鮮王朝時代の官製地図 『新増東国輿地勝覧』(1530)の付属地図「朝鮮八道総図」部分

(引用:Wikipedia)

 

・韓国では現在の竹島を「独島」と呼んでいる。韓国は、歴史書『太宗実録』太宗17年(1417年)の条に初出する「于山島」を現在の竹島(韓国名:独島)であるとし、『三国史記』(1145年)に記された「于山国」であるとして古来から先占してきたと主張しているが、于山島が現在の竹島(独島)である根拠は、後述のように必ずしも明確ではない。

・1900年の大韓帝国「勅令第四十一号」では「石島」という島が鬱陵島に置かれた郡庁の管轄下にあるとしており、韓国ではこの石島が現在の竹島であり、1906年までに「独島」という名称に変更したと主張しているが、名称変更の理由は不明で石島が現在の竹島である明確な証拠もない。

・なお、他の国では、1849年にフランスの捕鯨船 Liancourt 号が現在の竹島を「発見」し、船名にちなんで「リアンクール岩礁 (Liancourt Rock)」と命名して以来、現在でもこの名称で呼ばれることが多い。

 

2) 双方の主張

・外務省ホームページなどによれば、日韓双方の主張の相違点の概略は以下の通りである。

両国の主張・論点 日本側の主張 韓国側の主張
1.歴史的事実 1650年代、伯耆国大谷・村川家が松島(旧名)を江戸幕府から拝領し経営している。 15 - 16世紀の文献に「于山島」「三峰島」と記述されている。
2.1905年の竹島編入の有効性 19052月、閣議決定および島根県告示により領有意思を再確認した。 決定自体、それまで日本領土とみなしていなかった証拠である。
3.第二次世界大戦後の扱い 1951年のサンフランシスコ平和条約以前の措置(GHQ覚書)は日本領土の最終決定ではない。 19461月、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書により、小笠原諸などとともに日本領から分離されている。

(引用:Wikipedia)

2.1 )日本の主張の概略  

・日本側の主張によれば、現在の竹島は江戸時代には既に日本人によって政府(江戸幕府)公認の下で鬱陵島に渡る際の航行の目標及び船がかり(停泊地)やアシカやアワビなどの漁猟として利用されていた。その後、明治政府は1905年(明治38年)1月の閣議決定で無主地であった現在の竹島を島根県 隠岐島司の所管としたとしている。

・韓国側が領有の根拠としている古文献や古地図に登場する「于山島」については、これが現在の竹島だとする主張は事実にそぐわず、根拠がないとしている。他方、日本側が現在の竹島の存在を古くから認知していたことは数多くの文献や地図から確認できるとしている。

・また、1952年に韓国の李承晩大統領が設定した李承晩ラインは一方的なものであり、加えて、その後、李承晩ラインが日韓基本条約によって廃止されたにも関わらず韓国が警備隊を常駐させ竹島を占領し続けていることに国際法上何ら根拠がないと主張している。

・また、日本側が平和的解決を求め国際司法裁判所に付託することを何度も韓国側へ提案するも応じていないことも問題視している。

 日本の江戸時代の松島(現在の竹島)を示す地図(引用:Wikipedia)

 

     

     『松嶋絵図』(1656年頃)        『竹嶋之図』(1724年) 鳥取藩作成

  

(左)長久保赤水『改正日本輿地路程全圖』(1775年)部分:神戸大学住田文庫所蔵

  (中) 木村蒹葭堂『華夷一覧図』(1790年) (右)山村才助『華夷一覧図』(1806年):国立公文書館所蔵

   

 (左)高柴栄三雄『大日本國郡輿地全圖』(部分)(1849年)長久保赤水の図に手を加えた地図:東北大学狩野文庫所蔵 

(右)長久保赤水「亜細亜小東洋図」(写本、1857年)部分

2.2) 韓国・北朝鮮の主張の概略

・韓国側の主張によれば、現在の竹島(独島)は古代から于山島の名で知られている韓国の領土であり、1696年には朝鮮の安龍福が現在の竹島から日本人を追い返し日本に渡り幕府に抗議した。その後、幕府は鬱陵島(当時の竹島)と現在の竹島(当時は松島)を放棄したと判断している(日本側は鬱陵島は放棄したが、竹島は放棄していないという立場を採っている)

・また、1877年(明治10年)に日本側の明治政府は太政官指令により鬱陵島と現在の竹島(松島)を日本の領土から除外しており、その後1900年に大韓帝国勅令第41号が官報に掲載され、竹島(独島)は石島という名で鬱島郡(=現、鬱陵郡)の管轄となったとしている。日本側が領有の根拠のひとつにあげている1905年(明治38年)の竹島編入については、日本の「韓国侵略」の過程で行われたものであり、無効であると主張している。

・なお、「解放」後の韓国政府は、戦後処理のうち帰属財産問題と対日賠償請求に特に力点を置いており、領土問題としては、竹島ではなく長崎県対馬の「返還」を、しばしば日本に対して要求していた。

・1948年1月23日、南朝鮮過渡立法委院委員60名が対馬島返還要請願書に署名して提出し、2月17日の韓国国会でも来たる対日講和会議では対馬島「返還」の提案が立議された。

李承晩は、大韓民国政府樹立直後の1948年8月17日の記者会見において「対馬は韓国領」との声明を発表し、9月10日には大統領特使も東京での会見で「対馬は韓国に帰属すべき」と発言した。

・1949年年頭の記者会見でも李承晩は「対馬を返還すべき」として、対馬領有権を強く主張したが竹島への言及はなかった。

・竹島については、米軍政期にあっても韓国の地図や文献には竹島は描かれておらず、この時期の地理の教科書や地図では韓国領土の東限を鬱陵島としており、竹島を領土外とする状態が長くつづいた。

 「独島」返還要求は、1948年8月5日の憂国老人会という民間団体がマッカーサーに送った請願書の中で、対馬とともに「独島」と波浪島という実在しない島の返還を求めたのが最初であった。 

〇北朝鮮の立場

・北朝鮮による領有権の主張は、もっぱら韓国による竹島の実効支配を支持するという形で行われている。北朝鮮は竹島が軍事境界線以北に属するとは主張しておらず、黄海における北方限界線問題のような実効支配をめぐる南北間の対立は存在しない。 

〇「于山」の名が残る朝鮮の古地図 (引用:Wikipedia)

 

      

(左)『新増東国輿地勝覧』(1530)の付属地図「朝鮮八道総図」部分

(中)1628年の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある)

(右)1600年代後半の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある)

      

(左)『廣輿圖』(1737-1776)(鬱陵島の東側に"所謂于山"と書かれた島が隣接している)

(中)金正浩『大東輿地図』(1861)、部分(鬱陵島の東側に"于山"と書かれた島が隣接している)

(右)官撰『大韓地誌』(1899)「大韓全図」部分(鬱陵島の右側に于山と書かれている)

3) 紛争の経緯

3.1) 韓国による軍事占領

・戦後、竹島を日本の施政権から外していたマッカーサー・ラインは1952年4月のサンフランシスコ条約発効と共に廃止されるが、その直前の1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領の李承晩が李承晩ラインを宣言し、韓国側水域に竹島を含ませた。

・日本政府は同月28日に「公海上の線引きに抗議するとともに、竹島に領土権を主張しているかのように見えるがそのような僭称または要求を認めない」との見解を示した。この時点では韓国の竹島に対する領土権の主張は不確実であったが、2月12日に韓国は反論を提示。以降、両国間で竹島の領有権をめぐって文書を交換するようになった。

李承晩ラインは韓国が宣言したものであり、日本政府も米国政府もこれを国際法上不当なものと抗議した。1952年7月26日、サンフランシスコ条約発効と同時に日米安保条約を発効させた日米両政府は、竹島アメリカ軍の訓練地として日本国が提供することを約する協定を締結したが、竹島周辺海域で漁業を行っている日本人漁民から強い抗議を受けて爆撃演習場から除外をしている。韓国政府はこれを米国が竹島を韓国領土として認めて配慮をしたと解釈し、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている。

・翌1953年1月12日、韓国は李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、済州島付近で操業中に漁撈長が韓国軍から銃撃を受け死亡した。同4月20日に韓国の独島義勇守備隊が竹島に駐屯して以降、韓国警察の警備隊が続けて駐屯している。

・日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続けているが、韓国政府は「李承晩平和線(李承晩ラインの韓国側での名称)は国際的先例のある韓国の主権行為であり、さらにこの問題は1965年の漁業権交渉と請求権交渉ですでに解決済みであって、日本政府があたかもまだ解決されていないかのように宣伝するのは政治的プロパガンダである」との立場を取っている(なお、1965年の漁業権交渉と請求権交渉で領有権交渉については棚上げにされている)

・日本は、現在も領土問題は解決に至っていないと主張しているが、韓国側はやはり「そもそも独島に領土問題は存在しない」という立場を崩していない。

 

3.2) 竹島の漁業経済価値と排他的経済水域問題 

 

 (引用:Wikipedia)

 

・竹島は険しい岩山で面積も狭く島自体から得られる利益はほとんど無いが、周囲の広大な排他的経済水域 (EEZ) の漁業権や海底資源の権利が存在する。現在この島のEEZ内で石油などの海底資源は特に見つかっておらず、現在最も問題になっているのは漁業権である。

・竹島と周辺海域の経済価値は、1952年の日本の水産庁によれば130億円(李ライン内)、1974年の島根県漁連の算出では年間漁獲高は76億円、2010年の韓国の算出では年間11兆5,842億ウォン(約8600億円)である。現在の日韓漁業協定では竹島周辺海域に共同水域を設けているが、韓国側の違法操業が問題になっている。

 

 3.3) 当時の国際海洋法から見た李承晩ライン

 ※詳細は李承晩ラインを参照

 

         

         李承晩(引用:Wikipedia)       李承晩ンライン(引用:Wikipedia)

 

・1952年の李承晩ラインの狙いは漁場としての利益であったともされ、韓国による近海漁業の独占が目的であったとされる。

・1951年の国際法委員会草案では「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」と排他的独占権は認めておらず、また「管轄権は関税徴収や衛生目的のものであり、沿岸国が漁業を独占するための管轄権は認められない」とも記されている。

・海洋法からみても違法であるが、1952年1月の李承晩ライン設定に関して1958年に制定された海洋法を適用することは法律の遡及に当たり無効という考えもある。このような漁業独占権宣言は、1945年アメリカのトルーマン宣言を曲解した、アルゼンチン、ペルーなど南米諸国にも起こったが、トルーマン宣言の「水域は他国と合意された規程により統制管理される」とした内容にも反しており国際問題になっていた(李承晩ライン#トルーマン宣言参照)

・海洋法の制定された1958年以前は、抗議する日本に対し韓国は李承晩ラインを韓国の主権行為として反論している。1956年4月13日、重光葵外務大臣は、韓国の李承晩ラインを認めることはできないが、韓国に拿捕された漁民を救出するためには、韓国に寛大な姿勢を見せることも必要ではないかと発言している。

・1958年以降、日韓会談においては漁業管轄権を国際海洋法の観点から否定する日本に対して韓国側は反論できなかったが、李承晩ラインは1965年の日韓基本条約まで解消されることはなかった。

 

3.4) 韓国軍による日本人漁民殺害や日本漁船拿捕

・1952年1月18日に韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、竹島が韓国の支配下にあると宣言した。1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までに、韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷させ、3,929人を抑留した。1947年から1965年末までに8人の死亡が確認されている。韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。

・1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。済州島付近で操業中の同船が韓国側に銃撃を受け、漁撈長の瀬戸重次郎が死亡した。

独島義勇軍守備隊と韓国警察の竹島上陸

・同年4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。6月24日、日本の水産高校の船舶が独島義勇軍守備隊に拿捕される。6月27日に日本の海上保安庁と島根県が竹島調査を行い、「日本島根県隠岐郡五箇村」領土標識を建て、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。すると、7月12日に竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9) に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる。

・1953年10月15日、韓国の山岳界を代表する韓国山岳会の有志会員らが写真家を伴い、ソ・ドクギュ大尉が指揮する海軍905艇で竹島に渡った。上陸した山岳会調査隊の構成メンバーは、測地班、記録班、報道班など。彼等は、日本が建てた『日本島根縣隠地郡五箇所村竹島』の標識を引き抜いた。その後、洪鍾仁(韓国山岳会会長、当時の朝鮮日報主筆)は、彼等が持って来た石碑を設置した。この石碑には、表面に「독도」「獨島」「LIANCOURT」(正式フランス語名称は“Rochers de Liancourt”)、裏面に「한국산악회(韓国山岳会)」「KOREA」「ALPINE ASSOCIATION」「15th AUG 1952」等と刻まれている。

・以後、韓国は鬱陵島の警察官約40名を竹島に常駐させており、日本の艦船の接近を認めていない。また独島の西島には韓国人夫婦が定住している。実際、竹島は日本で言う武装化などはされてはおらず、その代わりに毎年韓国軍による独島防衛訓練が行われている。日本政府はこの韓国による竹島実効支配に抗議しているが、韓国側は独島は韓国固有の領土であるとして「内政干渉」と退けている。

・なお当時韓国には拿捕の法的根拠である漁業資源保護法は施行されておらず、日本漁船拿捕は国際法また韓国国内法においても非合法的な行為であった。この韓国の行為に対して日本の水産庁は「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と評した。しかし、韓国側は1952年1月18日の大韓民国海洋主権宣言が拿捕の根拠であるとしている。

・また、韓国李承晩体制下に行われたかかる行為を、1960年駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、国務省への機密電文(機密電文3470号)の中で「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現し、「日本人は李承晩の占領主義的手法で苦しんでいる」と訴えている。

 

3.5)金鍾泌による竹島爆破提案

 

         

   池田勇人総理      大平正芳外相       金鍾泌中央情報部長  ディーン・ラスク 国務長官

(引用:Wikipedia)

 

 ・ 1962年10月の大平正芳外相との会談で金鍾泌中央情報部長は、国際司法裁判所への付託を拒否したが、米国務省外交文書集によれば、金鍾泌中央情報部長は日本側に竹島問題の解決策として竹島破壊を提案していた。

・金鍾泌中央情報部長は、東京での池田勇人総理および大平外相との会談後、訪米。1962年10月29日のディーン・ラスク 国務長官との会談において、ラスク長官が「竹島は何に使われているのか」と問うたところ、金部長は「カモメが糞をしているだけ」と答え、竹島破壊案を自分が日本側に提案したと明かした。

・のちに韓国国内で「独島爆破提案説」が問題視された時には、金鍾泌自由民主連合総裁は「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と弁明している。

・また2010年の朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本のものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしまってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して発言したと回想しているが、これは米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録の様子とは趣が異なる。

 

3.6) 竹島密約 

 

   

    佐藤栄作総理   河野一郎建設大臣 宇野宗佑自民党議員     丁一権国務総理 

 (引用:Wikipedia)

 

日韓基本条約締結おける障害の一つであった竹島の領有問題に関し、韓国の雑誌「月刊中央」2007年4月号で、日韓基本条約締結5ヶ月前の1965年1月11日に、日本の河野一郎 建設大臣の特命を受けた宇野宗佑自民党議員が、ソウルで朴健碩(パク・コンソク)汎洋商船会長の自宅で丁一権(チョン・イルクォン)国務総理に会い、「未解決の解決」を大原則に全4項からなる竹島付属条項に合意していたとした。その密約は翌日の1月12日に朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領の裁可を受け、宇野は13日に河野大臣を通じ佐藤栄作首相に伝えたとしている。

・「月刊中央」の客員編集委員だったロー・ダニエルは金鍾泌元国務総理の兄で銀行家の金鍾洛(キム・ジョンラク)に対するインタビュー取材をおこなったが、そのなかで金鍾洛は韓国と日本が竹島問題を「今後解決すべきものとしてひとまず解決と見なす」というアイデアは自分が出したと述べたうえで「こうして独島密約(※)は結ばれ、当時の朴正煕軍事政府は韓国が韓半島の唯一の合法政府という明言を日本から受けること、経済開発に必要な経済協力資金の確保という2つの問題をともに解決したことになった」と明らかにした。

・竹島密約は「解決せざるをもって、解決したとみなす。従って、条約では触れない」という2文を中心に、

① 独島(竹島)は今後、韓日両国ともに自国の領土と主張することを認め、同時にこれに反論することに異議を提起しない。

② 将来、漁業区域を設定する場合、両国が独島(竹島)を自国領土とする線を画定し、2線が重複する部分は共同水域とする。

③ 現在韓国が占拠した現状を維持する。 しかし警備員を増強したり新しい施設の建築や増築はしない。

④ 両国はこの合意をずっと守っていく。

という4つの付属条項を付けていたとしている。こうした密約が実際にあったかどうかについては、今後の歴史学者の研究に委ねられるとしても、国交正常化当初は、両国ともこの密約にしたがうような穏やかな立場からの相互の見解表明より日韓関係が開始していたことは事実である[27]。しかし、1993年に成立した金泳三政権時代以降の韓国では、竹島問題をめぐる感情的な対日批判が先鋭化するようになり[27]、また、同政権が竹島に新たに接岸施設を建設したことで、(密約があったとしても)付帯条項3.の約束は明白に破られたことになる。

・2007年3月20日、塩崎恭久官房長官はこのことについて「政府としてはそのような密約があるとは承知していない」と否定した。仮にこの密約があったとしても、これらの約束は20世紀末葉以降何ひとつ守られていないのが実情である。

 

(※)独島密約(国会質問主意書&答弁)(引用:衆議院HP)

◆質問主意書(平成19年3月26日提出 質問第144号 提出者 鈴木宗男)

〔竹島密約に関する質問主意書〕
一 2007年3月20日付産経新聞が、「『竹島棚上げ合意』 国交正常化前 〝密約〟存在 韓国誌が紹介」という見出しで、

 「日韓が領有権を争っている竹島(韓国名・独島)に関し、両国はお互い領有権の主張を認め合い、お互いの反論には異議を唱えないとの〝 密約 〟があった-と、19日発売の韓国の総合雑誌『月刊中央』(中央日報社発行)4月号が伝えた。また〝密約〟では、韓国は『独島』での駐屯警備隊の増強や新しい施設の増築はしないとなっていたが、韓国側はその後、この約束を守らなかったとしている。

 竹島問題について日韓双方は、国交正常化(1965年)の交渉過程で領有権を棚上げすることで合意していることは、日本では知られている。これは韓国側も日本の領有権主張を一応、了解していたことを意味するが、韓国ではこのことはほとんど知らされておらず、近年は日本に対する一方的な非難、糾弾に終始している。

 韓国マスコミは竹島問題で韓国の立場を支持する日本の学者や研究者などの話は大々的に伝えるが、不利な意見や主張は無視するのが通例だ。今回の報道は竹島問題をめぐる日韓の交渉過程の出来事を客観的に紹介するものとして異例だ。

 同誌によると、この〝密約〟は、国交正常化5カ月前の1965年1月、訪韓した自民党の宇野宗佑議員(後の首相)と韓国の丁一権首相の間で交わされた。

 内容は

①島については今後、双方が自国の領土と主張することにし、これに反論することに異議は提起しない②韓国が占拠している現状は維持するが、警備隊員の増強や新しい施設の増築などはしない

③両国はこの合意を守る

-などで、韓国側では朴正熙大統領の裁可を受け、日本側では佐藤栄作首相などに伝えられたという。

 〝密約〟を証言しているのは、日韓国交正常化を推進した金鍾泌・元首相の実兄、金鍾珞氏ら。金鍾珞氏は当時、経済界にいて舞台裏で国交正常化作業を手助けした。竹島問題での対立が国交正常化の大きな障害になっていたため、金氏が『将来に解決する』ということで棚上げ案を出し、合意にこぎつけたという。

  韓国政府は当初、竹島支配については現状維持で目立った動きはしなかったが近年、接岸施設の建設など物理的支配を強めているのが実情だ。」

という記事が掲載されていることを外務省は承知しているか。

二 日本と韓国が国交を正常化した時点で、竹島問題についてどのような合意がなされたか。

三 竹島については今後、双方が自国の領土と主張することにし、これに反論することに異議は提起しない、韓国が占拠している現状は維持するが、警備隊員の増強や新しい施設の増築などはしない、両国はこの合意を守るなどという内容の日韓両国政府の合意が存在するか。

四 現時点の竹島問題に対する韓国の姿勢を政府はどのように評価しているか。

  右質問する。

◆答弁書(平成19年4月3日受領 答弁第144号 内閣総理大臣安倍晋三 衆議院議長河野洋平) 

〔衆議院議員鈴木宗男君提出竹島密約に関する質問に対する答弁書〕
一について

 御指摘の報道については、外務省として承知している。

二について

 我が国は、大韓民国による竹島の不法占拠は、竹島の領有権に関する我が国の立場に照らし受け入れられるものではないとの立場であり、御指摘の「時点」においても同様の立場をとっていたものである。このような経緯等も踏まえ、政府としては、昭和四十年に締結された日本国と大韓民国との間の紛争の解決に関する交換公文(昭和四十年条約第三十号)にいう「両国間の紛争」には、竹島をめぐる問題も含まれているとの認識である。

三について

 お尋ねの「合意」が行われたとの事実はない。

四について

 政府としては、大韓民国による竹島の不法占拠は、竹島の領有権に関する我が国の立場に照らし受け入れられるものではないとの立場である。

※ 『竹島密約考』:三宅久之の小言幸兵衛(三宅久之オフィシャルプログ PoweredbyAmeba)

◆竹島密約考 前編 (2012-08-23)

 日韓基本条約締結時(1965年)、竹島(独島)の取り扱いに困った両国政府が、竹島を事実上棚上げする密約を結んだが、韓国側が一方的にこれを破ったことにより、今日の混乱が生じている。当時の事情をいささか知る者として、経緯をはっきりさせておきたい。

 竹島は1951年9月、日本がサンフランシスコ平和条約で独立した時、日本が韓国に返還すべき領土とはされていなかった。そこで、これを不満とする反日の李承晩大統領は李ラインと称する国境線を勝手に引き、その中に竹島を入れたことから領有権争いが始まった。1950年代には、毎日のように日本漁船が領海を侵犯したとして、韓国側に拿捕され、死傷者も続出したものである。

  しかし韓国側では1961年5月、軍事クーデターによって政権を掌握した朴正熙氏が大統領に就任すると、韓国の近代化のために、日韓関係の正常化と日本からの資金の導入を急いだ。これを受けて日本側交渉の窓口は大野伴睦自民党副総裁、韓国側は朴氏の側近、金鐘秘中央情報部長が当たり、日本では交渉経過は逐一外務省に報告され、1962年には大平正芳外相と金氏との間で「大平・金合意メモ」が作成された。ところが間もなく韓国側では金氏が失脚、日本側でも大野氏が死去(1964年5月)、交渉は事実上中断した。

 そこで、池田勇人首相は河野一郎国務相に大野氏の後を引き継ぐよう要請、河野氏はこれを引き受けたものの実質的な交渉役として、元秘書の衆院議員宇野宗佑氏(後首相)を指名、韓国側は金氏の兄の金鐘珞氏(韓一銀行常務)が窓口となって交渉、詰めを急いだ。

 経済協力は総額5億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル)で妥結したが、竹島(独島)の領有権問題は両国の主張が平行線で対立、最後まで残った。そこで宇野、金鐘珞両氏は最終的に竹島問題を棚上げすることで合意、「両国は相互に領有権の主張を認め合い、互いに反論する場合には異議を唱えない」との密約を交わし、この密約内容を日本側は河野国務相を経て佐藤栄作首相(池田首相が病気のため64年の東京オリンピック後退陣、同年11月佐藤内閣が発足)に、韓国側は丁一権国務総理を経て朴大統領に報告され、それぞれ了承を得たという。

 日韓基本条約は1965年6月22日に調印されたが、宇野氏は後に私との雑談の中で、当時の苦労話を披露。条約締結後、韓国政府からその労を多として高位の勲章(韓国の修好勲章の一つである光化勲章か?筆者注)を贈られたと自慢気に語った。~後編に続く(24日投稿予定)

 ◆竹島密約考 後編(2012-08-24)

 日韓基本条約交渉時に両国が合意していた、竹島(独島)の領有権問題を「事実上棚上げし、互いに領有権の主張を認め合う」という密約は、韓国でも歴代大統領に引き継がれてきたが、1993年大統領になった金泳三氏には引継ぎがなかった。理由は不明である。そこで金大統領は突然、独島の実質的支配体制を確立するため、接岸施設を設け、軍隊を常駐させ、対空兵器なども装備する要塞化を進め、今日に至った。

  元NHK記者、渡部亮次郎氏は、私よりあとの世代の河野一郎担当だった人だが、乞われて園田直氏の秘書となり、外相秘書官も務めた政界事情通である。彼の著作「竹島『密約』のあった時代」によると、「竹島密約については韓国ではすでに広く知られている」という。それは韓国人ビジネスマンが中曽根元首相からその事実を聞き、韓国の雑誌「月刊中央」(中央日報社 2007年4月号)に発表したからで、それを基に産経新聞が2007年3月20日付、「『密約』の存在、韓国誌が紹介」という見出しで報道している。

  私は「月刊中央」の記事は読んでいないので、渡部氏の著作から引用させてもらった。さらに渡部氏は、韓国側の密約文書は金鐘珞氏が自宅に保管していたが、1980年5月ごろ焼却したとされ、文書は日本側(外務省)にしか残っていないと書いている。しかし政府は、この問題について鈴木宗男衆院議員(当時)が2007年3月、提出した質問主意書に対して「合意があったとは理解していない」と回答、婉曲に否定している。

 以上が私の知る竹島密約の経緯だが、これを書いている今も釈然としないことがある。一つは任期満了が間近になった(再選されることのない)李明博大統領が、なぜ今竹島へ上陸し、石碑まで立て、天皇陛下の訪韓問題についても事実を歪曲して大衆迎合を図るのか。もっともこの見え透いたパフォーマンスでも、李大統領の支持率が17%から26%へ9ポイントも上昇したというから、韓国では依然として反日カードは一定の効果があるようだが。

  二つ目は、ロンドン・オリンピックでも韓国のサッカー選手が「独島はわが領土」と書かれたプラカードをかざして問題となったが、通常領土主権を叫ぶのは、領土を不当に占拠されたと思う側が、占拠している国へ抗議のために声をあげるのではないか。不法不当に実質支配している側がプラカードを掲げ、デモ行進するというのは、よほどのやましさがあるからではないか。

  韓国は一衣帯水の間にある友邦で、仲良くしたいとは思うのだが、あのエキセントリックな国民的性癖にはうんざりさせられる。(終わり) 

 

3.7)日韓基本条約と日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文

・1965年の日韓基本条約調印によって李承晩ラインが正式に廃止されたが、竹島の領有権に関しては日韓双方譲らないため、紛争処理事項として棚上げされた。

・また、日韓基本条約締結に伴い「日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文」が取り交わされた。そこには外務部長官李東元署名による韓国側書簡として

「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする」

 とある。この公文には竹島、または独島という名称は記載されず、一般的な「紛争」についてだけ記載された。竹島問題は李承晩の海洋宣言以来の紛争事項であるが、韓国側は竹島・独島は紛争事項ではないという立場をとっている。

・なお、日本側は日韓国交正常化に至る1951年から1965年までの外交交渉文書の開示を拒み続けている。この文書には竹島問題について日韓双方の発言や、昭和天皇と韓国高官とのやりとりなどが含まれているという。

 

3.8)日韓漁業協定以降

・1965年の旧日韓漁業協定では竹島問題については棚上げされた。1980年前後には韓国漁船が山陰沿岸および北海道近海にまで出漁(密漁)し、日本の漁業者と係争が起こった。島根県のシイラ漁漁船は35から8統にまで激減する。

・1996年に日韓両国は国連海洋法条約を批准。それに基づき新日韓漁業協定の締結交渉が開始され、両国の中間線を基準に暫定水域を設定、この海域において双方の漁獲が制限付きで認められた。日本側の配慮により日本が大幅に譲歩した暫定水域は、日韓共同で利用する協定であった。

・しかし、その後も韓国漁船が漁場を独占し、日本漁船が操業できない状態が続いている。さらに韓国漁船は日本側排他的経済水域(EEZ)にまで侵入するなど不法な漁業行為を行い、また竹島の周辺海域では韓国軍が頻繁に監視を続けている。また、竹島近海の海底地名の命名、および海底地下資源に関する調査活動を巡り、EEZ問題が再燃、EEZ確定交渉が再開されたものの、平行線を辿っている。

 

4) 争点

 竹島を巡る争点には次のようなものがある。

① 誰が最初に発見し、実効支配をしたか

② 島の同定(于山島、鬱陵島、竹嶼、竹島、松島、石島、観音島ほか)

③ 1905年の日本による竹島編入の有効性

④ 戦後の GHQ による竹島処分の解釈

⑤ 1952年の韓国による軍事占拠(李承晩ライン問題も含む)

 

4.1) 国際判例からみた領土の権原

・領土権を主張する根拠(領域権原)として、譲渡、売買、交換、割譲、先占などがある。パルマス島事件常設仲裁裁判所判決に見られるように国際領土紛争では、「国家権能の平穏かつ継続した表示」という権原を基準に判定される場合が多い(韓国の軍事占領は「平穏」には該当しない)

・詳細は「領域権原」を参照

・これまでの国際判例から次のような規則が得られる。

① 中世の事件に依拠した間接的な推定でなく、対象となる土地に直接関係のある証拠が優位。中世の権原は近代的な他の権原に置き換えられるべきマンキエ・エクレオ事件ICJ判決

② 紛争が発生した後の行為は実効的占有の証拠とならない。

③ 国は、相手国に向かって行った発言と異なる主張はできない。

④ 相手国の領有宣言行為または行政権行使を重ねるなどの行動に適時に抗議しないと領有権を認めたことになる。

 

4.2) 竹島の領土権原

・これらの国際司法判例を竹島領有権問題に照合すると、以下の通り。

〇日本の領土権原(日本側の主張による)

・歴史的な権原において江戸幕府は現在の竹島を領土と見なしており、日本に領域権原が存する。

・ただし、歴史的な権原は近代的な権原に置き換えられる方が好ましい。

〇韓国の領土権原(日本側の主張による)

・17世紀末に民間の朝鮮人(安龍福)が、日本における「竹島(鬱陵島)・松島(現在の竹島)」の呼称を朝鮮の「鬱陵島・于山島」に当てはめ、松島は于山島であるという認識を持ったとしても(以来、朝鮮文献に松島=于山と記述)、朝鮮人の言う于山島と日本人の言う松島は朝鮮の地図を見る限り明らかに一致していない。

・18世紀以降朝鮮の官撰史書等に松島=于山と記載されているが、朝鮮は現在の竹島への実地の知見や訪問記録がない(于山島が別の島竹嶼を示す史料が多くある)

・1900年に大韓帝国が勅令で「石島 (韓国)」を鬱陵島の行政管轄権に入れており、韓国は石島を独島(現在の竹島)と主張するが、その根拠がない。

・したがって韓国には歴史的な権原というべきものがない。

(いずれも一国の領土権の確立に不充分で、無主地の要件は満たされる。なお、日本が日露戦争中に独島を侵奪したという韓国側の反論があるが、奪ったという議論は、竹島が韓国の領土であったことが証明されない限り成り立たない。)

 

 4.3) 最初の発見者

・国際法上、領有権を巡る紛争では「発見」は未成熟権原 (inchoate title) とされ、領有権(権原)とするには合理的期間内に「実効支配」により補完されなければならないとされている。 

・なお、無人や定住に向かない地域では、僅かな実効支配の証拠でもよいとされているが、 その証明には、課税や裁判記録といった行政、司法、立法の権限を行使した疑義のない直接的証拠が要求され、不明瞭な記録による間接的推定は認められていない。

朝鮮の于山島と日本の松島
韓国の主張の概略 日本の主張の概略
『三国史記』巻四「新羅本紀」。于山国に関する部分

1145年に編纂された『三国史記』によると512年に于山国は朝鮮の新羅に服属している。後の文献にある于山島はこの于山国の一部であり、その于山島は独島(現在の竹島)である。つまり独島は512年から韓国の領土である。

『三国史記』には于山国である鬱陵島のことは書かれているが、周囲の島のことは全く書かれていない。「512年6月、于山国が服属し土地の産物を貢いだ。于山国は溟州(江原道)のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島といい、約40キロメートル四方ある。」との記述から、鬱陵島の本来の名が于山島であり、于山島は独島ではなく、鬱陵島から92キロメートル離れている竹島が于山国ではなかったことが明白である。独島は512年から韓国の領土であるとの韓国側の主張に論拠となる資料は存在しない。
李氏朝鮮時代の初期には、現在の鬱陵島が「于山島」という名称であったと考えられる。しかし、朝鮮の空島政策のため、鬱陵島を「于山島」と呼んでいた鬱陵島民すべてが1435年までには朝鮮本土に連行されたため、その後、従来の于山島は「鬱陵島という本土風の呼び方が定着し、「于山島」の名は独島(現在の竹島)を呼ぶ名称として移行したものと考えられる。 『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に于山島という名が初めて現れる。そこには「按撫使の金麟雨が于山島から還った時、大きな竹・水牛の皮・生芋・綿子・アシカ等を献上し、3人の住民を率いて来た。島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と記載されている。自然状態の竹島には水もなく人が住める環境でなく、まして献上品や15戸の家及び男女併せて86人の住民などそこにないことは自明である。歴史資料によれば、韓国側の主張とは反対に、于山島という記述が竹島を指す可能性すら存在しない。
望遠レンズではなく、一般レンズで鬱陵島から竹島(独島)を撮影した写真
1454年に編纂された『世宗実録』に「于山、武陵二島は県(蔚珍縣)の真東の海中にある。二島はお互いに隔てること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。」とある。天候が良ければ鬱陵島(=武陵)から望めるのは付属島嶼を除けば独島(現在の竹島)なので、独島(現在の竹島)が于山島に違いない。原文は、「于山、武陵二島」が「鬱陵島」であると言っている。当時の「鬱陵島」は90km離れた独島(現在の竹島)まで含めた群島の概念である。
『世宗実録』には「一説には鬱陵島とも云う、100里[注 8]四方である。」と続いている。朝鮮政府は于山武陵を二島なのか鬱陵島一島なのか把握しておらず、于山国の国名と島名が混同していた。「二島はお互いに隔てること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。」というのは朝鮮半島から見た鬱陵島のことで、国名を冠した島が鬱陵島から約90kmも離れた無人島の現在の竹島であるはずもない。また、続く本文はすべて鬱陵島の内容である。
『八道総図』には于山島が鬱陵島の西に描かれ位置が間違っている。これは当時、独島(現在の竹島)の位置を正確に描いた文献がなかったせいであると思われる。しかし、朝鮮王朝は、鬱陵島の近くに于山島という別の島があることを認識していた。
于山島が鬱陵島の左側にあり、竹島と鬱陵島の位置関係と異なる。

1530年に朝鮮で発行された『八道総図』に初めて于山島が描かれるが、鬱陵島の西に鬱陵島と同程度の大きさの架空の一島を描いている。竹島は鬱陵島の南東約90kmに二島で構成される小島なので、竹島ではありえない。朝鮮政府は于山島を全く把握していない。

伯耆国の商人が江戸幕府より渡海免許を受け竹島(鬱陵島)に渡った。日本側は離島にわたるときには渡海免許が必要だったというが、鬱陵島以外の渡海免許の例を示せないでいる。渡海免許は、朱印状と同じで、鬱陵島で朝鮮人にあったときに自分たちが倭寇ではないということを示す目的があったと考えられる。従って江戸幕府は、鬱陵島や松島(現在の竹島)を当初は朝鮮領と認識していた可能性がある。
江戸幕府から米子商人にあたえられた鬱陵島渡海許可証(1618年)

日本では国内の他の国へ移動するときは許可が必要で、伯耆国から鬱陵島へ渡るのにも当然許可が必要だ。朱印状とは全く違う。無人島は先占した国の領土となる。伯耆国の商人は1618年より1696年まで約80年もの間、松島(現在の竹島)を経由し鬱陵島に渡ってこの島を開発している。鬱陵島には朝鮮人がいたが、松島(現在の竹島)に朝鮮人が来たという証拠は何もない。

 
『松嶋絵図』(1656年頃)
竹島を描いた最古の地図。「松島之絵図島之惣廻リ壱里之内 隠岐国より松島江之渡海道範百里余 松島より竹島江道範三十里余」の記載がある。
日本には『松嶋絵図』(1656年頃)を初め、現在の竹島を描いた多数の古地図が存在するが、韓国には位置や形状がおよそ現在の竹島には当てはまらない于山島の地図しか存在しない。
1667年に日本の松江藩士が書いた『隠州視聴合記』には「この二島(鬱陵島と現在の竹島)は無人の地で、高麗が見えるのは、雲州から隠州を望むようだ。よって日本の北西の地で、この州をもって限りとされる。」と書かれている。「この州」とは隠州(隠岐)のことであり日本の限界を隠岐としている。添付の地図は隠岐の地図のみで鬱稜島や現在の竹島の地図はない。おそらく日本はこの時、松島(現在の竹島)や鬱陵島が朝鮮領であることを認めたものに違いない。 『隠州視聴合記』の文中には「北西に二日一夜行くと松島(現在の竹島)がある。又一日程で竹島(鬱陵島)がある。俗に磯竹島と言って竹・魚・アシカが多い。この二島は無人の地である。」としており、現在の竹島もはっきり認識している。鬱陵島へは、この文献の50年も前から幕府の許可を得て伯耆国 米子から漁労や竹の伐採などのために渡っており、鬱陵島の領有をめぐる外交交渉(竹島一件)で竹島(鬱陵島)を放棄したのは1696年のことである。従って、文中の「この州」は鬱陵島を指していると考えるのが適当であるが、仮に「此州」が隠岐を指すとし­ても、人の住める地が隠岐までと言っているに過ぎない。隠州を調査した内容なので渡航していない鬱稜島や現在の竹島の添付図がないのは当然。
1728年に編纂された『粛宗実録』に、1696年朝鮮の安龍福が鬱陵島で遭遇した日本人に抗議し、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ」と言っている。子山島は于山島のことで、于山島は独島(現在の竹島)のことである。当時の日本は現在の竹島を松島と呼んでいるので朝鮮領である。安龍福がその3年前に日本で抗議した時には徳川幕府より于山島は朝鮮領だという書契をもらっている。 朝鮮の漁夫である安龍福は鬱陵島や日本に密航した犯罪人である。朝鮮の『粛宗実録』に記載されている安龍福の尋問記録は事実と異なることが多く、日本人を追いかけて松島から日本へ渡ったとしていることは、罪を逃れるための偽証である。安龍福は日本人の言う松島を于山島だとしているが、彼はその于山島の位置を把握していない。また、徳川将軍が朝鮮の漁夫に竹島(現在の鬱陵島)や松島を手放すような書契を渡すはずもない。
1693年の安龍福の抗議により、鬱陵島と于山島の帰属を巡って徳川幕府と朝鮮との間に領有問題が起こったが、幕府から鳥取藩への質問状で鳥取藩は竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)は自藩領でないと回答している。幕府は朝鮮との交渉で最終的に竹島(鬱陵島)を放棄することを朝鮮側に伝えており、鬱陵島の付属島である松島(現在の竹島)も同時に放棄している。 鳥取藩の回答は鳥取藩が自藩領ではないといってるに過ぎない。幕府に竹島(鬱陵島)に対する領有意思があったため、2年以上も朝鮮との間で領有に関する外交交渉(竹島一件)を行った。この交渉においては松島(現在の竹島)の名は一切出てきておらず、朝鮮側の地図を見ても朝鮮政府は松島を全く認識していない。1696年に江戸幕府は朝鮮に対し竹島(鬱陵島)を放棄する通達を出しているが、松島(現在の竹島)についてはもちろん何も書いていない。幕府が竹島の領有争いにわざわざ約90kmも離れた松島を含めるはずもない。
1770年に編纂された『東国文献備考』に「鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である」とある。この于山は独島のことである。当時の日本は独島を松島と呼んでいるのでまさに于山島=松島=独島で、独島は朝鮮領である。1808年の『万機要覧』にも同じことが書かれている。(詳しくは于山島を参照) 『東国文献備考』の「鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。」との一文を始め同様の一文は、虚言の多い安龍福の証言の引用である。この当時の朝鮮の地図からいって、朝鮮政府は竹嶼を日本人の言う松島と誤認している。
日本の三国通覧輿地路程全図に描かれている竹嶋周辺部
1785年に成稿した、林子平(当時は牢人であった)の『三国通覧輿地路程全図』に竹嶋(鬱陵島)とその附属の于山島(独島)が描かれており、朝鮮と同じ色で彩色され朝鮮領と明記されている。この地図は小笠原諸島領有の日米交渉の際に、幕府が根拠として用いており、幕府が竹島を朝鮮領として認めた証拠になる(三国通覧図説を参照)。また、当時の日本の『大日本国全図』、『日本輿地図藁』、『日本国地理測量之図』、『官板実測日本地圖』、その他民間で作られた地図には、独島の当時の日本名である松島が記載されていない。記載されている地図も隠岐や鳥取と同じ色ではなく無色である。したがって日本は松島を朝鮮領だと認識していた。また、多くの朝鮮の古地図に于山島が描かれており、この于山島が独島である。
改正日本輿地路程全図:松島(現在の竹島)が記されている。

『三国通覧輿地路程全図』に描かれている竹嶋(鬱陵島)の北東に、南北に長い小さな付属島があるが、島の大きさや形状、位置関係からいって、これは現在の竹嶼であり、この地図に現在の竹島は描かれていない(一民間人の私的出版物に証拠能力はない)。また、幕府がこの地図をもってアメリカに小笠原の領有権を認めさせたというのは新聞の歴史小説上の話であり、事実ではない。当時はすでにこの地図よりも遙かに正確な経緯度線入りの『改正日本輿地路程全図』が普及しており、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)が描かれている。18世紀に入ってからの朝鮮・韓国の古地図の于山島は、全て鬱陵島近傍の竹嶼に比定できる。したがって、于山島は現在の竹島ではない。

「竹島渡海一件記」の添付地図(1836年)
1836年に大阪町奉行で竹島事件の裁判が行われたが、その際に資料として提出された「竹島方角図」に朝鮮半島と竹嶋(鬱陵島)・松シマ(現在の竹島)が朱色で塗られており、朝鮮領として描かれたものと考えられる。

(詳しくは竹島事件参照)

竹島事件の「竹島方角図」は、民間人である会津屋八右衛門が尋問中に書いたもので八右衛門の活動地を朱色で塗ったに過ぎない。したがって江崎(萩市江崎地区)・萩・下関・対馬付近にも朱色の印がある。国外との貿易について幕府の筆頭老中だった浜田藩主松平周防守康任が「竹島は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としたことや、竹島事件の判決文に「松島へ渡航の名目をもって竹島にわたり」との一節があることから、竹島(鬱陵島)への渡航は禁止したが松島(現在の竹島)への渡航は禁止されていなかったことが分かる。これ以前の1820年には浜田藩の儒学者 中川顕允が編纂した石見外記にも高田屋嘉兵衛の北前船が竹島と松島の間を航路として使用していることが書かれており、松島(現在の竹島)を国内とみなしていた。
金正浩『大東輿地図』(1861) 鬱陵島の東側に"于山"と書かれた島が隣接しており、峰が描かれている。
19世紀に作成された韓国の地図には、鬱陵島の東に于山島が明確に描かれているものがみられ、その于山島には峰が描かれているものがある。竹嶼には峰がないため、これらの地図の于山島は明確に独島(現在の竹島)を表している。
『大東輿地図』(1861)の于山島は鬱稜島の東に隣接し一島で構成されている。現在の竹島は、西島・東島の2島で構成されており、その位置や大きさも全く違う。島の形状、地図に付された距離の目盛りからいって、この于山島は現在の鬱稜島に隣接する竹嶼を描いている。
『大韓地誌』の附図『大韓全図』
日本は1899年に編纂された『大韓地誌』を根拠に于山島は独島(現在の竹島)ではないと主張するが、この地誌の後記に「この本は日本の地理書を翻訳したもので不足な点が多い」と記されている。鬱稜島や于山島は韓国領であるにもかかわらず「大韓帝国の領土は東経124度30分から130度35分である」と書かれており、鬱陵島も含まれていない。したがって、この書物や地図の内容は正確ではなく、『大韓全図』の鬱稜島に「于山」の記載があるからといってその位置が于山島の正確な位置とはいえない。
大韓全図の鬱陵島周辺部
鬱陵島の衛星写真(上が北)。鬱陵島の北東に小さく見える島が竹嶼。

1899年に朝鮮の歴史家の玄菜によって編纂された地理書『大韓地誌』の中に、「大韓全図」という経緯度入りのかなり正確な付属図が付いている。この地図中に鬱陵島と並んで于山の名が記載されている。于山島と書いていないことから、于山が鬱陵島とその周囲に記載されている島全体を指しているか、または于山の文字の位置関係から、現在の鬱陵島に付属する竹嶼という島であることが推測できる。この『大韓地誌』は大韓帝国の学校でも使われたことのある信用性の高い地図である。

(引用:Wikipedia)

4.4) 決定的期日

・他国の抗議等により紛争が顕在化した日(決定的期日)以降の法的立場の改善を目的とした活動は、領有権の根拠になり得ないとされている。国際裁判所によってこの決定的期日が設定されると、特殊な事情が存在しない限り決定的期日以前に存在した事実のみ証拠能力が認められることとなり、決定的期日以降に当事国が自国の立場を有利にするために行った活動は証拠として認められないこととなる。竹島問題の決定的期日が具体的にいつの時点であるかについて学説は一致していないが、下記表の時点が決定的期日の候補として挙げられている。

〇 決定的期日として主張されることがある日付

・1905年2月22日:島根県告示40号により日本が竹島を編入したと主張

・1951年9月   8日:日本国との平和条約締結

・1952年1月28日:韓国の李承晩ライン設定に対して日本が抗議

・1954年9月25日:日韓の間にICJへ付託することの合意が成立し、ICJの手続きが開始される日

・将来 日韓の間にICJへ付託することの合意が成立し、ICJの手続きが開始される日

・竹島問題に関しては決定的期日は設定されない

 

近年の国際司法裁判所の判例では、国際司法裁判所は紛争発生時を決定的期日として設定する傾向がある。この傾向にならえば、李承晩ライン設定に対して日本が韓国に抗議を行った1952年1月28日が決定的期日として設定される可能性が高いと言える。 

・しかし決定的期日が設定されなかったり、将来紛争が国際司法裁判所に付託される未来の時点に決定的期日が設定される可能性も完全に否定できるわけではない[42]。例えばマンキエ・エクレオ諸島事件の国際司法裁判所判決では決定的期日が設定されなかったとの指摘も一部には存在する。そうした場合には、韓国が竹島を半世紀以上にわたり占拠してきた事実や、それに対して日本が抗議し続けてきた事実も証拠として考慮されうることとなる。

 

4.5) 日本による竹島編入の有効性

・日本政府は、竹島であしか漁を営む国民個人からの領土編入貸下願を契機に、1905年1月28日閣議決定をもって島根県への編入を決定し、同年2月22日、島根県知事により告示された。同5月島根県知事は、竹島を官有地台帳に登録し、同6月あしか漁許可、翌1906年3月に県は実地調査も行う。同7月以降漁業者に貸し付けて歳々官有地使用料を徴収。

・日本の竹島編入措置は、国際法のいう先占によった。先占の要件は、対象地が無主地であること、国家の領有意思をもってする実効占有である。

〇閣議決定文

 北緯37度9分30秒...ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク......明治36年以来中井養三郎ナル者カ該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ...

〇無主地

 無主地という点については、

① 17世紀末に民間の朝鮮人(安龍福)が個人的な地理認識を持ったとしても、朝鮮政府は実地の知見すらなく、また于山島を竹嶼と示す資料などもあり、資料的かつ歴史的な領土認識においても、不確証である。韓国にはそもそも歴史的な権原というべきものの存在が推定の範囲を出ない。

② 1900年に大韓帝国が勅令で「石島」を鬱陵島の行政管轄権に入れており、韓国は石島が今日の竹島と主張するが、石島が現在の竹島である明確な証拠は何もない。

これらはいずれも領土権の確立に充分とは言えず、無主地の要件は満たされる。

〇国家の領有意志

・日本の領有意思は、閣議決定、県知事告示(新聞でも報道)、先占以降の主権者としての行為により明示される。

〇実効占有

・実効的な占有については、国家は私人の行為の追認をもって国家占有とできるので[注 11]、日本は閣議決定で追認を行い、かつ国有地台帳への登載、あしか漁業許可、 国有地使用料の継続徴収など国家占有の行為があり、「国家権能の平穏かつ継続した表示」を継続していた。(なお韓国による軍事占領は「国家権能の平穏かつ継続した表示」には当たらない)以上、伝統的な領土取得方法としての「先占」の要件が具備されたほか、1905年の日本による竹島編入について、韓国側は「法的に不十分な手続きで、秘密裏に行われたもので非合法」とするが、当時の国際法から見ても、また先占の要件を満たしていることからも十分に合法であり、また「秘密裡」という表現は当時の告示と報道からしても当たらない。

・なお、判例においては「秘密裏に実効支配をすることはできない」とされており、特定の編入手続きではなくその実効性が争点となる。

〇通知義務

・実効性以外に通知の手続きを要するとの主張がなされることがあるが、パルマス、クリッパートンの判例において通知義務は否定され、通知義務を支持する国際法学者もごく少数である。

・1877年に陸軍や1882年に地理省[どれ?]が制作した『大日本全圖』には、二つの島は日本領から除かれている。

明治政府が竹島を島根県に編入直後まで
韓国の主張の概略 日本の主張の概略
1870年、日本の「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」の記述がある。この時日本人の呼ぶ「竹島」は鬱陵島で、「松島」は独島(現在の竹島)である。日本は独島を朝鮮領と認めている。当時の韓国地図は全て絵図であり、正確な距離などは記されなかった。
「大東輿地図」の鬱陵島(1861年)。鬱陵島の東に現在の竹嶼と比定できる「于山」と記された島が隣接している。

「朝鮮国交際始末内探書」の「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」は明治政府が朝鮮の古文献を調査した結果で、朝鮮の文献では于山島を松島としている。于山島は朝鮮の多くの古地図より鬱陵島の西や北そして次第に現在の竹嶼を描いているので、この松島は現在の竹島でないことは明白である。

「太政官指令」の添付地図「磯竹島略図」
1877年、日本は太政官指令により「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」としている。またその経緯を纏めた太政類典第二編にも「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」としている。「竹島」が鬱陵島で「外一島」が独島(現在の竹島)であることは「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添付された「磯竹島略図」や本文から明らかであり、日本はこの時独島を朝鮮領としている。
日本の太政官指令にある「竹島外一島」は当時島名がはっきりしなかった島である。江戸末期、当時の竹島(現在の鬱陵島)や松島(現在の竹島)の位置を誤って記録した経緯度入りのヨーロッパの地図が日本に入り、実在しない位置に描かれている島を「Takasima」、現在の鬱陵島を「Matsusima」、現在の竹島を「Liancourt Rocks」などとしていたため、明治初期の日本地図もこれに倣って作成されている。「竹島外一島」はこの実在しない位置の「竹島」と鬱陵島であり、これを版図外とした。

したがって本来の松島(現在の竹島)との誤解を避けるため松島の名称は使わず「竹島外一島」としている。

新撰朝鮮国全図(1894年、田中紹祥)[注 14]

1877年の陸軍、1882年の地理省、が制作した『大日本全圖』では、松島が日本領から除かれている。そして、1882年に日本が製作した『朝鮮国全図』や『新撰朝鮮国全図』にその二島を描いている。即ち日本が松島(現在の竹島)を島根県に編入する1905年以前、松島(現在の竹島)を朝鮮領としている。

 

『大日本国郡全図』「隠岐」(1875)
隠岐のほかに離島として竹島も描かれている。

『朝鮮国全図』の竹島は存在しないアルゴノート島のことで、この松島は鬱陵島のことである。当時の日本の地図は全て鬱陵島を松島としている。下部に描かれている日本の位置からもこの地図の松島は鬱陵島であり、大きさや形も鬱陵島に近く現在の竹島とは全く違う。この地図には経度も記入されておらず、緯度も大きくずれており、当時、竹島と松島の位置が混乱していたことがよく分かる。
また、の1875年に製作された『大日本国郡全図』では、「隠岐」の離島として竹島(鬱稜島)と松島(現在の竹島)を描いており、日本が松島(現在の竹島)を島根県に編入する1905年以前の明治期に、鬱稜島と現在の竹島を日本領とする地図が存在する。

「朝鮮語事典」(1938年、 朝鮮語事典編纂会)。一番右側に「トク[名詞]:トル(石)の訛。」と書かれている。
1900年に高宗より発せられた大韓帝国勅令で「石島を鬱陵郡に属す」としている。『高宗実録』1882年條によれば、それまで現在の竹島の名称であった「于山島」を高宗が一時的に日本式名称の「松島」に変更している。その後、移住政策によって全羅道の人々が鬱陵島に移住した。全羅道の人々は現在の竹島を「トクソム(石島)」と呼んだ。全羅道の方言ではトル(石)はトクに変るためだ。これが大韓帝国勅令第41号[2]の中の「石島」である。トクは同じ発音である「独」に置き換えられ、ソムも音読みである「ト」に変更し、トクト(独島)という名称が生まれた。すなわち、「石島」こそが独島(現在の竹島)である。日本側に勅令の石島は観音島ではないかとの主張があるが、観音島は、「観音島」以外にも「島項」、「カクセソム」という別名もあったため、不明確な石島という名称を使う必要はなかった。
鬱陵島北東端100メートルにあるのが観音島、東海岸より2キロメートル沖にあるのが竹嶼
大韓帝国勅令の石島が現在の竹島であるという証拠は存在せず、発音による名称の変化は想像に過ぎない。「石島」から「独島」に漢字表記が変更されたことを示す文書も発見されていない。大韓帝国勅令では「鬱陵全島と竹島石島」としており、この「竹島」が鬱陵島最大の付属島の竹嶼(韓国名の竹島)であり、朝鮮の古地図を見ても「石島」は2番目に大きい現在の観音島である可能性が高い。観音島は他にも別名があり名称が不確定であった。また、この勅令はあくまでも鬱島郡の行政範囲を示し、大韓帝国の官制・地方制に位置づけたものであり、領土編入のために発せられたものではなく、地図や経緯度も付されていない。
『大韓地誌』や『大韓新地志』の著者は民間の学者であり、官製図書ではない。そのため当時の公的な見解とはみなされない。さらにその後記から、これらの地理書は日本の地理書を翻訳した翻訳書であることが明確であるため、独島領有権とは無関係である。
『大韓地誌』(1899)
『大韓地誌』( 1899年)と『大韓新地志』(1907年)の記載には、「鬱島郡の行政地域は東経130度35分から45分までである」としている。竹島はその行政区の外131度55分にあり、当時の韓国は竹島を韓国領としていなかった。また『大韓地誌』の大韓帝国の領域は東経130度35分までと記しており、現在の竹島はもとより鬱稜島も大韓帝国領としていない。この頃の韓国の東端を示す資料は全て東経130度33分〜58分に入っており、現在の竹島を韓国領としていない。
1905年の時点で現在の竹島が無主地であったという日本側の主張は1905年以前は日本の領土ではなかったという意味でもあり、現在の日本政府の「竹島固有領土説」を自ら否定するという論理的矛盾に陥っている。1905年、独島(現在の竹島)は無主地ではなかった。日本がまだ独島を「リャンコ島」と外国名で呼んでいたころ、韓国は少なくとも1904年には「独島」という韓国固有の名称をもっていた。従って韓国側に領有権が認められる。日本は、「独島」という名称が1905年の竹島編入までに存在したことを日本に不利と判断し、敗戦以降、連合国側にひたすら「独島」という韓国側名称を隠し続けた。その証拠文書が残っている。 現在の竹島は江戸時代より長らく「松島」と呼ばれ、幕府の許可を得て日本人により利用されてきた。幕末に西洋から鬱陵島を「松島」、松島を「Liancourt Rocks」とした誤った近代的地図が入ってきたため幕末から明治初期にかけ一時的に「リャンコ島」などと呼ぶことがあった。明治政府は過去に一度たりとも朝鮮領であったことがないことを再確認し、無人島である松島を所有者のいない無主地として島根県へ編入した。1905年の時点で竹島が無主地であったとは、どの国籍の者も常住しておらず所有権を直接行使するものが存在していないという意味であり、韓国側の見解は曲解である。韓国が日本の「無主地先占」を論駁するには、それに先立ち竹島(独島)が韓国領であった事実を実証しなければならない。しかし、韓国側には、竹島の領有権を主張できる歴史的権原はない。
戦争のためには韓国のいかなる土地、施設も日本は接取できるという1904年2月の日韓議定書(第4条)以降、これを盾にとった日本軍による独島(現在の竹島)の侵略が始まった。日韓議定書によって法的に韓国全土を制圧される中で、独島は強制的に、そして秘密裏に日本に編入された。日露戦争中の1905年1月の日本による竹島編入は、日露戦争を口実にした日本の軍国主義による韓国侵略の象徴である。もし日本領であったなら編入する必要はなかった。 日本の竹島(現在の竹島)の編入は、中井養三郎の島の貸付願いによるものである。現在の竹島は日本が島根県に編入するまで他国に実効支配されたことがないことは当時入念に調査されており、1905年1月の竹島の編入手続きは、国際法に照らしても全く合法的である。韓国側の侵略との指摘は正当な手続きのはしごを故意に外そうとするもので、国際秩序への不毛な挑戦である。
1906年3月に韓国政府は独島(竹島)の島根県編入を知った後、独島を日本領というのは全くの事実無根であるという指令第3号を命令したが、1905年11月に締結された第二次日韓協約によって大韓帝国は外交権が事実上奪われていたため、日本軍が敗戦するまで直接的な抗議は難しかった。大韓帝国の高宗は1907年3月にオランダのハーグで行われた万国平和会議に密使を送って密書を公表しようとしたが、阻まれた。会場外で朗読された高宗の密書には「皇帝は一毛の主権も他国に譲与してはいない」という一文が入っており、これは独島のような小さな領土も日本に渡してはいないという高宗の強力な意思の表現であった。1943年のカイロ宣言では「日本が暴力および貪欲により略取した他の一切の地域」の日本からの排除を謳っている。 1905年11月の二次日韓協約が対象とするのはあくまで「第三国」との外交権であり、抗議そのものは十分に可能だったが、韓国は日本に対して全く抗議していない。また、竹島はカイロ宣言に記された「暴力および貪欲により略取した」地域にはあたらない。さらに、日本はカイロ宣言は受諾しておらず、連合国48か国とのあいだにサンフランシスコ平和条約を結んでいる。

(引用:Wikipedia)

4.6) 終戦後 サンフランシスコ平和条約締結までの竹島の扱い

〇 GHQ677・1033号覚書

・GHQ の「連合国軍最高司令官総司令部覚書」677号 (Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.677) 「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」では、日本の領土は北海道・本州・九州・四国およびその隣接する島々とされ、鬱陵島や済州島などを除外するとした。その除外される島のリストに彼らが Liancourt Rocks と呼んでいた竹島が含まれていた。 また、同1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」でも、日本漁船の活動可能領域(これを「マッカーサー・ライン」という)からも竹島は除外されている。韓国はこれらを根拠に、李承晩ラインを制定して日本漁船を排除する線を引き、ライン内部に立ち入った日本漁船に対して拿捕・銃撃を行ったとその正当性を主張している。

〇 シーボルド勧告

・1947年3月19日版のサンフランシスコ平和条約 草案では「日本は済州島、巨文島、鬱陵島、及び、竹島を放棄すること」と記載があったが、1949年11月14日のウィリアム・シーボルド駐日政治顧問による竹島再考勧告において、日本側の主張が正当であるとし竹島の記載は削除された。その次の草案では竹島は連合国の合意として再び日本が放棄する島々となったが、その後1951年の最終版まで、竹島を日本が放棄する島々より削除している。そして竹島は韓国領土条項から削除された。 

〇 ラスク書簡

・1951年、韓国政府は米国政府へ、竹島と波浪島(実在しない島)を日本の放棄領土とすることを要望するが、同年(昭和26年)8月10日、米国政府は、国務次官補ディーン・ラスクより、竹島は日本領であることを韓国政府に最終的な回答として提示した。しかし、翌1952年1月18日に韓国が李承晩ラインを宣言した。

・日本政府はこのラスク書簡によって「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示されたと解釈している。

 

As regards the island of Dokdo, otherwise known as Takeshima or Liancourt Rocks, this normally uninhabited rock formation was according to our information never treated as part of Korea and, since about 1905, has been under the jurisdiction of the Oki Islands Branch Office of Shimane Prefecture of Japan. The island does not appear ever before to have been claimed by Korea.

(独島、もしくは、竹島、または、リアンクール岩として知られている無人の島については、我々の情報によれば、かつて韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について韓国によりこれまで領土主張されたことはありません。)

—1951年8月10日アメリカ合衆国元国務次官補ディーン・ラスク(ラスク書簡抜粋)

 

〇 サンフランシスコ平和条約締結

・1951年に締結された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第2条(a)項において、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とあり竹島を日本の放棄する島から除外している。

韓国の主張の概略 日本の主張の概略
竹島を日本から切り離すことは連合国側共通の了解事項であり、1946年1月に出されたGHQのSCAPIN 677号で竹島の除外が明記されている。また1946年6月に出されたマッカーサー・ラインを示すSCAIN 1033では竹島周囲12海里以内を日本の操業区域から除外している。 1946年1月に出されたSCAPIN 677には「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」とあり、SCAPIN 1033にも「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文言が盛り込まれている。従って、SCAPIN 677、1033によって除外されていた日本の島々(小笠原諸島、奄美群島、琉球諸島)は、後にアメリカより返還されている。SCAINはアメリカの対日占領政策の一時的措置である。
SCAPIN 677 にある「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」との文や、SCAPIN 1033の「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文は、必要あれば修正することができる可能性を残したものに過ぎず、その後、竹島を日本領と修正した指令は発表されていない。

この規定は最終決定ではないとされるが、サンフランシスコ条約はこの決定を継承した。継承しなかったならば、竹島は日本領になったという明記が必要であった。

1946年の日本とGHQとの会談の中で、GHQはSCAPIN 677について「鬱陵島は第二十四軍団の指揮下に在り従って本指令に依る日本の範囲の決定は何等領土問題とは関連を有せす之は他日講和会議にて決定さるへき問題なり」と回答している。
アメリカ駐日政治顧問シーボルドは当時占領国であった日本には正式な大使を置けないために政治顧問という肩書であったが、事実上その後の駐日米国大使の役割を担った。当時の吉田茂内閣は、このシーボルドに対して徹底的なロビー工作を行ったとされる。シーボルドの妻が日系人であったことが、彼に対する日本政府のロビーをより促進させる要素にもなったという。シーボルドは日本側のロビー活動により、さらに竹島が日本領土となればそこに日本がレーダー基地や気象観測基地を米国のために建てるという約束を受け入れ、竹島を日本領にすることが米国の国益に一致するという点で日本政府の要求を受け入れた。シーボルドが竹島を日本領土とすべしという電報を米国国務省に送ったのは、外交交渉から韓国が除外されていた間に起きた日米間の密約に過ぎない。また、これが竹島が日本領となったという決定的な証拠にはならない。なぜなら韓国には3000以上の小島が存在するが、そのすべてが韓国領土条項には記載されなかったからである。英国が1951年4月に作成した草案には竹島が日本の領土から明確に除外されている。連合国の中で当時一時的に竹島を日本領と主張したのは米国だけであり、英国、オーストリア、ニュージーランドなどの英連邦諸国は、竹島を韓国領とする英国草案を支持していた。 アメリカ駐日政治顧問シーボルドからバターワース国務次官補への1949年11月14日付電報[55]で「リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない」と指摘し、「朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることを提案する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖合の島というのは困難である。また、アメリカの利害に関係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に気象およびレーダー局を設置することが考えられるかもしれない」との正式な文書による意見書の提出を受け、1949年12月29日付サンフランシスコ講和条約草案では日本の領土に竹島が含まれることを明記している。
1951年6月20日には駐韓米軍ジョン・B・コウルター中将が書信を通じて大韓民国の張勉国務総理に米空軍がこの島を訓練用で使えるようにしてくれと要請した。7月7日駐韓米第8軍陸軍副司令官室が駐韓米司令官に送った報告書に“張勉総理だけでなくこの島を管轄する内務長官もこれを承認した”と言及している。これは米国が竹島=独島を韓国領と認めていた証拠である。 駐韓米軍の要請は、当時竹島周辺はマッカーサー・ラインにより日本の施政権から一時的に外されていたので、ここに入ってくる韓国人に対し排除を要請したに過ぎない。1952年4月のサンフランシスコ平和条約発効によりマッカーサーラインは廃止、1952年7月には日米安保条約に基づく行政協定において竹島を爆撃演習地とすることが日米間で合意されている。
米国国務省のディーン・ラスク次官補が、1951年8月10日付で在米韓国大使館宛に送った書簡は、連合国の承認を受けていない米国のみの見解である。従って、この書簡は連合国の決定とは見なせず、サンフランシスコ条約の結論とは見做せない。 1951年、韓国政府は米国政府へ、竹島と波浪島(実在しない島)を日本が放棄する領土とすることを要望するが、同年8月10日、米国政府の国務次官補 ディーン・ラスクは、竹島は日本領であることを韓国政府に最終的な回答として提示している。
1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しているが、その他の付属島ついてまでは述べられていない。竹島(独島)は古来より鬱陵島の属島であるので、連合国は韓国領であることを認めている。 サンフランシスコ平和条約において、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しており、「竹島」を日本が放棄する地域に含めていない。

4.7)サンフランシスコ平和条約締結後

竹島問題外交交渉史 」も参照

 

 

竹島(島根県隠岐郡隠岐の島町)。 左が女島(東島)、右が男島(西島)(引用:Wikipedia)

 

〇 ラスク書簡の再通知

・サンフランシスコ平和条約後、日米安保条約に基づく行政協定において1952年7月に竹島を爆撃演習地とすることが日米間で合意されたが、日米に無断で竹島へ調査をしていた韓国人が爆撃に遭遇し韓国政府がアメリカに抗議を行った。韓国の抗議書簡において「韓国領の独島」とされていたことに対して、1952年12月4日に釜山のアメリカ大使館は「アメリカの竹島の地位に関する認識はラスク書簡の通りである」と韓国外交部に再度通知を行った。

・しかし、1955年に韓国外交部が作成した「獨島問題概論」では、このラスク書簡に触れた部分を「etc.」で省略したアメリカ大使館の書簡を掲載したことが確認されている。また、韓国の国際法学者である金明基(朝鮮語: 김명기)は、この韓国政府によって隠滅されたアメリカ大使館の書簡によってアメリカの意思が「獨島は韓国の領土」と変更されたものとし、ラスク書簡が無効との論拠としている。  

〇 ターナー覚書

・ 東京領事ウィリアム・ターナーは、1953年11月30日付けで「リアンクール論争に関するメモランダム」を本省に提出した。ターナーはこの覚書でまず、ポツダム宣言ラスク書簡をもとに竹島問題に米国が不可避的にかかわるべき、というジョン・アリソン大使の態度に反対し、この問題に介入すれば「敗者側に永遠の憤りをもたらすだけにおわる干渉」(which could only create lasting resentment on the part of the loser) となるので、不介入で中立政策を採るアメリカ政府の立場を支持する。

・ターナーによればこの件は、ソ連が占領した色丹島問題と似ている。アメリカは「色丹島が日本の主権に属する」と公式に声明したが、日本はアメリカに対して安保条約に基づく武力行使を要請してこなかった。したがって竹島問題についても、日本人が安保条約を呼び出すのではないかと過度に不安になる必要はない。

・ただし、「遅かれ早かれ、日本人はラスク書簡について嗅ぎ付け (Sooner or later the Japanese will get wind of the Rusk letter)」、我々がそれを知らさなかったことに憤慨するであろうから、ここで手を打っておいたほうがいい、として以下の行動を提案する。

・それは韓国側にラスク書簡を示し、それが受け入れられないならば日本と和解するか、国際司法裁判所で解決することを勧める。そして衝突がこれ以上続くならば、ラスク書簡を公にしたうえで、この件の仲介から手を引く、というものである。

〇 ヴァン・フリート特命報告書

 詳細は「ヴァン・フリート特命報告書(※)を参照 

・1954年、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー第34代大統領特命大使としてアジア(韓国、日本、中華民国(台湾)、フィリピン)を訪問(極東使節団)したジェームズ・ヴァン・フリートの特命報告書(機密文書 1986年機密解除)の内容には、戦術的見地からの極東アジアにおけるアメリカ合衆国の取るべき選択肢を詳細に記載しており、朝鮮戦争が休戦した直後の韓国と周辺国(台湾、日本、フィリピン)を中心とした分析が報告されている。その中で、「竹島が日本の領土であること、アメリカの紛争への不介入、国際司法裁判所への付託提案」について書かれ、非公式に韓国政府へ伝達したことが報告されており、竹島を日本領とするシーボルド勧告を追認している。

 

※ 特命報告書の内容

1 要旨

・李承晩ラインや竹島の領有権に関してサンフランシスコ講和条約後の同条約に対する米国政府見解としてラスク書簡を踏まえた以下の点が確認される。

①一方的な海洋主権宣言(李承晩ライン)は違法である。

②米国政府はサンフランシスコ講和条約において竹島は日本領土であると結論している。米国は大韓民国に、米国の独島に関する立場を秘密裡に伝達したが、米国の見解は公表されていない。

③この領土問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれる。

2 時代背景と両政府のやりとり

 下記のような時代背景のなか、ヴァン・フリート特命報告書は書かれた。

・1950年6月25日:朝鮮戦争勃発。

・1951年8月10日(外交文書):当時の米国国務次官補ディーン・ラスクより、サンフランシスコ 条約の韓国関連内容に関する回答を韓国政府に提示する(ラスク書簡参照)

・1952年1月18日:韓国が李承晩ラインを宣言する。

・1952年4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)が発効される。

・1953年7月27日:朝鮮戦争停戦。韓国大統領は停戦内容を不服として調印式に出席せず。

・1954年8月15日:朝鮮戦争を指揮したヴァン・フリートがアイゼンハワー第34代米大統領

 の特命大使として韓国、日本、台湾、フィリピンを訪問し機密文書ヴァン・フリート特命 報告書を作成

・1954年9月25日 日本政府は領有問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案するも、韓国政府はこれに応じず。

・1960年4月27日 李承晩政権失脚時に当時の駐日アメリカ合衆国大使マッカーサーが本国 国務省に機密電文3470号で、「友好的な日韓関係の構築には武力で不法占拠された竹島を日本に返還させることが不可欠。最低限、国際司法裁判所へ付託することを主張すべき」と強く進言。ヴァン・フリート特命報告書の立場が再度確認される。

3 李承晩ライン

・一方的な領海宣言(李承晩ライン)は違法である。

・いわゆる韓国政府の平和線としての主張に、

 A. 韓国沿岸水域の貴重な海洋資源の保護

 B. 漁業資源の韓国と日本におけるの将来の摩擦の排除

 C. 共産党員の浸透に対する海域での防御

を記載している。特に C に見られるような当時の韓国政府の主張には時代背景と努力を感じるが、結論として

合衆国政府は一貫して、海洋主権に関する一方的な宣言が違法であり、日韓間の漁業に

 する紛争が 両国の権益を保護する漁業協定によって解決されるべきとの立場である。」

と記載している。

 サンフランシスコ条約における竹島の帰属と米国の立位置

・米国政府はサンフランシスコ条約において竹島は日本領土であると結論している。しかしながら、米国は紛争へは不介入の立場をとっており、国際司法裁判所に付託されるべきであると述べている。

 When the Treaty of Peace with Japan was being drafted, the Republic of Korea asserted its claims to Dokto but the United States concluded that they remained under Japanese sovereignty and the Island was not included among the Islands that Japan released from its ownership under the Peace Treaty. The Republic of Korea has been confidentially informed of the United States position regarding the islands but our position has not been made public. Though the United States considers that the islands are Japanese territory, we have declined to interfere in the dispute. Our position has been that the dispute might properly be referred to the International Court of Justice and this suggestion has been informally conveyed to the Republic of Korea.

 (日本との平和条約が起草されていたとき、韓国は独島の領有を主張したが、米国は同島は日本の主権下に残り、日本が放棄する島の中に含まれないと結論づけた。米国は内密に韓国に対し、同島は日本領だとする米国の見解を通知しているが、米国の見解はまだ公表されていない。米国は同島が日本の領土であると考えているが、紛争に干渉することは拒んでいる。我々の立場は紛争が適切に国際司法裁判所に付託されることであり、非公式に韓国に伝達している。)—1954年(ヴァン・フリート特命報告書 抜粋)

5  竹島の領土問題

・この報告書に、

「紛争を国際司法裁判所に適切に付託すべきであるという我々の意向は非公式に韓国に伝えられた。」

と記載されている。

・また、この報告書には韓国側の意見が記載されている

「一層悪いことは、日本が、ダジュレー島として知られる鬱陵島の近くにある小さな島である、リアンクールロックとして知られる獨島の領有を未だに主張することである。

 日本の公職者は武装を備えた船舶に乗ってたびたび島を訪れ、周辺の漁民を悩ましている。彼らは島の至る所に、獨島が日本の領土であるかのように記した標識を設置している。

 我々の歴史と知見は、海洋主権宣言(李ライン)の瞬間にまさに帰結している。 韓国の獨島の主権は決して他国に争われたことなく、獨島が歴史的と同時に法的に鬱陵島(ダジュレー島)の一部として韓国領土であるという事実を長期に渡り確固たるものとして確立したのである」

〇 マッカーサー2世による電報

「国務省機密電文3470号」(※)も参照

・8年間続いた韓国の李承晩体制が終焉を迎えた1960年、次の政権に移行するときに当時駐日アメリカ合衆国大使であったダグラス・マッカーサー2世が、本国国務省に向けて日韓関係改善のために米国が行うべき行為を機密電文で提言している。

・この電報には、明確に「日本の領土である竹島」を日本に返還させるよう韓国政府に圧力を加えるべきである、と記載されており、1960年当時でさえ米国はラスク書簡当時と変わらぬ認識であったことが確認できる。

・同時に、李承晩の外交を「野蛮な人質外交」と非難し、(李承晩ラインによる拿捕によって)人質となった日本人漁民を解放させるように圧力をかけるべき、とも記されている。

・また、(李承晩後の)新体制になっても姿勢が変わらない場合は、最低限、この件を国際司法裁判所に付託し、仲裁を求めることに合意するよう主張すべきである、という提言も付されている。

●要旨

①韓国に違法に拿捕された日本人漁師の人質を全員解放させること。

②日本の漁船を公海上で拿捕する行為をやめさせること。

③韓国に人質外交 (hostage diplomacy) をやめさせること。

④不法占拠された竹島を日本に返還させること。

⑤竹島が日本に返還されるまで、日韓全体の和平が決着することはない。

 

米国国務省機密電文3470号

(元駐日アメリカ合衆国大使ダグラス・マッカーサー2世)訳者:トニー・マラーノ

〔1960年4月27日付け駐日米国大使マッカーサーより本国国務省向け機密電文。〕

原典:アメリカ国立公文書館 (NARA) のRG84, Embassy Japan, file:350 Korea, 1959-1961 Classified General Correspondenceに収録の公文書

訳文底本:http://texas-daddy.com/DouglasMacArthur-Telegram.pdf(テキサス親父日本事務局「竹島が日本の領土であると言うマッカーサーからの電報」)

◆1ページ

Date: April 27, 1960 3pm 国務省3470優先文書 ソウル大使館職員351

パーソンズ次官補へ マッカーサーより マッコーニー・ソウル大使

・我々には韓国に新しく民主主義体制の見込みがある今、できるだけ早く、我々が韓国と日本の紛争に恒久的解決をもたらそうとする機会をつかむよう、私は強く進言する。

・李承晩が権力の座に居る限りは、解決の糸口がほとんど無いように見えたが、現在、我々には韓国と日本の論争の精算につながる全く新しい状況がある。
・韓国と日本の関係は、単に日本と韓国と政府と言うような側面ばかりでは無くアメリカと我々の北東アジアにおける責任に深く直接的に関わっている。
・実際問題として、合理的な解決策が見いだせるとすれば、韓国、日本政府と我々が緊密に協調する事が不可欠である。
・最大限に重要な事は、明確な韓国政府の日本問題の早期解決のために基本的な和解の進展を妨げ、悩ましている鬱積した問題を特定し素早く物事が運ぶように準備する事である。
◆2ページ

・我々は共産主義者達が新しい韓国の体制にどんな反応を示すかわからないが、我々ができるだけ早く韓国と日本政府を適切な状態に整えようとすることは不可欠である。

・李承晩政権が韓国人に対し権威主義的な警察支配において民主主義の基本心情を冒涜し、国際的な品行や道徳等の基本原理を犯し李承晩ライン周辺の韓国領域外の公海上でも実力行使で海賊行為を働き日本人の漁民達を政治的人質として投獄し韓国領域外の領域を力ずくでつかんでいた。

・野蛮な人質外交の実行は共産主義シナに対する我々の由々しき非難の一つで、そして、韓国によって継続されるならば、それは新しい韓国の民主主義体制の大きな責任となり得る。

・韓国で新しい体制が整い次第、我々の影響力を行使して、これらのことを説得することを進言する。

(それが暫定的な性格であろうが)(1) 李承晩の残酷で野蛮な弾圧行為を受け苦しんだ全ての日本人全員の人質を解放し (まだ刑が確定していない人質も含む) (2) 日本の漁船を公海上で拿捕する習慣をやめさせる事。

・これは韓国の新しい体制から人質外交をやめさせるだけではなく本当の意味での実りのある日本との外交関係の基盤作りが何よりも重要である。

◆3ページ

・同時に私は全ての漁民を本国送還と引き替えに岸総理と日本国政府に対し、韓国と日本の間で、機会を得て理にかなった交渉が行われ、お互いに合意を得て漁業協定が結ばれるまでの間、韓国の海峡での漁業を自粛するように強く要請する用意がある。

・公海上での日本の漁船の拿捕と人質外交の上に李承晩体制下では、常に日本の領土とされてきている竹島を力ずくで占拠している。

・これは日韓関係の非常に重要で永久の悩みの種で、この島が日本に返還されるまで、日韓全体の和平が決着することが無い。

・それ故、我々は、新しい韓国の政権に竹島を日本に返還するよう圧力をかけなければならない。

・日韓包括交渉の満足な集結をさせる気がないならば、新しい体制は少なくとも竹島から速やかに手を引き問題を双方満足な形で解決する一部としての意欲の表明をしなければならない。

◆4ページ

・我々が竹島を日本に返還するように強く圧力をかけている間、万が一、新しい体制がそうする気が無ければ、最低限、我々はこの件を国際司法裁判所に付託し仲裁を求める事に合意するよう主張すべきである。

・最後に、我々は新しい体制に対して、外交使節団、ビジネスマンとジャーナリストによる訪問、商業的な取引のような事において、相互主義の条件に関して日本との関係を調節する準備をしなければならない事を、特に明らかに知らせなければならない。

・日本人は8年間、李承晩の占領主義の手法で苦しんで、彼の後継者からそのような擁護できない扱いを受け入れる気は無い。

・それ自身の利益において、新しい体制は通常の国際行為規範に準拠した行いから始めなければならず、最も有効な始動は、 (日本や他の自由主義の世界世論に照らし) 韓国大使館がここ(日本)で運営するのと同じ条件で、日本外交使節団を受け入れ韓国で機能することを承諾させる事から始める事である。

・もし我々が今、迅速に動くならば、韓国の新体制は我々の有益性を鑑み、一般的に見れば我々の見解を受け入れるであろうから、我々には初期の時点にて、日韓問題に影響を及ぼす事ができる立場、二度と無いであろう好機があるであろう。

・日本は間違いなく新しい韓国の体制の日本への新しい見方を暖かく迎え全面的にそれに報いるであろう。

 ダグラス・マッカーサー  機密扱いが解かれるまでは複製を禁じる。 

 

  国際法上における主権移転

・国際法上、一時的な占領は主権の移転を意味せず、たとえ占領等により主権が著しく毀損されていたとしても元の保有国の同意がなければ、主権の移転は発生しない。

・主権の移転には、戦後の処置に関して連合国が竹島の放棄を日本に要求すると共に、日本が竹島の権原や主権の放棄に同意することが重要となる。 

韓国の主張の概略 日本の主張の概略
1952年10月、駐韓米国大使館は独島(竹島)は韓国領土であるという声明を行った。これは当時の国際法から見て、独島が韓国領であり、4月にすでに発効していたサンフランシスコ条約においても独島は韓国領という解釈がされていたことを物語っている。その後、駐韓米国大使館は米国務省の秘密文書で、竹島が日本領であるとするラスク書簡の存在を初めて知ることとなる。これはラスク書簡が米国務省の秘密文書であり、国際的に承認されておらず無効であったことを証明している。その後、戦略的に米国は独島が日本領と主張するが、独島を爆撃演習場から除外してほしいという韓国政府の要請には、日本の意見を聞かずにそれを受け入れている。この事件で、米国は「独島が日本領土というのはラスクの歴史認識が問題であったのであり、今はその主張はすでに意味がない」という秘密文書を残している。その後、在韓米国大使館は、現在まで竹島・独島問題に対して立場を明確にすることを回避している。韓国内の米軍基地内では、竹島・独島問題に関して言及することが原則的に禁止されている。1954年のヴァン・フリート特命報告書なども米国のみの見解である。拘束力は全くない。 韓国政府はサンフランシスコ平和条約後もアメリカ合衆国に対し「竹島が日本により放棄された領土である」と認めるよう要望書を提出するが、1952年11月5日、米国務省は駐韓米国大使に宛てた書簡において、SCAPIN 677に関する韓国の主張に触れ「SCAPINは日本の施政を停止したものであり、永久的な日本の主権行使を排除したものではない」と回答している。

1952年11月27日の駐韓米国大使館通牒では、アメリカ合衆国はラスク書簡に基づき韓国の要望を拒否している。

また1954年のヴァン・フリート特命報告書ではサンフランシスコ平和条約に基づき竹島は日本領としているほか、この問題を国際司法裁判所によって解決するよう促している。

1960年の駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世による「日本の領土である竹島を日本に返還させる」といった主張(機密電文3470号)は、駐日大使の日本側に立った主張にすぎず、竹島問題においてなんら日本側に竹島領有の法的根拠を与えない。 駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、「日本の領土である竹島」を日本に返還させるよう韓国政府に圧力を加えるべきであるとしているほか、李承晩の日本漁船の大量拿捕を「野蛮な人質外交」と非難している。また国際司法裁判所への付託も提言している。(機密電文3470号を参照)
紛争を国際司法裁判所に付託するという日本政府の提案は、司法的な仮装で虚偽の主張をするまた一つの企てに過ぎない。韓国は、独島(現在の竹島)に対して始めから領土権を持っており、この権利に対する確認を国際司法裁判所に求めなければならない理由は認められない。独島にはいかなる紛争も存在しないのに擬似領土紛争を作り上げ、独島問題を国際司法裁判所に是が非でも引きずっていこうというのは、まさに日本の独島侵奪戦略に過ぎない。国際司法裁判所への付託拒否は韓国の国際法的権利である。 日本政府も国際司法裁判所による解決を韓国側に幾度も提案してきたが、韓国側は国際司法裁判所への付託を拒否し続けているばかりか、提案の親書さえ受け取らない。韓国は国際法上何ら根拠がないまま竹島を不法に軍事占拠しており、韓国のこのような不法占拠によって行ういかなる行為も法的な正当性を有しない。

 

5)アメリカ合衆国の立場

ラスク書簡ヴァン・フリート特命報告書などで示されている通り、アメリカは一貫して竹島は日本領であるとの立場を示している。しかしながら、米国は韓国も日本も同盟国であるため、この問題は国際司法裁判所での裁定や話し合いによって解決されるべきという立場であり、この問題に対する見解を表明することには消極的である。

・国務省の外交公電によると、2006年4月にはジョン・シーファー駐日大使が谷内正太郎外務事務次官と面談した際に竹島問題について言及し、日本を「国際法の許容範囲内で権利行使をしている」と擁護した。また韓国を「非理性的に行動している」と非難した。 

        

         ジョン・シーファー駐日大使        谷地正太郎外務事務次官

(引用:Wikipedia)

・2011年の日韓での竹島問題の再燃に際して、米国務省は8月2日、両国に自制を促し、 米国務省トナー報道官は「リアンクール岩礁の主権について私たちは(特別な)立場を持っていない」ともした。

・2014年米国国務省領事局は、韓国旅行情報ページからは竹島を消し去り、日本領土との姿勢を示した。同時に日本海についても韓国の主張する「東海」標記から「日本海」と改めた。

・2015年は、米中央情報局(CIA)が作成する「ザ・ワールド・ファクトブック」は竹島をリアンクール岩礁の名称で、日本の地図に「1954年に韓国に占領されたリアンクール岩礁に対して韓国と日本が領有権を主張している」の説明と共に表記している。(韓国の地図には、「独島」および「リアンクール岩礁」の表記はない。) 

・米国地名委員会のウェブサイトの地名データベースでの登録情報では、Liancourt Rocksは「Geopolitical Entity Name」「First-Order Administrative Division Name」の項目が「South Korea」となっている。 

 

6)中国の立場

 2010年4月15日、中国新聞社は「日本は済州島、巨文島、鬱陵島とを含む朝鮮の一切を放棄した」とのサンフランシスコ条約における日本の放棄領を記した条文を紹介したうえで、武正副外務大臣の「同条約は日本が放棄する領土を定めているが、竹島は含まれていない」と指摘を掲載。

 条約締結時に韓国が条約中の日本の放棄領土に竹島を含めるよう要求したが、米国の拒絶で断念した経緯も説明した。中国メディアではそれまで、「独島(日本名は竹島)」と竹島を表記していたが、同記事中では「竹島」とのみ表記している。

 また、2010年に中国新聞網が「在米韓国人によってニューヨークのタイムズ・スクエアで「独島は韓国の領土」との広告放映について報じたところ、中国ネット上で、「竹島は日本の領土だ。だが、釣魚島(尖閣諸島)は中国の領土だ」、「韓国人はいっそのこと、宇宙全体が韓国人のものだと広告を出すべきでは?」、「世界全体が韓国の領土なのに、独島が何だと言うのだ」などと皮肉を交えたコメントが寄せられたという。

 

7)平和的解決への模索

 竹島領有権問題に関して、これまで日本政府は4度、国際司法裁判所 (ICJ) への付託を韓国側に提案してきたが、いずれも韓国は拒否し続けている。

・日本政府は1954年9月25日に韓国に対し ICJ への付託を提案したが、韓国は拒否。

・1962年3月に行われた日韓外相会談の際にも、小坂善太郎 外務大臣が ICJ 付託を提案した

 が、韓国は拒否した。

・1962年11月に訪日した金鍾泌中央情報部長に対して、大平正芳外相が竹島問題を ICJ に

 委ねることを提案したが、これも韓国側から拒否された。

 (この時までの韓国は国連に加盟していなかったが、加盟していない国でも国際司法裁判所に付託することは

 可能であった。)

・2012年8月21日、韓国の李明博大統領が竹島に上陸したことから、日本はこれに反発して

 韓国に対し ICJ に合意付託すること及び日韓紛争解決交換公文に基づく調停を行う提案を

 したが、同月30日、韓国政府より応じない旨を口上書で日本政府に回答した。

 国際司法裁判所(ICJ)への付託は、義務的管轄権がない紛争の当事国が拒否すれば裁判を行うことができない。韓国はこの義務的管轄権を受諾しておらず、韓国政府が付託に同意しない限り竹島領有権紛争を ICJ で解決することはできない。しかし、裁判の手続きはできなくとも付託は当事国の一方のみでも可能であることから、この問題を世界に提起する意味で日本だけでも付託すべきだという考えもある。(現在まで日本は付託を一度も行っていない) これまでに領土問題を ICJ で解決した事例は世界で16件に上るため、日本政府は韓国に対し竹島の一方的な占拠をやめてICJによる平和的解決をするよう要望している。(国際司法裁判所で解決した領土紛争を参照)

 日本による国際司法裁判所への最初の付託提案を、韓国側は1954年10月28日の公文で、以下のようにと述べている。

  紛争を国際司法裁判所に付託するという日本政府の提案は、司法的な仮装で虚偽の主張をするまた一つの企てに過ぎない。韓国は、独島に対して始めから領土権を持っており、この権利に対する確認を国際司法裁判所に求めなければならない理由は認められない。いかなる紛争もありえないのに擬似領土紛争を作り上げるのは、まさに日本である。

・しかしながら、紛争の存否は、客観的判定または当事者間の合意によって決定されるのであり、紛争当事国の一方が「存在しない」と言えば紛争が無くなるわけではない。ICJ 判決でも国際領土紛争の存否は客観的に判断されるべきことが確認されている。 


(追記:2020.10.16/修正:2020.10.23/修正:2020.11.4)/追加2020.11.24  最終更新:2021.4.7