トップ  継体天皇ゆかりの史跡めぐり

①父方の里 ②母方の里 ③潜龍の地 ④治水伝説 ⑤使者謁見の地 

⑥皇居の変遷 継体天皇⑦磐井の乱 ⑧2つの古墳 ⑨図書紹介  関連系図


継体天皇⑤使者謁見の地


1 継体天皇即位の経緯

(1)即位の経緯 (2)使者謁見の地・てんのう堂 (3)継体天皇は平穏に迎えられたか

2 継体天皇出身地ゆかりの史跡

(1)横山神社 (2)横山古墳群


1 継体天皇即位の経緯


 507年の即位前に、大和朝廷の使者が、男大迹王を天皇として大和に迎えるために訪れたところが「てんのう堂」(福井県坂井市丸岡町女形谷)との伝承が残っており、また、この周辺にある継体天皇を祀った横山神社横山古墳群の古墳の状況から、継体天皇が即位される前は、この周辺に勢力を張っておられたと推測されます。


(1)即位の経緯


(引用:『日本書紀』(直木孝次郎ら、小学館))

1)継体天皇の出自

 男大迹天皇(継体天皇)彦主人王の御子である。母は振媛と申しあげる。振媛は垂仁天皇の七世の御孫であります。彦主人王は振暖の容貌が端麗でたいそう美しいと聞いて、近江国の高島郡の三尾から使者を遣わし、越前の三国の坂中井(今の福井県坂井郡丸岡町)より妃としてお迎えして召し入れ、天皇をお生みになった。

 

   ところが、男大迹王が幼少の頃に父王(彦主人王)が亡くなられた。振暖は嘆いて、「私は今、遠く故郷を離れている。これではとても親に孝行を尽すことができません。私は高向(福井県坂井市丸岡町)に帰り我が子を育てたい」と言った。天皇は成人されて、人を愛し賢者を敬い、御心は広く豊かであられた。 

 

2)倭彦王擁立の不成功 

 天皇が御年57歳の時、8年冬12月8日に武烈天皇がおかくれになった。もともと男子も女子もなく、後嗣は絶えてしまうところだった。

 

 12月21日に、大伴金村大連は諮(はか)って「今まさに、天皇の後嗣が絶えてしまった。天下の人々はどこに心をよせればよいのか。古くから今まで,禍は継体天皇は平穏に迎えられたかこういうところから起こっている。今、仲哀天皇の五世の孫の倭彦王が、丹波国の桑田郡におられる。兵士を遣わして、みこしをお守りして倭彦王をお迎えし君主に立て奉りたいと思う」と言った。大臣・大連たちは一同皆がこれに従い計画どおりお迎え申することになった。さて倭彦王は、その軍兵を遠くから望み見て顔色を失い、山谷にかくれてしまい行方が分からなくなってしまった。 

 

3)男大迹王の擁立

 そこで、元年春正月の1月4日に、大伴金村大連はまた諮って「男大迹王は情け深く親孝行でいらっしゃる。天皇の位を継承なさるにふさわしい方である。なんとかして、鄭重にお勧め申して皇統を興隆させたい」と言った。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣たちはみな「御皇孫たちの中から熟慮すると、賢者は男大迹王ただ一人である」と言った。 

 

4)使者謁見

 六日に臣・連らを遣わして節旗を掲げ御輿を準備して三国にお迎えに行った。兵備を整え粛然として往来の人を止め、にわかに到着した。その時、男大迹王は落ち着きはらって胡床に座っておられた。整然とした家来を従えて、すでに帝王の風格を漂わせられていた。節旗を掲げた使者らは、これを見て尊敬の念で命をかけて忠誠を尽したいと願った。 

 

5)河内馬飼首荒籠の助言

 しかし、天皇は内心なおもお疑いを抱かれて直ぐにはお受けにならなかった。たまたまご存じであった河内馬飼首荒籠が、ひそかに使者をお送りして、大臣・大連たちが男大迹王を天皇としてお迎えしようとしている本意を詳しくご説明申しあげた。二、三日の後、出発なさることになり、嘆息して、「よかった、馬飼首よ。お前が使者を送って知らせてくれなかったならば、天下に笑われるところだった。世間の人が『貴賤にこだわるな。ただその心だけを重んぜよ』というのは荒籠のような者を言うのだろう」と仰せられ、即位されてからは荒籠を厚遇された。 

 

6)樟葉の宮にて即位

 24日に天皇は樟葉の宮に到着された。

 2月4日、大伴金村大連は跪いて天子の鏡・剣の璽符を奉って再拝した。男大迹天皇は辞退して「民を我が子のようにして国を治めることは重大な仕事である。私には天使としての才能がなくふさわしくない。どうか考え直して他に賢者を選んで欲しい。」と仰せられた。

 

 大伴大連は地に伏してかたくなにお願い申し上げた。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲なされた。

 

 大伴大連たちはみな、「私どもが考えますには、男大迹天皇こそ、民を我が子のように国をお治めになるのに、最適の方です。私どもは国家のための計画を決して軽々しくはいたしません。どうか私達の願いをお聞き入れご承諾ください」と申しあげた。

 

 男大迹天皇は、「大臣・大連・将軍・大夫・諸臣がみな私を推すのであれば断るわけにはいくまい」と仰せられ、璽符(みしるし)をお受けになった。この日に天皇の位に即かれた。

 

 大伴金村大連を大連とし、許勢男人大臣を大臣とし、物部麁鹿火大連を大連としてそれぞれの位に任じられた。


(2)使者謁見の地・てんのう堂


(福井県HP)

 『日本書紀』は507年に大伴金村大連らが男大迹王を天皇として大和に迎えるため兵備を整えて越前に赴いた時の状況を事細かく伝えています。この丸岡町指定文化財の「てんのう堂」は文献的・考古学的な確証があるわけではないが地元では古くから、大伴金村らが継体天皇に拝謁した所として、周囲は水田であるがここだけは田地にせず永年にわたり特別に保存してきた所です。

 

 付近は女形谷・長畝遺跡おながたにのうねいせき)が位置し1999・2000年の県道改良工事に伴う発掘調査で弥生時代後期~古墳時代前期の土師器、古墳時代終末~飛鳥時代の須恵器・土師器が出土し、堀立柱建物3棟が確認されている。建物の1棟は弥生時代終末~古墳時代初頭の物である。(『第20回福井県発掘調査報告会資料』より)

 

〇 以下引用:福井県史

 /第7章若越の文学と仏教/第2節古代の寺院/二越前の初期寺院/てんのう堂遺跡

 福井県坂井郡丸岡町山久保の田圃のなかには、継体天皇がこの地で大伴金村らに逢い天皇即位を決意したと伝承される「てんのう堂」という一画がある。坂井平野の東側山裾に位置し、広範囲を見渡せる絶好の位置にある。また、近くを竹田川が流れ、北側には二三三基の古墳が密集する横山古墳群が所在する。

 

写真127 てんのう堂遺跡付近

写真127 てんのう堂遺跡付近(引用:福井県史HP)

 

 この一画は盛土された基壇状を呈しており、周辺からは瓦片が採集されるなど、明らかに寺院の基壇跡と推定できる遺構である。ただし、これが塔跡か、あるいは金堂跡であるかの区別はつかない。また、土壇以外に礎石などの存在はみられないが、採集された布目瓦の製作年代は白鳳期に比定されており、この遺構が初期寺院であったことは十分考えられよう。近くに大規模な群集墳もあって、五~六世紀代に強力な勢力を誇った氏族集団の存在が認められ、この地域を本貫としてそのまま寺院建築へ移行したとしても不自然ではない。

 

 もっとも、この地域の有力氏族が誰であったのかは確認できないが、継体天皇にまつわる伝説も残されており、天皇擁立に活躍した三国公一族の存在を無視できないであろう。この地域は古代の長畝郷に属しており、三国公とのかかわりでは天平神護二年(766)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)に、「長畝郷戸主三国真人三吉口分」とあるのが注目される。ちなみに、これ以前の天平三年(729)二月二十六日付「越前国大税帳」(公二)には坂井郡郡司として「大領外正八位下三国真人、少領外正八位下勲十二等海直大食」が記されている。


(3)継体天皇は平穏に迎えられたか


(引用:福井県史HP

1)即位の経緯

 『日本書紀』によれば、倭彦王の逃亡後、ふたたび群臣会議が開かれ、大伴金村の主張がとおり、そこで盛大な迎えの軍勢が三国に至った。オホトは胡床に腰をかけ、泰然自若として迎えの人びとを引見した。「すでに帝の坐ますが如し」と『日本書紀』の編者は、その堂々たる態度を讃えている。二日三晩、使者たちを待たせて熟慮のすえ、ついに河内馬飼首荒篭の情報を聞いて、初めて承諾の決断を下し、507年1月、河内の樟葉(大阪府枚方市)におもむき、翌月大王位についたという。 

 

2)即位の条件

 そこで『古事記』武烈天皇段の記述を再掲しておこう。

 天皇既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき。

 

  ここに「故」からあとは、主語のない文章である。「袁本杼命を上りまさしめ、天の下を授け奉った」のは、一体誰か。それはここに現われていないが、大伴金村をはじめ、二、三の有力豪族としか考えようがない。しかもこれには条件がある。『紀』には条件として明示されていないが、『記』をみれば、それが明確である。前王朝の血をひく手白髪命(『紀』は手白香皇女)を正妻として娶ることであったと考えられる。 

 

3)即位地

  そのうえ、即位地が変わっている。河内の樟葉で、これまでの王宮の地とまったく関係がない。しかも、これについて『記』『紀』には一言の説明もないのである。このような事情を勘案すると、オホトが大伴金村らによって平穏に迎えられたと考えることはかなり困難なように思われる。仮に武力による衝突がなかったとしても、相当緊迫した情勢を想定しなければならない。


2 継体天皇出身地ゆかりの史跡


(1)横山神社


 横山神社は、継体大王を祭神として祀っています。神社の後方には南北3kmに横たわり320基の古墳からなる県内最大級の横山古墳群があり、継体天皇の子孫「三国真人」の祖および一族の墓ではないかと言われています。

 

 その一番南に位置するのが、継体大王と三尾君堅楲の娘・倭媛の息子・椀子皇子の墓とされる椀貸山古墳です。

 また、東方約1キロには即位の使者と会見したとされる「天皇堂」跡があり、この地を継体天皇の本拠地とする伝承もあります。

 

〇参考Webサイト:横山神社(福井県神社庁) 横山神社(神社探訪) 横山神社(玄松子)

 

横山神社(福井県HP)


(2)横山古墳群(椀貸山古墳)


(引用:福井県史)

〇参考Web サイト:福井県史/第2章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/四 古墳から見た継体王権/

          横山古墳群の継体王権 &横山古墳群と三尾氏

1)横山古墳群の概要

  「横山古墳群」は竹田川右岸の「福井県坂井市丸岡町坪江地区」から市境を越えて「あわら市瓜生・中川地区」に横たわる山稜を中心に広がる北陸最大級の古墳群で、6世紀初めから中頃にかけて繁栄した一族の墓と言われています。

 

 この古墳群は継体天皇の皇子「椀子皇子(まろこのみこ)」を祖とする「三国公」・「三国真人」一族の墓と言われています。また、「椀貸山古墳」「椀子皇子」の墓とも伝承されています。

 

 「横山古墳群」の周辺には、「継体天皇」に関わりのある伝承地があります。「椀貸山古墳」の東500mの山麓にある坪江集落には「継体天皇」を祀った「横山神社」があります。

(引用:福井県史・通史編:第二章・若越地域の形成:第一節・古墳は語る:四・古墳からみた継体王権:横山古墳群と継体王権)

椀貸山古墳

 

2)横山古墳群と継体王権

 横山古墳群(金津町・丸岡町)は、福井平野の北東隅に位置し、竹田川と清滝川に挟まれた南北約3キロメートル、東西約1キロメートルに横たわる丘陵性山地の山上および山麓に立地する古墳群である(図28)。そして、現在は前方後円墳19基、円墳156基、方墳63基からなる県内最大級の古墳群であり、とくに越前の前方後円墳の約四分の一が集中し注目されている古墳群です。

 

図28 横山・菅野古墳群の主な首長墳の分布

図28 横山・菅野古墳群の主な首長墳の分布(引用:福井県史HP) 

 

 横山古墳群首長墳の系譜については、墳丘形態や出土品などからおおまかに編年すると図29のように考えられています。すなわち、その首長墳の系譜は、A・B・C・Dの四系統が考えられ、Aは五世紀前後から六世紀中ごろまで継続するが、とくに六世紀に栄えました。Bは四世紀後半から五世紀中ごろまで継続しますが、五世紀後半からはDに移行して六世紀後半まで継続し、とくに六世紀代に栄えました。Cは四世紀後半ごろ前方後円墳が一基のみ築かれたが、すぐに円墳に変わり、AやBの従的位置におかれるようになったようです。

 

 ともあれ、横山古墳群は古墳時代前期末より栄えていましたが、後期になって一段と隆盛をみることになり精彩を放ったといえます。なお、横山古墳群の西北西約二キロメートルに位置する菅野古墳群(金津町)タコ山古墳も、その墳丘形態のあり方より六世紀代の前方後円墳と考えられるなど、当該期に著しく前方後円墳が減少する北陸道域のみならず全国的な傾向のなかにあって、まったく特異な現象です。

 

図29 横山・菅野古墳群の首長系譜

図29 横山・菅野古墳群の首長系譜 

 

 そこで、このような動向を多くの研究者が『日本書紀』『上宮記』の継体天皇関係記事と直接結びつけて考えた。

 

 その代表的な考えは、横山古墳群が多数の前方後円墳や円墳からなること、前方後円墳の数が若狭の前方後円墳の総数より多いこと、足羽山古墳群松岡古墳群で出土している石棺がみられないことなどを指摘したうえで、とくに前方後円墳の数が多いことから県内最大の古墳群としました。しかも、前方後円墳が、古墳時代前・中・後各時期の形式を含んでいることから歴代の首長墳としています。

 

 さらに、『日本書紀』によれば継体天皇の母振媛は「三国の坂中井」の「高向」の出身であり、三国の故地にある古墳群のなかで、とくに抜きん出て異彩のある横山古墳群三国国造墳墓の地としています(斎藤優「横山古墳群」『若越郷土研究』一)

 

 そののち、古墳時代前期~中期の大型前方後円墳が松岡・丸岡古墳群にみられることから、第一次三国国造墳墓の地松岡・丸岡古墳群であり、第二次三国国造墳墓の地横山古墳群と修正した。

 

 また、越前の石棺が古墳時代前~中期にはみられるものの、後期になると影をひそめる事象や、前~中期に比べて後期にすぐれた古墳の少ない事象とを合わせて、継体天皇の即位と表裏する現象と考えました(斎藤優『改訂松岡古墳群』)

 

 越前で長い間、古墳の分布調査や発掘調査を手がけてきた研究者の考えだけに、地元では現在もその考えを一部改めつつも同調する者が多い。

 

 しかし、そののち、越前の前方後円(方)墳や石棺・埴輪などについての研究が一層深められ、また全国的に古墳時代の研究が著しく進展した結果、新たな見解が開けてきました。 

 

(引用:福井県史・通史編:第二章・若越地域の形成:第一節・古墳は語る:四・古墳からみた継体王権:横山古墳群と継体王権)

 

3)横山古墳群と三尾氏

 継体王権成立(507年)後に北陸道域のなかで異例の活況をみせる横山古墳群は、継体天皇の妃を出した三尾氏の墳墓の地で、その地域は男大迹王(のちの継体天皇)が越前に滞在中の拠点の一つと推定されるにいたったのである。

 

 横山古墳群の眼下に御簾尾の大字名があるが、これはもとは「みお(三尾)」と呼称されていたが、いつの時代か「みつのお」に変化し、さらに「みすのお」に変化したとする考えからくるものである。そして、三尾の地名は、竹田川を下流から上ってくると御簾尾付近で、熊坂川・清滝川・竹田川の三つに分岐することから、このあたりの土地を「三尾」と呼称するようになったものであり、この土地より興った有力な氏族が土地名を冠して「三尾氏」と称したとするのである。そして、三尾の背後にある横山古墳群三尾氏の墳墓の地とみるのである。

 

 また、天平五年(733年)「山背国愛宕郡計帳」(文五)「越前国坂井郡水尾郷」が、『延喜式』兵部省に越前国の駅名として「三尾」があり、三尾の位置が坂井郡の北部と考えられることからも(第四章第三節)三尾氏の墳墓の地横山古墳群以外に考えられない。

 

 さらに、『日本書紀』に、「次の妃三尾角折君の妹を稚子媛と曰う、大郎皇子と出雲皇女とを生めり。(中略)次に三尾君堅楲の女を倭媛と曰う。二の男、二の女を生めり。其の一を大娘子皇女と曰す。其二を椀子皇子と曰す。是三国公の先なり。其の三を耳皇子と曰す。其の四を赤姫皇女と曰す」とあり、のちの律令時代、坂井郡内に三国氏が広く分布することや同郡の大領として活躍する人物もいることなどから、少なくとも三国公の先祖である椀子皇子の祖父三尾君堅は越前の三尾に本拠をおいたと考えられる。

 

 横山古墳群の古墳時代後期の前方後円墳が南端北端とに二極化してまとまって所在し、鎌谷窯跡(金津町)の埴輪や須恵器が両方に供給されていることを考えると、継体天皇の最初の妃かとみられる稚子媛の出た三尾角折君の一族もその近くに本拠をおいた蓋然性は高いのである。

 

 以上のことから、横山古墳群の数多い古墳時代後期の前方後円墳の被葬者を、三尾氏男大迹王との関係のなかでとらえることができるのである。

 

(引用:福井県史・通史編:第二章・若越地域の形成:第一節・古墳は語る:四・古墳からみた継体王権:横山古墳群と三尾氏)

 

4)継体天皇の母の里

 継体天皇の母振媛の里は、夫である彦主人王の死後、子の男大迹王を連れ帰り養育した「三国の坂中井」の「高向」(『日本書紀』)「三国命の坐す多加牟久村」(『上宮記』)である。「高向」は、奈良時代から平安時代にかけてみえる越前国坂井郡一二郷の一つで、式内社には「高向神社」もみられる。現在の丸岡町の東部および南部に比定されている。

 

 この高向地内には、かつて振媛の棺といわれた牛ケ島石棺(丸岡町)がある。この石棺は越前で最も古い段階のもので、線刻の装飾が施された石棺の一つであり、一般的に刳抜式の舟形石棺といわれているが、その身・蓋の断面形が半円形に近い形状を示すことから、むしろ割竹形石棺というべきもので、牛ケ島の小独立丘上の古墳から出土したと伝える(現在は丘ごと消滅。葺石が存在した)。その年代は、現在は四世紀中ごろのものと考えられており、振媛の棺でないことは確かであるが、高向の地に古くから有力な豪族が居住していたことがわかる。

 

 また、高向の背後の山上には北陸最大の前方後円墳である六呂瀬山一号墳(丸岡町、墳丘長140m)同三号墳(85m)があり、九頭竜川を挟んで対岸の松岡には手繰ケ城山古墳(永平寺町・松岡町、125m)をはじめとする五基大型前方後円墳がある。これらの広域首長墳の系譜についてはすでに記したとおりで、越前の前方後円(方)墳のなかでも唯一、福井市足羽山産の笏谷石の石棺をいずれもがもち、北陸道域のなかで最高位の首長系譜と考えられている。四世紀中ごろから六世紀中ごろまで連綿と続くこの広域首長墳の系譜は全国的にみても珍しい例である。

 

 振媛はこの首長墳の系譜に連なるものと考えられる。とくに、継体王権出現前夜にあたる五世紀末に、松岡の標高273mの山頂に築かれた復元墳丘長約90mの前方後円墳である二本松山古墳(松岡町)は、外部施設として埴輪を有し、内部施設として後円部に新古二個の石棺を有し、その一つの古石棺内からは鍍金冠・鍍銀冠などすぐれた副葬品が出土したことでとくに有名である。鍍銀冠は、朝鮮半島の高霊池山洞古墳群の同32号墳出土の冠の影響がみられ、国内出土冠としては古い方に属している。二本松山古墳のあとは、鳥越山古墳(松岡町、墳丘長55m、推定復原規模65m)三峰山古墳(松岡町、墳丘長63m)と続くと推定されるが、いずれも未発掘であり、石棺をもつことが推測されるのみである。

 

 振媛は、このような首長系譜に属したからこそ、彦主人王のもとに嫁ぐことができたのであろう。母の本拠地には、兄の都奴牟斯君などの一族がいることもあって、男大迹王は三尾氏の娘らと結婚するとその近くに移り館を構えたのではないかと推測される。このようなことがあって、継体王権の誕生後に、その一族が一層隆盛になり、数多くの前方後円墳横山古墳群に築いたものと考えられる。

 

(引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/四 古墳からみた継体王権/継体天皇の母の里

 

5)横山古墳群にみる各地との交流

 横山古墳群の六世紀代の前方後円墳をつぶさに観察すると各地の影響がみられ、幅広い交流のあったことがうかがえる。

 

 椀貸山一号墳(丸岡町、墳丘長45m)同二号墳(26m)は、盾形の周溝をもつ前方後円墳であるが、越前では前方後円墳は山上に築かれるのが一般的であって、これらの古墳以外に盾形の周溝をもつ前方後円墳は確認されていない。周溝をもつ前方後円墳ヤマト政権大王墓有力豪族に多くみられることから、これらの古墳の存在はヤマト政権との親密さを示すものと考えられる。

 

写真30 今城塚古墳

写真30 今城塚古墳(引用:福井県史)

 

 中川奥一号墳(金津町、墳丘長47m)同二号墳(40m)の前方部先端は剣菱形を呈し、いわゆる剣菱形前方後円墳といわれる墳丘形態を示す。これは、継体天皇陵に比定できる今城塚古墳(大阪府高槻市、墳丘長190m、写真30)と同じ墳丘形態・規格を示し、これら古墳の被葬者と継体王権との密接な関係がうかがえる。

 

 椀貸山古墳中川奥一号墳は、尾張型埴輪(円筒埴輪の外面二次調整にC種ヨコハケを有し、かつヨコケズリまたはヨコナデによる底部調整を施す)をもつ。尾張型埴輪は、まず尾張に成立し、若狭・越前・加賀・能登に伝播したことが明らかになっていることから、これらの古墳の被葬者尾張の豪族との親密さがうかがえる。

 

 椀貸山一号墳神奈備山古墳(金津町、墳丘長58m)はともに、横穴式石室石屋形をもつことが判明しているが、石屋形は九州の古墳に数多くみられることから、九州の豪族との交流もうかがえる。

 

 このほか、横山古墳群のなかで陶棺箱形粘土槨の存在も確認されており、大和加賀との交流もうかがえる。

 

 これら各地の豪族と、横山古墳群の古墳時代後期の前方後円墳の造営者と考えられる三尾氏との交流の痕跡は、当時の政治世界の激動を証明するものであり、その渦中に三尾氏も身をおいたことが知られるのである。 

 

(引用:福井県史/第二章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/四 古墳からみた継体王権/継体天皇の母の里


(3)前方後円(方)分の分布


(引用:福井県史)

〇参考Webサイト:福井県史/第二章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/二 越前・若狭の前方後円(方)墳/前方後円(方)墳の分布

 

 北陸道域の前方後円墳と前方後方墳の数を国別にみると、それぞれ若狭で17基・1基(計18基、前方後円墳の割合94パーセント)、越前で81基・10基(91基、86パーセント)、加賀で23基・14基(37基、62パーセント)、能登で27基・19基(46基、58パーセント)、越中で10基・7基(17基、58パーセント)、越後で4基・2基(6基、66パーセント)である。

 

 前方後円(方)墳数は、越前・若狭が109基で北陸道域の総数の過半数を占める。また、前方後円墳の割合は、北陸道の入口にあたる越前・若狭は約90パーセント、加賀以北の地域では約60パーセントであることから、畿内に近い越前・若狭で前方後円墳の割合が高いことがわかる。

 

 これらのことから、越前・若狭とくに越前が古墳時代に北陸道域のなかにあって著しく隆盛をみたといえる。そして前方後方墳よりも一段被葬者の地位が高いとみられている前方後円墳が数多く営まれたところに、越前・若狭の特徴があったといえよう(図19 越前・若狭における前方後円(方)墳の分布)。

 

 越前での前方後円(方)墳の分布は、敦賀地域とそれ以外の地域とに大きく二分できる。前者は主に笙ノ川水系によって、後者は主に九頭竜川水系によって育まれた平野や盆地の周縁の山麓や山上にみられる。前者では2基にすぎないが、後者では福井平野周辺55基、鯖武盆地31基合わせて86基となり、そのほとんどを占める。このほか、山間部の織田盆地(1基)や大野盆地(1基)、日本海に面した高須川流域(1基)にもみられる。

 

 一方、若狭での前方後円(方)墳の分布は、主要な河川が形成した平野の周縁の山麓部や山上にみられる。すなわち、耳川流域に1基、川流域に1基、北川流域に14基、関屋川流域に2基がみられ、とくに北川流域に集中することが指摘できる。南川・佐分利川の両流域では、現在のところ確認されていないが、今後発見される可能性も残る。

最終更新:令和3年(2021)5月14日