トップ 古代史の虚構(YA論文)

①全般 ②その1 ③その2 ④その3 

⑤その4 ⑥その5 ⑦その6 ⑧その7


古代史の虚構③(YA論文)その2


我が国古代史の虚構  ~万葉からの告発


目次

その11 はじめに

     2 人麿羈旅歌の定説解釈への疑問

     3 定説は逆・・・麿羈も麿羈歌も鄙から天への一定方向

その24 解釈の鍵を成す地名と慣用句

     5 人麿が天の地九州で見たもの・人麿の運命と九州王朝の終焉

その36 応神王朝とは狗奴国、即ち、久米国こと

その47 九州王朝は二元統治体制

     8 所謂大和王朝とはほとんど九州王朝のこと

その59 難波(津)と過近江荒都の歌

 その610 天智天皇とは

      11 天智天皇の天下取りと天武天皇の大和王朝取り

その7》 12 古代通史粗筋

      13 おわりに 

      後書き

その8別表「九州年号」/別図「松野連氏考」


4 解釈の鍵を成す地名と慣用句

/「伊奈美・明(大)門・淡海海」と「大王の遠の朝庭」


(1)伊奈美国原と三山 (2)明大門・明門・淡路島と気比の海

(3)替え歌と歌の読み (4)大王之遠乃朝庭


(1)伊奈美国原と三山


1)地名と慣用句

*伊奈美国原とは九州王朝の国原、筑前平野

*明大門・明とは燈台(留火)設置の天の関門の入出口

替え歌は筑紫関連地近畿関連地とする作為

*淡海海とは気比(けひ)(飼飯)の海、即ち、周防灘

*「大王の遠の朝庭」とは大和朝廷の大王が仕えた天子の朝庭

*伊奈美国原・播磨国印南(いなみ野説は誤り。「伊奈美国原は「稲見乃海」(「玄界灘」)に関係するであろう。即ち、「伊奈美国原」とは「九州王朝」の王城の地の「国原」、筑前平野である。

*「三山」とは九州王朝の王城の地(やまと)筑紫三山

 

2)三民謡 

◆三山は、伊奈美国原と共存し、海に沈む夕日を眺望し得る、筑紫三山

 

(13)香具山(高山)は  畝傍(雲根火)を惜し(雄男志)と  耳梨と  相争(あひあらそ)ひき   神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻(嬬)を 争ふらしき

(訳)香具山は畝傍山を取られるのが惜しいと、耳梨山と争いあった。神代から、このようであるらしい。昔もそうだったからこそ、今の世の人も、妻を奪いあって争うらしい。 

 

(反歌:14)香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原(いなみくにはら)(伊奈美国浪良) 

(訳)香具山と耳梨山とが争った時、阿菩の大神が立ち上がって見に来た印南の国原よ。 

 

(15)わたつみ(渡津海)の豊籏雲(とよはたくも)に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ

(訳)大海原にたなびく見事な籏雲に夕日が強く差して、今夜の月は明るくさやかであってほしい。 

・場所(印南郡ではなく揖保郡)も、争いの内容(三山相闘ではなく二山相闘)も違い、 

・阿菩大神が伊奈美国原に立ってもいない播磨国風土記説はペテン 

・三山は ” 立ってみに来た ” 伊奈美国原と共存し、海に沈む夕日を眺望し得る山 = 筑紫三山 

 

3)舒明天皇の国見歌 

国見山大和の天香具山ではなく筑紫の天香具山

〔高市岡本宮御宇天皇代息長足広額天皇 天皇登香具山望国之時御製歌〕

 

 大和(山常)には 群山(むらやま)あれど とりよろう 天の香具山(天乃香具山) 登り立ち  国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は かまめ立ち立つ うまし国そ

あきづしま 大和の国は(八間跡能國) 

 

「天乃香具山」は、筑紫三山の一つということで、此処であれば、西北の海に沈む夕日を見ることもできるし、海に舞う鴎を眺望し得ることができる。定説の埴安の池を海に見立てる必要もない。また、山常=太宰府の地(やまと)(王城の地)八間跡能國=山跡の国(倭国)」であろう。 

 

この歌の「舒明天皇」「大和王朝」(「大和の地の王朝」)の王者ではない。この歌は、”「九州王朝」の王者「舒明天皇」が「筑紫の地」「天香具山で国見をしたもので ” である。 

 

4)天加具山(あめのかぐやま)と天山あまやま)  

天加具山の天降りは太宰府の地(やまと) 

・「伊豫の國の風土記に曰く、伊予の郡。郡家より東北のかたに天山(あめ)と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降(あも)りし時、二つに分かれて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂う。本なり。(その御影を啓禮ひて、久米寺に奉れり。)」(『伊予国風土記』逸文・天山)

・伊予に天山が存在するということは、同地が「天」の範囲であったことを示しているということであろう。「天」の ” 最新領域 ” である。 

 

◆伊予邦風土記の天香具山の天振りは倭国中の倭国、太宰府(やまと)の地 

(257)天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ち・・・ 

(259)何時(いつ)の間に 神さびかけるか 香具山の桙(ほこ) 杉が末に こけ生すまでに 

(1096)(いにしえ)の 事は知らぬを 我見ても 久しくなりぬ 天の香具山 

 

◆持統天皇歌も筑紫の天香具山 

(28)春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香具山(天乃香具山) 

・当然、持統天皇の歌も、「大和の地」の天香具山を歌ったものではないということになる。 

 

5)筑紫の雷岳と飛鳥 

・神奈備山は、背振山系(※1)、飛鳥は、吉武高木の地(※2) 

 

(※1)脊振山系に属し、同山系北部の分水嶺を成す。頂上の下に広がる草原を「層々岐野(そそぎの)」と呼び、神功皇后の伝説が伝えられている場所という。この野原の名に因んで「雷山」は「層々岐岳(そそぎだけ)」の別名を持つ。頂上には雷神社の上宮(石祠、三つ)がある。

 山頂からは、北方の福岡市街や玄界灘が一望できる。古来、山全体が雷神の鎮座する霊山と考えられ、故に「雷山」の名を持つという。

 また、『万葉集』に「対馬の嶺は 下雲あらなふ 可牟の嶺に たなびく雲を見つつ偲はも」という句があるが、この句の「可牟の嶺(かむのみね)」は「神の嶺」で雷山に比定する説がある。

 雷山千如寺大悲王院(雷山観音)、雷山神籠石、不動滝(清賀の滝)が観光名所。(出典:Wikipedia) 

 

(※2)吉武高木遺跡は、西に飯盛山、東に室見川を望む地に営まれた弥生時代の大規模な遺跡で、弥生時代中期(約2,200年前~2,000年前)の「国」(地域的なまとまり)の成立と展開を知る上で特に重要な遺跡として、 平成5(1993)年に国史跡に指定された。

 3号木棺墓の副葬品は、内容が優れているだけではなく、銅鏡・青銅製武器・勾玉という組み合わせが、歴代天皇のレガリア(象徴品)である鏡(八咫鏡)・剣(草薙剣)・勾玉(八坂瓊勾玉)という「三種の神器」を彷彿とさせるもので、この3種類をそろえて副葬した墓としては、3号木棺墓は日本で最初のものであり、このことから、この3号木棺墓は「最古の王墓」とよばれるようになった。

(出典:国史跡吉武高木遺跡やよいの風公園HP)    

〔天皇御遊雷岳之時、柿本人麻呂作歌〕

(235)大君(皇)は 神にしいませば 天雲(あまくも)の 雷の上に 廬(いほ)りせるかも

(岩波訳)倭が大君は神でいらせられるので、天雲の雷の上に仮の庵を作って宮としている。

 

・この歌も「大和の地」を歌ったものではないということであろう。「雷岳」とは、背振山系の雷山(※3)である。(古田武彦氏著『古代史の十字路』) 

・持統天皇は「大和の地」の存在ではないということ、当然、天武天皇もということである。

 

(※3)雷山(らいざん)は、福岡県糸島市と佐賀県佐賀市との境にある標高 954.5 m の山である。脊振山系に属し、同山系北部の分水嶺を成す。頂上の下に広がる草原を「層々岐野(そそぎの)」と呼び、神功皇后の伝説が伝えられている場所という。この野原の名に因んで「雷山」は「層々岐岳(そそぎだけ)」の別名を持つ。頂上には雷神社の上宮(石祠、三つ)がある。

 古来、山全体が雷神の鎮座する霊山と考えられ、故に「雷山」の名を持つという。また、『万葉集』に「対馬の嶺は 下雲あらなふ 可牟の嶺に たなびく雲を 見つつ偲はも」という句があるが、この句の「可牟の嶺(かむのみね)」は「神の嶺」で雷山に比定する説がある。

 雷山千如寺大悲王院(雷山観音)、雷山神籠石、不動滝(清賀の滝)が観光名所。

(出典:Wikipedia) 

〔天皇崩御の時、大吾が作った歌〕 

(159)やすみしし 我が大君の 夕(ゆふ)されば 見(め)したまふらし 明け来れば 問ひた

まふらし 神岳(かみおか)の 山の黄葉(もみじ)を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも見したまはまし その山を 振り放(さ)け見つつ夕されば あやに哀しみ 明け来れば うらさび暮らし あらたへの 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし 

・岩波注釈は、”「神岳」は、明日香の神奈備の地の岡 ”(大和の地)としているが、この解釈は無理であろう。 

 

〔登神岳、山部宿禰赤人作歌一首〕 

(324)みもろの 神奈備山に・・・明日香の 古き都は 山高み 川とおしろし・・・

・「神奈備山・山高き」は背振山系、「雄大な川」は室見川か。

「明日香の古都」(飛鳥古京)とは、” 天孫降臨地 ” 直下の室見・日向川の河内・吉武高木遺跡の地」「天」族が九州において地位を確立した地 

 

6)筑紫三山 

◆大和三山は筑紫三山の模倣

・主役の山は「天香具山」なのである。模倣の「大和三山」が「大和王朝」の王城の地に存在するのであるから、当然、「筑紫三山」は「九州王朝」の王城の地、即ち、太宰府の地に存在する。むろん、このことは、「天香具山」の ” 天降り ” からも機能することができる。 

 

筑紫三山

 (お)(畝傍山)(※1)大城山(天香具山)(※2)宮地岳(耳成山)(※3)は、太宰府を

 囲繞しており、「三山」の位置関係、高低順も整合する。「大城山」のみ、独立の山体を成している。伊奈美国原、即ち、筑前平野を眺望する「国見」の山としても絶好であろう。

 

(※1)愛岳山(畝傍山)は大宰府の東、宝満山(別名:御笠山)の西にある。 

 

(※2)大城山(天香具山)は、太宰府の北にある大野城のある丘陵は「四王寺山」と呼ばれ、宇美町、大野城市、太宰府市にまたがる。大城山は四王寺山のピークのひとつで最高峰で四王寺山一帯は古代山城跡となっている。  

 

(※3) 宮地岳(耳成山)は、筑紫野市にあり、その山腹に古代山城(神籠石系山城)である阿志岐山城(あしきさんじょう)がある。(築城年代は不明だが7世紀中頃という説が多い。)同山城は、太宰府の東南に築かれ、大野城、基肄城などとあわせて囲むように配置されている。列石、土塁(版築工法)、水門跡等が確認されており、未確認のエリアを含めると延長約 3.2 km、面積で 36 haの規模になるという。 

 

◆髙山(天香具山)

〔仁徳天皇が国見をし、后の磐姫が恋の歌を詠んだ山〕 

(86)かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを

 

〔髙山が天香具山に〕

(1096) (いにしえ)の 事は知らぬを 我見ても 久しくなりぬ 天の香具山 

 

〔難波を国見し得る山〕

・髙山・大和の天香具山説は不成立 

 

7)風土記の筑紫伊波(いなみ)

伊波は筑紫国の広域地名、「難波」は伊波の地域名 

 

◆連津国史 

・比賈島の松原。古へ、軽島(かるしま)の豊阿伎羅(とよあきら)の宮に御宇しめしし天皇のみ世、新羅の國に女神あり、其の夫を遁去(のが)れて来、暫く筑紫の國の伊波比の 比賈島に住めりき。

 乃ち日ひしく、「此の島は、猶是遠からず。若し此の島に居ば、男の神尋(と)め来(き)なむ」といひて、乃更、遷り来て、遂に此の島(摂津の姫島)に停まりき。故、本住める地の名を取りて、島の號と為せり。(摂津国風土記逸文・比賈島松原) 

 

◆古事記 

・「凡そ吾は、汝の妻と為るべき女に非ず。吾が祖の國に行かむ。」といひて、即ち竊かに小舟に乗りて逃遁げ渡り来て、難波に留まりきき。此は 難波の比賈碁曾の社に坐す阿加流比賈神と謂ふ。(『古事記』応神天皇・天之日矛:あめのひぼこ) 

 

◆日本書紀

・阿羅斯等(あらしと)、大きに驚きて、己が婦(め)に問いて曰く、「童女、何處か去にし」といふ。對へて曰く、「東の方に向にき」という。即ち、尋(もと)めて追ひ求ぐ。 

・遂に遠く海に浮かびて、日本國に入りぬ。求ぐ所の童女は、難波に詣(いた)りて、比賈語曾社(ひめごそのやしろ)の神と為る。且は豊國の國前郡に至りて、復比賈語曾社の神と為りぬ。 並に二處に祭ひまつられたまふという。『日本書紀』垂仁天皇・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと) 

 

◆二か所の神社のどちらが先に来たのか。

・『摂津国風土記』は、最初の渡来地は「筑紫の伊波比」に、『古事記・日本書紀』は、新羅から直接「難波」(列島の権力中心:詣)、後、豊後へ移ったとしている。 

 

・伊波比(いはひ)(祝):底本に「比」なし。即ち、「伊波(いなみ)(穂波(ほなみ)砺波(たなみ)井波(いなみ)等地名)「伊波」は筑紫の広域地名。「難波」は「伊波」の地域名 

 

◆伊波「難波」の姫島 

・そもそも「姫島」とは、「彦島」対の存在ではないか。唐津湾の肥前・姫島関門海峡の彦島豊後の姫島と対応

 

・姫神の男神からの ” より遠くへの逃避 ” は、肥前・姫島から豊後・姫島へ。肝心の「伊波」の「姫島」は、唐津湾に浮かぶ「姫島」の可能性がある。「虹の松原」とも対応するであろう。当然、この「姫島」「天一根」ということになるであろう。 

 

摂津風土記の記すのは、豊後・姫島摂津・姫島にすりかえたもの。 

 

8)稲見野は伊波国原 

*稲見野(いなみの)が直接読まれる歌がある。 

 

〔山辺純赤人作曲のショートソング〕 

(938)やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野(稲見野)の・・・ 

・何故、” 印南野が大君の神ながら高知る印南野 ” であるのか。「播磨国印南野説」は間違い。筑紫国の国原・稲見野を詠んだもの。 

 

偉大なる神医が朱子の国に任命された時、阿部博士が歌を作った〕

(1772)後れ居て 我はや恋ひむ 印南野(稲見野)の 秋萩みつつ 去なむ児故に 

(訳)後に残っていて、私は恋しく思うことだろうなあ。印南野の秋萩を見ながら去って行く人ゆえに。 

 

・「播磨国印南野共同勤務説(大神、阿部大夫は印南野所在)」は間違い。大和に在って、曾て、勤務し、大神大夫が赴任する筑紫国の稲見野の秋萩に思いを馳せたもの。 

 

◆稲見野と印南野

・列島中「イナミ野」と有れば = 印南野は虚構大梁(おおはり)の一 

 

9)稲見野は広島辺り、心恋しき可古島は厳島(宮島)か

◆印南野・加古川説は間違い。厳島(宮島)は中国(なかつくに)の聖地か。

 

◆世阿弥の高砂(たかさご)

・高砂の松の住吉の松訪問 = 天下太平:本来、鄙の首長(かみ)の九州王朝への服属儀礼 

・安芸(カコ)~筑紫(住吉)から播磨(カコ)~摂津(住吉)


(2)明大門・明門・淡路島と気比の海


1)明大門・明門・淡路島と気比の海 

*明大門(アカシオオト)・明門(アカシノト)= 明石門説は誤り 

・明大門・明門は燈台設置の天(あま)の関門(大畠の瀬戸~室津辺り)の入出門 

*本来の淡路島は、周防から伊予に至る列島(屋代島~興居島) 

 越の海・気比の海は、周防灘、即ち淡海海 

 

2)笠麻呂の下筑紫国海路歌・赤人の西航歌

◆歌われない明大門・明門

・天さかる鄙の國辺(くにへ)に直向かふ淡路を過ぎ粟嶋を背がひに見つつ・・・

・淡路の野嶋も過ぎ伊奈美嬬辛荷の嶋の島の間ゆ我家を見れば・・・ 

 

〔柿本人麿の門前・通門歌〕  

・門前歌は鄙への決別、通門歌は天回帰の喜び 

 

〔人麿、赤人、笠麻呂も歌わない淡路島〕

・歌われるのは野嶋、粟(淡)路の野嶋、粟嶋。野嶋 = 粟嶋  

 

◆明大門・明門は燈台設置の天(あま)の関門

大畠の瀬戸(山口県柳井市)・室津(山口県上関町)辺りの海関入出門

   ・・・「淡路島」は屋代島(山口健周防大島町)から興居島(愛媛県松山市)に至る列島 

 

・「明大門」・「明門」は、「大畠瀬戸・室津辺り」に設けられた海の関所 

 

・即ち、曾ての「九州王朝」の直轄領域(「天」)・・・周防、屋久島から興居島、伊予に至る南北ライン以西の領域、人麿、笠麻呂時点の「筑紫国」・・・への関門なのである。 

 

・周防という国名は「九州王朝」の命名で、周防には太宰府を中心として遺存する「別府」地名、「防府」地名も新在する。 

 

・かつ、太宰府の防御施設として考えられる神籠石遺跡(朝鮮式山城)石城遺跡(※1)も存在する。 遺存地名と防御施設遺跡は完全に整合する。つまり、ここが「天」(九州王朝直轄領域)の東界 。そして、何よりも、此処の屋代島から興居島の列島が本来の「淡路島」なのである。

 

 (※1)朝鮮式山城:石城山神籠石は、山口県光市大和町の石城山に築かれた、日本の古代山城(神籠石系山城)である。城跡は、1935年(昭和10年)、「石城山神籠石」の名称で国の史跡に指定されている日本書紀などの史書に記載が無く築城主・築城年は不明だが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したことを契機に、7世紀後半に築かれたとされている。 

 

3)飼販海(気比海)(けひのうみ)は 周防灘 

◆気比大神と応神天皇の魚・名交換の海

・異伝歌(3609)の注記に「柿本朝臣人麻呂歌曰、氣比乃宇美能」と有り、定説のとおり

「氣比の海であろう。しかし『万葉集』搭載歌は、注記と異なる飼販海(256)である。

 

・柿本人麻呂が歌った氣比の海は、瀬戸内海の一部の海であることは明らかである。これは、異伝歌が、筑紫関連歌を近畿関連地へと詠み替えるものであろう。 

 

〔応神天皇と氣比大神との名前の交換(『日本書紀』応神天皇)〕

 「故、武内宿禰命、其の太子を率いて、禊(みそぎ)せむと為して、淡海及び若狭国を経歴(へ)し時、高志(こし)の前(みちのくち)の角鹿に假宮を造りて坐さしめき。爾に其地(そこ)に坐す伊奢沙和氣(いざさわけ)大神の命、夜の夢に見えて云りたまひしく、「吾が名を御子の御名に易(か)へまく欲(ほし)し。」とのりたまひき。爾に言禱(ことほ)きて白ししく、「恐(かしこ)し、命の随に易へ奉らむ。」とまをせば、亦其の神詔いたまひしく、「明日の旦、濱に幸でますべし。名を易へし幣獻らむ。」とのりたまひき。故、旦濱に幸行でましし時、鼻毀りし入鹿魚、既に一浦に依れり。是に御子、神に白さしめて云りたまひしく、「我に御食の魚給へり。」とのりたまひき。故、亦其の御名を稱(たたえ)へて、御食津(みけつ)大神と號けき。故、今氣比大神と謂う。亦其の入鹿魚の鼻の血臰(くさ)かりき。故、其の浦を號けて血浦と謂ひき。今は都怒賀(つぬが)と謂う。」 

 

・次の記述と、全く場所が違う。(『古事記』仲哀天皇)

 「帯中日子(たらしなかつひこ)天皇、穴門の豊浦(とよら)宮、及び筑紫の訶志比(かしひの)宮に坐しまして、天の下治らしめき。」 

 

◆応神天皇は穴門国の王者 

・” 仲哀天皇「天」の存在 ” なのである。 

 

・ 仲哀天皇は、「橿日宮」(福岡市東区香椎)(※2)で崩じ、「豊浦宮」(山口県下関市)(※3)で殯りした ” と。つまり、” 仲哀天皇の宮は、「橿日宮」と「豊浦宮」であるが、本宮(根拠地)は、後者「穴門の豊浦宮である ” ということである。  

 

(※2)橿日宮(現在名:香椎宮):香椎宮は、福岡市東区香椎にある神社。勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

 古代には神社ではなく霊廟に位置づけられ、仲哀天皇・神功皇后の神霊を祀り「香椎廟」や「樫日廟」などと称された。

 「廟」の名を持つ施設として最古の例であったが、平安時代中頃からは神社化し、類例のない特殊な変遷を辿った。

 主祭神は仲哀天皇( 第14代天皇)・神功皇后(仲哀天皇皇后)、配祀神は応神天皇( 第15代天皇・仲哀天皇皇子)・住吉大神である。

 

(※3)豊浦宮の跡(現在の忌宮神社の境内)

 ・忌宮神社は、山口県下関市にある神社。長府(城下町エリア)のほぼ中心に位置し、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。式内社で、旧社格は国幣小社。長門国二宮とされ、現在は神社本庁の別表神社である。飛地境内として国の天然記念物満珠島干珠島を有している。

 

・仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年(193年)に行宮豊浦宮を建てられた。仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。

 聖武天皇の時代に神功皇后・応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。

 中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載され、小社に列している。出典:Wikipedia 

 

・穴門は、応神王朝の創基(神功皇后東征)の舞台:仲哀天皇の子・香坂王、忍熊王の悲劇(※4)の舞台 

 

(※4)香坂王・忍熊王の反乱:『古事記』仲哀記の香坂王・忍熊王の反乱物語における息長帯比売軍の二つの策略〔品 陀和気を喪船に乗せる「死」の偽装と、息長帯比売の偽りの「死」の布告〕は、日本書 紀』にはない。

 この『古事記』独自のプロットにより物語は、天皇空位期における異母兄弟の争いにおいて、皇統上劣位にある品陀和気・息長帯比売母子が、擬似的な「死」を潜り 抜け、次代の天皇とその母としての地位を確保した物語となる。

 文脈と表現の検討から 「赴喪船将攻空船尓自其喪船下軍相戦」は、忍熊王は喪船には品陀和気の遺骸と息長帯比売が乗ると見、息長帯比売を討ち取ろうと攻めたが、息長帯比売は予め喪船に軍兵を乗せ ており両軍の戦闘となった、という状況を表現したものと解釈される。

 「赴」はおもむく意 の自動詞、「空船」は軍兵を乗せない船と解する。忍熊王が喪船に攻めかかった目的は、上 記行文に先立つ「待取」という表現の検討から、息長帯比売を討ち取り殺すことと解す る。 

 

・忍熊王が入水自殺した海は、琵琶湖(海)ではなく、周防灘ということになる。 

 

・応神天皇は穴門国(あなとのくに)の王者

 

・応神天皇は穴門国のみ統治(孝徳天皇の白雉詔「親神祖(応神)の知らす穴戸国」) 

 

◆気比の海と大神の西遷 

・源平の壇ノ浦の戦いに於いて、その直前に出現した神の使いである海豚の群れによって、勝敗の帰趨が占われたという伝承が存在する。(赤間ケ関神社) 

 

・他にも、「海豚=神の使い」とする地があるであろう。能登の真脇遺跡(※5)のウッドサークルもと海豚の関係もそうかもしれない。 

 

(※5)真脇遺跡は、石川県珠洲市能登町にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。

 発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした土層などが話題を呼んだ。

 この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている。また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。

 遺跡最晩期の土層からは円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。10本の柱で囲んだと思われる直径7.4mの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。その太さは直径80 - 96cmもある。小さな環状木柱列(ウッド・サークル)もある。遺跡は、1989年に国の史跡に指定された。

出典:Wikipedia

 

・しかし、このことは、この海が、氣比大神応神天皇の魚(海豚)の名交換の海であることを補強するであろう。神と海豚が繋がるのである。何故、御食の魚が海豚であるかも、である。 むろん、このことは、” 本来の氣比大神の出自がこの海であった ” ということではない。” 本来の氣比大神の出自が越である ” 可能性は大きいのではないか。真脇遺跡と海豚の関係である。 

 

・少し想像すれば、” 本来の氣比大神、氣比の海は越の存在であった ” が、列島代表王権の「出雲王朝」から「九州王朝」への移行に伴い、相対的な位置である” 「鄙」の存在と成った ” ということではないか。 

 

・” 出雲王朝の東域の存在から九州王朝の東域の存在へ ” である。”『古事記・日本書紀』は本家返りした ” のである。 

 

4)淡海国は穴門国。淡海海は気比海

淡海は淡水の海(湖)ではなく、淡い色の海。北の黒い海玄海(北・黒:対馬海流=黒潮)に対応か。 

 

◆近つ淡海(琵琶湖)、遠つ淡海(浜名湖)説は誤り。

・近く大きな湖(河内湖):神武東征を証言する湖 ”「河内草香邑青雲白肩津(枚岡市日下部町)」上陸”

・遠く有名な湖(宍道湖)先行主権王権・出雲王朝の湖かつ神話の部隊の湖 

 

◆近江(ちかつえ)(近津江)の海(博多湾)遠江(とおつえ)の海(淡海海)に当てられた琵琶湖

 ・「近つ淡海・遠つ淡海」は大和王朝の天下以降の位置づけではないか。むろん、九州王朝の模倣ということである。王城の地の湖が(近つ淡海・近津江)、王城の地の東の特筆の湖が(遠つ淡海・遠津江) 

 

◆「穴門国」国名由来

 明大門~明門の関門(「穴門」)間距離の長い「穴門」(「長門」)

                        :安芸国側の海浜 = 長門の浦

5)本来の淡路島の歌

◆淡路島を中に立て置く「開乃門」は周防から伊予の存在。

*即ち、淡路島屋代島から興居島の列島。「淡海」「路島」

*即ち、瀬戸内海の西の閘門。明石から鳴門は東の閘門 

・わたつみは くすしきものか 淡路島(淡路嶋) 中に立て置きて 白波を 伊予に廻(もと)ほし 居待月 明石の門(開乃門)ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干(か)れしむ 

 

◆周防の粟嶋 : 淡路嶋中の主島・屋代島か

・いつしかも 見むと思ひし 粟嶋(安波之麻)を よそにや恋ひむ 行くよしをなみ 粟嶋(安波思麻) 逢はじと思う 妹にあれや 安眠(やすい)も寝(ね)ずて 我が恋ひわたる 

 

◆赤石門と粟嶋:明石海峡と淡路島か 

・粟島(阿波嶋)に漕ぎ渡らむと思へども明石(赤石)の門波(となみ)いまだ騒けり 

★ 頷き難い明石海峡関門説:明石、野嶋崎の関が必要。としても関門機能(長さ/幅)は困難

★ 明石海峡と敏馬の歌 何もない浦の風景。(関門などなかった。)


(3)替え歌と歌の読み


・読替は “筑紫関連地を近畿関連地へ” の常套作為 : 嚆矢(嘘の初め) 

・「留火」の「灯火」訳は極めた誤訳 

 

1)255・256の歌の替え歌 3608・3609 

*3608〔安麻射可流(天離る) 比奈乃奈我道乎(鄙の長道を) 孤悲久婆(・・くれば) 安可思能門欲里(明石の門より) 伊敝乃安多里見由(家の辺り見ゆ) 

 

*255〔天離(あまさざかる) 夷之長道従(ひなのながちゆ) 恋来者(こいくれば) 自明門 倭嶋所見(倭島見ゆ) 

 

*明大門・明門を明石海峡とする作為(天鄙逆転に整合)、当時も解し得なかった ” 倭嶋(やまとしま)は大和の地 ” 

 

*3609〔武庫能宇美能(武庫の海の) 尓波余久安良之(庭良くあらし) 伊射里須流(魚りする) 

 安麻能都里船(海人の釣り船) 奈美能宇陪由見由(波の上見ゆ)〕

 

*256〔飼飯海乃(飼飯の海の)  庭好有之(庭良くあらし)  苅薦乃(刈り薦の)  乱出所見(乱れ出ず見ゆ) 海人釣船(海人の釣り船) 

 

*西航一連歌(255→256)、かつ、(「氣比の海」が瀬戸内海に存在しては不都合)の為の替え歌

 

*替え歌は本来、東航一連歌(3608→3609)として、「茅沼の海」(大阪湾)が妥当

 

*東航一連歌と搭載地名順次の不整合〔3609(武庫の海)→ 3608(明石海峡)〕は、西航一連歌を東行一連歌に作為した端的な証拠 

 

2)254の歌の読み 

*254〔留火之(灯火の) 明大門尓(明石大門に) 入日哉(入らむ日や) 榜将別(漕ぎ別れなむ) 家当不見(家のあたり見ず) 

・「留火(火を留める)」の「灯火」訳は不適当、「灯り続ける火(灯る火)」=燈台の火(灯る火) かつ、「明」は「明かし」又は「明かり」の可能性。「明石」が不当である意味も込め。 

 

*254〔灯(とも)る火の 明かり大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家の当たり見ず〕

・率直に読めば、(とも)る火の 明かし大門(おおと)に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家の当たり見ず 

 

★淡路島通う千鳥(百人一首78番)

〔淡路島 通う千鳥の 鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 天(あま)の関守〕

 須磨の関守歌として疑問・天の関守歌(周防から伊予への飛行)として妥当

 「通う」は経路の明石から淡路島への飛行が妥当。

  ---経路ではない須磨から淡路島への飛行は「渡る」が妥当。


(4)大王之遠乃朝庭(おおきみのとおのみかど)


1)歌意

◆大和王朝の大王がお仕えした天子の朝廷

 島門は朝庭(みかど)(太宰府の地(やまと))に真木通る(一直線の)志賀島~糸島半島水道

★遠近:距離と時間:「遠乃」は時間、距離であれば列島中「遠近乃朝庭(地方政庁)だらけ

 

2)表記と句意の変化 

 「オオキミ・ノ・トヲノミカド(音表記:意味晦冥)」、「天皇の朝廷」へ 

 

3)大伴家持(おおとものやかもち)歌 

◆筑紫と越の弁別

*筑紫:「天皇・ノ・トヲノ朝庭」

*越 :「天皇又はオヲキミ・ノ・トヲノミカド」・・・「トヲノミカド」を創意か 

 

◆きみ・おほきみ

・君・大君:非外界比較、地域 No 1 王者

・王・大王:外界比較、諸王の一つ、地域 No 1 王者

 大王(おおきみ)(天皇称号大王:対外)から大君(おおきみ)(天皇称号天子:対内) 

 

◆不思議な「おおきみ」:表記を貶(おとし)められた王者

*額田王(ぬかだのおおみこ)は額田大王、即ち、天豊財重日足姫天皇

 斉明天皇天豊財重日足姫天皇は別人。”天智天皇・天武天皇の母天皇” が貶めの対象であるはずがない。” 天豊財重日足姫天皇は天智天皇・天武天皇の母 ”  は嘘。天智天皇の母親が 天豊財重日足姫天皇で、天武天皇の母親が斉明天皇。当然、麻続王(をみのおおきみ)も麻続大王、

即ち、日本書紀の三位・麻続王に疑問 

 

◆神随(かんながら)高知(たかし)る大王(おおきみ)

天皇称号大王(天命を受けた大王) = 中華体制下の天皇

 

以上で、羈旅十首は、万葉集搭載順に、全て西に向かう。

 

◆以下の歌も、同旅或いは同経路の旅で詠まれた可能性がある。

〔讃岐狭岑嶋(さみねのしま)、視石中死人、柿本人麻呂作歌一首〕 

 

◆かつ、以下の歌は天(あま)の旅・周防から太宰府の行程中の可能性がある。

・「淡海乃海(おふみのうみ) 夕浪千鳥(ゆうなみちどり) 汝鳴者(ながなけば)

・「過近江荒都時歌:玉手次(たまだすき) 畝火之山乃橿原乃(うねびのやまのかしはらの)

・「物乃部能(もののふの) 八十氏河乃(やそうじがわの) 阿白木尓(あじろぎに)


5 人麿が天の地九州で見たもの

/人麿の運命と九州王朝の終焉


(1)香具山の貴人の死 (2)鳴呼見乃浦(あみのうら)の流人(るにん)

(3)肥前吉野に於ける出雲の児等の屠殺と殉難

(4)姫島の水死美人と久米の若子


(1)香具山の貴人の死


1)概要(九州王朝Ⅱの終焉に立ち会うこととなった人麿)

◆大和王朝の九州王朝Ⅱ人士に対する粛清の嵐

 人麿が「天(あま)の地で見たもの、それは、「九州王朝」の未来を託すべき貴人に与えられた死、貴人と人麻呂の妻を含む多くの大宮人に与えられた「天」外の離島への配流出雲の子弟の肥前吉野に於ける蹶起と大量屠殺等々、「大和王朝」の「九州王朝」に対する吹き荒れる静粛の嵐である。 

 

◆自身虜囚としての大和の地への送還と家郷・石見に於ける受刑水死

 人麿は、「九州王朝」の終焉に立ち会うことになったのである。その言動は、勢い「大和王朝」の忌憚に触れることとなったのであろう。自身囚われの身と成って、大和に送還され、そして、不穏情勢下、石見国の鴨山下、石川河口に水死刑の骸をさらす。罪名は、恐らく、反逆罪である。 

 

◆「九州王朝」の終章

 そして、情勢は「九州王朝」の王者・久米の若子(わくご)幽閉死へと推移する。歴史舞台は「九州王朝」の終章を迎えたのである。

 

2)九州王朝の未来を託すべき貴人の死

 人麿は、「大和王朝」体制が確立へと向かう時代、” 漕ぎ別れ ” の決意を以て、恋い慕う「天」の地へと赴いた。本来、「九州王朝」の宮廷歌人であった柿本人麿「天」回帰である。しかし、孤り悲しみつつ「大和の地」(「鄙」の地)へと帰ったのである。囚われの身として。筑紫の地で何があったのか。

 

2.1)九州王朝の貴人の屍への悲嘆、慟哭 

◆柿本朝臣人麻呂見香具山(※)屍悲慟作歌一首

(426)草まくら 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに

(原文)草枕 羈宿夏尓 誰嬬可 国忘有 家待真国

 

(※)香具山は天香具山、即ち、髙山

 

・この歌は、” 見ず知らずの行き倒れの旅人を屍を見て ” 作ったものではない。如何に、慈悲深い人麿でも、旅人の行き倒れに「悲慟」はないであろう。「悲傷」(又は「哀傷」)が妥当。 そもそも、「天野香具山」は ” 旅人が、病を得て、或いは、飢えて、行き倒れする場所として相応しくない ” であろう。 この屍は、貴人のものである。むろん、旧知の貴人、「九州王朝」貴人ということである。 

 

・むろん、死は単なる病死などとはし得ないであろう。「大和朝廷」から与えられた死と考えるべきである。「大和朝廷」は、「九州王朝」の王権回復の中心的貴人に死を与えたということである。 

 

・人麿は、「天野香具山」の巌(いわほ)の上に横たわる「九州王朝」の貴人の屍を見て、悲嘆、慟哭したということである。むろん、歌は、”旅人”に仮託したものである。当然、”大和王朝を憚って”ということになろう。 

 

*当歌詞書が「天」を書くのは、”「天香具山」と言えば、本来の「天香具山」、即ち、「九州王朝」の聖なる山との確定遺棄である ” と考えるのが妥当である。これが、『万葉集』編纂当時の常識であったということである。 

 

人麿が天香具山」で、「九州王朝」貴人の死を悼む歌を詠んだということは、人麿が「羈旅歌十首」の旅で同地に到ったと考えるのが妥当であろう。

 

2.2)髙山は愛と死のイメージの山

* ”  岩根に横たわる「九州王朝」の貴人の「屍」 ” は、相応しいであろう。「高山」は「九州王朝」の王の国見に相応しい山であったというだけではない。死をイメージさせる山、即ち、「九州王朝」の貴人の墓所でもあったのであろう。そして、” 三山神話 ” 以来の恋をイメージさせる山、「九州王朝」人士が日常、月を愛で、雲を愛でる山である。

 

〔磐姫皇后思天皇御作歌〕(86)石田王卒乃時、丹生王作歌一首 并短歌

(420)なゆ竹の とをよる皇子(みこ) さにつらふ わが大君 こもりくの泊瀬の山に 神さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓(たまずさ)の 人そ言ひつる およづれか 我が聞きつる たはことか 我が聞きつるも 天地に 悔しきことの 世の中の 悔しきことは 天雲の そくへの極み 天地の 至れるまでの 杖つきも つかづも行きて 夕占間(ゆうけと)ひ 石占(いしうら)もちて わがやどに みもろを立てて 枕辺に 斎瓮(いはひへ)をすゑ 竹玉を 間なく貫記垂れ 木綿(ゆふ)だすき かひなにかけて 天なる ささらの小野の 七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちて ひさかたの 天の河原に 出で立ちて みそぎてましを 高山の いはほ(石穂)の上に いませつるかも 

 

〔反歌〕

(421)「およづれの たほこととかも 高山の いはほ(岩穂)の上に 君が臥(こ)やせる

*筆者(YA氏)訳:高山の巌の上に貴方が横たわっていらっしゃるなんて、悪い冗談(逆言・狂言)ですよね。

 

2.3)国忘(くにわすれ)・待真国(まつまくに) 

「国・真国(まくに)とは九州王朝(国家)国忘(くにわすれ)とは国亡「待真国」とは九州王朝の再生待望のことである。 

 

・「國忘」とは異常ではないか。人麿の正確な時代は分からない。が、李白・杜甫より、凡そ半世紀前の存在であろう。 

 

李白『静夜思』「牀前看月光 疑是地上霜 拳頭望山月 低頭思故郷」

(訳)「床前、月光を看る。疑うらくは是れ地上の霜かと。頭を挙げれて山月を望み、頭をを低れて故郷を思う。」 

 

杜甫『春望』「国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪」

(訳)「国破れて山があり、城春にして草木ふかし。時に感じて花にも涙を濺ぎ、別れを恨んで鳥にも心を驚かす。烽火 三月に連り、家書 万金に抵る。白頭 掻けば更に短く、渾て簪に勝えざらんと欲す。」 

 

◆「コキョウ:クニ」は「故郷」、「コッカ(国家):クニ」が国である。

・つまり、”本来、屍が、見ず知らずの行き倒れの旅人のものであれば、「国忘」「故郷忘」が適当ではないか ” ということである。が、人麿は「国忘」と表記したということである。むろん、意図的にということである。更に、「待真国」である。

 

・人麿が、「国忘」としたのは、屍が旅人ではなく「九州王朝」の貴人ということを意味する。人麿が「待真国」としたのは、その貴人が「九州王朝」(「真国」)再生(待「真国」)の希望の星であった。  

 

3)九州王朝の宮廷詩人・人麿の天回帰と虜囚、大和へ

 *そもそも、柿本人麿は「九州王朝」の宮廷詩人であったのであろう。 なぜならば、人麿は、「朝臣」という高位の身分であるのに、「大和王朝」の史書に記録されていない。 

 

*人麿の時代は、列島主権が「大和王朝」への移行時期で、「天」への回帰を決意し、これが「羈旅歌十首」の旅である。 

 

*人麿の言動は、「大和王朝」の忌憚に触れ、囚われの身となって、大和の地へと戻ったのである。 「恋(こい(恋し慕い))来た筑紫の地(天)から、孤悲(こひ(一人悲しみ))つつ 大和の地(鄙)へ」 

 

4)人麿の刑水死と骸の晒し

 ・柿本人麿は、「大和朝廷」により、浜田城趾(「鴨山」)、浜田川(「石川」) の地(「荒波」の寄せる浜田川河口)で、「公開鵜水死刑と骸の晒し刑」とされた。罪名は反逆罪、即ち、「九州王朝」への肩入れということになるであろう。 

 

◆水死刑は貴人の処刑様式の一(八重事代主命:青柴垣神事=水死刑の再現) 

〔柿本朝臣人麻呂在石見国臨死時、自傷作歌一首〕

(223)鴨山の 岩根しまける 我をかも しらにと妹が 待ちつつあるらむ

 

〔柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首〕

(224)今日今日と  我が待つ君は  石川の  峡(かひ(貝尓)に交じりて  ありといはずやも

(225)直の逢ひは 逢ひかつまじし 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ

 

〔丹比真人名闕擬柿本朝臣人麻呂意報歌一首〕

(226)荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げむ 

 

◆見せしめに放置され(処刑遺体の晒し:収容埋葬の不許可)、鴨山(浜田白趾・亀山)下、荒波の寄せる 石川河口に玉石を枕に貝に塗(まみ)れて横たわる人麿の屍:愛しい夫の荒ぶる(無残な)姿を収容埋葬し得ない妻・依羅娘子(よさのいらっこ)の悲しみ 

 

◆鄙の荒野に人麿の屍を置いて去り行く地

〔或本歌曰(作者未詳)〕

(227)天ざかる 鄙の荒野に 君を置きて 思いつつあれば 生けるともなし

・去り行く地は天(あま)、即ち九州の地

・中国(なかつくに)は鄙:明石海峡・天鄙(あまひな)境界(以西は天(あま)等)説は誤り


(2)鳴呼見乃浦(あみのうら)の流人(るにん)


1)人麿の妻を含む九州王朝大宮人の離島配流と

                    - その身に迫りくる危険(溺死と飢餓) 

鳴呼見乃浦安美乃浦は長門の浦(ながとのうら)(安芸国の海)に続く海、伊勢国とは同所、「留京」の「京」とは太宰府 

 

◆船に満ち、裳裾を浸す潮と玉藻を食らう飢餓 

〔幸干伊勢国時、留京柿本朝臣人麻呂作歌〕

(40)安美の浦(鳴呼見乃浦)に 船乗りすらむ娘子(おとめ)らが 玉藻の裾に 潮満つらむか

(岩波訳)あみの浦で船に乗り込もうとする乙女たちの美しい裳袖に、潮が満ち寄せているのだろうか 

 

*筆者の ” 気になる ” ところ:一つ目は「あみの浦」が、何故、「鳴呼見乃浦」なのか。二つ目は「船に乗っている官女の裳袖に潮が満ちる」のかということである。 

 

◆長門の浦に続く伊勢国安胡乃海(あごのうみ)・浦:「安美乃浦」のみ「安胡乃海」にすり替えた矛盾 

(3243)娘子(おとめ)らが 麻笥(をけ)に垂れたる 績麻(うみを)なす 長門の浦に 朝なぎに 満ち来る 潮の 夕なぎに 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに 我妹子(わぎもこ)に 恋ひつつ来れば 阿胡の海の・・・」 

 

◆読み替えは ”筑紫関連地を近畿関連地へ”の常套作為 

(3610)安胡(あご)の浦に船乗りすらむ娘子(おとめ)らが赤裳(あかも)の裾に潮満つらむか

・伊勢国とは安芸国(の海)。伊良慮島・答志(とうし)岬も同所の存在。「京」とは太宰府。

「大宮人」は九州王朝の大宮人。伊良慮(いらご)島・三河国伊良湖岬説、答志岬・伊勢国答志島説は嘘の強弁 

 

(42)潮騒(しおさい)に伊良慮(いらご)島の島辺漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(み)を 

(41)(くしろ)つく答志(とうし)の岬(さき)に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ 

 

◆連日の玉藻刈りは食料の確保 

 

2)麻続王も流刑された九州王朝の貴人

麻続王(をみのおおきみ)の流刑 

・天武4年(675)(24歌注記『古事記』引用)・・・人麿の時代に接近している。

「三位麻続王罪あり、因幡に流す。一の子を伊豆嶋に流す。一の子をば血鹿嶋に流す。」

 

・『日本書紀』の記事は信用しがたい。三位という高位の麻続王の経歴もその罪も記されない。父子共々、それぞれ別の地に配されるほどの重大な罪なのにである。これは、” 麻続王とは「九州王朝」の極めて高位の貴人 ” ということであり、「大和王朝」の「九州王朝」の王者と王朝人に対する一連の粛清であろうということである。 

 

麻続王が伊勢で悲しんだとき、わたしは悲しみの歌を作った〕

(23)打麻(うちそ)を  麻続王海人(をみのおおきみあま)なれや  伊良慮(いらご)の島の  玉藻刈ります 

(24)うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良慮の島の玉藻刈り食(は)む

・生きるために玉藻を食らう麻続王 

 

◆麻続王の流刑地

・「三位麻続王罪有り、因幡に流す」(『古事記』天武4年) 流刑地の「因幡」とは、伊良慮島ということである。つまり、” 伊良慮島は因幡国内の存在 ” と言うことである。しかし、” 伊良慮島は安芸国内の存在 ” なのである。ただし、『万葉集』では、安芸国・伊良慮島なのである。 

 

・「出雲王朝」滅亡後、その直轄地は「因幡国」と考えるよりないであろう。伊勢国・伊良慮島(大因幡国 = 出雲王朝の直轄領域:中国(なかつくに) 

 

◆安芸・伊勢国は豊後・紀伊国と対応 ーーー ” 畿内 ” から ーー

 皇祖祭祀の地、伊勢国は何故、畿外なのか:伊勢国=九州王朝の天(あま)に対応

 気比海=出雲王朝東域の海 → 九州王朝東域の海。” 伊勢の東遷 ” 

 

3)人麿の家と妻 

〔柿本朝臣人麻呂の石見国より妻を別れて上り来たりし時の歌〕

(131)石見の海 角(つの)(うら)(み)を 浦なしと・・・玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへりみすれど いや遠に 里は離(さか)りぬ いや髙に 山も越え来ぬ 夏草の思ひ萎(いな)えて 偲(しの) ふらむ 妹が門見む なびけこの山 

 

【2つのアンチソング】

(132)石見のや 高角山(たかつのやま)の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか

(133)笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば 

 

柿本朝臣人麻呂の妻依羅娘子の、人麻呂と相別れし歌一首〕

(140)な思いと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が公ひざらむ 

 

◆人麿歌「家当不見(いえのあたりみえず)」の家

 :家郷かつ愛しい妻・依羅娘子(よさのいらっこ)の居る石見国

 :明大門(大畠の瀬戸)を前にして振り返れば石見国(浜田(国府))の方向

  ”大和の家に妻なし” 居れば平城京で石見国を望み哀切な歌


(3)肥前吉野に於ける出雲の児等の屠殺と殉難


1)子弟の大量粛清死と娘子の殉難死 

*火葬され、猶、吉野川(肥前吉野・嘉瀬川)の奥に漂う死体

 

〔溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌一首〕 

(429)山のまゆ出雲の児ら(児等)は霧なれや吉野の山の嶺にたなびく 

(430)八雲さす出雲の児ら(子等)が黒髪は吉野の川の沖になづさむ 

 

2)人麿が歌う「吉野」

◆肥前・吉野国・河内の宮 = 滝の都:舟競争・船出が出来る都

〔幸干吉野宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌〕

(36)夕 川渡る 此の川の 絶ゆる事なく この山の いや髙知らす 水そそく 滝の都は 見れど飽かぬかも

 

〔反歌〕

(37)見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆる事なくまたかへり見む

 

(38)やすみしし わが大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に高殿を 高知り まして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 やまつみの 奉る御調(みつき) 春へには 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり 行き沿ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山河も 依りて仕ふる 神の御代かも

 

反歌〕

(39)山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも 

 

◆宮を建てる河内も、滝もなく、舟競争・船出も出来ない大和国・吉野郡

・詞書「溺死出雲の娘子」は嘘。複数・・大量の・・出雲の児等の死(男女、複数の娘子を含む)

・出雲の児等の吉野蹶起=大因幡国(なかつくに)に於ける不穏情勢 = 大因幡国の中心の一 

・人麿の家郷・石見国における公開処刑と骸の晒し


(4)姫島の水死美人と久米の若子


1)水死美人と岩屋に幽閉死した九州王朝の王者

・美人と久米の若子との関係は虞美人と項羽との関係

 

◆難波潟の美人の嘆きと美保の王者の怨み 

【Ⅰ和銅四年歳次辛亥、河辺宮人姫嶋松原見嬢子屍、悲嘆作歌二首】 

(228)妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松がうれに 蘿生(こめむ)すまでに

(229)難波潟 潮干なありそね 沈みにし妹が姿(光儀)を 見まく苦しも 

 

【Ⅱ和銅四年歳次辛亥、河辺宮人嶋松原見美人屍、哀慟作歌四首】

(434)風早の 美保の浦廻(うらみ)の 白(しら)つつじ 見れどもさぶし なき人思へば

(435)みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも 

(436)人言の 繁きこのころ 玉ならば 手に巻き持ちて 恋ひざらましを

 

(437)妹も我も 清(きよみ)の川の 川岸の 妹が悔ゆべき 心は持たじ

[岩波訳](妹もわれも)清見の川の川岸が崩れる(「崩ゆ」)ように、あなたが後に悔いる(悔いゆ)ような心を私は決して持つまい。

 

〔Ⅲ 博通法師往紀伊国見三穂石室作歌三首〕

(307)はだすすき 久米の若子が いましける 三穂の岩屋は 見れど飽かぬかも

(308)常盤(ときわ)なす 岩屋は今も ありけれど 住みける人そ 常なかりける

(309)岩屋戸に 立てる松の木 汝(な)を見れば 昔の人を 相見るごとし

 

 このⅠ、Ⅱ、Ⅲが関連することは明らかであろう。 

 

◆悲劇の舞台は筑紫難波 

・この悲劇の舞台は、筑紫の難波(伊波)の姫島の松原である。「美保」或いは「三穂」は、この関連地で、玄界灘或いは博多湾に突き出る「岬」であろう。 

 

・時は、和銅4年(711)。「大和王朝」が、名実共に、列島の主権を掌握してから十年、本格的な都城、平城京遷都後、一年である。人麿の時代とは十年以上後ということであろう。 

 

◆九州王朝滅亡の余震

・しかし、九州の地では、” 余震 ” が続いていた。『続日本紀』が記す。慶雲4年(707)、和銅元(708)、霊亀2年(716)「山澤に亡命し軍器・禁書を挟蔵する」九州王朝の亡命組織蠢動があり、養老4年(720)「隼人の叛乱」へと続く。大伴旅人征隼人持節大将軍に任じられた理由である。和銅4年は、この動乱の真っ最中なのである。

 

・そもそも、「大和年号」の建元、本格的な都城(平城京)の造営、そして史書の編纂、これこそが、「大和王朝」が「九州王朝」の後継、新興王朝であることを証言しているのであろう。 

 

・「九州王朝」の組織的抵抗は、養老4年(720)以前に終熄したということであろう。が、この反「大和王朝」動乱は、南九州の地へと広がったということであろう。 

 

◆「美人」の水死

・この動乱の最中、ここ筑紫の地、難波の地で、「美人」が「水死」したという。

・「美人」とは九州王朝の官女制度(漢の宮女制度類似)の官名 

 

◆「美人」・王者の死と九州王朝の全き終焉 

・「九州王朝」の王者が、筑紫の難波の地の岩屋に幽閉されて死に、その思い人である「美人」が、その難波潟で水死したということである。 

 

・この一連の歌は、「九州王朝」の全き終焉を証言するものである。万葉編者は、敢えて、

 これらの歌を搭載したということである。 

 

◆悲劇の舞台・筑紫難波の抹殺

・久米の若子の死んだ筑紫の難波(津)と姫島の地を隠すため、筑紫難波潟・姫島を豊後(紀伊国)難波潟・姫島へと名前を変えたのであろう。 

 

2)九州王朝の和布刈神事とその途絶 

◆難波潟の神聖岩礁(女性格:磐長姫?)の和布(わかめ)刈り 

(435)みつみつし 久米の若子が い触れかむ 磯の草根の 枯れまく惜しも

 

・「九州王朝」の王者・久米の若子、その思い人である「美人」が死に、「九州王朝」は滅んでしまったが、王朝の海・難波潟の潮が引くと、「九州王朝」の神聖な岩礁が「九州王朝」の盛時そのままに、その姿を現す。この岩礁を見るのがつらいと。 

 

・刈って提供すべき「九州王朝」も今は亡く、岩礁に生える和布(わかめ)も、空しく枯れているのは惜しいことだと。 

 

◆神事の途絶、即ち、王朝の滅亡  --河辺官人からーー

・「河」と言って通意する河・九州王朝の神聖な川・室見川(明日香川)

 (室見川は、吉武高木遺跡を日向川との河内に内包し、天孫降臨の地(日向のクシフル峯)、神奈備山(背振山系)水源を発する室見川・・・おそらく、本来の明日香川・・・が適当ではないかということである。) 

 

・神聖岩礁は室見川(明日香川)河口(難波潟)の存在 

 

・この河辺官人が、久米の若子の後を追って水死した「美人」を哀慟して、Ⅰ等の歌を歌ったものであろう。 

 

3)岩屋に幽閉死した大国主命 

◆国譲りに関する出雲伝承(出雲大社裏山洞窟幽閉伝承) 

・伝承は、” オオクニヌシはウサギ峠の洞窟に幽閉されて殺された ” と伝えるという。” 出雲大社の裏山(カッ島)の鵜鷺峠に神がくれの岩屋(洞窟)があり、”オオクニヌシが幽閉されて死んだ、と伝えている”(『謎の出雲帝国』吉田大洋著)と。次の歌が、このこと、ではないか。 

 

◆岩屋幽閉死は前王朝の王者処遇の慣例

〔生石村主の実写曲〕

(355)大汝少彦名(おおなむちすくなびこな)の いましけむ 志都の岩屋(石室)は 幾代経ぬらむ

(岩波補注)「志都の岩屋」は所在未詳。  

 

4)久米の若子の幽閉地は志賀島か 

◆久米の若子の幽閉地

・大国主命は、その本拠地の岩屋に幽閉されている。

 

・「九州王朝」の王者・「久米の若子」も、筑紫の内と考えるのが妥当なのである。つまり、「三穂の岩屋」は、博多湾頭、或いはその周辺、難波潟・姫島は博多湾頭の存在とするのが最も妥当であるということである。 

 

◆御大(みほ)(弓ヶ浜半島と美保神社)と美保(海の中道と志賀海神社)

・少しく想像し、「出雲王朝」の「美保」(御大:みほ)と相関(弓ヶ浜半島と美保神社)すると考えれば、この「三穂」は、「九州王朝」の「美保」、即ち、「海の中道」と「皇神(すめがみ)」が祭祀される志賀島ではないかと思われるのである。敢えて言えば、「三穂の岩屋」は志賀島所在であろう。 

 

・事代主命を祭る美保神社と皇神祭祀の地から出土した金印「漢委奴国王」 

 

◆志賀の皇神(すめがみ)皇神は九州王朝の統一神

(1230)ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(すめがみ)(須売神)

 

・「皇神」をはぐらかす奇っ怪な岩波訳

[岩波訳]恐ろしい金の岬は過ぎたけれども、私は忘れまい。志賀の海神様を:この訳は、九州の地における皇神祭祀も、阿曇氏の皇神祭祀も不都合としているのだろう。 

 

[歌意]歌は、国家の命運を担って東行する者のもの。鐘ケ崎を過ぎれば志賀島は視界から消える。東行者は、消えゆく志賀島の九州王朝の統一神(皇神)に、任務の成就を祈ったということである。→ 臆病者の海神への命乞(悪意の訳)

 

◆阿曇の君は九州王朝の王

志賀海神社の祭神・皇神(住吉三神)九州王朝の統一神であろう。

 

・神社祭祀の主役・阿曇の君は九州王朝の王者、捧げられる「君が代」 

 

・” 久米の若子の幽閉岩屋が志賀島所在 ” であるかどうかは別として、金印が志賀島出土は、 意外ではないのである。 

 

阿曇」とは、本来、特定の部族の事ではなく、水上(海洋・河川・湖沼)活動を共通の文化 とする複合的共同集団、即ち、「天(あま)(海)族」の総称ではないか。日本列島に於ける阿曇の足跡は、一部族としては異常に多いであろう。阿曇氏は、その基幹の一と言うことである。

 

5)九州王朝の王者・久米の若子とは

◆久米の子・久米の若子

・そもそも、” 神武天皇=「大和王朝」の王 が、〔「久米」の王者〕

             ・・・みつみつし、久米・・・であったはず ” であろう。 

 

・で、あるのに、”「九州王朝」の王者が、〔「久米」の王者〕

                  ・・・久米の若子・・であった” というのである。 

 

・そもそも、「九州王朝」の王者は、何故、久米の若子と呼ばれたのか。むろんわからない。が、少しでも迫れるものがあるのではないか。 

 

・先ず、「九州王朝」の神宝・干満珠を司る安曇磯良(あずみのいそら)から確認する。

 安曇磯良は、「九州王朝」の王のはずであろう。

 

◆九州王朝の神宝・干満珠を司る安曇磯良(あずみのいそら)

” 擬人化された神聖な岩礁 ” が存在する。安曇磯良である。 

・福岡県風浪神社には、体中に海草や貝が付着しし、干満を自在にする珠を持った安曇磯良の像が祀られている。この安曇磯良こそ、『太平記』や『八幡愚童訓』の中に登場する海の神である。(荒川敏著『消された古代日本史』)

 

◆住吉三神

・難波潟「筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐(あはぎ)原」神聖岩礁(男性格)

 

・この神は、干満の珠を使って神功皇后  ” 三韓征伐   ” を助けたこと。この神は、志賀海神社の祭祀神と同じ住吉三神ということになるであろう。 

 

・『古事記』での「住吉三神」の格付けから、『日本書紀』での序列はずっと繰り下がっている。住吉三神筑紫で生まれたのに、『日本書紀』では筑紫の難波の住吉三神は消されたのである。

 

「大和王朝」の ” 住吉三神信仰は 摂津 ” に於けるものである。

 ” 筑紫に於ける住吉三神の信仰の抹殺 ” は、これによるものであろう。 

 

◆女性格・男性格、難波潟の二つの神聖岩礁 

・天孫降臨以前からの ” 倭 ” の信仰(女性格)に ” 天(あま)族 ” の住吉信仰(男性格)被さったもの。” 被さった ” ということは、” 後から祭られた ” ということである。 

 

・九州王朝の王は倭の神・女性格神聖岩礁(磐長姫?)信仰を継承した。 

 

住吉三神を信仰する王権とは

        :天孫降臨以来の王統者として推戴する王権九州王朝0・Ⅱ:後述) 

 

◆神武天皇は久米の若子(分家)・・・神武東征軍の軍歌

〔『古事記』神武天皇での歌〕

 忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎  石椎もち 今撃たば良らし 

 みつみつし 久米の子等が 粟生(あはふ)には 韮一坙(かみらひともと) そねが坙 そね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ

 みつみつし 久米の子等が垣下に植ゑし椒(はしかみ) 口ひくく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ

 神風の 伊勢の海の 大石に這ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻り

撃ちてし止まむ

(引用:古事記「神武天皇」)

・この歌は、神武天皇が、登美能那賀須泥毘子を討った時の”軍歌”である。この歌が、「久米」という集団のものであることは明らかであろう。

 

・で歌っているのは誰であろう。神武天皇自らかも、それとも、兵士らだけ、であろうか。即ち、神武天皇も「久米の子等」に含まれるのか、それとも、兵士らが、「久米の子等」か、ということである。「九州王朝」の王者が「久米の王者(親)」で、神武東征軍自らを「久米の子等」と歌うのであれば、神武天皇は「久米の子」ということになるのではないかということである。

 

・かつ、もし、神武天皇が「久米の王者」即ち「久米の若子」であれば、「軍歌」は「みつみつし、久米の若子が」と歌われたであろうということである。「久米の若子」の親征なのである。

 

・強引であるが、「九州王朝」列島の主権王朝「大和王朝」は、その令下の王朝で、

 神武天皇は、その創基者なのである。 

 

・「大和王朝」は「九州王朝」の分家、即ち、「久米」王家の分家ということになるであろう。

 

◆大伴氏は本来、久米(本家)の軍事集団長 

〔大伴家持「賀陸奥国出金詔書歌」〕

(4094)葦原の  瑞穂の国を 天降り  知らしめける  皇祖の・・・大伴の  遠っ神祖の そ の名をば  大久米主と  負い持ちて  仕へし官  海行かば  水清く屍  山行かば  草生す屍  大君の  辺にこそ死なめ  顧みはせじと  言立て  ますらをの  清きその名を  古よ今の現に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと言ひ継げる 言の官そ 梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと・・・  

 

[岩波解釈]

・・・大伴の遠い祖先の、その名を大久米主と名乗り仕えた役目で、海を行くならば水に浸かった屍、山を行くならば草むした屍となっても、大君のお側でこそ死のう。我が身を顧みたりしない、と誓いの言葉を述べて、ますらおの清いその名を昔から今のこの世に伝えて来た家柄の子孫なのだ。大伴と佐伯の支族は、その祖先の立てた誓いに子孫は先祖の名を絶やさず・・・

 

・・・大伴と佐伯の氏は・・・「大久米主」大伴氏の先祖の名説は誤り。「大久米主」は官職、佐伯氏も「大久米主」

 

◆「久米」と呼ばれる存在 

・大伴氏、佐伯氏が仕えてきた ”「久米」と呼ばれる存在 ” とは、本来、「大和王朝」(久米の分家王家)ではなく、「九州王朝」(久米の本家、即ち、「久米の若子」王家)ということになるであろう。 

 

「久米」とは「狗奴(国)ということになるであろう。そして、「久米の若子」とは、「狗奴(国)の穂穂出見王統者(穂穂出見庶流:王・海神王統正統者の呼称であり、「九州王朝Ⅱ」の王ということである。 

 

・”  筑紫に於ける穂穂出見王統者(嫡流:天津日高日子)”  を「久米の若子」とは言わなかったであろう。 

 

「久米」は、己の内に取り込んだ貴種「九州王朝」の王統を「久米の若子」と呼んだということである。「久米」は、久米本来の王統者「毛沼の若子」とも呼んだ(後述)とも思われる。この呼称は、「久米」独特のものということであろう。 


再分離:令和3年3月18日/最終更新:令和3年6月1日