トップ 歴史散歩への誘い

東北①青森 東北②岩手 東北③秋田
近畿①奈良 近畿②大阪 近畿③京都 近畿④兵庫 近畿⑤和歌山 近畿⑥滋賀
中国①岡山  ※九州地域については〔古代史の謎③④⑤⑥〕参照

歴史散歩への誘い(中国)①


岡山県の歴史散歩


1 吉備の古代遺跡

(1)造山古墳 (2)作山古墳 (3)鬼ノ城 

2 古代吉備の伝承

(1)温羅伝説

3 吉備の中山

(1)吉備津神社 (2)吉備津彦神社

4 吉備真備

(1)吉備真備のプロフィール


1 吉備の古代遺跡


鬼ノ城遠景(引用:Wikipedia)


 古代の吉備地方は、『古事記』・『日本書紀』等でも有力勢力が存在し、大規模な前方後円墳が築かれ、『記紀』に掲載されていない「鬼ノ城」があり、桃太郎伝説等も有り、興味を持っていた地方です。

 十数年前、吉備地方の歴史散歩を楽しもうと、家内と二人、一泊2日の日程で吉備路をサイクリングで散策したところです。JR倉敷駅から伯備線総社駅で下車、駅周辺のホテルでチェックインしました。

 初日は、時間的余裕がないため、「鬼ノ城」へはタクシーで訪れました。城跡は、神籠石敷山城と言われていますが、何故か『記紀』に掲載されておらず謎とされていることに興味を持っていました。城跡は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在しており、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望でき、瀬戸内海の対岸まで見通せる、要害の地に立地されていることが感じられました。帰りには、タクシードライバーから、一休さんで有名な宝福寺」を勧められ訪れました。

 翌日は、総社駅前で貸自転車を借り、吉備路の名所旧跡をサイクリングすることにしました。訪問順序は定かではないけれど、備中国分寺・國分尼寺造山古墳・作山古墳楯築遺跡備中高松城吉備津神社・吉備津彦神社等を見学し、吉備線備前一宮駅で貸自転車を返却し、岡山駅経由で帰宅しました。

 一泊2泊の小旅行でしたが、帰宅後、吉備地方の主要な名所旧跡の由緒等をWebサイト・パンフレット・書籍やアルバム作成等を通じて、再度、桃太郎伝説、一休和尚の伝承、秀吉の高松城水攻め等の歴史散歩を楽しむことが出来ました。 

 昨年暮れ、大学後輩の忘年会にて、岡山県真備町出身のM君と「鬼ノ城」の話から、吉備地方の古代が話題になり、次の書籍の紹介を受けました。

1)岡山文庫52『吉備津神社』(藤井駿著)日本文教出版株式会社昭和48年3月20日

2)岡山文庫210『吉備真備の世界』(中山薫著)日本文教出版株式会社2001.2.15

3)岡山文庫284『温羅伝説ー史料を読み解く(中山薫著)日本文教出版株式会社2013.6.21

4)岡山文庫301『真備町(倉敷市)歩けば』(小野克正・加藤満宏・中山薫著)日本文教出版株式会社2016.6.17


(1)造山古墳


(引用:Wikipedia)

墳丘全景(引用:Wikipedia)

●概要

 造山古墳(つくりやまこふん)は、岡山県岡山市北区新庄下にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。

 岡山県では最大、全国では第4位の規模の巨大古墳で、5世紀前半(古墳時代中期)の築造とされる。墳丘に立ち入りできる古墳としては全国最大の規模になる。

 岡山市西部、足守川右岸において丘陵を切断して築造された巨大前方後円墳である。墳丘は3段築成で、前方部の頂は壇状の高まりをなす。墳丘長は約350mを測り、大仙陵古墳(大阪府堺市、約486m)誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、約420m)上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市、約360m)に次ぐ全国第4位の規模を誇る。周囲には榊山古墳(造山第1号墳)千足装飾古墳(造山第5号墳)など6基の陪塚がある。現在に至るまで本格的な学術調査は行われておらず、内部は未発掘である。特徴として、墳丘の長さに対して後円部の割合が大きいことが挙げられる。

 大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解がある。天皇陵に比定されている上位3古墳をはじめ近畿地方の巨大古墳が宮内庁により国民はもちろん学者・専門家も内部への立ち入りが禁止されているのに対し、ここは立ち入り出来る古墳では国内最大のものであり、全国的に見ても貴重である。

 なお、総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山古墳「ぞうざん」作山古墳「さくざん」と区別して呼んでいる。

 

●築造時期

 墳丘の現在の形状、これまで出土した埴輪の制作時期などから考えて、本古墳の築造時期は5世紀前葉末から中葉はじめ頃と推定されている。

 記紀に現れる吉備津彦の陵墓は、足守川を挟んで西に5km弱ほど離れた岡山県内の中山茶臼山古墳(明治7年に宮内庁指定陵、築造は3世紀後半から4世紀)に比定され、現在はそれ以降の築造と考えられている。

 

●被葬者

 古墳について文献からは発見されておらず不詳である。宮内庁の陵墓参考地には指定されていないが、本格的な墳丘内部の学術的調査は不十分であり、考古学的にも被葬者について具体的には解明されていない。

 足守川一帯は遺跡や古墳が多く(上東遺跡 - 弥生時代、楯築遺跡 - 2世紀後半から3世紀 、上述の中山茶臼山古墳、作山古墳 - 5世紀中葉、王墓山古墳 -6世紀後半 など、日幡城も古墳跡といわれる)、古来からの一帯を支配した勢力の首長級の陵墓、さらには、現在大阪府に残る陵墓以外では最大の規模の陵墓であることから、ヤマト王権に拮抗する勢力首長の陵墓とも考えられている。

 一方で、吉備単独勢力の首長ではなく、ヤマト王権と連合した倭王のうちの一人の陵墓ではないかと見ている研究者もいる。

 吉備がヤマト王権から独立した地方政権であったと見る根拠がないことや、5世紀前期という築造時期、それまでの古墳と比較して突出した規模であることなどから、応神天皇による王位簒奪に協力して勢力を拡大した吉備下道臣の祖・御友別命(妹の兄媛は応神妃)がその被葬者と見る説もある。


(2)作山古墳


 (引用:Wikipedia)

Tsukuriyama Kofun (Soja), zenkei.jpg

墳丘全景(右に後円部、左に前方部)(引用:Wikipedia)

●概要

 岡山県南部の独立低丘陵を加工して築造された巨大前方後円墳である。東方の造山古墳(岡山市北区新庄下)も「つくりやまこふん」であるため、作山は「さくざん」、造山は「ぞうざん」と呼び分けられる。これまでに本格的な発掘調査は実施されていない。

 墳形は前方後円形で、前方部を南西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は282mを測るが、これは岡山県では造山古墳(350m、全国第4位/岡山県第1位)に次ぐ第2位、全国では第10位の規模になる。墳丘表面では角礫の葺石、埴輪列が認められる。また墳丘北側には造出を有するほか、前方部前面などには未削平の残丘がある。墳丘周囲に周濠は認められていない。主体部の埋葬施設は明らかでないが、盗掘坑が認められないことから、墳丘内部での現存が推測される。

 この作山古墳は、古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定される。作山古墳の南側には近世の旧山陽道が通るが、作山古墳・造山古墳両宮山古墳(赤磐市穂崎)がいずれも旧山陽道沿いに位置することから、5世紀にはすでに旧山陽道に先行する道があり、その道を通る人々に対して権力を誇示する意図があったと推測される。

 

●推定首長墓系譜

 造山古墳(350m) 5c前半/作山古墳(282m)5c中頃/小造山古墳(142m)5c後半

 一帯の首長墓系譜としては造山古墳に後続し、小造山古墳(岡山市北区新庄上・総社市下林)に先行する築造順と見られるが、順に墳丘規模が縮小する様相を示し、作山古墳自体も未削平の残丘などの点で端正さを欠く。これに関して造山古墳に続く位置づけや5世紀中期という築造時期などから、仁徳天皇の時代に活動した吉備下道臣の祖・稲速別命御友別命の子)を被葬者と見る説がある。

 なお、吉備地方では前期古墳の営造地に中期古墳はほぼ築造されず、前期古墳の存在しない地にこれら中期古墳が突如営造される点においても注目される。古墳域は、1921年(大正10年)に残丘部分を「第一古墳」とする「作山古墳 第一古墳」の名称で国の史跡に指定されている。現在では毎年12月に下草刈りが行われる。 


(3)鬼の城


(引用:Wikipedia

 鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた、日本の古代山城神籠石式山城である。城跡は国の史跡「鬼城山」(1986年(昭和61年)3月25日指定)の指定範囲に包含される。

角楼(左)と西門(右)を学習広場より望む

角楼(左)と西門(右)を学習広場より望む(引用:Wikipedia)

● 概要

 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷は倭(日本)の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている。鬼ノ城史書に記載が無く、築城年は不明であるが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている。

 鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397mの鬼城山の山頂部に所在する。すり鉢を伏せた形の山容の7〜9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8㎞に渡って巡る。

 城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタールである。城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼・水門6か所などで構成される。そして、城壁を保護するための敷石の発見は、国内初のことであった。

 城内では、礎石建物跡7棟・掘立柱建物跡1棟・溜井・烽火場・鍛冶遺構などが確認されている。鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わり、未完成の山城が多い中で稀な完成した古代山城とされている。

 鬼ノ城は、「歴史と自然の野外博物館」の基本理念に基づき、西門と角楼や土塁が復元された。その他、城門・水門・礎石建物跡・展望所・見学路などの整備とともに、「鬼城山ビジターセンター」と駐車場を整え、「史跡・自然公園」として一般公開されている。

 城壁は、幅7m×高さ6〜7mの版築土塁が全体の8割強を占める。しかし、城壁最下の内外に1.5m幅の敷石が敷設されており、石城の趣が強い。そして、防御正面の2か所の張り出しは、石垣で築かれている。

 流水による城壁の崩壊を防止するための水門が、防御正面に集中する。城壁下部の2〜3mに石垣を築いて水口を設け、通水溝の上部を土塁で固めた水門が4か所ある。他の2か所は、石垣の間を自然通水させる浸透式の水門である。

 また、水門の城内側の2か所の谷筋で、土手状遺構が発掘された。土石流や流水から城壁を守るためと、水を確保するための構築物である。そして、第0水門の城壁下部で、マス状の石囲の浅い貯水池が発掘され、多くの木製品が出土した。

 城門は、防御正面に東門・南門・西門、防御背面に北門の4ヵ所が開く。主の進入路と思われる場所に西門があり、西門の北側約60mの隅かどに角楼がある。

 各々の城門は、門礎を添わせた掘立柱で、門道は石敷きである。

 西門は平門構造で、他の門は懸門構造である。東門は間口1間×奥行2間で6本の丸柱構造。南門は間口3間×奥行2間で12本の角柱構造。中央の1間が出入り口で、本柱は一辺が58cm角である。西門は南門と同じ柱配列で、本柱は一辺が60cm角である。そして、門道の奥に4本柱の目隠し塀がある。

 北門は間口1間×奥行3間の8本の柱構造。本柱は一辺が55cmの角柱で、他は丸柱である。そして、門道に排水溝が埋設されている。また、西門周辺と角楼に至る土塁上面の柱穴の並びは、板塀のための柱跡とされている。

 城内の中心部には、食糧貯蔵の高床倉庫と思われる礎石総柱建物跡5棟、管理棟と思われる礎石側柱建物跡2棟が発掘された。また、12基の鍛冶炉の発掘は、鉄器製作の鍛冶工房とされ、羽口・鉄滓・釘・槍鉋・砥石などが出土する。他の出土遺物は、須恵器の円面硯・甕・壺・食器類に加え、土師器の製塩土器・椀・皿などがある。

 鬼ノ城の南麓の低丘陵が南北から突出して狭くなった田園地帯に、水城状遺構がある。版築状の土塁で、長さ約300m×高さ約3m×基底部幅約21mを測り、土塁の上部に人々が集住する。

 水城と大野城の関係と同様に、城への進入路を遮断した軍事施設とされている。瀬戸内海は、いにしえから海外交流交易の主海路である。東端の難波津(港)の西方、約180kmに吉備津(港)は位置する。吉備津の西方、約240kmに那大津(港)の博多湾がある。吉備津は、東西航路のほぼ中間点に位置する。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から約11kmである。

 鬼ノ城は、いにしえから吉備津彦命による温羅退治の、伝承地として知られていた。苔むした石垣が散在する状況から、城跡らしいと判断され、「キのシロ」と呼んでいた。「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の文字をあてたにすぎない。「鬼ノ城」は「シロ」を表す、彼の地と此の地との言葉を重ねた名称である。

 礎石建物群の周辺では、仏教に関わる瓦塔・水瓶・器などの遺物が出土している。鬼ノ城の廃城後の飛鳥時代から平安時代にかけて、山岳寺院が営まれている。鬼城山の山頂では、眼下に総社平野・岡山平野西部・岡山市街が一望できる。児島半島の前方は瀬戸内海、海の向こうの陸は香川県である。坂出市の「讃岐城山城」と高松市の「屋嶋城」が視野に入る。

 

●関連の歴史

『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

・天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に

 大敗する。

・天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人(とぶひ)を配備し、

 筑紫国水城を築く。

・天智天皇4年(665年):長門国を築き、筑紫国大野城基肄城を築く。

・天智天皇6年(667年):大和国高安城讃岐国屋嶋城対馬国金田城を築く。

 この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。

 

●調査・研究

 遺構に関する内容は、概要に記述の通り。

考古学的研究は、1971年(昭和46年)の高橋護の踏査による、土塁の列石と水門の発見を嚆矢とする。1978年(昭和53年)、山陽放送25周年記念事業として、「鬼ノ城学術調査団」による、初の学術調査が実施された。

発掘調査は、1994年(平成6年)から総社市教育委員会で開始された。成果報告は、『鬼ノ城 角楼および西門の調査』、1997年、『鬼ノ城 南門跡ほかの調査』、1998年、『鬼ノ城 西門跡および鬼城山周辺の調査』、1999年、『鬼ノ城 登城道および新水門の調査』、2001年、で報告されている。また、総社市の鬼城山史跡整備事業に伴う発掘調査が継続された。成果報告は、『古代山城 鬼ノ城』、2005年、『古代山城 鬼ノ城 2』、2006年、で報告されている。そして、城内の発掘調査は、1999年(平成11年)から岡山県教育委員会で開始された。成果報告は、『国指定史跡 鬼城山』、2006年、『史跡 鬼城山 2』、2013年、で報告されている。

防衛体制の整備は、軍事上の重要性や各地域の事情から、築城時期に遅速があったと思われる。現在の出土遺物を見る限り、鬼ノ城は飛鳥Ⅳ期が始期であり、7世紀第4四半期頃から8世紀初頭にかけて機能し、きわめて短期間にその使命を終えたと考える。

鬼ノ城は、地元に定着した朝鮮半島系の人達が動員され、他地域にないような古代山城を造ったと思われる。また、発掘された土器を見れば、667年頃の築造はあり得ると思われる。

九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である。

・1898年(明治31年)高良山の列石遺構が学会に紹介され、神籠石の名称が定着した。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある屋嶋城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。

 しかし、近年では、学史的な用語として扱われ、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた。

 

●その他

・鬼ノ城は、2006年4月6日に日本城郭協会が選定した、日本100名城(69番)に選定されている。

・1990年、史跡「鬼城山」の指定地が公有化された。城内域の70%を岡山県が所有し、外郭線の下方を含む他の面積を総社市が所有する。

・城内の試掘調査に先立ち、地元住民他の湿地の自然保護の要望に対し、岡山県と総社市の教育委員会を交えて「文化財保護と自然保護」の調整が行われた。

・鬼城山の森林植生は健全なアカマツ林であり、特異な事例と言える。

 

●現地情報

 城跡は、終日、無料公開であるが夜間照明はない。鬼城山ビジターセンターには、約70台の無料の駐車場が整備されて、飲料水の自販機は設置されている。その他の現地情報は、外部リンクの「鬼城山ビジターセンター」などを参照のこと。


2 古代吉備の伝承


(1)温羅伝説


(引用:『温羅伝説』ー史料を読み解くー 中山 薫 岡山文庫)

 この「温羅伝説」の項は、筆者・中山薫氏から贈呈を受けた大学後輩から紹介された『温羅伝説』から抜粋したものである。細部は、引用文献を参照されたい。

 

 第1章 「鬼城縁起」ー室町時代の温羅伝説(要約)

・第7代孝霊天皇即位5年、鬼神・剛伽夜叉(ごうきゃやしゃ)富士山から吉備の国へ飛び去って、巌谷峰(総社市奥坂・岩屋)にたて籠った。

・鬼神は、吉備の国中をかけり飛び、民の妻子を取り喰らい、六畜を殺し食料にした。

・国中の老いも若きも四方に逃げ散って、手を取り合って天皇のおられる王城まで逃げあがった。

・天皇は驚かれ、第一の皇子(吉備津彦命)を鬼神討伐のため、吉備の国へ下された。

・吉備津彦命は、加夜郡生石庄の昇龍山(吉備の中山)に城郭を構え、日々夜々戦われた。

・鬼の城は、その高さ120丈、四方悉く巖である。飯炊き釜、人畜を煮る釜がある。

・鬼神は、阿曾之庄(総社市阿曾)の美女を淫愛し、人々は、愛しい妻や子を鬼神にさらわれた。

・吉備津彦命は、楽々森舎人に命じて、鬼神・剛伽夜叉とその家来達を討伐する計画された。

・吉備津彦命の陣取った昇龍山と鬼神の住まう鬼の城とは、相去ること、百余町。両者の射る矢は、中間で相手の矢に当たり、食い合って落ちた。

・吉備津彦命の弓を引く力が、少し衰えた時、肥後国青原に初めて住まわれた住吉神が牧童に姿を変えて現れ、矢を2本つがえ射たえば、1本の矢は鬼神の矢と喰い違えるが、いま1本の矢は、鬼の城まで飛んでいき、鬼の胸に必ず当たると答えた。

・吉備津彦命が、2本の矢を射られ、1本の矢が鬼の胸に当たり、鬼神は坐石から転げ落ち、童子に変身して岩屋に逃げようとしたが出来ず、雷鳴が鳴り、大洪水が起きた。

・鬼神は、その濁流の中に飛び込み、鯉になって大海に遁れようとしたが、吉備津彦命が自身鵜となって、その鯉を、口ばしで捕らえ、川から引き上げた。

・吉備津彦命は、鬼神の頭を串に刺しさらしものにされ、この首を犬に喰わせた。骨だけになった頭蓋骨は、動き、うなり吠え続けた。

・吉備津彦命は、自分の食事を炊く釜の下に埋め、鬼神が愛しく愛していた安良女を招き、その竃で、朝夕の食事の火を炊かせた。その後、12年間、鬼神の吠えうなる声は、数里四方に聞こえた。

・今は、お供えの食事を煮る時のみ、吠えうなっている。又、今にいたるまで、お供えの食事を炊く女性を、愛染女(あそめ)と言っている。古い時代、阿曾庄の女性が、代々、竃の火をたいていた伝統から、アソメの名称は起こった。

・51代平城天皇の御時、勅使が立てられ、勅使が、お供えの食事を炊く釜を御覧になった時、竃を炊いていた愛染女、月の役の際中であったため、釜は、うなり吠えず、鳴動しなかった。このため、神楽を奏したところ、神勅があり、「強いて阿曾之庄の女性を選ぶ必要はない。ただ、月の役の無くなった女性を選定し、竃を炊かせよ」とするものであった。

 

第2章 「吉備津宮勧進帳」ー安土桃山時代の浦伝説(要約)

・神書伝記に次の如く記録している。山陽道に鎮座する備中一品(位)吉備津彦大明神は、人間天皇の最初・神武天皇から7代目にあたる孝霊天皇の皇子であり、日本中で並ぶもののない大明神である。

・次の如く、伝え聞いている。孝元天皇の時代、異国である外国の国王が日本を侵略しようとして、幾千人の義勇軍を集め、日本国に向った。異国の国王は、鬼神に命じて、日本国賀陽郡に存在する高山に登らせ、岩や石畳を動かし集め、城郭を築かせた。そして、日本国の西半分を支配した。

・西日本の人々は、大変な苦しみに陥(おとしい)れられた。日本の天皇家も滅亡の危機に瀕した。

・侵略・反逆軍を平定する為、中央政府軍を派遣したが、日本国天皇の命令に従わず、中央政府軍の兵士は、多く戦死した。

・中央政府の貴族たちは相談して、天皇に申し上げたところ、「一宮彦命が大将となり、敵を討伐せよ」との命令が下された。

・一宮彦命を対象とする討伐軍が派遣され戦ったが、なかなか勝敗はつかなかった。というのは、双方が射る矢は、空中で噛み合い、海底に落ちたからである。そこで、一宮彦命は、一度に2本の矢を猛烈な速さで射放った。1本の矢は、海底に落ちたが、もう1本の矢(鏑矢)は、冠者(かじゃ)(侵略・反逆軍の大将、異国王)の身体に命中し、大怪我を与えた。

・一宮彦命の軍勢は、時を移さず、直ぐ侵略・反逆軍が立てこもる城郭を征服、滅ぼし敗北させた。しかしながら、冠者は、いろんな姿に変身して逃亡したが、遂に取り押さえられ、捕虜になった。

・冠者は、一宮彦命に降伏を申し出て、「私の名前を譲り、一宮吉備津彦大明神と号されよ」と。

・異国より侵略してきた対象は、日本国に対する反逆心を完全に翻し改めた。現在の吉備津神社の末社に御竃殿があるが、その御竃殿の釜主である霊神と成った。雷の如き大きな声を発し、信、不信、吉、凶を表し、賞罰を正し、それを厳密に明確にした。

・御竃殿の霊神は、古代新羅国の国王で、今は吉備津宮の神徳を守護している。

・神功皇后が、新羅・百済・高句麗を滅ぼそうとしたとき、天の神、地の神の協力を仰ぎ、諏訪の神、住吉の神とともに、吉備津の神は、大将軍となって、遠く異国に赴き、敵を平定し終えた。

・清和天皇が帝位を争われた時、吉備津宮二幣を献じ奉られたところ、無事即位され、清和天皇が吉備津宮に土地を寄進されると、世の中は平和に治まった。

 

第3章 「備中吉備津宮縁起」・謡曲「吉備津宮 磐山トモ」ー江戸時代初期の温羅伝説

 

作業中 令和2年8月6日現在

 

第4章 「備中国大吉備津宮略記」ー江戸時代後期の温羅伝説

第5章 「吉備津宮縁起」ー幕末期の温羅伝説

第6章 諸温羅伝説のまとめ

第7章 温羅伝説成立の背景

第8章 温羅伝説中の吉備の神話

 

作業中

 


3 吉備の中山


(1)吉備津神社


(引用:Wikipedia

 

 吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である。

 

〇参考Webサイト

吉備津神社(Wikipedia)吉備津神社(公式サイト)吉備津神社(玄松子の神社記憶)

 

本殿(国宝)(写真引用:Wikipedia)

●概要

 岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座する。吉備の中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。

 本来は吉備国総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。

 足利義満造営とされる本殿は独特の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。

 当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。

 

●祭神

祭神は次の9柱。

・主祭神

 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)

 第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと)、五十狭芹彦命)」。

 崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。

・相殿神

 ・御友別命(みともわけのみことのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。

 ・仲彦命(なかつひこのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。

 ・千々速比売命(ちちはやひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。

 ・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。

 ・日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。

 ・倭迹迹日稚屋媛命(やまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。

 ・彦寤間命(ひこさめまのみこと) - 大吉備津彦命の弟。

 ・若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと) - 大吉備津彦命の弟。

 古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で1つの神社を成した(他4社の祭神は後述の「摂末社」項参照)。

・祭神の関係略図

 

●歴史

・創建

 社伝によれば、祭神の大吉備津彦命は吉備中山の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなって山頂に葬られた。5代目の子孫の加夜臣奈留美命茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする説もある。また、吉備国に行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を創建したという説もある。

・概史

 朝廷からの篤い崇敬を受け、国史では承和14年(847年)に従四位下の神階を受けた記載が最初で、翌年には従四位上に進んだ。仁寿2年(852年)には神階が品位(ほんい)に変わって四品(しほん)が授けられ、10世紀には一品(いっぽん)まで昇叙された。

 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では備中国賀夜郡に「吉備津彦神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

 中世には武家の崇敬を受け、たびたび社殿の修復や社領の寄進があった。江戸中期には三重塔を破却し神仏分離を行った。

・明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列し、公称を現在の「吉備津神社」に定めた。大正3年(1914年)には官幣中社に昇格した。

 

●神階

・六国史時代における神階奉叙の記録

 ・承和14年(847年)、無位から従四位下 (『続日本後紀』) - 表記は「吉備津彦命神」

 ・嘉祥元(848年)従四位上 (『続日本後紀』) - 表記は「吉備津彦命神」

 ・仁寿2年(852年)四品、官社に列す (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」

 ・天安元年(857年)四品から三品 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」

 ・天安3年(859年)三品から二品 (『日本三代実録』) - 表記は「吉備都彦命」

・六国史以後

 ・天慶3年(940年)一品

 

●境内 

・本殿及び拝殿

本殿と拝殿(国宝)(引用:Wikipedia)

 現存する本殿・拝殿は、室町時代の明徳元年(1390年)後光厳天皇の命を受けた室町幕府3代将軍の足利義満が造営を開始し、応永32年(1425年)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続する。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。

 本殿の大きさは、出雲大社本殿八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられる。地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺とする。内部は中央に閉鎖的な内々陣とその手前の内陣があり、その周囲を一段低い中陣とし、中陣の手前はさらに一段低い朱の壇(あけのだん)とし、これらの周囲にさらに低い外陣が一周する。このように、外側から内側へ向けて徐々に床高を高くする特異な構造である。壁面上半には神社には珍しい連子窓をめぐらす。挿肘木、皿斗、虹梁の形状など、神社本殿大仏様(だいぶつよう)を応用した唯一の例とされる。

 拝殿は本殿と同時に造営され、桁行(側面)三間、梁間(正面)一間妻入りで、正面は切妻造、背面は本殿に接続。正面と側面には裳階(もこし)を設ける。屋根は本殿と同じく檜皮葺だが、裳階は本瓦葺きとする。これら本殿・拝殿は、合わせて1棟として国宝に指定されている。

・その他の社殿 

      

         御釜殿(国の重要文化財)    回廊   北随神門(国の重要文化財)

(引用:Wikipedia)

御釜殿:江戸時代、慶長11年(1606年)の鉱山師・安原知種による再建。単層入母屋造の平入で、本瓦葺。南北に伸びた長方形で、北二間に釜を置く。金曜日を除く毎日、特殊神事の「鳴釜神事」が行われる。国の重要文化財に指定されている。

回廊:戦国時代、天正年間(1573年-1591年)の造営とされる。総延長398m。岡山県指定文化財に指定されている。

・北随神門:室町時代、天文11年(1542年)の再建。単層入母屋造檜皮葺。神社正面からの参道途中に建てられている。国の重要文化財に指定されている。

・南随神門:南北朝時代、延文2年(1357年)の再建。吉備津神社では最古。単層入母屋造本瓦葺。本宮社への回廊途中に建てられている。国の重要文化財に指定されている。

 

●摂末社

 古くは5つの社殿と72の末社があったとされる。5つの社殿(本社正宮・本宮社・新宮社・内宮社・岩山宮)「吉備津五所大明神」と総称した。現在、新宮社と内宮社は本宮社に合祀されている。

・本宮社 - 五所大明神の1社。祭神:孝霊天皇(第7代。大吉備津彦命の父)

・新宮社 - 五所大明神の1社。祭神:吉備武彦命(若日子建吉備津日子命の子)。本宮社に合祀。

     明治末までは南方の東山に鎮座。

・内宮社 - 五所大明神の1社。祭神:百田弓矢比売命(大吉備津彦命の妃)。本宮社に合祀。

     元は吉備の中山の南部山上に鎮座。

・三社宮 - 次の3社を総称:春日宮 大神宮 八幡宮

・岩山宮 - 五所大明神の1社。祭神:建日方別命(吉備国の地主神)

・滝祭神社

・えびす社

・祖霊社

・一童社

・宇賀神社 - 神池の島に鎮座。 


(2)吉備津彦神社


(引用:Wikipedia

〇参考Webサイト

 ・吉備津彦神社(Wikipedia)  吉備津彦神社(公式サイト) ・吉備津彦神社(玄松子の神社記憶)

 

大燈籠と拝殿(写真引用:Wikipedia)

●概要

 岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓には備中国一宮・吉備津神社が鎮座する。

 当社と吉備津神社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀する。

 大化の改新を経て吉備国が備前・備中・備後に分割されたのち、備前国一宮として崇敬された。中世以後は、宇喜多氏、小早川秀秋、池田氏など歴代領主の崇敬を受けた。

 なお敷地内に岡山県道700号岡山総社自転車道線(吉備路自転車道)の指定路が含まれているため、同県道が南北の両鳥居を潜り随身門の前を通過する形で本社敷地内を横断している。

 

●祭神

祭神は次の12柱。

・主祭神

 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)

 第7代孝霊天皇の皇子。大吉備津日子命とも記し、別名を比古伊佐勢理比古命とも。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したとされる。

・相殿神

 ・吉備津彦命(若日子建吉備津彦命、稚武彦命) - 大吉備津彦命の弟または子。

  なお、一般には「吉備津彦命」といえば主祭神の大吉備津彦命の方を指す。

 ・孝霊天皇 - 第7代天皇。大吉備津彦命の父。

 ・孝元天皇 - 第8代天皇。大吉備津彦命の兄弟。

 ・開化天皇 - 第9代天皇。孝元天皇の子。

 ・崇神天皇 - 第10代天皇。開化天皇の子。

 ・彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。

 ・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと) - 第5代孝昭天皇の子。

 ・大倭迹々日百襲比売命(おおやまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。

 ・大倭迹々日稚屋比売命(おおやまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。

 ・金山彦大神

 ・大山咋大神

 

●歴史

 社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。

 延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが吉備津彦神社の記載はない。しかしながら、一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱(藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。

 戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。

 江戸時代になると姫路藩主で岡山城主の池田利隆が本社を造営した。利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築した。その後、岡山藩主池田忠雄により本社・拝殿が造営された。池田綱政が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成した(元禄10年(1697年)に完成)

 明治5年(1872年)、近代社格制度において県社に列し、昭和3年(1928年)国幣小社に昇格した。

 昭和5年(1930年)12月、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に完成したものである。

 

〇境内

境内(引用:Wikipedia)

●本社

 社殿は、夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで祭文殿の鏡に当たる造りになっている。吉備津彦神社の「朝日の宮」の別称はこれに因むという。

主要社殿

 本殿 /渡殿/祭文殿/拝殿

石造大燈籠

・随身門

・平安杉

・神池 - 靏島(鶴島)・亀島・五色島が浮かぶ。

 

●吉備の中山

 境内後方に立つ吉備の中山には多くの古墳や古代祭祀遺跡が残り、古くより神体山としての信仰がなされていたと考えられている。最高峰の北峰・竜王山(標高175m)山頂には吉備津彦神社の元宮磐座や摂末社の龍神社が鎮座し、中央の茶臼山(160m)山頂には大吉備津彦命の墓とされる古墳が残っている。

元宮磐座 - 古代に祭祀が行われていたとされる。

奥宮磐座 - 「八畳岩」ほかの磐座が残る。岩周辺の土中からは、多くの土師器の破片が発掘された。

環状神籬

中山茶臼山古墳 

大吉備津彦命墓 拝所(引用:Wikipedia)

- 墳丘長120mの前方後円墳。宮内庁により「大吉備津彦命墓」として治定。

尾上車山古墳

石舟古墳

藤原成親遺跡

吉備考古館 

 

〇摂末社

●摂社

子安神社:祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・木花佐久夜姫命・玉依姫命

  岡山藩主池田氏の崇敬が篤かったことから摂社になったとされる。

●末社

 楽御崎神社2社・尺御崎神社2社は本殿の周囲四隅に鎮座する。祀られる4神は大吉備津彦命の平定に従ったと伝えられる。

楽御崎神社祭神:楽々森彦命(ささもりひこ) 本殿向かって右手前に鎮座。

楽御崎神社:祭神:楽々与理彦命(ささよりひこ) 本殿向かって左手前に鎮座。

尺御崎神社:祭神:夜目山主命(やめやまぬし) 本殿向かって右奥に鎮座。

尺御崎神社: 祭神:夜目麿命(やめまろ) 本殿向かって左奥に鎮座。

岩山神社:祭神:建日方別命(中山主神とも)

    - 伊邪那岐命・伊邪那美命の子(国産みでの吉備児島)。本殿向かって左手の石祠。

下宮(しものみやじんじゃ) - 祭神:倭比売命。例祭:4月10日。

伊勢宮 - 祭神:天照大神

幸神社(こうじんじゃ) - 祭神:猿田彦命。例祭:4月9日。

鯉喰神社(こいくいじんじゃ) - 祭神:楽々森彦荒魂。例祭:9月24日。

矢喰神社(やぐいじんじゃ) - 祭神:吉備津彦命御矢。例祭:9月24日。

坂樹神社(さかきじんじゃ) - 祭神:句々廼馳神。例祭:3月21日。

祓神社(はらいじんじゃ) - 祭神:祓戸神。例祭:10月22日。

天満宮 - 祭神:菅原神 菅原道真は配流途中に吉備津彦神社に立ち寄ったと伝える。

稲荷神社 - 祭神:倉稲魂命、素盞嗚尊、伊弉諾命。

卜方神社(うらかたじんじゃ) 

温羅神社(うらじんじゃ) - 祭神:温羅属鬼之和魂(大吉備津彦命に討たれた鬼・温羅の和魂)。

祖霊社

牛馬神社 - 祭神:保食神

十柱神社(とはしらじんじゃ) - 祭神:吉備海部直祖など10柱

亀島神社 - 祭神:市寸島比売命

靏島(鶴島)神社 - 祭神:住吉神(住吉三神と神功皇后)

龍神社(八大竜王) - 祭神:龍王神。 


4 吉備真備


(1)吉備真備のプロフィール


(引用:Wikipedia)

吉備 真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲位は勲二等。

1 出自

 下道氏(下道朝臣)は下道国造氏で、孝霊天皇の皇子である稚武彦命の子孫とされる皇別氏族。下道国とは備中国下道郡付近の、下道・川上・浅口などの諸郡と想定される。姓は臣であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定を通じて朝臣に改姓した。

2 経歴

 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。

 元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学んだ。唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは

吉備真備阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどであった。

2.1 聖武朝での異例の昇進

 聖武朝の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着するが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携えて帰朝した。

 帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻・『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻・平射箭10隻)などを献上し、ほかにも史書『東観漢記』ももたらせたという。

 帰朝時に従八位下という卑位にも関わらず名と招来した物品の詳細が正史に記されていることから、真備がもたらせた物がいかに重要であったかが推察される。真備は渡唐の功労により従八位下から一挙に十階昇進して正六位下に叙せられるともに、大学助に任官した。この抜擢人事から、真備の唐留学の実績を高く評価して重用しようとする朝廷の強く積極的な態度が窺われる。

 天平8年(736年)外従五位下に叙せられると、天平9年(737年)正月に内位の従五位下、同年12月には玄昉の看病により回復した皇太夫人・藤原宮子が聖武天皇と36年ぶりに対面したことを祝して中宮職の官人に叙位が行われ、中宮亮の真備は従五位上に叙せられるなど、急速に昇進する。さらに、天平10年(738年)橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督を兼ねた。天平12年(740年)には真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こして敗死している藤原広嗣の乱

 天平13年(741年)東宮学士に任ぜられると、天平15年(743年)には従四位下春宮大夫兼春宮学士に叙任されて、皇太子・阿倍内親王の指導・教育にあたり、『漢書』『礼記』なども教授したという。

 また、天平18年(746年)下道朝臣姓から吉備朝臣姓に改姓している。これにより、真備の一族が下道氏が勢力基盤を置いていた備中国下道郡だけでなく、吉備地方(備前国・備中国・備後国)全域を代表する大豪族と認められたとする見方がある。しかし、藤原仲麻呂が台頭すると、天平19年(747年)春宮大夫(後任は仲麻呂派の石川年足)・東宮学士を止められて右京大夫に転じた。なお、玄昉は天平17年(745年)筑紫観世音寺の別当に左遷され、翌年に同地で没している。天平20年(748年)真備は釈奠の儀式服制の改定を行った。

2.2 藤原仲麻呂政権下での左遷と再度の入唐

 天平勝宝元年(749年)阿倍内親王の即位(孝謙天皇)に伴って従四位上に叙せられる。しかし、孝謙朝では大納言兼紫微令に就任した藤原仲麻呂が権勢を強め、左大臣・橘諸兄を圧倒する。この状況の中で、真備も天平勝宝2年(750年)に格下の地方官である筑前守次いで肥前守に左遷された。筑前国はかつて藤原広嗣が反乱の際に最初に軍営を造った場所で、肥前国は広嗣が捕らえられ誅殺された国であったことから、真備のこれら国守への任官は広嗣の乱の残党による再度の反乱を防止するために行われたとする見方がある。

 一方、同年には第12次遣唐使が派遣されることになり、大使に藤原清河、副使に大伴古麻呂が任命される。ところが、翌天平勝宝3年(751年)になると真備が追加の副使に任ぜられるが、副使が2名となるだけでなく、大使・藤原清河(従四位下)より副使・吉備真備(従四位上)の方が位階が上という異例の人事であった。結局、天平勝宝4年(752年)出航直前に藤原清河を正四位下(二階)、大伴古麻呂を従四位上(四階)と大幅に昇進させて、体裁が整えられている。

 同年真備らは再び危険な航海を経て入唐する。唐では高官に昇っていた阿倍仲麻呂の尽力もあり、仲麻呂を案内者として宮殿の府庫の一切の見学が許されたほか、帰国に当たっては鴻臚卿・蒋挑捥が揚州まで同行するなど、破格の厚遇を得られたという。

 翌天平勝宝5年(753年)6月頃に遣唐使節一行は帰国の途に就き、11月に蘇州から日本へ向けて出航、真備は第三船に乗船すると、鑑真と同じく屋久島へ漂着し、さらに紀伊国牟漏埼(現在の和歌山県東牟婁郡太地町)を経由して、何とか無事に帰朝した。なお、この帰途では大使・藤原清河や阿倍仲麻呂らの船は帰国に失敗し、唐に戻されている。

 帰朝しても真備は中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754年)正四位下・大宰大弐に叙任されてまたもや九州地方に下向する。この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に赴任させたとの見方がある。

 10年近くに亘る大宰府赴任中、大宰帥は石川年足・藤原真楯・阿倍沙弥麻呂・船王・藤原真先の5人だったが、船王以外はいずれも参議兼官であったことから、真備が大宰府の実質的な責任者であったとみられる。

 まず、天平勝宝8歳(756年)新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)唐の安史の乱に備えるよう勅を受けている。天平宝字3年(759年)以下の通り不安点四ヶ条を大宰府より言上する。この進言は、内容を鑑みて軍事に精通し怡土城を築いた真備によって原案が作成されたと考えられる。

 1)警固式では、博多大津・壱岐・対馬など要害の地には100隻以上の船を不測の事態に備える

  ことを定めているが、現在使用できる船がなく、万一の事態が発生しても間に合わない。

 2)大宰府は三方を海に面しており諸蕃国と向き合っている。一方で東国からの防人の派遣を

  廃止して以降、国境の守護は日毎に荒廃している。万一の事変が発生しても、我が国の威力を

  示すことができない。

 3)管内の防人は専ら築城を止め、武芸の修練に努め戦場での陣立てを習うことになっている。

  しかし、大宰大弐・吉備真備は築城のために防人に対して50日間武芸を教習し、10日間築城の

  ための労役を課すことを論じており、大宰府の中で意見が割れている。

 4)天平4年(732年)に勅があり、西海道諸国の兵士は調庸を全て免除し、同じく白丁は調を免除

  して庸のみ輸納させることとした。当時はこれにより民は休まり兵は強まった。現在は管内の

  百姓は窮乏の極みにある者が多く、再び租税や労役の減免がなければ自立することができない。

これに対して、淳仁天皇より以下の勅があった。

 1)公用の食糧を支給し、雑徭によって造船を行う。

 2)東国からの防人派遣は衆議により許されない。

 3)管内の防人に10日の労役を課すことは、真備の建言を認める。

 4)租税や労役の減免については、行政が理に適って行われれば人民は自然に富強になるはずで、

  官人はその職務をよく務め、朝廷の委任に沿うようにせよ。

 天平宝字3年(759年)6月に新羅を討つために大宰府にて行軍式(軍事行動に関する規定)が作成されると、8月に新羅征討を行う方針が決まり、同年9月には船500艘を造ることが決まるなど遠征の準備が進められるが、これに関して、以下の活動記録がある。なお、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている。

 ・天平宝字4年(760年)平城京から派遣された授刀舍人・春日部三関と中衛舍人・土師関成らに

 対して、諸葛亮の「八陳」と孫子の「九地」、および軍営の作り方を教授した。

 ・天平宝字5年(761年)新羅征討の軍備を整えるために節度使が設置されると、西海道節度使に

 任ぜられる(副使は多治比土作と佐伯美濃麻呂)。

 大宰府赴任中の真備は対新羅の拠点となる築城を行い、四ヶ条の言上により新羅征討計画に対して重要な示唆を与え、行軍式を作成するなど、唐で学んだ兵学を実践して仲麻呂政権を通じて計画された新羅征討策の一翼を担った。

2.3 藤原仲麻呂の乱を通じた復権と右大臣就任

 天平宝字8年(764年)正月に70歳となった真備は、致仕の上表文を大宰府に提出する。しかし、上表文が天皇に奏上される前に造東大寺長官に任ぜられ帰京する。また同年にはかつて真備が唐から持ち帰った大衍暦について、30年近くの長きに亘っての準備の末、儀鳳暦に替えて適用が開始されている。

 同年9月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、緊急で従三位・参議に叙任されて孝謙上皇側に参画する。真備は中衛大将として追討軍を指揮し、兵を分けて仲麻呂の退路を断つなど優れたれた軍略により乱鎮圧に功を挙げる。翌天平神護元年(765年)には乱の功労により勲二等を授けられた。

 天平神護2年(766年)称徳天皇と法王・弓削道鏡の下で正月に中納言へ、同年3月に藤原真楯薨去に伴い大納言へ、さらに同年10月には従二位・右大臣へ昇進して、左大臣・藤原永手と並んで太政官を領導した。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまで至ったのも、近世以前では吉備真備菅原道真の二人のみである。またこの頃には、大和長岡とともに養老律令の修正・追加を目的とした刪定律令24条を編纂し、神護景雲3年(769年)制定させている。

 神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩じた際には、娘(または妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三次いで文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い。

2.4 引退

 光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の官職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨御。享年81。最終官位は前右大臣正二位。奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。

3 人物

・公務の傍ら、孔子を始めとする儒教の聖人を祭る朝廷儀礼である釈奠の整備にも当たった。著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがある。在唐中に書を張旭に学び、帰朝後に晋唐の書を弘めた。

・古筆中に『虫喰切』『南部の焼切』が現存するとしているが、研究者には否定意見がある。

・「日本国朝臣備書」と末尾にある墓誌が2019年12月に中国河南省洛陽で発見された。真備が遣唐使で717年 - 734年の留学中に書者となり書いたとみられる。気賀沢保規によると楷書で書かれ、唐代の有名な書家、褚遂良の影響が見て取れ本物とみられる。書跡は日本では見つかっていない。文面では、唐代に外国使節への応接、対応を司る官庁の鴻臚寺の接待を担当した中級官僚の李訓の墓誌で、開元22(734)年6月20日に死去し、同年月25日に埋葬され、19行、328字の漢字が刻まれていた。長さ35センチメートル、幅36センチメートル、厚さ8.9センチメートルの石製。2013年広東省の深圳望野博物館が2013年に入手したもので分析して判明した。

4 伝説

 『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、殺害を企てた唐人によって、真備は鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と共に遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。

 真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰は呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる。

 中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜三略』の兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とした。囲碁に関しても、日本に初めて持ち帰ったとされる伝承があるが、魏志倭人伝に囲碁と双六が齎されたことが記載されており事実ではない。

 また、真備は陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。その他、『今昔物語集』では玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。

 『宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。

5 官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

 ・霊亀2年(716年) 8月20日?:遣唐使留学生

 ・天平7年(735年) 4月26日:見従八位下。日付不詳:正六位下、大学助[34]

 ・天平8年(736年) 正月21日:外従五位下(越階)

 ・時期不詳:中宮亮(皇太夫人・藤原宮子)

 ・天平9年(737年) 2月14日:従五位下(内位)。12月27日:従五位上(皇太夫人藤原氏与天皇相見)

 ・天平10年(738年) 7月7日:見右衛士督

 ・天平12年(740年) 11月21日:正五位下

 ・天平13年(741年) 7月3日:東宮学士(東宮・阿倍内親王)

 ・天平15年(743年) 5月5日:従四位下(越階、学士労)。6月30日:春宮大夫、皇太子学士如故

 ・天平18年(746年) 10月19日:下道朝臣から吉備朝臣に改姓

 ・天平19年(747年) 3月:辞春宮大夫東宮学士[要出典]。11月4日:右京大夫

 ・天平勝宝元年(749年) 7月2日:従四位上(孝謙天皇即位)

 ・天平勝宝2年(750年) 正月10日:筑前守。月日不詳:肥前守[34]

 ・天平勝宝3年(751年) 11月7日:遣唐副使

 ・天平勝宝6年(754年) 4月5日:大宰大弐。4月7日:正四位下

 ・天平宝字5年(761年) 11月17日:西海道節度使

 ・天平宝字8年(764年) 正月21日:造東大寺長官。9月11日:従三位 、参議兼中衛大将[34]

 ・天平神護元年(765年) 正月7日:勲二等。正三位。9月24日:御装束司長官(紀伊国行幸)

 ・天平神護2年(766年) 正月8日:中納言。3月12日:大納言。10月20日:従二位、右大臣、

            中衛大将如元、兼備中国下道郡大領[要出典]

 ・神護景雲3年(769年) 2月:正二位

 ・神護景雲4年(770年) 9月7日:乞骸骨。10月8日:止中衛大将

 ・宝亀2年(771年) 3月:致仕

 ・宝亀6年(775年) 10月2日:薨御(前右大臣正二位勲二等)

6 系譜

・父:下道圀勝

・母:楊貴氏、または倭海直男足の娘・髪長支姫

・生母不明の子女

  女子:吉備由利 - または妹

  男子:吉備泉(740-814)

  男子:吉備与智麻呂

  男子:吉備書足

  男子:吉備稲万呂

  男子:吉備真勝


作成開始:02.08.05