トップ 古代史の謎

①全般 ②邪馬台国論争 ③第1次邪馬台国? ④第2次邪馬台国? 

⑤第3次邪馬台国? ⑥九州王朝説 ⑦古代遺跡 ⑧古代伝承 ⑨神社と祭神

⑩神仏習合と修験道  ⑪近現代の宗教政策


古代史の謎④第2次邪馬台国?


 このページでは、第2次邪馬台国?の謎を訪ねるため、九州島北部の豊前国・豊後国の歴史散歩を楽しむための関連事項を掲載します。

1 豊国の歴史散歩

(1)律令制以前の豊国について(2)律令制以後の豊前国(3)律令制以後の豊後国 

2 豊前国の歴史散歩

(1)宇佐神宮(宇佐八幡宮)(2)香春神社(3)大分八幡宮(4)英彦山

3 豊後国の歴史散歩

(1)健男霜凝日子神社(2)西寒多神社(3)柞原八幡宮(4)祖母山

4 邪馬台国九州説(中津・宇佐説)  

(1)中津・宇佐説の論文等 


1 豊国の歴史散歩


(1)律令制以前の豊国について


(引用:Wikipedia)

 豊国(とよのくに)は、かつて日本にあった律令制以前の国の一つ。『国造本紀』によれば、成務朝に伊甚国造と同祖の宇那足尼豊国造に任じられたとされる。  

 地理的には、九州の北東部に位置し、現在の福岡県東部および大分県全域に相当する。

『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に生まれた筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「豊日別(トヨヒワケ)といったといわれる。 

「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。」

 

 『豊後国風土記』は、国名の由来について以下のように伝えている。

「景行天皇の命によってこの地域を治めていた菟名手(うなで)が仲津郡(なかつぐん: 現在の福岡県東部にかつて存在した郡)を訪れると、白鳥が飛んで来て、まず餅となり、次いで冬であったにもかかわらず幾千もの芋草(里芋)となって茂ったので、菟名手がこの芋を天皇に献じたところ、景行天皇は「天の瑞物、土の豊草なり」と喜んで、この地を「豊国」と名付けた。」

  豊国は、7世紀末の文武天皇のころに、豊前国豊後国の二つに分けられたといわれる。しかし、考古学での発掘成果から、この地域全体を統治するような勢力があったわけではなく、当時の中央政権がこの地域の一部にあった豊国の名称を全体を指して使用した、あるいは豊前国、豊後国の制定時に使用した、との説が唱えられている。 

 後に令制国に対し中国風の別称がつけられた際、豊前国と豊後国のどちらか一方、あるいは両方をさして豊州(ほうしゅう)と称するようになった。また、豊国と同じ地域、すなわち、豊前国と豊後国の両国をさす語としては、二豊(にほう)両豊(りょうほう)も用いられる。福岡県東部を除く豊国のほぼ全域大分県にあたることから、今日でも「豊国」「二豊」大分県の別名として用いられることがある。 


(2)律令制以後の豊前国


(引用:Wikipedia)

1)領域

 領域は、福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)筑豊地方の東側(田川市・田川郡)京築地方の全域、及び大分県北部(中津市・宇佐市)から成る。 

 1876年(明治9年)、豊前一国を管轄した小倉県は、全体が福岡県に編入された後、山国川以東の2郡が大分県に編入された。しかし豊前国として共通の歴史を持つため、現在でも文化面、生活面での結び付きが強い。 

 なお、豊前国豊津(みやこ町)出身の堺利彦はその自伝の中で、「筑前、筑後、豊前の三国が福岡県を成しているのだが、私は福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくなかった。何だか筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった。福岡県というものは、私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。私はどこまでも、豊前人でありたい。ただし豊前の中でも、北部の六郡の元小倉領だけに親しみがある。」と記している。 

2)沿革

 7世紀末に、豊国とよのくに、とよくに)を分割して豊後国とともに設けられたとされる。豊前は平安時代まで和名で「とよくにのみちのくち」と読んだ。 

 1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で豊前国内にあった豊津藩千束藩中津藩がそれぞれ県となり、同年11月14日の第1次府県統合によって3県および豊前国内の日田県管地(企救郡等)が統一されて小倉県となった。 

 1876年(明治9年)4月に小倉県福岡県に編入されたが、同年8月、豊前国(延喜式8郡)のうち最南部の2郡(宇佐郡・下毛郡)大分県に編入された。 

3)国内の施設

 3.1)国府

 国府は、仲津郡(現 福岡県。1896年(明治29年)2月26日 京都郡に編入)にあった。仲津郡は、景行天皇による豊国地名伝承発祥の地(『風土記』)である。なお、現在の福岡県京都郡みやこ町(旧豊津町)の国作~総社地区で遺跡が発見され、豊前国府跡公園として整備されている。 

3.2)国分寺

  豊前国分寺跡(ぶぜんこくぶんじあと)は、福岡県京都郡みやこ町にある寺院跡。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、豊前国国分寺の寺院跡にあたる。天正年間に大友宗麟の兵火により焼失したが、その江戸時代の元禄年間にほぼ復興。明治28年になって新たに高さ23.5mの三重塔が建立され、翌明治29年に落慶法要が行われた。 

 発掘調査はこれまでに2回行われている。奈良時代の講堂跡のほか、また鎌倉時代から室町時代にかけて敷地を取り囲んでいた大溝、僧房や回廊の跡と思われる建物跡が見つかっており、奈良時代の豊前国分寺は東西160m、南北160〜220m前後の規模があったものと考えられる[3]。 

3.3)神社

〇延喜式内社

 『延喜式神名帳』には、大社3座3社・小社3座3社の計6座6社が記載されている。6社とも渡来系の神であることが特色である。

・宇佐郡3座(並大)

 下記の3座は、全て名神大社で、いずれも現在の宇佐神宮(後述)(大分県宇佐市)に関わる神社である。

 八幡大菩薩宇佐宮/◆比売(ヒメカミ)神社/◆大帯姫(オホタラシヒメノ)廟神社

田川郡3座(並小)

 下記の3座は、全て名神小社で、いずれも現在の香春神社(後述)(大分県田川市)に関わる神社である。

 ◆辛国息長大姫大目命神社/◆忍骨命神社/◆豊比咩神社  

〇総社・一宮

・総社:惣社八幡神社 (福岡県京都郡みやこ町国作字総社)

・一宮:宇佐神宮(後述)

二宮以下は存在しない。 

〇安国寺利生塔

・興国寺 - 福岡県福智町上野。

・安国寺 - 福岡県北九州市小倉北区竪町。


(3)律令制以後の豊後国


(引用:Wikipedia) 

1)沿革

 7世紀末に、豊国とよのくに、とよくに)を分割して、豊前国とともに設けられた。豊後は、平安時代まで和名で「とよくにのみちのしり」と読んだ。

 『豊後国風土記』(※)は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る風土記の1つである。 

2)豊後国風土記

 豊後国風土記は、奈良時代初期に編纂された豊後国(ほぼ現在の大分県に相当)風土記である。現存する5つの風土記のうちのひとつ。 

2.1)概要

  『豊後国風土記』の正確な成立年代は不詳であるが、『日本書紀』中の景行紀とほぼ一致する記事が含まれること等から、720年以降で、遅くとも740年頃までの間であると考えられる。近年の研究では、形態が類似する『出雲国風土記』が天平5年(733年)に完成したとされることから、『豊後国風土記』も同じく天平5年頃に成立したとの説が有力である。 

 編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、天平4年(732年)西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10か月ほどで完成させたともいわれる。 

 文献としての体裁を保つ数少ない風土記の1つであり、その存在は『出雲国風土記』とともに近世以降確認されていた。しかし、現存する写本は、巻首と各郡首はそろっているものの、他は欠落した部分が多い。そのため、主に抄本と考えられ、文の量も現存する5つのうちでは最も少ない。また、抄本であること、『日本書紀』の記述と一致する記事が含まれること等から、後世の偽撰とする説がある。 

 『豊後国風土記』には現在までに100種以上の写本が確認されているが、その祖本は1980年に存在が確認された冷泉家に伝わる書写本であるとされる。この書写本には永仁5年(1297年)の奥書がある。『豊後国風土記』が広く世に流布されるようになったのは、寛政12年(1800年)に刊行された荒木田久老による板本と、文化元年(1804年)に刊行された唐橋君山による注釈本『箋釈豊後風土記』に拠るところが大きいとされる。 

2.2)構成と内容

 巻首には国名の由来が記載され、それに続いて、日田、玖珠、直入、大野、海部、大分、速見、国埼の各郡の名前の由来及び各地の伝承等が記載されている。地名はその由来を景行天皇の九州巡幸に求めたものが多い。また土蜘蛛の記述を多く含むことも大きな特徴と言える。

●国名の由来

 景行天皇の命で国を治めていた菟名手(うなで)豊前国仲津郡(なかつぐん)(現在の福岡県行橋市、みやこ町の一部)を訪れたところ、白鳥が飛来し、はじめは餅に化し、その後、冬にもかかわらず何千株もの芋草(里芋)に化して茂った。菟名手がこれを天皇に報告したところ、天皇は「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を「豊国」と名付けた。これが後に二つの国に分かれて豊後となった。 

●郡とその名前の由来

日田郡(ひたのこおり) - 景行天皇が巡幸した際に、この地で久津媛(ひさつひめ)という神が人と化して迎えたことから久津媛郡と名付けられたのが訛った。

球珠郡(くすのこおり) - 昔、大きな樟があったことから名付けられた。

直入郡(なおりのこおり) - 昔、真っ直ぐに伸びた大きな桑の樹があったことから直桑(なほくは)といったのが訛った。

大野郡(おおののこおり) - 大部分が原野であったことから名付けられた。

海部郡 (あまのこおり) - 海人が多く住んでいたことから名付けられた。

大分郡(おおいたのこおり) - 景行天皇が巡幸した際に、地形を見て、広く大きいので碩田国(おほきたのくに)と名付けたのが訛った。

速見郡(はやみのこおり) - 景行天皇が巡幸した際に、この地で女王の速津媛(はやつひめ)に迎えられたことから名付けられた。

国埼郡(くにさきのこおり) - 景行天皇が海路で巡幸した際に、「彼(そ)の見ゆるは、若(けだ)し、国の埼(さき)ならむ」と言ったことに因んで名付けられた。 

 なお、各郡の読みは、『和名類聚抄』に記載された読みを現代仮名遣いで表記したものである。 

●その他の主な記事

・五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野の打猴(うちさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白等の土蜘蛛征伐の記事が多数見られる。 

・現在の別府温泉の「赤湯の泉(赤湯泉)(現在の血の池地獄)、「玖倍理(くべり)湯の井」(現在の鉄輪温泉の辺りを指すと考えられている。)をはじめとする温泉についての記載が多く見られる。 

3)国内の施設 

3.1)国府

 国府は大分郡にあった。現在の大分市古国府と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。 

3.2)国分寺・国分尼寺

 豊後国分寺

 現在の金光明寺(大分県大分市国分) 

3.3)神社

〇延喜式内社

『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社5座4社の計6座5社が記載されている。大社1社は、名神大社ではない。

 

直入郡 健男霜凝日子神社(タケオシモゴリヒコジンジャ) (竹田市)

〔上宮〕祖母山の山頂に位置する祠である。現在はこの場所では祭祀は行われていない。

 なお、祖母山山頂には宮崎県側の山麓にある祖母嶽神社の上宮もある。

〔下宮〕白雉2年(650年)に社殿が建立されたと伝えられる。健男神社、健男社とも呼ばれる。穴森神社とともに、『延喜式神名帳』記載の「健男霜凝日子神社」の論社とされる。

〔神幸所〕かつては遥拝所であった。昭和9年(1934年)に国幣小社への昇格を目指して社殿が建立されたが、昇格を果たすことはできず、第二次世界大戦後は神幸所として祭事の中心になっている。

〔穴森神社〕祭神 - 嫗嶽大明神 神社の背後に嫗岳大明神の化身の大蛇が棲んでいたとされる岩窟があり、御神体とされている。この大蛇にまつわる緒方惟栄の出生伝説は『平家物語』巻第八 緒環の章でも語られている。岩窟内の小石を持ち帰ると子宝に恵まれるという伝承があり、恋愛成就・子宝祈願の参拝者が多い。かつては池の明神、窟大明神(いわやだいみょうじん)とも呼ばれた[5]。下宮とともに、『延喜式神名帳』記載の「健男霜凝日子神社」の論社とされる。 

大分郡 西寒多神社 (ササムタジンジャ)(大分市寒田) - 大社。

      

            鳥居    (引用:Wikipedia)     本宮山

〔祭神〕(主祭神:本殿)西寒多大神 (天照皇大御神、月読尊、天忍穂耳命の総称)

(相殿神)応神天皇/神功皇后/武内宿禰

(殿内所在諸神)伊弉諾大神・伊弉册大神/大直日大神・神直日大神/天思兼大神

       /大歳大神・倉稲魂大神/軻遇突智大神/天児屋根命/経津主神

〔創建〕「大分郡志」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現 本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立てたという。当地の人々はこれを崇敬して籬垣を結んで拝んでいた。その後、応神天皇9年4月、武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが創祀であるという。この伝承から、当社は本宮山を神体山として成立したと見られている。

〔式内社の比定〕式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社としては、他に西寒田神社(大分県臼杵市)がある。『豊後国志』『太宰管内志』では、そちらが本祠であるとし、応永15年(1408年)3月に大友親世が現在地に遷座したと伝えている。一方、大分郡の郡域や本宮山伝承から、こちらが本祠であろうとする見方が強い。

〔豊後国一宮の比定〕 当社の一宮への比定は、『豊後国志』『太宰管内志』「大分郡志」等による。一方で、豊後国一宮は柞原八幡宮も主張している。嘉応3年(1171年)の史料で「由原八幡宮」を一宮とするものがあり、宇佐八幡宮別宮の柞原八幡宮が当社を差し置いて一宮に転化したと見方が強い。一宮について記した史料では、根拠は不明ながら、『諸国一宮神名帳』(1375年以前成立)は柞原八幡宮を、『大日本国一宮記』(16世紀頃成立)は当社を記載している。

これに関連して、安永10年(1781年)の縁起では「当社を柞原神社ともいう」として両社を同体視する伝承を載せている。ただし、これは誤りと見られている。 

 ●速見郡 宇奈岐日女神社(ウナキヒメノ)(由布市)

 (別名:六所宮、木綿神社(ユフ)、木綿山神社) 

〔祭神〕

・国常立尊

・国狭槌尊

・彦火火出見尊

・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊

・神倭磐余彦尊 (初代神武天皇)

・神渟名川耳尊 (第2代綏靖天皇) 

〔ウナグヒメについて〕

 現在の祭神は、上記のように6柱の神々である。一方『延喜式』神名帳に記される社名は「宇奈岐日女神社」であり、かつ六国史における神階奉叙は「宇奈岐比咩神(宇奈支比咩神)」に対して行なわれていることから、当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている。 

 「ウナグヒメ」の名について、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたと推測されている。一方、「ウナギ(鰻)」に由来するとする説もある(後述)。 

 このウナグヒメに関して、古くは由布院盆地が湖であったという伝説(蹴裂伝説)がある。この中で、由布岳の神であるウナグヒメは目の前に広がる湖を見て、力持ちの大男に命じて岸辺を蹴破らせた。男が蹴破った結果水が抜けた湖は盆地となり、その跡を現在の大分川が流れるようになったという。大男は「道臣命」と名付けられたといい、現在も末社の蹴裂権現社に祀られている。また、湖の乾き残りが金鱗湖となったという伝えもある。

 しかしながら盆地の底にあたる地点から土器が発掘されたこと等もあり、考古学的・地質学的には湖伝説の真偽は明らかとされていない。伝承の考証として、ウナグヒメを『豊後国風土記』にも見える「速津媛」(速見郡の由来)とする説や、ヒメヒコ制の指摘がある。

 なお、大分県から発見された古文書『ウエツフミ』によると、ウナギヒメ綿花の栽培を司る神様であり、このあたり一帯がユフ(木綿)と呼ばれていたことからも、かつては木綿の栽培地であったことが推測される。鎌倉時代に、この『ウエツフミ』を書き著したのは初代・豊後国主の大友能直公であり、その記述は参考に価する。 

〔創建〕 社伝によれば、創祀は景行天皇12年10月であるという。『神社明細帳』では、景行天皇が征西のおりに当地で祭を営んだといい、同天皇3年に速津姫が勅を奉じて創祀したという伝承を伝える。

 当社は由布岳の南西山麓に鎮座している。『太宰管内志』では「木綿山にます神なので木綿ノ神社ともいう」という記述があるほか、『豊後国志』でも宇奈岐日女神は由布山神であると記されており、元々は由布岳を神体山として成立した神社であると見られている。

 一方、由布院盆地が古くは湖であったという伝承に基づき、ウナギ(鰻)を精霊として祀ったことに始まって、のちに由布岳の神と習合したという推測もある。 

●速見郡 火男火売神社ホノオホノメジンジャ)二座 (別府市)

〔祭神〕

・(上宮)火之加具土命・火焼速女命

・(中宮)火之加具土命・火焼速女命

・(下宮)伊弉諾命・伊弉册命・火之加具土神・大山祇神

〔創建〕

 社伝では、771年(宝亀2年)の創祀という。祭神で社名の由来ともなっている火之加具土命、火焼速女命は、神体山である鶴見岳の2つの山頂を男女二柱の神に神格化したものと考えられる。

 古代より豊後国速見郡の鶴見岳山麓に温泉があることは広く知られていたが、鶴見岳の活発な噴火活動で荒地や沼地になっており、整備されていなかった。『豊後国風土記』や『万葉集』には、現在の柴石温泉の血の池地獄にあたる「赤湯の泉」や、鉄輪温泉の地獄地帯にあたる「玖倍理(くべり)湯の井」等についての記載がある。また『伊予国風土記』逸文には、大国主命が火男火売神社の御神体である鶴見山麓から湧く「速見の湯」を海底に管を通して道後温泉へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が記載されている。 

●海部郡 早吸日女神社 (ハヤスイヒメジンジャ)(大分市佐賀関)(別称:関の権現様)

〔祭神〕

・八十枉津日神

・大直日神

・住吉三神(底筒男神・中筒男神・表筒男神)

・大地海原諸神

〔縁起〕

 神社の縁起によれば、紀元前667年に、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(後の神武天皇)が東征の途中で速吸の瀬戸(豊予海峡)を通りかかった折りに、海女の姉妹の黒砂(いさご)・真砂(まさご)の二神が、潮の流れを静めるために海底から大蛸が護っていた神剣を取り上げて神日本磐余彦尊に奉献したところ、神日本磐余彦尊自らがこの剣を御神体として、祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り、建国を請願したのが始まりであるとされる。 

 その後、大宝元年(701年)に現在の場所に遷座。慶長5年(1600年)には戦火によって社殿を焼失したが、熊本藩の所領となり、慶長7年(1602年)に加藤清正によって再建され、その後も歴代熊本藩主細川氏によって造営された。2004年3月には、本殿、総門、社家が大分県の有形文化財に指定されている。 

 長い間、神剣を守護していたタコは神社の眷族とされており、仕える神職は一切口にしない。現在でも参拝者の心願成就を書き入れたタコの絵を奉納し「タコ絶ち祈願」が行われている。

 毎年、5月上旬ふじ祭りが行われ、7月には大祭(夏祭り)が行われる。大祭では、山車や神輿が町内を回る。

 拝殿の屋根はこの地方独特の瓦技法を伝える屋根で、浦島太郎や三重塔などのユニークな瓦が乗っている。  

〇総社・一宮

●総社: 不詳

●一宮

 西寒多神社または柞原八幡宮 (大分市上八幡) - 並立し、古くから論争が続いていた。

(細部は、前述の西寒多神社の項を参照

●二宮以下は不詳である。

●安国寺利生塔

・豊後安国寺 - 大分県国東市国東町安国寺。


2 豊前国の歴史散歩


(1)宇佐神宮(宇佐八幡宮)


第2次邪馬台国 亀山古墳 卑弥呼の墓?

〇参考Webサイト(宇佐神宮):邪馬台国大研究ホームページ/遺跡巡り/宇佐神宮

(引用:Wikipedia)

〇概要

 宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)豊前国一宮勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社

 全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた[注 1]現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。

[注 1] :神仏習合の時代にあっても、多くの神社では神社を管理運営する寺院(いわゆる神宮寺)が同一敷地にあるといった形式が主流である。しかし宇佐神宮を筆頭とする全国の八幡宮の場合はそもそも八幡神自体が同時に八幡大菩薩という仏でもあったため、八幡宮と神宮寺は一体のものであり、「八幡宮」=「八幡大菩薩を本尊とする寺院」であった。宇佐神宮の場合は、その寺としての名称が弥勒寺であったのである。例えば、京都の石清水八幡宮の場合は神仏分離以前の正式には「石清水八幡宮護国寺」と称していた。このような事情から、神社のなかでも八幡宮はもっとも早くから神仏習合が進んだ神社であった。また同時に、神仏分離の際にも神宮寺が別個に境内外へ移転することもなく、そのまま寺としては廃寺となり、比較的早く神仏分離を完了した。宇佐神宮の場合、かつて弥勒寺として多数の塔頭・伽藍が立ち並んでいた菱形池周辺は今では茫漠とした広大な社叢となっている。ちなみに現在の呉橋を渡ったところには弥勒寺の楼閣がそびえていたが、これは戦前まで残っていた。  

宇佐神宮南中楼門 

南中楼門(写真引用:Wikipedia)

1)概要

 大分県北部大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。境内国の史跡に指定され、本殿3棟国宝に指定されている。 

 八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としている。 

2)祭神

主祭神は以下の3柱。

・一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)

・二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神多岐津姫命市杵島姫命多紀理姫命

・三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも

 いずれも上宮・下宮の両方に祭られている。 

 主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。 

3)歴史

3.1)創建

 宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)大分八幡宮宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社であるとする説や、大分県中津市の薦神社(こもじんじゃ)も元宮として有力視されている。 

 また、社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)祭神とするのはそのためと考えられる。 

 当社南に立つ御許山山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社があり、豪族宇佐氏磐座信仰当初の形態であろうともいわれている。そこに、辛嶋氏[注2]比売大神信仰を持ち込んだと考えられている。辛嶋氏は後に宇佐辛嶋郷に住み、辛嶋郷周辺に稲積六神社(いなずみろく-、稲積神社とも)乙咩神社(おとめ-)、さらに酒井泉神社郡瀬神社ごうぜ-、昔は瀬社とも)と社殿を建築した。

 崇峻天皇年間(588? - 592年?)鷹居社(たかいしゃ)が建てられた。

[注2]:スサノオの子・五十猛命が始祖とされる氏族で、当初は香春岳山麓に住み、その後現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたとされている。 

3.2)奈良時代以降

 和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄えたとされる。

 社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)一之殿が造営された。以後、天平元年(729年)二之殿、弘仁14年(823年)三之殿が造営されて現在の形式の本殿が完成したと伝えられている。 

 天平12年(740年)藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願した。また、天平15年(743年)の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして神護景雲3年(769年)の宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するなど、伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めた。 

 平安時代中期の『延喜式神名帳』には、3神が「豊前国宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮」、「豊前国宇佐郡 比売神社」、「豊前国宇佐郡 大帯姫廟神社」として記載され、いずれも名神大社に列している。

 また、平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であった。また神職家坊官家武士としても活動しており[注3]、このため近郊の(特に豊後国の)有力武士としばしば敵対している。

[注3]: 例えば豊臣政権期に黒田氏が中津に赴任してきた際、大宮司家のひとつ宮成氏や坊官家の時枝氏が黒田氏の配下に入ったことが知られている。 

 源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司・宇佐公通が平氏方につく。屋島の戦いから敗走する総大将・平宗盛ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間安徳天皇と共に公通の舘に滞在していたが、豊後の緒方惟義が源氏方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった(このとき悲嘆した平清経が自殺したという場所に、小松塚と呼ばれる石碑と五輪塔がある)。またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、神体(金の延べ棒との説もある)が強奪された。この後発見されるが、朝廷の裁定により石清水八幡宮が管理することになった[注4]。なお、金の延べ板は宇佐神宮に現存していたが、平成時代に紛失したとの情報がある。

[注4]:ちなみに神社としての石清水八幡宮はもともと宇佐神宮から八幡神を分霊したものであり、宇佐神宮のほうが本社である。しかし寺院としては宇佐八幡宮弥勒寺が石清水八幡宮護国寺の末寺という関係にあり(いずれも天台宗)、石清水八幡宮のほうが京に近く朝廷から直接崇敬されたこともあり、その後も「どちらが格上か」については宇佐神宮と石清水八幡宮の間で意見の相違があった。 

 鎌倉時代元寇でも当時の他の社寺同様に加持祈祷を行っている。この際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれた。その子・宇佐(到津)公連は鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。 

 戦国時代には豊後の守護戦国大名大友氏と、豊前国に手を伸ばしていた中国地方の覇者大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立した。特に大内盛見大内義隆の代には手厚く保護され、消失した社殿の造営や復興が行われた。また、宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている。しかし、大寧寺の変により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、大友宗麟の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司宮成公建らは北九州市の到津八幡まで逃げ延びることとなった。 

 豊臣秀吉の九州平定後、豊前には毛利氏、ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐した。 

 江戸時代には、宇佐一帯は中津藩・佐賀藩飛び地・天領などが複雑に入り組む土地となった。その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。 

3.3)神職

 宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)大神氏が務めた。 

 平安時代中頃までは大神氏が務めたが、神主職菟沙津彦 (ウサツヒコ) らの子孫・宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏である宮成氏、到津氏、岩根氏、安心院氏が大宮司を世襲した。その後、一族で大宮司を争うことになる。 

 鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。以後この2家が交互に大宮司職を継ぎ明治に至っている。なお、一時宇佐氏一族の出光氏も大宮司となっている。 

 戦後、祝氏・宮成氏が男爵を返上し宇佐氏に復して祭祀を離れ、以後は到津氏が継承し祭祀を行っていた。平成16年(2004年)ごろより到津宮司に代わって代務者が置かれるようになった。 

 3.4)神階

●八幡大菩薩宇佐宮天平勝宝元年(749年)一品 (『続日本紀』)

●比売神社:天平勝宝元年(749年)二品 (『続日本紀』)

        天安元年(857年)一品 (『日本文徳天皇実録』)


(2)香春神社


宇佐八幡宮と同格の神社


(引用:Wikipedia) 

1)概要

 福岡県田川郡香春町にある神社。式内小社、旧社格は県社。延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座だが、その半分にあたる三座が香春神社にある。 (残りの三座はすべて宇佐神宮内)三座は、辛国息長大姫大目神忍骨神社豊比咩神社で、もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった。

2)社格

 和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設したのが、現在の香春神社。古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。 辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早い。

●平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、一般的に宇佐神宮とされているが、古い資料の中には香春神社を一宮と記しているものもある。

3)祭神

一座〕辛国息長大姫大目命:神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ。〔第二座〕忍骨命:天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 〔第三座〕豊比売命:神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ。

4)神功皇后との関連

 辛国息長大姫大目命と神功皇后との関連性は古くから議論されている。(たとえば『太宰管内志』)応神天皇の母で三韓征伐を行い、朝鮮半島支配に成功した神功皇后は、古事記において息長帯比売命・大帯比売命と記されている。辛国は三韓征伐を行った韓国に通じる。辛国息長大姫大目命と神功皇后の同一性が指摘されている。

5)神階

 辛国息長大姫大目神社 - 正一位(承和10年)  忍骨神社 - 正一位(承和10年)  豊比咩神社 - 正二位(建仁元年)

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(写真引用:Wikipedia)


(3)大分八幡宮


大分(おおわ)かれの地神功皇后が三韓征伐軍を解体した地筥崎宮の元宮&宇佐八幡宮の本宮


(引用:Wikipedia)

 大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は、福岡県飯塚市にある神社。旧社格は郷社。筥崎宮の元宮として知られる。(注:筑前国の領域ですが、宇佐八幡宮との関連でここで取り上げました。) 

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(写真引用:Wikipedia)

1)祭神 

・応神天皇(おうじんてんのう)(八幡大神)(やはたのおおかみ)

・神功皇后(じんぐうこうごう)

・玉依姫命(たまよりひめのみこと) 

2)由緒と歴史 

2.1)大分八幡宮HPの説明 

 神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。御祭神は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命です。 

 神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産遊ばされ、その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、それぞれの故郷に返します。その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。 

 御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である小倉山社へ遷座します。その翌年の神亀3年(726)御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。 

 宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)に遷御したことから筥崎宮の元宮とされています。その遷座の前からの御神体で、神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。

『宇佐宮御託宣集』 延喜二十一年六月一日、筥崎神託す。 

「我が宇佐宮よりは、穂浪大分宮は我の本宮なり。去る二十日辰時を以て、来り着く。今日巳時を以て、爰に来る所なり。其の故は、香椎宮は我が母堂、住吉宮は我が親父なり。我が幼少の当初、志賀嶋を点住して、これに跡づく所なり。夷類を征伐せしむる後、吾出生の時、号を崇めらるべし。我が先の世に、三箇所に居住せしむべき由、所々に有りと雖も、先の世に天下国土を鎮護し始めし時に、戒定恵の筥を納め置く。埋むる所は、彼の父母両所の敷地の中間に、松一本を殖うる、巳に其の璽なり。適生土の上へ、彼の所に居住せしめんと欲ふなりてへり。」 

私に云く。大分宮は我が本宮とは、欽明天皇の御代、御示現の前、御霊行の時なり。 

 代々朝廷の御崇敬も篤く、神事祭礼の折には太宰府庄庁の官人が参詣して執り行われ、承平5年(935)「天慶の乱」の際には、朱雀天皇の勅願により平将門、藤原純友らの追討祈願のため九州に宇佐八幡五所別宮(第二肥前千栗宮・第三肥後藤崎宮・第四薩摩新田宮・第五大隅正八幡宮)が造立されますが、大分八幡宮は、その第一とされました。 

 中世も朝廷からの崇敬厚く、焼亡を受けての治暦3年(1071)の再建では筥崎宮と同等の規模の本殿であった記録されています。応仁の乱以降、衰微しますが、天正5年(1577)秋月種実によって再建。この再建の時、現社殿の後方、丘の頂上の嶽宮から現在地に遷座しました。しかし、秋月種実が日向へ移封されたことで神領を失い再び衰微。江戸期に入り、福岡藩の関与と共に鳥居などの寄進も相次ぎ、享保6年(1721)8月15日には途絶えていた放生会も復活。享保8年(1723)には流鏑馬、その翌年の享保9年(1724)には村人が石清水八幡宮で習得してきた獅子舞が奉納され、神事祭事が整えられることとなり、篤く崇敬されています。  

2.2)大分八幡宮境内の説明板 

 当宮は、神功皇后御征韓後粕屋の宇美邑にて応神天皇御出産遊ばされ、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある験しい山「ショウケ越え」を経られ、当宮に至り坐して暫しお止りになり筑紫の行政をお執り遊ばされ、此地にて軍隊を解隊せられし由縁の地なり。 

 宇佐宮託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて「我宇佐宮より穂浪郡大分宮は我本宮なり」とあり。本邦五所別宮第一に列せられ朝廷の尊崇 篤く、筥崎宮元宮として由緒正しく、第四十五代聖武天皇神亀3年(726)御神託によって創建せられ、応仁天正の九州動乱にて御社殿は兵火に罹り焼失し後天正5年(1577)秋月種実公勅命に依り現在地に仮殿を建立、御神霊を勧請鎮座せられたる御社殿がその侭今日に至る。

 神殿裏山の小高い丘状の盛土は、全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地であり、往古旧社殿は小高い丘の前にありて跡地に礎石のみ残れり。 

●鶯塚(飛地境内):JR筑前大分駅前にある高さ10m程の丘。伝承によれば神功皇后がここで兵を解散したといい、以来この地を『大分かれ(おおわかれ)』と呼んだのが「大分」の地名の起こりであるという。


(4)英彦山


(引用:Wikipedia)

1)概要

 英彦山(ひこさん)は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1,199mの山である。耶馬日田英彦山国定公園の一部をなす。日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる。国の史跡に指定されている。

英彦山神宮上津宮

中岳山頂の英彦山神宮上津宮(引用:Wikipedia)

  北岳・中岳・南岳の3つの峰があり、最高点は南岳(1,199m)にある。福岡県内では、大分県日田市との境にある釈迦岳(1,230m)、八女市にある御前岳(1,209m)に次いで3番目に標高が高い。山域は福岡県と大分県の県境未確定地域となっている。

 もとは「彦山」との表記であったが、1729年(享保14年)霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたという。 

 山の中腹720m近辺に英彦山神宮奉幣殿があり、多くの参拝客が訪れる。中岳山頂には上津宮がある。2005年(平成17年)10月には、英彦山神宮へ続く参道沿いに、参道起点の銅の鳥居横から英彦山花公園を経由して参道終点の英彦山神宮奉幣殿へ至る全長849mのスロープカーが完成し、英彦山神宮奉幣殿まで約15分で行けるようになった。 

 北岳の北東にある、石段と鎖付き岩壁で辿り着く「望雲台」と呼ばれる切り立った足場30cmの岩壁は、下界に広がる森林から突き出た鷹ノ巣山が望めるなど眺望が素晴らしく、自己責任で登るロッククライミングの名所となっている。本来山伏の修行場であった。

 麓にある深倉峡は紅葉の名所である。深倉峡の奥の深倉園地にある奇岩「男魂岩(おとこいわ)」と、谷を隔てて対峙する「女岩」とは巨大なしめ縄で結ばれており、毎年11月に「男魂祭」が催される。

 旧亀石坊庭園など「英彦山庭園群」の一部は国指定名勝に指定されている。 

2)歴史

  英彦山は羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという。 

 この山を根拠とする豊前佐々木氏領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため、天正9年(1581年)10月、敵対する大友義統の軍勢による焼き討ちを受け、1ヶ月あまり続いた戦闘によって多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという。 

 なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが滅ぼされず、細々と生き残っている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎はこの豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある。その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという。 

 山伏集落についての詳細は不明であったが平成27年、添田町が行ったレーザー測量によって集落跡地とみられる場所を複数個所、確認した。「英彦山三千 八百坊」と言われていたが測量結果から800箇所・三千人規模の集落があったと推測される。 

3)逸話

・彦山豊前坊という天狗が住むという伝承がある。豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている。

・英彦山豊前坊の伝説をもとに、近隣の航空自衛隊築城基地で編成された第304飛行隊の機体マークとして天狗がデザインされた。「天狗の如く山河を超え、鎮西の空を飛翔することの象徴」として、当時の基地司令のアイデアによるものとされている。

・英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた。

・2014年6月30日、数日前に英彦山を研修で訪れていた柳川高等学校の女子生徒計26人が、校内で集団パニックに陥り、霊に取り付かれたのではないかとの噂がインターネットで流れた。

4)英彦山神宮

4.1)概要 

 英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社。旧社格は官幣中社。現在は神社本庁の別表神社。通称「彦山権現」

 英彦山は北岳・中岳・南岳(主峰の南岳:標高1,199メートル)の3峰で構成され、中央の中岳の山頂から山腹にかけて上津宮・中津宮・下津宮があり、その下に奉幣殿がある。また英彦山全域に摂末社が点在する。 

〇参考Webサイト:英彦山神宮(公式サイト)  英彦山参道絵図(英彦山ネット) 

 英彦山神宮上津宮

 上津宮(中岳山頂)(引用:Wikipedia)

4.2)祭神

 祭神は次の3柱。北岳・中岳・南岳を神格化し各峰に1柱をあてる。

〇主祭神

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) - 北岳

〇配神

伊耶那岐命(いざなぎのみこと) - 南岳

伊耶那美命(いざなみのみこと) - 中岳

 神仏習合時代、各神は法体権現・俗体権現・女体権現と称され、合わせて「彦山三所権現」と総称された。『彦山流記』(1213年)における祭神・本地仏の記載は次の通り。

習合神 祭神 本地仏
北岳 法体権現 天忍穂耳尊 阿弥陀如来
南岳 俗体権現 伊弉諾尊 釈迦如来
中岳 女体権現 伊弉冉尊 千手観音

 

4.3)歴史

〇 創建・伝承

 英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。

 継体天皇25年(531年)北魏僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に日田の猟師の藤原(藤山)恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。 

 また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。清和天皇代の貞観7年(865年)従四位上を授けられたとあり、延喜式神名帳にも忍骨命神社として名を残す。 

 いずれも伝承で実際の歴史は、11世紀初頭に増慶によって中興されるまでについては10世紀の「太宰管内志」等わずかに残るのみである。しかし早くから神仏習合し彦山「権現」の名を用いていた。12世紀には、後白河法皇撰の梁塵秘抄では「筑紫の霊検所は大四王寺、清水、武蔵清滝 豊前国の企救の御堂 竈門の本山彦の山」と詠まれており霊山としての英彦山はこの時期には中央に知られていたことが分かる。 

 「英彦山」という山名は、社伝では天照大神御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て嵯峨天皇に上申し詔によって「日子山」「彦山」に改めたとされる。 

〇 概史

 12世紀より西国修験道一大拠点として栄えた。元弘3年(1333年)後伏見天皇第八皇子の長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降、助有法親王の直系が座主を世襲制する事となった。現在の社家の高千穂家はその末裔である。 

 当時僧坊3000余四十九窟(行場)を有するといわれたが天正年間(1573年~92年)秋月氏・大友両氏兵火が及んで奉幣殿をはじめ社殿が焼失、江戸時代初期1616年に小倉藩主細川忠興が奉幣殿(当時は大講堂)を再建した。

 焼き打ち寺領廃止もあり打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)霊元法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。 

 明治の神仏分離により修験道が廃止され、彦山座主であった教有は還俗し高千穂と称した。 九州彦山山伏の本山であった霊仙寺を廃し神社となって「英彦山神社」に改称し,教有は大宮司となった。1883年に宮司の高千穂宣麿が男爵を授けられ、華族に列した。1898年(明治30年)官幣中社に列した。1975年、現在の「英彦山神宮」に改称した。 


3 豊後国の歴史散歩


(1)健男霜凝日子神社


(引用:Wikipedia)

 健男霜凝日子神社(たけおしもごおりひこじんじゃ)は、大分県竹田市に鎮座する神社である。

1)概要

 祖母山信仰にかかわる祭祀を起源とし、祖母山山頂にある上宮、竹田市神原にある下宮神幸所穴森神社からなる神社である。嫗岳大明神鵜羽明神祖母山大明神とも呼ばれる。 

2)沿革

 創建の年代は明らかでないが、白雉2年(650年)下宮の社殿が建立されたと伝えられる。『続日本後紀』によれば承和10年(843年)従五位下、『三代実録』によれば元慶7年(883年)正五位下の神階を受けている。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には豊後国の5社の式内社のひとつとして「健男霜凝日子神社」が挙げられており、当社の下宮又は穴森神社が比定される。 旧社格は、明治6年(1873年)に郷社、明治12年(1879年)に県社。 

3)各社概要

3.1)上宮

祖母山の山頂に位置する祠である。現在はこの場所では祭祀は行われていない[1]。なお、祖母山山頂には宮崎県側の山麓にある祖母嶽神社の上宮もある。 

3.2)下宮参考Webサイト:おおいた百景・健男霜凝日子神社下宮

・所在地 - 大分県竹田市大字神原1822番地

・白雉2年(650年)に社殿が建立されたと伝えられる。健男神社、健男社とも呼ばれる。穴森神社とともに、『延喜式神名帳』記載の「健男霜凝日子神社」の論社とされる。 

3.3)神幸所(参考Webサイト:おおいた百景・健男霜凝日子神社神幸所

・所在地 - 大分県竹田市大字神原1772番地

・かつては遥拝所であった。昭和9年(1934年)に国幣小社への昇格を目指して社殿が建立されたが、昇格を果たすことはできず、第二次世界大戦後は神幸所として祭事の中心になっている。

3.4)穴森神社(参考Webサイト:おおいた百景穴守神社

・所在地 - 大分県竹田市大字神原1432番

・祭神 - 嫗嶽大明神

・神社の背後に嫗岳大明神の化身の大蛇が棲んでいたとされる岩窟があり、御神体とされている。この大蛇にまつわる緒方惟栄の出生伝説は『平家物語』巻第八 緒環の章でも語られている。岩窟内の小石を持ち帰ると子宝に恵まれるという伝承があり、恋愛成就・子宝祈願の参拝者が多い。かつては池の明神、窟大明神(いわやだいみょうじん)とも呼ばれた。下宮とともに、『延喜式神名帳』記載の「健男霜凝日子神社」の論社とされる。 


(2)西寒多神社


(引用:Wikipedia)

 西寒多神社(ささむたじんじゃ)は、大分県大分市にある神社。式内社(大社)、豊後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 

〇参考Webサイト西寒多神社(公式ウェブサイト) 

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拝殿(引用:Wikipedia )

1)祭神

〇主祭神(本殿)

・西寒多大神 (ささむたのおおかみ)

・天照皇大御神、月読尊、天忍穂耳命の総称としている。

〇相殿神

 応神天皇/神功皇后/・武内宿禰

〇殿内所在諸神

 伊弉諾大神/伊弉册大神/大直日大神/神直日大神/天思兼大神/大歳大神/倉稲魂大神

 /軻遇突智大神/天児屋根命/経津主神 

2)歴史

2.1)創建

「大分郡志」によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現 本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立てたという。当地の人々はこれを崇敬して籬垣を結んで拝んでいた。その後、応神天皇9年4月、武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが創祀であるという。

この伝承から、当社は本宮山を神体山として成立したと見られている。 

2.2)概史

 国史の初見は、『日本三代実録』貞観11年(869年)3月22日条の西寒多神に従五位下を授けるという記述である。『延喜式』神名帳では豊後国大分郡に「西寒多神社」と記載され、豊後国では唯一の大社に列した。また、豊後国一宮として崇敬されたという。平安時代後期以降は衰退したが、中世以降は領主の大友氏の崇敬を受けた。

 明治4年(1871年)5月14日、近代社格制度において国幣中社に列格し、第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。 

2.3)神階

・貞観12年(870年)2月15日、無位から従五位下 (『日本三代実録』) 

2.4)考証

2.4.1)式内社の比定

 式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社としては、他に西寒田神社(大分県臼杵市)がある。『豊後国志』『太宰管内志』では、そちらが本祠であるとし、応永15年(1408年)3月に大友親世が現在地に遷座したと伝えている。一方、大分郡の郡域や本宮山伝承から、こちらが本祠であろうとする見方が強い。 

2.4.2)豊後国一宮の比定

 当社の一宮への比定は、『豊後国志』『太宰管内志』「大分郡志」等による。一方で、豊後国一宮は柞原八幡宮も主張している。嘉応3年(1171年)の史料で「由原八幡宮」を一宮とするものがあり、宇佐八幡宮別宮の柞原八幡宮が当社を差し置いて一宮に転化したと見方が強い。一宮について記した史料では、根拠は不明ながら、『諸国一宮神名帳』(1375年以前成立)は柞原八幡宮を、『大日本国一宮記』(16世紀頃成立)は当社を記載している。

 これに関連して、安永10年(1781年)の縁起では「当社を柞原神社ともいう」として両社を同体視する伝承を載せている。ただし、これは誤りと見られている。 

3)境内

3.1)社殿

 本殿右に立つ神庫は、明治19年(1886年)の造営。入母屋の校倉造り。大分市の文化財に指定されている。 

3.2)万年橋

万年橋(県指定文化財)(引用:Wikipedia) 

 万年橋(まんねんばし)は、西寒多神社の入口を流れる大分川水系寒田川(通称 みそぎ川)に架かる石造単アーチ橋である。昭和55年(1980年)4月8日に大分県の有形文化財に指定されている。

 主構造がアーチであるだけでなく、路面も緩やかな弧を描く太鼓橋で、路面とアーチとの間の石組が狭いのが特徴である。江戸時代末の文久2年(1862年)に当時延岡藩領であった寒田村の庄屋らが発起し、岡藩領であった大野郡柴北村(現 豊後大野市犬飼町柴北)の石工2代目後藤郷兵衛ら20名によって同年に竣工した。 

4)摂末社

4.1)奥宮

本宮神社(奥宮)(引用:Wikipedia)

 本宮神社

 所在地:本宮山頂(位置) - 本社境内から片道約2時間。

 当社創祀の地と伝える。 

4.2)境内社

 合併社/厳島神社/繰生社/伊勢社


(3)柞原八幡宮


(引用:Wikipedia)

 柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は、大分県大分市にある神社。豊後国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。「いすはら」・「ゆすばる」とも読み、由原八幡宮とも表記する。 

本殿および申殿

本殿(左奥)および申殿(右)(引用:Wikipedia)

1)祭神

 仲哀天皇/応神天皇/神功皇后 

2)歴史

 鎌倉時代に書かれた社伝には、創建の由来が以下のように記されている。

 天長4年(827年)延暦寺僧・金亀(こんき)宇佐八幡千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を得た。天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836年)仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久社殿を造営した。 

 上記の内容の全てが史実であるかどうかはわからないが、当社が宇佐八幡の豊後国における分祀であるのは間違いなく、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けた。長徳4年(998年)からは宇佐八幡と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになった。

 金亀の法統を継ぐ者は宮師(みやし)と呼ばれ、当社の実質的な支配者であった。国府に近いことから特に国司の崇敬を受けた。 

 中世以降は大友氏ほか歴代の領主の崇敬を受けた。また、豊後国一宮を称するようになり、それ以前から一宮を称していた西寒多神社との間で近世まで論争があった。当社を一宮と称した最初のものは、嘉応3年(1171年)3月の『宮師僧定清(じょうせい)解』にある、「右、大菩薩は、是れ日本鎮守、百王守護の神霊なり、(中略)豊州の中心に垂迹して、当国の一の宮となる」というものである。

 また、久安元年(1145年)に作成された『宮師僧院清解』という解もその内容が『宮師僧定清解』にほぼ同一の内容であることから、一宮である柞原八幡宮から出された文書であるとみられる。久安年間には当時の国守である源季兼国衙改革を行ったことが知られており、柞原八幡宮が一宮になったのもこの時期と推定する説もある。 

 鎌倉時代に守護として関東地方から豊後国に入った大友氏は、同時代末期から南北朝時代にかけて国衙機構およびこれに付随する国衙領や在庁官人を吸収していく過程において、一宮の庇護や祭祀に関する責務も継承したと考えられている。戦国時代には領主・大友義鎮(宗麟)がキリスト教を信仰したことから排撃を受けたが、江戸時代には歴代府内藩主の厚い保護を受けた。 

「柞原」の表記が登場したのは、明治になってからとされ、それ以前は由原宮・八幡由原宮・賀来社などと呼ばれていた。


(4)祖母山


(引用:Wikipedia)

1)祖母山

 祖母山(そぼさん)は、大分県と宮崎県の県境にある標高1,756mの山。九州山地の中核をなし祖母傾山系に属する。宮崎県の最高峰で日本百名山に選定されている。

 祖母連山の主峰で、山頂部は大分県豊後大野市、竹田市および宮崎県西臼杵郡高千穂町の境にあり、山腹は熊本県、大分県及び宮崎県の3県にまたがる。祖母山自体の成因は隆起であるが、その元となる山地が火山活動によって形成されたため巨大な花崗岩が随所に見られ、低山部では渓谷、中高山部では断崖が多い地形である。

 祖母山周辺は銅、錫、鉛やマンガン、水晶などの鉱物資源が豊富で江戸時代から昭和中期まで採掘が行われていた。祖母山の麓に遺構が残る尾平鉱山は、元和3年(1617年)に開鉱され、昭和29年(1954年)に閉山されるまで日本有数の鉱山として栄えた。このほかにも大分県側に九折鉱山、木浦鉱山、宮崎県側に見立鉱山、土呂久鉱山などがあった。 

2)古祖母山

 古祖母山(ふるそぼさん)は、大分県豊後大野市緒方町と宮崎県西臼杵郡高千穂町との境にある山である。標高1,633.1m。

 伝承では、神武天皇の祖母である豊玉姫が、この山に降臨した後に、祖母山へと移ったとされ、それが山名の由来となっている。 

〇伝説

 神武天皇が東征した際、紀州沖の海戦において台風で船が覆りそうになったが、その祖母の故国である祖母山(添利山、そほりやま)のほうを向いて祈念したところ、波が収まって難を逃れたという伝説がある。

 なお『古事記』、『日本書紀』、山幸彦と海幸彦神話などでは、トヨタマヒメ神武天皇の祖母である。

 祖母嶽下宮八社(※)の一つである祖母嶽神社(祖母嶽大明神)が、その祖母を祭った神社であるとされている。 

※八方八王神(延宝二年高千穂庄新明帳)

 彼祖母嶽大明神之下宮、八方ニ八王神ト奉申有之也。

・内壱社ハ 御領内五ヶ所祖母宮(日向)/壱社ハ 御領内上之村祖母宮(日向)

・壱社ハ 御領内岩戸折原祖母宮(日向)/壱社ハ 御領内岩戸阿蘇原祖母宮(日向)

・壱社ハ 肥後長野祖母宮 /壱社ハ 豊後川原祖母宮

・壱社ハ 豊後奥嶽祖母宮/壱社ハ 豊後尾平祖母宮

〆八社ハ下宮也 但、古ハ御領上之村ノ奥ニ坊中御座候由申候也(樒原東福寺真相坊)

(*川原祖母宮は神原 こうばる の誤り) 

祖母嶽神社(祖母宮大明神)

・鎮座地:宮崎県西臼杵郡高千穂町大字五ヶ所1662

・御祭神:

  彦火火出見命(ひこほほでみのみこと )

  豊玉毘売命(とよたまひめ-のみこと)

  大日霊女貴命(おおひるめのむちのみこと)(天照大神)

  天津湯彦命(あめつゆひこのみこと)

  菅原道真公(すがわらのみちざね)

 

●祖母嶽伝説大蛇と結ばれ子産む〕(引用:みやざきの神話と伝承101

 祖母山は宮崎と大分県境にそびえる秀麗な山である。神武天皇東遷の船軍が、和歌山県・紀州沖であらしに遭ったとき、故国の添利山(そほり山・祖母山)の神霊に海の平穏を祈念すると、荒れた海が静まった。以来祖母嶽大明神がまつられたという。祖母嶽神社の由来である。

 昔、このふもとの塩田の里に(だい)太夫という長者がいた。その家に花の本(もと)という一人娘がいて美人の評判が高かった。求婚者が絶えなかったが、太夫は屋敷の続きに家屋を建て、付き添いの女人を一緒に置いて、大事に育てていた。

 ある秋の夜、立烏帽子(たてえぼし)に狩衣(かりぎぬ)を着た立派な若者が訪れた。若者は毎夜現れ、花の本に優しく話しかけた。花の本もいつしかこの青年に心を許し、恋仲になってしまった。

 やがてこのことは、父母の知るところとなった。両親は驚き、娘に若者のことを聞きただしたが、娘も若者の詳しい身元は知らなかった。

 しかし、この山里に烏帽子・狩衣の若者がいるはずはない。母は一計を案じて、苧環(おだまき・糸を丸く巻いたもの)と針を渡し、若者が帰るとき、そっと襟の後ろに針を刺しておくように教えた。

 その夜、娘は若者が帰るとき、母に教えられた通りにした。夜が明けると、父母は娘に数人の従者を付けて糸の行方をたどらせた。糸は延々と続いて祖母嶽の中腹にある大きな岩屋に入っていた。

 岩屋の入り口に立つと、中からうめき声が聞こえた。娘は不安になって「あなたの姿を見ようと思い、ここまで来ました」と呼びかけた。すると岩屋の中から声がした。

 「私はこの山の主の大蛇である。昨夜首に針が刺さって苦しんでいる」

 娘は岩屋の中に入って、大蛇の首の針を抜いてやった。大蛇は「そなたが産む子は、九州で比類のない勇者になるだろう。大事に育てよ」と言って岩屋の奥にひき入り、二度と姿を見せなかった。花の本が産んだ子は、成長して胝大太(あかがりのだいた)惟基と呼ばれ、その名を知られた。その5代の子孫は、源平時代に源氏方の武士として勇名をはせた緒方三郎惟義であるという。 

 この説話は「平家物語」(下巻8)に出ている。大分・豊後で平安時代から名を知られた大神氏の祖大太惟基で、その子孫が後に高千穂を治めた三田井氏の祖であると伝えられている。ー甲斐亮典 


(5)亀塚古墳


(引用:Wikipedia)

亀塚古墳(かめづかこふん)は、大分県大分市里にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。

 大分県では小熊山古墳(杵築市狩宿)と並び最大級の規模の古墳で、5世紀初頭(古墳時代中期)の築造と推定される。近年の住宅地開発などで周辺の古墳調査が進み、一帯は「亀塚古墳群」として認知されつつある。

 Kamezukakohun 01.jpg

(引用:Wikipedia)

1)概要

 墳丘は前方部を南に向けた3段構築で、全長116m(前方部長52m、後円部直径64m)、高さは前方部7m・後円部10mで、西側のくびれ部に造出しがある。墳丘は白い石英質の葺石で覆われていた。 

 埋葬施設は前方部墳頂に2つ設けられており、第1の埋葬部には長さ3.2メートルにもおよぶ大形の箱型の組合せ式石棺が埋められており、第2の埋葬部はその東側に後から設けられた。すでに盗掘を受けていたが、短甲・鉄刀の破片、滑石製の勾玉、碧玉製の管玉、ガラス製の小玉などが出土している。

 古墳域は1996年(平成8年)3月28日に国の史跡に指定されている。 

2.1)築造時期

 4世紀末から5世紀前半と推定されている。 

2.2)被葬者

 古くから海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀にもこの地に「海人部」が設置されていた記録があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたと考えられる。 

3)保存・復元整備

  大規模な盗掘によって石棺が破壊され、大半の副葬品も持ち去られてしまっていたが、墳丘の保存状態は良く、上空からもはっきりと前方後円墳であることが確認できる状態であった。ただし周辺の整備は平成に入るころまでほとんど行なわれず、車道から竹薮に入り獣道を辿っていくと不法投棄も多く、それを超えていくと、突然視界が開けて姿を現すという状況であった。 

 1996年(平成8年)に国の史跡に指定されたことから「亀塚古墳公園」として大規模な保存事業および観光開発が行われた。古墳は部分的に葺石や埴輪のレプリカなどが置かれ築造当時の様子が再現され、展示施設として微力ながら海部古墳資料館が建設されている。 

4)海部古墳資料館

 亀塚古墳の出土品のほか、大分各地域の古墳について豊富なジオラマなどで展示解説されている。 

5)周辺の古墳

 ・小亀塚古墳(大分市里) - 亀塚古墳の近くにある小型の前方後円墳。2段築造で全長35メートル、後円部の直径は25m。葺石はなく、埋葬部は破壊されていた。築造時期は亀塚古墳より半世紀ほど後の5世紀後半とみられている。 

・築山古墳(大分市本神崎) - 前方後円墳。亀塚古墳とは数キロメートル離れているが、向きが平行になるように作られており、一方の頂上から相手を視認することができる。 

・城原古墳(大分市城原) - FIFAワールドカップ開催に伴う道路建設によって惜しくも破壊された評衙跡(海部郡衙跡)として有名な中安遺跡の近くにある。古墳そのものも現在アスファルトの下にあり、石室が残るのみである。 


4 邪馬台国九州説(中津・宇佐説)


(1)中津・宇佐説の論文等


 邪馬台国九州説(中津・宇佐説)に関する論文等をWebサーフィンをしたところ、次のようなサイトがありましたので、その概要を紹介したいと思います。 

1)講演「邪馬台国宇佐説」 ー卑弥呼と宇佐神比売大神は同一人物 

  2013.11.24 鷲崎弘朋 氏 於:宇佐神宮参集殿  

 (講師の著作:『邪馬台国の位置と日本国家の起源』)

Ⅰ 魏志倭人伝

 魏志倭人伝を抜きにした邪馬台国論は有り得ない。原点に戻り、倭 人伝から邪馬台国の位置を解明する。

①里程・日程の行程論 ~連続式と放射式読法

②「短里」「短日」の組合せ 「水行」は潮流の影響

③方向の論理 ~65 度修正で全て矛盾せず

Ⅱ 卑弥呼と宇佐神宮

①卑弥呼=比売大神=天照大神

②宇佐神宮の亀山が卑弥呼の墓 宇佐神宮本殿

③謎の石棺の目撃証言

④奴婢百余人の徇葬と百体神社

Ⅲ 宇佐地方の考古学

①宇佐を中心とする「豊の国」 

②弥生時代の文化圏と邪馬台国


2)私的HP『邪馬台国は九州の東北海岸しか考えられない』

 (引用:私の世界(能楽・小説・古代史)/古代史HP;古代史・倭の世界

  HP作成者:小川龍平氏

 ●HPの項目:「古代史・倭の世界」

1.古代全般のこと

1-1 邪馬台国近畿説は考えられない

1-2 邪馬台国は九州の東北海岸しか考えられない

1-3 卑弥呼は個人名ではない。位の名称である。

1-4 高天原は高海原のことに相違ない

1-5 天孫降臨の地は、九州北海岸しか考えられない。

1-6 志賀島の金印と「後漢書」の「極南界」問題について

1-7 3世紀の倭国は邪馬台国と伊都国の協力でまとまっていた。

1-8 銅鐸文化の消滅の意味するもの

1-9 古事記の構成の意味するもの

1-10 応神天皇は、大和に行ってない。九州で死んだ。

1-11 壱与の後、邪馬台国はどうなったのだろうか

1-12 宇佐八幡神宮について

1-13 豊の国・宇佐地方について

1-14 東征したのは誰だ?

1-15 前方後円墳は上鏡下台墳である。

1-16 九州王朝と大和王朝の並立 

1-17 先住民・熊蘇の北限は、時代の尺度

1-18 アイヌ語で読む倭の国々

1-19 アイヌ語で読んだ倭諸国の位置

 ●HP作成者の著作「小説『ゐわい歌』」の中で取り上げた古代史の課題(一部) 

  • 倭国・倭人とは。
  • 古代最大の乱・磐井の乱とは。
  • 八女古墳群の東列の意味。
  • 筑後の装飾古墳群。
  • 魏志倭人伝、邪馬台国の比定地。
  • 倭王朝、大和王朝との関係は?
  • 志賀島の金印、委奴国とは。
  • 天孫降臨とは、何を意味しているのか。
  • 高天原はどこ。
  • 古代史上最大の謎の鏡・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
  • 久津媛とは。
  • 豊後風土記と景行天皇。

 


3)邪馬台国・九州説「宇佐神宮周辺」(引用:HP古代日本まとめ

3.1)目次

1.宇佐神宮は邪馬台国女王・卑弥呼の神殿

2.邪馬台国・九州説の概要

3.邪馬台国は、東に海が見える土地

4.帯方郡から宇佐までのルート

5.水行10日、陸行1月の解釈

6.関門海峡に「一大率」を置いていた? 

7.邪馬台国・宇佐神宮説では、狗奴国はどこか? 

※全文が次のWEbサイトで閲覧できます。http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/index.html

序章 邪馬台国へのアプローチ 

第一部 従来の邪馬台国論

   第1章  畿内大和説  第2章  筑後山門および御井説  第3章  筑前甘木説

   第4章  筑前博多説  第5章  豊前中津・宇佐説 

第二部 邪馬台国の位置,新「中津・宇佐説」の検証

   第1章  新「中津・宇佐説」の骨格  第2章  奇数配置と陰陽五行思想

   第3章  魏使の邪馬台国訪問問題 第4章  倭人伝の方向の論理

   第5章  倭人伝の里程・日程論  第6章  女王国の領域と倭の政治地図 

第三部 邪馬台国と日本国家の起源

3.2)内容(概要)

 大分大学教授の富来隆氏に始まる邪馬台国=豊前宇佐説を新たな視点から解明し、

① 魏志倭人伝、特に里程・日程・方向記述と現実の日本列島の地形・地勢との比較検討により、邪馬台国が大分県中津市から宇佐市にかけての一帯に位置していたこと(豊前説)

② 邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒメコと読む)が宇佐神宮の比売(ヒメ)大神であること 

③ 宇佐神宮の亀山が卑弥呼の墓であり、境外末社の百体神社の地に「奴婢百余人」が殉葬されたこと

④ 卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大御神であり,

  卑弥呼(ヒメコ) + 台与(トヨ) = 比売(ヒメ)大神 + 神功皇后 、であること

   (天照大御神)     (豊受大神)     (実像)    (虚像)

⑤ 記紀神話との整合性を取りつつ、邪馬台国以降の九州勢力の東征(神武東征)を含む古代統一国家形成の謎を明らかにしたこと、であります。

3.3)論争終止符の条件

 さて、いわゆる邪馬台国論争が300年近く続いているのは、決定的証拠としての「親魏倭王」の金印が未発見だからと考えられます。それにもかかわらず多くの専門家さらにはアマチュアまで加わって論争を続けているのは、金印が未発見でも、魏志倭人伝などの解明により邪馬台国の位置を特定できるのではないか、と皆が考えているからであります。

 私も、以下三つの条件が整えば、金印がなくとも論争にほぼ終止符を打つことが可能と考えています。

① 邪馬台国の位置:自説の邪馬台国位置論と魏志倭人伝、特に里程・日程・方向記事と完全な整合性がとれること。この場合、よほどの根拠がない限り、倭人伝の記述に修正を加えないこと。

② 倭女王卑弥呼:卑弥呼の墓と推定できる、奴婢百余人を殉葬した「径百余歩の冢(ちょう)」の候補を具体的に提示できること。 また、倭女王卑弥呼が日本歴史上の誰に相当するかを、記紀神話との関連で明示できること。

③ 古代統一国家の形成:自説の邪馬台国位置論を起点(ベンチマーク)として、記紀神話との整合性を取りつつ、古代統一国家形成のシナリオを包括的かつ体系的に提示できること。

④ 最後に(邪馬台国論争について)


(2)邪馬台国宇佐説の著作


(引用:Webサイト「神社と古事記」) 

〇参考Webサイト:「神社と古事記」〔邪馬台国論争〕 

〔注〕このページは、参考Webサイトの『〔邪馬台国論争〕邪馬台国はどこか?卑弥呼は誰か?今までの研究・論争をまとめてみた』の一覧表から、邪馬台国九州説(大分県)の著者(著作)を抜粋したものです。 (敬称略)

1)邪馬台国宇佐説の概要

  富来隆に始まる邪馬台国=豊前宇佐論〔「邪馬台 女王国」(関書院)、「卑弥呼」(学生社)〕

 倭人伝の方位記事は、南が東にズレている、一月は一日の誤り、諸国名は九州地名に比定できる等々とし、「水行」とあるのは筑後川を遡ったのだと言う。方位と里程記事を読みなおせば、邪馬台国は宇佐地方を指していると唱えた。

 久保泉も、天照大神は卑弥呼をモデルに創作されたものだとして、富来と同様倭人伝の方位記事は全体にズレがあり、北とあるのは西北、南は東南などと修正して、大分県のほぼ全域と福岡県東北部域をふくむ地域を邪馬台国にあてた(「邪馬台国の所在とゆくえ」)。

  そういう中にあって、高木彬光の小説『邪馬台国の秘密』は、宇佐神宮の亀山が前方後円墳であり、これが卑弥呼の墓であると書き、上宮の三之神殿の手前の白砂の中に、卑弥呼の棺が眠っていると熱っぽくと説いているため、現在でも熱心な信奉者がいる。

 他にも、安藤輝国『邪馬台国と豊王国』(ナニワ社)、重松明久邪馬台国の研究』(白陵社)、中野幡能 『八幡信仰史の研究』山本武夫など、邪馬台国を宇佐、或いは周辺の豊の国一帯とする提唱者は少なくない。「豊の国」とは、「台与の国」であるというのだ。 

 これは、原始八幡神の成立過程、後続する時代の渡来人の多さ古墳の多さ等々に触発されて、邪馬台国を宇佐あるいはその周辺にあてたものと思われるが、しかし「魏志」倭人伝方位や里程記事の理解宇佐神宮の弥生遺跡としての検証など、他の多くの説と同様に、推論の上になりたった論法である事は否定できない。

 確かに、宇佐が古代九州内において特異な存在であった事を示す根拠は数多く存在しているが、それは3世紀に諸国を連合していた証拠ではない。考古学的にも、今のところ3世紀の宇佐地方北部九州(博多湾岸・有明海北岸地域・甘木朝倉地方等々)以上の文化的水準を持ち、他の諸国にぬきんでた首長を輩出していた様な痕跡は見いだされていない。

 神聖な領域なので学術調査は当分不可能と思われるし、この説の信憑性が高まるには今後の検証を待つしかない。

2)富来隆

 富来は「魏志「邪馬台」の位置に関する考察」(『大分大学学芸学部研究紀要』第二号、昭和28年(1953年)3月)なども含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に比定している。

 富来は、魏志倭人伝の方角が現在とは50-60度東へずれていると指摘、国々の比定を進めた。現在、九州説でも根強く支持される大分県宇佐市を邪馬台国の所在地とする史上初めての論と言える。後に、同じ九州説ながら榎一雄と論争を繰り広げている。

●『卑弥呼』(富来隆著 学生社刊 1970年)

  ・邪馬台国九州説、大分県宇佐市、卑弥呼は神功皇后

●『「邪馬台」女王国』 (富来隆著 関書院 1960年) 付論: 日本史における地域性

 ・目次

 第一章 はしがき-立論の趣旨/第二章 方向/第三章 距離(里数・日数)

 /第四章 交通手段(附)牛馬の存在 /第五章 「投馬国」

 /第六章 「女王国」の領域-「東渡海千余里復有国」/第七章 「邪馬臺」女王国 

 /第八章 瀬戸内海潮流と「諸国」国名(附)「狗奴国」/第九章 考古学上の豊前 

 /第十章 記紀に見える「菟狭」(附)八幡宇佐官について/第十一章 「侏儒国」

 /第十二章 むすび

・〔附論〕日本史における地域性

 第一章 はしがき/第二章 瀬戸内海の自然的条件-潮流について

 /第三章 瀬戸内海の歴史的地位-交通について/第四章 むすび

ー「国立国会図書館デジタルコレクション」より

3)市村其三郎

 市村は「ヒミコ問題の根本的解決」(『白山史学』第三号、昭和32年(1957年)3月)、「卑弥呼は神功皇后である (1972年)」なども含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に比定しているとされる。また、邪馬台国の東遷説も唱えている。

 特に「ヒミコ問題の根本的解決」では、魏志倭人伝において、女王国を大和朝廷の前身ととらえていた、と指摘、九州説を採りながらも、女王国が断じて大和朝廷以外の国ではなかった、とし、神武東遷が女王国文化の東方移動を物語るもの、とした。

 和辻哲郎がすでに東遷説を唱えていたものの、戦後になって九州説から畿内説に転換していた。市村は九州説の立場から、神武東遷と絡めて、改めて邪馬台国東遷を唱えた形となった。

●『卑弥呼は神功皇后である』(市村其三郎著 新人物往来社 1972年)

●『神武天皇は応神帝かー古代史七つの謎』(市村其三郎著 新人物往来社刊 1973年) 

 4)中野幡能

 中野 幡能(なかの はたよし、1916年 - 2002年12月3日)は、日本の歴史学者、大分県立芸術文化短期大学名誉教授。宇佐八幡宮の研究で知られる。

 邪馬台国について、その所在地を大分県・宇佐市に比定している。

●『宇佐八幡宮史の研究〈第1集〉』(中野 幡能著 豊日史学会刊 1957年 ) 

5)重松明久

 重松 明久(しげまつ あきひさ、1919年4月26日 - 1989年4月4日)は、日本文化史の研究者。

 重松は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の福岡県京都郡」、あるいは「大分県宇佐市」に比定している。

●『邪馬台国の研究』(重松明久著 白陵社 1969年) 

6)久保 泉

 久保は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に、卑弥呼は「神功皇后」に比定しているとされる。

 同じ弁護士として、やはり同じく大分説を取りながらも、大分市に邪馬台国の所在地を比定する久保田穣の論にたびたび言及されている。

●『邪馬台国の所在とゆくえー新宇佐説』(久保泉著 丸の内出版 1970年) 

7)横堀福次郎

 邪馬台国について、その所在地を大分県・中津市に比定している。

●『邪馬台国の女王の都:豊前平野・歴史散歩』(横堀福次郎著 北方文芸社刊 1971年)

8)高木彬光

  邪馬台国はどこにあったか? 君臨した女王・卑弥呼とは何者か? この日本史最大の謎に、入院加療中の名探偵・神津恭介と友人の推理作家・松下研三が挑戦する。

 一切の詭弁、妥協を許さず、二人が辿りつく「真の邪馬台国」とは?発表当時、様々な論争を巻き起こした歴史推理の一大野心作。論拠を示したエッセイを併せて収録。
 高木氏は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に比定、宇佐神宮を重視しているとされる。初出1974年1月、改訂版1976年9月。

●『邪馬台国の秘密』(高木彬光著 光文社刊 2006年) 

9)神西秀憲

 神西氏は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市、特に宇佐神宮」に比定しているとされる。

●『伝説で解く邪馬台国』(神西秀憲著 新人物往来社刊 1975年) 

 10)大羽弘道

 大羽は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県周防灘沖合海中(知珂島)」に比定しているとされる。

●『邪馬台国は沈んだーつきとめられた幻の国(大羽弘道著 光文社 1975年) 

11)山本武夫

 山本は「邪馬臺国の地理像」(『東アジアの古代文化』5・S50)なども含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県別府湾岸」に比定しているとされる。

●『日本書紀の新年代解読』(山本武夫著 学生社刊 1979年) 

12)安藤輝国

安藤氏は「邪馬台国と豊王国―古代史の謎 (1973年)」も含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に、卑弥呼は「応神天皇一族」に比定しているとされる。

●『邪馬台国と豊王国―古代史の謎(安藤輝国著 佐伯史談収録 1973年)

●『邪馬台国は秦族に征服されたー宇佐神宮が説く女王国の謎(安藤輝国著 現代史出版会 1983年)

13)伊勢久信

 伊勢氏は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に、卑弥呼は「神功皇后」に比定しているとされる。

●『『魏志・倭人伝』旅程記事の「分離式読み方」の提唱』(伊勢久信著 1984年) 

14)久保田穣

  国際関係、知的財産権関係を専門とする弁護士の著者が、〈邪馬台国について〉〈倭の五王の比定について〉〈初期天皇非実在説に関連して〉など、法律家の視点から検証する日本古代史。

●『古代史における論理と空想―邪馬台国のことなど(久保田穣著 大和書房刊 1992年) 

15)安田嘉治

 二つの「奴国」、「委奴国王」の解明により「倭人伝」「古事記」が日本古代史の真実と符合することを証明した画期的論考。邪馬台国は豊前、福岡県東部から、宇佐市を含む大分県を想定。

●『倭人伝・古事記の謎が解けた』(安田嘉治著 新人物往来社刊 1992年) 

16)平塚弘之

  平塚氏は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に比定しているとされる。

●『邪馬台国への行程ー「南への水行」の解明』(平塚弘之著 日本図書刊行会 1993年)

17)清輔道生

 日本正史から抹殺された邪馬台国女王卑弥呼とは。多角的なアプローチで、宇佐神宮の祭神比売大神の謎に迫った話題作。

●『卑弥呼と宇佐王国ー神話から古代への軌跡』(清輔道生著 彩流社 1995年) 

18)戸矢学

  記紀の神々は実在した。ヤマタイ国論争に「古神道×道教」の斬新な視点から答えを出す。風水によって発見される卑弥呼の墓とは。道教と神道を融合させた卑弥呼の祭祀とは。“神々のイデオロギー”を浮き彫りにし、真相に肉薄する。
 ヤマタイ国の真相がよみがえる。独特な日本現象「前方後円墳」の真の意味、また三種の神器No.1「鏡」の謎を解き明かし、神々の墓=アマテラスの墓、オオクニヌシの墓の実在に迫る。
 女王卑弥呼の邪馬台国は、九州の宇佐地方を根拠地とし、宇佐神宮の祭神の一柱の比売神が卑弥呼であるとする。箸墓古墳は、卑弥呼の後継者で、倭国の内乱を納めた台与と指摘。九州説、邪馬台国は大分県。

●『卑弥呼の墓ー神々のイデオロギーが古代史を解き明かす(戸矢学著 AA出版 1996年) 

19)鷲崎弘朋 

 日本史上最大の謎、邪馬台国の位置を綿密に検証し、古代統一国家形成の真相に迫る。
豊前中津・宇佐に邪馬台国があったという説に、「倭人伝」の卑弥呼像、宇佐神宮、日本神話等を有機的に結びつけて著者独自の論を展開。

●『邪馬台国の位置と日本国家の起源』(鷲崎弘朋著 新人物往来社刊 1996年) 

20)井沢元彦 

  「ヒミコは殺された」という謎めいた言葉をのこして古代史研究家が密室で殺害された。犯人は誰か?動機は何か? トレジャー・ハンターである永源寺峻が、友人の殺人事件の真相に迫る。
その鍵となるのは邪馬台国と卑弥呼。調査のため、峻は九州へと飛んだ。―古代史を包む謎のベールがはがされるとき、すべての真実が明らかになる。
 井沢は邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を宇佐神宮、「九州の大分県宇佐市」に比定しているとされる。

●『卑弥呼伝説』(井沢元彦著 集英社 1997年)  

21)大野佑司

  著者は眼科医。邪馬台国九州説。邪馬台国を大分県に比定している。

● 『卑弥呼と邪馬壱国は消されていた』(大野佑司著 さいたま〈マイブック〉サービス 1999年) 

22)高橋ちえこ

 高橋氏は「深き誓いの邪馬台国―神山・磐坐・巫女祭祀 (1981年)」なども含め、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の大分県宇佐市」に、卑弥呼は「巫女」に比定しているとされる。

●『深き誓いの邪馬台国―神山・磐坐・巫女祭祀( 高橋ちえこ著 葦書房刊 1981年))

●『筑紫の日向の宇佐邪馬台国』(高橋ちえこ著 新風舎刊 2003年) 

23)小椋一葉

 箸墓古墳(奈良県・桜井市)、この最古の古墳は誰の墓か? 邪馬台国論争に繋がる現在最も注目されるテーマに挑み、2世紀から4世紀の埋もれた日本史にはっきりとした光を当てる、小椋・伝承古代史論の驚くべき到達点。
 『消された覇王―伝承が語るスサノオとニギハヤヒ (伝承が語る古代史 1)』『女王アマテラス (伝承が語る古代史)』に続く「邪馬台国と倭国の物語」最終巻。

●『箸墓の歌ー邪馬台国と倭国の物語・完』(小椋一葉著 河出書房新社 2004年) 

24)堅田羽衣

  邪馬台国は一体どこにあったのでしょうか。そして卑弥呼の墓はどこにあるのでしょうか。私は、畿内説や九州説といった呪縛的な定説から離れ、独自に魏志倭人伝の解読を試みました。
 歴史学や考古学・日本神話といった要素を一切考慮せず、魏志倭人伝の記述だけをたどっていくとどこに辿りつくのか、そしてその場所が邪馬台国であったとするならば、魏志倭人伝の他の記述はどうなるのか。
 徹底的に検証した結果、この場所が邪馬台国だったと確実に言える場所を発見するに至りました。魏志倭人伝の記述の一致点の多さが、この説の正しさを証明しています。あなたは、この新説に異論を唱えることができるでしょうか。

●『邪馬台国発見!~魏志倭人伝完全解読~』(堅田羽衣著 Kindle 2014年) 


分離掲載開始:令和3年1月10日現在               最終追加修正:令和3年2月20日