トップ 古代史の謎

①全般 ②邪馬台国論争 ③第1次邪馬台国? ④第2次邪馬台国? 

⑤第3次邪馬台国? ⑥九州王朝説 ⑦古代遺跡 ⑧古代伝承 ⑨神社と祭神

⑩神仏習合と修験道  ⑪近現代の宗教政策


古代史の謎⑪近現代の宗教政策


1 近代の神道について

(1)明治における宗教改革 (2)神仏分離 (3)廃仏毀釈 (4)国家神道

 5)建武中興十五社 

 

2 現代の神道について

(1)神道指令 (2)人間宣言 (3)日本国憲法と宗教

 

3 靖国神社問題


1 近代の神道について


(1)明治における宗教政策


 明治維新とは、明治時代初期の日本において薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動および、それに伴う一連の近代化改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化などを含む。

 

1)「御一新」の理念

1.1) 五箇条の御誓文

□御誓文

 一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ

  (現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。

 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ

  (現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

  (現代表記)官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

 一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ

  (現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ

  (現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

幟仁親王が揮毫した御誓文の原本(引用:Wikipedia)

□勅語

(現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。

年号月日 御諱

□奉答書

(現代表記)勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡㫖を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。

                        慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印

勅語と奉答書(太政官日誌掲載)(引用:Wikipedia)

 江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。

 

 なお、この五箇条の御誓文の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。

 

 その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から脱却するように説かれている。

 

 これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。

 また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。

 

1.2) 五榜の掲示

 五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の高札が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「五榜の掲示」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策の中で撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。

 

2)思想

 幕末から活発になっていた佐久間象山などの「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が行われ、横井小楠の実学から物理を中核とする福澤諭吉の文明論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、文明開化の動きが加速する。

 

 明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・森有礼・西周・西村茂樹・加藤弘之らによる明六社の結成と『明六雑誌』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や中村正直の『西国立志編』『自由之理』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また土佐藩の自由民権運動の動きと連動して中江兆民や植木枝盛、馬場辰猪といった革新的な勢力と、佐々木高行、元田永孚、井上毅、品川弥二郎といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。

 

 教育機関の整備では、初めは大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道・渡辺重石丸らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の蘭学塾や漢学塾、それに幕府自身が造った洋学教育機関である開成所や蕃書調所が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。

 

 維新まで松前藩による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの蝦夷地から北海道と改名し、同年開拓使が置かれて、積極的な開発が進められた。札幌農学校(現:北海道大学)や、三田育種所など、各種の学校や研究所が相次いで設置された。このように、ありとあらゆるインフラが整備されていった。

 

 それまで江戸幕府や寺社が徹底していた女人禁制を、「近代国家にとって論外の差別(陋習)の一つである」として太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によりで禁止した。関所の廃止と合わせ、外国人女性でも自由に旅行できるようになったことから、各地に伝わる日本古来の神事が多数記録されることとなった。

 

3)宗教

 宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月 (旧暦)には神仏習合を廃する神仏分離令が布かれた。そして当時の復古的機運特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向かった。

 

 また、キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。

 慶応4年4月21日、勅命により湊川神社楠木正成を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房、北畠顕家ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。また、明治元年閏4月には 明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に豊臣秀吉を祀る「豊國神社」建立の御沙汰があり、1880年(明治13年)11月 には再建された京都・豊国神社の大阪別社が創建されるなど、江戸時代中に徳川政権によって公には逆賊とされていた豊臣家の再評価もなされるようになった。

 

 明治2年(1869年)12月7日には、キリスト教信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に浦上四番崩れをはじめとする弾圧が、当時のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。

 

しかし、神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教をはじめとした宗教界や一般民衆からも「邪宗門」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。


(2)神仏分離


(引用:Wikipedia)

 神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教神と仏神社と寺院とをはっきり区別させること。

 その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒家神道国学復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。

 

1)前近代の神仏分離

 江戸時代に入ると、岡山藩水戸藩、淀藩、会津藩等の儒教が興隆した藩を中心に神仏分離政策が行なわれた。出雲大社でも17世紀に神仏分離が行われている。

 

 また、宮中では東山天皇の時代に古式に則った大嘗祭を復興させようとした際に歴代天皇の位牌や仏像・仏画類を宮中から排除すべきとする方針に対して、長年宮中に定着した神仏習合の観念から反対論が唱えられて論争になったが、その後大嘗祭が繰り返されて奉幣使再興などが行われるたびに宮中のみならず京都市中や他地域に対しても仏教排除が命じられた。そして、孝明天皇即位の際には公家たちの間で即位灌頂に反対する意見も出された。

 

2)明治時代の神仏分離

2.1) 神仏分離令

  明治元年(1868年)、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令(※)を発した。

 

(※)神仏分離は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中・後期以後の儒家神道や国学・復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏判然令(慶応4年3月13日から明治元年10月18日までに出された、太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など一連の通達の総称)に基づき、全国的に公的に行われたものを指す。(引用:Wikipedia) 

 

 神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。

 

 神仏分離のための七か条で即刻実施するようにとの内容は、

①神社の白木の鳥居はそのままでよいが、塗ってあるものは白木にしかえること、その場合の鳥居の形は下の貫手の両端を出さぬようにすること

②神社にある仏像は、村役人立ち会いの上故障のないよう寺院へ渡すこと

③寺院にある神体も同様にして神社へ渡すこと

④これらが終われば、寺院または社人より受取書を提出すること

⑤このたび改めて仏号を付けた寺院は仏号を書いた掛け札をすぐに用意すること

⑥もし神殿造りの場合は堂塔に造りなおすこと

⑦神社の狗犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと

 

 神仏分離令「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。

 

 新政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)神祇省廃止・教部省設置頓挫した。これは特に平田派の国学者が主張する復古的な祭政一致の政体の実行現実的には困難であったからである。神道の国教化は宣教経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、仏教界の協力がなくては遂行できないことは明白であった。

 そこで、浄土真宗の島地黙雷の具申をきっかけとして、神祇省教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命されて、神道国教化への神仏共同布教体制ができあがった。神道国教化にはキリスト教排斥の目的もあったが、西洋諸国は強く反発、信教の自由の保証を求められた。結果、明治6年(1873年)にはキリスト教に対する禁教令が廃止され、明治8年(1875年)には大教院を閉鎖、明治10年(1877年)には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、神道国教化の政策は放棄された。代わって神道は宗教ではないという見解が採用された。

 

 神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものであり、修験道・陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた。

 

2.2) 神仏判然令

  いわゆる「神仏判然令もしくは神仏分離令」に関する太政官布告・神祇官事務局達・太政官達 など(明治3年「尾張本國帳神社座地考」)

(引用:https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm)

○太政官布告 慶応四年三月十三日

 此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事

 但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事

 

※王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告される。

 

○神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日

 今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也

 

※神社に於ける僧職の復飾の命令が発せられる。

 

 明治維新まで、一部の例外を除き神社(権現・明神)は仏教僧侶の支配下にあった。つまり普通に、別当・社僧が神を祭祀、寺社領・財政を管理、堂塔を営繕、人事を差配してきたのが実態であった。

 八幡・伊勢・天神・稲荷・熊野・諏訪・牛頭天王・白山・日吉(山王)・春日・鹿島・香取・愛宕・三島・大山祇・金毘羅・住吉・大歳・厳島・貴船・恵比寿・浅間・秋葉・荒神・賀茂・氷川・東照権現・・・など神仏分離が近世に強行された一部の神社を除き、神社は寺院(僧侶)の従属物であった。

 あるいは神と仏は同列に祀られ、神殿と仏堂が同居し、神殿に仏像・仏器が置かれ、僧侶が神に奉仕し、神前で読経などが行われるなどが普通の光景であった。

 

○神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日

一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、

 

一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事

 

※神号を仏号で称えることの由来書の提出及び神社・神前から仏教的要素の排除を命ずる。

 

○太政官布告 慶応四年四月十日

 諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、

 

 但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事、

 

※神仏判然の主旨と「私憤ヲ斉シ候様之所業」、「粗暴ノ振舞等」への戒めがあるが、全国各地で極端な廃仏が巻き起こったことの証左であろう。

 

○太政官達 慶応四年四月二十四日

 此度大政御一新ニ付、石清水、宇佐、筥崎等、八幡宮大菩薩之称号被為止、八幡大神ト奉称候様被.. 仰出候事

 

※八幡大菩薩号の停止の命令

 

○太政官達 慶応四年閏四月四日

 今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、

 

 但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、

 

○神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達 慶応四年閏四月十九日

一、神職之者ハ、家内ニ至迄、以後神葬相改可申事、

 

一、今度別当社僧還俗之上者、神職ニ立交候節モ、神勤順席等、先是迄之通相心得可申事、

 

○太政官より法華宗諸本寺へ達 明治元年十月十八日

 王政御復古、更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被 仰出候処、於其宗ハ、従来三十番神ト称シ、皇祖太神ヲ奉始、其他之神祇ヲ配祠シ、且曼陀羅ト唱ヘ候内ハ、天照皇太神八幡太神等之御神号ヲ書加ヘ、剰ヘ死体ニ相著セ候経帷子等ニモ神号ヲ相認候事、実ニ不謂次第ニ付、向後禁止被仰出候間、総テ神祇之称号決テ相混ジ不申様、屹度相心得、宗派末々迄不洩様、可相達旨 御沙汰事、

 

 但是迄祭来候神像等、於其宗派設候分ハ、速ニ可致焼却候、若又由緒有之、往古ヨリ在来之分ヲ相祭候類ハ、夫々取調、神祇官ヘ可伺出候事、

 

□神祇官 第七百 (明治3年)10月25日(抄)

1.官社以下大小神社順序定額の事

1.祭政一致之意ニ基キ祭典式府藩縣一定之事

1.神官職制並叙位の事

右永世之規則更ニ取調候様被 仰出候事

3年10 28 神社明細取調帳(年末提出期限) 太政官布告

 

□太政官布告 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 

今般国内大小神社之規則御定ニ相成候条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事

 某国某郡某村鎮座

某社

 1.宮社間数 並大小ノ建物

 1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事

 1.神位

 1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書?スヘシ

 1.社地間数 附地所古今沿革之事

 1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事

 1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別

 1.造営公私或ハ式年等之別

 1.摂社末社の事

 1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別

 1.社中男女人員

 1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別

 1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別

 1.同管轄之庁迄距離里数

 

○太政官第273号(布) 明治五年九月十五日・・・・・いわゆる「修験道廃止令」 府県ヘ

 修験宗ノ儀、自今被廃止、本山当山羽黒派共従来ノ本寺所轄ノ儘、天台真言ノ両本山ヘ帰入被 仰付候條、各地方官ニ於テ此旨相心得、管内寺院ヘ可相達候事、

 

 但、将来営生ノ目的等無之ヲ以帰俗出願ノ向ハ始末其状の上、教部省ヘ可申出候事

 

※明治初頭の「神仏判然あるいは神仏分離令」の大筋は以上である。個別の各寺社宛にも多くの達(命令)が発せられたようである。

 

2.3) 神社合祀令(引用:Wikipedia)

  神社合祀とは、神社の合併政策のことである。神社整理とも呼ばれ、複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。 

 

〔前近代の神社合祀〕

〇 岡山藩の神社合祀

 寛文5年(1665年)、岡山藩主池田光政は荒神や淫祠とされた10,528神社を寄宮71社へ合祀、大社・産土社含め638社のみ存続させ、1,036カ寺のうち約6割の寺院を破却した。熊沢蕃山は排仏論を唱えた。

 

〇 水戸藩の神社合祀

 寛文6年(1666年)、水戸藩主徳川光圀は1098ヵ寺を処分、寛文7年(1667年)、山崎闇斎の影響を受けた会津藩主保科正之は神社再興と神仏混合の分離を行なう。

 

 天保元年(1830年)、水戸藩は神儒合一、唯一神道化をめざした改革で念仏堂・薬師堂、村々の小祠堂・石仏・庚申塚・廿三夜塔を破却、一村一社制度を実施。

 

〇 津和野藩の神社合祀

 

〇 長州藩の神社合祀

 天保13年(1842年)、長州藩村田清風は淫祠を廃し一村一社とする改革を実行、寺社堂庵9,666、石仏・金仏12,510を破却。国学者近藤芳樹は式内社は正祀それ以外は淫祠と述べ、岩政信比古『淫祠論評』は民衆の不安が高まると批判した。

 

〔明治時代の神社合祀〕

〇 慶応四年(1868年)、神仏分離令がだされる。廃仏毀釈で鹿児島県では寺院は一つ残らず廃された。

 

 王政復古……祭政一致の制に復し天下の諸神社を神祇官に属す……

 —慶応四年(明治元年)三月十三日,第百五十三,太政官布告、

 一 中古以来、某権現或は牛頭天王之類其外仏語を以神号に相称候神社不少候何れも其神社の由緒委細に書付 早々可申出候事…… 一 仏像を以神体と致候神社は 以来相改可申候事……

 —慶応四年(明治元年)三月二十八日,第百九十六,太政官布告、

 

〇 明治2年(1869年)6月10日、府県へ式内社・崇敬社の調査記録の提出を通達。明治3年(1870年)、調査は難航し提出期限が延長された。

 

 先達て布告有之候延喜式神名帳に所載諸国大小之神社幷に式外にても大社之分或は即今府藩県側近にて崇敬之神社等精しく可申出事 諸国神社 敕願所之分由緒社伝御奉納之品等巨細取調可差出事 右之通に候間此旨相達候事

 —通達,明治二年六月十日、

 

 延喜式神名帳所載諸国大小之神社現存之分社勿論衰替廃絶之向式外にても大社之分或は即今府藩県側近等にて崇敬之神社取調可届出は兼て御布令之通に候處差向官幣神社之分詳細取調当九月限無遅滞神祇官へ可届出候事

 

 但各社同名所在混雑不分明之社は精精遂穿鑿其上難相分向は巨細書取を以て同官へ可伺出事

 —明治三年二月二十九日,太政官布告、

 

〇明治4年(1871年)5月14日太政官布告第二百三十四で神社が国の宗教機関と宣言され国家神道の体制が始まり、神職の人事権が国家に握られる。興福寺僧侶は復飾願いを提出し春日社の神官となり、旧来の春日社家社寺領は没収、廃寺の指令を受けた。春日社家、新神司、新社司も解職され野田の社家町は全滅、興福寺の院坊の多くも廃寺となり、仏像、仏具は破壊、売却され、経典古書類は売却、焼却、反古紙、包装紙となった。

 

 神社の儀は国家の宗祀にて一人一家の私有にすへきに非さるは勿論の事に候処中古以来大道の陵夷に随ひ神官社家の輩中には神世相伝由緒の向も有之候へ共多くは一時補任の社職其儘沿襲致し或は領家地頭世変に因り終に一社の執務致し居り其今村邑小祠の社家等に至る迄総て世襲と相成社入を以て家禄と為し一己の私有と相心得候儀天下一般の積習にて神官は自然士民の別種と相成祭政一致の御政体に相悖り其弊害不尠候に付今般御改正被為在伊勢両宮世襲の神官を始め天下大小の神官社家に至る迄精拱補任可致旨被 仰出候事

 —明治四年(1871年)五月十四日太政官布告第二百三十四、

 

〇明治4年5月14日太政官布告第二百三十五にて官社(官幣大社・官幣中社・官幣小社・別格官幣社・国幣大社・国幣中社・国幣小社)、諸社(府社・藩社・縣社・郷社)という神社の等差が設定され近代社格制度がはじまる。

 

淫祠とは「神典正史に被載候諸社は勿論所由ありて禁来候霊祠等は淫祠と申間敷筋に候事」と明治二年(1869年)三月五日付の松江藩伺に対する回答で説明されている。

 

・官社以下定額及神官職員規則等別紙の通被 仰出候、尤府藩県社・郷社の分は先達て差出候明細書を以取調 区別の上追て神祇官より差図に可及候条……官幣国幣官社以外府藩県社郷社二等を以て天下諸社の等差とす右官社定額の外式内及国史見在の諸社期年検査を歴て更に官社に列すへし……

 —明治4年5月14日 太政官布告235号、

 

・第三十条 淫祠無檀無住の寺院を廃する事

—明治四年八月十九日「大蔵省事務章程節録」

 

〇 明治5年(1872年)神社の整理は教務省管轄となり「別段の由緒格式等も無の社寺にて従来及衰頻永続難渋の向等廃合の所分允当に全るの分」がその対象となったが混乱が起き通達を出した。

 

・自今社寺を合併し及其所属の地に關渉する處分は各地方官に於て其事由を明細取調教務省へ可伺出事

 —教務省明治五年三月二十八日第百四號

 

・神社寺院合併等の儀者事由明細取調教部省へ可相伺旨第百四号布告有之候右は強て合併可致との御旨意には無の従来氏子等も無の社殿頗敗し無檀無住にて堂宇破壊し又は小社小寺に付永久取続の目途無之分は諸般故障の有無糺し廃合の適宜を勘酌し詳悉調書を以て当省へ可伺出事に候条各地方庁区区之処分無之様可致候事

 —教務省明治五年六月十日第六号府県

 

〇明治7年(1874年)4月特選神名牒の編纂がきまり、6月29日府県へ式内社等の調査を布達した。

・今般於当省神名牒纂定致候條各管内延喜式内幷国史見在の神社にて当今其所在未定或は社地堙埋の分は無遺漏捜索検覈致し毎社考証書及絵図面をも相添可差出且又式帳国史外と雖も格別の古社……幷に古社に非らすも其地方に深き由縁の神社……有之候はは当今社格の有無に拘らす別紙雛形に照準逐一取調可申尤右神社の儀に付考証等有之者は無忌憚書出候様管下人民へも普く相達来る九月限り取纒め可差出此旨相達候事……

 —教務省達明治七年六月二十九日第二十八号府県

 

〇 明治7年6月10日、神社統廃合差し止めの教務省通達(達書第二十三号)が出される。

 

〇 明治12年(1879年)内務省達乙第三十一号にて各管下神社寺院明細帳の様式が細かく指定されている中で「一 祭神由緒不詳と雖も古老の口碑等に存する者は其旨を記し境内遥拝所等無之者は其項を除くへし」とあるが、元々信憑性が不明であったり確定不能であるのが普通である由緒・口碑等への信憑性の判定に行政官は不干渉だったことが滋賀県から内務省へ宛てた史料から垣間みえる。

 

〇 明治15年(1882年)4月、興福寺再興。明治18年(1885年)興福会発会。会長は九条道孝、会員は久邇二品親王、近衛忠熙、元学侶の中御門胤隆他。

 

〇明治27年(1894年)2月27日、府県郷社には社司一名および社掌若干名を、また村社以下の神社にも社掌若干名を置くことが義務付けられた(勅令第二二号)

  

〔社格制度〕

 社格を上げる条件は由緒・縁起の格式だけでなく、財政面でもクリアしなければならなかった。

 

〇第一条  左項の一に当り、境内地六百坪以上にして、本殿、拝殿(但し同一建物にして本殿、拝殿を区画したるものを含む)、鳥居及社務所(社殿の構造、境内の風致等、其府県内の壮観にして最も有名なるもの)を具へ、現金五千円以上若くは之に相当する国債証書又は土地、及弐千戸以上の氏子を有する神社は府社若くは県社に列することを得。

 

第一 延喜式若くは六国史所載の神社

 

第二 一国の総社たりしもの

 

第三 祭神の功績、史上(乗)に顕著ニシテ其地方に縁故あるもの又は特別由緒ある神社

 

〇 第二条 左項の一に当り、境内地五百坪以上にして、……現金参千円以上若くは……、及千戸以上の氏子を有する神社は郷社に列することを得。 第一 延喜式若くは六国史所載の……

 

〇第三条 無格社にして境内地参百坪以上を有し、……現金弐千円以上若くは……、及弐百戸以上の氏子を有する神社は村社に列することを得。

 

〇第四条 前条氏子なき神社は崇敬者を以て氏子と看倣すことを得(氏子同様の義務を負担するものにして其の名簿は町村長の証明を要す)。……

—明治30年(1897年)府県郷村社昇格内規、

 

明治39年(1906年)4月28日、神饌幣帛料公費支出(勅令第九六号) 

 

〔明治末期の神社合祀〕

 明治39年神社合祀令以降、1898年から1916年の間に境外無格社は大阪府約8割、滋賀県約5割、奈良県約4割、京都府約2割、府県郷村社は大阪府約5割、奈良県、滋賀県、京都府約1割が消失した。「三十九年より四十二年末に至る迄に、府県社、郷社、村社、無格社の数が、実に四万五千も減って居る。」。全体でみれば府県社・郷社の減少はほとんどみられないが、大阪府では府郷村社は半分[31]、三重県では明治36年に1万524あった神社が大正2年には1165にまで減少した。

 

 神社寺院仏堂の合併に因り不用に帰したる境内官有地は官有財産管理上必要のものを除くの外内務大臣に於て之を其の合併してる神社寺院仏堂に譲与することを得

—神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件, 明治三九年年八月十日勅令第二百二十号

 

〔目的〕

 神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。

 

 また、教派神道は宗教として認めるが、神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家原則(宗・政・祭体制)に従って、地方公共団体から府県社以下神社に公費の供進を実現させるために、財政が負担できるまでに神社の数を減らすことにもあった。

 

 この政策は内務省神社局が主導したが、同省地方局の関与もあったらしい。というのも、地方局は合祀の目的の一つである地方公共団体からの府県社以下神社への公費供進を認めるのを地方公共団体にさらなる財政負担を求めるものとして消極的だったが、それを認める代わりに地方自治政策の一環としての神社中心説を神社合祀政策に盛り込んだのであった。

 

 神社中心説とは地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだという考えのことで、これにより合祀政策に一町村一神社の基準が当てはめられることとなった。神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとしたのである。

  

〔合祀政策の経緯〕

神社合祀政策は1906年(明治39年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で1914年(大正3年)までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。

 

 特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。

 

 しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。

 

 この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もある。合祀を拒んだ神社もあったが、所によってはなかば強制的に合祀が行なわれた。

  

〔合祀反対運動〕

 氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。

 

 とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。

 

 南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した。

 

 こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年(明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった。

 

〔合祀された神社の復祀〕

戦後になると、戦前の神社非宗教体制は解体され、すべてが宗教法人となった。一度合祀されたものの後に復祀された神社も少なくなかった。名目上合祀された後も、社殿などの設備を残したところもあり、そういったところでは復祀が行なわれ易かった。全般的にみて、合祀以前の崇敬基盤がその後も維持されたところでは復祀が行なわれ易かったが、行政区画の統廃合や状況の変化で崇敬基盤となった共同体が消滅や変化をした場合は復祀されない傾向にあった。

 

〔神社合祀の禍根と神社神道の分裂〕

 戦後の復祀の動きと共に、かつての強制的な合祀の政策に対する反感が業界内で表面化した。京都府では官国幣社主導の神社本庁加盟の動きに反発する形で神社本教が分離独立、北海道では北海道神社協会が神社本庁と決別する形で設立された。

 

 2.4) 天社禁止令

 明治3年閏10月17日太政官布告745号は、1870年12月9日(明治3年閏10月17日)に発せられた太政官布告。天社禁止令または天社神道禁止令とも呼ばれる。

 

 明治政府による陰陽寮廃止政策の一環として出されたもので、同布告により公的に認証を受けた職業としての陰陽師はその存在を禁止されることとなった。

 

〔内容〕

従来天社神道ト唱ヘ土御門家免許ヲ受候者共両刀ヲ帯シ絵符ヲ建宿駅通行候由甚以無謂事ニ付自今右等之所業被差止候間厳重可申逹尚今後門人免許一切被禁候旨今般土御門和丸ヘ御沙汰相成候條府藩県ニ於テモ此旨相心得管内取締可致事[1]

— 太政官

 

 (現代語訳)

 従来、天社神道と名乗り土御門家から免許を受けた者どもが帯刀し絵符を掲げて宿駅を通行することは、はなはだもって言われのないことであるため、以後これらの所業は差し止められるよう厳重に申達するように。

 

 なお、今後は門人への免許が一切禁止されると、今般、土御門和丸へお沙汰が下った。各府藩県においてもこの旨をよく心得て、管内を取り締まること。

 —太政官

 

2.5) 修験禁止令

  明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。

 

 修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる

 

 明治以降、修験禁止になっても、修験道の気合術を民間療法に活かした修験浜口熊嶽、気合術の気合・合気を武術に活かした大東流合気柔術の創始者武田惣角がいる。

 

 武田は理論の気合ノ術・合気ノ術、実技鍛錬法の気合の法・合気法を残した。合気の極意「音無きに聞き姿無きに見る」は修験の鍛錬の意味がある。 

追記:令和5年12月9日


(3)廃仏毀釈


(引用:Wikipedia)

 廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈)とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。中国においては3世紀以来廃仏の動きが強く、唐の韓愈や宋以後の朱子学派の廃仏論が大きな影響力をもった。

 

 とりわけ中国仏教史においては三武一宗の法難が有名である。日本においては江戸時代から儒学の興隆でしばしば起きるようになったが、とりわけ明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした一連の動きを指すことが多い。各地で仏像・経巻・仏具の焼却や除去が行なわれたが、この事件が仏教覚醒の好機ともなり、日本近代仏教は廃仏毀釈をてことして形成されていった。

 

1)明治期以前の廃仏運動

 仏教が日本に伝来した当初は『日本書紀』の欽明天皇、敏達天皇、用明天皇の各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

 

 江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。

 徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

 

1.1)江戸時代後期の廃仏運動

 徳川光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離神道尊重仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。

 

 また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった。

 

2)明治期の神仏分離と廃仏毀釈

 大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書大教宣布(※)などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

 

(※2)大教宣布詔は、明治天皇の名により出された詔書。天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。

 明治維新後、復古神道を奉じる平田派の国学者を中心に祭政一致論が高まり、明治2年7月8日に神祇官内に宣教使が設置され、宣教長官に中山忠能・同次官に福羽美静が任命された。福羽は神祇官が神祇省と改められた後には事実上の最高責任者である神祇大輔を務めている。

 

 続いて、時の明治天皇の名によりこの詔書が出され、「治教を明らかにして惟神の道を宣揚すべし」という理念が打ち出された。直接的にはキリスト教を排撃し、宣教使による神道振興と国家的保護を打ち出している。

 

 だが、廃仏毀釈による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、更に欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって神道国教化の動きは不振が続き、明治5年3月14日(1872年4月21日)の教部省設置と宮中祭祀の切り離し、宣教使の廃止によって大教宣布は見直しを迫られることとなり、大教宣布の路線の再建・強化を目指した大教院が翌年に設置されることとなる。

 

 日本政府の神仏分離令大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈運動(廃仏運動)が全国的に発生した。特に長年仏教に虐げられてきたと考えていた神職者たちは各地で仏教を排撃し、仏像、経巻、仏具の焼却や除去を行なった。

 

 浄土真宗の信仰が強い三河国(愛知県東部)越前国(福井県北部)では廃仏の動きに反発する護法一揆が発生しているが、それを除けば全体として大きな反抗もなく、明治4年(1871年)頃には終息した。同年正月5日(1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

 

 出羽三山については、明治7年(1874年)以降に廃仏毀釈が始まる。

 伊勢国(三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、1868(明治元)年11月から翌1869年(明治2)年3月までのわずか4ヶ月間で、196の寺が廃寺となった。これは宇治山田に存在した寺院の4分の3が整理されたことになる。

 

 奈良興福寺でも食堂が明治8年(1875年)に破壊され、現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔も、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、にされようとしていた。

 

 また大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、明治6年(1873年)にほとんどが壊された。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。

 

 廃仏毀釈がもっとも徹底された薩摩藩では、藩内寺院1616寺すべてが消え、僧侶2964人すべてが還俗させられた。廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属で、天保通宝を密かに偽造し軍備の拡充を図った。小西孝司によれば2019年(令和元年)9月時点で鹿児島県内には『宗教年鑑』平成30年版の引用で481寺あるが、国宝や重要文化財の仏像は1点もないとしている。なお文藝春秋と小西の記事では廃仏毀釈時の寺院の数が異なる(小西は1066としているが、いつの年月の時点かは記していない)

 

 美濃国(岐阜県)の苗木藩(東白川村)では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、藩内寺院17の寺すべてが廃寺となり、仏教の要素を含むものはことごとく廃却させられた。東白川村では、現在でも仏教徒はほとんど存在せず、葬式は神葬祭で実施されるのが通例である。

 一方、尾張国(愛知県西部)では津島神社の神宮寺であった宝寿院が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している。

 

 廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

 

 神仏分離がこれほど激しい廃仏毀釈に至った原因であるが,

➀廃仏思想を背景とするもの

②江戸幕府の間接統治のシステムとしての寺請制度下において管理・統制の実行者として与えられた特権に安住した仏教界への神官・庶民の反感

③地方官が寺院財産の収公を狙ってのこと など、

様々な社会的・政治的理由も窺える。

 

 日本政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、「神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではない」との注意を改めて喚起した。 また一方でこれらの廃仏運動は、藩政時代の特権を寺院が喪失したことによって仏教界へ変革を促し、伝統仏教の近代化に結びついたとする意見もある。。

 

 尾鍋輝彦は、近代国家形成期における国家と宗教の問題として、同時期にドイツ帝国首相オットー・フォン・ビスマルクが行った文化闘争との類似性を指摘している。

 

3)被害を受けた寺社

3.1) 廃仏毀釈による主な廃寺

・平等寺(大神神社別当寺)/大御輪寺(大神神社神宮寺)/内山永久寺(石上神宮別当寺)

・白雲寺(京都愛宕神社神宮寺)/中禅寺(筑波山神社関連寺院)/福昌寺(薩摩藩島津氏の菩提寺)

・永代寺(富岡八幡宮別当寺)/菩提山神宮寺(伊勢神宮内宮関連寺院)

・鵜戸山仁王護国寺(鵜戸神宮別当寺)

 

3.2)廃仏毀釈により破却された神塔

・與杼神社宝塔/上野東照宮本地塔/秋葉権現多宝塔/久能山東照宮五重塔

・紀州東照宮三重塔/北野天満宮多宝塔/石清水八幡宮大塔/鶴岡八幡宮大塔・江島三重塔

・諏訪大社五重塔(上社)・三重塔(下社)/吉備津神社三重塔

日御碕神社三重塔・多宝塔/足助八幡宮多宝塔/石清尾八幡宮多宝塔

・金比羅大権現多宝塔/室明神社多宝塔/天野神社多宝塔/平野熊野神社多宝塔


(4)国家神道


(引用:Wikipedia)

 国家神道(こっかしんとう)は、近代天皇制下の日本において作られた一種の国教制度、あるいは祭祀の形態歴史学的概念である。皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道」(神社を中心とする神道)を指す語である。1945年 (昭和20年) のGHQによる神道指令において「国家神道」の廃止が命じられており、「国家神道」という言葉はこの時に初めて一般に広まったものである。

国家神道(引用:Wikipedia)

1)概要

 研究者の間での共通の理解としては、明治維新後近代国家を建設するにあたって、神道的な実践国民統合の支柱とした近代特有の国家宗教・民族宗教の形を指すのが伝統的な理解である。一方で、明治39年(1906年)に政府主導行われた神社の統廃合(神社整理)をもって形が固まった、教派神道以外の神道の形式を指す、という捉え方もあり、こちらの場合は、神社神道とほぼ同義になる。国家神道の定義によっては、内務省が神社を管掌する以前の神祇官、教部省、内務省神社局などの政府機関による神社行政も含まれる。

 

 大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていた。しかし、政府は神社非宗教論という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示し、また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされていた。宗教的な信仰と、神社と神社祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある [注1]

[注1]:ただし、浄土真宗が明治初期に神社神道の非宗教性を唱え、結果的に宗教界から神社神道を追い出そうとした活動があったのも一考の余地がある。

 

 大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文・井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた[注2]。昭和に入ってから美濃部達吉[注3]や神社局 [注4]には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式見解として示されることはなかった。

 

 [注2]:具体的には「安寧秩序ヲ妨ケス」は主として刑法犯に抵触しない事を指し、「臣民タルノ義務ニ背カサル」は20条・21条に明記された兵役と納税の義務は宗教上の理由で拒否することが出来ない、という見解であった。

 

 [注3]:美濃部達吉や筧克彦は「神社を格別として、神道を国教としたのは不文憲法に基づくものであるとの学説を主張した。」(葦津珍彦 1987, p. 132)

 

 [注4]:神社局は「国民カ神社ニ参拝シマスノハ我カ国体ノ本義ニ基ク当然ノ責務」(1939年1月、帝国議会用資料「宗教団体法案ニ関スル質疑応答資料」)としている。

 

 1899年の文部省訓令第12号「 一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件」によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、国家神道の事実上の教典となった。国家神道宗教・政治・教育一体のものとした。

 

 時代により、政府による国民への「神社崇拝」の奨励の度合いは異なった。官国幣社は内務省神社局が所管し、新たな官国幣社の造営には公金が投入された。万世一系・神聖不可侵の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い絆があることを前提に、全国の神社は神祇官の元に組織化され、諸制度が整備された。

 

 当初、全国の神社全て官有となり、全神職官吏(神官)となった。だが、制度に未成熟な部分があり、神官と呼ばれる官吏としての神職伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。官国幣社の神職には官等を配し、位階、勲等を付与した。その多くは判任待遇としたが、一部は奏任官待遇(高等官)とし、叙位の恩典も与え、退職後の恩給制度も整備した。村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行われ、上級神職による神葬祭等の「宗教的な活動」を政府が厳禁し、一種の国教的な制度であったとされる。

 

 第二次世界大戦後、GHQにより「神道指令」(後述)が出され、国家神道は解体へ向かったが、国家と神道を巡る政教関係については論争が続いている。

 

 詳細は「日本国憲法第20条」、「信教の自由」、「政教分離原則」、「津地鎮祭訴訟」、および「靖国神社問題」を参照

 

2)「国家神道」の語の用例

 「国家神道」の語彙は第二次世界大戦前より存在し、議会や神道学、内務省、陸軍省などでは「国家神道」およびその同義語を用いている例がみられる。

 

・1908年(明治41年)3月2日、小田貫一衆議院議員「早ヤ既ニ宗教ノ神道[、]国家神道ト云ウモノハ明ラカニ分カッテイタケレドモガかっていた」(帝国議会「神職養成部国庫補助に関する建議案委員会」における発言)

 

・1911年(明治44年)2月、小田貫一「国家神道ト云フモノハ明カニ分ツテ居タ」「神社局ニ於テハ国家神道ナルモノヲ扱ヒ、宗教局ニ於テハ耶蘇、仏法及神道ノ各派ニ属スルトコロノ、即チ宗教神道ヲ支配スル」(帝国議会における発言)

 

・1924年(大正13年)、加藤玄智(陸軍士官学校教授・東京帝国大学神道講座助教授)「神道」「宗派的神道」「国家的神道」とに分け、さらに「国家的神道」「神社神道」「国体神道」とに区分する説を立てた。

 

・1941年(昭和16年)、宮地直一(内務省神社局考証課課長、東京帝国大学教授など)は「大化改新は、祭祀に始まり、惟神の道によりて樹立せられし国家中興の大業にして、此時に振起せられし国家神道の精神は、此後久しきに亘り持続せられて」などと、「国家神道」の語を頻繁に用いている。

 

 ただし、教派神道の「『神道各派』から区別された神ながらの道は特に国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例」であり、「国家神道」の語は政治家や内務省、その神社局、陸軍上層部、神道学などの場での専門用語であって、一般民衆に流通した語彙ではなかった。現在では「神社」の語義が変化しているため、「神社」ではなく「国家神道」の語をもちいるのが通例である

 

3)歴史

3.1)近世との関係

 応仁の乱により、律令制のもとで神社を管掌した神祇官の庁舎が焼失し、以来吉田家・白川伯王家私邸神祇官代として祭祀神社管掌継続していた。特に吉田家寺社法度の制定によって江戸幕府より神社管掌を公認され、支配的な勢力となっていた。

 

 幕末になると黒船来航などの外交問題が発生し、朝廷と江戸幕府は全国の有力社寺に攘夷の祈願をおこない、また、民間では国学と復古神道の隆盛から国難打開のために神祇官再興論が浮上していた。

 

 特にペリーの来航について幕府は直に朝廷に奏聞し、以後も、幕府は外交問題について朝廷の判断を仰いだため、朝廷の権威が次第に高まるのと相対的に幕府の権威は低下し、尊王攘夷思想・討幕運動と相まって大政奉還及び王政復古の実現へと繋がった。

 

 大政奉還の後、1868年1月3日の王政復古の大号令によって明治維新が始まった。既に平田派国学者の大国隆正と、彼の活躍した石見津和野藩の国学者たちは明治維新の精神神武創業の精神に基くものとし、近代日本を王政復古による祭政一致の国家とすることを提唱していたが、王政復古の大号令には王政復古神武創業の語が見え、従来理想として唱えられていた王政復古と「諸事神武創業ノ始ニ原」くことが、実際の国家創生に際して現実性を帯び、「万機御一新」のスローガンとして公的な意義を持つようになった。

 

 明治政府は新政府樹立の基本精神である祭政一致の実現と、開国以来の治安問題(浦上村事件など)に発展していたキリスト教流入の防禦のため、律令制の崩壊以降衰えていた神祇官を復興させ、中世以来混沌とした様相を見せていた神道の組織整備をおこなった。

 

3.2)憲法政治下での神社の立場

 近代化を進めるにあたり、日本が手本とした欧米においては、社会制度を安定に保つ基軸としてキリスト教の存在が重きを占めていることが注目され、明治初期にはキリスト教国教化することが言論界を中心に提案されていた。一方、帝国憲法制定時、伊藤博文をはじめとする政府高官は、キリスト教のみならず仏教や神道についても、日本社会の基軸とするには力不足であるとの認識であった。

 

 結局、国家の基軸皇室に求められ、神道を含めた各宗教は明文上は特別の扱いを受けなかった。

 

 また、明治維新の直後の一時的な神社重視の政策は、ほどなくして反転、神社の統廃合や「民営化」を促す方向へと舵を切る。まず、維新時に神社の多くは一時的な補償金と引き換えに境内地の多くが国庫に帰属しており[注5]明治9年(1876年)からは教部省の指導で無格社や仏堂の整理を開始。明治17年(1884年)末までに伊勢神宮および一部の官国幣社(約150社)を除いたほとんどすべての神社が自立経営を求められた。

 

[注5]:神社が保有する森林(鎮守の森)を材木として財源にする狙いがあったといわれる。

 

 明治20年(1887年)からは官国幣社への支出も15年分割の「基金」という形で徐々に減額し、最終的には、伊勢神宮、靖国神社、忠魂社を除いては祭典時に神饌幣帛料が供されるのみとなる予定であった。これについては神職らが運動を行い、明治39年(1906年)、官国幣社に対しての経費支出は継続することとなった。

 

 しかし同年、一町村一社を原則に統廃合をおこなうとする「神社合祀令」が出された。同年以来、内務省は数年間かけて神社の整理事業をおこなった(神社整理)

 

 合祀が著しかったのが三重県と和歌山県で、三重県の6500社の神社が7分の一以下に、和歌山県の3700社の神社が6分の1以下に合祀された。最初の3年間で全国の4万社が取り壊された。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社激減した。

 

 この措置には、地域の氏神信仰に大きな打撃を与えるなどの理由で反対意見も多く出された。民俗学者・博物学者の南方熊楠は『日本及日本人』などで10年間にわたって反対運動をおこなった。

  

3.3)神道事務局 祭神論争

 1880-1881年の論争。東京の日比谷に設けられた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった。神道事務局は事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸ら「伊勢派」の神官であった。これに対して千家尊福を中心とする「出雲派」「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。

 

 伊勢派のなかにも出雲派支持者が多く出たが、伊勢派の幹部はこれを危惧し、明治天皇の勅裁により収拾した(神道事務局神殿は宮中三殿の遙拝殿と決定、事実上の出雲派敗北)。政府は、神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したといわれている。

 

3.4)朝鮮神宮 祭神論争

 1919年、朝鮮神宮(京城)の造営に際して政府は明治天皇と天照大神とを祭神とした。これに対し、国学者賀茂真淵の末裔で靖国神社三代目宮司の賀茂百樹は「朝鮮民族の祖神」の「檀君」もまつるべきであると主張した。

 

3.5)国家神道の終焉

 詳細は「神道指令」を参照

 

4)神社非宗教説

 明治維新当初、「宗教」(religion)という用語は、キリスト教を説明する専門用語として扱われていた。そして、キリスト教の文脈においての「宗教」は、「自然宗教」に対する「天啓宗教」の優越性、「多神教」に対する「一神教」の優越性を強調するニュアンスがあった。神道や仏教は前者、キリスト教は後者の特徴を持っていたことから、「宗教」という用語自体がキリスト教の優越性(の主張)を前提としていた。

 

 仏教は、井上円了の活動によって、キリスト教側が設定した土俵の上に立って、キリスト教と対比する「宗教」としての立場を確立させた。対して神道系の人々は、一部がいわゆる教派神道として自己主張を試み、宗教の土俵に立とうとしたが、多数派は神社を宗教とは異なるものとして自己を主張した。

 

 また、明治初期において、神霊の憑依やそれによって託宣を得る行為性神信仰などが低俗なものや迷信として否定され、多くの民俗行事が禁止された。そのため、出雲神道系などの信仰が偏狭な解釈により大きく後退した。また、神社の祭神も、その土地で古来からまつられていた神々ではなく、『古事記』、『日本書紀』などの皇統譜につながる神々に変更されたものが多い。そのため、地域での伝承が途絶えた場合にはその神社の古来の祭神が不明になってしまっている場合がある。

 

 その後、姉崎正治は従来の「宗教」の定義を疑い、キリスト教や仏教中心的で、出来上がった組織ばかりに注目するその態度を批判した。そして、宗教の本質を個人の内面の問題へと還元することによって宗教の幅が広がってゆき、神社に対する崇敬という感情も宗教の一環ではないかと疑われるようになり、神社非宗教説を揺さぶった。

 

 戦前の上智大学では、神社は非宗教であるという理論で、クリスチャンでも神社参拝が可能であると説明するようになった。

 

 

4.1)宗教説

 菱木政晴は世界には言語による教義表現を軽視する宗教もあり、比較宗教学や文化人類学の成果をもちいることによって困難なく抽出可能であるとして以下のようにまとめている。

 

聖戦 - 自国の戦闘行為は常に正しく、それに参加することは崇高な義務である。

 

英霊 - 聖戦に従事して戦死すれば神になる。よって(聖戦を戦ったからなのか、神だからなのか不明)死んだ者を祀る。

 

顕彰 - 英霊を模範とし、それに倣って後に続け。

 

 そして、「顕彰教義に埋め込まれた侵略への動員という政治目的を、聖戦教義・英霊教義の宗教的トリックで粉飾するもの」と指摘している。また、国家神道の教義の中心を「天皇現人神思想」や「万世一系思想」とする意見もある。

 

 柳川啓一は以下の4点を挙げて「国家神道は明確な教義を有していた」と指摘している。

 

・天皇は神話的祖先である天照大神から万世一系の血統をつぐ神の子孫であり、自ら現御神(あきつみかみ)である。

 

・『古事記』、『日本書紀』の神話の国土の形成天壌無窮の神勅にみえるように、日本は特別に神の保護を受けた神国である。

 

世界を救済するのは日本の使命。他国への進出は聖戦

 

・道徳の面においては、天皇は親であり、臣民は子であるから、天皇への忠は孝ともなるという忠孝一本説

 

5)主な政策及び制度

5.1)神社の法的性格

 神社について、その法人格を具体的に規定した法令は存在しなかったが、行政上の運用や判例によれば、神社は「財産権の主体」であり、

・公法人

・財団法人

・営造物法人

の性格を有するものとされた。各神社は国家が管理する台帳の一種である神社明細帳に登録された。

 

5.2)外地の神社造営

 台湾、朝鮮、南洋諸島などの外地にも神社が建てられた。これはもともとは外地に在留する日本人が自分たちのために建てたものであった。

 

 外地の神社建立にあたり、多くの神道家らは現地の神々をまつるべきだと主張したが、政府は同意せず、欧米列強の植民地へのキリスト教伝道、土着信仰の残滓の払拭といった発想と同様に多く明治天皇天照大神祭神とした。

 

 これは明治政府が宗教勢力を完全に国家の従属化に置き、宗教勢力の意向を政策立案過程から排除することに成功した先進国の中でも稀有な世俗政権だったことも示しているが同時にこれら時期を逆説的に「神道の暗黒時代」とする意見の根拠ともなっている。

 

 外地に建立されたおもな神社としては朝鮮神宮台湾神宮南洋神社関東神宮樺太神社(樺太は後に1943年内地編入)などが挙げられる。台湾については台湾の神社を参照。

 

6)天皇の神格性と「現人神」

 古来より天皇の神格性は多岐に渡って主張されたが、明治維新以前の尊皇攘夷・倒幕運動と相まって、古事記・日本書紀等の記述を根拠とする天皇の神格性は、現人神(あらひとがみ)として言説化された。また、福羽美静津和野派国学者が構想していた祭政一致の具現化の過程では、天皇が「神道を司る一種の教主的な存在」としても位置づけられた。幕府と朝廷の両立体制は近代国家としての日本を創成していくには不都合であったが故の倒幕運動であり、天皇を中心とする強力な君主国家を築いていきたい明治新政府の意向とも一致したため、万世一系の天皇祭政の両面で頂点とする思想が形成されていった。

 

 具体的な国民教導に失敗した宣教使が廃止された後、神仏儒合同でおこなわれた教部省による国民教導では、「敬神愛国の旨を体すべきこと」、「天地人道を明らかにすべきこと」、「皇上を奉戴し朝旨(ちょうし。天皇の命令や指示)を遵守せしむべきこと」の3つ、「三条ノ教則」が設定された。この「三条ノ教則」を巡る解説書は仮名垣魯文の『三則教の棲道』(1873年)など多数が出された。これらのなかには「神孫だから現人神と称し奉る」とする例が複数存在した。

 

 また、教部省廃止以降もその思想的展開として、東京帝国大学で宗教学を講じた加藤玄智は『我が国体の本義』(1912年)で「現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身である」と述べている。憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉の「皇道概説」(1913年「国家学会雑誌」27巻1号)は「概念上神とすべきは唯一天皇」と述べ、これが昭和初期には陸軍の正統憲法学説となっていった。陸軍中将石原莞爾は自著『最終戦争論・戦争史大観』(原型は1929年7月に中国・長春で述べた「講話要領」)中で

 

 人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。

 

 と述べるなど、昭和維新運動以後の軍国主義の台頭によって、天皇の威を借りた軍部による政治介入が頻発した。満州事変はこの石原の最終戦争論にもとづいて始められた。

 

 GHQによる神道への危険視は、神国・現人神・聖戦などの思想が対象となっており、昭和天皇が1946年に発した「新日本建設に関する詔書」(通称「人間宣言」)もこのような背景で出されたものと考えられている。

  

7)年表

慶応3年(1868年)王政復古の大号令

 

慶応4年 (1868年)神仏分離令。同年、神祇事務局を改め、古代の律令制にならって神祇官とする。祭政一致の制度を復活し、諸神社神主等を神祇官に附属するものとした。

 

明治2年 (1869年)東京招魂社(後の靖国神社)、楠木社(後の湊川神社)を創設。明治天皇は東京招魂社に実質5千石(名目は1万石)の社領を「永代祭粢料」として与え、毎年の収入源とさせた。同年、宣教使を置く。天長節、神武天皇祭などを定め、全国的に遥拝式を実施。

 

明治3年 (1870年)大教宣布の詔

 

明治4年 (1871年):伊勢神宮以下、すべての神官社家の世襲を廃し、神祇官および地方庁に神職の任免権を与えた。「官社以下定額及神官職員規則等」(明治4年5月14日太政官布告)により、伊勢神宮を頂点として官国幣社、府藩県社、郷社の位階を定め、官国幣社長官は華族等から選任、国幣社長官は府藩県の参事の兼任とし、世襲神職のすべてを「改補新任」することとした。

 

明治4年 (1871年)、「郷社定則」(明治4年7月4日太政官)により全国の神社と神職を序列化した。また1戸籍区に1郷社を置き、他の氏神は村社として郷社に付属するものとした。

 

明治4年 (1871年)神祇官廃止神祇省設置

 

明治4年 (1871年):伊勢神宮の神宮大麻を地方官を通して全国700万戸に1個2銭で強制配布することに決め、翌年から実施。1878年以後は受不受は自由となったが、地方官が関与してトラブルを生ずることもあった。

 

明治5年 (1872年)神祇省廃止教部省設置大教院設置宣教使を廃し、教導職の制度を定めて宣教体制を確立。天皇を「奉戴」することを命じた「三条ノ教則」(残り2か条は敬神愛国、天理人道を明らかにする)国民教導の中心とした。教義に関する著書出版免許願は教部省に提出させることとした。

 

明治6年 (1873年):大教院神殿が放火により全焼。神体は芝東照宮に仮遷座。

 

明治6年 (1873年):江戸幕府によって定着した五節句を廃し、神武天皇即位日・天長節を祝日と定める(明治6年1月4日太政官布告第1号「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」)。

 

明治6年 (1873年)正月三が日および6月と12月の大祓のそれぞれ前々日・前日・当日を休暇日と定め、既に定着していたお盆休みを休暇日から外す(明治6年1月7日太政官布告第2号「休暇日ヲ定ム」)。

 

明治6年 (1873年):府県社の神官の月給を廃止。

 

明治6年 (1873年):政府は全国の招魂場の社地を免税とし、祭祀費用・招魂墳墓の修繕費の国家予算支出を定めた。

 

明治8年 (1875年):浄土真宗四派(真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派)が神道側との対立、政教分離の必要性を理由に大教院を離脱。神道側は神道事務局設立。

 

明治8年 (1875年):太政官は神道と仏教との合同布教中止の通達を教部省に出す。また太政官は神宮以下の神社祭式を定める。

 

明治9年 (1876年):政府は靖国神社の社領を年7550円の現金に改め、「寄付金」へと改称した。

 

明治10年 (1877年)教部省廃止。機能は内務省社寺局へ移される。

 

明治10年 (1877年):神宮・官国幣社の神官を廃して祭主以下の職員の官等・月俸を定めた。

 

明治12年 (1879年):東京招魂社を靖国神社に改称し、内務省・陸軍省・海軍省の管理とした。

 

明治13年 (1880年)ー明治14年 (1881年):芝東照宮から神道事務局神殿へ祭神を遷す際、祭神をめぐり神道界に激しい教理論争。明治天皇の裁定により収拾。

 

明治15年 (1882年):官国幣社の神職が教導職を兼補することを廃止。また内務省は神宮・官国幣社の神官が葬儀に関与してはならないことを定めた。神社は祭祀儀礼を中心とし、独自の教説を有する教団は教派神道として独立。神官層は神職と教導職の完全分離と神祇官の再興運動(1896年参照)を起こした。

 

明治20年 (1887年):官国幣社に対して1902年までの「保存金」の支給を定め、従前の経費・官費営繕を廃止した。「保存金」は後に1917年までに延長された。

 

明治21年 (1888年):官国幣社の神官を廃止し、宮司・禰宜・主典の神職を置いた。宮司は奏任官、禰宜・主典は判任官の待遇とした。

 

明治22年 (1889年)大日本帝国憲法発布。近代国家として信教の自由(“法の定める範囲内”の留保付き)が条文に記載される。神社崇敬義務の範囲が議論の対象となった。

 

明治23年 (1890年)橿原神宮創設教育勅語を発布。内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)により、教育勅語重視の訓令を追加した。昭和期には児童・生徒に暗唱を義務付けた。

 

明治25年 (1892年):久米邦武の学術論文「神道は祭天の古俗」を巡って激しい論争(久米邦武筆禍事件)。久米邦武は帝国大学教授職非職となり、『史学雑誌』『史海』の論文が掲載された該当号は内務大臣品川弥二郎により発禁処分。

 

明治26年 (1893年):太平記の南朝の忠臣などの諸事跡や実在を疑問視した重野安繹が帝国大学史誌編纂掛委員を罷免。

 

明治26年 (1893年):学校行事の「陛下の御真影への最敬礼」、「両陛下の万歳奉祝」、「教育勅語の奉読」「校長の訓話」などの基本形式を整える。

 

明治27年 (1894年)明治28年 (1895年)日清戦争。戦後、忠魂碑の建造が盛んになるなど、国家と神道との結びつきが強まる。

 

明治28年 (1895年):平安遷都1100年記念に平安神宮創建。祭神は桓武天皇。

 

明治29年 (1896年):「神祇官興復決議」が衆貴両院をはじめて通過したが、不平等条約の条約改正を前にして実現しなかった。

 

明治32年 (1899年)不平等条約の条約改正が実現し、欧米列強の意向を顧慮する必要が薄れた。

 

明治32年 (1899年)歴史教科書天照大神、三種の神器、天孫降臨を加える。

 

明治33年 (1900年):内務省社寺局を神社局と宗教局に分離された。神社局は地方局や警保局を抜いて最高位の局とされた。出雲大社教や黒住教などの教派神道は一般宗教政策として宗教局の担当とされた。(宗教局はさらに1913年には文部省に移管され、格落ちした。)

 

明治33年 (1900年):外地の台湾の台北に台湾神宮(官幣大社)を創建した。以後、台湾には官国幣社5、県社9、以下81社が造られた。

 

明治34年 (1901年):国費で維持する官祭招魂社の105社が定められた。

 

明治39年 (1906年):内務省神社局は神社合祀を開始し、1914年までに全国約20万社のうち7万社を取り壊して一村一社を推進した。

 

明治45年 (1911年)大逆事件。幸徳秋水などが天皇暗殺計画の容疑で処刑される。幸徳の多くの著作が発禁になる一方で、反キリスト教の観点から、幸徳の遺作である『基督抹殺論』の刊行が、例外として許可される。

 

大正2年 (1913年):内務省宗教局は文部省へ移管。憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉の「皇道概説」が出され、昭和初期には陸軍の正統憲法学説となっていった。

 

大正8年 (1919年):朝鮮に朝鮮神宮(官幣大社)を創建した。祭神を天照大神と明治天皇にした。官国幣社9、以下60余社が造られた。

 

大正14年 (1925年)治安維持法が制定。共産主義の脅威から「国体」(皇室や国家神道)を守ることを目的に制定される。

 

昭和10年 (1935年):9月頃から、八紘一宇などのスローガンが掲げられるようになった。

 

昭和12年 (1937年):文部省思想局が「国体の本義」(当時は旧字体で「國體―」)を発行する。政府の刊行物に公式用語として現人神が記載され、天皇の神格性について言説化(言挙げ)された。「国体の本義」は必須の教材であった。大日本帝国と中華民国、盧溝橋事件により全面戦争状態へ(昭和天皇名義での宣戦布告はされていない)。

 

昭和14年 (1939年):大日本帝国陸軍は従軍神職制度を定めた。配属は師団に3名、兵站監に2名、独立旅団に1名。

 

昭和15年 (1940年)皇紀二千六百年祝典。全国の神社で奉祝臨時祭が行われた。新たに浦安の舞が創作された。神祇院設置。

 

昭和16年(1941年):日本、真珠湾攻撃・マレー作戦により米英と開戦。太平洋戦争勃発(昭和天皇の宣戦布告なし)

 

昭和20年 (1945年):アメリカ軍の空襲により明治神宮、熱田神宮、湊川神社等が炎上した。

 

昭和20年 (1945年):日本の降伏により太平洋戦争終結

 

昭和20年 (1945年)神道指令(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件)により、神社と行政機関の接点が全て廃止される。

 

昭和21年 (1946年):昭和天皇はいわゆる人間宣言を発布。これは天皇の「神格否定」として解釈された。

 

昭和21年 (1946年):神祇院官制など、すべての神社関係法令が廃止された。皇室令も全廃され、宮中祭祀は天皇の私的行為となった。

 

昭和28年 (1953年):敗戦により中止された伊勢神宮の「式年正遷宮」が行われた。

 

昭和32年 (1957年):神社本庁、生長の家(現・生長の家本流運動)、修養団などが合同で紀元節復活運動のための統一団体、「紀元節奉祝会」を結成。

 

昭和34年 (1959年):政府は皇太子の結婚式に際して神道儀礼である「賢所大前の儀」国事とした。

 

昭和42年 (1967年)「建国記念の日」が国民の祝日として制定された。靖国神社の再国営化運動が活発化した。

 

昭和44年 (1969年):靖国神社から宗教的要素を除き、国営化する「靖国神社法案」が出されたが、審議未了廃案となった。

 

昭和49年 (1974年):自民党が靖国神社法案を衆議院本会議で単独可決(参議院で廃案)。朝比奈宗源の呼びかけにより神道及び仏教系の新宗教が「日本を守る会」結成(石田和外により結成された「元号法制化実現国民会議」を前身とする日本を守る国民会議と97年に合同し日本会議)。

 

昭和51年 (1976年)「靖国神社国家護持貫徹国民協議会」が「英霊にこたえる会」へと改称。

 

昭和53年 (1978年):靖国神社は元A級戦犯の14人を合祀

 

昭和61年 (1986年):中曽根康弘首相は靖国神社参拝を見送り、「元A級戦犯の合祀は相手国を刺激する」と発言。

 

平成2年 (1990年)大嘗祭が行われた。

 

平成18年(2006年):昭和天皇がA級戦犯の合祀を批判した発言を書きとった「富田メモ」の存在を日本経済新聞が報道。

 

平成23年(2011年):自民党が天皇を元首と、また神道を非宗教と再度定義する憲法改定案を発表。


(5)建武中興十五社


(引用:Wikipedia) 

 建武中興十五社とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。これらの神社は「建武中興十五社会」を結成している。

 

1)概要

  後醍醐天皇による建武の中興は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであった。これは、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武の中興に関った人々を祀る神社がその縁地などに作られた。 

 

神 社 名

住  所

御 祭 神

旧 社 格

吉野神宮

奈良県吉野郡吉野町

後醍醐天皇

官幣大社

鎌倉宮

神奈川県鎌倉市

護良親王

官幣中社

井伊谷宮

静岡県浜松市

宗良親王

官幣中社

八代宮

熊本県八代市

懐良親王

官幣中社

金崎宮

福井県敦賀市

尊良親王・恒良吉親王

官幣中社

小御門神社

千葉県成田市

藤原師賢公

別格官幣社

菊池神社

熊本県菊池市

菊池武時公・武重公・武光公

別格官幣社

湊川神社

兵庫県神戸市中央区

楠木正成公

別格官幣社

名和神社

鳥取県西伯郡大山町

名和長年公

別格官幣社

阿部野神社

大阪市阿倍野区

北畠親房公・北畠顕家公

別格官幣社

藤島神社

福井県福井市

新田義貞公

別格官幣社

結城神社

三重県津市

結城宗広公

別格官幣社

霊山神社

福島県伊達市

北畠親房・顯家・顯信・守親

別格官幣社

四條畷神社

大阪府四條畷市

楠木正行公

別格官幣社

北畠神社

三重県津市

北畠顕能耕・親房公・顕家公

別格官幣社

 

2)吉野神宮 

 吉野神宮は、奈良県吉野郡吉野町に鎮座する神社。祭神は後醍醐天皇。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣大社、現在は別表神社である。旧社名 吉野宮。

 

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拝殿(引用:Wikipedia)

●御祭神

・後醍醐天皇

 

●歴史

 南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年(1339年)に崩御した後、その像を吉野・吉水院に安置した。以降、仏教式の供養が行われていたが、明治時代に入って神仏分離が行われると1873年(明治6年)に吉水院は後醍醐天皇を祭神とする後醍醐天皇社という神社に改められ、2年後に吉水神社と改称した。この時、太政官政府は官費(国費)で後醍醐天皇を祭神とする別の神社を創建する考えを表明したが、そのまま棚上げになって時が経った。

 

 1889年(明治22年)6月22日に、後醍醐天皇を祀る官幣中社・吉野宮の創建が明治天皇の意向で決定した。1892年(明治25年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。1901年(明治34年)8月8日に官幣大社に昇格する。

 

 1918年(大正7年)吉野神宮に改称し、1923年(大正12年)には境内が拡張される。1927年(昭和2年)に現・本殿が上棟、祝詞舎が完成する。1928年(昭和3年)、現・拝殿が竣工する。1929年(昭和4年)には神門が竣工。1930年(昭和5年)、大鳥居が竣工する。1998年(平成10年)、現・斎館が完成した。

 

 本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられている。総檜造。近代神社建築の代表とされる。境内は、桜の名所であり、金剛山や葛城山が遠望できる。

 

3)鎌倉宮

 鎌倉宮は、 神奈川県鎌倉市二階堂にある神社である。 後醍醐天皇皇子の護良親王を主祭神とする。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれることもある。

 

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鎌倉宮(引用:Wikipedia)

 

 なお、「護良親王」は歴史的には「もりよししんのう」と訓まれたと考えられるが、2020年時点では、鎌倉宮の主祭神としては「もりながしんのう」と呼称する。また、「大塔宮」の訓み方は正式には「おおとうのみや」と考えられ、鎌倉宮でもこれを採用するが、親王薨去の約40年後に完成した軍記物語『太平記』の5巻では「だいとうのみや」とも俗に訓まれていたかのような描写があり、鎌倉の地元でもこちらの「だいとうのみや」で訓まれることが多い。

 

●御祭神 

・護良親王

 祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められた。

 

・持明院 南御方

 持明院 南御方(じみょういん みなみのおんかた)は持明院中納言の藤原保藤卿の息女。護良親王の鎌倉幽閉に随行し、身の回りの世話をし、親王の最期にあたっては理知光寺(廃寺。現、皇子護良親王墓陵)の長老と共に丁重に弔った後、上洛し後醍醐天皇へその最期の仔細を報告した。

 境内に摂社があり、「南方社」(みなみのかたしゃ)と呼ばれている。

 

・村上彦四郎義光公

 村上彦四郎義光公は護良親王の忠臣で吉野落城に際しては、自刃を覚悟した親王を諫め、親王の鎧直垂を着用して身代わりとなり、腹十文字に掻き切って壮烈な最後を遂げた。1908年(明治41年)、真に至誠純忠の勇士として従三位を追贈され、贈従三位左馬権頭と呼ばれるようになった。

 境内に摂社があり、「村上社」と呼ばれている。

 

●歴史

・1869年(明治2年)2月、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じて御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

 

・1873年(明治6年)4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

 

・1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社の祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から御祭神を奉安した。

 

4) 井伊谷宮

 井伊谷宮(いいのやぐう)は、静岡県浜松市北区の井伊谷にある神社である。旧社格は官幣中社。建武中興十五社の一社である。

 

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 井伊谷宮(引用:Wikipedia)

 

 後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀る。元中2年(1385年)8月10日に73歳で歿した地と伝えられ(他説もある)、社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。神紋の李花紋は、歌人としても有名であった宗良親王の家集の題名に因むものである。

 

●歴史

 明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つである。彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年(1869年)にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で薨去なされたと伝えられていた。

 

 翌明治3年(1870年)の春に完成した神社は、はじめ宗良親王御社といったようだが、明治5年(1872年)1月23日に井伊谷宮に改称になり、2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた。

 

 初め社格がなく、神官を置かず、宮内省式部寮の役人が祭祀を執行していたが、明治6年(1873年)6月9日に白峯宮(白峯神宮)鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた

 

●年表

・明治2年(1869年) - 宗良親王を祭る神社の創建が決定。

・明治5年(1872年)1月23日 - 宗良親王御社を井伊谷宮と称す。

・明治6年(1873年)6月9日 - 官幣中社に列した。

  12月4日 - 竜潭寺塔頭廃寺跡を社地となし、うち600坪を宗良親王の墓地に定めた。

・明治11年(1878年)10月28日 - 静岡県令大迫貞清が井伊谷宮奉幣使として参向を命じられた。

 

5)八代宮

 八代宮(やつしろぐう)は、熊本県八代市にある神社である。旧社格は官幣中社。

 

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八代宮(引用:Wikipedia)

●概要

 後醍醐天皇の皇子で、征西将軍としてこの地で足利軍と戦った懐良親王を主祭神とし、懐良親王歿後に征西将軍職を継いだ良成親王を配祀する。地元では「将軍さん」の愛称で呼ばれている。建武中興十五社の一社である。

 

 例祭日の8月3日は、八代宮の創建が太政官によって決定された日である。親王が死んだ日を例祭の日とすべきであったが、その日が不明なため創建決定の日をもってした。創建の日でないのは例祭日を創建に先立って定めたためである。

 

●歴史

 明治維新以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こり、懐良親王の墓所のある八代の住民からも、懐良親王と良成親王を祀る神社を創建し、鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が何度かなされた。

 

 住民である徳富忠七や八代宮創立発起担当人の村上忠三らは、墓所から遠くない松江城(八代城)の址に神社を建てることを求めた。これを請けて1880年(明治13年)に太政官が熊本県に創立を命じ、懐良親王を祭神とし、良成親王を配祀する神社が八代宮の名で願い通りに造られることとなった。

 

 同地には官有地と民有地があったが、1881年(明治14年)に民有地が神社のために寄付されたため、八代城址は全体が神社の境内になった。また神社の前から市街に通じる道路を開くこととした。建設予算は9463円80銭4厘で、寄付金2642円97銭4厘(寄付金2000円、残りは力役提供を金銭に換算)と官費6820円83銭で拠出した。

 

 またこの年に、宮内省と内務省は霊代(神体)を社殿完成後に新しい鏡で納めることにすることを決めた。社殿が完成してから、明治17年(1884年)4月20日に鎮座祭が行われ、霊代が納められた。

 

●年表

・1875年(明治8年)12月 - 八代町の住民が神社創建を請願した。

・1880年(明治13年)1月15日 - 徳富忠七ほか56名の八代町人民が熊本県に神社創建を請願した。

  2月3日 - 熊本県が内務省に請願を取り次ぎ、創建を申請した。

  6月28日 - 内務省が八代宮の創建と概要を決定した。

  8月3日 - 太政官が熊本県に創建を命じた。

・1884年(明治17年)4月20日 - 鎮座祭。

 

6)金崎宮

 金崎宮(かねがさきぐう)は、福井県敦賀市にある神社である。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社である。

 祭神の一人である尊良親王とその妻の恋愛伝説や(御匣殿 (西園寺公顕女)を参照)、明治40年代(1900年代 - 1910年代ごろ)に始まった花換祭の風習により、「恋の宮」の別名でも知られている。

 

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金崎宮(引用:Wikipedia)

●概要

 当地にあった金ヶ崎城址の麓にある。恒良親王と尊良親王を祭神とする。約1000本のソメイヨシノがあり桜の名所として知られている。4月1日~15日には神事・花換まつりが行われる。天筒山の北面にあり、周辺は金ヶ崎緑地として整備されていて、山麓から本神社を通り山頂に到る遊歩道が整備されている。

 

●歴史

 恒良親王と尊良親王は、足利尊氏の入京により北陸落ちした新田義貞、および氣比神宮の大宮司に奉じられて金ヶ崎城に入ったが、足利勢との戦いにより敗死した。

 

 明治23年(1890年)、尊良親王を祀る官幣中社金崎宮が金ヶ崎城址に創立された。明治25年(1892年)には恒良親王が合祀され、明治26年(1893年)、現在地に社殿が竣工して遷座した。

 

7)小御門神社(参考Webサイト:小御門神社公式サイト

 小御門神社(こみかどじんじゃ)は、千葉県成田市名古屋にある神社である。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社である。

小御門神社 拝殿

拝殿(引用:Wikipedia)

●概要

 後醍醐天皇の側近の藤原師賢を祀る。師賢は元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の身代わりに比叡山で討幕の挙兵したが(元弘の変)捕えられ、元弘2年に下総国に流されて、その3か月後に32歳で歿した。建武中興の際に太政大臣を追贈され、文貞公の諡号が与えられた。

 

 明治10年(1877年)、住民により師賢を祀る神社の創建運動が起こった。明治12年(1879年)に神社創建の許可が下りて「小御門神社」の社号が決定し、明治15年(1882年)に師賢の墓跡に社殿を造営し、同年4月29日に鎮座祭が行われ、同年6月14日に別格官幣社に列格した。

 

 後醍醐天皇の身代わりとなったことから「身代わりの神」として、交通安全・航空安全に御利益ありとして信仰される。

 

8)菊池神社

 菊池神社は、熊本県菊池市に鎮座する神社である。南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏の3代を祭る。建武中興十五社のうちの一社である。旧社格は別格官幣社で現在神社本庁の別表神社。

 

 境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されている。の名所としても知られている。

 

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菊池神社(引用:Wikipedia)

●祭神

 菊池氏は後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀する。

 

●歴史

 慶応4年(1868年)に熊本藩から明治新政府の参与に出仕した長岡護美が、菊池氏と加藤清正のために神社を創建する案を建議した。同年7月18日、太政官政府はこの建言を採択し、熊本藩に両者の祭祀を執行するよう命じた。そこで熊本藩は、清正のために熊本城内に錦山神社を建て(現加藤神社)、菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建てた。菊池神社の鎮座祭は明治3年(1870年)4月28日に行われ、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした。

 

 明治6年(1873年)5月に郷社に列され、8年(1875年)7月には県社に昇格したが、その10月24日に楠木正成を祭る楠社(現湊川神社)が別格官幣社なのに菊池神社が県社では不公平だと白川県が教部省に願い出た。3年後の同11年(1878年)1月10日に名和神社とともに別格官幣社に列した。あわせて、その時まで配祀されていた武重、武士、武光、武政、武朝の5人に加え、菊池氏に従って戦った一族他家の将士も配祀することになった。同年6月3日に、菊池武時が戦死した元弘3年3月13日を太陽暦に換算した5月5日を例祭日に定めた。

 

 大正12年(1923年)に配祀されていた武重と武光を主神に加えた。

 

 昭和26年(1951年)に宗教法人法が公布されたのをうけ、昭和27年(1952年)9月13日に宗教法人菊池神社となった。

 

●年表

・慶応4年(1868年・明治元年)7月18日 - 太政官が熊本藩に菊地氏の祭祀を命じた。

・1873年(明治6年)5月 - 郷社になった。

・1875年(明治8年)7月 - 県社になった。

 10月24日 - 白川県が別格官幣社への昇格を教部省に願い出た。

・1878年(明治11年)1月10日 - 太政官が菊池神社を別格官幣社に昇格させた。菊池武重以下の将士を配祀するよう指示した。

  1月31日 - 熊本県大書記官北垣国道が勅使代理として菊池神社で別格官幣社被列祭典を執行した。

  6月3日 - 例祭日を5月5日に定めた。

・1879年(明治12年)10月30日 - 太政官が別格官幣社の中での菊池神社の順序を護王神社の次にすると定めた。

・1923年(大正12年) - 菊池武重と武光を主祭神にした。

・1952年(昭和27年)9月13日 - 宗教法人菊池神社となった。

・2012年(平成24年)4月1日 - 熊本県の旧県民歌「菊池盡忠の歌」を奉納する集いが開催される。

 

9)湊川神社

 湊川神社は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。

湊川神社拝殿

拝殿(引用:Wikipedia)

●概要

 楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。寛永20年(1643年)に尼崎藩主となった青山幸利は、領内に正成の戦死の地を比定し供養塔を立てた。幸利の自ら定めた墓所もこの周辺に存在する。

 

 元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立した。(『広厳寺(楠寺)』項目も参照)以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。

 

 1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。

 

 境内には、楠公にゆかりのあるものを納めた宝物殿や能楽堂である神能殿や結婚式などのための楠公会館などがある。また兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所がある。

 

●祭神

・主祭神:贈正一位橘朝臣(楠木)正成公

 

・配祀神:

  贈従二位楠木正行卿

  贈正三位楠木正季卿

  菊池武吉命・江田高次命・伊藤義知命・箕浦朝房命・岡田友治命・矢尾正春命

  和田正隆命・神宮寺正師命・橋本正員命・冨田正武命・恵美正遠命・河原正次命

  宇佐美正安命・三石行隆命・安西正光命・南江正忠命

 

・本殿合祀:摂社甘南備神社(祭神:大楠公御夫人滋子刀自命)

 (祭神名の表記は『湊川神社誌』による)

 

 主祭神である楠木正成は、河内に本拠地をおいたいわゆる武将で、1331年(元弘元年 / 元徳3年)に後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎌倉幕府倒幕に貢献する。

 

 建武の新政後の足利尊氏の反乱において、九州から京都に向かう尊氏を摂津国湊川の地で迎え打ち、新田義貞らとともに戦うが、1336年(延元元年 / 建武3年)5月25日(新暦7月12日)に敗退し自刃する。大楠公と呼ばれる。

 

 配祀神の楠木正行は主祭神・楠木正成の子息である。正成が大楠公と呼ばれるのに対して、楠木正行は小楠公と呼ばれる。正行は大楠公の死後も南朝側として戦い、河内の四條畷の戦いで破れて自刃。1890年(明治23年)4月には正行を主祭神とする四條畷神社が創建されている。

 

 配祀神の楠木正季は主祭神・楠木正成の弟である。兄とともに湊川の戦で敗れる。『太平記』では、兄と刺し違えて死んだとされ、死に際に「七生滅敵」と誓ったと描かれている。

 

 『太平記』では、正成正季の兄弟とともに一族16名も自刃したとしており、これら16柱の神霊も正季らと供に配祀されている。そのうち菊池武吉は菊池武時の七男で、菊池武重の弟である。兄とともに新田義貞の軍で戦っていたが、楠木正成らの自刃の場に居合わせたためにともに自刃したという。1924年(大正13年)3月17日、従三位が贈られている。

 

●歴史

 幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを自らに重ね、彼らを理想とした。特に楠木正成はその忠臣の筆頭に挙げられ、多くの維新志士が彼の崇拝者となり、その祭祀を行った。

 

 明治維新の意義は、公的には神武創業に回帰するという意味が岩倉具視らの強い主張により与えられたが、実際の倒幕運動は神武創業というよりはむしろ建武の新政を理想として行われたものであった。それは江戸時代に儒学の興隆によって興った南朝正統論に起源するものである。

 

 明治維新が実現すると、楠木正成は、皇室に忠義を尽くした第一の功臣として顕彰され、神社が建てられることとなった。神社の創建には薩摩藩、尾張藩、水戸藩などが主導権を争ったが、最終的に神社は国家が祀るものとして、政府が主導して建てられた。

 

 湊川神社の創建は、これに続く南朝関連の人物を祀る神社創建の嚆矢となり、別格官幣社に代表される、功績のあった人物を神社に祀る風習のさきがけとなるなど、近代神社史上、無視できない重要な位置を占めることとなる。

 

 また、『太平記』に記される楠木正成・正季兄弟自害の逸話に基づく「七生」は後代に「報国」の意味が加わり「七生報国」となり、戦時中のスローガンとなった。戦災で社殿を焼失したが、戦後復興している。

 

10)名和神社

 名和神社は、鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社で、名和長年を祭る。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社である。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船である。

 

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拝殿(引用:Wikipedia)

●祭神

 名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀する。名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕に功があり、南北朝時代には南朝について戦った武将である。

・名和義高 - 長年の長男。延元3年堺浦安部野(石津の戦い)で討死。

・名和高光 - 長年の三男。延元元年10月山城国西坂本で討死。

・名和泰長 - 長年の弟 (三弟)。元弘3年2月29日に出雲国で自害。

・名和行泰 - 長年の弟 (九弟)。建武2年伯耆国の船上山で自害。

・名和長重 - 長年の甥。

 

・名和義重 - 長年の甥、長義の嫡男。延元3年堺浦安部野で討死。

・名和高通 - 長重の甥。助高の二男。延元元年6月30日京内野で討死。

・名和高政 - 長重の甥。高通の弟。正平7年4月2日伯耆国で討死。

・名和長氏 - 長年の甥。行氏の三男。正平3年4月25日八幡で討死。

・名和貞氏 - 長氏の弟。延元元年6月30日京内野で討死。

 

・名和高長 - 長年の甥。高重の二男。延元元年6月30日京内野で討死。

・名和高年 - 長年の甥。高法の二男。延元元年6月30日京内野で討死。

・名和行重 - 長年の従兄弟の子。名和長村の孫、行村の嫡男。延元3年5月22日堺浦安部野で討死。

・名和秀村 - 長年の従兄弟の子。名和長村の孫、頼村の長男。延元3年5月22日堺浦安部野で討死。

・名和五郎兵衛尉 - 長年の従兄弟の子。名和長村の孫、惟村の嫡男。正平7年4月2日伯耆国で討死。

 

・名和重村 - 五郎兵衛尉の弟。延元2年5月22日堺浦安部野で討死。。

・名和興村 - 正平7年4月2日伯耆国で討死。

・名和信貞 - 長年の従兄弟。行貞の嫡男。延元元年6月30日京内野で討死。

・名和広貞 - 長年の従兄弟の子。信貞の二男。延元3年5月22日堺浦安部野で討死。

・名和広次 - 長年の従兄弟の子。広貞の弟か。延元元年6月30日京内野で討死。

 

・名和助貞 - 長年の従兄弟。信貞の弟。元弘3年4月8日二条大宮で討死。

・名和助重 - 長年の従兄弟。助貞の弟か。延元元年6月30日京内野で討死。

・名和長信 - 長貞の嫡男。正平7年3月18日伯耆国で討死。

・名和高直 - 直行の嫡男。正平8年備前国富岡で討死。

・名和行実 - 長年の従兄弟。行忠の嫡男。正平7年4月3日伯耆国で討死。

 

・名和助国 - 長年の従兄弟。高助の嫡男。延元元年6月30日京内野で討死。

・名和高国 - 長年の従兄弟の子。助国の嫡男。延元元年越前国坂南で討死。

・内河真信 - 長年の執事。延元元年6月5日山城国西坂本で討死。

・内河真親 - 内河真信の二男。延元元年1月播磨国書写山で自害。

・内河真員 - 内河真信の甥。長祐の嫡男。元弘3年4月8日二条大宮で討死。

 

・内河右真 - 内河真信の甥。真員の弟。延元元年6月5日山城国西坂本で討死。

・内河右弘 - 内河真信の甥。右真の弟。延元元年6月5日山城国西坂本で討死。

・内河義法 - 内河真信の孫。義真の四男。天授4年9月29日肥後国府で討死。

・内河右景 - 延元3年5月22日堺浦安部野で討死。

・内河武景 - 延元3年5月22日堺浦安部野で討死。

 

・内河国時 - 延元元年6月30日京内野で討死。

・河迫義元 - 延元元年6月30日京内野で討死。

・河迫忠頼 - 延元元年6月30日京内野で討死。

・荒松忠成 - 延元3年5月22日堺浦安部野で討死。

 

・香原林元親 - 延元元年6月30日京内野で討死。

・小鴨幸清 - 延元元年6月30日京内野で討死。

・土屋宗清 - 正平7年4月8日八幡で討死。

 

●歴史

 承応・明暦の頃(1652年 - 1658年)、名和長年の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠が建立されたのに始まる。延宝5年(1677年)、鳥取藩主となった池田光仲が長年を崇敬し、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座し、山王権現を末社として「氏殿権現」と称した。

 

 明治初めの関係者の説明によると、神社の再興を志したのは光仲の子綱清で、毎年わずかな祭祀料をあてがった。くだって幕末の藩主池田慶徳が従来の小祠のそばに碑を立て、祀主を任じようと考えたが、果たせぬうちに廃藩になった。

 

 1873年(明治7年)に県社に列し、「氏殿神社」と改称した。

 1876年(明治9年)6月22日、鳥取県が、名和氏の功績は楠木氏に比肩するから県社にとどめず国幣社格にしてほしいと内務省に伺を出した。10月には氏殿神社の祀官糟谷末枝が教部省に、11月には池田慶徳が宮内省に、それぞれ別格官幣社にしてほしいと願い出た。そして12月16日に島根県が二人の請願を後押しする伺を教部省に出した。

 

 翌1877年(明治10年)の夏、池田慶徳は島根県庁から鳥取に至る道筋で氏殿神社に参拝し、その衰退を目撃した。慶徳はまもなく亡くなり、11月28日に子の輝知が父の遺志を継いで社格を進めることを請願した。このとき既に内務省も別格官幣社に列する方針を固めており、輝知の請願を受けて太政官にその実施を促した。こうして1878年(明治11年)1月10日、氏殿神社の社号を名和神社に改定し、別格官幣社に列することを太政官が決定し、名和長重以下の将士を配祀すべきことを命じた。

 

 この年、1878年(明治11年)の5月11日に、宮内省式部寮の式部頭坊城俊政は、名和神社の例祭日は談山神社以下の例により、長年が卒した日を太陽暦に換算して定めるとして、その日を延元元年6月晦日(30日)から紀元(皇紀)1991年8月15日と計算した。21日に例祭日が式部寮の具申通りに決定された。

 

 懸案だった老朽社殿の建築のためには島根県と内務省が案を練り、明治11年度から3か年、国から4769円21銭6厘の交付を見込んでの工事許可を1879年(明治12年)1月17日に得た。

 

 1881年(明治14年)には外構・玉垣・厠なども国の費用で造ることになった[7]。社殿は1882年(明治15年)に完成し、1883年(明治16年)3月10日に遷座式が執り行われた。式では、勅使として参向した鳥取県令山田信道が、宮内省から下げ渡された新しい鏡を従来の神像にかわる霊代として奉納し、祭文を読誦した。

 

●年表

・1876年(明治9年)6月22日 - 鳥取県が内務省に氏殿神社の国幣社昇格を願った。

  10月28日 - 糟谷末枝が教部省に別格官幣社への昇格を願い出た。

  11月 - 池田慶徳が宮内省に別格官幣社への昇格を願い出た。

  12月16日 - 島根県が教部省に別格官幣社への昇格を願い出た。

 

・1877年(明治10年)夏 - 池田慶徳が参拝。

  10月20日 - 内務省が別格官幣社に列するのを当然とする。

  11月28日 - 池田輝知が宮内省に父の遺志の実現を願った。

  12月11日 - 内務省が太政官に輝知の建言を上申した。

 

・1878年(明治11年)1月10日 - 太政官が氏殿神社を名和神社と改名し、別格官幣社に列させた。

  5月11日 - 宮内省が例祭日を8月15日とすべしと太政官に上申した。

  5月21日 - 太政官が例祭日が8月15日に定めた。

  6月19日 - 島根県が内務省に社殿建築の目論見帳を出した。

  8月31日 - 内務省が島根県に社殿建築案につき指令を出した。

  11月15日 - 島根県が建築案を修正し、位置図面などを添えて伺を出した。

  12月21日 - 内務省が太政官に名和神社改築につき伺を出した。

  12月25日 - 太政官調査局が伺の通り改築を許可されるべきとした。

 

・1879年(明治12年)1月17日 - 名和神社改築が太政官に認められた。

 

・1879年(明治12年)10月30日 - 太政官が別格官幣社の中での名和神社の順序を湊川神社の次にすると定めた。

 

・1883年(明治16年)3月10日 - 遷座式。

 

11)阿部野神社

 阿部野神社(あべのじんじゃ)は、大阪市阿倍野区北畠にある神社。南朝方について各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社、現在は別表神社となっている。

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拝殿(引用:Wikipedia)

●祭神

・ 主祭神 - 北畠親房、北畠顕家

 

●歴史

 当社は、延元3年(1338年)北畠顕家が石津の戦いで高師直に敗れて亡くなったと伝承される地に、1875年(明治8年)、地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのに始まる。

1878年(明治11年)2月27日、東城兎幾雄・松本楚文ら15人が東成郡阿部野村にある北畠顕家の墓を修繕し、社殿を造営したいと願い出た。

 

 大阪府は、建物と境内の面積、創建後の維持の方法、神官の受け持ちを定め、社地と墓地を区分した詳細絵図を添えてもう一度願い出るようにと答えた。請願者は400円を用意し、天王寺村内の土地の購入計画を立てた。再提出を受けた大阪府は、願いの通りにするよう請願書を添えて内務省に伺を出した。

 

 内務省は神社創建は請願通り、墓は民間に任せず官費で記念碑を建てるべきと判断し、それが9月21日に太政官政府の決定として下された。

 

 しかし、この決定から創建まではなお曲折があった。大阪府は、北畠顕家の忠誠は楠木正成・新田義貞・名和長年・菊池武時らと同じだから、顕家を祭る神社にもしかるべき社格を定めるべきではないか、という内容の伺を同じ年の11月20日に内務省に出した。

 

 内務省は3年後の1881年(明治14年)11月16日に北畠顕家と北畠親房の二人を祭神とする別格官幣社の阿部野神社を阿部野村に創建する方針を固め、それが1882年(明治15年)1月24日に太政官の正式決定となった。これにより、社格と名称が定まった。墓所に記念碑をたてる案は取り止めになった。

 

 ところで、大阪で創建を進めていた有志は、参拝に便利な天王寺村字天下茶屋に神社を建てるつもりで、寄付金を集めて土地の購入に着手していた。阿部野村に建てる決定を知り、東城ら12人は、土地を寄付するので社殿建築を有志に任せてほしいと3月22日に大阪府知事建野郷三に申し入れた。

 

 その後、天下茶屋の予定地は民家のそばで低湿だというので、近くの丘に変えることを有志のうちで議決し、6月2日に伊藤祐暉ら6名が大阪府知事に両地の図面を差し出した。大阪府も実地検分の上同意し、住吉郡住吉村藪山への変更を内務省に上申した。翌1883年(明治16年)、内務省は阿部野神社の宮司と東京で面談した上で、人民の願い通りにするのがよかろうと賛成し、3月7日に太政官が変更を決定した。

 

 社殿は1887年(明治20年)3月に完成し、鎮座祭は1893年(明治23年)3月に斎行された。

 しかし、1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲で社殿は全焼した。現在の社殿は1968年(昭和43年)に再建されたものである。

 

●年表

・1875年(明治8年) - 北畠顕家を祀る祠が建てられる。

・1878年(明治11年)

  2月27日 - 東城兎幾雄ら有志が顕家を祭る神社の創建を願い出る。

  3月18日 - 大阪府が詳しい計画の提出を求める。

  6月21日 - 有志が詳しい計画と資金の手当てを提出する。

  8月2日 - 大阪府が内務省に請願を紹介し、聞き届けるよう伺を立てる。

  9月16日 - 内務省が創建を太政官に求める。

  9月21日 - 太政官が創建を承認する。

  9月29日 - 有志に許可が渡される。

  11月20日 - 大阪府が他の功臣と同等の待遇を内務省に求める。

 

・1880年(明治13年)10月1日 - 創建着手の許可が出る。

・1881年(明治14年)11月16日 - 内務省が太政官に別格官幣社の阿部野神社の創建を求める。

 

・1882年(明治15年)

  1月24日 - 太政官が別格官幣社阿部野神社を阿賀野村に創建することを内務省と大阪府に命じる。

  3月22日 - 東城兎幾雄らが天王寺村での社殿建築を大阪府に願い出る。

  6月2日 - 伊藤祐暉らが更なる社地の変更を大阪府に願い出る。

  9月22日 - 別格官幣社の中で阿部野神社の順位が名和神社の次と定められる[8]。

  10月31日 大阪府が内務省に住吉村字藪山への社地変更を求める。

 

・1883年(明治16年)

  2月1日 - 内務省が太政官に、社地を人民の願い通りにするよう稟候する。

  2月26日 - 太政官第二局が内務省の伺に賛成の議按を作成する。

  3月7日 - 太政官が阿部野神社の社地を住吉村字藪山に変更することを決定する。

 

・1887年(明治20年)3月 - 社殿が竣工する。

・1893年(明治23年)3月 - 鎮座祭が行われる。

・1945年(昭和20年)3月13日・14日 - 第1回大阪大空襲で全焼する。

・1968年(昭和43年) - 社殿が再建される。

 

12)藤島神社

 藤島神社は、福井県福井市の足羽山にある神社である。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社である。

 

 南北朝時代の武将・新田義貞を主祭神とし、義貞の子の新田義顕・新田義興・新田義宗、弟の脇屋義助、および一族の将兵を配祀する。

 

藤島神社

(引用:Wikipedia)

●歴史

 新田義貞は延元3年(1338年)、灯明寺畷(現・福井市新田塚町)の合戦で戦死したが、それより約300年後の明暦年間(1655年~58年)、同地から農民によって兜鉢が発掘され、これが福井藩の軍学者・井原番右衛門の鑑定の結果、新田義貞の兜であるとされた。万治元年(1660年)、福井藩主・松平光通は兜が発見された場所に「新田義貞戦死此所」の碑を建て、その場所は「新田塚」と呼ばれるようになった。

 

 明治3年(1870年)、福井知藩事・松平茂昭は新田塚に祠を建てるが、これが明治9年(1876年)、「藤島神社」と名付けられて別格官幣社に列することとなる。明治14年(1881年)には福井市牧の町に遷座し、明治34年(1901年)5月に現在地に再度遷座した。そのため、現在の境内は兜の発見地とされた場所から南へ3kmほど離れている。

 

13)結城神社

 結城神社は、三重県津市にある神社である。白河結城氏の結城宗広を祀る建武中興十五社の一社にあたる。

拝殿(引用:Wikipedia)

●祭神

・結城宗広

 

●歴史

 結城宗広は後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、建武の新政以後の南北朝時代にも南朝方で戦った。北畠顕家親子に従って二度陸奥から京に向けて攻め上ったが、帰国の途中で難破し、伊勢国で没した。その墓と伝えられる場所には、塚の上に六体地蔵が置かれ、結城塚と呼ばれていた。

 

 1824年津藩の藩主藤堂高兌により社殿が造営され結城神社と呼ばれるようになった。

 1879年(明治12年)に村社になった。翌年三重県を訪れた明治天皇が、200円を祭祀料として寄付した。これを機に結城神社の社殿改築、昇格の議論がおこり、県が内務省に願い出て、1882年(明治15年)に別格官幣社に列せられた。

 1945年(昭和20年)7月に津大空襲によって灰燼に帰す。昭和30年代に復興した。

 

14)霊山神社

 霊山神社(りょうぜんじんじゃ)は、福島県伊達市霊山町大石にある神社である。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。建武中興十五社の一社。 

 

霊山神社拝殿

霊山神社(引用:Wikipedia) 

●祭神

 建武の新政以降、陸奥の鎮定にあたり、南朝に従った北畠親房、北畠顕家、北畠顕信、北畠守親の親子を祭神とする。鎮座地の霊山は親房以降の北畠氏の本拠地で、顕家が陸奥国府を置いた地である

 

●歴史

 1817年(文化14年)、松平定信がこの地に霊山碑を建てた。1868年(明治元年)、米沢藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を起こした。

 

 1876年(明治9年)の明治天皇の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったことにより建武の新政にゆかりのある霊山が選定。明治12年11月に創立が請願され、1880年(明治13年)6月、霊山の西方山麓の北畠氏の支城があった地に社殿が造営された。

 

 1881年(明治14年)5月11日に鎮座祭が行われ、1885年(明治18年)に別格官幣社に列せられた。明治期、元会津藩筆頭家老であった西郷頼母が神社の神職を勤め、親族の西郷四郎を養子として育て境内で柔術を教えていたが、四郎は後に上京し講道館の嘉納治五郎に師事し柔道修業に励んだ。小説や映画で有名な姿三四郎は彼がモデルといわれる。 

 

15)四條畷神社

 四條畷神社は、大阪府四條畷市にある神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。

 

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拝殿(引用:Wikipedia)

 

 南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や当社を指す場合が多い。

 

 1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生している。境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。

 

●祭神

・楠木正行(主祭神)

 

 他、楠木一族の将士24柱を配祀している。

・楠木正時、楠木正家、楠木正家子息

・和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、和田紀六左衛門子息

・大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息

・金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息

・河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部

 

●歴史

 河内国讃良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。

 明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公と呼ばれ崇められるようになった。

 

 それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。

同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、1889年(明治22年)12月16日に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、翌1890年(明治23年)に住吉平田神社の南隣の地に創建した。

 

 当社創建以降、1895年(明治28年)に浪速鉄道が大阪市中心部から当社近くの四条畷駅まで開業するなどして四條畷神社周辺は大いに栄える事となり、所在地の讃良郡甲可村(南野村ほか6ヶ村合併による)には「四條畷」と付く施設が次第に増え、「四條畷」は甲可村の別称のようになって行った。

 

 1932年(昭和7年)に甲可村はついに四條畷村に改称するに至り、これが現市名にまで継承されている。同年には浪速鉄道から転じて国鉄路線となっていた片町線の四条畷駅以西において関西国鉄初の電車運転が開始されるなどして、四條畷神社創建をきっかけに周辺一帯は北河内地方随一の大市街地に発展してその賑わいは現在も続いている。

 

16)北畠神社

 北畠神社は、三重県津市美杉町上多気にある神社。国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする。建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持つ。

 

拝殿

拝殿(引用:Wikipedia) 

●祭神

・主神:北畠顕能公

・配祀:北畠親房公、北畠顕家公

 

●歴史

 由来書によれば、北畠具房の4代孫鈴木孫兵衛家次が寛永20年(1643年)3月、旧縁の地に小祠を設けて北畠八幡宮と称したのが創祀という。

 ただし、当初は八幡神の勧請のみで、顕能を奉祀したのは元禄年間に下るとの説もある。やがて八幡三神に倣い、北畠親房・顕家を合祀する。1881年(明治14年)11月村社北畠神社に改称。1907年(同40年)12月多芸村内の16社を合祀し、1916年(大正5年)宝庫・社務所などを整備。1928年(昭和3年)10月社殿を新造して主神を遷座し、11月10日別格官幣社に昇格した。

 

 別当寺の真善院が現在の庭園の位置にあったが、天保11年(1840年)春に火災に遭い、再興しないまま1898年(明治31年)廃絶した。 


2 現代の神道について


(1)GHQ占領政策


(引用:Wikipedia)

 連合国軍占領下の日本は、第二次世界大戦における日本の敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の占領下に置かれた日本である。

 

 占領の形態について戦時占領説、保障占領説、特殊占領説がある。連合国は日本の占領を戦時占領とも保障占領ともとれる扱いを行っており、純粋な戦時占領や保障占領ではない特殊占領であるという見方が多い。

 

1)概要

 日本政府は、1945年(昭和20年)8月6日、9日の2回の原爆投下、8月9日のソ連対日参戦をうけ、8月10日に短波放送によりポツダム宣言の受諾を報知し、また8月14日には詔勅によりポツダム宣言を受諾した旨を連合国に通告した。翌8月15日正午、昭和天皇はラジオで終戦の詔書を日本国民に発表した(玉音放送)

 

 1945年(昭和20年)9月2日に、日本政府代表は東京湾の横須賀沖に浮かぶ戦艦ミズーリの船上で、イギリス、オーストラリア、アメリカ、オランダ、中華民国、ソ連など連合国との間で降伏文書に正式に調印した。日本の降伏により、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の占領下に入った。総司令官はアメリカ陸軍の元帥ダグラス・マッカーサーであったが、その政治顧問として、国務省からはジョージ・アチソンが、またイギリスやオーストラリア、中華民国からも派遣された。

 

 降伏文書の調印に先立ち、連合国軍は8月28日に日本本土(北海道・本州・四国・九州)に到着したアメリカ軍とイギリス連邦軍(イギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍やイギリス領インド帝国軍)により日本への進駐を開始した。

 

 当時「連合国は日本本土に対して軍政を実施する」との情報があり、実際「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言をトルーマン大統領の言うとおりに反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。

 

 これに対して重光葵外務大臣(東久邇宮内閣)は9月3日にダグラス・マッカーサーに面会し、「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求。直接物申しこれを撤回させた。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。

 

 一方南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩んだ。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はイギリス軍や中華民国軍、ソビエト連邦軍やフランス軍などそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は連合国軍に剥奪された(日本本土除く)。占領軍は日本の外交権を停止し、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通を管理した。漁業活動のための航海は、「マッカーサーライン」を暫定的に引き、「サンフランシスコ講和条約」を結ぶことによる廃止がなされるまでの間その制限下に置いた。

 

 1951年(昭和26年)9月8日、日本政府は「サンフランシスコ講和条約」(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書上での正式な戦争終結日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、占領状態および戦争状態の最終的な解決となる講和条約の発効日は1952年(昭和27年)4月28日である。

 

 駐留した兵士達は、休日になると街へ繰り出したが、その際に日本では珍しいカラーフィルムで、町並みや人を写真機や映画用カメラで撮影しており、映像資料の少ない地方の様子を知る資料となっている。

 

2)統治

 第二次世界大戦末期に連合国軍は戦後の日本占領方式について、日本政府を通じた間接統治案や、マッカーサーグループによる直接統治案、1国あたりが担当するコストを減らすためにドイツと同様に主要連合国による日本本土の分割直接統治などが検討されていたが、間接統治の方針に決定した。占領下において日本は主権の一部を制限された状態ではあったものの政府が存続し続けた。終戦前に連合国軍により占領されていた沖縄県小笠原諸島アメリカ施政権下に置かれた。

 

 日本では連合国軍最高司令官総司令部をGHQ (General Headquarters)、稀にSCAP (Supreme Commander for the Allied Powers) と呼称する。最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に業務を行う。連合国はイギリスのクレメント・アトリー首相や中華民国の蔣介石総統、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン共産党書記長やアメリカのハリー・S・トルーマン大統領の承認のもとで、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官に任命した。

 

 日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容は、約75パーセントの人員を占めるアメリカ軍で、その次に約25パーセントの人員を占めるイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、インド軍をはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。オランダ軍や中華民国軍、カナダ軍やフランス軍、そして終戦土壇場になり日本へ侵略したソ連軍は、国力の問題や英米の反対により部隊を置かず、東京など日本国内数か所に駐在武官のみを送るに止めた。

 

 主権と行政権を留保した。日本の降伏に伴い、日本政府が受諾したポツダム宣言の文面では、当時のイギリスのウィンストン・チャーチル首相の提案によって、「日本領土」ではなく「日本領土内の諸地点」への「保障占領」となっていた。

 

3)政策(項目のみ)

3.1)法制

●象徴天皇制

●平和主義(戦争放棄)

 

3.2)政治

●民主的傾向の復活 

●結党の自由と政治犯の釈放 

●財閥解体 

●産業解体

●労働運動  

●農地改革 

●武装解除

 

3.3)言語

●英語公用語化計画 

●日本語ローマ字化計画

 

3.4)国号

 

3.5)国旗

 

3.6)領土

●外地など領土の剥奪 

●朝鮮半島 

●北方領土 

●戦時占領下の国々

 

3.7)戦争裁判

●極東国際軍事裁判(東京裁判) 

●BC級戦犯

 

3.8)治安

 

3.9)貿易

 

3.10)教育

●教育・学制改革

 

3.11)文化思想

●言論統制 

●伝統文化の排斥 

●世論対策 

●郵便物 

●電報および電話通話の検閲 

●戦争花嫁 

●書籍の没収(焚書)

●宗教の自由

・第二次世界大戦まで禁止されていた新宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。

・神道指令により厳格な政教分離が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年(昭和24年)に文化財保護法が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。)

●サマータイム

●国民の祝日

 

3.12)放送

 

3.13)住宅事情

●公共住宅の建設 

●住宅金融公庫法と公団住宅法等の成立 

 

3.14)交通

●道路交通 

●幻の戦災復興計画 

●自動車生産 

●鉄道 

●航空 

●船舶

 

3.15)占領軍への労務と物資の調達

●物資とサービスの調達例 

●連合国軍のゴミ処理

●占領初期の労務調達の実態 

●特別調達庁の設置

 

3.16)日本への食糧・物資援助と貸与

●初期対日方針 

●食料輸入禁止 

●食糧メーデー

●米国からの食糧輸出解禁 

●ララによる支援 

●ケアによる支援 

●ユニセフによる支援

3.17)占領軍等の犯罪

●特殊慰安施設 

●レイプ記録に日英米間の差異 

●緘口令 

●私生児

●サンフランシスコ講和条約締結以降

 

4)キーパーソン

 歴史学者ハワード・B. ショーンバーガーは戦後日本の占領政策のキーパーソンとして、次の8人を挙げている。

 

●ダグラス・マッカーサー(Douglas McArthur、1880年 - 1964年)

 アメリカの軍人、陸軍元帥。連合国軍最高司令官、国連軍司令官を務めた。コーンパイプと服装規則違反のフィリピン軍帽がトレードマークであった。

 

●ジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)

 アメリカ合衆国の外交官。日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使。日米開戦回避に努めた。開戦(1941年12月)後日本国内に抑留され、日本の外交官との交換により帰国(1942年6月)。帰国後は国務次官となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。

 

 終戦と同時に国務次官を辞任し、私人として講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽した。吉田茂は、グルーは「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と高く評価した他方、グルーの日本理解には限界があった、あるいは彼は政治的にきわめて保守的であったことを指摘する見方もある。

 

●トーマス・アーサー・ビッソン(Thomas Arthur Bisson, 1900年- 1979年)

  アメリカ合衆国の東アジアの政治と経済を専門とするアメリカの政治家、ジャーナリスト、政府関係者。 太平洋問題調査会(IPR)系の日本研究家としてGHQの民政局に属し憲法改正等、占領政策に関わった。 

 

 皇室典範と現行の日本国憲法の関係性などに介入、この介入が後の皇室の在り方や今日の皇位継承問題の発端となる(ビッソンらによる昭和二十一年七月十一日付「覚書」による)。 また民主化の名の下に財閥解体などを推し進め、日本弱体化を推進した。

 

 1995年に公開された『ヴェノナ文書』により、「アーサー」というカバーネームを持つソ連のスパイであったことが判明しており、太平洋問題調査会IPRでの活動や民政局時代の活動がスパイ活動の一環だったのではないかという疑義を持たれている。 同じくGHQに所属していたエドガートン・ハーバート・ノーマン(後にソ連のスパイと判明)とは友人関係にあった。

 

●ジェームス・S・キレン

  米国の外交官。元・米国国際開発局南ベトナム経済援助計画部部長兼特別使節団団長。

ワシントン州生まれ。1937〜52年アメリカ・カナダ・パルプ硫安製紙労組副委員長、’47年GHQ労働顧問として来日した。’47〜48年同経済科学局労働課課長となったが、’48年の公務員法改正の際辞任し帰国した。’52〜56年MSA本部ユーゴスラビア、パキスタン各使節団団長、アメリカ国際開発局対韓援助部部長兼特別使節団団長を歴任し、’64〜65年同南ベトナム経済援助計画部部長兼特別使節団団長となり’75年に退官した。

(出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について)

 

●ハリー・カーン (Harry F. Kern)、

 『ニューズウィーク』の編集をしていたハリー・F・カーン(Harry F. Kern)で、その雑誌のオーナーが日本をアジアの工場にすることを望んでおり、結成前すでに、財閥解体を定めた過度経済力集中排除法を激しく批判していた。二人が助言を仰いでいた、元大統領で共和党長老のハーバート・フーヴァーに勧められて共同戦線を張ることになり、正式にACJを旗揚げし、政府高官や共和党有力者とのコネと『ニューズウィーク』を使って、財閥解体をやめ旧体制の要人たちを復権させるよう圧力をかける運動を本格化させた。

 

 1948年に占領政策の逆コースが確定した後、天皇制、財閥、強力な保守政党、メディア・コントロールが日本を共産化させないために必要と考えていたドゥーマンは、中央情報局(戦略情報局が戦後に改組された)に援助を要請し、保守政党に政治資金を提供して保守大合同を実現し安定的親米保守政権の基盤を作ることや、この政権が続いていくよう日本テレビを含むメディアをコントロールすることなど、反共産主義スキームの構築を行った。

 

 ACJの政治的主張は、名誉会長で戦前に長く駐日大使を務めた知日派ジョセフ・グルーの反共門閥主義である。

 

●ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア(William Henry Draper Jr.、1894年 - 1974年)

 アメリカ合衆国の陸軍士官、銀行家、外交官である。ドレイパーはニューヨーク市ハーレムで生まれ、ニューヨーク大学で経済学の学士号と修士号を取得した。

 

 大学卒業直後に米国陸軍に入隊し、第一次世界大戦中は歩兵連隊の少佐として戦った。戦後、彼は陸軍予備役に留まり、第77歩兵師団(1919-42年まで予備役)参謀長(1936年-1940年)にまで昇進した。ジョージ・マーシャルの招きにより、彼はワシントンD.C.へ異動して選抜徴兵問題担当大統領諮問委員会で勤務し、のち大佐に昇進した(1940年5月15日)

 

 第二次世界大戦開戦当初、彼は第136歩兵師団、第33歩兵師団、国家警備隊(州兵)(1942年-1944年)を指揮した。戦後、彼は准将に昇進し(1945年1月1日)、経済部長(ドイツのための連合国管理理事会)としてベルリンに配属された(1945年-1947年)。たとえ元ナチ支持者を産業界における高い地位に留め置くことを意味しようとも、彼はドイツの経済力や軍事力の復活防止を意図するモーゲンソー・プランに反対し、ドイツの景気回復を促進する措置を強く支持した。

 

 少将へ昇進した後ドレイパーは、新陸軍長官ケネス・クレイボーン・ロイヤルの要請により陸軍次官となった(1947年8月29日)。旧陸軍省 (Department of War) が陸軍省 (Department of the Army) へ移行したことに伴い、ドレイパーは初代陸軍次官となった(1947年9月18日 - 1949年2月28日)。1948年3月20日には賠償調査団団長として来日。

 

 1949年の退役後、1950年から1951年までロングアイランド鉄道管財人を務めた。また、初代米国代表NATO大使としてパリに駐在した(1953年4月 - 1953年6月)。

 

●ジョゼフ・ドッジ(Joseph Morrell Dodge、1890年 - 1964年)

 アメリカ合衆国の政治家。銀行家で、後にデトロイト銀行頭取にまでなった。1945年からアメリカで第二次世界大戦後の連合軍占領下ドイツのインフレ問題に取り組む。その後、1949年2月から日本でドッジ・ラインとして知られる経済政策を立案・勧告した。1953年にはドワイト・D・アイゼンハワー政権で第10代行政管理予算局長官に就任し、1954年までこの職務を務めた。

 

●ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles、1888年 - 1959年)

 アメリカ合衆国の政治家。ドワイト・D・アイゼンハワー政権で第52代アメリカ合衆国国務長官を務めた。ジャパン・ロビーである。 

 

 1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約が締結され、それと同じ日に調印された日米安全保障条約の「生みの親」とされる。反共主義の積極的なスタンスを主張した冷戦時代の政治家であった。インドシナでベトミンと戦うフランスの支援を主張し、1954年のジュネーブ会議では握手を求める中国の周恩来国務院総理を拒絶した。サンフランシスコ講和条約発効以降国際社会に復帰したばかりの日本(特に保守陣営)にとっては、強い反共主義者である「ダレスの親父さん」の意向は無視できないものがあった。

 

Howard B. Schonberger,Aftermath of War:

Americans and the Remaking of Japan, 1945-1952.

翻訳:ハワード・B. ショーンバーガー『占領1945〜1952―戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』宮崎章訳、時事通信社、1994

 

目次(「BOOK」データベースより)

第1章 ジョセフ・C.グルー―天皇と占領計画
第2章 ダグラス・マッカーサー―平和をもたらす者と大統領職
第3章 T.A.ビッソン―占領下日本における改革の限界
第4章 ジェームズ・S.キレン―占領下日本におけるアメリカ労働界の冷戦
第5章 ハリー・F.カーン―アメリカ外交におけるジャパン・ロビー
第6章 ウィリアム・H.ドレーパー,Jr.―第80連邦議会と日本の「逆コース」の起源
第7章 ジョセフ・M.・ドッジ―世界経済への日本の統合
第8章 ジョン・フォスター・ダレス―対日講和条約交渉におけるアメリカ軍基地・再軍備・中国問題

 

5)マッカーサーへの手紙

 占領期を通じて、内閣総理大臣を始めとする日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は復員に関する要望・嘆願、天皇制や民主主義に関する意見、在日韓国・朝鮮人送還を望むもの、などであった。

 

●吉田茂首相からの手紙「在日朝鮮人の全員送還を望む」

 吉田茂首相は在日朝鮮人の送還費用は日本政府が負担するとした上で、将来世代の負債となること、日本経済の再建に貢献しないこと、犯罪割合が高く経済法規を破る常習犯であり投獄者が常に7,000人を超えることなどから朝鮮人全員の送還を求めた。

 

6)離日後のマッカーサーの米議会証言

●1951年(昭和26年)4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議におけるマッカーサー離任演説より

 

(前略)戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作られました。

 

 今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながらも、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度は、日本がアジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼすことが期待できることを立証しています。

 

 私は占領軍の4個師団をすべて朝鮮半島の戦場に送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響について、何のためらいもありませんでした。結果はまさに、私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りません。また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。

 

(中略)私は今、52年にわたる軍務を終えようとしています。今世紀に入る前に私が陸軍に入隊したとき、それは私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。私がウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士になる宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢はずっと前に消え失せてしまいました。しかし、当時兵営で最も人気が高かったバラードの一節を今でも覚えています。それは誇り高く、こう歌い上げています。『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。そしてこのバラードの老兵のように、私もいま、私の軍歴を閉じ、消え去ります。神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老兵として。さようなら。

 

●1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の質疑応答より

(引用:「東京裁判 日本の弁明ー「却下未提出弁護側資料」小堀桂一朗著 講談社学術文庫)

Strategy against Japan in world war

・Senator HICKENLOOPER.

 Question No.5 : Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?

・General MACARTHUR.

 "  Yes sir. 

 In the Pacific we bypassed them.  We closed in. You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands.  It was about half a farm population.  The other half was engaged in industry.

 Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling.

 This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories, they had the labor, but they didn't have the basic materials. There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm.

They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all which was in the Asiatic basin.  They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.(後略)"

 

第二次世界大戦における対日戦略(和訳)

 ヒッケンルーパー上院議員 では五番目の質問です。中共(原文は赤化支那)に対し海と空とから閉鎖してしまへといふ貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。

 

 答 その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は封じ込めたのです。日本は八千万に近い膨大な人口を抱へ、それが四つの島の中にひしめいてゐるのだといふことを理解していただかなくてはなりません。その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事してゐました。

 

 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福なのだといふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。

 

 これほど巨大な労働能力を持つてゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。

 

 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。

 

 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。 

 

 ちなみに、同じ5月3日に、マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも証言しています。

 

7)年表(抜粋)

7.1 1945年(昭和20年)

・8月14日 日本政府がポツダム宣言を受諾する旨、中立国スイスを通じて通告し、勅語を発布する。

 

・8月15日 正午に、国民に向けての玉音放送。支那派遣軍と南方軍がこれに抗議。連合国軍は攻撃停止。

 

・8月16日 日本政府、陸海軍に停戦を命じる。ソビエト連邦軍がヤルタ協定に基づいて南樺太と満州へ侵攻を開始し、日本軍抗戦(停戦令出る)。

 

・8月18日 ソ連軍が千島列島へ侵略を開始。占守島で日本軍交戦(21日停戦令出る)。

・8月28日 - 9月1日 択捉・国後・色丹島をソ連軍が占領。

 

・8月30日 マッカーサー・アメリカ陸軍元帥が神奈川県厚木飛行場に到着。

・9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。

 

・9月3日 重光・マッカーサー会談により間接統治の方向性を確認。

・9月3日 - 9月5日 ソ連の赤軍が歯舞群島を不当占領。

 

・9月5日 ソ連軍が歯舞群島までを不当占領(後に北方領土問題となる)。関東軍首脳部がハバロフスクへ送られ、将兵57万人がシベリア抑留となる。

 

・9月6日 帝国議会がマッカーサーに対し「天皇と日本政府の統治の権限は貴官の下に置かれる」と通達。

 

・9月10日 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」 (SCAPIN-16) 発令。連合国軍が検閲を始める。

・9月11日 マッカーサー、東條英機らA級戦犯容疑者39人の逮捕を命令(東條、自決に失敗)。

 

・9月14日 GHQ、同盟通信社に業務停止命令。

・9月15日 民間検閲支隊長、同盟通信社の海外放送禁止、100%の検閲実施を表明。

 

・9月16日 連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。

・9月17日 マッカーサー、東京の本部に入り、日本進駐が順調なことから「進駐兵力は20万人に削減できる」と声明(米国の許可無く発言し、トルーマン大統領が疑念を抱く)。

 

・9月18日 GHQ、朝日新聞に対する2日間の発行停止を命令 (SCAPIN-34)

・9月19日 プレスコードが出される。

 

・9月20日 緊急勅令『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件』公布、即日施行。

 

・9月22日 放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。米国政府、「降伏後ニ於ケル米國ノ初期ノ對日方針」発表。

 

・9月27日 昭和天皇、マッカーサーを訪問。日本の漁獲水域を指定、いわゆるマッカーサー・ライン。

 

・10月4日 自由の指令発令。“絶対主義天皇制批判者への治安維持法適用と処罰”を明言した内務大臣山崎巌の罷免を要求。同日、マッカーサーは東久邇内閣の国務大臣である近衛文麿に憲法改正を示唆。

 

・10月8日 連合国軍、「自由の指令」(思想・言論規制法規の廃止、内務大臣らを罷免、特高の廃止、政治犯の釈放等)思想・言論規制法規の廃止。

 

・10月9日 連合国軍が毎日新聞、讀賣報知、朝日新聞、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始。

 

・10月11日 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。

 

・10月15日 治安維持法廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。

・10月24日 国際連合憲章によって国際連合が発足する。

 

・10月31日 GHQ、軍国主義を唱える教員の追放および同盟通信社の解体を指令。

・11月2日 日本社会党結党。GHQ、財閥資産の凍結および解体を指令。

 

・11月6日 日本自由党結党(旧政友会系)。持株会社解体令(いわゆる「財閥解体指令」)。

・12月8日 太平洋戰爭史を全国の新聞へ連載させる。

 

・12月9日 農地改革を指示。GHQによる「眞相はかうだ」の放送が始まる。

12月15日 神道指令を指示(国教分離など)

 

・12月31日 「修身、日本歷史及ビ地理停止ニ關スル件」(覚書)(SCAPIN-519) を発令。修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される。

 

7.2) 1946年(昭和21年)

1月1日 天皇神格否定の勅諭。(「人間宣言」)

・1月4日 軍人・戦犯および軍国主義者とみなした政治家・大学教授・企業経営者などの公職追放を指示。

 

・1月29日 GHQよりSCAPIN-677が指令される。日本政府の行政区域が北海道、本州、四国、九州およびその付属島嶼と対馬、大隅諸島までに限られ、北緯30度以南の南西諸島と伊豆諸島、小笠原諸島に対する日本の施政権が停止される[80]。

 

・2月1日 毎日新聞が政府の新憲法草案をスクープ。英連邦軍、日本への進駐を開始。

・2月2日 ソ連が全樺太と全千島列島の領有を宣言。

 

・2月3日 マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。

 

・2月13日 ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる。

・2月20日 ソ連、樺太・千島の領有を宣言する。

 

・3月5日 第一次アメリカ教育使節団来日

・3月6日 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。

 

・4月10日 新選挙法に基づく衆議院議員総選挙。

・4月17日 幣原内閣、新憲法草案を発表。

 

・4月29日 天皇誕生日にA級戦犯29名を起訴。

・5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。

 

・5月4日 鳩山自由党総裁が追放される。

・6月20日 衆議院に新憲法草案を提出。

・11月3日 日本国憲法公布。

 

7.3 1947年(昭和22年)

・1月4日 GHQ、第二次公職の追放を指令。

・1月11日 全官公庁労組共闘委員会(組合員260万)4万人が皇居前でデモ。委員長伊井弥四郎がゼネスト決行宣言。

 

・1月18日 伊井、ゼネスト決行を2月1日と発表。

・1月31日 マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表。

 

・3月17日 マッカーサー声明「日本進駐は速く終わらせ、対日講和を結んで総司令部を解消するべき。講和は1年以内が良い」対して国務次官ディーン・アチソン「日本より欧州が先」。

 

・3月31日 吉田内閣、衆議院を解散。教育基本法、学校教育法公布。

・4月 独占禁止法公布。

 

・5月3日 日本国憲法施行。

 

・5月24日 社会党書記長片山哲がマッカーサーを訪問し、片山がキリスト教徒であることを喜ぶ声明。また片山に「日本は東洋のスイスとなるべきだ」と言い、「東洋のスイスたれ」が流行する。

 

・7月 極東委員会、対日政策指導原則を発表。

・7月11日 マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。

 

・7月13日 マッカーサー声明「日本処理の基本的な方針である軍の撤廃と非武装化は完全に達成されており、向こう100年間、日本は近代戦を行うための再軍備はできないだろう」米本国の欧州重視に反発した模様。

 

・7月22日 ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。

・8月 ラジオにおける事前検閲が廃止され、事後検閲になる。

 

・11月 雑誌における事前検閲が廃止され、事後検閲となる。

 

7.4)1948年(昭和23年)

この年にアメリカ対日協議会が発足して、逆コースが始まる。

・1月6日 米陸軍長官ロイヤル、演説中「日本を反共の壁にする」と発言(反共・封じ込め政策開始)

 

・2月25日 米陸軍長官ロイヤル、陸軍省作戦計画局に日本の再軍備計画について検討するよう指示。

 

・5月 海上保安庁を設置。

・7月15日 GHQ、新聞の事前検閲を廃止。事後検閲となる。10月24日事後も廃止。放送は1947年8月1日一部を除き事後検閲に移り、1949年10月18日事後も廃止。

 

・8月15日 朝鮮半島北緯38度線以南に大韓民国成立。

・9月9日 朝鮮半島北緯38度以北に朝鮮民主主義人民共和国成立。

 

・11月12日 東京裁判が25人に有罪判決。

 (うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根が死刑。)

 

・12月8日 民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国

 (昭電事件の余波から逃れるためと噂される)

 

・12月18日 GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)

 

・12月23日 吉田内閣、衆議院解散(馴れ合い解散)。同日、東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。

 

・12月24日 岸信介などのA級戦犯容疑者を釈放。

 

7.5)1949年(昭和24年)

・1月1日 GHQ、日章旗の自由掲揚を認める。

・3月1日 GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)。

 

・10月 新聞、ラジオにおける事後検閲が廃止される。

 

・11月1日 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。

 

7.6)1950年(昭和25年)

・2月14日 ソ連が中華人民共和国と中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、条文で日本を仮想敵国と名指しする。

 

・この頃、日本との講和を推進する米国務省と、米軍の日本駐留を継続するために日本再独立に反対する米国防総省が対立。

 

・6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。

 

・6月25日 朝鮮戦争勃発(1953年まで)。在日占領軍が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。

 

・7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。

 

・7月24日 GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。共産党書記長徳田球一、中国へ亡命。

 

・8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。

・8月23日 警察予備隊第一陣7000名が入隊。

 

・8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。

・9月14日 トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。

 

・10月 海上保安庁が朝鮮半島に特別掃海隊を派遣(国民には秘匿)。

・11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。

  

7.7)1951年(昭和26年)

・1月 マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。

・4月11日 マッカーサー、朝鮮戦争で旧満州空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。

 

・4月16日 マッカーサー、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)

 

・9月8日 サンフランシスコで日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)を調印。続いて日米安全保障条約に調印。

 

7.8)1952年(昭和27年)

・1月18日 韓国が一方的に海洋主権宣言を発表(李承晩ライン)

・2月10日 トカラ列島が日本に復帰する。

 

・2月28日 日米行政協定締結。

・4月25日 漁獲水域指定(マッカーサー・ライン)を廃止。

 

・4月26日 海上保安庁に海上警備隊が置かれる。

 

・4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効、日本主権回復。GHQ/SCAPの進駐が終わる。占領軍のうちアメリカ軍は、講和成立と共に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に基づいて駐留継続(在日米軍へ衣替え)

 

 48ヶ国と講和し国交を回復する。なお、ブラジルやメキシコなど、連合国として対日宣戦したものの、日本と一度も戦っていない国も名を連ねている。

 

 日本は北緯29度以南の南西諸島と小笠原諸島を残存主権を保持しつつも、アメリカから国連への提案があった場合にはアメリカの信託統治に置くことを認め、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾、南洋群島を放棄した。

 

 1953年(昭和28年)に奄美群島、1968年(昭和43年)に小笠原諸島、1972年(昭和47年)に琉球諸島(沖縄返還)が日本に返還された。また、ソ連に不当占領された北方領土は放棄していないと主張している。


(2)神道指令


(引用:Wikipedia)

1)神道指令

 神道指令は、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。

 

 覚書は信教の自由の確立軍国主義の排除国家神道を廃止神祇院を解体政教分離を果たすために出されたものである。当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除る内容となっていたが、日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたため、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。

 

 「大東亜戦争(※1)「八紘一宇」(※2)の語の使用禁止や、国家神道軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止された。

 

 個人の信仰としての神道は干渉せず「上からの強制」である神道は廃止せよ、との国務長官ジェームズ・F・バーンズの命に基き、GHQのウィリアム・バンスが草案作成を担った。バンスは日本国内の神道学者・仏教学者の教示を受けつつ、D. C. ホルトム(英語版)の著作を深く参考にした。

 

(※1)大東亜戦争は、大日本帝国と、中華民国、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、オーストラリアなどの連合国との間に発生した戦争に対する呼称。東條内閣が、支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。

 

 「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まったとする「大東亜戦争」が、アジアの植民地の宗主国を中心に構成された連合国側にとっては都合が悪かったため、戦後はGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語が代わって用いられた。

 

 GHQの指定は現在では失効しているが、1960年代頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。一方で、「連合国軍の都合で一方的に使用が止められた『大東亜戦争』の用語を用いるべきである」とする考えも存在し、歴史認識問題などでこの戦争の呼称については議論が多数なされている。

 

(※2)八紘一宇(はっこういちう)、または八紘為宇とは「天下を一つの家のようにすること」、「全世界を一つの家にすること」を意味する語句であり、「天皇総帝論」、「唯一の思想的原動力」等ともいう。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの。

 

 神道指令立案に関わったウィリアム・ウッダードは国家による強制性のあった神道(国家神道)を廃止することで日本国民の信教の自由を守ることができると考え、これは「民主化の重要な第一歩」であったとした。

 

2)論争

 葦津珍彦は神道指令に関する1960年(昭和35年)論文で、「重大な障害がない限り」("as long as there is no serious obstacle")占領軍は「被占領地の信仰と慣習に干渉すべきでない」("should not intervene in the religious faith or customs of an occupied area")ということがハーグ条約で定められていたとして、日本占領軍による神道の弾圧国際法からの逸脱だと批判した。

 

 神社本庁研修所によれば、神道指令が掲げる「国家」と「宗教」の分離は非現実的で、国際的基準からも非常識であるなど、多くの問題を抱えていたために、幾度となく修正がおこなわれた。

 

 特に、宗教である神社神道に対して「神道指令」のような干渉を行うことは、「宗教の信仰及びその遵行を尊重しなければならない」と定めるハーグ条約違反であることは明白であったという。

 

 しかし、神社神道を宗教ではないと認めると、国家と神社神道の結びつきの復活が可能となり、GHQが意図する占領政策と大きく矛盾するという問題を抱えていたと神社本庁研修所は指摘する。

 

 神社本庁によれば、「神道指令」の起草に関わったGHQ宗教課長のバンスもこの矛盾を熟知しており、渋川謙一によるインタビューで、神社神道への干渉について、「日本政府は神社神道は宗教ではないといっていた。したがって、神社神道に対する干渉はハーグ条約違反ではない」と非宗教性を述べる一方、「ハーグ条約といえどもすべての宗教的慣行を保護しているわけではない」などと神社神道の宗教性を示唆する矛盾した回答をしていたという。


(3)人間宣言


(引用:Wikipedia)

 いわゆる人間宣言は、連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書。人間宣言とは俗称で、正式名称は「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」である。

 

1 )詔書の概要

「人間宣言」により、昭和天皇は、『天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念である』と述べ、自らの神性を否定した。ただし、「人間宣言」は二の次で、日本の民主主義は日本に元々あった『五箇条の御誓文』に基づいていることを示すのが、昭和天皇による詔書の主な目的だった。 また、この詔書の中に「人間」という言葉は使われていない。

 

「人間宣言」とされる記述は以下の通りである。

 

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ      『新日本建設に関する詔書』より抜粋

 

 「人間宣言」とされる記述は以下のように英訳される。

 

The ties between Us and Our people have always stood on mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths. They are not predicated on the false conception that the Emperor is divine, and that the Japanese people are superior to other races and fated to rule the world.

BBC "Divinity of the Emperor"[2]』より抜粋

 

  「人間宣言」については最終段落の数行のみで、詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない。

 

 「人間宣言」では、「天皇の祖先が日本神話の神であること」を否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。

 

2)起草の経緯

  ポツダム宣言受諾による日本の降伏から4か月余り、日本はGHQの占領下にあるとはいえ、大日本帝国憲法の施行下にあった。

 

・1945年(昭和20年)12月15日、GHQの民間情報教育局 (CIES) 宗教課は、国家ないし政府が神道を支援・監督・普及することを禁止する「神道指令」を発した。

 

 さらに、「天皇は他国の元首より秀でた存在で、日本人は他の国民より優れている」といった教説を教えることを非合法化した。しかし、天皇が皇居で執り行う神道に基づく宗教儀式(宮中祭祀)はあくまで私的な事柄とされて、禁じられなかった。

 

 占領当局は天皇自身で自分の神格を否定してほしいと期待したため、神道指令では天皇の神格について言及しなかった。自分を神と主張したことのない昭和天皇は、占領当局の意向に同意した。

 

 宮内省(後に宮内府、現在の宮内庁へ改編)は、学習院に英語教師として赴任していたレジナルド・ブライスに、占領当局が納得するような案文を練るよう依頼した。ブライスはGHQの教育課長で日本文化の中でも俳句の造詣が深かったハロルド・ヘンダーソンに相談し、二人は人間宣言の案文を作成した。

 

・12月23日、昭和天皇は、木下道雄侍従次長に対し、前日進講した板沢武雄・学習院教授の講義の内容について語った。板沢の講義は「マッカーサー司令部の神道に関する指令について」と題するもので、昭和天皇が語ったところによれば、最後の結びの言葉は「この司令部の指令は、顕語を以て幽事を取り扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏を以て煙を切るようなものと私は考えております」というものだった。

 

 また、昭和天皇は、興味を引いた点について、「後水尾帝御病にて疚(きゅう)の必要ありしも、現神には疚を差上ぐる訳には行かぬと云う所から御譲位の上、治療を受け給いしこと」、「徳川氏が家康を東照宮と神格化し、家康の定めたることは何事によらず神君の所定となし、改革を行わず、時のよろしきに従う政事を行わず、遂に破局に至りしこと」、「幽顕二界のこと。謡曲の発達、君臣の濃情を言い現わせる謡曲はかえって皇室衰微の時代に発達せること。顕界破れて幽界現われたること」の3点を挙げた。また、天皇は、23日にマッカーサー司令部の高級幕僚たちと鴨猟を行う予定であった石渡荘太郎・宮内大臣に命じて、板沢の話を高級幕僚たちにも聞かせようと考えたが、石渡がすでに鴨場へ出発していたため断念した。

 

・12月24日、昭和天皇は幣原喜重郎内閣総理大臣を召して、「ご病気の後水尾天皇が側近に医者を要請されたところ、医者の如き者が玉体にふれることは、汚らわしいとの理由でおみせしなかったそうだ。同天皇はみすみす病気が悪化して亡くなられた」という歴史的実例を挙げて、神格化の是非について暗示した。

 また、昭和天皇は、「(自身の祖父にあたる)明治天皇の五箇条の御誓文を活用したい」とも話した。これに対し幣原は「これまで陛下を神格化扱いしたことを、この際是正し改めたいと存じます」と答え、昭和天皇は静かに肯定し「昭和21年(1946年)の新春には一つそういう意味の詔書を出したいものだ」と言った。

 

・12月25日、昭和天皇は、拝謁した木下侍従次長に対し、「木下は昨日留守なりしが、大臣(石渡宮内大臣)より大詔渙発のことは、幣原がこれは国務につき是非内閣に御任せを願うとの希望を聞き、幣原を呼び、これを伝えた。Mac(マッカーサー司令部)の方では内閣の手を経ることを希望せぬ様だ。これは一つには外界に洩れるのを恐れる為ならん」と語った。

 

・12月25日以降、幣原自身が前田案をもとに英文で原案を作成し、秘書官に邦訳を命じた。推敲は前田多門文相、次田大三郎書記官長、楢橋渡法制局長官等で行った。過労の幣原に代わり、前田文相が天皇に会い、天皇から「五箇条の御誓文」付加の要請を受ける。マッカーサーにも案文を示す。

 

・12月29日、木下道雄侍従次長は原案に手を入れて別案を作り、石渡宮相・前田文相に示した。別案は天皇が神の末裔であることを否定するものでなく、「現御神」であることを否定するものであった。

 

・12月30日、木下は石渡が手を入れた木下案を次田に渡し、閣議で検討された。同日午後4時30分、岩倉書記官が閣議案を木下の元に持参した。木下は更に手を入れ、天皇に中間報告を行い、閣議に戻した。5時30分、前田文相が天皇に会い、文案の許可を得た。午後9時、正式書類が整い、完成した。

 

・12月31日(大晦日)、幣原の意を受けて前田文相は木下侍従次長を訪問し、マッカーサーに案文を示した天皇が神の末裔であることを否定する内容の復元を求めた。木下は侍従長とともにこれに同意し、昭和天皇に報告した。天皇も天皇が神の末裔であることを否定する内容への変更の許可を与えた。また、天皇は、首相がマッカーサーとの信義を重んじて詔書の修正を願い出たことについて、嘉賞の言葉を与えた。

 

・しかし、日本語で発表されたものは「天皇が神の末裔であることを明確に否定」したものではなく、あくまで「現御神(現人神)であることを否定」するものであった。これに対し、原案の英文は「the Emperor is divine」を否定するものであった。ただし、「divine」は王権神授説などで用いられる「神」の概念である。

 英文の詔書は2005年(平成17年)に発見され、2006年(平成18年)1月1日付の毎日新聞で発表された。渡辺治は同紙に以下のコメントを寄せている。

  

資料は、草案から詔書まで一連の流れが比較検討でき、大変貴重だ。詔書は文節ごとのつながりが悪く主題が分かりにくいが、草案は天皇の神格否定が主眼と分かる。草案に日本側が前後を入れ替えたり、新たに加えたりしたためだろう。

渡辺治(一橋大学大学院教授・政治史)、毎日新聞200611日付

 

3)社会的影響

 この詔書は、日本国外では「天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げた」として歓迎された。退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象も好転した。しかし、日本人にとって当たり前のことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がとりわけセンセーションを巻き起こすようなことはなかった。

 1946年(昭和21年)1月1日、この詔書は新聞各紙の第一面で報道された。朝日新聞の見出しは、「年頭、国運振興の詔書渙発(かんぱつ) 平和に徹し民生向上、思想の混乱を御軫念(ごしんねん)」だった。毎日新聞は、「新年に詔書を賜ふ 紐帯は信頼と敬愛、朕、国民と供にあり」だった。新聞の見出しでは神格について触れておらず、日本の平和や天皇は国民と共にあるといったことを報道するのみだった。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである。

 

4)詔書の起草に関わった人物の見解

4.1)昭和天皇

 昭和天皇は、公的に一度も主張しなかった神格を放棄することに反対ではなかった。しかし、天皇の神聖な地位のよりどころは日本神話の神の子孫であるということを否定するつもりもなかった。

 

 実際、昭和天皇は自分が神の子孫であることを否定した文章を削除した。さらに、五箇条の御誓文を追加して、戦後民主主義は日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであることを明確にした。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ。

 

 1977年(昭和52年)の記者会見にて、昭和天皇は「神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだった」と述べた。

 

●詔書草案と五箇条の御誓文

 昭和天皇は、この詔書を発表して31年後の1977年(昭和52年)8月23日の会見で記者の質問に対し、GHQの詔書草案があったことについて、「今、批判的な意見を述べる時期ではないと思います」と答えた。

 

 また、詔書の冒頭に五箇条の御誓文が引用されたことについて、以下のような発言をした。 

それ(五箇条の御誓文を引用する事)が実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです。はじめの案では、五箇條ノ御誓文は日本人ならだれでも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました。

昭和天皇、1977年(昭和52年)823日の会見

 

  この発言により、この詔書がGHQ主導によるものか、昭和天皇主導によるものかという激しい議論が研究者の間で起こった。その後の1990年(平成2年)に前掲の『側近日誌』が刊行され、GHQ主導によるものとしてほぼ決着した。

 

 また、昭和天皇が1977年(昭和52年)になって詔書の目的について発言したのは、人間宣言をした昭和天皇を厳しく非難し、1970年(昭和45年)に自決した三島由紀夫へ意を及ぼしたためではないかとする指摘がある。

 

4.2 侍従長・藤田尚徳

 当時、侍従長であった藤田尚徳は「英語で起草された文を和訳した経緯もあり風変わりな詔書となったが、昭和天皇の真意を示すことができた」と述べてる。

 

 また藤田は、「明治維新と個性有る明治天皇の登場により、明治以降天皇は人間として尊敬されていたが、大正末期から国の政策として天皇の神格化が行われるようになり、昭和天皇はこれを嫌悪していた」という見解を示している。

 

4.3)内閣総理大臣・幣原喜重郎

 内閣総理大臣の幣原喜重郎は英文による起草にあたり、イギリスのバプテスト教会の教役者であるジョン・バニヤンの『天路歴程』(1684年)も引用した。この書籍はプロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書であると言われているが、人間宣言の「我国民ハ動(やや)モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ」のくだりは、天路歴程の「the Slough of Despond」という句が和訳されたものである。

 

4.4)文部大臣・前田多門

 文部大臣・前田多門は、学習院院長・山梨勝之進と総理大臣・幣原喜重郎とともに、人間宣言の案文に目を通し、吟味した日本の要人である。また、クェーカー教(プロテスタントのフレンド派)の信徒であり、多数の日本人クリスチャンと同様に天皇を尊崇していた人物である。1945年(昭和20年)12月、「天皇は神である」と、帝国議会の質疑応答で答弁した。「西欧的な概念の神ではないが、『日本の伝統的な概念で、この世の最高位にあるという意味で』は神である」と答弁している。

 

5)当時の人物の見解

5.1)山本七平

 終戦後フィリピンで米軍の捕虜になった山本七平らの日本軍将兵に対し、米軍軍人は熱心に進化論の基本概念を教育しようとした。日本人捕虜たちが一向に反発も感銘も示さないことを不思議に思う米軍軍人に対して、山本が「そんなことは日本では子供でも知っている」と言ったところ、その米軍軍人は驚いて「ではなぜ日本人は天皇が神の子孫だと信じているのか?」と反駁したという。

 このすれ違いについて山本は、「アメリカ合衆国での『キリスト教根本主義』と進歩派の『創造論』を巡る対立や、東アジアの『父子相隠』の倫理観が根底にある」と考察する。さらに「『戦前の日本人が神話を事実と信じていた』という"神話"を戦後の日本人は信じている」と述べる。

 また、外来の概念を、自文化の似て異なる概念の意味で理解した気になることや、その逆に「元々わが国にあったものだ」として受容させようとする"掘り起こし共鳴現象"についても言及している。

 

5.2)三島由紀夫

 三島由紀夫は、「僕は、新憲法で天皇が象徴だということ(日本国憲法第1条)を否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇がお待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも」と述べている。

 

 また、小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された旧陸軍の青年将校たちや、神風特別攻撃隊で戦死した兵士たちの霊に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」、「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」、「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」と語らせている。

 

6) 戦後の論説

6.1) 大原康男と伊藤陽夫の疑義

 「昭和天皇による『神話と伝説』の否定」、「天皇の人間宣言」という解釈については、神道界や右派勢力の一部から疑義が提出されている。

 

 大原康男は「日本語の「且」には並列的意味のほかに「その上に」という添加的な意味もある」ことを指摘し、「その上に」という意味にとれば、「架空ナル観念」とされたのは、「天皇ヲ以テ現御神トシ」ということ自体ではなく、それに「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」ということが加えられたことと解釈できると述べている。同様のことは、伊藤陽夫も「動ぎなき天皇国日本」(展転社)で主張している。

 

 大辞林は、「且つ」(接続詞)の語義を、「二つの動作・状態が並行あるいは添加して行なわれることを示す。同時に。また。その上。」と説明している。

 当時の侍従次長の木下道雄の『側近日記』には、GHQが天皇が神の末裔であることを否定することを要求したのに対して、天皇が「現御神」であることを「架空なること」とすることで切り抜けたことが自慢げに書かれている。『国体の本義』(1937年)などで主張した「現御神」(現人神)を否定したのである(天皇を現御神とすることは古事記・日本書紀に始まることであって『国体の本義』によるものではないが、明治以降の公文書に「現御神」(現人神)が最初に登場したのは「国体の本義」であった。)

 

 また、大原康男は、皇室では元旦の宮中祭祀のために通例は詔書が出されなかった事を指摘し、さらにこの詔書はGHQによるものであることを検証し、日本人の神観念・天皇観を根底から変革した「人間宣言」の無効を主張している。

 

 東郷茂彦は大原や伊藤と同様の解釈に立ちながら、同時に木下の日記から天皇の「過度の神格化」を否定することについては昭和天皇の希望であり、そこにGHQとの一定の合意を見たと読み取る(東郷は詔書の元はGHQから出されたとしつつも、これを適切なものに改めようとした吉田茂や木下らの尽力を肯定する)。ところが詔書の文面に限定句がないままに「現御神」と書かれてしまったことで、詔書の本来の趣旨であった「過度の神格化」を飛び越えて天皇の神性を否定する解釈が生まれてしまったとする。また、東郷は昭和天皇がこの神性の否定という解釈を否定する機会(例えば、1977年8月23日の那須御用邸での会見)がありながらそれに触れなかったのは、自分が神の末裔であることを表明し、更にこの国のあり方を表に出して述べることは、昭和天皇が戦前から貫いてきた立憲君主としての信念に相反するとの考えがあったからではないか、と推測する。

 

6.2)小林よしのり

 小林よしのりは、「GHQが人間宣言を薦めた理由は、『日本人は天皇を<絶対神>と信じている』と誤解したためである」としている。

 漢字の「神」を英訳すると「God」となる。しかし日本語(やまとことば)の「カミ」・シナ語の「神(しん)」・西洋の「God」は全て違う意味なのだが日本人は十分の自覚も無く三つ全てを「神」と表記する。かつてフランシスコ・ザビエルらのポルトガルの宣教師は「Deus」を「デウス」で通した。この時代では「Deus」と「カミ」は違うものであると理解して、この様に通したがシナではアメリカ人の宣教師が「God」を「神(しん)」と訳したが「神(しん)」の意味は自然界の不思議な力を持つ物や心などを表す文字なので「God」の意味合いは無いので、いわゆる誤訳である。

 

 その後明治時代になり、アメリカ人の宣教師が来日する様になるとシナ同様、「God」を「神(しん)」と訳し日本人も古代からの「カミ」を「神」という字を当ててきたので、明治辺りから「カミ」と「God」の混合が始まりGHQは、この混合から日本人は天皇を「God」(絶対神)だと信じていると誤解したために昭和天皇に人間宣言をさせたが、それをあえて言うなら「漫画の神様」手塚治虫や「経営の神様」松下幸之助に「人間宣言」をさせるような滑稽な行為であるとしている。また天皇は昔も今も「アキツミカミ(現御神)」であるが西欧流の「God」(絶対神)では決して無いとしている。

 

 また天皇に対する伝統的な「アキツミカミ」の概念は手塚治虫を「漫画の神様」・松下幸之助を「経営の神様」・サッカーのゴールキーパーや野球の抑え投手を「守護神」と呼ぶ様に生理的には人間でも、とてつもなく貴重な人を「神様」と呼ぶ、日本人が思わずやっている伝統的な習慣と同じようなものとしている。また日本人の、こういう感覚は一神教しか知らない欧米人には理解が困難としている。


3 日本国憲法と宗教


(1)日本国憲法第20条


1)日本国憲法第20条

 日本国憲法 第20条は、日本国憲法の第3章にある条文で、信教の自由と政教分離原則について規定している。

1.1)条文( 第二十条)

 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 


(2)信教の自由


(引用:Wikipedia)

 

 信教の自由とは、信仰の自由などから構成される宗教に関する人権。信教の自由(宗教の自由)とは、特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。

 西欧では、教会権力からの自由を求める帰結として確立された。

 世界人権宣言及び市民的及び政治的権利に関する国際規約の共に第18条、日本国憲法においては20条で規定される。

 

1)経緯

 ヨーロッパ諸国では、信教の自由はカトリック教会からの人間精神の解放を求める闘いの結果として確立された歴史があり、それは精神的自由そのものの希求として、近代の自由権確立の原動力となった。このような背景から、近代憲法は例外なく信教の自由を保障する規定を盛り込んでいる。

 信教の自由を保障した法典の例として以下のようなものがある。

・ミラノ勅令/マグナ・カルタ/ワルシャワ連盟協約/ルドルフ2世の勅書/ギュルハネ勅令

 

●アメリカ合衆国憲法

 修正条項第一条 連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。

 

●世界人権宣言

 第18条 すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。

 

●市民的及び政治的権利に関する国際規約

 第18条 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。

 

以上には人間と市民の権利の宣言が含まれていない。公的秩序に制限される分、保障が弱いため。フランス王国のルイ16世がフォンテーヌブローの勅令を廃しているが、フランス革命で彼が死刑にされているため、宣言の成立経緯には注意を要する。

 

2)内容

 信教の自由は具体的には以下の内容で構成される。

①信仰の自由 個人が内心において特定の宗教的信仰をもち、あるいは、いかなる信仰ももたない自由をいう。この意味の信仰の自由は思想・良心の自由の宗教的側面である。

 

②宗教的行為の自由 礼拝・祈祷その他の宗教上の儀式や式典を行い、それに参加する自由、また、それに全く参加しない自由である。

 

③宗教上の結社の自由 宗教団体を結社する権利。結社の自由の宗教的側面での保障として捉えられる。

 

3)大日本帝国憲法

 大日本帝国憲法については28条に規定があり、諸外国の憲法と同じく信教の自由を保障していた。

大日本帝国憲法第28条
日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

 明治憲法下の権利保障は「法律ノ範囲内ニ於テ」または「法律ニ定メタル場合ヲ除ク外」として認め、最終的に、権利保障に関する法律が効力を持つには、天皇による裁可が必要とされたが(法律の留保)、信教の自由については他の自由権規定とは異なり法律の留保さえなかった。

 

 これについて「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限」において法律をもってしても制限することができないと解釈する学説もあったが、実際には「臣民タルノ義務」に含まれるものとして法律によらなくても命令によって制限することもできると理解されていた。

 

 また、明治憲法下では、神社神道については国民道徳的なものを併せ持ち、仏教やキリスト教などとは本質的に異なるものとされ、信教の自由の保障とは無関係とされ、特別な地位にあった。

 

 明治憲法下の信教の自由をめぐる事件には次のようなものがある。

 

●教育勅語不敬事件

 内村鑑三が教育勅語に対する拝礼を拒否したために問題となり、第一高等中学校教員を辞職。

 

●上智大生靖国神社参拝拒否事件

 1932年、クリスチャンの上智大学の学生が靖国神社で参拝を拒否したために問題となった事件。軍部を恐れた上智大側が、個人的信仰と国民としての公の義務は別である旨を文部省に申し入れたため事態は沈静化したが、これ以降、キリスト教徒が積極的に戦争の遂行と神道奉賛に傾斜してゆく端緒となった。

 

●1935年、大本事件

 

4)日本国憲法

 日本国憲法においては、20条に規定がある。

日本国憲法第20条
第1項
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 なお日本国憲法下では、神道(神社)も「宗教の一つ」として扱われている(宗教法人法第2条)。

 

〇信教の自由の保障

 第1項前段は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定し、第2項で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」と規定している。

 

 国が特定の宗教を正統として信仰を強制・干渉する行為、特定の信仰を有することや有しないことを理由に刑罰その他の不利益を加える行為、人の信仰を強制的に告白させたり宗教的な意味を持つ発言や行為を強制する行為(かつての宗門改や踏み絵の類)は本条に違反する(宗教における沈黙の自由)

 

 なお、自衛官護国神社合祀事件において最高裁は「自己もしくは親しい者の死について、他人から干渉を受けない静謐の中で、宗教上の感情と思考を巡らせ、行為をなす」という宗教的人格権について法的利益と認めることはできないと判示している(最大判昭和63・6・1民集42巻5号277頁)

 

〇信教の自由の限界

 信教の自由のうち内心の信仰に関するものについては、思想・良心の自由(日本国憲法第19条)と同じく絶対的無制約と解されている。

 

 内心の信仰において邪教か真正な宗教かという判断については、国民の手に委ねられるべきものであって、公権力が決定すべきでないと解されている。

 

 これに対して、外部的行為を伴うものについては、信仰の表明としてなされた行為であっても他者の権利や利益に対して現実的・具体的害悪を及ぼす場合にまで絶対的に保障されるものではない。

 

 ただ、宗教的行為は内心の信仰と密接に関連するものであるから慎重な配慮が必要とされ、信教の自由に対する制約については、その性質上、表現の自由と同様に厳格な基準が適用される。

 

〇信教の自由に関する判例

 なお、政教分離原則に関連する判例については、政教分離原則の項目を参照。

 

●加持祈祷事件

 精神障害者の平癒を祈願するために、宗教行為として加持祈祷行為がなされたが、それによって被害者を死亡に至らしめた行為が、傷害致死罪に問われた事件で、最高裁は憲法第20条第1項の信教の自由の保障の限界を逸脱したものというほかないとして、被告人の上告を棄却した(加持祈祷事件、最大判昭和38・5・15刑集第17巻4号302頁)

 

●剣道履修拒否事件

 最高裁は、信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した神戸市立工業高等専門学校の学生に対して、学校側が採った原級留置処分及び退学処分について、裁量権の範囲を超える違法なものであると判断した(神戸高専剣道実技拒否事件、最判平成8年3月8日民集50巻3号469頁)

 

●輸血拒否事件

 最高裁は、 宗教上の信念から、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しているエホバの証人の患者に対し、医師がほかに救命手段がない事態に至った場合には、輸血するとの方針を採っていることを説明しないまま、手術を施行して輸血をした場合において、医師の不法行為責任を認めた(エホバの証人輸血拒否事件、最判平成12年2月29日民集54巻2号582頁)

 

〇オウム真理教と信教の自由

 日本の警察は、オウム真理教の教団施設から脱走した信者を拉致する事件が頻発し、東京都内でも1991年(平成3年)秋ごろから相次いでいだが、オウム真理教は『信教の自由』を盾に警察の追及を免れていた。

 

 元警視庁捜査官は「本人の自由意思で教団に戻った」と主張されると、警察官は引き下がらざるを得なかったと歯がゆさを語っている。

 

 1995年2月の目黒公証役場事務長監禁致死事件まで、オウム真理教事件に関する捜査が進められなかったため、「信教の自由」を盾に、同種の事件が起こる懸念を表明している。


(3)政教分離


(引用:Wikipedia)

1)政教分離原則

 政教分離原則は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている。

 

 国家により、フランスなどに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型) などに分かれる。信教の自由の制度的保障として捉えられ、政教分離と信教の自由は不可分である。本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。

 

1.1)類型

①融合型・分離型・同盟型

 歴史的条件の違いを反映して、政教分離は国によって様々な形態をとる。1977年にジャック・ロベールの試みた類型化によれば、国家と宗教の関係には融合型、分離型、同盟型がある。

 

・融合型は国教型ともされ、バチカン市国、イスラム諸国のほか、イギリス、イタリア、北欧諸国も含まれる。

 

・分離型のフランスやアメリカ合衆国などにおいては、国家と宗教が完全に分離され、教会は私法上の組織にすぎず、国はその運営に関与しない。ただし、分離型とされる中でも、宗教に友好的ないし同調的なタイプ、宗教に非友好的ないし中立的なタイプ、宗教に敵対的なタイプの3タイプに分かれる。井上順孝によれば、ピューリタンの影響を受けて建国されたアメリカ合衆国は友好的なタイプ、19世紀を通じてカトリックの影響力が削がれていったフランスのライシテは中立的なタイプに該当する。また井上修一によれば、国教を禁じるアメリカ合衆国憲法は中立的なタイプに該当する一方、フランスの政教分離はカトリックから抵抗を受け、第一次世界大戦後の友好的な時代を経て、今日は同調的なタイプに変わってきた。

 

・同盟型においては国家と教会は独立しているが一定の協力的制度関係が存在する。同盟型における国家の教会への関与の例としては、司教の任命、司祭の報酬の決定などが挙げられる。ドイツにおいては、教会は憲法上の地位を持って活動するが、政治と競合する領域ではコンコルダート(政教協約)を結んで解決する。

 

②協約方式・寛容令方式・政教分離方式・国教制

 また、別の類型としては、

・国教制:特定の宗教の優位の公的承認を含む(中南米、アジア(仏教、イスラム教)、イギリス、スペイン)

 

・協約方式(コンコルダート、政教条約):国家と宗教とくにローマ・カトリック教会の関係を国家間の条約のように扱う(イタリア、ドイツ)

 

・寛容令方式:優勢な宗教を尊重する(スイス、ベルギー、フランス、ブラジル)

 

・政教分離方式(日本、アメリカ、メキシコ、フランス、トルコ、インド、韓国)

がある。

 ただし、現実には重複することもあり、完全に形式的に分類できない。

 

③その他(社会主義国など)(略)

 

④厳格分離主義と不偏許容主義

 政教分離には、国教の禁止が「規制原理」として働き、信教の自由が「構成原理」として働くという二面性がある。日本の憲法学では、政教分離は信教の自由を実現するための手段(制度的保障)であると言われる。アメリカ合衆国憲法修正第一条の条文にも規制原理と構成原理の両面が見られる。ジョン・ヴィッテは国教の禁止の側面を重視する立場を「厳格分離主義」、信教の自由の側面を重視する立場を「不偏許容主義」と呼んだ。

 

1.2)政教分離と信教の自由と寛容

 宗教改革で信教の自由が成立したといわれるが、ツヴィングリ派や他派の自由が認められたわけではなかった。その後の宗教戦争を経て、信教の自由が普遍的に相互承認されるようになり、それを政治的に保障するための制度としてヨーロッパにおいて政教分離制度が成立した。また、 信教の自由を成り立たせているものは寛容思想であり、寛容を制度化したものが政教分離であるとされる。

 

 このことから、伊藤潔志は「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である」と述べ、さらに、信教の自由や政教分離を認めない国家に対してそれを普遍的な政治原則とみなして認めるよう働きかけていくことは信教の自由に反することにならないかと述べている。

 

1.3)軍と宗教

 キリスト教圏の国では政教分離を国制とした後も、軍隊で従軍牧師のような聖職者を雇用している。厳格に分離しているアメリカやフランスでも、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。

 

 自衛隊に宗教活動に従事する職種(兵科)は存在しないが、艦内神社の勧請や駐屯地への神棚設置、装備品のお祓いなど、防衛省が主導せず費用を負担しない神事が容認されている。

 

1.4)歴史

 一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする。

 

 962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた。

 

 叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった。

 

 フランスでは1516年の政教条約によって国教制度がとられ、カトリックは特権的地位を与えられた。ナントの勅令後は 「寛容」が認められプロテスタントにも信仰の自由は認められていたが、 1685年に廃止され、1789 年まで国教制度が存続した。1789年のフランス人権宣言は第10条で「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。」とカトリック以外の宗派を含む信教の自由を明記した。

 

 また、1792年9月20日には国民公会が、出生や結婚、死亡などの民事的身分の届け出を教会から自治体に変更し、結婚届けも民事婚にする法案を可決。さらに、西暦の廃止すなわち革命暦の採用、教会資産の国有化、修道会が運営していた寄宿制度(コレージュ)の廃止など革命政府はカトリック教会と対立した。しかし、聖職者世俗化法で「至高尊者」などの名の下にカトリックに代わる新たな公的祭祀が行われた。

 

 ナポレオンと教皇ピウス7世は、コンコルダ(政教条約)を締結し、カトリック中心の公認宗教制となった。このコンコルダ体制では、プロテスタント、ユダヤ教も認可したものの、カトリック国教制であった(1814年憲章、1830 年憲章・1848 年憲法)その後、第三共和制のもとでは、修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた。

 

 フェリー法(1881年)では初等教育の非宗教性が定められ、ゴブレ法(1886年)では聖職者を初等教育から排除され現在のライシテへとつながっていく政策がとられ、1901年の結社法では、修道会設立を政府許可制にした。

 

 1904年、フランスとローマ教皇庁は外交断絶となるが、1905年には教会と国家の分離に関する法律が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された。

 

 イングランドでは1534年にヘンリー8世によってイングランド国教会が成立した。エリザベス女王時代にはピューリタン(カルヴァン派)が国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返した。ピューリタン革命前夜、議会派ピューリタンも、長老派(国王との妥協を模索し、国教会のなかで改革をする)独立派(国教会から分離し、会衆教会を基本単位として教会純化を考える)平等派(王制を廃止し、人民主権を達成しようとする)などの分離派(国教会からの分離を主張)に分裂した。

 

 クロムウェル政権は独立派の会衆派教会を優遇した。同じ分離派でもクエーカー教徒、平等派などは認められず、強く信教の自由を主張した。これらの人々はアメリカ、オランダなどへ亡命してのちに帰国する人も多く、信教の自由、政教分離への主張を強めていった。

 

 1660年の王政復古後、イングランド国教会は公定宗教として復活した。議会は1673年に審査律を制定し、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定を行った。

 

 そうした中、信教の自由を求める運動は継続され、1689年の名誉革命に際して、「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」(寛容法)が制定され、プロテスタントの非国教徒は信仰を理由に迫害されることはなくなった。しかし、1828年の審査律廃止まで公職に就くことはできなかった。また、カトリックも迫害されたが1801年のアイルランド併合の際に解放が約束され、オコンネルの運動による1829年のカトリック教徒解放令によって認められた。

 

 政教分離を国制とした史上初の世俗国家はアメリカ合衆国である。1791年合衆国憲法修正第1条では国教の設置が禁止された。政教分離が選ばれたのは、啓蒙主義思想によるだけでなく、新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたためであった。しかし、州の独立性は強く、ニューヨーク州、メリーランド州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、ジョージア州は監督派教会を、マサチューセッツ州、コネチカット州、ニューハンプシャー州は会衆派教会を当初は公定教会としていた。その後、修正第1条の精神が徐々に浸透し、各州における公定教会制度は廃止されていき、最も頑強にピューリタンの伝統が保持されたマサチューセッツ州においても1833年に公定教会は廃止された。

 

 ローマ教皇ヨハネ23世は1963年に回勅「マーテル・エト・マギストラ」「パーチェム・イン・テリス」を出し、第2バチカン公会議からは現代世界憲章や「信教の自由に関する宣言」が出された。現代世界憲章26項では信教の自由に関する権利は人間の普遍的な権利と義務とされ、29項では万人の本質的平等が認められた。教会は世俗国家との対立図式を乗り越え、人類の未来のためのパートナーとして国家を意識するようになった。

 

 現在、多くの国で、信教の自由を保障するための政教分離原則が人権宣言や憲法で保障されるようになっている。ただし、公定宗教は認められており、英国国教会、アメリカ合衆国大統領の就任式宣誓などは政教分離の原則違反にはならない。

 

2)日本の政教分離

 江戸時代の日本では、幕府が仏教の寺社勢力に介入統制し支配に利用する方針が徹底され、仏教は民衆の教化のみ役割を担わされ宗論は厳しく制限された。儒教と神道の習慣は尊重され、神道のなかで論じられた廃仏論は明治初期の廃仏毀釈運動に影響を与えた。またキリスト教は厳しく弾圧された。

 

2.1)日本近代史における政教分離

 ここでは法制史の立場から日本近代での政教分離について概説する。「祭政一致の制に復し天下の諸神社を神祇官に属す」とする慶応4年3月の太政官布告で神祇官再興が宣言された。村上重良によればこれは「政治と神を祭ることは一体であるという古代的観念」を掲げたものである。

 

 1868年(明治元年)神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で、神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立したが、1871年には神祇省に格下げされ1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。しかし1872年、浄土真宗本願寺派の島地黙雷は三条教則批判建白書を提出し、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、同5月に大教院は解散した。

 

 1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年(明治15年)に内務省通達により、神社は宗教ではないとされた(神社非宗教論)。1889年(明治22年)、大日本帝国憲法第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。

 

 しかし、昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件(上智大生靖国神社参拝拒否事件)が発生した。これに対してカトリック教会は1936年『祖国に対する信者のつとめ』を出し、大日本帝国政府の方針にしたがうべきことを表明した。

 

 第二次世界大戦後の1945年、GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、日本国憲法では政教分離が実現されている。

 

2.2)日本国憲法における政教分離

 日本国憲法に「政教分離」の言葉はないが、根拠として日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条が挙げられる。

 

日本国憲法 第二〇条
一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
日本国憲法 第八九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。

したがって、政教分離の具体的内容とは次の通りである。

 

国が宗教団体に特権を与えることの禁止 - 特定の宗教団体に特権を付与すること。宗教団体すべてに対し他の団体と区別して特権を与えること。

 

・宗教団体が政治上の権力を行使することの禁止(「宗教団体の政治参加」を参照)。

 

・国およびその機関が宗教的活動をすることの禁止 - 宗教の布教、教化、宣伝の活動、宗教上の祝典、儀式、行事など(「目的効果基準」を参照)。

 

 上記の憲法規定は、宗教の関与を否定するものではなく、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められている。

 

 政教分離と信教の自由の関係につき、最高裁判所は津地鎮祭訴訟の判決で、「信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた」として、信教の自由と政教分離は目的と手段の関係にあり、個人の権利ではなく制度的保障(自由権本体を保障するために、権利とは別に一定の制度をあらかじめ憲法によって制定すること)であるとしている。これに対しては、信教の自由を侵していないという理由で政教分離の規定が縮小されてしまう可能性があり不適切であるという批判もある。

 

 国家と分離される「宗教」については、信教の自由の場合と異なり、宗教だと考えられるものすべてを指すと考えることはできないとする立場が一般的であるが、この「宗教」の定義によって国家および地方公共団体が禁じられる「宗教的活動」のとらえ方には2つの説が生じる。

 

 一つには「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為」とする説である。津地鎮祭最高裁判例がその代表である。2つにはより厳格に「祈祷、礼拝、儀式、祝典、行事等およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を包括する概念」であるとする説がある。

 

 この説に対しては、死者に対する哀悼、慰霊等の行事のすべてが含まれるのは非常識であるとする批判がある。

 

 また、政教分離(※)の対象は国家および地方公共団体である。判例によれば、護国神社などは私的な宗教団体であり、私人である隊友会が殉職自衛官を山口県護国神社に合祀申請しても国家は関係ないから政教分離の問題にはならなかった。

 

 他方、国家権力主体としての性格を有する愛媛県が靖国神社に寄付金を納めるのは、国家と宗教の過度なかかわり合いを発生させるので、憲法20条に反し、許されなかった(愛媛県靖国神社玉串料訴訟)(「目的効果基準」も参照)。

 

※憲法20条1項後段、2項、3項、および89条は、政教分離原則を規定している。

「国及びその機関」の範囲に対して裁判所の判例はまだない。2002年(平成14年)11月1日現在の政府解釈(小泉純一郎内閣総理大臣の答弁)は以下である。

①内閣、各省庁(国家公務員)、国会、裁判所

②内閣総理大臣、その他の国務大臣、各省の事務次官、局長、課長

③天皇、皇族

④地方公共団体及びその機関(地方公務員)

知事、市町村長、副知事、助役、出納長、収入役、部長、課長 

⑥政党、政治家

 

2.3)神道の評価と目的効果基準

●歴史的経緯

 大日本帝国憲法は第28条において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と定めた。この条項は天賦人権説を否定する立場から起草されていることが草案作成者である井上毅ヘルマン・ロエスレルとの間の往還書類で判明しており、政府が宗教の論争から自由であること、宗派の分裂が政治の分裂を招くことから政府は宗教を統一するよう介入すべきであること、正教と謬教に同等の権利を与えてはいけない、といった趣旨が含まれており、条文の表現はこの目的を踏まえあえて曖昧に記述する方針となった。

 

 一方で国家神道との関わりについては日中戦争以降の国家ファシズム期のように、国民および官吏に対する参拝の義務といった論理(解釈)は、法文の執筆時典においては確定的に含まれていたわけでは無かった。

 

 この第28条は信教の自由、および“安寧秩序” “臣民の義務”という定義自体が不完全なもので、のちに神道は「神社は宗教にあらず」といって実質的に国教化され(国家神道)、神社への崇敬を臣民の義務として、神宮遙拝は日常化され、家庭や公共機関などに神札を祀ることが奨励された。これに反する宗教は弾圧を加えられることもあった(大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、横浜ホーリネス教会、美濃ミッションなど)。

 

 戦後日本における政教分離原則は、当時日本を占領していたアメリカを中心とする連合国総司令部 (GHQ) が、1945年(昭和20年)12月15日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令がその始まりである]。そして、1946年1月1日の昭和天皇のいわゆる人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった。憲法制定過程では 松本委員会案 において、すでに神社の特典を廃止するとして記載されている(第二十八条)

 

●目的効果基準

 津地鎮祭訴訟において最高裁は、宗教は個人の内心にとどまらず外部的な社会現象(教育・福祉・文化・民族風習など)をともなうのが通常なので、「国家と宗教の完全な分離は、実際上不可能に近い」として、いわゆる「目的効果基準」に従って国の宗教的活動の違憲性を判断するべきと判示した。これは「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」か否かをもって、憲法第20条3項にいう「宗教的活動」に抵触するかどうかを判断するものである。

 

 箕面忠魂碑訴訟では、この目的効果基準にしたがって、忠魂碑の移転に関わる費用等を市が負担した行為が合憲とされた。また、愛媛県靖国神社玉串料訴訟では、同基準に従い、県知事が公費から靖国神社に玉串料を奉納した行為が違憲とされた。さらに、砂川政教分離訴訟では北海道砂川市が市有地を神社に無償提供していた件が違憲と判断された。

 

 目的・効果基準はアメリカのレモンテストに由来する。

 

 なお、宗教的要素をもった文化財に対する補助金や、宗教系私立学校への助成金支出などもこの基準に照らして問題ないとされている。宗教系私立学校への公金支出については、学校教育法、私立学校法などにより公教育を担っていると位置付けられているという理由もある。

 

2.4)靖国神社公式参拝の問題(細部後述)「靖国神社問題」も参照

 政治と靖国神社の関係について、「特権付与の禁止」と「国の宗教活動の禁止」の視点から議論がなされてきている。 

 

 1985年8月14日に、政府は「内閣総理大臣その他の国務大臣がその資格で参拝することは、憲法第二十条第三項との関係で問題がある。断定はしていないが違憲ではないかとの疑いをなお否定できない」という従来の政府統一見解を変更して、「正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しない」という見解を打ち出し、8月15日に中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝し供花代金として3万円の公費を支出した。

 

 この参拝について、仏教、キリスト教信者が中心となって、信教の自由、宗教的人格権、宗教的プライバシー権等の侵害を理由に損害賠償・慰謝料を求める訴訟を行った。福岡高裁(平成4年2月28日)判決は、靖国信仰を公認し押しつけたものとは言えず、信教の自由の侵害はない、としたが、傍論において公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとした。

 

 大阪高裁(平成4年7月30日)判決も、今回は具体的な権利侵害はないが、公式参拝自体は違憲の疑いが強いとした。 小泉純一郎首相も靖国神社を参拝したが「私的参拝」であるとして公費の支出もしなかった。千葉地裁(平成16年11月25日)判決、東京高裁(平成17年9月29日)判決は憲法判断を避け、原告の請求を棄却した。他方、福岡地裁(平成16年4月7日)判決と大阪高裁(平成17年9月30日)判決は原告の控訴を棄却したが、傍論で違憲に言及している。

 

 また、岩手県靖国神社訴訟では、1962年から毎年岩手県議会が行っていた靖国神社への玉串料公費支出と県議会が総理大臣の靖国公式参拝を求める決議をしたことをめぐって住民訴訟が争われた。一審の盛岡地裁(昭和62年3月5日)判決は、社交儀礼であって政教分離に反しないとしたが、二審の仙台高裁(平成3年1月10日)判決は、「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、かつ靖国神社の宗教的活動を援助するもの」で政教分離に反するとした。

 

 さらに愛媛県靖国神社玉串料訴訟では、愛媛県知事が靖国神社・県護国神社に玉串料を22回計16万6000円を公費支出していた事実を争った住民訴訟で、一審の松山地裁(平成元年3月17日)判決では「同神社の宗教活動を援助、助長、促進する効果を有するので、違憲」とした。二審の高松高裁(平成4年5月12日)判決は、金額も少なく社会的な儀礼の程度で、神道の深い宗教心に基づく行為ではないから合憲としたが、最高裁(平成9年4月2日)判決は、玉串料の奉納は県が特定宗教団体と意識的に特別な関係を持ったことになり、一般人に対して靖国神社は特別な宗教団体であるという印象を与えるので、目的効果基準に照らして違憲であるとした。

 

 次は政治家の参拝が違反であるという意見と合憲であるという意見の例である。

 

・日本の政治家による靖国神社への参拝は、この政教分離原則に反するという説

 

 この政治家への徹底は不可能であるとの論に対し、

 

・政治家は国の機関であり、同条3項の国の機関による宗教的活動に該当するという説

 

・政治家が参拝すること自体が、間接的な靖国神社への特権となるという説

 靖国神社とは東京招魂社であり、元々が国家的権威の元で主導されたものである。同時期に建立された明治神宮のように最初から別格の存在である。

 

 また、新年に首相以下の閣僚がこぞって参拝する伊勢神宮に対しては同様の批判の声は比較して少ないことから、靖国神社に対する政治的意図を持った批判であるとされる。(靖国神社問題参照)

 

2.5) 宗教団体の政治参加

 宗教勢力と関連がある団体の政治参加について、「宗教団体の政治的権力の行使の禁止」と関わりが話題にのぼることがある。日本政府の見解 によれば宗教団体が政治的活動をすることに問題はないが、国民の間には忌避感があるという。

 

 戦後日本の新宗教の政治活動は多くの場合、教団組織の拡大に伴って起こってきた。中野毅・井上順孝・梅津礼司(1990年)及び中野毅(1996年)によれば、1960年代の日本の宗教団体の政治への関わり方の類型として、単独の宗教団体が独自の政党を作った創価学会、新日本宗教団体連合会系の団体が自民党や民社党のリベラルな部分と結びついたタイプ、天皇復権などを謳う右派グループ、政治参加を否定する団体の4種類があった。

 

 1978年の朝日新聞社調査研究室の報告によれば、

① 独自の政党を生んだ創価学会のタイプ、

② 右派のイデオロギーが教義と一体化したタイプ(生長の家、世界救世教、世界平和統一家庭連合(統一協会、国際勝共連合)キリストの幕屋、日本会議関係宗教団体など)

③ 教義にイデオロギーが希薄なタイプ(新宗連加盟教団に見られる)

④ 左派イデオロギーと教義が重なるタイプ(日本キリスト教協議会(NCC)加盟のキリスト教会やキリスト者政治連盟(キ政連)、平和を実現するキリスト者ネット(キリスト者平和ネット)など)

⑤ 政治運動に関与しないタイプ(NCC非加盟のバプテストや救世軍、福音派、日本福音同盟(JEA)加盟のキリスト教会、エホバの証人など)

の5種類に分かれる。

 

 1970年代に入ると「右派系の運動が非常に強く」なったと中野毅は1996年に述べ、生長の家、霊友会、世界救世教を例として挙げた。

 

 また、世界平和統一家庭連合(統一協会)の創設者文鮮明によって作られた国際勝共連合 が政治活動を行っており、過去には生長の家政治連合なども政治活動を行っていた。

 

●宗教政党

 

現在、日本の宗教団体が設立に関与したり、あるいは支持母体とする政党は、以下の通りである。( 詳細は「宗教政党」を参照)

 

・公明党(創価学会)

 

・幸福実現党(幸福の科学)

 

 また、過去には、オウム真理教が設立に関わった真理党も存在した。

 

●学界の議論

 学界の通説は、国家が宗教団体に政治上の権力を行使させてはならない、ということは、宗教団体を政治参加させてはならないという意味ではないとする。すなわち「政治上の権力」とは、国が独占すべき「統治権力(立法権、課税権、裁判権等)」のことを指すとするものである。

 

 この説に対して、佐藤功は、宗教団体の政治参加を制限する立場から、国の統治的権力を宗教団体が行使するということは現代では考えられないので「政治上の権力」とは「政治上の権威とでもいうべき観念」であり、「政教分離の原則を明らかにするために宗教団体が政治的権威の機能を営んではならない」とする説を主張している。

 

 この説には、世界の政教分離の態様は様々であり、例えばドイツには現に教会に租税徴収権が認められていることを留意すべきという反論、「政治的権威の機能」の意味が明確を欠き、疑問が残るという批判がある。

 

 田上積治は、「政治上の権力」を「積極的な政治活動によって政治に強い影響を与えること」ととらえ、その理由として「宗教団体の政治活動は他の政治団体と容易に妥協しない性格を持つから民主政治にそぐわない(趣意)」という説を主張している[106]。一方、芦部信喜や橋本公亘は、宗教団体の政治活動の自由を制限したり禁止したりするのは宗教を理由に差別することになる、と主張している。

 

 宗教団体・宗教団体構成員の政治活動・政党結成を制限することは、以下の複数の規定に抵触することになる。

 

①信条による差別全般を禁止した憲法第14条1項

②公務員の選定を「国民固有の権利」(=全ての国民に保障された権利)とした憲法第15条1項

③思想・良心の自由を保障した憲法第19条

④結社・言論の自由を保障した憲法第21条1項

⑤国政選挙における信条による差別を禁止した憲法第44条

⑥地方選挙権を「住民」に保障した憲法第93条2項

憲法第20条1項を厳しく解釈した結果それ以外の複数の条項に違反するのは明らかに不合理であるというのが通説的見解の根拠である。

 

●日本国憲法成立の経緯から

 日本国憲法制定前の第90回帝国議会で憲法草案が審議されていた段階で、以下のような答弁があった。

 

・(松沢)「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」と書いているのであります。これは外国によくありますように、国教というような制度を我が国において認めない。こういう趣旨の規定でありまして、寺院やあるいは神社関係者が、特定の政党に加わり、政治上の権利を行使するということは差し支えがないと了解するのでありますが、いかがでございますか。

 

・(金森)宗教団体そのものが政党に加わるということがあり得るのかどうかは、にわかに断言できませぬけれども、政党としてその(注:宗教団体の)関係者が政治上の行動をするということを禁止する趣旨ではございませぬ。

 

・(松沢)我が国におきましてそういう例はございませぬが、たとえばカトリック党というような政党が出来まして、これが政治上の権利を行使するというような場合は、この(注:第20条の)規定に該当しないと了解してよろしゅうございますか。

 

・(金森)この「権力を行使する」というのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思います。国から授けられて、正式な意味において政治上の権力を行使してはならぬ。そういう風に思っております[108]。

 

●最高裁判例から

 宗教団体の政治活動に関する最高裁の判例はない。

 津市地鎮祭事件判決(昭和52年7月13日)は、津市が行った地鎮祭という宗教的行為に関する事件である。ここでは

憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。(中略)政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。

と述べて、政教分離原則は国家と宗教の分離を目指した規定である、とした上で

「現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない」

と、目的と現実を明確にした上で国家に許容される宗教的行為の基準として目的効果基準を打ち出している。

 

 この判決に見られる政教分離の視点は、国家にいかなる宗教行事や宗教団体への介入が許されるかという、国家から宗教への視点であり、宗教からの政治への介入という視点ではない。

 

●内閣法制局の答弁から

内閣法制局は、

憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。— 自社さ連立政権における内閣法制局長官大森政輔の国会答弁趣旨

という見解を一貫して述べてきた。

 

 2008年10月7日衆議院予算委員会で、民主党の菅直人の「90年にオウム真理教の麻原氏を党首とする真理党が結成され、25人が立候補した。多数を占め、政治権力を使って教えを広めようとしたら、憲法第20条の政教分離の原則に反すると考えるがどうか」との質問に対し、内閣法制局長官および首相が違憲と答弁したが、翌10月8日に長官は「誤解を与える結果となったとすれば誠に申し訳ない」と陳謝のうえ「菅委員の質問の場合は、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないので、憲法第20条第1項後段違反の問題は生じない」との趣旨を再答弁した。

 

 法制局は法的に憲法解釈の権限をあたえられているわけではないが(違憲立法審査権をもつのは最高裁である)、政府の公式見解である。ただし近年においては、与党関係者から、内閣内で憲法解釈を担ってきたことへの批判が生じており、その地位および解釈は必ずしも保証されているわけではない。

 

2.6)宗教法人に対する非課税措置について

 宗教法人に対する非課税措置が「特権付与」に当たるかどうか議論がある。憲法上の疑義があるという見解も存在している。

 

 宗教法人は公益法人に属するが、他の公益法人も免税されているので、特に宗教法人だけが特権を付与されていることにはならないとし合憲としている。

 

 また、日本の法人税法がいう儲けとは配当金のことであり、法人擬制説に立って我が国の税法は運用され、法人税法等では株主などの構成員へ分配することが出来る剰余金配当(配当金)や、残余財産分配(みなし配当)に法人税などを課税し、法人自体にではなく配当金を貰う個人へ税を課している。

 

 宗教法人は、収益事業を行っている場合、公益事業へ組み込むための儲けが出せるので課税される。

 

 ただし、儲けは出せるが、その総ては法律で公益事業へ使わなければならず、一般企業のように個人へ配当することは出来ないので、その点で税率が軽減されている。

 

 しかし、宗教法人の本来事業である公益事業は、剰余金配当も、また、たとえ解散をしても残余財産分配が宗教法人には持分が全くないために法律上できず、法人税法などの主旨とは合わないので公益事業は非課税になっている。

 

 なお、法人の内部留保金については、役員や職員への給与、賞与等(もっとも言うまでもないが、宗教法人を含む公益法人からの給与と賞与などへは一般サラリーマンと同様に所得税などが課税されている)以外の資産は、法律どおり公益宗教活動、多くの文化財の保護、伝統と慣習の承継等の本来事業へ使わなければいけない。

 

 ただ、これらを実行するには多額の費用が掛かるため、教会、神社、寺院の宗教団体員は一丸となって費用捻出のため努力をしている。

 

 株式会社は、営利目的(配当金を生む目的)で設立され、剰余金配当や残余財産分配もでき、仮に公益活動を行っても剰余金配当などが出来るため課税される。

 なお、非課税措置については批判がある。

 

2.7)憲法改正の動きとの関係

 憲法改正論議では自民党などによって政教分離の緩和が検討されている。2005年10月28日に出された「自民党新憲法草案」が事実上の政教分離の緩和を目指しており、教育現場での神道教育の導入につながるのではないかという懸念がカトリック教会などから提示されている。成澤孝人は憲法調査会の議論にナショナリズムが現れていると批判した。恵泉バプテスト教会は「憲法改悪に反対する声明」を出した。

 

2.8)祭祀・お祭り・民俗宗教

 皇室の執り行う大嘗祭について。平成14年(2002年)7月に最高裁判示によると大分県の平松知事らが大嘗祭関連儀式に公人として参列し、日当などが公費から支出された件について、目的・効果基準から合憲判断を示し(7月9日)、同7月11日には鹿児島県の土屋知事らについての同様の訴えについても合憲判断を示した。

 

 神社の例大祭について。東京都世田谷区は、神社の祭に区幹部職員が参加して公費で玉串の奉納をしていたことを「憲法の政教分離の原則に疑念を生じさせる、不適切な行為であった」と認め、職員から公費の自主返納があったことが平成28年7月29日の区議会で報告された。この件に関する住民監査請求の勧告措置 への対応として、宗教法人等が行う祭礼に職員が公費で参加する場合は、宗教的色彩のある式典への参加はしないことになった。

 

 宗教法人が開催する節分会追儺式について。真言宗智山派の大本山である高尾山薬王院有喜寺が開催する節分会追儺式 に東京都主税局職員が職務命令で参加して電子申告制度の広報活動と称して護摩祈祷 と大本堂での豆まき後に、薬王院参道で「平成27年度 節分会追儺式 年男年女 修行者」として「八王子都税事務所長」と掲示が一年間あり、その様子を都税事務所が写真付き印刷物にして庁内および他の事務所で回覧させた事案について、東京高等裁判所は、護摩祈祷の間は職員は座布団に座っていたので受動的参加であり、豆をまけば電子申告制度の広報になる、薬王院の追儺式参加者の大多数は芸能人目当てで信仰心のある信徒はいないから世俗行事である、等の理由により政教分離に違反しないと判示した。

 

 文化財保護や地域の民俗史に関わる重要な有形・無形財産の保持にしばしば政教分離原則が関わった。地域の「お祭り」については戦後すぐから伝統的行事としての祭事に公金が一切支出されなくなり各地で混乱が発生した。

 

 GHQ統治時代に緑風会議員の議員立法により成立した「文化財保護法」では、国家神道体制を助長するような要素は極力排除された。1975年の改定による「民俗文化財」の創設について無形民俗資料とされたものの多くは神社に関わる祭礼行事であり戦後憲法の「政教分離」に抵触しかねないものばかりであった。

 

 文化庁は1999年4月から「伝統文化を生かした地域おこし」プロジェクトや1992年交付の「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」などから地域振興策としての「お祭り」を見直す方向にかじを切り、2000年11月には「ふるさと文化再興事業」として約20億円の予算配分がされた。

 

2.9)公教育と政教分離

 教育現場にも政教分離がしばしば関わる。公立学校では、例えば「修学旅行で伊勢神宮に"参拝"する」との表現はせず「伊勢神宮を"見学"する」との表現を用いたりする。

 

 旧教育基本法第9条は宗教的情操をはぐくむ教育を禁止していると解すべきだとの立場があり、一方で文部省教育局長通達などでは「宗教的感情の芽生えを伸ばす教材」を盛り込むことを指示しており、1977年以降では「超自然的な存在」「人間の力を超えたものへの畏敬」の観念を示しそれにもとづく道徳教育を実施している。

 

 この点は法改正のさい議論の対象となり 平成18年12月22日施行の新法では、宗教に関する一般的な教養は教育上尊重されるべきことを新たに規定された。

 

3)関連訴訟・凡例

①加持祈祷事件 - 1963年(昭和38年)5月15日 最高裁 合憲

・争点:宗教行為である加持祈祷の結果、人を死亡させた行為を処罰することは、憲法第20条第1項で禁止されているか。

 

・最高裁判決:他人の生命、身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使に当る宗教行為は、憲法第二〇条第一項の信教の自由の保障の限界を逸脱する。

 

②津地鎮祭訴訟 - 1977年(昭和52年)7月13日 最高裁 合憲

・争点:地鎮祭は、憲法第20条第3項で禁止されている宗教的活動か。

 

・最高裁判決:社会の一般的慣習に従った儀式を行うという世俗的なもので、宗教的活動にはあたらない。

 

③自衛官合祀訴訟 - 1988年(昭和63年)6月1日 最高裁 合憲

・殉職した自衛官について、隊友会の地方組織が自衛隊の事務協力を得て県護国神社へ合祀の申請をし、合祀されたが、自衛官の妻がこれを自衛官の意思に反するものと主張し、信教の自由や政教分離の原則に違反するとして、国と県連を相手に訴えを起こした。

 

・山口地裁:違憲。広島高裁:違憲。最高裁判決:合祀の申請は県連の単独で行われ、国は補助的であるため政教分離には違反しない。

 

④箕面忠魂碑訴訟 - 1993年(平成5年)2月16日 最高裁 合憲

・大阪地裁:違憲。大阪高裁:合憲。最高裁判決:宗教施設に該当しない。慰霊祭への参列も宗教的活動にはあたらない。

 

⑤宗教法人オウム真理教解散命令事件 - 1996年(平成8年)1月30日 最高裁 合憲

・争点:宗教法人法81条1項1号及び2号前段に規定する事由があるとしてされた宗教法人の解散命令は、憲法20条1項に違反するか。

 

・最高裁判決:解散命令は、専ら宗教法人の世俗的側面を対象とし、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容喙する意図によるものではなく、例え解散によってそれらに支障があったとしても、それは解散命令に伴う間接的で事実上のものであるにとどまる為、憲法20条1項に違背するものではない。

 

⑥剣道実技拒否訴訟 - 1996年(平成8年)3月8日 最高裁 原告勝訴

・公立の高等専門学校に在籍していた生徒が、宗教上の理由で必須科目の体育の剣道の実技への参加を拒否したことで、原級留置となりその後退学処分を受けた。そこで、その処分の取消しを求め、生徒本人と両親が訴えを起こした。

 

・争点:宗教的中立をとる公教育の場で、個人の信教の自由は、どこまで配慮されるのか。

 

・最高裁判決:信仰上の真摯な理由から剣道実技に参加できない学生に対し、レポートの提出等代替措置をとることは、第20条第3項の政教分離の原則に違反しない。

 

⑦愛媛県靖国神社玉串料訴訟 - 1997年(平成9年)4月2日 最高裁 違憲

・愛媛県は、靖国神社の例大祭やみたま祭りに玉串料等として公金を支出した。これに対し住民が知事らを相手取って住民訴訟を起こした。

・争点:靖国神社への玉串料の支出は、宗教的活動か。

・最高裁判決:宗教的活動にあたり違憲。

 

⑧空知太神社事件 - 2010年(平成22年)1月20日 最高裁 違憲

 

⑨孔子廟訴訟 - 2021年(令和3年)2月24日 最高裁 違憲

・砂川市・那覇市は市有地の土地使用料を徴収せず、特定の宗教団体へ無償提供する。これに対し不満を持つ他宗教の信者や住民らが市を相手取って住民訴訟を起こした。

 

・争点:市有地を宗教団体へ無償提供する行為は政教分離の原則に反するものではないか。

 

・最高裁判決:市の行為は宗教的活動に該当するため違憲。

 

⑩その他、1990年(平成2年)に行われた大嘗祭の知事参列等をめぐる公金支出をめぐって、各地の住民が住民訴訟を提起したが、いずれも合憲としている。


4 靖国神社問題


作業中

(1)概要


(引用:Wikipedia)

 靖国神社問題は、靖国神社をめぐって議論の対象となる各種の問題を指す。「靖国問題」と略称することが多い。

 

 靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ合衆国東インド艦隊の司令官ペリー来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。

 1877年(明治10年)西南戦争後は、日本を守護するために亡くなった戦没者慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。

 

 もとは幕末騒乱により死亡した志士の御霊を招魂し祭礼する一回性の儀式(招魂祭)として京都で実施されたものが定制化され、東京招魂社の設置となった経緯があり、一方で招魂の儀式そのものの神道上の教義問題や、どの御霊を招魂し合祀するかといった論点が当初からあり、靖国神社への再編改名の際には祭礼靖国神社および陸海軍省が実施するものとされ、天皇例大祭勅使を参向させることが定制と取り決められた。

 

 「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見がある一方、政教分離や、第二次世界大戦における日本の戦争行為について「侵略だったか自衛だったか」といった歴史認識、また同戦争において日本の行為によって損害を被った近隣諸国への配慮等といった観点から、政治家の参拝を問題視する意見がある。

 第二次世界大戦における日本の終戦の日である8月15日の参拝は戦争の戦没者を顕彰する意味合いがあるとされ、特に日本国内の左派や中韓の二国において議論が大きくなる。

 小野田寛郎は、日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった、としている。

 

 他方、戦争被害を受けた中国や、日本による支配(韓国併合)を受けた韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に批判反発している(諸外国の反応の詳細については後述の#日本国外の見解を参照)。

 もっとも、1979年4月にA級戦犯の合祀が公になってから1985年7月までの6年4月間、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が首相就任中に計21回参拝をしているが、1985年8月に中曽根が参拝するまでは、非難はされていなかった。

 1985年の参拝に対しては、それに先立つ同年8月7日の朝日新聞『靖国問題』を報道すると、一週間後の8月14日、中国共産党政府が史上初めて公式に靖国神社の参拝への非難を表明した。一方で、戦没者を慰霊追悼・顕彰するため、外国の要人も訪れている。

 

 なお、戦没者を慰霊追悼・顕彰するための施設及びシンボルとする解釈が現在だけでなく戦前からも一般的だが、神社側としては「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」場所、および「日本の独立を誓う場所」との認識が正しいとのことである


(2)争点


(引用:Wikipedia)

 争点の具体的な論点としては以下の6つにまとめられる。

 

①信教の自由に関する問題

 日本国憲法においては、第20条第1項において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と定められている。

 

 参拝を望むなら、たとえ大臣・官僚であっても国家権力によって靖国神社への参拝を禁止・制限することができないこと、また参拝を望まない人が国家によって靖国神社への参拝を強制されないこと、 両方の側面を含む。

 

②政教分離に関する問題

 靖国神社を国家による公的な慰霊施設として位置づけようとする運動があり、及びそれに付随して玉串奉納等の祭祀に関する寄付・奉納を政府・地方自治体が公的な支出によって行うことなどに関し、日本国憲法第20条が定める政教分離原則と抵触しないかとする問題。

 

 これを問題とする人々は、内閣総理大臣・国会議員・都道府県知事など公職にある者が公的に靖国神社に参拝することが、第20条第1項において禁止されている宗教団体に対する国家による特別の特権であると主張している。

 

③歴史認識に関する問題

 靖国神社は、戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているのだから、そのような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社の第二次世界大戦に対する歴史観を公的に追認することになる、として問題視する意見が存在する。そういった立場からは、日本の閣僚は同戦争における対戦国に配慮し靖国神社に対する参拝を禁止・制限あるいは自粛すべきとする主張がある。

 

 日本人が同戦争における戦争責任をどのように認識し、敗戦以前の日本の軍事的な行動に対していかなる歴史認識を持つことが適切であるか、という論点を中心に展開され、特に極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀が適切か否かの議論がある。

 

 対外的には、第二次世界大戦における交戦相手国である中国(中華民国)、また第二次世界大戦の開戦より数十年前に日本に併合されていた朝鮮半島諸国の国民に不快感を与え、外交的な摩擦も生むこともある靖国神社への参拝が適切かどうか、という論点を中心に展開される。

 

 なおこの中韓及び北朝鮮以外の国からは、首相や閣僚の靖国神社参拝に対して公式に批判を受けることはない。

 

 また、遊就館には歴史年表が掲示されているが、日本国憲法制定に関する記述(1946年11月3日公布、翌1947年5月3日施行)がなく、一方で “ ポツダム宣言受諾拒否 ” が明記されている。

 

④戦死者・戦没者慰霊の問題

 特に十五年戦争における日本軍軍人・軍属の戦死者(戦病死者・戦傷死者を含む)を、国家としてどのように慰霊するのが適切であるか、という問題。

 

 戦後靖国神社が国家による慰霊施設から宗教団体として分離されたために日本には戦死軍人に対する公的な慰霊施設が存在しないが、靖国神社を戦前に近いかたちで国家管理して位置づける、あるいは慰霊のための新たな施設を整備するという意見がある。遺族の同意を得ないまま同社に合祀されることがあることにも異議が出ている。

 

⑤A級戦犯に対する評価の使い分け

 A級戦犯として靖国神社に合祀されるか合祀されないか差異は、死刑の執行・服役中の死亡・勾留中の死亡により、遺体として刑事施設から社会に戻ったか、恩赦による刑の執行終了・裁判の中止・不起訴処分により、生きて社会に戻ったかの差異だけである。

 

 起訴され(28名)有罪宣告された25名のうち生きて社会に戻ったA級戦犯から重光葵は衆議院議員に3回選出され鳩山一郎内閣で4回目の外務大臣まで務めており、また戦犯指名されたものの不起訴となった者のなかからは衆議院議員に5人が選出され、国務大臣に5人が任命され、内閣総理大臣に1人が選出されている。

 

 この中には在職中等の貢献により国家より受勲されたものが多数いる。これに対して刑の執行や拘置中の病死などにより死亡し、刑事施設から遺体として社会に戻された者に対しては日本政府と日本国民が永久に糾弾し続けるべき対象者と評価するべきであるのかどうか、評価の使い分けの基準は全く説明されていない。

 

 また、この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であって、これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある。

 

⑥宗教的合理性と神道儀軌に関する問題

 死を確定させる儀礼とする説もある神社神道の遷霊では、木主・笏・鏡・幣串が用いられ、基本的には1柱ごとに諡を送って霊璽とすることが各派ほぼ共通の儀軌となっている。

 

 これに対して、戊辰戦争の戦没者を祀るに際しては霊璽簿を用い、諡を送らずに生前の名前をもって霊璽としたため、靖国神社は当初は招魂社として創建された。しかし、招魂社は招魂場(降霊場)であるために、後に「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」という政府側の要請で神社の格をとるに至った。

 

 しかし、この要請理由は宗教的合理性を転倒させた面があることは否めない。また、明治維新後に創建された他の神社も生前の名前を祭神の諡号としたため、神社神道を信仰する一般家庭でもそれに倣うケースが出始めた。

 

 この状況に危機感を募らせていた神社神道関係者は言論統制が解けた第2次世界大戦後に、そうした祭祀の方式は神社神道共通の基本的な儀軌に反するものであり、元々が合理性に欠けるものであるとする主張を行ったが、他の争点に掻き消されて『神葬祭 総合大事典』でも版を重ねるごとにトーン・ダウンしていった。

 

 いずれにしても、この争点は、朝日新聞だけではなく保守系の讀賣新聞などをも含んだマスコミと、靖国神社参拝派の政治家との間に起きた情念的とも言える争いのために、一般的にはほとんど知られていない。

 

2.1)政教分離政教分離を参照)

 靖国神社は大日本帝国時代の陸軍省・海軍省が共管し、戦争遂行の精神的支柱の一つであった国家神道の最重要の拠点であったため、終戦後直ちに廃絶の議論が起きた。

 

 このことについては日本を打ち破り占領した連合国においてもかねてから施設自体の棄却も視野に入れられていたが、GHQは早急に結論を下さず、まず1945年(昭和20年)12月15日に神道指令を発して国家神道を廃止すると共に靖国神社国家護持を禁じ、神社と国家の間の政教分離を図った。また、翌1946年(昭和21年)に制定された宗教法人法に基づき、靖国神社は同年9月に宗教法人となったことで自ら国家護持体制からの離脱を明確にした。靖国神社の非国家的宗教施設への変化を受けて、GHQは1951年8月28日の指令で靖国神社の存続を認めた。

 

 1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法第20条において下記のように信教の自由を保障し、政教分離原則を掲げている。

① 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

 1951年(昭和26年)サンフランシスコ平和条約締結・翌1952年(昭和27年)の発効によって連合国の占領が終わって日本は主権を回復し、連合国占領期間中は実質的に封印された状態となっていた靖国神社に関する議論は憲法の合憲・違憲を巡る問題へと移行し、主に上記第20条第1項および第3項に基づいた問題点が賛否両面から指摘されていくこととなる。

 

 なお、占領下の1949年(昭和24年)に出された国公立小中学校靖国神社訪問などを禁じた文部事務次官通達について、2008年(平成20年)3月27日の参議院文教科学委員会で渡海紀三朗文部科学相は同通達が「既に失効している」と明言した。

 

●靖国神社法案詳細は靖国神社法案を参照)

 靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとする靖国神社法案が1969年(昭和44年)に議員立法案として自由民主党から提出されたことで神社の政教分離に関する議論が再燃した。

 

 これ以降、毎年の法案提出と廃案を繰り返した後、1973年(昭和48年)に提出された法案が審議凍結などを経て1974年(昭和49年)衆議院で可決されたものの参議院では審議未了・廃案となる。これを最後とし法案上程が止むまで、靖国神社法案が靖国神社問題における政教分離の課題で最大のものとなった。

 

 この後、政教分離原則に抵触するか否かの議論は、政府・地方自治体による靖国神社への公費支出を伴う玉串(または玉串料)奉納や、首相をはじめとする政府閣僚地方自治体首長らの参拝に関するものへと焦点が移っていく。

 

 靖国神社に反対する立場からは、靖国神社への参拝は政教分離に反するという見解が示されることがある。総理大臣が他の宗教法人、明治神宮や伊勢神宮に参拝しても、問題がないとは言えず、さらに、靖国神社への参拝は「A級戦犯合祀」の問題も絡んでいる。

 

2.2)信教の自由

 1889年、大日本帝国憲法第28条では「信教ノ自由」を記載したが、明治政府は神社神道「国家の祭祀」であり宗教ではないとし、臣民の義務とした(いわゆる国家神道)。1891年、植村正久はキリスト教徒靖国神社参拝問題を提起した。更に1931年、上智大生靖国神社参拝拒否事件が発生した。

 

 1946年、靖国神社は宗教法人となり、1947年の日本国憲法第20条では信教の自由政教分離原則が規定された。このため1964年以降の靖国神社法案は、国家護持の代わりに宗教色を薄める案となり、議論となった。

 

 靖国問題に関する訴訟では、原告側の多くは玉串料の公費支出や、首相などの参拝、遺族側の意思に沿わない合祀政府による合祀への協力などを、信教の自由や政教分離原則に対する侵害であると主張している。

 

 これに対して靖国神社側などは、社会一般に認められた範囲内であり合憲である、神社側にも宗教の自由があり国からの強制は受けない、合祀は遺族の不利益とは言えない、などと主張している。

 

 これに対し司法は、遺族に無断での合祀が「耐え難い苦痛」と認めながらも、靖国神社側の宗教行為の自由や霊璽簿等の非公開を理由に、靖国神社側の行為は違法と言えないと棄却したが、合祀に国が協力した行為は政教分離原則違反で違憲であると判断している。

 

 また日本では、信教の自由は、「何人に対しても」これを保障するとされているため、政治家であっても宗教および思想について制限を加えることができないとする考え方が一般的であり、司法判断においても私的参拝を憲法違反としたものはない。

 

 但し首相の靖国参拝について、これは公式参拝であり故に国民の宗教人格権を侵害していると裁判で争われた。その中で地裁・高裁レベルで公的参拝だと傍論で判断されているものはあるが、国民の宗教人格権の侵害については認めず、いずれの判決でも賠償請求を棄却している(詳しくは靖国問題に関する訴訟を参照)。

 

2.3)宗教性

 日本では、宗教性の有無に関して「参拝は宗教的行為ではなく、習俗的行為であるから政教分離原則には抵触しない」とする主張と、「参拝は宗教的行為であるから問題である」とする主張が対立している。

 

 玉串料などを公費で支出することについては最高裁に於いて違憲判決が確定している。 首相の公式参拝について、神道形式に則った参拝が「憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」という認識は1980年(昭和55年)の政府見解でも確認されたが、後の1985年(昭和60年)中曽根康弘内閣当時に発足した「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」は「宗教色を薄めた独自の参拝形式をとる事により公式参拝は可能」と判断、その方法であれば「首相の参拝は宗教的意義を持たないと解釈できる」とし、「憲法が禁止する宗教的活動に該当しない」との政府見解が出された。

 

 首相の参拝行為の宗教性について幾つかの裁判で争われている。最高裁では憲法判断は成されていないが、地裁・高裁では傍論において公的参拝において違憲という判断がされている。公的参拝が合憲という判断は司法のいずれのレベルに於いてもこれまでされたことはない。

 

2.4)公人における公私の区別

 公人においても公私を区別するべきだという論点がある。これは第66代総理であった三木武夫が1975年(昭和50年)8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った。

 

 これに対し靖国神社法案を断念した神社本庁および日本遺族会は、「英霊にこたえる会」を結成して、「首相や閣僚による公式参拝」を要請する運動を展開する。

 

 靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年(昭和60年)の参拝が訴訟の対象となり(後述)、1992年(平成4年)の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈の問題となっている。

 

 「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。

 

 「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。

 

 一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為は公人としてのそれであり、政教分離原則に抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為は私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社に実質的に利益を与えるものだ」として問題があるとしている。

 

 第87 - 89代総理・小泉純一郎は、2001年(平成13年)8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。但し福岡地裁の判決後は私的参拝であると表明している。 小泉純一郎首相による参拝以降、参拝客が急増した現象についてはマスメディアの報道が大きく影響しているとの意見もある。

 

3)靖国問題に関する訴訟

 靖国問題を取り上げた主要な訴訟としては、玉串料公費支出訴訟首相公式参拝訴訟合祀取消訴訟などがある。 

 

3.1)玉串料公費支出訴訟

 住民訴訟として争われた訴訟類型のものである。

 

●岩手県靖国神社訴訟(詳細は岩手県靖国神社訴訟を参照)

 1979年(昭和54年)12月19日、岩手県議会が国に靖国神社公式参拝を実現するよう意見書を採択し、政府に陳情書を届けたことと、1962年(昭和37年)から靖国神社の要請で玉串料や献灯料を支出していたことは、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが提訴した。

 

 1987年(昭和62年)3月5日、盛岡地方裁判所は合憲判決を示し、住民らの訴えを全面的に退けた。1991年(平成3年)1月10日、仙台高裁(糟谷忠男裁判長)は、判決主文にて住民側の控訴に対して被告の岩手県への公費返還請求を棄却したが、公式参拝・玉串料公費支出は違憲であるという傍論を示した。

 

 勝訴したが違憲とされた県は、違憲とする傍論が示されたのは不利益で、最高裁で判断を仰ぐ必要があるとして上告した。仙台高裁は不適法として却下した。県は高裁の決定を不服として特別抗告したが、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として棄却した。

 

●愛媛県の玉串料訴訟詳細は愛媛県靖国神社玉串料訴訟を参照)

 愛媛県知事が靖国神社に対し玉串料を「戦没者の遺族の援護行政ために」毎年支出した事に対し、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが求めた。1審の松山地方裁判所は違憲判決、2審の高松高等裁判所は「公金支出は社会的儀礼の範囲に収まる小額であり、遺族援護行政の一環であり宗教的活動に当たらない」として合憲判決を示した。しかし、1997年(平成9年)最高裁判所は政教分離原則の一つとなった目的効果基準により違憲判決を出し、確定した。

 

3.2)首相公式参拝訴訟

 国賠訴訟として争われた訴訟類型のものである。

 

3.2.1 )中曽根首相公式参拝訴訟

 中曽根康弘首相(当時)が1985年(昭和60年)8月15日に公式参拝したことに対する訴訟である。最高裁は、かかる公式参拝は憲法20条3項、同89条に違反する疑いがあるとしたが、本件公式参拝が憲法に違反するとしても、法律上、保護された具体的な権利ないし法益の侵害を受けたことはないし、また、慰謝料をもって救済すべき損害を被ったこともなく、損害賠償を求めることはできないとした。

 

 中曽根は首相在任中に10回にわたり参拝しているが、1985年(昭和60年)8月14日に、正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しないとこれまでの政府統一見解を変更し、1985年(昭和60年)に閣僚とともに玉串料を公費から支出する首相公式参拝を行った

 

 中曽根は1985年(昭和60年)8月15日以後は参拝をしていないが、その理由について翌1986年(昭和61年)8月14日の官房長官談話において、公式参拝が日本による戦争の惨禍を蒙った近隣諸国民の日本に対する不信を招くためとしている。中曽根は後に、自身の靖国参拝により中国共産党内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという示唆があり、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」と述べている。

 

●九州靖国神社公式参拝違憲訴訟

 1992年(平成4年)2月28日、福岡高等裁判所は、九州靖国神社公式参拝違憲訴訟で、目的効果基準により公式参拝の継続が靖国神社への援助、助長、促進となり違憲と判示した。

 

●関西靖国公式参拝訴訟

 1992年(平成4年)7月30日には、大阪高等裁判所が、関西靖国公式参拝訴訟で、公式参拝は一般人に与える効果、影響、社会通念から考えると宗教的活動に該当し、違憲の疑いありと判示した。

 

3.2.2)小泉首相参拝訴訟

 小泉純一郎首相(当時)が2001年(平成13年)8月13日に秘書官同行の上公用車で靖国神社を訪れ「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳、献花代3万円を納め参拝した。

 

 この参拝に対する訴訟では地裁・高裁判決において公的参拝判断がなされた時に違憲判断がされたケースがあったが、傍論で述べられたものであり主文で原告敗訴としているので、政府はこのことを不満として上訴することができないと判断し、原告も上訴しなかった為判決は確定した(傍論#下級裁判所における「ねじれ判決」を参照のこと)。

 

 原告側が上告した裁判では、最高裁が憲法判断を避けたため、憲法判断がされることはなかった。地裁・高裁判決においても公的参拝が合憲だとされたケースはない。賠償請求についてはいずれも棄却されている。福岡地裁判決を受けた小泉首相は記者団の質問に「私的な参拝と言ってもいい」と語り、公私の区別をあえてあいまいにしてきた従来の姿勢を転換させた。

裁判所 判決年日 参拝は公的か私的か 憲法判断 賠償請求
大阪地裁(一次) 2004年2月27日(村岡寛裁判長) 公的 ×
松山地裁 2004年3月16日(坂倉充信裁判長) ×
福岡地裁 2004年4月7日(亀川清長裁判長) 公的 違憲 ×
大阪地裁(二次) 2004年5月13日(吉川慎一裁判長) 私的 ×
千葉地裁 2004年11月25日(安藤裕子裁判長) 公的 ×
那覇地裁 2005年1月28日(西井和徒裁判長) ×
東京地裁 2005年4月26日(柴田寛之裁判長) ×
大阪高裁(一次) 2005年7月26日(大出晃之裁判長) ×
東京高裁 2005年9月29日(浜野惺裁判長) 私的 ×
大阪高裁(二次) 2005年9月30日(大谷正治裁判長) 公的 違憲 ×
高松高裁

2005年10月5日(水野武裁判長)

×

(引用:Wikipedia)

●福岡地方裁判所判決

 2004年(平成16年)4月7日福岡地方裁判所(裁判長亀川清長)は原告の損害賠償請求を棄却した。しかし傍論において首相の参拝について政教分離に違反し違憲と述べた。総理大臣の公式参拝を傍論で違憲とする判断は1991年(平成3年)の仙台高裁判決に次いで二例目であった(下級裁判所が傍論で違憲を論じる問題点については傍論#下級裁判所における「ねじれ判決」を参照)。

 

 2004年(平成16年)10月21日、福岡地裁判決が傍論において「参拝は違憲」としたことに対し、国民運動団体「英霊にこたえる会」(会長:堀江正夫元参院議員)が国会の裁判官訴追委員会に裁判を担当した3裁判官の罷免を求める訴追請求状6036通を提出した。請求状によれば、訴追理由について「判決は(形式上勝訴で控訴が封じられ)被告の憲法第32条『裁判を受ける権利』を奪うもので憲法違反」、「政治的目的で判決を書くことは越権行為。司法の中立性、独立を危うくした」としている(弾劾裁判も参照)。

 

●千葉地方裁判所判決

 千葉県内の戦没者遺族や宗教家ら39人からなる原告は、この参拝は総理大臣の職務行為として行なわれており、政教分離を定めた憲法に違反すると主張。小泉首相と国に1人当たり10万円の損害賠償を求めていた。

 

 2004年(平成16年)11月25日、千葉地方裁判所(裁判長:安藤裕子)は、参拝は公務と認定し、原告の慰謝料請求を棄却した。判決では、公用車や内閣総理大臣の肩書きを用いたりしているため、参拝は客観的に見て職務であると認定し、また公務員個人には国家賠償法における責任はないとした。

 

 また「信教の自由や、静かな宗教的な環境で信仰生活を送るという宗教的人格権を侵害された」として慰謝料の支払いを求めた原告側に対し、「信仰の具体的な強制、干渉や不利益な扱いを受けた事実はなく、信教の自由の侵害はない。宗教的人格権は法的に具体的に保護されたものではない」として退けた。

 

●東京高等裁判所判決

 2005年(平成17年)9月29日、東京高等裁判所(浜野惺(しずか)裁判長)は1審の千葉地裁判決を支持、原告側控訴を棄却した。ただし1審千葉地裁判決は、首相の参拝を「職務行為」と認定したが、この2審判決では、参拝は小泉首相の「個人的な行為」と認定した。また、参拝は職務行為ではないため、原告側主張は前提を欠くとした。以下、判決理由。

 

① 神社本殿での拝礼は、個人的信条に基づく宗教上の行為、私的行為として首相個人が憲法20条1項で保障される信教の自由の範囲。故に礼拝行為が内閣総理大臣の職務行為とは言えない。

 

② 献花代は私費負担。献花一対を本殿に供えた行為は、私的宗教行為ないし個人の儀礼上の行為。いずれも個人の行為の域を出ず、首相の職務行為とは認められない。

 

③「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した行為は、個人の肩書を付したに過ぎない。

 

④ 神社参拝の往復に公用車を用い、秘書官とSPを同行させた点。総理大臣の地位にある者が、公務完了前に私的行為を行う場合に必要な措置。これをもって一連の参拝行為を職務行為と評価することは困難。

 

⑤ 1982年4月17日の閣議決定により、毎年8月15日が「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされ、2001年8月15日も全国戦没者追悼式が実施。しかし参拝は13日であり、政府追悼式と一体性を有さない。

 

※ 2005年9月29日付け『東奥日報』掲載「靖国訴訟判決要旨」(共同通信配信)に加筆修正。

●大阪高等裁判所判決(二次)

 2005年(平成17年)9月30日、大阪高等裁判所(大谷正治裁判長)は小泉首相の参拝をめぐる訴訟としては高裁段階で初の違憲判断を示した。

 

 判決は、参拝は「総理大臣の職務としてなされたものと認めるのが相当」と判断。さらに、参拝は「極めて宗教的意義の深い行為」であったと認定し違憲と結論付けた。

 

 一方で、信教の自由などの権利が侵害されたとは言えないとして、賠償は認めなかった。原告は上告せず、判決は確定した。

 

3.3) 遺族による合祀取消訴訟

 遺族による靖国神社合祀取消訴訟(霊璽簿等抹消訴訟)には以下などがある。

 

3.3.1 )大阪訴訟

 2006年8月、合祀された戦没者の遺族である浄土真宗本願寺派僧侶の菅原龍憲ら8名、およびカトリック司祭の西山俊彦が、靖国神社及び国に対して合祀取消と損害賠償を求めて訴訟した。菅原龍憲らは訴状で「敬愛追慕の情を基軸とする人格権」への侵害などを主張した。西山俊彦は「信教の自由」への侵害などを主張した。

 

 2010年12月、大阪高裁は菅原龍憲らによる控訴に対し、遺族に無断での合祀が「耐え難い苦痛」と認めながらも、靖国神社側の宗教行為の自由や霊璽簿等の非公開を理由に、靖国神社側の行為は違法と言えないと棄却したが、合祀に国が協力した行為は政教分離原則違反で違憲であると判決した。2011年11月、最高裁により確定した。

 

3.3.2)沖縄訴訟

 合祀された戦没者の遺族5名が、靖国神社及び国に対して、合祀取消と損害賠償を求めて訴訟した。2010年10月、那覇地裁は原告の請求を棄却した。

 

 2011年9月、福岡高裁での控訴審では、原告が「合祀を受け入れがたいことは理解し得る」としつつも、「神社の教義や宗教的行為は、他者に対する強制や不利益の付与がない限り、信教の自由として保障される」と判示した。

 

3.3.3)韓国人遺族による訴訟

 2011年7月、日本人軍人・軍属として徴用され戦死した韓国人遺族が合祀取消と損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は原告敗訴の判決を行った。

 

 また上記とは別の訴訟で、2011年11月、日本人軍人・軍属として徴用され戦死した韓国人遺族が合祀取消と損害賠償を求めた訴訟で、最高裁は上告棄却(原告敗訴)の判決を行った。

 

4)天皇の親拝問題

昭和天皇の靖国神社親拝(1934年)(引用:Wikipedia)

 

 昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度(1945年11月20日臨時大招魂祭・1952年10月16日・1954年10月19日例大祭・1957年4月23日例大祭・1959年4月8日臨時大祭・1965年10月19日臨時大祭・1969年10月20日創立100年記念大祭・1975年)靖国神社に親拝したが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、親拝を行っていない。

 

 この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたからという仮説があったが具体的な物証は見つかっていなかった。しかし、宮内庁長官を務めた富田朝彦が1988年(昭和63年)に記した「富田メモ」、及び侍従の卜部亮吾による「卜部亮吾侍従日記」に、これに符合する記述が発見された。平成時代も天皇による親拝中止は続いていた。なお、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。

 

 戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言。同年を最後に天皇の親拝が行なわれなくなったのは、この三木の発言が原因であると言われていた。しかし、2006年になって「富田メモ」に、昭和天皇がA級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかった。以下は該当部分。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡白取までもが

筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている

だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ

 日本経済新聞社「富田メモ研究委員会」は「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。

 

 他の資料として有名なものに卜部亮吾侍従日記がある。

・1988年4月28日の日記には「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」

 

・2001年7月31日の日記には「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」

 

・2001年8月15日の日記には「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」

と記述されている。

 

 富田メモ以降、合祀問題を原因とする解釈が現在のところは有力ではないかとされる事が一般的には多い。また、徳川義寛侍従長の回顧録などによれば、昭和天皇や宮内庁は、松岡洋右(外交官)、広田弘毅(外交官)、白鳥敏夫(外交官)ら文人の合祀に疑問を呈しており、その中でも松岡洋右は「日米開戦の張本人」として特に問題視されている。

 

 天皇が親拝を止めた原因をA級戦犯の合祀とする見解への反論も存在する。

 櫻井よしこは、メモに「Pressの会見」と題がつけられ、富田と覚しき人物が「記者も申しておりました」と会見での記者の反応も書き記していることから、記者会見のメモだと思われるとし、メモ執筆当日の4月28日に昭和天皇が会見していない事実を挙げ、富田が書きとめた言葉の主が、昭和天皇ではない別人の可能性もあると主張している。

 

 また、『産経新聞』は、「昭和天皇がA級戦犯の何人かを批判されていたとの記述があったとしても、いわば断片情報のメモからだけで、合祀そのものを“不快”に感じておられたと断定するには疑問が残る」「合祀がご親拝とりやめの原因なら、その後も春秋例大祭に勅使が派遣され、現在に至っていることや、皇族方が参拝されていた事実を、どう説明するのか」という疑問を呈している。

 

 昭和天皇の側近で、戦後「A級戦犯」に指定された木戸幸一元内大臣に対し昭和天皇が、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と述べたとの記述が『木戸日記』にあり、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常によれば、昭和天皇はポツダム宣言受諾に関する御前会議(8月9日~10日)において、次のように発言した。

わたしとしては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと堪えがたいことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍びがたいことをも忍ばねばならぬと思う。— 御前会議

 

5)合祀の問題#霊璽簿も参照)

5.1)日本人遺族の合祀への異議#遺族による合祀取消訴訟も参照)

 訴訟以外では1968年以降のプロテスタント牧師・角田三郎、および「キリスト教遺族の会」による「霊璽簿抹消要求」があるが、靖国神社は要求を拒否し、その際に池田良八権宮司が「天皇の意思により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意思にかかわりなく行われたのであるから抹消をすることはできない」と説明した。これは以後、同様の要求に対する靖国神社側の一貫した対応となった。

 

5.2)A級戦犯合祀問題(詳細はA級戦犯合祀問題を参照)

 第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において処刑された人々(特にA級戦犯)が、1978年(昭和53年)10月17日に国家の犠牲者『昭和殉難者』として合祀されている。

 

5.3)旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀

 第二次大戦期に日本兵として戦った朝鮮人日本兵や台湾人日本兵(軍属を含む)も多数祀られているが、中には生存者が含まれていたり、遺族の一部からは反発も出ている。

 

 2001年(平成13年)6月29日、韓国や台湾の元軍人軍属の一部遺族計252名が、日本に対し戦争で受けた被害として24億円余の賠償金を求めた裁判(原告敗訴)で、原告の内55人は「戦死した親族の靖国神社への合祀は自らの意思に反し、人格権の侵害である」として、合祀の取り消しを求めた。

 

 2003年2月17日には、小泉靖国参拝・高砂義勇隊合祀反対訴訟の原告団長として高金素梅・台湾立法委員が代表となり訴訟を起こした(なお、合祀に対する台湾人内部の見解の相違については、台湾国内の微妙な政治的問題も相俟っているとの指摘もなされている)

 

 「親族の意に反した合祀は日本によるアジア侵略の象徴である」との批判がある一方、「英霊として日本人と分け隔てなく祀ることは日本だけでなく台湾や朝鮮の元軍人軍属への最大級の敬意の現れであり、日本の台湾や韓国における統治政策が欧州各国による東南アジア植民地政策とは一線を画していたことを示すものだ」とする意見もある。

 また、合祀しなかった場合、日本人は台湾・韓国人元軍人軍属を平等に扱わなかったと別の面で批判されるとの指摘もある。

 

5.4)旧幕府軍・西郷軍 合祀問題

 徳川康久宮司が、合祀は「無理」としながらも「向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」と発言したことを受けて、明治維新や西南戦争で賊軍とされた旧幕府軍や奥羽列藩同盟、西郷隆盛らの戦死者も立場は違えど国の為を思い命を落としたのだから靖国神社に合祀すべきであると亀井静香や石原慎太郎らが運動している。

 

6) 問題解決への提案

 いわゆる靖国神社問題への解決案としては、多数の立場・観点から、多数の提案や議論が行われている。

 

6.1) 靖国神社廃止案

 1945年10月13日、石橋湛山は『東洋経済新報社論』で「靖国神社廃止の議」を発表した。石橋は、靖国神社を「我が国に取っては大切な神社であった」としながらも、「我が国の国際的立場」、今後の祭祀祭典の実現可能性、国民の感情、「少なくとも満州事変以来軍官民の指導的責任の位地に居った者」の責任などを列挙し、靖国神社の廃止を主張した[48][49]。

 

6.2)A級戦犯分祀案

A級戦犯合祀に対しては、A級戦犯の国際的および国内的な扱い、靖国神社による合祀の妥当性、合祀取消としての「分祀」の可能性や是非、靖国神社側の自主的な対応の可能性、国から靖国神社への要求の可能性、などが議論となっている。

 

●A級戦犯の扱い(詳細は「A級戦犯#名誉の回復」」を参照)

 いわゆるA級戦犯は、極東国際軍事裁判で戦争犯罪人と判決確定し、その後日本政府はサンフランシスコ講和条約 を結び、その第11条において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とあり、国際的(日本を含む)には戦争犯罪人であることは確定している。

 

 その発効後1952年6月以降、条約の第11条に基づいて極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府と交渉し、国会決議等により服役中の受刑者に対する恩赦と刑の執行終了・釈放の合意を形成し、生存していたA級戦犯者10名を含め全員を恩赦により刑の執行を終了し釈放した。

 

 但し刑期満了者は恩赦・減刑のしようがなく、靖国神社に合祀されている14名のうち死刑により刑の執行が満了している者7名(うち松井はB級戦争犯罪として)、収監中に死亡した者7名については死亡により権利能力を喪失したため恩赦・減刑の対象にはなり得ない(恩赦・減刑とは無罪とすることと異なる為)

 

 1952年、恩給法改正では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、戦犯拘禁中の死者はすべて「法務死」とされた。

 

 1978年(昭和53年)秋、靖国神社にいわゆるA級戦犯が「昭和殉難者」として合祀された。翌1979年4月19日に新聞各紙が合祀を一斉に報道した。また2005年10月25日の衆議院において、当時の小泉内閣は、政府は第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷の判決により、A級・B級・C級の戦争犯罪人として有罪判決を受けた軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と回答し、戦犯の名誉回復については「名誉」および「回復」の内容が明確ではないという理由で回答を避けた。

 

 上記経緯の解釈として、以下を含めた議論が続いている。

・極東国際軍事裁判や判決は公正であったか。いずれにしても戦争責任は無いのか。

 

・サンフランシスコ講和条約は、裁判全体を受諾したのか、単に判決結果のみを受諾したのか。

 

・恩給法改正は、単なる遺族救済なのか、本人が名誉回復されたのか。

 

・昭和天皇はA級戦犯合祀に不快感を抱いたかどうか(富田メモの解釈)

 この国際的な意味での戦争犯罪人であることと、国内的には法務死とされていること、この齟齬が国内外でのA級戦犯合祀に対する認識の差になっている側面がある(但しA級戦犯であった者でもその後国内外で活躍した者もいる)。その側面の解決の方法として提案されているものである。

 

 A級戦犯合祀を不当または不適当とする立場からは、「合祀取消」による現状復旧案として分祀または廃祀案がある。

 

●靖国神社の意見

 靖国神社側はA級戦犯分祀案について「神道では分祀では分離できない、神はひとつになっており選別もできない」として、神道における分祀(分霊)とは、全国に同じ名前を冠する神社があちらこちらにあるように、ある神社から勧請されて同じ神霊をお分けする事であり、元の祭神と同一のものがまた別に出来上がること(いわゆるコピー)なので「分離」にはならない。また、一旦合祀した個々の神霊を遷すことはありえない。仮に全遺族が分祀に賛成しても分祀出来ないと答えている。

 

●他の意見

・1979年、春の例大祭で総理大臣大平正芳は参拝し、「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものに対する審判は歴史がいたすであろう」と答えた。

 

・戦後の靖国神社は一民間の宗教法人であり、どのような考え方で祭祀を行っても自由であり、国家や政治が介入して分祀を迫ることは、政教分離の原則に反しできない。1986年には神道政治連盟が分祀要請は憲法違反として抗議した。

 

・哲学者の高橋哲哉は靖国神社は他の神社と異なるし、分祀の拒否は「日本の神社神道の古来の伝統ではない」として、分祀は不可能ではなく、靖国神社と遺族がそれを了承すれば済むと主張している。ただし、高橋はA級戦犯の分祀は戦争責任問題を矮小化するものであり、A級戦犯をスケープゴートにすることは昭和天皇が免責された東京裁判と構図が瓜二つであるとも批判している。また高橋は、野中広務内閣官房長官(当時)が1999年8月に「誰かが戦争の責任を負わなくてはならない」という発言についても戦争責任問題を矮小化する発言であり、その場の状況に流されて発言したことは御都合主義として批判している。また毎日新聞は分祀とは「祀る対象から外す」ことであり、可能だと主張している。

 

・2006年に韓国の聯合ニュースは、仮にA級戦犯を外す事ができても、政治問題化が解消しないならば、意味が無いと主張した。

 

・2015年8月に、靖国神社は共同通信社の質問に対して「自衛官が戦死しても靖国神社に祀ることはしない」と回答した。

 

6.3) 国立追悼施設の設置

 国家的な常設の戦没者追悼施設は必要だが、靖国神社では歴史的・宗教的・国際的などの問題があると考える立場からは、靖国神社に代わる国立の追悼施設を設置するという提案されており、それへの反対意見を含め、議論が存在している。

 

 靖国神社は常設の施設であるが、戦後は一宗教法人であり、国立ではなく、神道の神社であり、戦前の国家神道や戦後のいわゆるA級戦犯合祀問題への議論が存在している。靖国神社を国家管理の施設に復活させる案として靖国神社法案が国会に提出されたが、宗教色を薄める内容への反対もあり廃案となった。A級戦犯の「分祀」は「不可能」として靖国神社が拒否している。

 

 隣接する千鳥ケ淵戦没者墓苑は国立の無宗教形式の施設であるが、納められているのは引き取り手がない無名戦士の遺骨のみであり、戦死者全体を追悼・慰霊する場ではない。

 

 1952年以降、全国戦没者追悼式が毎年開催され、特定の宗教によらない形で天皇、内閣総理大臣、衆参議長、最高裁判所長官なども出席している。対象は民間の空襲被災者なども含むが、常設の施設ではない。なお1964年は靖国神社で開催されたがスペースの問題もあり、以後は日本武道館で開催されている。

 

 以上の現状を前提に、国が公式に戦士・戦没者を追悼する常設の施設が必要との立場からは、新たな国立追悼施設が必要との意見があり、その中には千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充案もある。なお国立追悼施設設置論は靖国神社廃止論ではない(そもそも民間の一宗教法人を国家が廃止するなど信教の自由上不可能である)

 

 ただし現在、民間の一宗教法人である靖国神社に国家の公式の追悼・慰霊の役割を担わせることそのものは、津地鎮祭訴訟で示された目的効果基準に照らし政教分離の原則に反し憲法違反である(愛媛県靖国神社玉串料訴訟)

 

 公明党は「日本国民も外国要人も天皇陛下もわだかまりなく、心から戦没者を追悼できるような施設のあり方を検討してもいいのではないか」と「国立追悼施設」に賛成している。 

 

 2001年、小泉純一郎政権時代に首相官邸において、戦没者追悼施設の在り方、必要性、既存施設との関係について議論するため「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が設けられ、2002年に報告書が出された。また2005年、超党派の議員連盟の国立追悼施設を考える会が発足した。

 

 なお、他国の国立追悼施設にはアメリカ合衆国のアーリントン国立墓地他にイギリス連邦のコモンウェルス戦争墓地委員会、中華人民共和国の人民英雄紀念碑、韓国の国立ソウル顕忠院戦争記念館 (韓国)、北朝鮮の愛国烈士陵、インドネシアのカリバタ英雄墓地などがある。戦争祈念施設も参照

 

 アメリカ合衆国のアーリントン国立墓地は南北戦争時に作られたが、北軍南軍双方の兵士が埋葬されている。国が決めた埋葬基準を満たした中での希望者が埋葬され、敷地内の教会はキリスト教だが、埋葬や慰霊・追悼の際には、キリスト教形式に限らずどの宗教形式でも、あるいは無宗教の形式でも、本人や遺族が自由に選択できる。

 

 一方、靖国神社は東京招魂社として戊辰戦争後に作られたが祀られているのは維新政府軍のみであり、幕軍側や旧士族の反乱(西南戦争など)の死者などは祀られていない。

 

 現在は民間の一宗教法人であり、国との公的関わりはなく、生前の本人の宗教信仰に関わりなく合祀されるが、合祀の形式は神道形式に限られる。その祀られる基準は靖国神社が定め、事前に遺族などに合祀の同意を求めず、遺族などが合祀を取り消しまたは合祀を求めてもそれには応じず、そういったことと無関係に勝手に祀るものである。

 

 合祀されたA級戦犯14名の中でも広田弘毅の遺族・孫の弘太郎は「合意した覚えはない。今も靖国神社に祖父が祀られているとは考えていない」と話した。靖国に絡むこれらの思いは「広田家を代表する考え」としている。

 

 2013年5月訪米時に安倍晋三首相が「日本人が靖国神社を参拝するのは米国人がアーリントン墓地を参拝するのと同じ」と『フォーリンアフェアーズ』紙に答えた。それに対し韓国の『中央日報』は「アーリントンが国民統合と和解の象徴なら、靖国は戦死者を顕彰する軍国主義の象徴にすぎない」として批判した。

 

 2013年10月3日、米国のジョン・ケリー国務長官とチャック・ヘーゲル国防長官は千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、献花した。千鳥ヶ淵戦没者墓苑によると、この訪問は日本の招待ではなく米国側の意向であった。同行した米国防総省高官は記者団に対し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑はアーリントン国立墓地に「最も近い存在」だと説明した。ケリーとヘーゲルは「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じように」戦没者に哀悼の意を示したと述べた。

 

 安倍が5月に訪米した際、靖国神社を米国のアーリントン国立墓地になぞらえたことに対する牽制とみられる。その後2013年12月に安倍が参拝すると菅官房長官は記者会見で「無宗教の国立追悼施設の建設構想については『国民に理解され、敬意を表されることが極めて大事なことだ。国民世論の動向を見極めながら慎重に検討することが大事だ』と述べ、現時点では取り組む考えがないことを示唆した」。

 

 また安倍も参院予算委員会で「多くのご遺族の方々がどう思われるかが大変大きな問題だ」と新施設に慎重姿勢を示した。また首相側近の萩生田光一総裁特別補佐は「新施設は決して無駄とは思わないが、靖国への思いとは異なる」と指摘した。

 

 公明党は2013年12月に安倍の参拝をうけて「どのような立場の人もわだかまりなく追悼できる施設」を提案した。

 

 日本遺族会は「靖国神社に代わる新たな追悼施設は認めない」との立場で、設置不要派である。

 

 元陸軍少尉・小野田寛郎は、「死んだら神さまになつて会おう」と約束した場所が靖国神社であり、戦後その靖国神社を国家が守らないことに対して、「国は私たちが死んだら靖国神社に祀ると約束しておいて、戦争に負けてしまったら、靖国など知らないというのは余りにも身勝手」という見解を示し、靖国神社とは全く別の追悼施設を作るというのは、「死んだ人間に対する裏切り」行為だと批判している。

 

6.4) 霊璽簿

 靖国神社では、戦没者としていったん合祀されたものの後になって生存していることが明らかになった場合、祭神簿に「生存確認」との注釈を付けるにとどめ、霊璽簿は削除・訂正しない。この処置は、後に生存が確認された横井庄一や小野田寛郎、そして韓国など海外の生存者についても同様である。

 

 また、この毎日新聞記事によれば「死亡していない以上、もともと合祀されておらず、魂もここには来ていない」と靖国神社は説明している。

 

 霊璽簿を一切変更せずただ名前を追加するのみという靖国神社の態度は、生存者だけでなく内外の遺族の削除要求に対しても一貫している。

 

●朝鮮戦争での殉職者合祀拒否問題

 2006年(平成18年)9月2日付けの各紙報道によれば、朝鮮戦争中の1950年(昭和25年)10月に米軍の要請で北朝鮮元山市沖で掃海作業中、乗船していた掃海艇が機雷に触れ爆発、殉職した海上保安庁職員(当時21)の男性遺族(79)が、靖国神社合祀を申請していたが、神社側が合祀要請を拒否していたことが明らかになった。

 

 神社側は8月25日付回答書で「時代ごとの基準によって国が『戦没者』と認め、名前が判明した方をお祀りしてきた」「協議の結果、朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外」とした。海上保安庁は、日本国憲法が発効していたことから、遺族に口外を禁じ、事故記録も廃棄されたという。男性遺族は「戦後の『戦死者』第1号であり、神社には再考を求めたい」と話している。なお、この職員には、戦没者叙勲はされたものの、恩給は支給されていない。

 

 特攻作戦に関与した海軍中枢部の将官のうち、終戦直後の8月15日に「オレも後から必ず行く」と言ってそれを実行した宇垣纏は、靖国神社に祀られていない。終戦直後に部下と共に特攻した(特別攻撃隊#宇垣纏)行為が、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法31条に抵触するものであり、また、無駄に部下を道連れにしたことが非難されてもおり、部下も含め戦死者(あるいは受難者)とは認められていない。

 

 しかし、特攻作戦の命令を下した人物として自決により責任を取った、と評価する有識者の中からは、靖国神社に合祀すべきとの意見が出ている。そのため郷里である岡山県護国神社の境内には、彼と部下十七勇士の「菊水慰霊碑」が建立されている。

 

6.5) その他の問題点

 

●神道における教義上の問題

 戦後、折口信夫は、神道における人物神は、特に政治的な問題について、志を遂げることなく恨みを抱きながら亡くなった死者を慰めるために祀ったものであり(所謂御霊信仰を指す)、「護国の英雄」のように死後賞賛の対象となるような人物神を祭祀することは神道教学上問題がある、と述べている。

 

 ただし、実際には近代以前でも豊国大明神(豊臣秀吉)や東照大権現(徳川家康)のような例があるほか、明治以降には鍋島直正の佐嘉神社や山内一豊の山内神社など、恨みを抱いて亡くなったわけでもない古代以来幕末までの忠臣名将を祀る神社が各地に創建されている。

 

 また哲学者の高橋哲哉は豊国大明神の廃祀や明治期の神仏分離などを挙げて、分祀や廃祀が出来ないとする靖国神社の見解に対して、日本の伝統的な日本神道のあり方に則れば可能であると主張している。

 

●祭神となる基準靖国神社#祭神の内訳も参照)

 戊辰戦争・明治維新の戦死者では新政府軍側のみが祭られ、賊軍とされた旧幕府軍(彰義隊や新撰組を含む)や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外。西南戦争においても政府軍側のみが祭られ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外(西郷軍戦死者・刑死者は鹿児島市の南洲神社に祀られている)

 

 戊辰戦争以前の幕末期において、日本の中央政府として朝廷・諸外国から認知されていた江戸幕府によって刑死・戦死した吉田松陰・橋本左内・久坂玄瑞らも「新政府側」ということで合祀されているばかりか、病死である高杉晋作も合祀されている。

 

 戊辰戦争で賊軍とされて戦死者が靖国神社に祭られていない会津藩士の末裔で戦後右翼の大物だった田中清玄は「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と述べている。

 

 軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者が対象で、戦闘に巻き込まれたり空襲で亡くなった文民・民間人は対象外。

 

 また、戦後のいわゆる東京裁判などの軍事法廷判決による刑死者と勾留・服役中に死亡した者が合祀され、合祀された者の中に文民が含まれている。なお、「軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者・戦犯裁判に於ける死者」であれば、民族差別・部落差別等の影響は一切無い。 

 

7) 日本における見解

7.1)日本政府の見解

 日本政府は1951年連合国との講和条約(所謂「サンフランシスコ講和条約」)に署名し、その第11条において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とあり、日本国も含めて国際的には戦争犯罪者であることは確定している。

 

 その条約発効後、条約の第11条に基づいて、極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府と交渉して、服役中の受刑者に対する恩赦と刑の執行終了・釈放の合意を形成し、刑の満了者及び服役中に死亡した者を除いて全員を恩赦により刑の執行を終了し釈放した。日本の国会は、国内・国外の軍事裁判で戦犯として有罪判決を受けた者は、国内法では犯罪者ではないと決議した。

 

・1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」

・1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」

 

・1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」

・1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

 

・1956年(昭和31年)12月3日 - 逢澤寛・自由民主党衆議院議員が、「今度できるお墓」(1959年竣工の千鳥ケ淵戦没者墓苑)は全戦没者を対象とするものではないので政府として代表的慰霊施設との扱いはせず外国要人を招待しないよう要求する質問をして、小林英三厚生大臣がこれを受け入れている。

 

 2005年10月25日の衆議院において、当時の小泉内閣は、政府は第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷の判決により、A級・B級・C級の戦争犯罪人として有罪判決を受けた軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と回答し、戦犯の名誉回復については「名誉」および「回復」の内容が明確ではないという理由で回答を避けた。

 

 自らの参拝については「内閣総理大臣である小泉純一郎が参拝した」と公私の区別を曖昧にしていたが、福岡地裁判決を受けた小泉首相は記者団の質問に「私的な参拝と言ってもいい」と語り、公私の区別をあえてあいまいにしてきた従来の姿勢を転換させた。

 

7.2) 政党の見解

 自由民主党党としての公式見解は決まっていない。議員の中には賛成派も反対派もいる。過去に11人の首相と多数の閣僚が参拝している。

 

 立憲民主党党としての公式見解は決まっていない。過去に首相経験者や閣僚経験議員が参拝したことはない。国民民主党党としての公式見解は決まっていない。議員の中には賛成派も反対派もいる。過去に閣僚経験議員が1人参拝している。

 

 公明党党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。閣僚が参拝したことはない。

 

 日本共産党党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。社会民主党党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。閣僚が参拝したことはない。

 

7.3) 日本遺族会の見解

 2005年(平成17年)6月11日、日本遺族会会長で自由民主党の古賀誠ら幹部が、「首相の靖国神社参拝は有り難いが、近隣諸国への配慮、気配りが必要」との見解をまとめる。

 

 しかし、6月17日に遺族会会員から「方針転換し、参拝中止を求めるものではないか」と懸念の声が相次いだのを受け、「今後も総理大臣の靖国神社参拝継続を求め、靖国神社に代わる新たな追悼施設は認めない。A級戦犯の分祀は靖国神社自身の問題だ」とし、「総理は中韓両国首脳の理解を得るよう努力するべきだ。」という従来通りの方針を確認した。

 

7.4) 経済界の見解

 関西経済同友会2006年(平成18年)4月18日、関西経済同友会は、「歴史を知り、歴史を超え、歴史を創る」と題した提言を発表。いわゆる歴史認識問題は、中韓両政権が国内体制維持に反日感情を利用している一方、日本側は、政府高官を含め、日本人自身が歴史を知らず、生煮えの歴史対話となっていると指摘。日本は、中韓両国とのより良き関係構築の観点から毅然とした態度で外交交渉に臨むことが肝要と述べ、靖国神社問題に関しては、日中国交正常化の原則に則り、相互内政不干渉とすべきで、この点は日韓間でも同様であると述べた。

 

 経済同友会の見解2006年(平成18年)5月9日、経済同友会は、「今後の日中関係への提言」を発表。日中両国首脳の交流再開の障害に小泉首相の靖国参拝があると指摘し、参拝の再考を求めた。これに対し首相は「商売のことを考えて行ってくれるなという声もたくさんあったが、それと政治は別だとはっきり断っている」と述べた。

 

 公明党の神崎武法代表は10日、経済の現場に悪影響が出始めたとの危機感を表明したが、小泉首相は10日夜「日中間の経済関係は今までになく拡大しているし、交流も深まっている」と参拝による影響を明確に否定した。2005年度の日中の貿易額は七年連続で増加し、過去最高になっており、記録を更新中と伝えられた(2006年4月)矢先のことであった。

 

7.5) 宗教界の見解

●神社本庁神社本庁#首相の靖国神社公式参拝も参照)

 2005年6月9日に発表した声明で、靖国神社は日本における戦没者慰霊の中心的施設であり、神社祭祀における「分祀」は「分離」とは異なり、首相は参拝すべきであり、いわゆる「A級戦犯」は国内法上の犯罪者ではなく、不公正な裁判であった、との見解を表明した。

 

●新日本宗教団体連合会

 信教の自由および政教分離原則の観点から、首相・閣僚の公式参拝に反対している。A級戦犯の合祀については、(一宗教法人としての)靖国神社の判断であるとして、問題視しないとしている。

 

●全日本仏教会

 公式・私的共に首相・閣僚の参拝に反対している。

 

●日本キリスト教協議会

 プロテスタント各教派の連合組織である日本キリスト教協議会は、首相・閣僚の靖国神社参拝に反対する多くのパンフレットを出版しており、たびたび抗議声明を発表している。

 

●真宗教団連合

 浄土真宗の連合組織である真宗教団連合は、首相・閣僚の靖国神社参拝にたびたび抗議声明を発表している。

 

●創価学会

 日本国憲法第20条の政教分離原則に抵触する恐れがあるとして、首相の参拝に反対している。

●幸福の科学

 首相の参拝に賛成している。また、参拝に反対する中国や韓国の主張については、日本における信教の自由に対する侵害であるとしている。信者が参拝することにも肯定的である。

 

7.6) 新聞社の見解

 読売新聞社社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。読売新聞グループ本社会長の渡邉恒雄は、「産経新聞以外の日本のメディアは戦争の責任と靖国神社等の問題について重要な共通認識をもっている」としている。

 

 渡邉自身、首相の靖国神社参拝には反対の立場を取っており、「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。すべての日本人はいずれも戦犯がどのような戦争の罪を犯したのかを知るべきである。」「今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す」と述べている。

 

 朝日新聞社社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。毎日新聞社社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。

 産経新聞社社としての公式見解は、靖国神社に対する肯定派、靖国神社参拝は賛成派。産経新聞』では、社説「主張」にて首相の靖国神社参拝(特に終戦の日の参拝)を強く要望しており、参拝しなかった歴代首相や参拝に否定的な政治家を批判している。

 

 2009年(平成21年)に麻生太郎首相が終戦記念日の参拝を見送ったことについても批判し、「再考を求めたい」と要望していた。同年8月31日におこなわれた第45回衆議院議員総選挙で自民党が大敗した際には、「麻生首相が靖国神社を終戦の日に参拝しなかったことへの国民の失望は大きかった」と論評した。また、国立追悼施設の建設に対しても反対の立場を取っている。

 

8) 日本国外の見解

8.1) アメリカ

 アメリカ合衆国は、2006年に靖国神社の遊就館に展示してあった太平洋戦争開戦までのアメリカの意図の解説文を下院外交委員会や当時のシーファー駐日大使が批判しており、この批判を受け神社側は遊就館の記述を一部修正するに至った。

 

 2013年12月26日の安倍晋三首相による靖国神社参拝について、駐日アメリカ合衆国大使館は「日本は大切な同盟国であり友人である」と前置きし、「米国は日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させる行動を取ったことに失望している」、「日本と近隣諸国が地域の平和と安定の我々の共通の目標を推進する中での協力を促進するための建設的な方法を見つけることを期待している」、「首相が過去への反省を表明し、日本が平和に関与していくと再確認したことに注目する」とする声明を発表した。

 

 これを受けて朝日新聞は、米政府が日本の首相の靖国参拝を批判したのは異例であると報じた[100]。国務省の報道官も駐日大使館と同内容の談話を発表した。その後、12月31日に国務省のハーフ副報道官は、会見で「失望」という言葉について質問され、「日本の指導者の行動で近隣諸国との関係が悪化しかねないことに対するもので、それ以上言うことはありません」と答え、これを受けてTBSニュースは、「失望した」という言葉は、靖国参拝そのものではなく、近隣諸国との関係悪化に懸念を表明したことを強調した、と報じた。

 

 同会見では他に、「日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させるような行動を取ったことに失望している」、「日本は大切な同盟国で様々な課題を解決する緊密なパートナー。これは変わらず、今後も日米で意見が異なることは話し合い続ける」と述べた。

 

 TBSニュース(12月31日)は、「失望」という表現については、アメリカの一部の有識者から「戦没者の追悼方法を他の国がとやかく言うべきではない」という指摘が上がっているとしている。

 

 カート・キャンベル前国務次官補は2014年1月15日、戦略国際問題研究所における会合で安倍首相の靖国神社参拝について「アメリカの外交政策の助けにはならない。米・日・中・韓の間で緊張が高まっており新たな懸念をもたらす」と批判し、マイケル・グリーン元国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長は同会合で、参拝に「失望している」とした国務省の対応を「正しい反応だった」と指摘しつつ、「日米防衛協力のための指針の再改定といった日米間の課題が変化することはない。それらの課題は米国の国益でもある」と、参拝が日米関係に与える影響は限定的との認識も述べた。

 

 米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は2014年1月23日、複数の米政府当局者の話として、安倍晋三首相が靖国神社参拝を繰り返さない保証を、米政府が日本政府に非公式に求めていると伝えた。日中、日韓関係がさらに悪化することを懸念しているとみられる。

 

 同紙によると、米政府は参拝後にワシントンと東京で開かれた日本側との「一連の会談」を通じ、近隣諸国をいら立たせるさらなる言動を首相は控えるよう要請。日米韓の連携を阻害している日韓関係の改善に向けて韓国に働きかけるよう促し、従軍慰安婦問題に対処することも求めた。さらに今後、過去の侵略と植民地支配に対する「おわび」を再確認することを検討するよう首相に求める考えだという。米国務省副報道官のハーフは23日の記者会見で、同紙の報道について問われ、「事実かどうか分からない」と述べた。

 

 リチャード・アーミテージ元国務副長官は2014年2月27日首都ワシントンで開かれたシンポジウムで、安倍晋三首相の靖国神社参拝について「中国政府が喜んだはずだ」と述べ、中国の日本批判を結果的に後押しする形になったという意味で反対だと語った。ただ、参拝自体については「日本の指導者が国全体にとって何が最善かを考えて決めることだ」と話した。

 

 中国が「(第二次世界大戦後の国際秩序の基礎となった)カイロ宣言やポツダム宣言を受け入れていないのが日本だ」との批判を広めていると指摘。「中国政府は首相の靖国参拝を喜んだはずだ。なぜなら、彼らは参拝後、各国の外交担当者に電話をし『見た? 言った通りでしょ』と言うだけで良かったからだ。これが参拝への反対理由だ」と語った。また仮にA級戦犯が分祀されても中国は参拝を問題視し続けるとの見方を示した。

 

 韓国の三大紙の中央日報は『在日大使館名義で「失望」という声明を出した2日後、沖縄県が普天間のアメリカ合衆国空軍基地を辺野古移転案を承認するとヘーゲル米国防長官は「日米安保同盟は強固であり、両国間のパートナーシップはさらに強まるだろう」という歓迎の声明を発表した。』ことを「失望」という声明は短い3つの文章だったのに対して、沖縄県の決定を歓迎するという声明はA4用紙1枚分の長い声明だったことに触れ、『 どの声明がより重要、または重要でないとは言わないが、米国にも「本音」と「建前」がある』 と過度にアメリカの「失望」声明に反応する人々を牽制した。

 

 さらに中央日報は『「失望」声明に喜んだ人々は、安倍首相の日本を嫌うことを望んだがアメリカの国防長官は長い間の悩みだった普天間基地の移転問題が解決されると即座に「強い日米同盟」に言及した理由はアメリカ中心主義時代を脅かす中国に対抗するには、依然として安倍首相の日本を必要とするしかない。』としてアメリカ合衆国の本音を直視しなければならないと指摘した。

 

8.2)国連

 国際連合は、1946年の第1回から2012年の第67回までの国際連合総会において、日本に対して首相、国務大臣、衆議院や参議院の議長などの立法府や行政府の要人による、靖国神社参拝の禁止や自粛を決議として採択したことはなく、決議案が総会・安全保障理事会・経済社会理事会・人権理事会に提案されたことはない。

 

 2013年12月26日の安倍晋三首相の靖国神社参拝を受けて、潘基文国連事務総長の報道官は27日安倍首相の靖国神社参拝について「過去に関する緊張が、今も(北東アジアの)地域を苦悩させていることは非常に遺憾だ」との声明を出した。声明は「事務総長は共有する歴史に関して、共通の認識と理解を持つよう一貫して促してきた」と指摘。事務総長が被害者の感情に敏感であることや、相互信頼を築くことの重要性を強調しているとして、指導者は「特別な責任」を負っていることを挙げた。

 

8.3)中華人民共和国

 中華人民共和国政府は、1979年4月にA級戦犯合祀が公になった時から1985年7月までの6年4月間、3人の首相が計21回参拝したことに対しては何の反応も示さなかったが、1985年8月の中曽根首相の参拝以後は、「A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝すること」は、中国に対する日本の侵略戦争を正当化することであり、絶対に容認しないという見解を表明し続けている。

 

 中国政府は国際的および国内的に「日本の侵略戦争の原因と責任は日本軍国主義にあり、日本国民には無い。しかし日本軍国主義は極東国際軍事裁判で除去された。」と説明している。また1972年の日中国交正常化の際の共同声明では「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とも記載されている。

 

 このため中国から見て「日本軍国主義の責任者の象徴」であるA級戦犯を、現在の日本の行政の最高責任者である首相や行政府の幹部である閣僚が、「賞賛または称揚」することは「歴史問題」となるからである。

 

8.4)中華民国(台湾)

 当時日本領であった台湾では、台湾人日本兵高砂義勇隊への徴兵による戦死者の靖国への合祀に対し、一部で批判がある。台湾の政党関係者による靖国神社への参拝が政治問題化したこともある(台湾団結連盟靖国神社参拝事件)。

 

 馬英九総統は、安倍晋三首相による2013年12月26日の靖国神社参拝が元慰安婦とされる女性たちの「傷口に塩をぬる」行為に当たるとして、「隣国の慰安婦が受けた迫害などの悲惨な歴史を少しも省みていない」、「日本政府の行為は大変遺憾だ」と非難した。

 

8.5) 韓国

 韓国政府は「A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相や閣僚が参拝すること」を問題視している。ただし韓国の場合は、日韓併合から日本の降伏までの間は、日本に併合されていたため、日本の交戦相手国や戦勝国ではないと同時に、旧日本軍側としての募集や徴用の結果、靖国神社への合祀者が存在する。

 

 このため韓国および台湾では、「靖国神社合祀取り下げ訴訟」も発生している。なお、韓国政府は2006年、A級戦犯の分祀だけでは靖国問題の解決にはならないとの認識を政府方針として決定している。

 

8.6)シンガポール

 首相リー・シェンロンは 2005年5月に「同神社には(第2次大戦の)戦争犯罪人が祭られており、シンガポールを含む多くの国の人々に不幸な記憶を呼び起こす。戦犯をあがめる対象にすべきではない」、「悪い記憶を思い起こさせる。シンガポール人を含む多くの人にとって、靖国参拝は日本が戦時中に悪い事をしたという責任を受け入れていないことの表明、と受け取れる」と述べ、

 

 2001年8月には「日本が戦争責任の問題を片付けていない」、「戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社の性格から、小泉首相が過去の侵略を反省した談話を十三日に発表したにもかかわらず近隣国の反発が起きた」と批判している。

 

 上級相ゴー・チョクトンも2006年に「日本の指導者は靖国神社への参拝をやめ、戦没者を祭る別の方法を探るべきだ」と述べた。シンガポール外務省は小泉首相の2006年度の参拝を受けて、「小泉首相の靖国神社参拝を遺憾に思う。シンガポール政府は靖国問題に関する立場を繰り返し表明してきたが、それに変化はない」「東アジア域内で緊密な連携関係を築くという大局的な共通利益に助けとはならない」と批判した。

 

 他方、リー・クァンユー元首相は「靖国問題は中国が心理的なプレッシャーをかけているだけで、日中友好の底流は変わらない」と述べている。

 

8.7)ロシア

 ロシア外務省公式代表のルカシェビッチ情報局長は、2013年12月26日の安倍晋三首相による靖国神社参拝について、「遺憾の意を呼び起こさざるをえない」というコメントを発表した。

 

 また2013年12月30日、中国の王毅外相とロシアのラブロフ外相は電話会談し、安倍晋三首相による靖国神社参拝を共に批判した上で、歴史問題で共闘する方針を確認した。王は「安倍(首相)の行為は、世界の全ての平和を愛する国家と人民の警戒心を高めた」と述べ、参拝を批判。その上で「(中露両国は)反ファシスト戦争の勝利国として共に国際正義と戦後の国際秩序を守るべきだ」と述べ、歴史問題で共闘するよう呼び掛けた。

 

 それに対しラブロフは「靖国神社の問題ではロシアの立場は中国と完全に一致する」と応じ、日本に対し「誤った歴史観を正すよう促す」と主張した。

 

8.8)欧州連合(EU)

 EUの外務・安全保障政策上級代表(外相)・キャサリン・アシュトンの報道官は、2013年12月26日の安倍晋三首相による靖国神社参拝について「建設的ではない」と批判する声明を発表した。

フランス

  • フランスのシラク大統領(当時):参拝前の小泉総理大臣に「参拝すれば日本のアジアとの関係は難しくなり、世界の中で日本は孤立する危険がある。注意してほしい」と忠告。

 

8.9)その他

 国際危機グループは、2005年12月に報告書「北東アジアの紛争の底流」を提出し、「小泉首相の靖国神社参拝と右翼グループによる歴史解釈を修正する歴史教科書作成の試みは中韓両国の警戒心を刺激し、日本は第二次世界大戦での犯罪を反省していないとの感情を増幅させた」「ドイツと異なり、自国の歴史の継続的、批判的検証にほとんど関心を示していない」と批判している。

 

 ホロコーストの記録保存や反ユダヤ主義の監視等を行っているユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米国ロサンゼルス)は、2013年12月の安倍首相の靖国神社参拝について同月26日、靖国神社参拝を「倫理に反している」と非難する声明をクーパー副所長が発表した。

 

 「戦没者を含め、亡くなった人を悼む権利は万人のものだが、戦争犯罪や人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々を一緒にしてはならない」と指摘した。北朝鮮情勢が緊迫しているなか安倍首相が参拝したことにも懸念を表明し、「安倍首相が目指してきた日米関係の強化や、アジア諸国と連携して地域を安定化させようという構想に打撃を与える」と批判した。

 

9 年表

 靖国神社問題にまつわる歴史を以下に取り上げる。訴訟については「#首相公式参拝・玉串料公費支出の訴訟」の節を参照。

 

・1932年5月5日:学校教練のために上智大学予科に配属されていた陸軍将校が、学生60名を引率し靖国神社を参拝した際、カトリック信者の学生2名が参拝を見送ったことに対し、陸軍が圧力をかけ、カトリック教会を弾圧。「 上智大生靖国神社参拝拒否事件も参照

 

・1945年12月15日:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の国家神道の廃止方針「神道指令」で、靖国神社は一宗教法人に。

 

・1946年9月:宗教法人靖国神社の登記を完了。

・1947年5月3日:日本国憲法施行(政教分離を規定)。

 

・1951年10月18日:第49代内閣総理大臣・吉田茂以下、閣僚、衆参両院議長が揃って、靖国神社が宗教法人になって初めて挙行した秋季例大祭に公式参拝。首相の参拝は6年ぶり。この公式参拝は、同年9月8日の対日講和条約(いわゆるサンフランシスコ講和条約)の調印にともなうとされている。

 

・1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約発効。

 

・1955年11月17日:政府統一見解「政府としては従来から、内閣総理大臣その他の国務大臣が国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫してきている」、「そこで政府としては従来から事柄の性質上慎重な立場をとり、国務大臣として靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである」。

 

・959年3月28日:国立・千鳥ケ淵戦没者墓苑が竣工。

・1964年8月15日:靖国神社境内で政府主催戦没者追悼式を開催。

 

・1969年6月30日:自民党、初めて靖国神社法案を国会に提出。(審議未了廃案)

・1970年4月14日:靖国神社法案、2度目の提出。(5月13日、廃案)

 

・1971年1月21日:靖国神社法案、3度目の提出。(5月24日、提案理由説明の後廃案)

・1972年5月22日:靖国神社法案、4度目の提出。(6月16日、廃案)

 

・1973年4月27日:靖国神社法案、5度目の提出。(衆院内閣委で継続審議・審議凍結)

・1973年12月20日:衆議院議長・前尾繁三郎、靖国神社法案の審議凍結解除。

 

・1974年5月25日:靖国神社法案を衆院本会議で可決。(6月3日、参議院で廃案)

・1975年8月15日:第66代内閣総理大臣・三木武夫が参拝。「私人」としての参拝(私的参拝4条件=公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)と明言。首相による終戦の日の参拝は初めて。

 

・1976年6月:神社本庁および日本遺族会が中心となって「英霊にこたえる会」が結成され、「首相や閣僚による公式参拝」を要請する運動を展開。

 

・1978年8月15日:第67代内閣総理大臣・福田赳夫が参拝。公用車の使用、公職者の随行のうえ「内閣総理大臣」と記帳しながらも、私的参拝を主張。

 

・1978年10月17日:極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)におけるA級戦犯14人を国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀(翌1979年4月19日に新聞報道により一般に知られることとなる)。 首相・三木の「私的参拝四条件」(1975年)を政府統一見解として認めたことがないと内閣法制局が言明(参議院内閣委員会)。 合祀されたのは、死刑に処された東條英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章の7人と、勾留・服役中に死亡した梅津美治郎、小磯国昭、平沼騏一郎、東郷茂徳、白鳥敏夫、松岡洋右、永野修身の7人の計14人。

 

・1979年4月21日:キリスト教徒の第68代内閣総理大臣・大平正芳が春期例大祭で参拝(A級戦犯合祀報道の2日後)。

 

・1980年8月15日:第70代内閣総理大臣・鈴木善幸と共に閣僚が大挙して参拝。

 

・1980年11月17日:「私人」参拝を認める官房長官・宮沢喜一が、衆議院における答弁(政府統一見解)「政府は首相その他の国務大臣がその資格で参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫している。違憲とも合憲とも断定していないが、違憲ではないかとの疑いをなお否定できない。そこで政府は、国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである」。

 

・1981年3月18日:「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が結成される。

・1981年8月15日:鈴木善幸が参拝。

 

・1982年8月15日:鈴木善幸が参拝。マスコミの「私人」か「公人」かの質問に答えず。

 

・1984年1月5日:第72代内閣総理大臣・中曽根康弘が参拝。質問に「内閣総理大臣たる中曽根康弘」と答える。現職首相の年頭参拝は戦後初であった。

 

・1985年8月9日:官房長官・藤波孝生の私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)が、公式参拝可能との報告書を発表。

 

・1985年8月14日:官房長官・藤波孝生の談話「中曽根首相は、首相としての資格で靖国神社を参拝する。憲法の政教分離原則との関係は強く留意しており、公式参拝が宗教的意義を持たないものであることを参拝方式などで明らかにする。 (かしわ手を打たず、玉串料でなく供花料を公費から支出するなどの)今回の方法であれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しないと判断した」。

 

・1985年8月15日:首相・中曽根ら閣僚17人が参拝(「二拝二拍手一拝」の神道形式ではなく、本殿で一礼。公費から供花料を支出。これ以後の参拝は、形式上、私的参拝ということになる)。以降11年間、終戦の日の参拝は行われない時期が続いた。

 

・1985年8月20日:官房長官・藤波「戦没者に対する追悼を目的として本殿または社頭で一礼する方式で参拝することは同項(憲法20条3項)の規定に違反する疑いはないとの判断に至った」ので「昭和55年(1980年)11月17日の政府統一見解をその限りにおいて変更」(衆議院)。

 

・1986年8月14日:内閣官房長官・後藤田正晴の談話「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」。

 

・1986年8月15日:みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会(会長・奥野誠亮)が集団で参拝、首相は参拝を見送った。

 

・1988年3月14日:赤報隊から、中曽根康弘事務所と竹下登の元に脅迫状が送られた(差出の日付は3月11日)。中曽根には「わが隊は去年二月二七日のよる 全生庵で貴殿を狙った」、「靖国や教科書問題で民族を裏切った」、「もし処刑リストからはずしてほしければ 竹下に圧力をかけろ」、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」という内容だった。全生庵は中曽根が座禅を組みにしばしば訪れた禅寺で、脅迫状の日時には実際に座禅を組んでいたという。参拝を中止した中曽根を標的にし、後継の首相となった竹下に参拝を迫ったもの。

 

・1991年1月10日:仙台高裁が岩手県の靖国訴訟で合憲判決。(傍論として違憲言及。総理大臣の公式参拝を違憲としたのは初めて)。

 

・1991年9月4日:1991年3月に傍論を不服とした県が上告し、仙台高裁は「岩手県が判決主文で全面勝訴している」として却下。9月4日に、この仙台高裁の決定を不服とした県の特別抗告について、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として却下、確定。

 

・1992年2月28日:中曽根公式参拝(1985年8月15日)に対する九州靖国神社公式参拝違憲訴訟の福岡高裁判決。違憲と判示。

 

・1992年7月30日:中曽根公式参拝(1985年8月15日)に対する関西靖国公式参拝訴訟の大阪高裁判決。違憲の疑いありと判示。のち確定。

 

・1996年7月29日:第82代内閣総理大臣:橋本龍太郎が自身の59歳の誕生日に靖国神社参拝。11年ぶり。

 

・1997年4月2日:愛媛玉串料訴訟で違憲判決。最高裁大法廷判決「たとえ戦歿者遺族の慰藉が目的であっても県が靖国神社・護国神社などに玉串料を公費から支出したことは憲法が禁止した宗教活動にあたり、違憲である」。

 

・1999年8月6日:官房長官:野中広務、記者会見で個人的見解と断りつつ、「首相はじめすべての国民が心から慰霊できるよう、あり方を考える非常に重要な時期にさしかかっている」、「A級戦犯を分祀し、靖国が宗教法人格を外して純粋な特殊法人として国家の犠牲になった人々を国家の責任においてお祀りし、国民全体が慰霊を行い、各国首脳に献花してもらえる環境を作るべきではないか」と述べた。

 

・2001年5月9日:第87代内閣総理大臣・小泉純一郎「戦没者にお参りすることが宗教的活動と言われればそれまでだが、靖国神社に参拝することが憲法違反だとは思わない」「心をこめて敬意と感謝の誠をささげたい。そういう思いを込めて、個人として靖国神社に参拝するつもりだ」と衆議院本会議で明言。

 

・2001年7月11日:公明党代表:神崎武法「憲法20条(政教分離)と89条(公費支出)に違反するような(首相の靖国神社)参拝は問題がある」。 自由党党首・小沢一郎「連立を組むなかで、憲法違反を理由にして消極的ならば、首相と議論してきちんと結論を出さなくてはいけない。あいまいにすませるのは許されない」(日本記者クラブでの党首討論で)。

 

・2001年7月30日:外務大臣:田中真紀子コメント: 「憲法20条にあるように、総理は国の最終的な責任者であり、国家の意思そのものだ。ここは個人だ何だと分けるふうな姑息な手段は使わないでいただきたい」。

 

・2001年8月13日:小泉純一郎が参拝。参拝に反対する立場からは参拝したことへの、参拝を積極的に支持する立場からは、前言を翻して終戦の日を避けたことへの批判も挙がった。参拝は、8月11日に秘書官を通して「内閣総理大臣小泉純一郎」という名入りの献花料3万円を私費で納入。 靖国への往復に公用車を用いて内閣官房長官・福田康夫と秘書官を随行。 参集所で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳。神社拝殿で身を清める「お祓い」を受け、本殿に昇殿して祭壇に黙祷した後、神道式によらない一礼方式で参拝を行なった。供花料ではなく、献花料としたのは、兵庫県多紀郡篠山町(現丹波篠山市)が、盆に戦没者遺族に線香やロウソクを配布したことをめぐって憲法の政教分離原則に反するかを争った訴訟で、「お盆」、「ご帰壇」、「英霊」、「お供え」、「合掌」などの宗教用語を使った文書が違憲にあたると判断した神戸地裁の指摘を考慮したとされている。

 

・2001年8月15日:靖国神社に面した通りで、靖国賛成派と反対派の衝突があり、麹町警察署によると双方に負傷者が出たという。斎藤貴男は、賛成派が一方的に負傷させたとしている[136]。

・2001年11月1日:小泉公式参拝(同年8月13日)に対する大阪・松山・福岡の各地裁提訴について、小泉首相がコメント: 「話にならんね。世の中おかしい人たちがいるもんだ。もう話にならんよ」(同日各紙夕刊、翌日同朝刊)。 官房長官・福田のコメント: 「どこが憲法違反なんですかね。内閣総理大臣である小泉純一郎が参拝したんですよ」、「そういうことを言って、小泉純一郎の信仰の自由を妨げるというのは、それこそ憲法違反じゃないですか」。

 

・2001年12月14日:中国、韓国などから批判が出たのを受け、内閣官房長官・福田康夫は、国立戦没者追悼施設を建設する構想を立ち上げ、私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(座長今井敬)を発足させた。

 

・2002年2月:ブッシュ大統領が対テロ戦争協力への返礼の意も込めて靖国神社への参拝を申し出る。戦勝国であるアメリカの大統領が参拝すれば批判の根拠を失う可能性もあったが、当時の政府はそれを決断できず、日本側から要請して明治神宮への参拝に変更。

 

・2002年3月:韓国駐在武官参拝。

・2002年4月21日:小泉純一郎、参拝。

 

・2002年12月24日:内閣官房長官・福田の諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が報告書を提出。「追悼・平和祈念を行うための国立の無宗教の恒久的施設が必要と考えるが、最終的には政府の責任で判断されるべきだ」。その後、懇談会は開催されていない。

 

・2003年1月14日:小泉純一郎、参拝。

・2004年1月1日:第88代内閣総理大臣・小泉純一郎、参拝。

 

・2004年4月7日:福岡地方裁判所が小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)で被告側勝訴判決(亀川清長裁判長が傍論で違憲言及)。それを受けた小泉首相は記者団の質問に「私的な参拝と言ってもいい」と語り、公私の区別をあえてあいまいにしてきた従来の姿勢を転換させた。

 

・2004年11月25日:千葉地方裁判所(裁判長:安藤裕子)は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)について、参拝は公的と認定した上で被告側勝訴判決(憲法判断は行わず)。

 

・2004年12月8日:日本記者クラブでの講演で公明党の神崎武法代表は、小泉首相の靖国神社参拝が日中関係の障害になっていると指摘。「私から見ると解決方法は(1)参拝を自粛する(2)A級戦犯の分祀を検討する(3)国立追悼施設を建設する――の3つしかない」と述べた。

 

・2005年4月27日:中国の王毅駐日大使は、日中両政府間で、靖国神社参拝に関する「紳士協定」が存在し、首相と外相、官房長官は参拝すべきではないと、自民党の外交調査会での講演の中で発言。中国政府関係者は、「紳士協定」は、中曽根内閣当時に中国側の求めにより口頭でなされたと発言。日本の外務省関係者は協定の存在を否定。翌4月28日、中曽根元首相は「王大使の記憶違い」と述べて「紳士協定」の存在を否定。中国大使館へ電話で抗議したと記者団に語る。

 

・2005年9月29日:「靖国訴訟」東京高裁(浜野惺(しずか)裁判長)は1審の千葉地裁判決を支持、原告側控訴を棄却(但し参拝は私的なものと変更、憲法判断は行わず)

 

・2005年9月30日:大阪高裁が小泉靖国訴訟で被告側勝訴判決(大谷正治裁判長が傍論で小泉首相の参拝をめぐる訴訟としては高裁段階で初の違憲言及)

 

・2005年11月3日:中国の唐家せん(王へんに旋)国務委員(前外相)は、1985年の中曽根首相による靖国神社参拝を受け、首相と外相及び官房長官は参拝しないとの紳士協定を日中両政府間で結んだと、訪中していた大阪府と京都市、兵庫県の各知事との会談の中で発言。

 

・2005年11月5日:公明党全国代表者会議で党代表・神崎武法は、「政権の中枢にある首相、外相、官房長官は参拝を自粛すべきだ。今後も自粛を求めていく」、と述べた。神崎はこれまで再三再四、首相に自粛を求めていたが、外務大臣や官房長官についてまで自粛を要求したのは初めて。神崎の発言は、4月27日に中国の王毅駐日大使が、日中両政府間で首相と外相及び官房長官は参拝しないとの「紳士協定」が存在するとした発言を念頭に置いたものとみられている(ただし日本の外務省と中曽根元首相は「紳士協定」の存在を否定)。

 

・2005年11月9日:靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設を目指す超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」が発足。会長に山崎拓(自民党、2009年の衆議院選で落選)、副会長は鳩山由紀夫(民主党)と冬柴鉄三(公明党)。設立総会には福田康夫(自民党)や当時の公明党代表の神崎武法ら100人が参加した。

 

・2006年8月15日:小泉首相は、自身の首相としての最後の夏、「Xデーに参拝するのではないか?」と自民党を中心に内外で推測されていたが、2006年8月15日午前7時40分ごろ、現職総理としては1985年の中曽根康弘以来21年ぶりに8月15日の参拝を行った。午前7時30分ごろ、首相官邸を出発し10分後にモーニング姿で到着。本殿に入り「2拝2拍手1拝」の神道形式ではなく一礼形式の参拝。滞在時間は15分ほどだった。

 

・2013年12月26日:安倍晋三は第90代の首相時に参拝ができなかったのは「痛恨の極み」と述べていたが、第96代首相就任1年目を期したこの日首相官邸から出発し午前11時30分ころモーニング姿で参拝した。併せて鎮霊社にも参拝した。参拝後神社社殿内からNHKなどのテレビ中継を介して記者会見を行い参拝の気持ちを語った。また同日総理大臣官邸のホームページに日本語、英語、中国語の言語による「安倍内閣総理大臣の談話〜恒久平和への誓い〜」とする談話も掲載された[140]。

 

10 歴代首相の靖國神社参拝(回数)

 2020年現在、最初の伊藤博文就任以降の歴代首相57人中14人が参拝しているが、最初に参拝したのは戦後初の首相である東久邇宮稔彦王(30人目、重複を入れると43代目)である。戦後に限定すると、28人中14人の首相が62年間で計67回参拝している。終戦の日の参拝は8回。A級戦犯の合祀が公になった1979年4月以後では、5人の首相が計29回参拝している。

 

首相 回数 参拝年月日 在任期間
第43代 東久邇宮稔彦王 1回 1945年8月18日 1945年8月17日 - 1945年10月9日
第44代 幣原喜重郎 2回 1945年10月23日、1945年11月20日 1945年10月9日 - 1946年5月22日
第45代
第48-51代
吉田茂 5回 1951年10月18日、1952年10月17日、1953年4月23日、1953年10月24日、1954年4月24日 1946年5月22日 - 1947年5月24日
1948年10月15日 - 1954年12月10日
第56-57代 岸信介 2回 1957年4月24日、1958年10月21日 1957年2月25日 - 1960年7月19日
第58-60代 池田勇人 5回 1960年10月10日、1961年6月18日、1961年11月15日、1962年11月4日、1963年9月22日 1960年7月19日 - 1964年11月9日
第61-63代 佐藤栄作 11回 1965年4月21日、1966年4月21日、1967年4月22日、1968年4月23日、1969年4月22日、1969年10月18日、1970年4月22日、1970年10月17日、1971年4月22日、1971年10月19日、1972年4月22日 1964年11月9日 - 1972年7月7日
第64-65代 田中角栄 5回 1972年7月8日、1973年4月23日、1973年10月18日、1974年4月23日、1974年10月19日 1972年7月7日 - 1974年12月9日
第66代 三木武夫 3回 1975年4月22日、1975年8月15日、1976年10月18日 1974年12月9日 - 1976年12月24日
第67代 福田赳夫 4回 1977年4月21日、1978年4月21日、1978年8月15日、1978年10月18日 1976年12月24日 - 1978年12月7日
第68-69代 大平正芳 3回 1979年4月21日、1979年10月18日、1980年4月21日 1978年12月7日 - 1980年6月12日
第70代 鈴木善幸 9回 1980年8月15日、1980年10月18日、1980年11月21日、1981年4月21日、1981年8月15日、1981年10月17日、1982年4月21日、1982年8月15日、1982年10月18日 1980年7月17日 - 1982年11月27日
第71-73代 中曽根康弘 10回 1983年4月21日、1983年8月15日、1983年10月18日、1984年1月5日、1984年4月21日、1984年8月15日、1984年10月18日、1985年1月21日、1985年4月22日、1985年8月15日 1982年11月27日 - 1987年11月6日
第82-83代 橋本龍太郎 1回 1996年7月29日 1996年1月11日 - 1998年7月30日
第87-89代 小泉純一郎 6回 2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日、2005年10月17日、2006年8月15日 2001年4月26日 - 2006年9月26日
第90代
第96代
安倍晋三 1回 2013年12月26日 2006年9月26日 - 2007年9月26日
2012年12月26日 -

11 出典・脚注(略)

12 参考文献(略)

13 関連項目(略)

14 外部リンク:靖国神社(神社公式)


ページ追加:令和3年(2021)3月8日              最終更新:令和5年11月11日