トップ  継体天皇ゆかりの史跡めぐり

①父方の里 ②母方の里 ③潜龍の地 ④治水伝説 ⑤使者謁見の地 

⑥皇居の変遷 継体天皇⑦磐井の乱 ⑧2つの古墳 ⑨図書紹介  関連系図


継体天皇②母方の里


1 継体天皇の母系

(1)母方の祖先 (2)「三尾君」都「三尾角折君」(3)北陸の大国(越前)

2 母方の里ゆかりの史跡

(1)高向神社・高向宮(2)古墳から見た継体王権(継体天皇の母の里)(3)六呂瀬山古墳 (4)松岡古墳群 (5)姫王の碑


1 継体天皇の母系


(1)母方の祖先


(引用:福井県史HP)

 『上宮記』の系譜は、継体天皇の母方の祖先を偉久牟尼利比古大王(イクムネリヒコ)から始めています。イクムネリヒコとは『日本書紀』の活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)をさすのでしょう。『上宮記』系譜の第二代は、偉波都久和希(イハツクワケ)です。これは『日本書紀』の磐衝別命、『古事記』の石衝別王にあたるといえるでしょう。

 

 『日本書紀』によれば磐衝別三尾君の始祖、『古事記』の石衝別羽咋君三尾君の祖と明記されています。イハツクワケを祀る神社として、能登の羽咋神社(石川県羽咋市)、越前の大湊神社(三国町)、近江の水尾神社(滋賀県高島町)などがあり、イハツクワケの子イハチワケを祀る神社に、越前足羽郡の分神社(福井市)があり、振媛の父のヲハチ君を越前坂井郡の高向神社(丸岡町)が祀っています。

 

 これらの分布は、イハツクワケを祖とする一族の勢力範囲を語っているのでしょう。おそらくイハツクワケは能登から近江にかけて勢力を張った豪族の始祖であって、系譜上、垂仁天皇に結びつけられたのでしょう。

 

 そうであるなら『古事記』にみえる二氏のうち、羽咋氏は明らかに能登の豪族であるから、三国出身の振媛は三尾氏につながる人物と思われる。


(2)「三尾君」と「三尾角折君」


(引用:福井県史HP)

1)三尾氏

 

 この推測をさらに強めるものは、継体天皇の妃のなかに、三尾氏の出身が二人までみられることであります(表8)。一人は三尾角折君の妹稚子媛、もう一人は三尾君堅楲の女倭媛である。

 初めの稚子媛は、皇后手白香皇女元妃目子媛の次に記載されるが(『記』では若比売として第一番目)、その所生の皇子が大郎皇子(『記』では大郎子)とされていることから、一番最初の妻だった可能性が強い。この点からも、振媛が三尾氏出身だった可能性が強まる。

 

2)三尾氏と三国氏

 〔三尾氏〕

 さてこの三尾氏の本貫は、従来、近江と考えられてほとんど疑われなかった。近江高島郡には三尾郷水尾神社があり、かつ彦主人王の別業も三尾にあったと記されていることから、そこに三尾氏も存在したものと考えられてきたのです。三尾氏が越前の豪族であるという見解が広まらなかったのは、越前に三尾という地名が見あたらないためでした。

 

 しかし、天平5年(733年)「山背国愛宕郡某郷計帳」に「越前国坂井郡水尾郷」の記載があり、『延喜式』の北陸道の駅名のなかに「三尾」が存在している。丹生―朝津―阿味―足羽―三尾の順序からいって、三尾が坂井郡のなかにあったと考えられます。すなわち現在の地名にはみられないが、坂井郡内に三尾または水尾という地名はたしかに存在していました。

 

〔三国氏〕

 三尾君の娘倭媛の生んだ椀子皇子三国公の祖と『紀』は記しています。三国氏は天武天皇13年(687年)「真人」の姓を受けて三国真人となり、奈良朝に至っても坂井郡の雄族として活躍しています。

 

 三国氏の本拠が坂井郡であることは確実ですが、三尾氏は後世まったく姿を消してしまうことになります。したがって、三尾氏が三国氏と名称を変えて存続していったと考えられるわけですが、その根拠を述べる前に、まず三国とは何かを考察しなければならりません。

福井県史HP

3)三国の意義

 継体天皇の母振媛は、『日本書紀』では三国の坂中井の高向、『上宮記』では三国坂井県の多加牟久村の出身と記されていますするの。

 

 高向(多加牟久村)は、現在の丸岡町の一部をなす旧高椋村に該当するのでしょう。坂中井(坂井県)はおおむね今の坂井郡に相当する地域でしょう。三国はそれより広域なのですから、現在の三国町を指すという見解は誤りであります。少なくとも越前の北半くらいを指す広い地域と考えなければなりません。

 

 三国については古くから「水国」を意味するとする説と、「三つの国」を指すとの両説がありましたが、「三つの国」と理解した方が正しいと思われます。継体天皇の時代に坂井郡一帯が「水国」であった証跡はまったくみられないからです。

 

 しかしながら「三つの国」がのちの律令制下の郡でいう坂井・足羽・丹生、坂井・大野・足羽、または坂井・江沼・足羽のいずれと考えるべきかは、まだ議論の余地があります。 

 

 『上宮記』に「祖にまします三国命」という記載があります。この三国命というのは誰をさしているのでしょうか。『上宮記』には「命」のついた人名が、三国命以外に三例あり、いずれも継体天皇直系尊属の女性ばかりです。

 

 先述のように『上宮記』の母系を三尾氏の系譜とみれば、三国命振媛の母である阿那比売(アナニヒメ)をさしている可能性が強いのです。アナニヒメ余奴臣の祖であり、余奴は「与野評」と記された墨書土器などからエヌ(江沼)と訓む説が強いので、三国は江沼・坂井・足羽の三郡をさすという説に若干の根拠を与えることになります。  福井県史HP) 

 

4)2つの三尾氏

 いずれにしても振媛直系尊属のなかに三国命と名のる人物がいたことは確実であり、これは三尾三国同族説に重要な論拠を与えるものであります。

 

 三国氏と三尾氏を同族とすれば、三尾氏からは継体天皇に2人の妃を出していますし、また継体天皇の母振媛三尾氏出身と考えられますので、三国・三尾氏同族関係を矛盾なく理解することができます。

 

 残る問題は、『古事記』『日本書紀』に現われる二つの三尾氏の本貫が、越前近江かの点であります。三尾君堅楲の娘倭媛の子孫が三国氏を名のり、越前坂井郡の雄族となっている点よりみますと、この三尾氏は問題なく越前なのでしょう。残る一つ、三尾角折君についてはどうであろうか。 

 

 ここで『紀』が「三尾君堅堅楲」「三尾角折君」と微妙な書き方の相違を示していることは看過しがたいものがあります。前者は三尾君が氏姓であり、堅楲が名でしょう。しかし後者は「三尾角折君」までが氏姓であり、蘇我田口臣とか阿倍引田臣とか史上多くみられる、いわゆる複姓の可能性があります。したがって、三尾角折君の角折は地名とも考えられ、現に足羽川と日野川の合流点近くに角折の地名が残っています。

福井市三尾野・角折付近

 この福井市角折町の南約18キロメートルに同市三尾野町という地名があります。また三尾野の東約30キロメートルの福井市脇三ケ町にある分神社の祭神はイハチワケと伝えられています。イハツクワケの子イハチワケは史上著名な存在でないから、後世の付会とは考えにくいのです。

 

 このように越前足羽郡にも三尾氏の存在がおぼろげながらうかがえますので、第二の三尾氏(三尾角折君)の本拠地をここに考えることも可能ではないかと思われます。 

 2つの三尾氏がともに越前の豪族であるとすれば、近江三尾氏は存在しなかったのであろうか。はっきりその非存在を説く論考もあるが(杉原丈夫「継体天皇出自考」『古代日本海文化』五)近江にはあるいは後世に進出したとも考えられるのです。 (福井県史HP 

 

5)皇親か否か 

 以上によって、継体天皇の父系は息長氏(少なくとも息長グループ)、母系は三尾氏の公算が高いと考えられます。一方、応神天皇五世の孫というのは系譜的擬制にすぎず、継体天皇は新王朝の始祖にほかならないとする論者もおります。

 

 『日本書紀』が前代の武烈天皇をことさら悪王に仕立てたこと、馬飼の少年が迎えられて天下の主となったオケ・ヲケ兄弟(顕宗・仁賢天皇)の説話を挿入したことなどは、継体王権の正統性を主張するための潤色と考えられますので、継体新王朝説にやや有利とみられます。

 

 現段階において、継体天皇の前王朝との血縁の有無を決定することは、史料的に無理でしょう。しかし、たとえ『古事記』『日本書紀』や『上宮記』の記載を信じるとしても、その血縁はきわめて稀薄なもので、あたかも前漢王朝と後漢王朝との関係のように、継体天皇を新王朝の始祖と考える妨げとはならないと考えられます。 (福井県史HP


(3)北陸の大国(越前)


(引用:福井県史)

〇参考Webサイト:福井県史/通史編序説/政治・社会/一 政治の推移/北陸の大国

 律令制以前においては、越前・若狭のうちとして考えられよう。福井県の地域に、そのころ若狭・高志・三国・角鹿四国造が存在したといわれる。越が越国となり、律令制下ではすでに越国は越前・越中・越後の三国に分割され、そのころ若狭国はすでに成立していたらしい。越前は越の道のくちとよばれて、北陸道諸国の政治統制上のかなめとされた。

 

 なお、越前については継体天皇の問題がある。天皇の世系や即位の経過事情などをめぐって諸説があるとしても、越前の地深い由縁のあることは否定できないであろう。

 

 越前は律令制下において殷富の国として、また対外交流の要所として重視された。越前の国名初見は七世紀末であるが、藤原仲麻呂の子息が国司となっており、仲麻呂がその乱のとき越前に逃れようとして警戒された愛発関は三関の一つでもあった。越前より分割されて、八世紀初期に能登が分立し、九世紀初期に加賀が成立したが、『延喜式』にはなお越前は北陸道七か国中で唯一の大国とされている。


2 母方の里ゆかりの史跡


(1)高向神社・高向宮


 継体大王の母・振媛の故郷がこの周辺の高椋 (たかぼこ)といわれています。振媛は近江国高島郡三尾の彦主人王に嫁ぎますが、継体大王が生まれて間もなく彦主人王が亡くなってしまいます。そこで振媛は、故郷の高向郷に帰り、継体大王を養育したと言われています。高向の宮跡は、昭和49年1月に坂井市指定文化財となっています。     (福井県HP抜粋)

 

 祭神は、境内の由緒石碑には継体天皇の父である彦主人王の祖・応神天皇と母・振媛命とされています。

 

 ただし『福井県神社誌』には、継体天皇振媛命と記されています。また、三国命八幡太神、振媛命の父・乎波智君とする説もあります。

 

高向の宮跡・高向神社(写真:福井県HP)


(2)古墳から見た継体王権(継体天皇の母の里)


(引用:福井県史)

〇参考Webサイト:福井県史/第二章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/四 古墳からみた継体王権/継体天皇の母の里

 

 継体天皇の母振媛の里は、夫である彦主人王の死後、子の男大迹王を連れ帰り養育した「三国の坂中井」の「高向」(『日本書紀』)「三国命の坐す多加牟久村」(『上宮記』)である。「高向」は、奈良時代から平安時代にかけてみえる越前国坂井郡一二郷の一つで、式内社には「高向神社」もみられる。現在の丸岡町の東部および南部に比定されている(第四章第一節)

 

 この高向地内には、かつて振媛の棺といわれた牛ケ島石棺(丸岡町)がある。この石棺は越前で最も古い段階のもので、線刻の装飾が施された石棺の一つであり、一般的に刳抜式の舟形石棺といわれているが、その身・蓋の断面形が半円形に近い形状を示すことから、むしろ割竹形石棺というべきもので、牛ケ島の小独立丘上の古墳から出土したと伝える(現在は丘ごと消滅。葺石が存在した)。その年代は、現在は四世紀中ごろのものと考えられており、振媛の棺でないことは確かであるが、高向の地に古くから有力な豪族が居住していたことがわかる。

 

 また、高向の背後の山上には北陸最大の前方後円墳である六呂瀬山一号墳(丸岡町、墳丘長140m)同三号墳(85m)があり、九頭竜川を挟んで対岸の松岡には手繰ケ城山古墳(永平寺町・松岡町、125m)をはじめとする五基大型前方後円墳がある。これらの広域首長墳の系譜についてはすでに記したとおりで、越前の前方後円(方)墳のなかでも唯一、福井市足羽山産の笏谷石の石棺をいずれもがもち、北陸道域のなかで最高位の首長系譜と考えられている。四世紀中ごろから六世紀中ごろまで連綿と続くこの広域首長墳の系譜は全国的にみても珍しい例である。

 

 振媛はこの首長墳の系譜に連なるものと考えられる。とくに、継体王権出現前夜にあたる五世紀末に、松岡の標高273mの山頂に築かれた復元墳丘長約90mの前方後円墳である二本松山古墳(松岡町)は、外部施設として埴輪を有し、内部施設として後円部に新古二個の石棺を有し、その一つの古石棺内からは鍍金冠・鍍銀冠などすぐれた副葬品が出土したことでとくに有名である。鍍銀冠は、朝鮮半島の高霊池山洞古墳群の同32号墳出土の冠の影響がみられ、国内出土冠としては古い方に属している。二本松山古墳のあとは、鳥越山古墳(松岡町、墳丘長55m、推定復原規模65m)三峰山古墳(松岡町、墳丘長63m)と続くと推定されるが、いずれも未発掘であり、石棺をもつことが推測されるのみである。


 振媛は、このような首長系譜に属したからこそ、彦主人王のもとに嫁ぐことができたのであろう。母の本拠地には、兄の都奴牟斯君などの一族がいることもあって、男大迹王は三尾氏の娘らと結婚するとその近くに移り館を構えたのではないかと推測される。このようなことがあって、継体王権の誕生後に、その一族が一層隆盛になり、数多くの前方後円墳横山古墳群に築いたものと考えられる。

 

〇参考Webサイト:福井県史

 第二章 若越地域の形成/第一節 古墳は語る/四 古墳からみた継体王権/

 横山古墳群と継体王権横山古墳群と三尾氏継体天皇の母の里横山古墳群にみる各地との交流

 継体天皇陵と手白香皇后陵継体天皇の擁立基盤


(3)六呂瀬山古墳


1)古墳の概要 

 六呂瀬山古墳群は、福井県坂井市にある古墳群である。平成2年(1990年)5月16日国の史跡に指定。振姫一族の祖先の墓?

 

 上久米田地区から野中山王地区にかけての標高50~200mの丘陵斜面には総数130基に及ぶ前方後円墳・円墳・方墳が分布しており、「丸岡古墳群」と呼ばれている。六呂瀬山古墳群丸岡古墳群の一支群で、丸岡古墳群の東南端に位置し、標高200mの高所にあって、前方後円墳2基(1・3号墳)と方墳2基(2・4号墳)から成る。

 

 また九頭竜川を挾んだ向かいの丘陵上には、手繰ヶ城山古墳をはじめとする国史跡松岡古墳群が分布している。

 

 六呂瀬山古墳群は、その立地・規模・内容などから、対岸に位置する手繰ヶ城山古墳とともに、4世紀後葉から5世紀前葉にかけての福井平野における、広域首長墓であったとみられる。これらの古墳は、北陸地方の古墳時代の解明に欠くことのできぬものであり、古代における越国の形成とその発展を知る上で、極めて貴重な資料となるものと考えられる。 

 

●1号墳: 全長は140mで、北陸地方最大の規模を有する。墳丘は2段築成で、葺石と埴輪(円筒・家形)を有している。築造年代は、墳形・埴輪などからみて、4世紀末から5世紀初頭にかけての頃と考えられている。

 

●2号墳: 1号墳の後円部張出部の東方に、掘割を隔てて存在する古墳で、1号墳の陪塚と考えられる。

 

●3号墳: 全長85m前方後円墳で、前方部を東に向ける。前方部の上面前端は、1号墳の後円部西裾にほとんど接しており、前方部前面がないという特異な形をしている。墳丘は2段築成で、葺石と埴輪(円筒・家形・短甲形・衣蓋形・盾形)を有している。3号墳の築造年代は、1号墳よりやや遅れる5世紀前葉と考えられている。 

 

●4号墳: 2号墳の後円部張出部の北方に、浅い掘割を隔てて存在する古墳で、3号墳の陪塚と考えられる。 

(Wikipedia抜粋) 

※ 参考:越の大首長墓                            

越の大首長墓(参考HP)
越の大首長墓(参考HP)

 

2)継体天皇出現の背景

 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の館長・青木豊昭氏は、オホド大王出現の背景を次のように説明しておられる。

 

 福井県では約120基(若狭に20基、越前に100基ほど)前方後円墳の存在が明らかになっている。そのうち越前地方の古墳群の中で各時期に一番大きい古墳を選んで、時代順に並べると、図のようになる。大まかに旧松岡町に4基の大型の前方後円墳があり、旧丸岡町にも2基大きな前方後円墳がある。その他に、丸岡の北の旧金津町にも神奈備山古墳という前方後円墳がある。

 

 前方後円墳で石棺をもっている首長墓の系譜は九頭竜川を挟んだ右岸と左岸の松岡、丸岡古墳群の一番大きい古墳だけである。これらの首長墓はすべて、海抜150~271mの山の稜線上にあり、4世紀中葉から6世紀前葉まで継続して築造され、その埋葬施設の大半は、足羽山産の笏谷石製の刳り抜き式石棺を直接埋納してきた。

 

  こうした首長墓を持つ古墳群の近くに振媛の郷里である高向村がある。ということは、振媛はこれらの首長を輩出した一族の姫君だったのであり、その一族のバックアップがあったためにオホド王” 越の国の王の中の王 ” になれたのであろう。その一族の名は分かっていない。おそらくこの一帯を支配していたと思われる三尾氏または律令制以前に三国国造に任命されていた三国真人氏だったのだろう。

            (参考HP:http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/subfiles/keitai.htm

 

3)六呂瀬古墳群見学記(noriokakyou)

(引用:noriokakyou アルバムから)


(4)松岡古墳群


1)古墳群の概要

写真:参考HP:継体天皇紀行 福井発 歴史ロマンの旅松岡古墳群と継体天皇 

  松岡古墳群は、福井県吉田郡永平寺町にある古墳群です。九頭竜川の南側、福井平野の東端に位置する尾根上に分布しています。前方後円墳4基と陪塚3基からなり、九頭竜川の水利権を押え流域各地区の首長の上に立った「越の国の王」ともいうべき大首長の墓と考えられます。

 

 1977年12月5日に手繰ヶ城山古墳が国の史跡に指定され、2005年7月14日に他の3基を追加指定した上で登録名称が「松岡古墳群」に変更されました。九頭竜川を挟んだ向かいの丘陵上には、国史跡六呂瀬山古墳群が分布しています。 

 

2)手繰ヶ城山古墳

 群中最大規模を誇る前方後円墳で、全長約129mの規模を測ります。くびれ部付近に造出状の遺構があり、その先端に陪塚の方墳が位置します。墳丘は2段築成で、河原石を用いた葺石が存在しています。墳頂部と中段平坦部には円筒・朝顔形埴輪が巡っています。4世紀中葉頃に築造されたものと考えられます。 

 

3)鳥越山古墳

 全長53.7mを測る前方後円墳で、段築のない地山削り出しです。後円部頂およびくびれ部より埴輪が出土しています。埋葬施設は舟形石棺直葬墓と竪穴系横穴式石室の2基が検出されています。なお、後円部墳頂部より、石釧・砥石・馬具・鉄製品・土器などが出土しています。築造年代は5世紀中葉頃と考えられています。 

 

4)石舟山古墳

 全長79.1mを測る前方後円墳で、前方部先端に陪塚の方墳を有します。墳丘は2段築成で埴輪が巡らされています。埋葬施設は盗掘を受けており、墳丘主軸平行に縄掛突起の付く舟形石棺の棺身のみが残っています。副葬品は不明。築造年代は5世紀中葉頃と考えられます。 

 

5)二本松山古墳

  全長89mを測る前方後円墳で、前方部の東側に陪塚を有します。明治13年と同39年に発掘調査が実施されており、舟形石棺とその副葬品として銅鏡・冠・管玉・鉄剣・鉄刀・刀装具などが出土しています。二段築成で外部施設として埴輪を持っています。築造年代は5世紀後葉頃と考えられます。                       (参考:Wikipedia) 

二本松山古墳からの眺望(参考HP)  松岡古墳群案内図(参考HP)     二本松山古墳(参考HP

 標高273mの二本松山山頂にある二本松山古墳(五世紀後期)は全長90mの前方後円墳で後円部から2つの石棺が見つかっています。

 

 特に、1906年に見つかった2号石棺からは、金銅冠(金メッキをした王冠、国立博物館蔵)銀銅冠、かぶと、鎧、刀、玉が見つかっています。

 

 朝鮮半島では国王クラスの人が儀式や外国の使節に会う時にこのような王冠を被る風習があり、越の国に朝鮮の文化や風習がいち早く入ってきた事を証明する2個の王冠は貴重な物です。

 

 奈良に戴冠の風習が入るのはその1世紀後で、継体天皇の孫の崇峻天皇を葬った(592年)とも同じく継体天皇の孫の穴穂部・宅部両皇子を葬った(587年)とも推測される藤ノ木古墳においてです。

 

  二本松山古墳の被葬者としては、豪華な埋葬品や規模から、継体天皇の母の振姫やその兄の都奴牟斯君など継体天皇にきわめて近い人であろうと推定されています。


(5)姫王の碑


 坂井市春江町姫王地区に振姫が晩年を過ごされた姫屋敷跡(現春日神社)があります。地区名の姫王も振姫にちなんでつけられたといわれています。

姫王の碑(福井県HP)
姫王の碑(福井県HP)

最終更新:令和3年(2021)3月21日